Kairosを生きる人々

譬え☆(30)パンひとつくれたら、本当に食べないの?(III) 본문

講解説教/譬え(たとえ)

譬え☆(30)パンひとつくれたら、本当に食べないの?(III)

cocoa 2026. 2. 14. 00:28

 

 

たとえ(30)

パン一つあげたら、本当に食べたりしないのか?(III)

 

(マルコ13:28~37)

28いちじくの木のたとえを学べ。その枝が柔らかくなり、葉が生え出せば、夏が近いことを知る。

29同じように、あなたがたも、これらのことが起こるのを目撃したら、人の子が近く、まさに門の前に来ていることを

知れ。

30まことに、あなたがたに告げます。この世代が過ぎ去る前に、これらのことはすべて成就します。

31天地は滅びても、わたしの言葉は決して滅びません。

32しかし、その日と時は、だれも知りません。天にいる御使いたちも、子も知りません。

父だけが知っておられます。

33目を覚ましていてください。その時はいつ来るか分からないからです。

34たとえ人が家を出て異国へ行くとき、そのしもべたちに権限を与え、それぞれに仕事を

任せて、門番に目を覚ましていなさいと命じるのと同じである。

35だから目を覚ましていなさい。家の主人がいつ来るか、夕暮れ時か、真夜中か、

鶏が鳴く時か、明け方か、あなたがたにはわからないからである。

36彼が突然来て、あなたがたが眠っているのを見られないようにしなさい。

37目を覚ましていなさい。私があなたがたに言うこの言葉は、すべての人々に言うのです。」

 

 

韓国芸術学校のユン・ヨンソン教授が書いた『キス』という戯曲があります。

その戯曲は最初から最後まで、コミュニケーションの欠如という大テーマを登場人物たちの対話を通じて静かに展開していきます。

作家はコミュニケーションの欠如というテーマを一言に縮約し、登場人物たちの口を通して繰り返し叫ばせるのですが、その台詞が「私はここにいる、あなたはそこにいる?」です。

作家キム・テウン氏がユン・ヨンソン教授の戯曲を読み、その言葉があまりにも心に響き、

ユン教授の了解を得て自身の戯曲『爾(イ)』にその台詞をそのまま転載します。

それを映画監督イ・ジュニク氏が自身の映画で使用し、空前のヒットを飛ばします。

「私はここにいる、君はあそこにいるか?」

その台詞が出るたびに劇中には二人の盲人が登場します。

二人の盲人は「私はここにいる、あなたはそこにいる?」という確認作業を通じて、「私がここにいる状態」、つまり自分が今存在していることに安堵し、自分が呼んでいるその対象がそこにいてほしいという「あなたがそこにいる」ことへの期待と願望を表現するのです。

しかし二人は盲人なので相手が見えません。

そこで二人の盲人は互いを抱きしめようと必死になります。

今日、私たちがイエスを信じることもまさにこのようなものではないかと考えます。

すべての人間は「私がここにいる」という自己存在の実存感覚を信仰の出発点とします。

私が存在するという事ほど確かな真実はないのです。

信仰だけでなく、人間のあらゆる行為と思考はすべて「私がここにいる」ことから始まるのです。

そして実存世界の主人公である「私」の対面にイエスがいると仮定し、「お前、そこにいるのか?」と繰り返し叫び続けているのです。

なぜなら、イエスが見えないからです。

だからこそ「私はここにいる」という自己存在性を確固として握りしめている人間たちは、その不確かな「お前、そこにいる」という現実を確かなものにするために、熱心に宗教行為を行い、善行に力を尽くしてみるのです。

「私はここにいる」という立場から「あなたはそこにいる」が確認できないため、「そこにいるあなた」という対象が「私」を呼んでくれるよう、

必死に祈りを捧げるのです。

人々はそれを信仰と誤解します。

しかし聖書は、そうして自分が生きていることをより強固にし、自分の「私がここにいる」ことが意味と価値を持つことを確保するために呼び求める神を偶像と呼びます。

そしてそのような偶像を呼び求めるために用いられるあらゆる行為を罪と呼びます。

なぜなら、「私がここにいる」という価値と意味を確保しようとする行為こそが、神のようにあろうとして善悪の知識の木の実を食べた被造物である人間の罪の本質であり、「私がここにいる」という価値と意味を守るために私が主観的・心理的に受け入れた神は、私が受け入れた神であるゆえに、いつでも私によって排除され得る滑稽で無力な偽りの神だからです。

そうして大多数の宗教人たちはまさに「私がここにいる」という立場を確固として確保し発展させるために神の名を呼びます。

神は全歴史を通じてまさにそれを打ち破って入ってこられるのです。

被造物は創造の本来の状態、すなわち神の創造の恵みの下にあるときに初めて存在となり生きているものとなります。

その時初めて価値ある存在となるのです。

言い換えれば、被造物は創造主の前で死んだ者として降伏するとき、初めて創造の恵みの中で価値を帯びるのです。

だから最初の人間の名は「土」です。土とは、創造主の前で死んだ者でなければならない人間の存在様式を一言で表現したものです。

アダムは「土」と「人」という二つの概念を同時に内包する言葉です。

つまり、人は神の前で死んだ土であることによって初めて存在し得るという、この驚くべき真理を、アダムという言葉は含意しているのです。考えてみてください。

神の創造の恵みが発散されるための第一の条件は何でしょうか?創造の恵みが注がれるためには、創造されて生きているものが存在しない状態であるべきです。

そうして初めて、そこに創造の恵みが発散されるのです。

しかし、「私はここにいる」と主張する者たちに、果たして創造の恵みが注がれるでしょうか?だからこそ、イエス様は御自身の民に「私はここにいて、あなたはそこにいるのか?」ではなく、「私、イエスはここにいて、あなたは死んでいる」ことを確認させるために、この地に来られたのです。

それを知る者だけが、創造の恵みの中で初めて生ける存在となるからです。すべての人間は、善悪の知識の木の実を食べたアダムの中で「神のように」生きるのです。

自分たちが神となったがゆえに、神との断絶が真の死であることを知らないのです。

人間はその「神のように」という座から降り、神への絶対的依存者の座に着くとき、初めて創造の恵みの中で神の国の子となるのですが、皆、青々と生きているのです。

それが真の死の中に潜む偽りの生、すなわちゾンビの世界なのです。

イエスはこの地に来られ、「お前たちはそこにいるのではない。お前たちは死んでいる。生きていると主張するな。

生きていると主張することこそが死者の行いである。

お前たちの死を認め、神の恵みにすがれ」と叫ばれました。その結果、何が起こったでしょうか?「私はここにいる」という価値と意味のために必死に生きていた世の人々が、「お前は死んでいる」と教えられたイエス様を殺してしまったのです。

「お前は死んでいる」と叫ぶその者がいなければ、「私はここにいる」という存在として残っていられるからです。ところが、その方が生き返ってしまわれたのです。

今や人間たちは大変な事態に陥ったのです。すべての人間は死さえも支配される真の神を殺害した罪人であることが露見してしまったのです。

まさにそれを認める者たち、自分が神を殺害した死んだ土に過ぎない者であることを知る者たち、彼らの上に神の創造の恵みが注がれるのです。

神は御自身の選んだ民をまさにその場所へと導かれるのです。

死んだ土が、ほこりがふんふん立つ乾いた骨が捧げる献金や奉仕や献身や善行などを根拠に彼らを生かされるのではなく、死んでいる乾いた骨に、死んでいる土に神の創造の恵みが滝のように注がれることが救いだというのです。

ですから信仰生活とは、「私はここにいて、神はあそこにいますよね?」という個体としての自分の存在性と価値と意味を気にかける生活ではなく、「私はイエス様の中にいて、イエス様は私の内にいます」という「私はここにいない」という真理を悟っていく過程なのです。

それが自己否認です。

聖徒の覚醒とは、このように「私は十字架で死に、私の内に生きる方はイエス・キリスト、それゆえ初めて私は生ける者と見なされる」というガラテヤ人への手紙2章20節の御言葉を悟った者の生き方を指すのです。

では、この時点で、どうして私たち聖徒の「死んだ者としての自覚」が覚醒の内容であるという逆説が成立するのかについて、使徒パウロの見解を引用して考察してみましょう。

(ローマ8:10)10また、キリストがあなたがたのうちにおられるなら、体は罪によって死んでいるが、霊は義によって生きているのです。ここでの「体、ソーマ」は全人を意味する言葉です。

「人間は体を持っており、体こそが人間自身である」という命題を必ず覚えておかなければなりません。

ですから、ローマ人への手紙8章10節を理解しやすく解釈するとこうなります。

「キリストがあなたがたのうちにおられるなら(聖徒)、聖徒というその人間の全人格は罪によって死んでいるが、霊は義によって生きているのである」それでも少し混乱しますか?死んでいるようにも、生きているようにも聞こえますよね?もう少し聞いてください。

パウロはエペソ書を通して、聖徒は生き返った存在だと明確に宣言しています。

(エペソ2:1,5)1あなたがたの過ちと罪によって死んでいたあなたがたを、神は生かしてくださいました。

5過ちによって死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました(あなたがたは恵みによって救われたのです)。

聖徒は明らかに生きている存在です。

では、どのような方法で生きているのかと言えば、生きておられるイエス様が死んだ聖徒の中に入っておられる方法で生きているのです。コリントの信徒への手紙二4章7節の表現に変えると、土の器の中に宝を宿す形です。

したがって正確に言えば、聖徒の体が生きてるのではなく、その中におられるイエス・キリストの霊が生きておられることによって『生きている存在』となるのです。

ローマの信徒への手紙8章10節の『生けるもの』としての『霊』は、人間の魂を指すものではありません。

ローマ人への手紙8章10節の主題を説明する部分を段落で区切ると、1節から17節までに限定できます。

その十七節に「霊」という言葉が十五回も登場します。

そのうち15節の「しもべの霊」を除き、残りのすべての「霊」が聖霊を指していることは、私たちが容易に理解できることです。

したがってローマ書8章10節の「霊」は聖霊です。

つまり、私たち聖徒が生きているというのは、私たち聖徒の内に生きておられる聖霊によって生かされた存在となることであり、その聖霊が去った状態の聖徒はやはり死んだ者に過ぎないのです。

それゆえ聖徒とは、死んだ土の器の中に生ける宝である聖霊を宿した者となるのです。

イエス様も同様の文脈で語られたことがあります。

 

(ヨハネ6:63)

63命を与えるのは霊である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、いのちである。

ここでの霊は明らかに人間の魂ではなく、聖霊を指しています。

命を与えるものだからです。

では、その霊と対比されて比較されている肉は何を指すのでしょうか。

全人、すなわち人間に属する人間の全人格を指すのです。

人間に属するすべてのもの、そこから導き出されるいかなる思考や行為も、人間の生きることには無益だということです。

つまり、人間を生かすもの、命を与えるものは、その内に入られる聖霊によるのであって、肉のいかなる部分も人間の生きることには全く貢献できないことを、イエスご自身が直接語っておられるのです。

それをパウロがローマ書で「みなされた」という言葉でよく表現しています。

 

(ローマ6:11)

11 同じように、あなたがたも、罪に対しては死んだ者とみなされ、キリスト・イエスにあって、

神に対しては生きている者とみなされるのです。

 

そうでしょう?私たちは生ける「イエスにあって」生きる者とみなされるのであって、私たちの「ソーマ」が生き返ったのではありません。

それゆえ使徒パウロは、彼のすべての書簡の中で口癖のように「イエスにあって、キリストにあって」という神の国構造、神殿構造を繰り返し強調するのです。

 

(ガラテヤ2:20)

20私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。

今、私が肉において生きているのは、私を愛し、私のためにご自分のからだを捨ててくださった神の御子を信じる信仰によって生きているのです。

 

よく見てください。

「私」という存在はキリストと共に十字架に釘付けられて死にました。

どうしてそんな論理が成り立つのでしょうか?

イエスの十字架は、すべての人間の究極的な目的地である「死」という運命を天下に告げ知らせたものでした。

「あなたがたは皆、死んだ者であり、死ぬべき者である」

だからこそ、イエス様は十字架にかけられて死なざるを得なかったのです。

自ら生きていると言うすべての存在はすでに死んでおり、そうして死んでいる者たちが究極的に到達する場所は、永遠の死の場所である地獄なのです。

人間の「自発的な生きていること」が神によって永遠の死へと追いやられる場所が地獄です。

被造物は神によって生きているべきだからです。

 

神は、そのように皆が地獄の永遠の死へと投げ込まれるべき者たちの中から、創世以前にある者たちを選んでおられました。

神は彼らを地獄ではなく、十字架上のイエス・キリストの中で先に死なせておられました。

そしてイエス様の中で再び生かされたのです。

それによって彼らの体は死に(死んだ者であることを認めさせ)、イエスの体として再び生きさせるようにされたのです。

こうして十字架によって、世のすべての人間は二つのグループに分かれることになりました。

一方は依然として「私はここにいる」という生ける者のふりをする死者であり、もう一方はイエスと共に十字架に釘付けられて死んだイエスの中の聖徒です。

彼らは神の前で、自分たちが死んだ土であり塵であることを知ります。

しかし問題は、イエスの中で十字架に釘付けられて死んだという者たちの生活の中にも、同じようにゾンビのような「私はここにいる」という生活が溢れ出ていることです。

その部分について、私が循環論法的に説明してみます。

聖徒が生き返ったということは、私たちがエペソ書2章で見たように、罪と過ちから生き返ったということですよね?

その罪と過ちに対する代償を支払えという要求として人間に与えられたものは何ですか?律法です。

しかし、到底その律法の要求を満たすことのできない聖徒が罪と咎から生かされたということは、律法の要求を誰かが満たしてしまい、

それを聖徒たちにただで与えたという話が成立するのです。

では、どのような方法でその律法の要求を満たしてしまったのかと言えば、その律法に対して死んでしまう方法で律法の要求を満たしてしまったのです。

そのように律法に対して真に死なれた方は、イエス様ただお一人です。

人間は死さえも私有化できない存在です。なぜなら、人間が善悪の知識の木の実を食べて以来、一度も人間が生きていることがなかったからです。

生きていると主張しただけなのです。

だから人間は死を私有化できません。

イエス様だけが真に死なれる方です。

その方だけが生きている神様だからです。

だからこそイエスは、ご自身の命を捨てることも、再び取り戻すこともできると語られたのです。

では、罪と咎から生き返られた方も、他に誰がいるでしょうか?死んだ方がお一人なら、生き返った方もお一人であるべきでしょう?

罪と咎から生き返られた方はイエス以外にいません。

では残りの者はどうなるのでしょうか。

その方との関係性の中で生ける者と見なされるに過ぎません。

ですから罪と過ちによって死んでいた者たちを生き返らせるために十字架で自らの体を死なせたイエスが、独りよみがえり、

そのイエスの功績の中へと私たちを引き寄せ、私たちはただで生ける者となってしまったのです。

それを福音と言います。

そのような由縁から、聖徒はイエスの功績によって生ける者となったにもかかわらず、依然として死んでいる体を所有している関係で、救われる以前の行いをそのまま注ぎ出してしまうのです。

依然として自分だけのために選択をし、依然として自分の人気と地位と評判のために神の名を呼ぶこともあります。

その言葉は、キリスト・イエスにおいて生き返った聖徒たちも、体をまとっている限り、依然として全人格的な堕落性をそのまま帯びているということです。

本質が変わっていないということです。

ただある構造の中に入り、その構造によって天の存在と見なされているに過ぎないのです。

人間の「罪によって死んだ体」は、現象的な次元で終わるものではなく、生来のものであり、最後まで続く構造的な問題なのです。

そのような構造的かつ本質的な罪の総体である人間が、神の無償の恵みの下で、面目を失いながらも手を広げて天の豊かさを賜物として受けるその状態が、天国の構造なのです。

 

(エペソ2:8-9)

8あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われたのです。これは、あなたがたから出たものではなく、神の賜物です。

9それは、行いによるのではありません。だれも誇ることができないためです。

 

 

ご覧なさい。私たちの行いは、私たちの救いに少しも貢献できません。

では、神はなぜ救われた聖徒たちの死んだ体の中に、生きておられる聖霊が住まわれる方法によって、聖徒を生ける者となさるのでしょうか?この御業の中でさえ、肉体までも生かし出して「神によって救われた者はこのように素晴らしく生きられる」と世に示す方が、

はるかに痛快ではないでしょうか?

 

よく考えてみてください。

その時現れるのは本当に神でしょうか?

それともそのような人生を生きる人間でしょうか?100パーセント人間だけが現れるのです。

聖徒は、自らの変えられた姿や、成功した姿や、立派な姿を世に見せる者ではなく、その人生の中で働かれ、

今も働いておられるイエス・キリストを現す者として召されたのです。聖徒は自分の価値と栄光を顧みる存在ではなく、イエス様の働きと御栄えを現すために創造された存在なのです。

だから聖徒の生活の中では、常にイエスが栄え、聖徒自身は死んだ土のように朽ちていく姿が現れるようになっているのです。

神が聖徒の名を栄えさせないというのです。

しかしそれが目を覚ましている者の人生です。なぜならイエス様ご自身がまさにそのように生きて行かれたからです。

自分の人生をすべて差し押さえられ、神の御心だけが現れるような人生、それがまさにイエスにあって救われたイエスの体としての聖徒の人生の中でそのまま再現されるというのです。

それがどういう意味か、聖書から一人を引用して例を挙げて説明しましょう。

「目を覚ましていなさい」という勧告をしている今日の本文のすぐ次に、ある女性の物語が登場しますが、

その物語を調べてみると、その中で眠っている者と目を覚ましている者が区別されて現れていることがわかります。

 

(マルコ13:37-14:9)

37目を覚ましていなさい。わたしがあなたがたに言うこの言葉は、すべての人に対するものです。

1二日後には過越の祭りと無酵の祭りが来る。祭司長たちと律法学者たちは、イエスを陥れて殺す方法を謀り、

2「民衆の騒ぎが起こるかもしれない。祭りの間はやめよう」と言った。

3イエスがベタニアの癩者シモンの家で食事をなさっているとき、一人の女が非常に高価な香油、純粋なナルの香油を一つの壺に詰めて持って来て、その壺を割ってイエスの頭に注いだ。

4すると、ある人々が憤って互いに言った。「どうして、この香油を無駄にしたのか。

5この香油は三百デナリ以上で売って貧しい人々に施すことができたのに」と言って、

その女を責めた。

6イエスは言われた。「放っておきなさい。なぜ彼女を苦しめるのか。彼女はわたしに良いことをしたのだ。

7貧しい人々はいつもあなたがたと共にいるが、あなたがたはいつでも望むように助けることができる。しかし、わたしはいつもあなたがたと共にいるわけではない。

8彼女は力を尽くして、わたしの体に香油を注ぎ、わたしの葬りの準備をあらかじめしたのである。

9まことに、あなたがたに告げる。全世界のどこででも、福音が宣べ伝えられるところでは、この女のしたことも語り伝えられ、彼女の記念となるであろう。」

 

イエス・キリストが十字架にかけられるちょうど二日前に、イエスはベタニアのらい病人のシモンの家で食事をなさっていました。

その時、一人の女が非常に高価な香油を持って来て、イエスの頭に注ぎました。

マタイによる福音書26章にも同じ話が記されており、ヨハネによる福音書12章にも同じ話が記されています。

また、ルカによる福音書7章にも似た話が載っていますが、学者の見解によれば、ルカによる福音書の話だけが別の話であると推測されています。

私は、それが同じ話であろうとなかろうと、そのようなことは問題にならないと考えます。

重要なのは、この香油注ぎの出来事において、同じ二つのグループが登場するということです。

一つのグループは、十分に良いことに使える高価な香油をイエスの死に注いでしまうグループであり、もう一つのグループは、

イスカリオテのユダとパリサイ人シモンに代表される、人間中心主義と実用主義に陥った者たちの群れです。

その二つのうち、一つが目を覚ましている者なのです。

まず9節を見ると、主は「全世界のどこででも福音が宣べ伝えられるところでは、この女のしたことが語られるであろう」と語られています。本当にそうでしょうか?皆さんは福音を聞く時、いつもこの女の話を付録として聞きますか?

単に身近な例として、私が毎週説教する度に福音を伝えながらこの女の話を一緒に伝えますか?

そうではないでしょう?ではこの言葉は何を意味するのでしょうか?

まさにこの女が行ったことが、イエスが行われた福音のメッセージを内包しているというのです。

では、この女が行ったことがどのようにイエス・キリストの十字架を宿しているのか、見てみましょう。

5節を見ると、この女性がイエスに注いだ香油が300デナリオンを超える高価なものだったことがわかります。

300デナリオンは一般労働者の1年分の年収に相当します。

当時のユダヤの女性たちは香油を少しずつ貯めて瓶に入れ、緊急時にそれを売って使うか、非常に重要な行事がある時に身だしなみを整えるために少しだけ使う習慣がありました。

そうして女性たちにとって香油とは非常に貴重なものでした。

その女性が300デナリオンもする香油を貯めるには、非常に長い年月が必要だったでしょう。

ところがその女性は、その貴重な香油をイエス様にすべて注ぎ捨ててしまったのです。

イエス様は、その女性が自分の葬りのためにあらかじめ備えたのだとおっしゃいました。

私の最も大切なものが、イエス様の死に注がれるのです。

皆さん、一般人の常識で、自分の最も大切なものを死にゆく者に注ぎかけることが理解できますか?

自分の最も大切なものを世俗的な視点で見れば全く無価値なものに注ぎかけること、それがイエスの十字架でした。

高価な香油の犠牲によって価値あることが起こる。

それがまさに十字架なのです。女は香油と同一視され、無価値に見えるイエスの死に注がれ、嘲りの場、嘲笑の場、剥ぎ取られる場へと降りていったのです。

それが香油を注ぐ女のエピソードに込められた絵です。

死者の場へと追いやられていくのです。「私がここにいる」という誇りが打ち砕かれるのです。

信者はまさにそのようなイエスの生涯に参与して生きることを、その女が型として示しているのです。

平たく言えば、信者の生涯の中でイエスの十字架の生涯が繰り返し現れるということです。

ルカ福音書を見ると、イエスはご自身に香油を注いだ女に「あなたの信仰があなたを救った。

安心して行きなさい」と言われます。

この言葉は、救われた信者の人生がまさにこの女の姿として現れることを示唆しているのです。

一方、反対側の人々はどうか?

真の価値が何であるかを知らない者たちは、世の力で世が定義した価値あることをしようとします。

彼らの認識の中では、自分たちが青々と生きているからです。

 

(ヨハネ12:4-6)

4弟子の一人としてイエスを引き渡すガリラヤのユダが言った。

5「この香油を三百デナリで売って貧しい人々に施せばよかったのに」

6こう言ったのは貧しい人々を思うからではなく、彼は盗人で、金庫を預かってそこに納めるものを盗んでいたからである。

 

皆さん、考えてみてください。

香油を300デナリオンで売って貧しい人々を助けるのが立派でしょうか?

それとも間もなく死ぬ人の頭と足に注いで無駄にするのが立派でしょうか?

どちらがより価値ある行動に見えますか?遠くに行かず、改革主義の聖化論に基づいて答えてみてください。

皆さんに1万ドルが手に入りました。

しかし皆さんがそれを自分のために使わず、貧しいホームレスたちに毛布とパンを買って配ったとします。

世の人々は皆称賛するでしょう?それがユダの主張です。

なぜ300デナリオンもの大金をイエスの足に注いで無駄にするのか、ということです。

いくらでも善いことに使えるというわけです。

しかしヨハネはユダの正体をこう暴いてしまいます。

彼は金を愛する者であり、貧しい者たちのことを考えない者であり、盗人だと言います。

つまり自分の利益だけを考えるような人間だということです。

そんな人間が貧しい人を助けようとする。何のために?自分の満足、自分の評判、自分の誇りのためにそうするのだと言います。

それがこの世のユダたちの善行の実態です。

道が違っても目的さえ達成すれば良いのではないか?と考える方がいらっしゃるかもしれないので、念のため申し上げます。

皆さん、冒頭でお話ししたように、この世のすべての人間は皆、死んだ状態です。生きているふりをする死者、死んでいることを暴かれ、その暴きに納得する死者、皆が皆、死んだ者たちです。

ところが皆、自分が生きていると錯覚し、生きていると強がります。

そしてその生きていることを「善」と規定してしまいます。

彼らにとって死は悪です。だからその生きていることに力を与える救済や善行などが聖徒の必須条件として浮上するのです。

「私がここにいる」という力で「あなたがそこにいる」という存在たちが力を得ることを善だと考えるのです。

そういうことをするなと言っているのではありません。

それは信者であれ不信者であれ人間なら皆行うべき基本的な徳目です。

私が警戒すべきだと言うのは、そうしたことをしておきながら、自分が栄光を独占しようとする、そんな狡猾な自己「義」の積み上げを指すのです。それが生まれなければ良かったユダという存在です。

厳密に言えば、死んだ者が死んだ者たちに行うことは、神の国における生活記録簿には全く記録され得ないものです。

しかし、そうしたことが神によって行わせられた場合もあります。

そのようなことは、従順の項目に記入されるでしょう。

重要なのは、私たち人間は、そうして他人を助けることでも、自分の満足と価値だけを手に入れようとするユダのような存在だということです。だから神様は、聖徒の自発的な善行を待たれず、聖徒をイエス様の生き方へと駆り立てられるのです。

善行の主体を人間とし、人間が差し出す行為を根拠に彼を評価するのではなく、善の主体である神様が人間を善へと駆り立てられるということです。ところで「善」とは何と言ったでしょうか?

被造物が被造物の立場で創造主なる神を神として認める状態が善です。

「見よ、それは良かった」それがまさに「トブ、善」なのです。

したがって神が聖徒を善へと駆り立てられるとは、御自身の民をこの世の中で死に追いやられるという意味なのです。

あの女の場合がまさにそのようなケースです。

もしあの女がその香油を売って貧しい人々を助けたなら、彼女の行いから誰の名が表れるでしょうか?

あの女の行いが称賛され、あの女の名前が高められることになります。

もしその女が自分の栄光、自分の名、自分の価値、自分の評判を追い求める人生を送る者であったなら、彼女は香油をそのように無駄にしてはなりません。しかし神はその女に、この世の誰にも理解できない行動をさせられます。

高価な香油がただ無駄になってしまったのです。

女の名前は泥まみれとなり、その場で神だけがそっとその女から栄光を取り去られるのです。

そうして神が栄光を取り去られる過程の中で、その女は世の嘲りと侮りを受けます。

まるでノアが、パウロが、そしてこの世を生き抜いて逝った無数の信仰の先輩たちが、この世の嘲りと侮りを受けながらも神の御心の中で死の土の場所へと懸命に導かれていったように、そうして導かれていくのです。

それが聖徒の生き方なのです。

私たちがそうなるよう努力すべきだというのではなく、神がそのような公式もなく、様々な形で御自身の民の生活に介入され、

イエスのように十字架に釘付けにしてしまうのです。

そうして神は、私たちが所有する様々な種類の香油を、私たちを飾るために使えないようにされます。

イエスに注がせるのです。力、所有、さらには思考さえも、私の地位を高めるために使えなくしてしまわれるのです。

それはイエス様が欲深いからではなく、私たちが持つ香油を「私」という偶像の飾りつけに使うと、真の命の源であるイエスを見失ってしまうからです。

だからイエス様に私の香油を奪われてしまうのです。

「私がここにいる」という立場から「私が十字架で死んだ」という立場へと追い出されるのです。

肉は無益であり、生かすのは聖霊のみであるという真理を、自ら体得させるためです。

聖徒はそうしてこそ、創造の恵みの下で真の幸福を味わえるからです。

ですから、その香油は私たちが自らの意思で注ぐのではなく、神が奪い取られるのです。

それが信仰生活です。聖徒は信仰生活を通して、自分たちがすでに十字架で死んだ者であることを実際に体験するのです。

だから、一瞬一瞬、十字架の座へと押し下げられていくのです。

ところが、イエスの名を利用して自分の香油の壺を満たそうとする人々がいます。

「私がここにいる」ことを気にかける人々です。そのような人々が、どうして聖霊によって十字架へと導かれる神の民であり得ましょうか?目的がそこにある人々は、どれほど献身し、犠牲を払い、善いことに力を尽くそうとも、皆カヤパのユダです。

考えてみてください。カヤパのユダもまた、イエスに従うために多くの犠牲を払った人です。

まさに全てを捨てたと言っても過言ではありませんか?

家庭も、仕事も、親族も全て捨ててイエス様だけを追い求めた人です。

しかし彼の目的は報酬でした。そのような献身の後、自分に返ってくる報酬を期待して熱心に働いたのです。

それが物質的な報酬であれ、名誉のような非物質的な報酬であれ、あるいは自己満足の報酬であれ関係ありません。

いかなる形であれ報酬を期待して信仰生活を送る人々は皆、ユダなのです。

主はその者を悪魔と呼びました。「その者は悪魔である」

聖徒とは、ある行為をして報いを受ける者ではなく、自分はすでに十字架で死に、この世の歴史の中でも絶えず奪われ殺されている者であることを知る者でなければなりません。

そうしてすべてを剥ぎ取られ、剥ぎ取られ続け、ついに主の恵みを思うなら、その主のために自分の命が差し押さえられても構わない、という神への絶対依存者として完成されるのです。

私の名と私の栄光のために、いかなる試みもできない者として追い詰められることが聖徒の生き方であり、その中でイエスの恵みの必然性が心に刻まれるのであり、そのような過程を生きる者たちが目覚めた者なのです。

そうして十字架で死んだ者たちが、自らの死を確認される過程が信仰生活であるなら、私たちは死んだ者の生き方だけを捧げて行くことになるのか? そんなことはありえない。

 

(ローマ6:1-2)

1それでは、私たちは何を言おうか。恵みを増すために罪の中に留まるべきだろうか。

2決してそうではない。罪に対して死んだ私たちが、どうしてその中になお生きるだろうか。

 

この御言葉を文字通りに解釈して、私たちは救いを受けた後は絶対に罪の中に生きられない者と理解してはなりません。

それは実存的経験によっても明らかにそうではなく、聖書もそのようなことはあり得ないと語っています。

 

(ヨハネの手紙一 1:8-10)

8もし私たちが罪がないと言うなら、自分を欺いており、真理が私たちのうちにはないのです。

9もし私たちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しい方です。私たちの罪を赦し、すべての

不義から私たちをきよめてくださいます。

10もし私たちが罪を犯していないと言うなら、神を偽り者とするのであり、

また、神の言葉が私たちのうちにはないのです。

(ローマ3:9~12)

9それでは、どうでしょうか。私たちは優れているのでしょうか。決してそうではありません。ユダヤ人もギリシア人も、みな罪の下にあると、私たちはすでに宣言しました。

10「義人はいない。ひとりもいない。

11悟る者もなく、神を求める者もなく、

12みな迷い、ともに無益となり、善を行う者はいない。ひとりもいない。」

 

これは単に救われる前の人間の状態だけを指すのではありません。私たちが冒頭で考察したように、人間は肉体を持っている限り、死ぬ日まで罪を注ぎ出すように定められています。だからこそ、無償で与えられる神の義が必要だったのです。

 

(ローマ3:21~28)

21今や律法とは別に、神の義が現れました。それは律法と預言者たちによって証しされたものです。

22すなわち、イエス・キリストを信じる信仰によって、すべての信じる者に及ぶ神の義です。

23すべての人は罪を犯したので、神の栄光に達することができませんでした。

24しかし、キリスト・イエスにある贖いによって、神の恵みにより、無償で義と認められた者となったのです。

25神はこのイエスを、その血によって、信仰による和解のいけにえとして立てられた。

これは、神が、長い間忍耐して、以前の罪を見過ごしてこられたが、

26今、ご自身の義を現わそうとされたからである。

それは、ご自身が義であられることを現わし、また、イエスを信じる者を義と認めようとするためである。

27では、誇る余地はどこにあるのか。ありません。どのような律法によるのか。行いによるのか。そうではありません。ただ信仰の律法によるのです。

28したがって、人が義と認められるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるものであると、私たちは認めるのです。

 

そうでしょう?

私たち人間は、到底神の要求である律法を守り通すことのできない者たちですから、神の義に到達することはできません。

ですから、神が備えられた神の義が私たちに無償で与えられなければ、私たちは死から逃れることができないのです。

私たちが先ほど読んだローマ人への手紙6章1節と2節は、まさにその律法の話を引き継いだ記述なのです。

その直前の節であるローマ人への手紙5章20節と21節を見てみましょう。

 

(ローマ5:20~21)

20律法が加わったのは、罪を増すためであった。しかし、罪が増したところで、恵みはなおさらあふれた。

21それは、罪が死の中で支配したように、恵みもまた義によって支配し、私たちの主イエス・キリストによって、永遠のいのちへと至らせるためである。

 

面白い言葉が出てきますね?

律法が加わったのは、罪を増すためだということです。

私たちは律法が罪を犯させないために与えられたものと考えていましたが、神は律法を罪を犯させるために与えられたというのです。

これはどういうことかと言えば、聖書が語る罪とは、事件化された個別の行為を指す以前に、総合的かつ本質的な局面があるということを意味しているのです。

皆さん、罪の本質とは、被造物が被造物の立場から離れ、神のように振る舞い、自らの義を主張することです。

被造物の自己の立場からの逸脱、死んだ土である者たちが神を真似ることが罪なのです。

人間は善悪の区別を自ら行うように造られた存在ではありません。

しかし人間は善悪の実を食べ、善悪を自ら判断し、自ら善と規定したものを多く積み重ねて自らの価値を掌握する、そのような生き方を始めたのです。それを聖書は罪と言います。

その意味で、律法が罪をさらに犯させるものだったという言葉の意味を考えてみてください。

すべての人間は善悪の実を食べ、自らの義に頼る犯罪者となりました。

しかし人間という存在は、いかに邪悪で狡猾か、自らの内に隠された罪の本質を巧みに偽装し、謙虚なふりも上手で、神に仕えるふりも上手で、神の前で降伏する真似もよく見せます。

その時、人間に律法が与えられます。安息日を守れ、親に孝行せよ、嘘をつくな、殺すな、などといった律法が与えられるのです。

人間はそうした法が下されると、即座にその法を守り、自分を誇る材料を作り出します。

律法がなければ誇るべきものがなくなるでしょう?安息日を守れという律法がなければ安息日を守る必要がなくなり、

安息日を守ることで自分の立派さや誠実さを誇ることができなくなるじゃないですか?

ですから安息日という律法は、安息日を守ることが重要だから与えられたというより、安息日を守ることで自分の義を主張し誇る人間の罪を暴くために与えられたのです。

他の律法も皆同じです。したがって、神の聖霊を受けた聖徒が律法に向き合う時、「私は律法を守り抜けない者だから、

十字架で死んだ者だ。その恵みに感謝すべきだ」という境地に至るのです。

しかし律法を文字通りに解釈し、今もそれを守ろうと気をもんでいるなら、まだ自分が十字架でなぜ死なねばならなかったのかも理解していない者なのです。

ところが、ある日自分の人生の中でそれが守られているなら、それは誰が守っているというのでしょうか?私の中にいるイエスが生きる生活が外に現れるものとして認識されるのです。

しかしそれがうまくいきません。

人間はイエスを信じながらも、自分の立派な行いをどうにかして褒めてもらいたくてたまらないのです。

だから時折現れる善い行いの背後で、私の悪さが頻繁に暴かれるのです。

考えてみてください。神様は人の心を見られます。その御前で大きな罪、小さな罪があるでしょうか?

罪の本質は神中心ではなく人間中心の生き方です。

そうして罪を本質的な次元で考える時、百ドルを騙し取った人と十ドルを騙し取った人の罪が異なるでしょうか?

どちらも自分自身という「私がここにいる」という存在を確固たるものにするための人間の醜い罪に起因しているのです。

ところが、罪というものを大小で、多寡で分類していること自体が、罪が何であるか、十字架が何であるか、恵みが何であるかさえ理解していない証拠ではありませんか?

再びローマ人への手紙6章に戻ってみましょう。

 

(ローマ6:1~2)

1それでは、私たちは何を言おうか。恵みを増すために罪の中に留まるべきだろうか。

2決してそうではない。罪に対して死んだ私たちが、どうしてその中になお生きることができようか。

 

私たちは5章の終わりで、律法が加えられた理由について考察しました。

律法は人間の罪を増すために与えられたとしました。

それは神の恵みが支配し、罪が増したところに恵みがさらに溢れるようにするためだと言います。

それは聖徒が律法に向き合う時、「私はこの律法を守って義に至る存在にはなれないから、神が恵みで覆って私を救ってくださったのだ。

だから私は死んだ者として神の恵みと愛のみに頼らねばならない」という『あなたは十字架で死んだ』という告白が生まれるべきという意味で私たちに与えられた聖句です。

ところがいきなり『それならもっと大きな恵みを受けるために罪をもっと犯さねばならないね』と嘲笑うとはどういうことでしょうか?

その人が依然として罪の中に生きている存在だという証ではないでしょうか?

依然として自分が何らかの行為によって罪が大きくなったり小さくなったりすると錯覚しているのです。

罪は本質の問題として見るべきであって、事件化された個別的なものとして見てはならないと述べましたよね?

使徒パウロは何と言っていますか?

「私が5章の終わりで、救われた聖徒は罪が王として君臨していた時と同じように、恵みが王として君臨する場となったと言わなかったか?その人物こそ、恵みがなければ我々は皆死んだも同然だと知る者なのに、どうして恵みが支配している者から『では今、恵みをより多く受けるために罪をもっと犯しても構わないだろう』という言葉が出るだろうか?

その人物はまだ恵みが何かを知らない者だ」と語っているのです。

つまり整理すると、聖徒は罪を犯さない者へと変わるのではなく、罪が何であるかを知る者となるのです。

だから『私は恵みがなければ死んだ者に過ぎない』という『私は十字架で死んだ』と告白する者となるのであり、そのような人は自分の死を知っている者であるため、自分が大きな罪を犯して大きな恵みを受けようとか、小さな罪を犯して称賛を受けようとか、そんなことは言えないのです。

恵みは私たちの生活の中で王として君臨し、私たちを罪の中へ引きずり込むのではなく、神の愛の中へと導いていくからです。

それゆえ使徒は「それはできない」と叫んだのです。

私たちは罪を犯すことがあります。しかしその度に、私たちは自らの無力さと醜さと死んだ状態に嘆き、神の恵みを日々より強く握りしめる者となっていくのです。

私たちの内に生きておられる聖霊が、そのように私たちの心の中に願いを置いて行わせます。

しかしあまりにも頻繁に失敗します。

それでも構いません。私たちはその失敗の中でも、神の恵みの中へ一歩一歩より深く入っていくからです。

それゆえ聖徒の生活は、すべてのことが共に働いて益となる生活なのです。

ある方はこんな質問もされます。

聖徒は善いことに熱心であってはいけないのですか?いいえ。熱心に努めるよう定められています。

私の中に聖霊がおられるゆえに、私たちの不誠実で汚れた生活に嫌気がさすようになるのです。

だからその不快な気持ちが熱心へと爆発することもあるのです。

しかし聖徒は熱心に努めて善い行いに成功するのではなく、熱心に努めて恵みを握りしめるよう定められています。

失敗しようが成功しようが、私たちはその熱心さの中で恵みを手にすることになります。

失敗したら、「だから私は十字架が必要なのだ」と悟り、成功したら「本当に私の内に聖霊が生きているから、あなたの人生を生きているのだ」と感謝してください。

それでよいのです。善悪の知識の木の実を食べた「私」は、絶えず死なねばなりません。

そして私を救ってくださったイエス・キリストの血の功績だけが、私の誇りとなるべきです。

それゆえ使徒は「聖徒の誇りはキリストにあってのみ可能である」と語ったのです。

ですから、福音を理解する説教者たちは、時には熱心に励むよう説教することもあれば、時にはただ生きるよう説教することもあるのです。どんな種類の説教であれ、聖徒には益となり、毒麦には目と耳が塞がれる説教となるでしょう。

しかし、常に十字架で結論を導くことは言うまでもありません。

神が熱心に励ますなら、「ああ、私の中の恵みが私に熱心に励み、恵みを握りしめよと命じているのだ」と悟り、熱心に励みなさい。

果てしなく怠惰になったでしょうか?その中で「私は元々こんな存在なのに、生きておられる神がこんな私を住まいとしてお入りくださるなんて、恐れ多い限りです」と悟ればよいのです。

ただ神の恵みが王として君臨し導かれるままに生きなさい。

 

(コリント人への手紙第一 7:20~24)

20 人は、召されたままの状態でいなさい。

21 もし、あなたが召された時、奴隷であったなら、心配する必要はありません。しかし、もし自由になることができるなら、むしろそれを利用しなさい。

22 主にある者で召された者は、たとえ奴隷であっても、主の自由な者です。また、同じように、自由な者で召された者は、キリストの奴隷です。

23あなたがたは代価を払って買い取られたのです。人の奴隷になってはいけません。

24兄弟たちよ、それぞれ召されたままの姿で、神と共に歩みなさい。

 

見てください。ただ生きなさいと言っているでしょう?

神がそこにいなさいと言われたその場所に、ただいなさいと言っているのです。

皆さん、私たちの行いが私たちを清めたり汚したりするわけではありません。

酒を飲んだ肉体も、酒を飲まない肉体も、どちらも罪の肉体でしかないのです。酒が入った肉体は汚れた肉体、酒が入っていない肉体は清い肉体ではないというのです。

同様に、私たちの行い、外から入るものが私たちを汚すことはできません。

外から入るものが私たちを清めることもできません。

ただイエスの血だけが私たちを清めることができます。

神が天国で入場券を要求される時、イエスの血の功績だけが有効な入場券なのです。

聖徒はそれを学ぶのです。

劇場の前で係員が入場券を要求するのに「あの入場券は持ってないんです、昨日私が良いことをたくさんしたんです、だからそのまま入れてください」と言ったら入れてくれるでしょうか?

正確な入場券が必要です。イエスの血。

十字架。それを握らなければなりません。