Kairosを生きる人々

たとえ(25)労苦し重い荷を負う者たちよ、自由になれ。 본문

講解説教/譬え(たとえ)

たとえ(25)労苦し重い荷を負う者たちよ、自由になれ。

cocoa 2026. 3. 9. 16:45

 

 

たとえ(25)

労苦し重い荷を負う者たちよ、自由になれ。

 

(マルコ7:14~23)

14また群衆を呼び寄せて言われた。「あなたがたは皆、わたしの言葉を聞いて悟りなさい。

15外から人の内に入るものは、人を汚すことはできない。

16人の内から出るものが、人を汚すのである。」と言って

17群衆を離れて家に入られた。弟子たちがそのたとえを尋ねたので

18イエスは言われた。「あなたがたも、このように悟らないのか。外から入って来るものは、何一つ人を汚すことができないということを知らないのか。

19それは心に入らず、腹に入り、外へ出て行くからである。」こうして、あらゆる食物を清いものとされた。

20また言われた。「人から出るものが、人を汚すのである。

21内から、すなわち人の心から出るものは、悪しき思い、すなわち淫行、盗み、殺人、

22姦淫、貪欲、悪意、欺き、好色、邪眼、中傷、高慢、放蕩である。

23これらの悪しきものはすべて、内から出て人を汚すのである。」

 

今から6年前にスミルナ教会が始まった時のことです。

当時、私と一緒に聖書勉強をしていた十数人の青年たちと共に教会を始めることにし、まず教会の名前を決めました。

その時私たちが選んだ名前がスミルナ教会でした。

スミルナ教会はヨハネの黙示録に出てくる七つの教会の中で唯一、この地で苦難を通過しながら神に称賛された教会でした。

私たちが教会名をわざわざスミルナ教会とした理由は、当時教育部長官まで務められたとある教授が「教会よ、あなたがたが信じるイエスは世のために苦難を受け十字架に釘付けにされて死なれた方だ。

ところがこの時代の教会は自分たちの願いを成就し富貴栄華だけを夢見ている。それがどうしてあなたがたの師に倣った真の教会と言えるのか?もしこの地の教会の中で、教会の頭であるイエスのように自らを犠牲にして他者の益を求める、手と足に釘の跡を持つような教会が一つでも見つかれば、私もその時イエスを信じる」という嘲笑を込めたコラムを発表された時期だったため、私たちが世にそのような教会の姿を見せようという趣旨から、苦難の教会、スミルナを教会の名として選んだのです。

 

私たちは教会を始めるために、家にある衣類や本、家電製品などを集めてガレージセールを始めました。

礼拝場所を借りる際、最初の月の家賃程度は用意しておかなければならないという考えからでした。

そんな中、LAのウィルシャー通りに位置する空き礼拝堂の場所が出てきて、そこを借りることに決め、一生懸命ガレージセールをしていたところ、ある日その建物の所有者が慌てた声で電話をかけてきて、私に会いたいと言いました。

その方もある教会の執事さんでしたが、夢の中で神様が現れ、私の名前を挙げて「キム・ソンス牧師にこの礼拝堂を無料で貸せ」と幾度も誓わせられたというのです。

ところがその夢があまりにも鮮明で、この建物を牧師に貸さなければ神が怒り、自分に大きな害をもたらすのではないかと、どうすべきか相談するために私を呼んだとおっしゃいました。

そう言いながらご自身の事情を話されました。

その方は当時、LA郊外の山の中に多額の資金を投じて祈祷院を建てられたのですが、その年に下の方で大きな火災が発生したため、その祈祷院が全焼してしまったそうです。

銀行の借金だけが残ってしまったのです。

そうして突然借金地獄に陥り、自分が所有する建物を数人に分けて賃貸するか、あるいは良い値段で売却して借金を整理しようと考えていたそうです。

そこで私を含む数人にその建物を分けて貸し出し、そこから入る家賃で銀行の借金を返済していく計画を立てられたのです。ところがちょうどその時、その建物を良い値段で買い取り、病院に改築して使いたいという人物が現れたそうです。

そんな折、夢の中に神様が現れ、キム・ソンス牧師に「無料でその建物を貸せ」と脅されたというのです。

 

いかがでしょう?私の心の中にどんな考えが浮かんだと思いますか?ほんの一瞬でしたが、その言葉を聞いた瞬間、その人の切実な事情は全く思い浮かばず、「神様がこのように私を助けてくださるのか、やはり私は神に選ばれた僕に違いない」という歓喜が湧き上がりました。

苦難を受ける教会サマーナのことなど思いもよらず、自分に利益となるようなことが起きると、隣人の苦難は全く問題になりませんでした。

 

ところが、私が当時学生たちに教えていたのは、「聖書以外のいかなる現象も神の啓示となり得ない」ということを強調して教えることでした。

もしあの建物の主人の夢に現れた方が真の神であるなら、その方が夢の中で聞いた言葉は啓示でなければならず、その啓示は必ず成就されなければならず、それはいつでも聖書に記録され得るものでなければなりません。

そして私たちは、自分たちの利益だけのために他人の事情を顧みない世の教会たちとは異なる道を歩むと、教会名もスミルナ教会と名付けた以上、その切迫した状況にある建物主の執事の事情を知りながらも、その建物を無償で素直に受け取ることができませんでした。

そこでその場でその執事にお話ししました。

 

「執事様、今お恐れになっているのは、夢に現れた神様があなたの言葉を聞かなかった時に、もしかしたら罰を下されるのではないかと心配されているようですね。どうかご心配なさらないでください。今この建物を買おうと申し出た方に良い値段で売って、借金を返してください。私たちは別の場所を探します。

そしてもし後日、神様が夢の中にまた現れて『なぜキム・ソンス牧師に与えなかったのか』と叱られたら、『私に与えたのに受け取らなかった』とおっしゃってください。私は今、この建物を執事さんから受け取ることにします。

」そして私たちは以前使っていた安息日教会に移り、教会を始めることになったのです。

 

当時一緒にいた子供数人にその話をしたところ、彼らも皆私の意見に同意してくれました。

そうしたら本当に心が満たされました。

私たちが教会を始めるにあたり、最初のボタンを本当にうまく留められたという思いに、どれほど嬉しかったか分かりません。

 

 

ところが問題は、その後どこへ行ってもその話を自慢したくてたまらなくなったことです。

そのため、外部の集会に招待されて出かけると必ずその自慢をし、教会に新しい家族が来た時には、新家族聖書勉強をしながら必ずその話を持ち出して、私たちの教会の始まりを自慢していました。

そんなある日、今日の聖書の箇所を読みながら、そのようなことが自慢すべきことではなく、むしろ恐ろしい罪であることを知りました。

人間はどんなものでも、常に自分を自慢し高めるために使うしかない汚れた罪人であることを改めて悟りました。

神様は時に、私たちが成し遂げる立派な行いさえも、私たちの罪深さを暴き自覚させるために用いることを学んだのです。

決してそれを私たちの功績として積み上げさせはしない、ということです。

今回、新しい家族クラスの聖書勉強に70名余りが登録されましたが、先週、その方々に教会を紹介する過程で、またその話を自慢しようとして、舌を噛みしめて我慢しました。

そうしているまさにその瞬間、今日の説教本文が決まったのです。

私は今日の本文を通して、人間から出てくるものは罪以外にはないということを痛切に再確認することができました。

どんなに正しく見える行為も、結局人間は自分自身という偶像を高め満足させるために使う悪党であることを痛烈に悟らせてくれる御言葉でした。

 

 

今日の本文はゲネサレトで起きたある出来事の後、イエスが弟子たちに与えられたたとえ話です。

まずこのたとえを理解するには、このゲネサレトでの出来事がどんな文脈の中で登場するのかを見なければなりません。

マルコ福音書とマタイ福音書には共に、イエス様がゲネサレト地方に移られる前にイエス様に起こった出来事を四つ記録しています。

 

その第一がイエス様が故郷で冷遇されたことであり、第二が洗礼者ヨハネの死に関する記事であり、第三が五つのパンと二匹の魚の奇跡であり、第四がイエス様が水の上を歩まれた出来事です。

 

そしてゲネサレトでの出来事が続き、今日のたとえが登場するのです。

 

 

では、上記の四つの出来事がどのような一貫性でつながっているのかを知れば、今日の本文のたとえは容易に理解できるでしょう。

まず、イエスが故郷で冷遇された出来事は、外的な条件のみを重視する人々の無知を指摘する出来事でした。

マタイの福音書を見ると、イエスが故郷で冷遇される出来事の直前に、天国のたとえ話が並べられています。

そして突然、イエスが故郷で冷遇される出来事が記録されているのです。

イエスがこの世に築かれる天国は、目に見える生存世界の満足のみに関心を持つ人々にとっては、イエスの天国が拒絶されることを示しているのです。

だからこそ、天国のたとえ話の直後に、その天国を建てられるイエスの姿がみすぼらしく描写され、そのみすぼらしい背景のイエスが拒絶されるのです。

イエスが故郷で拒絶された理由は、今日の本文の直前のマルコによる福音書6章にこう記されています。

 

(マルコ6:3)

3「この人はマリアの子で、大工ではないか。ヤコブ、ヨセフ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。

その姉妹たちは、私たちと一緒にここにいるではないか」と言って、イエスを拒んだ。

 

2節を見ると、彼らは確かにイエスの言葉に現れたその方の知恵を感知し、驚いたとあります。

それにもかかわらずイエスを拒んだ理由は、その方の外見的条件が自分たちの気に入らないものであったため、その知恵そのものが信頼できないものとなってしまったからです。

だから今でも博士号を持つ牧師が待遇を受け、招聘条件においても牧師の学位と経歴が非常に重要な要件となっているのでしょう。しかし、そのような拒絶を受けたイエス様が興味深いお言葉を語られます。

 

(マルコ6:5-6)

5そこでは、ほとんど力を行使することができず、わずかな病人に手を置いて癒すだけでした。

6そして、彼らの信じないことを不思議に思われました。こうして、イエスはすべての村を巡り歩き、教えられました。

 

イエス様は、故郷の人々の反応のため、そこでは何の力あるわざも行うことができなかったと言われています。では、イエスの力は対象の反応によって現れたり現れなかったりするような種類の力なのでしょうか?そして6節を見ると、彼らの反応を見たイエスは不思議に思われたとありますね?まるで「え、なぜ私の言葉が通じないんだ?おかしいな」という口調に聞こえませんか?この物語には非常に重要なメッセージが込められているのです。

ここで使われている語はギリシャ語の「ダウマゾ」という単語です。

この言葉は、イエス様も予想していなかった反応ゆえに、イエス様もその状況を受け入れがたかったという意味ではありません。

この語は本来「称賛する、驚く」という意味です。

つまり直訳すれば「恵みを拒み、あなたを信じない罪人たちの前で無力な姿として現れたあの全ての状況を驚きと賛美をもって受け入れた」ということです。

言い換えれば、そのような反応を当然のこととして受け入れ、その状況を賛美されたという意味なのです。

 

なぜなら十字架の恵みによって完成される罪人たちの救いは、彼らの罪人たる姿が露わになった場所で、イエスの無力さである十字架を担うことによってのみ成し遂げられるからです。

今、イエスの故郷で起きている状況こそが、十字架の前で完全なる恵みによってのみ救いを得る不可能な罪人たちの姿をそのまま象徴しているのです。

彼らは説得したり、教訓を与えたり、訓練を施したりして救いに至れる存在ではないのです。

そしてそのような者たちには、イエスの天国が無力で取るに足らないものに見えるのは当然なのです。

だからこそ、彼らの前で何の力も行使できない無力な者として、イエスは立たれるのです。

しかし、その無力に見える十字架こそが、結局は彼らを救い出すのだということです。

だからこそイエスは、そのような神の救いの計画を当然のこととして受け入れ、称賛されたのです。

目に見える外的な条件で人の価値を判断するイエスの故郷の人々が、恵みの主を信じないのは当然のことです。

そして、そのように不可能な者たちの前で、何の権能も行使できない姿で救いが訪れる神の十字架の知恵は、称賛され賛美されるに値するものであるということです。

だから主は、彼らが信じないことを驚きをもって称賛したと、「ダウマゾ」という言葉で表現したのです。

 

つまりこの物語に登場するイエスを排斥したイエスの故郷の人々は、まさに私たち自身を指しているのです。

並行箇所があるマタイによる福音書13章に行けば、より明確にその故郷の人々がまさに私たち自身であることを知ることができます。

 

(マタイ13:57)

57イエスを排斥したので、イエスは彼らに言われた。「預言者は、自分の故郷と自分の家の

では尊敬されないことはない」と言われた。

 

皆さん、本当にイエス様は故郷以外では尊敬だけを受けて生きてこられたでしょうか?違いますよね?結局、この世の目に見える外的なものを力として生きてきた全ての世が合意して、イエス様を十字架に釘付けにして殺してしまったのです。

ところがその中で、誰が救いを得たのでしょうか?期待もせず、望んでもいなかったある群衆が、偶然の余剰を贈り物として受け取ることになりました。

それが救いです。

救いの偶発性。つまり、イエスの故郷の人々とは、第一にイエスが生まれたパレスチナの地に住んでいたユダヤ人全体のユダヤ主義思想を指し、さらに言えばユダヤ主義的・人間主義的思考で固く固まったすべての人間を指すのです。

主はそうした者たちの中から、父が選び御自分に与えられた者たちを救い出し、目に見えるこの世と自らの存在に囚われていた彼らの目を開かせてしまうのです。

彼らがまさに異邦人なのです。

世の異邦人、ユダヤ主義の異邦人。そうしてイエス・キリストの十字架の恵みと人間の無知と不可能性が暴かれる現場が、イエスの故郷での排斥事件なのです。

救いはただ恵みによって完結するのです。人間のあらゆる行為は結局、イエス拒絶行為に他ならないのです。

 

 

そして続くのが洗礼者ヨハネの死です。

洗礼ヨハネはすでに死んだ状態です。

ではなぜ突然、イエスの故郷での拒絶事件と五つのパンと二匹の魚の奇跡の間に、洗礼ヨハネの死についての説明が挟み込まれているのか?その解釈の鍵は、洗礼ヨハネの死の事件の冒頭に記述されている点にあります。

 

(マルコ6:14)

14こうして、イエスの名が広まった。ヘロデ王はこれを聞いて言った。「これは洗礼者ヨハネが死者の中から生き返ったのだ。

の中で生き返ったのだ。だから、このような力が彼の中で働いているのだ」と言った。

 

唐突に、世の王たちの型であり代表であるヘロデと、そのヘロデに打たれて死んだ洗礼者ヨハネが対照的に登場します。

ところが、マルコ福音書もマタイ福音書も共に、ヘロデ王が洗礼者ヨハネをイエス様と比較しています。

ヘロデ王はイエス様の噂を聞いて、洗礼者ヨハネが生き返ったのだと恐れおののきます。

そして洗礼者ヨハネの死に関する記事が続くのです。

福音書記者たちがこうした内容の中で投げかけたいメッセージは、洗礼者ヨハネの死の内容とイエスの死の内容が全く同じであるという事実です。

世がなぜイエスを殺したのかを、洗礼者ヨハネの死の記事を通して説明しているのであります。

ヘロデは実は洗礼者ヨハネを殺すつもりはありませんでした。

 

(マルコ6:20)

20ヘロデはヨハネを正しい聖なる人として知って恐れ、彼を守り、また彼の言葉を聞くときは、大いに悩んだが、喜んで聞いた。

 

ヘロデは洗礼者ヨハネの言葉を喜んで聞き、また大いに悩んだと言います。

まるで直前に登場したイエスの故郷の人々と同じではありませんか?イエスの言葉を聞いて「いったいあの知恵はどこから来たのか?」と驚いたイエスの故郷の人々が、イエスを崖に連れて行き、突き落として殺そうとしませんでしたか?

彼らがなぜイエスの知恵を無視したと言いましたか?目に見える身なりと背景が情けなかったからだとしました。

言い換えれば、自分たちが望むことを成し遂げてくれる背景や能力がないと判断したからこそ、イエスを殺そうとしたのです。

私にこの世的な益をもたらすことができないものは、どんなに賢い言葉も必要なくなるのです。

同様に、そうして洗礼者ヨハネの言葉を喜んで受け入れたヘロデが、なぜイエスを殺すことになったのか見てください。

 

(マルコ6:26)

26王は深く悲しんだが、自分の誓いと座っている者たちのために、彼を拒むことができなかった。

 

ヘロデは洗礼者ヨハネを恐れ、彼を守ろうとしたにもかかわらず、彼を殺さざるを得なかったのは、自分の誓いと体面を保つためであったのです。

洗礼者ヨハネの死の物語が強調しているのは、イエス様が、彼らの体面と彼らの言行を価値あるものとして守り通そうとする人間の人間中心主義によって殺されたということです。

イエス様が、そのように自分たちの体面と自分たちの言行を価値あるものとして守り抜こうとする人間の人間中心主義によって殺されたということを、洗礼者ヨハネの死の物語が強調しているのです。

そのヘロデの中に、イエスを殺した私たちがいるのです。

まるで、自分の犠牲の行為を守り抜くために弟アベルを殺してしまったカインの罪を繰り返しているように見えませんか?すべての人間は、そのように自らの存在性の確立と存在性の守護のために命を賭けるのです。

「私」という存在の存在性に少しでも傷や汚れとなるものは、すべて削除してしまうことになっても、自らの存在性を守ろうとするのが、まさに堕落した人間たちの悪魔性なのです。

イエス様は、まさにそのような自己崇拝の教に陥った者たちによって殺されたのです。

 

 

そして続くのが五つのパンと二匹の魚の奇跡です。

五つのパンと二匹の魚の奇跡は、ご存知のように天からのマナとして来られたイエス・キリストが、ご自身の選んだ民の糧となられ、彼らに天の命を贈り物として与えられる救いの物語を型取った出来事です。

五つのパンと二匹の魚の出来事において私たちが注目すべきは、弟子たちの現実認識です。

弟子たちの現実認識は、まさに目に見える現実と常識と経験に縛られています。

群衆が腹を空かせているのだから、食べ物を与えなければならないというのです。

そこで弟子たちは合理的な解決策を提示します。

群衆に言って食べさせてから戻らせようというのです。

その時、イエス様は実に世知知らずな言葉をかけられます。

「あなたがたが食べ物を与えなさい」

弟子たちが魚二切れと麦のパン五つを取り出しながら「私たちが持っているのはこれだけなのです」と言ったのではありませんか?

まさにそれが、人本主義とユダヤ主義に陥った者たちの現実認識であり状況認識なのです。

この世の目に見える現実だけを見つめる者たちにとって、イエスが与えた命の言葉は、数万人を前にした二匹の魚と五つの麦のパンに過ぎないと見なされるのです。

目に見える世の中の肉的な生存だけに心を向ける者たちにとって、イエスの命の言葉は取るに足らない五つのパンと二匹の魚に過ぎません。

それが彼らの生存に何の助けにもならないように見えるからです。

 

しかし主は、肉的な生存に必要な世の糧を与えるために来られた方ではありません。

主は生存の問題を解決するために来られた方ではなく、命の問題を解決するために来られた方です。

ところが全ての人間、弟子たちでさえも生存の問題に縛られ、合理的で実用的な、目に見える対策にのみ関心を持っているのです。

 

主は、そのような者たちが差し出した五つのパンと二匹の魚を祝福され、そこにいた数万人が満腹になるほど食べ、なお余るという奇跡を起こされました。

それは「あなたがたは今、この世の肉的な生存だけに心を向けているので、わたしの働きとわたしの言葉が五つのパンと二匹の魚のように取るに足らないものに見えるかもしれないが、それがまさにあなたがたに永遠の命を与える天からの贈り物なのだ」というイエス・キリストのメッセージであったのです。

取るに足らないように見える五つのパンと二匹の魚の中に、天のマナの中に、実はどれほど豊かな恵みが隠されているかを、視聴覚教材を用いて説明してくださったのです。

 

私たちが弟子たちのように、肉体の必要という現実的な問題、生存の世界に囚われた者の視点で、イエス様の生涯と十字架と福音に向き合うとき、福音は本当に取るに足らない無力なものに見えるかもしれません。

しかしイエス様は、そのような者たちに御自身の肉と血を注ぎ出してくださるのです。

それが救いというものです。

それが真の天の豊かさというものです。

だからこそ五つのパンと二匹の魚から始まった食事は、十二の籠が残ることで終わるのです。

後に使徒言行録に進むと、弟子たちが自分たちの持っているものが何であるかを、あまりにもはっきりと知るでしょう?五つのパンと二匹の魚の現場では、まだ肉的な生存に縛られていたため、イエスから与えられたものは取るに足らないものと見なされました。しかし、神殿の美門に座っていた足の不自由な人の前では、銀や金よりも尊いものとして宣言されたのです。「銀も金も私にはありませんが、持っているものをあなたに与えましょう。ナザレのイエス・キリストの名によって、立ち上がって歩きなさい」と。彼らは全く別の人間になっていたのです。このように五つのパンと二匹の魚の出来事の中にも、やはり人間側の無力さと不可能性の暴露と、イエス・キリストの十字架の恵みだけが純粋に込められていることがわかります。

 

 

四つ目の出来事であるイエスが水の上を歩かれる奇跡も、まったく同じ文脈の奇跡です。

イエスは五つのパンと二匹の魚の現場で弟子たちを遣わされます。

ガリラヤ湖を渡ってガリラヤの西側であるゲネサレトへ行くようにと命じられたのです。

そして山に登られ、夜明けまで彼らを見守っておられました。

イエスが弟子たちの後ろに退いて、彼らを背後から見守られたという出来事は、ここただ一箇所だけです。

この物語は、火の柱と雲の柱となられ、主の御使いとしてイスラエルを導かれたイエスが

紅海の前でイスラエルの後ろに一度退かれたあの出来事と同一の出来事なのです。

つまりこの水の上を歩く奇跡の物語は、イスラエルの紅海の奇跡と同一の内容を内包していると言えるのです。

一言で言えば、救いとは何かを説明する出来事なのです。

 

イエス様は夜明け前、すなわち午前1時から3時の間に、その時までも荒波の中でもがいていた弟子たちのところへ近づかれます。

それも水の上を歩いて行かれます。

その時、弟子たちはイエス様を見て「幽霊だ」と叫びます。

 

よく考えてみてください。なぜ弟子たちが突然イエス様を幽霊だと叫んだのか、五つのパンと二匹の魚の出来事と結びつけて考えてみてください。五つのパンと二匹の魚の奇跡において、人々が自分たちの肉的な生存に縛られていた時、イエス・キリストの命の言葉をどのように見なしたでしょうか?五つのパンと二匹の魚の取るに足らないものとして見なしたのです。

 

同じことです。

弟子たちが生存の世界の中で、彼らの肉的な現実である風浪に縛られていた時、彼らに命を与えるイエスが幽霊と見なされたということを示しているのです。

私たちがイエスを信じると言いながらも、この肉的な生存の世界から目を離せない時、私たちにとってイエスは単なる幽霊に過ぎません。

私の現実に何の影響も与えられない幽霊に過ぎないのです。

手には触れません。目に見える体験を与え、奇跡を経験させてくれるようなイエスであってほしいのに、私の現実には沈黙し、むしろ私を絶壁へと押しやろうとするようなイエスは、幽霊に過ぎないのです。

それが現実という生存の世界に縛られたユダヤ主義のイエス認識です。

幽霊です。

 

イエス様は、そのような弟子たちに近づかれます。

イエス様の現れは、ご自身の力を示すためでも、弟子たちを助けるためでもありませんでした。

もしそれが目的だったなら、イエス様は十字架の上でも力を発揮して弟子たちを感動させなければならなかったでしょう。

そして弟子たちを助けることが目的だったなら、そもそも事前に嵐を遮断されてもおかしくなかったのです。

それにもかかわらず、主は弟子たちを荒波の中に投げ出されました。

そして夜明けに劇的に現れ、荒波の中から彼らを救い出されたのです。

主が劇的な場面を演出し、弟子たちに主の恵みと力に感動させるためだったのでしょうか?それはまるで強盗に遭遇してボコボコに殴られ、持っていた金を全て奪われた人が、靴下の中に隠しておいた10ドル札だけは最後まで奪われずに済んだことに神様に感謝するような、そんなコメディのような演出ではありませんか?真の感謝の辞を受け取りたければ、そもそも強盗に遭遇させないようにすべきでしょう。

 

すでに申し上げたように、イエス様は今、弟子たち、いや聖書の読者である聖徒たちに、救いとは何かを教訓しておられるのです。

弟子たちは五つのパンと二匹の魚の奇跡の現場で、一言で言えば有頂天になっていたでしょう。

自分たちが配るパンと魚が減らないのですから。

自分たちは何か特別な人間だという区別意識も生まれたでしょうし、自分たちの中に力というものが私有化され、他の人々とは異なる、立派な人間として一段階進んだという錯覚に陥っていたはずです。

神の言葉は、そして聖霊は、私たちに来て私たちを立派な人間に変えていくのではありません。

言葉は私たちを変容させることを目的として与えられるのではなく、罪とは何かを見分ける目を与えるのです。

時に私たちから生まれる立派な行いや素晴らしい選択も、完全に神の恵みによって私たちから発火されるものに過ぎません。

私が私有しているのではないのです。

その点については、次にパウロの書簡を用いて詳しく説明いたします。

 

このように私たちの行いは神の恵みによって、私たちの中に住まわれるイエスによって引き起こされるものであるにもかかわらず、私たちはそのような立派な行いや素晴らしい選択のさなかにも、結局は自らの誇りと利益だけを求める邪悪な自分の姿を直視しながら、イエス・キリストの恵みの必然性をしっかりと握りしめることが聖徒の信仰生活なのです。

ただで与えようとする建物を放棄したその行為が、神に称賛されるべき業績となるのではなく、そのような行為の中にも自分の誇りを守ろうとする「あなた」を見よというのが神の意図なのです。

したがって、私たちの中から出てくるいかなるものも、私たちのものとして持ち去ることはできず、そのようなものが積み重なって私たちの能力となったり、私たちの業績や功績となることもないのです。

 

そのように自分自身への期待と希望を捨てきれず、肉的な生存の世界だけに目を向け、その世界の経験と常識の中に閉じ込められている者たちにとって、イエスが建てられた天国は幽霊のような蜃気楼に過ぎません。

だからこそ、荒波という現実の中で永遠の命と天国を与えてくださるイエスの霊的な助けを求める者ではなく、肉的な世界の荒波と戦っている者としての弟子たちが、イエスを幽霊と呼ぶ場面が登場するのです。

 

イエス様は引き続きペテロという人物を通して救いの本質について説明してくださいます。

 

ペテロがイエス様に願い出ます。「主よ、もしお望みなら、私に命じて水の上に来させてください」。主がペテロに「来なさい」とおっしゃると、ペテロは水の上を歩きます。

ところが水の上を歩いていたペテロは風を見て恐れ、水の中に沈んでいきます。

以前、創世記を講解した時、ノアの洪水事件において、このイエスの水の上を歩く奇跡がどのようにノアの洪水事件と繋がるのかについて詳しく説明しましたよね?つまり今、ペテロは全ての生き物が溺れて死ぬべき水の中へと沈みつつあるのです。

象徴的に死へと沈みつつあるのです。

いったいペテロは何をそんなに間違えたから、主はペテロを水の中に沈めたのでしょうか?

皆さん、一度考えてみてください。もし水の上を歩く能力がペテロに与えられたものなら、その能力を持つペテロは風を打ち負かしたはずです。

ペテロに与えられた能力が私物化され、ペテロのものになっていたのなら、ペテロが水に沈むはずがありません。

しかしペテロは水に沈みました。

それはペテロが水の上を歩いたその能力が、ペテロに与えられていたものではなかったことを示しているのです。

 

ペテロは『来なさい』というイエスの言葉の中にいたからこそ、水の上を歩けたのです。

聖徒はイエスの言葉の中に入っている時に、呪いの嵐に陥ることはありません。

しかし、自分の意志と力を信頼し、その力で世の風を見つめる時、聖徒は呪いの水に沈んでしまうのです。

いや、もっと明確に申し上げれば、信仰や成熟や能力といったものが、私の熱心と努力によって私のものとして積み上げられ、私が他の人々より優れた者になったと考えるその状態こそが、まさに呪いの水に沈んだ状態なのです。

聖徒の信仰や成熟や能力は、聖徒自身に私有化されるものではありません。

だからこそ変容山の麓で弟子たちが悪霊に取りつかれた一人の子供を前にして途方に暮れていたのであり、主は彼らに「あなたがたには信仰がない」と厳しくおっしゃったのです。

なぜなら、あの時は弟子たちがイエス様によって遣わされ、悪霊を追い出し、豊かな力を働かせていた後だったからです。だから弟子たちは、そのような力が自分たちに私有化されていると思っていたのです。

それがまさに信仰のない状態なのです。

そしてそれがまさに水に沈んだペテロだったのです。

 

イエス様は私たちに奇跡を施し、目に見える力を働かせて、この生存世界の見える嵐から私たちを救い出す方ではありません。

この生存の世界において、イエス様はまるで幽霊のように掴みどころのない方として経験されるのです。

しかし主は、そのような沈黙の中で、私たちを真の死の嵐から救い出す方なのです。

世の荒波は絶えず私たちを脅かし続けるでしょう。

私たちはその世俗の荒波の中で、見えない、幽霊のようなイエス様を体験することになるでしょう。

なぜなら主は、私たちをそのような世俗の荒波から救い出すために来られた方ではないからです。

しかし、そのような荒波の中で見えない沈黙のイエス様が、私たちの代わりにその呪いの荒波に沈んで死んでおられることを忘れてはなりません。

ですから、まさに私たちが荒波の中で水に沈む経験をすることになるその時こそ、主と共に水の上に浮かんでいる状態である可能性があるのです。

まさにその時こそ、イエスが私のために十字架を背負っておられることを痛切に悟ることができる恵みの時だからです。

そのような信仰の告白をさせるために、主は度々私たちを世の荒波の中に押し出されるのです。

その時私たちは「なぜイエス様はまるで幽霊のように、私を助けてくださらないのか?」と嘆くのではなく、「世俗的な視点では私たちの主がまるで幽霊のように私の現実に対して沈黙されているように見えるが、その時こそ真に主が私を助けてくださる時であることを忘れないようにしよう」という信仰の告白ができるべきなのです。

 

そこには私たちの能力と功績と業績は、わずか1%も加えることはできません。

私に対する期待と崇拝が依然として私の内に存在する限り、私たちは世の風を見つめるしかなく、その時私たちは間違いなく水底へ沈んでいくのです。

 

 

聖徒は「来なさい」という主の言葉の中でのみ、死の水の上を歩むことができます。

しかし、その祝福された福音の現実は、信仰によってのみ経験されるものです。

だから聖徒は度々水に落ちます。

その時、水に落ちて「私はこのようにいつも水に落ちざるを得ない者なのだ」と悟ることを、水の上を歩むと言うのです。

なぜなら? 水の上を歩ける方はイエス様ただお一人だけだからです。

だから、その方の中に逃げ込んで隠れる者だけが水の上を歩けるのです。

一方、「私は主が与えてくださった力で、こうして他の人より優れている」と思いながら水の上を歩いていると考えるその人こそ、まさに水に沈んだ人なのです。

彼らは必ず自分の業績と功績を誇示して、自分の優越性を証明しようとします。

彼らにとって目に見える証拠こそが力なのです。

そしてその力は自信となり、他者を相対的に貶めることで、そこから相対的優越感を得ようとするのです。

彼らにとって目に見える世界、すなわち風浪の世界が現実となります。

彼らは決してその現実の生存世界から抜け出すことはできません。

聖徒は荒れ狂う現実の中で、イエス・キリストと共に水の上を歩む永遠の命の現実を見なければならないのです。

それは自分自身を否定しなければ不可能なことです。

福音はそうして聖徒を否定させる力を持っており、聖徒はその福音の力によって呪いの荒波の中で水の上の現実を見ることができるようになるのです。

 

 

このような物語にゲネサレトの物語が続くのです。

イエス様がゲネサレトに着かれた時、弟子たちの中の何人かが手を洗わずに食事をしていたようです。

エルサレムから追いかけてきたパリサイ人と律法学者たちがそれを見ました。

そして彼らはそのことでイエス様を激しく攻撃しました。

なぜ長老たちの伝承を無視するのか、と。その時、主は彼らにイザヤの言葉を投げかけられます。

 

(マルコ7:6~7)

6主は言われた。「イザヤは、あなたがた偽善者についてよく預言した。こう書かれている。

この民は口先ではわたしを敬うが、心はわたしから遠く離れている。

7人の戒めを教えとして教えるが、それはわたしをむなしく礼拝するにすぎない。」

 

長老たちの伝承まで守りながら神に仕えると言う者たちの実態は、実は口先だけで神を敬い、心ではそうではない虚しい礼拝だというのです。

見栄えの良い人間たちの行いの全体を否定されてしまうのです。

そしてゴルバンの例を挙げられます。

ゴルバンとは「神に捧げた物」という意味の誓いの言葉です。

それは長老たちの伝承です。

ユダヤ人たちはそのゴルバンを悪用していました。

律法には「父と母を侮る者は必ず死ななければならない」という戒めがあります。

だからユダヤ人たちは律法によって親を供養する義務がありました。

しかし「ゴルバン」、すなわち「神に捧げられた物」という口実さえあれば、親を養わなくても罪は成立しませんでした。

そのため多くのユダヤ人たちは、親に与えるべきものをゴルバンだと偽り、結局は神殿にも捧げない悪行を犯していたのです。

 

人間の律法に対する熱心さは、せいぜいその程度の芝居に過ぎないということを指摘されたのです。

その言葉は言い換えれば、人間という存在は律法を良く守ってより良い人へと成熟し変化していくような存在ではないということです。

神の恵みの必然性を知らない人間の律法的な熱心さは、結局は自己の利益のための見せ物に過ぎないというのです。

私たちは何か違うことを証明し、私たちの異なる信仰を誇示するために、無償で与えられる建物を拒んだあの行為のように。

そうしながら、外から入るものが人を汚すのではなく、人間の心の中にあるものが人間を汚れたものと規定するのだと語られます。

本文18節以下をご覧ください。

 

(マルコ7:18-20)

18イエスは言われた。「あなたがたも、このように悟らないのか。外から入って来るものは、何一つ人を汚すことができないということを知らないのか。

19それは心に入らず、腹に入って、後ろから出て行くからである。」こうして、すべての食物を清いものとされた。

20また言われた。「人から出るものが、人を汚すのである。」

 

主は今、人々の律法遵守を食物に例えて語っておられるのです。

食物が腹に入って後ろから出るように、人間の行いが人間を汚したり清めたりする条件にはなり得ないのです。

なぜなら、食物が腹に入って外に出る間に心に影響を与えないように、律法を守るという人間の行いも、人間の汚れと清さの判定に何ら影響を及ぼすことができないからです。

では、人間を汚いと規定する上で、何が決定的な影響を与えるのでしょうか?

 

(エレミヤ17:9~10)

9心は、すべてのものよりも偽りであり、深く腐っている。だれがこれを知ることができようか。

10しかし、わたし、主は、心を探り、肺を試し、それぞれの行いと、その行いに応じて報いる。

 

人間の心は生まれながらに汚れているため、いかなるものでも清められないということです。

では、どうすればよいのでしょうか?

 

(ピリピ2:5)

5あなたがたのうちにこの心を持て。すなわち、キリスト・イエスの心である。

 

私たちの心をキリスト・イエスの心へと変えなければならないのです。

いくつかの行いで改善し向上させる程度ではなく、イエスの心へと変えられてこそ救いに至ることができるのです。

では、どうすればイエスの心を持つことができるのか?

 

(エゼキエル36:26)

26また、あなたがたのうちに新しい霊を与え、あなたがたに新しい心を与える。あなたがたの肉体のうちから、頑なな心を取り除き

柔らかな心を与える。

 

神が新しい契約を与えてくださる時、御自身の民の心を新しく変えてくださるとおっしゃっています。

ところで、その新しい心がどのように私たちの中に入るのかというと、神の聖霊が私たちの中に入られる時に、私たちは新しい心を持つようになるのです。

それゆえ使徒パウロは、彼の書簡の冒頭で、私たちがすでに新しい心を持っていると宣言しているのです。

 

(コリント人への手紙第一 2:15~16)

15霊的な人はすべてを判断するが、自分自身はだれにも判断されない。

16だれが主の心を悟って、主に教えることができようか。しかし、私たちはキリストの心を持っている。

 

新しい心とは、私たちが誰かから学んで持つことができるものでも、善い行いを熱心にすることで得られるものでもなく、神が私たちの内に深く入り込み、古い心を取り除いて新しい心を植え付ける恵みの賜物としてのみ受けられるものだというのです。

そのような恵みの福音を信じる者たちが、すでに新しい心を受けた者たちです。彼らには永遠の神の国が約束されており、その中で享受する永遠の命がすでに与えられています。

そのような恵みの福音を信じる者たちが、すでに新しい心を受けた者たちです。

彼らには永遠の神の国が約束されており、その中で享受する永遠の命がすでに与えられています。

彼らにとって、目に見える世俗的な条件や環境がそれほど大きな問題になるでしょうか?彼らにとって、肉的な生存のためのこの世におけるイエスの沈黙がそれほど恨めしいものになるでしょうか?彼らが依然として自分の体面や存在感を保つために、イエスさえも殺してしまうような人生を送るでしょうか?彼らにとって、イエスの命の福音が五つのパンと二匹の魚という取るに足らないものに見えるでしょうか?彼らは依然として水の上を歩く奇跡を、この世の問題の解決などとして解釈するでしょうか?

申し訳ありませんが、この質問に皆引っかかりますよね?新しい心を受けた者として「いいえ」と言いたいのに、依然としてそうですよね?そうでない場合よりも、そのような場合の方がはるかに多いのです。

だからこそ神は、外から入ってくるものが御民の義に何の影響も及ぼせないよう、対策を講じられたのです。

なぜなら私たちは救いを得た後も、依然としてこの生存の世界で「私」という存在の価値を守ること、存在性を守ること、栄光を守ることにとりつかれて生きているからです。

私たちは立派な宗教行為をしながらも「私」の誇りを守り、善い行いをしながらも「私」の地位を高めるためにそれを使います。

聖徒は、そのような立派で善い行いをする中でも、自らの栄光を求め続ける自分の姿を直視し、それがまさに「罪」であることを自覚し、宗教的行為さえも「私」の義によって求め続ける「私」のいかなる行為も、「私」の義に資することなどできないと痛切に悟ればよいのです。

そこでイエス・キリストの十字架の必然性が、私にとって一歩近づいて刻印されるのです。

皆さんは行いによって天国に行くのではなく、イエスを握りしめて天国に行くのです。

 

 

それゆえ、イエス様は「労苦し重い荷を負っている者たちよ、みなわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげよう」と語られたのです。

 

(マタイ11:28~30)

28労苦し重い荷を負っている者たちよ、みなわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげよう。

29わたしは心優しく、へりくだっている。わたしのくびきを負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの心は

休みを得るであろう。

30わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである。

 

ここで言う労苦し重い荷を負う者とは、単に人生の苦難を抱えて生きる人々を指すのではありません。

ここで労苦し重い荷を負う者とは、まさに上に明記されている通りです。

 

(マタイ11:25)

25そのとき、イエスは答えて言われた。「天と地の主なる父よ、あなたがこれを知恵ある者や聡明な者には隠して、幼子たちには現してくださったことを、私は感謝します。

ご覧の通り、知恵ある者や聡明な者こそが労苦し重い荷を負う者たちなのです。

 

では、知恵ある者と分別ある者とは誰を指すのでしょうか。律法主義に囚われ、自分たちだけが選民であり、律法と祭儀を守る自らの行いが神の前で功績として認められると信じるユダヤ主義者たちを指します。

彼らは自らの救いを自らの行いで得なければならないため、あらゆる宗教的行為と善行が重荷となるほかありません。

主は彼らを御自身のもとに招かれます。

そして、御自身から学べと語られます。何を学べと言うのでしょうか?柔和と謙遜を学べと語られるのです。

これは柔和と謙遜を学んでそれを示すよう求めるのではなく、柔和と謙遜をもって己を捨て、十字架を負われたイエスの十字架の恵みを信じよという意味です。

その時、彼らは律法主義から離れ、イエスの十字架を転嫁された者となり、イエスのくびきを負う者となるのです。

 

皆さん、あなたがたが神の前で功績として携えていけるものは、たった一つもありません。

ですから、見栄を張って見せかけの善行を演じようとせず、まずイエスの恵みをよく学びなさい。十字架をまず理解しなさい、ということです。

そのような自己否定の中で、イエスの善が私の中から現れるようにしなければなりません。

 

そして、皆さんの人生から生まれるあらゆる行為の中で、それが善い行いであれ、悪い行いであれ、そのすべての行為の中で、必ず自分の価値と栄光を求めようとする自分の中の悪魔的な性質を正しく直視し、その度にイエス・キリストの十字架の恵みを感謝のうちに握りしめてください。

そうして私たちが否認されていくとき、私たちの内からイエスが差し出す真の天の善と真の天の義が、私たちの生活の中でふとふと現れてくるでしょう。

労苦し重い荷を負う皆さん、自由になりなさい。イエス様がすでに皆さんの心を新しく変えてくださいました。

だからその新しい心を持つ者たちは、どんな行いを差し出しても、神の前で義と認められます。

あなたがたが他の人々から偉大な聖人君子として認められなくても構いません。この世で立派に成功して「あの人は祝福された人だ」という評価、受けなくても結構です。

あなたの人生に苦難が訪れたからといって「他の人々が私のこんな人生を見たら、もしかして神の呪いを受けたと言うのではないか?」そんな心配はしないでください。外から入ってくるものは新しい心に何の影響も与えません。

神様は、御自身がただで与えられたその新しい心を、聖徒たちの正しい行いとして認めてくださるのです。

正しい行いをして正しいと言われるのではなく、その新しい心を感謝をもって厚かましくも受け取る従順な姿勢こそが正しい行いであるということです。

 

(黙19:8)

8神は彼女に輝く清い亜麻布を着せることをお許しになった。この亜麻布は聖徒たちの正しい行いである。

 

ご覧なさい。聖徒たちが行った行いが正しい行いなのではなく、イエス・キリストの義こそが聖徒たちの正しい行いなのです。

ですから、イエスの恵みを受けた者たちは、すでに神に差し出す完璧な正しい行いを備えている人だということです。

しかし、そのようなイエスの恵みを完全に頼らず、自分の正しい行いを加えて神に認められようとするユダヤ主義者たちに対して、神はこう裁かれるのです。

 

(黙示録20:12~13)

12また、私は見た。大小の死者が御座の前に立っていた。書物が開かれ、また別の書物、すなわち命の書が開かれた。死者は、それぞれの行いに応じて、書物に記されたとおりに裁かれた。

13海はその中にいる死者を吐き出し、また死と陰府もその中にいる死者を吐き出した。そして、各人はそれぞれの行いに応じて裁かれた。

 

労苦し重い自分の行いの荷を負い、イエスの恵みに完全に頼らなかった者たちは、文字通り彼らの行いによって裁かれます。

彼らは皆、死へと投げ込まれるのです。

しかし、私たちの行いがイエス・キリストの義の中にあるイエスの正しい行いとして神の前に立てられたという十字架の福音を知らせる者たちは、そのイエスの正しい行いによって裁かれるので、天国に入ることになるのです。

このような十字架の福音、イエスの恵みを知る者たちが、どうして軽々しく好き勝手に生きられましょうか?

それを知るほどに、面目がなくその恵みの前にへたり伏せ、従順な者として少しずつ築き上げられていくのです。

それが信仰生活です。

ここに、いったいどんな奇跡がそんなに必要で、どんな力がそんなに必要でしょうか?

奇跡と力を求める者たちは、常にこの世での生存に命を懸けている人々であり、彼らにはイエスの恵みが五つのパンと二匹の魚程度にしか見えないのです。

彼らにとってイエスは幽霊でしかないのです。

その見えない隠された天国の中の真のイエスを学びなさい。

 

 


 


비유(25)

수고하고 무거운 짐을 진 자들이여, 자유 하라

 

(막7:14~23)

14무리를 다시 불러 이르시되 너희는 다 내 말을 듣고 깨달으라

15무엇이든지 밖에서 사람에게로 들어가는 것은 능히 사람을 더럽게 하지 못하되

16사람 안에서 나오는 것이 사람을 더럽게 하는 것이니라 하시고

17무리를 떠나 집으로 들어가시니 제자들이 그 비유를 묻자온대

18예수께서 이르시되 너희도 이렇게 깨달음이 없느냐 무엇이든지 밖에서 들어가는 것이 능히 사람을 더럽게 하지 못함을 알지 못하느냐

19이는 마음에 들어가지 아니하고 배에 들어가 뒤로 나감이니라 하심으로 모든 식물을 깨끗하다 하셨느니라

20또 가라사대 사람에게서 나오는 그것이 사람을 더럽게 하느니라

21속에서 곧 사람의 마음에서 나오는 것은 악한 생각 곧 음란과 도적질과 살인과

22간음과 탐욕과 악독과 속임과 음탕과 흘기는 눈과 훼방과 교만과 광패니

23이 모든 악한 것이 다 속에서 나와서 사람을 더럽게 하느니라

 

지금으로부터 6년 전에 서머나 교회가 시작될 때의 일입니다.

당시 저와 함께 성경 공부를 하고 있던 청년들 십여 명과 함께 교회를 시작하기로 하고 우선 교회 이름을 짓기로 했습니다.

그때 저희들이 선택한 이름이 서머나 교회였습니다.

서머나 교회는 요한계시록에 나오는 일곱 교회 중 유일하게 이 땅에서 고난을 통과하며 하나님께 칭찬을 받은 교회였습니다.

저희가 교회이름을 굳이 서머나 교회로 지은 이유는, 당시에 교육부 장관까지 지내신 어떤 교수님께서 ‘교회야, 너희들이 믿는 예수는 세상을 위해 고난을 받고 십자가에 못 박혀 죽으신 분이다.

그런데 이 시대의 교회는 자기들의 소원을 성취하고 부귀영화만을 꿈꾸고 있으니 그게 어찌 너희들의 스승을 본받은 참 교회라 할 수 있느냐? 만일 이 땅의 교회 중에 교회의 머리라는 예수처럼 자신을 희생하여 남의 유익을 구하는, 손과 발에 못 자국을 가진 그런 교회가 하나라도 발견이 된다면 나도 그때 예수를 믿겠다’는 조롱 섞인 칼럼을 발표하셨던 때였던지라, 우리가 세상에게 그런 교회의 모습을 보여주자는 취지에서 고난의 교회, 서머나를 교회의 이름으로 택했던 것입니다.

 

저희들은 교회를 시작하기 위해 집에 있는 옷가지들과 책들, 가전제품 등을 모아서 그라지 세일을 시작했습니다.

예배처소를 빌리게 되었을 때 첫 달 렌트 비 정도는 마련이 되어야 하겠다는 생각에서였습니다.

그러던 중에 LA Wilshire 길에 위치한, 비어있는 예배당 자리가 나와서 그곳을 얻기로 하고 열심히 그라지 세일을 하고 있었는데, 어느 날 그 건물 주인이 황급한 목소리로 전화를 해서는 저를 만나자고 했습니다.

그분도 어떤 교회의 집사님이셨는데 꿈에 하나님께서 나타나셔서 제 이름을 대시면서 ‘김성수 목사에게 이 예배당을 공짜로 빌려주라’고 몇 번이나 다짐을 시키셨다는 것이었습니다.

그런데 그 꿈이 너무나 생생해서 이 건물을 목사님께 빌려주지 않으면 하나님이 진노하셔서 자기에게 큰 해를 끼치실 것 같아서 어떻게 해야 할까 상의를 하기 위해 저를 불렀다고 하셨습니다.

그러면서 자기의 사정을 이야기 하셨습니다.

그분이 그 당시 LA 외곽의 산 속에다가 돈을 많이 들여서 기도원을 차리셨었는데 그 해에 아래쪽에 큰 불이 나는 바람에 그 기도원이 다 타버렸다고 합니다.

은행 빚만 고스란히 남은 겁니다.

그렇게 갑자기 빚더미에 올라앉게 되어 자기가 갖고 있는 그 건물을 몇 사람에게 나누어서 렌트를 해주거나 아니면 좋은 값에 팔아서 빚을 정리하려고 생각을 하고 있었다고 합니다.

그래서 저를 비롯한 다른 몇 사람에게 그 건물을 나누어서 렌트를 해주고 거기에서 나오는 세로 은행 빚을 갚아 나가려고 계획을 하셨다는 것이지요. 그런데 마침 그 건물을 좋은 값으로 사서 병원으로 바꾸어 사용하겠다는 사람이 나타났다고 했습니다.

그러던 차에 꿈에 하나님이 나타나셔서 김성수 목사에게 공짜로 그 건물을 빌려주라고 협박을 하셨다는 것입니다.

 

어떠세요? 제 마음속에 어떤 생각이 들었을 것 같으십니까? 잠깐이었지만 그 말을 듣는 순간 그 사람의 절박한 사정은 전혀 생각나지 않았고 ‘하나님께서 이렇게 나를 도우시는구나, 역시 나는 하나님의 택함 받은 종이 분명해’라는 희열이 솟구쳐 올라왔습니다.

고난 받는 교회 서머나는 생각도 나지 않고 자기에게 유익이 될 만한 일이 생기니까 이웃의 고난이 전혀 문제가 되지 않았습니다.

 

그런데 제가 그때 우리 학생들에게 어떤 것을 가르치고 있었냐 하면 ‘성경 이외의 그 어떤 현상도 하나님의 계시일 수 없다’는 것을 강조하여 가르치고 있었습니다.

만일 그 건물 주인의 꿈에 나타나신 분이 진짜 하나님이시라면 그 분이 꿈속에서 들은 말은 계시여야 하고, 그 계시는 반드시 성취가 되어야 하며, 그것은 언제라도 성경에 기록이 될 수 있는 것이어야 합니다.

그리고 우리는 우리의 유익만을 위해 다른 이의 사정에 아랑곳하지 않는 그런 세상의 교회들과 다른 길을 가겠노라고 교회 이름도 서머나 교회라고 지어놓은 차에 그 절박한 상황 속에 있는 건물주인 집사님의 사정을 알면서도 그 건물을 공짜로 선뜻 받을 수가 없었습니다.

그래서 그 자리에서 그 집사님께 말씀을 드렸습니다.

 

‘집사님, 집사님께서 지금 두려워하시는 것은 집사님 꿈속에 나타나신 하나님께서 당신의 말을 듣지 않았을 때에 혹시 해 꼬지를 하실까봐 그러시는 것 같은데 걱정하지 마시고 지금 이 건물을 사겠다고 나선 그 분께 좋은 값에 팔아서 빚을 갚으세요. 저희는 다른 곳을 알아보겠습니다.

그리고 만약 차후에 하나님이 꿈속에 또 나타나셔서 왜 김성수 목사에게 안 주었냐고 야단을 치시거든 저에게 주었는데도 안 받았다고 말씀을 하십시오. 저는 지금 이 건물을 집사님에게 받을 걸로 하겠습니다.

’ 그리고는 우리가 전에 쓰던 안식일 교회로 자리를 옮겨 교회를 시작하게 된 것입니다.

 

그때 함께 했던 아이들 몇 명에게 그 이야기를 해 주었더니 그 아이들도 모두다 제 말에 동의를 해주었습니다.

그러고 나니 참 마음이 뿌듯했습니다.

우리가 교회를 시작하면서 첫 단추를 참 잘 끼웠다는 생각에 얼마나 흐뭇했는지 모릅니다.

 

 

그런데 문제는 그 후에 어딜 가나 그 이야기를 자랑하고 싶어서 못 견디겠는 겁니다.

그래서 외부 집회에 초청을 받아 나가게 되면 꼭 그 자랑을 했고, 교회에 새 가족 들이 올 때면 새 가족 성경 공부를 하면서 꼭 그 이야기를 꺼내어 우리 교회의 시작을 자랑하곤 했습니다.

그러던 어느 날 오늘 본문의 말씀을 읽으면서 그러한 일들이 자랑을 할 것이 아니라 오히려 무서운 죄라는 것을 알게 되었습니다.

인간은 그 어떤 것을 가지고도 항상 자기를 자랑하고 높이는 데에 사용할 수밖에 없는 더러운 죄인이라는 것을 새삼 깨닫게 되었습니다.

하나님은 가끔씩 우리가 행하게 되는 기특한 일을 가지고도 우리의 죄인 됨을 폭로시키시고 자각시키시는 데에 사용하신다는 것을 배운 것입니다.

절대 그걸 우리의 공로로 쌓게 놔두시지 않는다는 것이지요.

이번에 새 가족 반 성경공부에 70여분이 등록을 하셨는데 제가 지난주에 그분들에게 교회를 소개하는 과정 중에 또 그 이야기를 자랑하려고 하다가 혀를 깨물며 참았습니다.

그러면서 바로 그 순간 오늘 설교 본문을 정하게 된 것입니다.

저는 오늘 본문을 통하여 인간에게서 나올 수 있는 것은 죄밖에 없다는 것을 절절하게 재확인 할 수 있었습니다.

그 어떤 옳아 보이는 행위도 결국 인간은 자기 자신이라는 우상을 높이고 만족시키는 데에 사용하는 악당들임을 처절하게 깨닫게 해준 그런 말씀이었습니다.

 

 

오늘 본문은 게네사렛에서 일어난 어떤 사건 뒤에 예수님께서 제자들에게 주신 비유의 말씀입니다.

먼저 이 비유를 이해하기 위해서는 이 게네사렛에서의 사건이 어떤 문맥 속에서 등장하는가를 살펴보아야 합니다.

마가복음과 마태복음에는 공히 예수님께서 게네사렛 지방으로 옮겨 오시기 전에 예수님에게 일어났던 일을 네 가지로 기록을 하고 있습니다.

 

그 첫 번째가 예수님께서 고향에서 냉대를 받으신 일이고, 두 번째가 세례 요한의 죽음에 관한 기사이며, 세 번째가 오병이어의 기적이고, 네 번째가 예수님께서 물 위를 걸으신 사건입니다.

 

그리고는 게네사렛에서의 일이 이어지고 오늘 비유가 등장하는 것입니다.

 

 

그러면 위의 네 가지 사건이 어떤 일관성으로 이어지고 있는지를 알게 되면 오늘 본문의 비유가 쉽게 이해가 가겠지요?

먼저 예수님께서 고향에서 냉대를 받으신 사건은 외적 조건만을 중시하는 인간들의 무지를 지적하시는 사건이었습니다.

마태복음에 보면 예수님께서 고향에서 냉대를 받으시는 사건 바로 앞에 천국 비유들이 나열이 되어 있습니다.

그리고는 갑자기 예수님이 고향에서 냉대를 받으시는 사건이 기록이 되고 있는 것입니다.

예수님께서 이 세상에 세우시는 천국은 눈에 보이는 생존 세계의 만족에만 관심이 있는 사람들에게는 예수님의 천국이 배척을 받게 될 것임을 보여주시는 것입니다.

그래서 천국의 비유 바로 다음에 그 천국을 세우시는 예수님의 모습이 초라하게 묘사가 되고 있는 것이고 그 초라한 배경의 예수가 배척을 당하는 것입니다.

예수님께서 고향에서 배척을 받으신 이유가 오늘 본문 바로 앞장인 마가복음 6장에 이렇게 기록이 되어 있습니다.

 

(막6:3)

3이 사람이 마리아의 아들 목수가 아니냐 야고보와 요셉과 유다와 시몬의 형제가

아니냐 그 누이들이 우리와 함께 여기 있지 아니하냐 하고 예수를 배척한지라

 

2절을 보면 분명 그들은 예수님의 말씀에 나타난 그 분의 지혜를 감지하고 깜짝 놀랐다고 합니다.

그럼에도 예수님을 배척한 이유는 그분의 외적 조건이 자기들의 성에 차지 않았기 때문에 그 지혜 자체가 신뢰할 수 없는 것이 되어 버린 것입니다.

그래서 요즘도 박사학위 가진 목사들이 대우를 받고 청빙 조건에도 목사의 학위와 배경이 아주 중요한 요건이 되고 있는 것이겠지요. 그런데 그러한 배척을 받으신 예수님께서 재미있는 말씀을 하십니다.

 

(막6:5-6)

5거기서는 아무 권능도 행하실 수 없어 다만 소수의 병인에게 안수하여 고치실 뿐이었고

6저희의 믿지 않음을 이상히 여기셨더라 이에 모든 촌에 두루 다니시며 가르치시더라

 

예수님께서 고향사람들의 반응 때문에 거기에서는 아무런 권능을 행하실 수 없으셨다고 합니다.

그럼 예수님의 능력은 대상의 반응에 따라 나오기도 하고 나오지 않기도 하는 그런 종류의 권능이란 말인가요? 

그리고 6절을 보시면 그들의 반응을 보신 예수님께서 이상하게 여기셨다고 하지요? 마치 ‘어, 왜 내 말이 안 먹히지? 이상하다’라는 투로 들리지요? 이러한 내러티브 속에는 아주 중요한 메시지가 담겨 있는 것입니다.

여기에서 쓰인 단어는 헬라어 ‘다우마조’라는 단어입니다.

그 말은 예수님도 기대하지 못한 반응 때문에 예수님도 그 상황을 받아들이기 어려웠다는 말이 아닙니다.

그 단어는 원래 ‘칭찬하다, 놀라다’라는 뜻입니다.

그러니까 직역을 하면 ‘은혜를 거부하고 당신을 믿지 않는 죄인들 앞에서 무력한 모습으로 드러나신 그 모든 상황을 놀라며 칭찬하셨다’는 것입니다.

다른 말로 그러한 반응을 당연하게 받아들이시며 그 상황을 찬양하셨다는 말인 것입니다.

 

왜냐하면 십자가의 은혜에 의해 완성이 되는 죄인들의 구원은, 그들의 죄인 됨이 드러난 곳에 예수님의 무력함인 십자가 지심으로만 이루어지는 것이기 때문입니다.

지금 예수님의 고향에서 일어나는 상황이 바로 십자가 앞에서 전적인 은혜로만 구원을 얻는 불가능한 죄인들의 모습을 그대로 상징하고 있는 것입니다.

그들은 설득시켜서, 교훈을 던져서, 훈련을 시켜서 구원에 이를 수 있는 존재들이 안 된다는 것입니다.

그리고 그러한 자들에게는 예수님의 천국이 무력하고 보잘것없는 것으로 보이는 것이 당연하다는 것입니다.

그래서 그들 앞에서 아무 능력도 행하지 못하는 무력한 자로 예수님이 서시는 것입니다.

그러나 그러한 무력해 보이는 십자가가 결국 그들을 구원해 낼 것이라는 말입니다.

그래서 예수님은 그러한 하나님의 구원의 계획을 당연하게 받아들이시며 칭찬하셨던 것입니다.

눈에 보이는 외적 조건으로 사람의 가치를 판단하는 예수님의 고향사람들이 은혜의 주님을 믿지 않는 것이 당연하다는 것입니다.

그리고 그렇게 불가능한 자들 앞에서 아무런 권능도 행할 수 없는 모습으로 구원이 임하게 되는 하나님의 십자가 지혜는 칭찬받고 찬양받아 마땅한 것이라는 말인 것입니다.

그래서 주님이 그들이 믿지 않음을 놀라며 칭찬했다라고 ‘다우마조’라는 단어로 표현을 한 것입니다.

 

그러니까 이 이야기에 나오는 예수님을 배척한 예수님의 고향 사람들은 바로 우리 자신을 가리키는 것입니다.

병행구절이 있는 마태복음 13장으로 가면 좀 더 명확하게 그 고향 사람들이 바로 우리 자신임을 알 수 있습니다.

 

(마13:57)

57예수를 배척한지라 예수께서 저희에게 말씀하시되 선지자가 자기 고향과 자기 집

외에서는 존경을 받지 않음이 없느니라 하시고

 

여러분 정말 예수님이 고향 이외에서는 존경만 받으면서 사셨나요? 아니지요? 결국 이 세상의 눈에 보이는 외적인 것들을 힘 삼아 살았던 모든 세상이 합의 하여 예수님을 십자가에 못 박아 죽여 버렸습니다.

그런데 그 가운데 누가 구원을 얻게 된 것이지요? 기대하지도 않았고 원하지도 않았던 어떤 무리들이 우발적 잉여를 선물 받게 되었습니다.

그게 구원입니다.

구원의 우발성. 그러니까 예수님의 고향 사람이란 일차적으로 예수님이 태어나신 팔레스타인 땅에 살던 유대인 전체의 유대주의 사상을 가리키는 것이고 더 나아가서는 유대주의적, 인본주의적 사고로 똘똘 뭉친 모든 인간들을 가리키는 것입니다.

주님은 그러한 자들 중에서 아버지가 택하여 당신께 주신 자들을 건져 내셔서 눈에 보이는 이 세상과 자신의 존재 안에 갇혀 있던 그들의 눈을 뜨게 해 버리시는 것입니다.

그들이 바로 이방인인 것입니다.

세상의 이방인, 유대주의의 이방인. 그렇게 예수 그리스도의 십자가 은혜와 인간의 무식함과 불가능함이 폭로되는 현장이 예수님의 고향 배척 사건인 것입니다.

구원은 오직 은혜에 의해 완결된다는 것이지요. 인간들의 모든 행위는 결국 예수 배척행위더라는 것입니다.

 

 

그리고 이어지는 것이 세례요한의 죽음입니다.

세례요한은 이미 죽은 상태입니다.

그런데 왜 갑자기 예수님의 고향 배척 사건과 오병이어의 기적 사이에 세례요한의 죽음에 대한 설명이 끼어 들어가 있는가? 그 해석의 키가 세례요한의 죽음 사건 맨 앞에 서술이 되어 있습니다.

 

(막6:14)

14이에 예수의 이름이 드러난지라 헤롯왕이 듣고 가로되 이는 세례 요한이 죽은 자

가운데서 살아났도다 그러므로 이런 능력이 그 속에서 운동 하느니라 하고

 

뜬금없이 세상 왕들의 모형이자 대표인 헤롯과 그 헤롯에게 맞아 죽은 세례 요한이 대조가 되며 등장합니다.

그런데 마가복음이나 마태복음 공히 헤롯왕이 세례요한을 예수님과 비교하고 있습니다.

헤롯왕이 예수님의 소문을 듣고 세례요한이 살아난 것이라고 두려워 떱니다.

그리고는 세례요한의 죽음에 대한 기사가 이어지는 것입니다.

복음서 기자들이 이러한 내용 속에서 던지고 싶은 메시지는 세례요한의 죽음의 내용과 예수님의 죽음의 내용이 똑같은 것이라는 사실입니다.

세상이 왜 예수를 죽였는지를 세례요한의 죽음 기사를 통해 설명을 하고 있는 것입니다.

헤롯은 사실 세례요한을 죽일 마음이 없었습니다.

 

(막6:20)

20헤롯이 요한을 의롭고 거룩한 사람으로 알고 두려워하여 보호하며 또 그의 말을 들을 때에 크게 번민을 느끼면서도 달게 들음 이러라

 

헤롯은 세례요한의 말을 달게 들었고 큰 번민도 느꼈다고 합니다.

마치 바로 앞에 등장했던 예수님의 고향사람들과 같지요? 예수님의 말씀을 듣고 ‘도대체 저런 지혜가 어디에서 나왔는가?’하고 놀랐던 예수님의 고향사람들이 예수님을 낭떠러지로 끌고 가 밀어 죽이려 하지 않습니까?

그들이 왜 예수님의 지혜를 묵살하게 되었다고 했지요? 눈에 보이는 행색과 배경이 형편없었기 때문이라 했습니다.

다른 말로 자기들이 원하는 것을 성취해 줄 수 있는 배경과 능력이 없다고 판단이 되었기에 예수님을 죽이려 한 것입니다.

나에게 세상 적 유익을 줄 수 없는 것은 그 어떤 지혜로운 말도 필요가 없어지는 것입니다.

마찬가지로 그렇게 세례요한의 말을 달게 받았던 헤롯이 왜 예수님을 죽이게 되었는지 보세요.

 

(막6:26)

26왕이 심히 근심하나 자기의 맹세한 것과 그 앉은 자들을 인하여 저를 거절할 수 없는지라

 

헤롯이 세례요한을 두려워했고 그를 보호하려 했음에도 불구하고 그를 죽일 수밖에 없었던 것은 자기의 맹세와 체면을 지키기 위함이었다는 것입니다.

예수님께서 그렇게 자신들의 체면과 자신들의 언행을 가치 있는 것으로 지켜내기 위한 인간들의 인본주의에 의해 죽임을 당했다는 것을 세례요한의 죽음의 이야기가 강조하고 있는 것입니다.

그 헤롯 안에 예수를 죽인 우리가 들어 있는 것입니다.

마치 자기의 제사 행위를 지켜내기 위해 동생 아벨을 죽여 버린 가인의 죄를 반복하여 보고 있는 것 같지 않으세요? 모든 인간들은 그렇게 자기의 존재성 확립과 존재성 수호를 위해 목숨을 거는 것입니다.

‘나’라는 존재의 존재성에 조금이라도 흠이 되거나 티가 되는 것은 전부 삭제해 버리는 한이 있더라도 자신의 존재성을 수호하려고 하는 것이 바로 타락한 인간들의 악마성인 것입니다.

예수님은 바로 그러한 자아숭배 교에 빠진 자들에 의해 죽임을 당하신 것입니다.

 

 

그리고 이어지는 것이 오병이어의 기적입니다.

오병이어의 기적은 여러분이 아시다시피 하늘의 만나로 오신 예수 그리스도께서 당신의 택한 백성들의 먹이가 되셔서 그들에게 하늘의 생명을 선물로 주시는 구원의 이야기를 모형화한 사건입니다.

오병이어의 사건에서 우리가 눈여겨보아야 할 것이 제자들의 현실 인식입니다.

제자들의 현실인식은 그야말로 눈에 보이는 현실과 상식과 경험에 묶여 있습니다.

무리가 배가 고프니 밥을 먹여야 한다는 것입니다.

그래서 제자들은 합리적인 해결방안을 제시합니다.

무리에게 말하여 밥을 먹고 다시 오게 하자는 것입니다.

그때 예수님께서 참으로 물정모르는 말씀을 하십니다.

‘너희가 먹을 것을 주라’

제자들이 물고기 두 토막과 보리떡 다섯 개를 내 놓으며 ‘우리가 가진 것은 이게 전부입니다’라고 말을 하지요?

바로 그것이 인본주의와 유대주의에 빠진 자들의 현실인식이며 상황인식인 것입니다.

이 세상의 눈에 보이는 현실만을 바라보는 이들에게 있어서 예수님이 주신 생명의 말씀은 수만 명 앞에서의 물고기 두 토막과 보리떡 다섯 개로 여겨질 뿐이라는 것입니다.

눈에 보이는 세상에서의 육적 생존에만 관심을 둔 사람들에게 있어서 예수님의 생명의 말씀은 보잘것없는 오병이어일 뿐입니다.

그게 그들의 생존에 아무런 도움을 줄 수 없는 것처럼 보이기 때문입니다.

 

그러나 주님은 육적 생존에 필요한 세상의 양식을 주러 오신 분이 아닙니다.

주님은 생존의 문제를 해결해 주러 오신 분이 아니라 생명의 문제를 해결하러 오신 분입니다.

그런데 모든 인간은, 심지어 제자들까지도 생존의 문제에만 얽매어 합리적이고 실용적인, 눈에 보이는 대책에만 관심이 있는 것입니다.

 

주님은 그러한 자들이 내어 놓은 오병이어를 축복하셔서 그 자리에 있는 수만 명이 배불리 먹고 남는 기적을 일으키십니다.

그것은 ‘너희들이 지금은 이 세상의 육적 생존에만 관심을 두고 있어서 나의 사역과 나의 말이 오병이어처럼 보잘것없어 보이겠지만 그것이 바로 너희들에게 영원한 생명을 주는 하늘의 선물이란다’라는 예수 그리스도의 메시지였던 것입니다.

보잘것없어 보이는 오병이어 안에, 하늘의 만나 안에 사실은 얼마나 풍성한 은혜가 감추어져 있는지를 시청각 교재를 사용하여 설명해 주신 것입니다.

 

우리가 제자들처럼 육신의 필요라는 현실적 문제, 생존의 세계에 갇힌 자의 시각으로 예수님의 생애와 그 분의 십자가와 복음을 대하게 될 때 복음은 참으로 보잘것없는 무력한 것으로 보일 수 있습니다.

그러나 예수님은 그러한 자들에게 당신의 살과 피를 부어 버리시는 것입니다.

그게 구원이라는 것입니다.

그게 진짜 하늘의 풍요라는 것입니다.

그래서 오병이어에서 시작된 식사가 열두 광주리가 남는 것으로 끝이 나는 것입니다.

나중에 사도행전으로 가면 제자들이 그들에게 있는 것이 무엇인지를 너무나 확실하게 알지요? 여전히 육적 생존에 묶여 있었던 오병이어의 현장에서는 예수님으로부터 그들에게 주어진 것이 오병이어 같은 보잘것없는 것으로 여겨졌지만 성전 미문에 앉아있던 앉은뱅이 앞에서는 은과 금보다 더 값진 것으로 선포가 되지요? ‘은과 금은 내게 없으나 내게 있는 것으로 네게 주노니 나사렛 예수 그리스도의 이름으로 일어나 걸어라’ 완전히 다른 사람들이 되어 있지요? 이렇게 오병이어의 사건 속에도 역시 인간 쪽에서의 무력함과 불가능함에 대한 폭로와 예수 그리스도의 십자가 은혜만이 오롯이 들어가 있는 것을 알 수 있습니다.

 

 

네 번째 사건인 예수님께서 물 위를 걸으시는 사건도 똑같은 맥락의 기적입니다.

예수님께서 오병이어의 현장에서 제자들 보내십니다.

갈릴리 바다를 건너 갈릴리 서편인 게네사렛으로 가라는 것이었습니다.

그리고는 산으로 올라가셔서 밤 사경까지 그들을 주시하여 보십니다.

예수님께서 제자들 뒤로 물러가셔서 그들을 뒤에서 지켜보신 사건은 여기 단 한군데밖에 없습니다.

이 이야기는 불기둥과 구름기둥이 되셔서, 여호와의 사자로 이스라엘을 인도하셨던 예수님께서

홍해 앞에서 이스라엘의 뒤로 한번 물러가셨던 그 사건과 동일한 사건인 것입니다.

그러니까 이 물 위를 걷는 기적의 이야기는 이스라엘의 홍해의 기적과 동일한 내용을 담고 있는 것이라 볼 수 있습니다.

한마디로 구원이란 무엇인가를 설명하는 사건인 것입니다.

 

예수님께서 밤 사경, 즉 새벽 1시에서 3시 사이에 그때까지도 풍랑 속에서 허우적대고 있던 제자들에게 다가가십니다.

그것도 물위를 걸어서 가십니다.

그때 제자들이 예수님을 보고 ‘유령이다’라고 외칩니다.

 

잘 생각해 보세요. 왜 제자들이 갑자기 예수님을 유령이라고 외쳤는지 오병이어의 사건과 연결해서 생각을 해 보세요. 오병이어의 기적에서 인간들이 자신들의 육적 생존에 묶여 있을 때 예수 그리스도의 생명의 말씀을 어떻게 여겼다고요? 오병이어의 보잘것없는 것으로 여겼습니다.

 

마찬가지입니다.

제자들이 생존의 세계 속에서 그들의 육적 현실인 풍랑에 묶여있을 때 그들에게 생명을 주시는 예수가 유령으로 여겨진다는 것을 보여주는 것입니다.

우리가 예수를 믿는다고 하면서도 이 육적 생존의 세계에서 눈을 돌리지 못할 때 우리에게 예수는 그저 유령일 뿐입니다.

내 현실에 아무런 영향을 주지 못하는 유령일 뿐이란 말입니다.

손에 잡히질 않아요. 눈에 보이는 체험을 주고 기적을 경험케 해주는 그런 예수였으면 좋겠는데 내 현실에 침묵하시고, 심지어 나를 절벽으로 자꾸 밀어내는 듯한 예수는 유령에 불과한 것입니다.

그게 현실이라는 생존의 세계에 묶여있는 유대주의의 예수인식입니다.

유령입니다.

 

예수님은 그러한 제자들에게 다가가십니다.

예수님의 나타나심은 당신의 능력을 보여주시기 위함도 아니고 제자들을 도와주기 위함도 아니었습니다.

만일 그러한 것이 목적이었다면 예수님은 십자가상에서도 능력을 발휘하여 제자들을 감동시키셔야 했을 것입니다.

그리고 제자들을 도우시는 것이 목적이었다면 아예 사전에 풍랑을 차단해 버리셨을 수도 있으셨을 것입니다.

그럼에도 주님은 제자들을 풍랑 속에 던지셨습니다.

그리고는 새벽에 극적으로 나타나셔서 그들을 풍랑 속에서 건져 주신 것입니다.

주님께서 극적 장면을 연출하셔서 제자들로 하여금 주님의 은혜와 능력에 감격케 하시기 위함이었을까요? 그건 마치 강도를 만나서 흠씬 두들겨 맞고 가진 돈 다 빼앗긴 사람이 양말 속에 감춰둔 10불짜리를 끝까지 빼앗기지 않게 해 주신 하나님께 감사하는 그런 코미디 같은 연출이지요? 진짜 감사의 치사를 받으시려면 아예 강도를 만나지 않게 하셔야지요.

 

이미 말씀드린 것처럼 예수님은 지금 제자들에게, 아니 성경의 독자들인 성도들에게 구원이란 무엇인가를 교훈하고 계신 것입니다.

제자들은 오병이어의 기적 현장에서 한마디로 기고만장했을 것입니다.

자기들이 나누어주는 떡과 물고기가 줄어들지를 않는 것입니다.

자신들은 뭔가 특별한 사람이라는 구별의식도 생겼을 것이고 자기들 안에 능력이라는 것이 사유화되어 다른 사람들과는 다른, 괜찮은 사람으로 한 단계 더 나아졌다는 착각을 했었을 것입니다.

하나님의 말씀은, 그리고 성령은, 우리에게 오셔서 우리를 괜찮은 사람으로 바꾸어 가는 것이 아닙니다.

말씀은 우리를 변화시키는 것을 목적으로 주어지는 것이 아니라 죄가 무엇인지를 분별해 내는 눈을 주는 것입니다.

때때로 우리에게서 나오게 되는 기특한 행위나 멋진 선택 등도 전적으로 하나님의 은혜에 의해 우리에게서 격발이 되는 것일 뿐입니다.

내가 사유하는 것이 아니란 말입니다.

거기에 대해서는 제가 다음에 바울의 서신들을 들어서 자세하게 설명을 해 드리겠습니다.

 

그렇게 우리의 행위는 하나님의 은혜에 의해, 우리 안에 사시는 예수에 의해 격발이 되어 나오는 것임에도 불구하고 우리는 그러한 기특한 행위나 멋진 선택의 와중에도 결국 자신들의 자랑과 유익만을 챙기려는 사악한 자신의 모습을 직시하면서 예수 그리스도의 은혜의 필연성을 꼭 붙들게 되는 것이 성도의 신앙생활인 것입니다.

공짜로 주겠다는 건물을 포기한 그 행위가 하나님께 칭찬받을 만한 업적이 되는 것이 아니라 그러한 행위 속에서도 자신의 자랑을 챙기려는 ‘너’를 보라는 것이 하나님의 의도인 것입니다.

따라서 우리 안에서 나오는 그 어떤 것도 우리 것으로 챙겨 가질 수 없는 것이며, 그러한 것들이 쌓여서 우리의 능력이 되거나 우리의 업적이나 공로가 되는 것도 아닌 것입니다.

 

그렇게 자기 자신에 대한 기대와 희망을 버리지 못하고, 육적 생존의 세상에만 눈을 두고, 그 세상의 경험과 상식 안에 갇혀 있는 자들에게 예수가 세우신 천국은 유령 같은 신기루에 불과할 뿐입니다.

그래서 풍랑이라는 현실 속에서 영생과 천국을 주시는 예수님의 영적 도우심을 구하는 자가 아닌, 육적 세상의 풍랑과 싸우고 있는 자로서의 제자들이 예수님을 유령이라 부르는 장면이 등장하는 것입니다.

 

예수님은 계속해서 베드로라는 인물을 통해 구원의 본질에 대해 설명을 해 주십니다.

 

베드로가 예수님에게 부탁을 하지요? ‘주님 만일 주시어든 나를 명하여 물위로 오라 하소서’ 주님께서 베드로에게 ‘오라’고 말씀을 하시자 베드로가 물위를 걷습니다.

그런데 물위를 걷던 베드로가 바람을 보고 두려워하여 물속으로 빠져들어 갑니다.

제가 예전에 창세기를 강해할 때 노아의 홍수 사건에서 이 예수님의 물위를 걷는 기적이 어떻게 노아의 홍수 사건과 연결이 되는지에 대해 자세하게 설명을 해 드렸었지요? 그러니까 지금 베드로는 모든 기식하는 것들이 다 빠져 죽어야 하는 물 아래로 빠지고 있는 것입니다.

상징적으로 사망으로 빠져 들어가고 있는 것입니다.

도대체 베드로가 무엇을 그렇게 잘못을 했기에 주님은 베드로를 물속에 쳐 박은 것일까요?

여러분 한번 생각해 보세요. 만일 물위를 걷는 능력이 베드로에게 주어진 것이라면 그 능력을 소유한 베드로가 바람을 이겼을 것입니다.

베드로에게 주어진 능력이 사유화되어 베드로의 것이 되었던 것이라면 베드로가 물에 빠지면 안 됩니다.

그러나 베드로는 물에 빠졌습니다.

그건 베드로가 물위를 걸은 그 능력이 베드로에게 주어졌던 것이 아니었음을 보여주는 것입니다.

 

베드로는 ‘오라’라는 예수님의 말씀 안에 있었기 때문에 물위를 걸을 수 있었던 것입니다.

성도는 예수님의 말씀 안에 들어 있을 때에 저주의 풍랑에 빠지지 않을 수 있습니다.

그러나 자기 자신의 의지와 힘을 신뢰하며 그 힘으로 세상의 바람을 바라볼 때 성도는 저주의 물에 빠지게 되는 것입니다.

아니 좀 더 명료하게 말씀을 드리자면, 믿음이나 성숙이나 능력 같은 것들이 나의 열심과 노력에 의해 나의 것으로 쌓여서 내가 다른 이들보다 더 나은 자가 되었다고 생각하는 그 상태가 바로 저주의 물에 빠진 상태인 것입니다.

성도의 믿음이나 성숙이나 능력은 성도 자신에게 사유화 되어질 수 있는 것이 아닙니다.

그래서 변화산 아래의 제자들이 귀신들린 아이를 하나 놓고 쩔쩔매었던 것이고 주님은 그들에게 ‘너희가 믿음이 없다’라고 매몰차게 말씀을 하셨던 것입니다.

왜냐하면 그때는 제자들이 예수님에 의해 파송을 받아 귀신을 쫓고 능력을 풍성하게 행한 후였거든요. 그래서 제자들은 그러한 능력이 자기들에게 사유화 되어있다고 생각했던 것입니다.

그게 바로 믿음 없음의 상태인 것입니다.

그리고 그것이 바로 물에 빠진 베드로였던 것입니다.

 

예수님은 우리에게 기적을 베풀고 눈에 보이는 능력을 행하여 생존 세계의 눈에 보이는 풍랑에서 우리를 건지시는 분이 아닙니다.

이 생존의 세상에서 예수님은 마치 유령처럼 잡히지 않는 분으로 경험이 되어 집니다.

그러나 주님은 그러한 침묵 속에서 우리를 진짜 사망의 풍랑에서 건져내시는 분인 것입니다.

세상의 풍랑은 계속해서 우리를 위협할 것입니다.

우리는 그 세속의 풍랑 속에서 보이지 않는, 유령 같은 예수님을 경험하게 될 것입니다.

왜냐하면 주님은 우리를 그러한 세속의 풍랑에서 건지시러 오신 분이 아니시기 때문입니다.

그러나 그러한 풍랑 속에서 보이지 않는 침묵의 예수님이 우리를 대신해 그 저주의 풍랑에 빠져 죽고 계신 것임을 잊으시면 안 됩니다.

그러니까 정작 우리가 풍랑 속에서 물에 빠지는 경험을 하는 그 때가 주님과 함께 물위에 떠있는 상태일 수 있다는 것입니다.

바로 그때가 예수가 나를 위해 십자가를 지고 계심을 절절하게 깨달을 수 있는 은혜의 시간이기 때문입니다.

그러한 믿음의 고백을 하게 만드시기 위해 주님은 수시로 우리를 세상의 풍랑 속으로 밀어 넣으시는 것입니다.

그때 우리는 ‘왜 예수님은 마치 유령처럼, 나를 도우시지 않으시는가?’라고 탄식을 하는 것이 아니라, ‘세상 적 관점으로는 우리 주님이 마치 유령처럼 나의 현실에 대해 침묵을 하시는 것 같지만 그때가 진정으로 주님이 나를 도우시는 때라는 것을 잊지 말자’라는 신앙의 고백을 할 수 있어야 하는 것입니다.

 

거기에 우리의 능력과 공로와 업적은 단 1%도 보태어 질 수 없습니다.

나에 대한 기대와 숭배가 여전히 내 안에 존재하는 한 우리는 세상의 바람을 바라 볼 수밖에 없는 것이고 그때 우리는 여지없이 물속으로 가라앉게 되는 것입니다.

 

 

성도는 ‘오라’는 주님의 말씀 안에서만 사망의 물위를 걸을 수 있습니다.

그러나 그 복된 복음의 현실은 믿음으로만 경험되어지는 것입니다.

그래서 성도는 수시로 물에 빠집니다.

그때 물에 빠져서 ‘난 이렇게 늘 물에 빠질 수밖에 없는 자구나’를 깨닫는 것을 물위를 걷는 것이라 하는 겁니다.

왜요? 물위를 걸을 수 있는 분은 오직 예수 한 분밖에 없기 때문입니다.

그래서 그 분 안으로 도망가 숨는 자만 물위를 걷게 되는 것입니다.

반면에 ‘나는 주님이 주신 능력으로 이렇게 남들보다 잘하고 있어’하며 물위를 걷는다고 생각하는 그 사람이 바로 물에 빠진 사람인 것입니다.

그들은 반드시 자기들의 업적과 공로를 챙겨서 자신들의 나음을 입증하려 합니다.

그들에게는 눈에 보이는 증거들이 곧 힘입니다.

그리고 그 힘은 곧 자신감이 되어서 다른 사람들을 상대적으로 폄하하게 되고 거기에서 상대적 우월감을 챙겨갖는 것입니다.

그들에게는 눈에 보이는 세계, 곧 풍랑의 세계가 현실이 됩니다.

그들은 절대 그 현실의 생존 세계 속에서 빠져 나올 수가 없습니다.

성도는 풍랑이 이는 현실 속에서 예수 그리스도와 함께 물위를 걷고 있는 영생의 현실을 볼 수 있어야 하는 것입니다.

그건 자기 자신이 부인이 되어야만 가능한 것입니다.

복음은 그렇게 성도를 부인시키는 힘을 갖고 있는 것이며 성도는 그 복음의 힘에 의해 저주의 풍랑 속에서 물위의 현실을 볼 수 있게 되는 것입니다.

 

 

이러한 내러티브에 게네사렛의 이야기가 이어지는 것입니다.

예수님께서 게네사렛에 이르렀는데 제자들 중 몇 명이 손을 씻지 않고 밥을 먹었나 봅니다.

예수살렘에서 바리새인들과 서기관 들이 쫓아왔다가 그걸 보았습니다.

그리고는 그 일로 예수님을 마구 공격했습니다.

왜 장로들의 유전을 무시하느냐는 것이지요. 그때 주님께서 그들에게 이사야의 말씀을 던지십니다.

 

(막7:6~7)

6가라사대 이사야가 너희 외식하는 자에 대하여 잘 예언 하였도다 기록하였으되 이

백성이 입술로는 나를 존경하되 마음은 내게서 멀도다

7사람의 계명으로 교훈을 삼아 가르치니 나를 헛되이 경배 하는도다 하였느니라

 

장로들의 유전까지 지켜가며 하나님을 섬기겠다고 하는 자들의 실체가 사실은 입술로만 하나님을 존경하되 마음은 그렇지 않은 헛된 경배라는 것입니다.

근사해 보이는 인간들의 행위 전체를 부정해 버리시는 것입니다.

그리고는 고르반의 예를 드십니다.

고르반이라는 것은 ‘하나님께 드린 물건’이라는 뜻의 맹세문을 말합니다.

그건 장로들의 유전입니다.

유대인들이 그 고르반을 악용하고 있었습니다.

율법에 ‘아비와 어미를 훼방하는 자는 반드시 죽으리라’는 계명이 있습니다.

그래서 유대인들은 율법에 의해 부모를 공양할 의무가 있었습니다.

그런데 ‘고르반’, 즉 ‘하나님께 드려진 물건’이라는 구실만 있으면 부모를 공양하지 않아도 죄가 성립되지 않았습니다.

그래서 많은 유대인들이 부모에게 주어야 할 것을 고르반이라고 속이고 결국에는 성전에도 바치지 않는 악행을 저지르고 있었던 것입니다.

 

인간들의 율법에 대한 열심은 고작 그 정도의 연극에 지나지 않는다는 것을 지적하신 것입니다.

그 말은 바꾸어 말하면 인간이라는 존재는 율법을 잘 지켜서 보다 나은 사람으로 성숙되고 변화되어지는 그런 존재가 아니라는 것입니다.

하나님의 은혜의 필연성을 알지 못하는 인간들의 율법적 열심은 결국 자기 자신의 유익을 위한 쇼에 지나지 않는 것이라는 말입니다.

우리는 뭔가 다르다는 것을 증명하고, 우리의 다른 신앙을 자랑하기 위해 공짜로 주는 건물을 안 받은 그 행위처럼.

그러면서 밖에서 들어가는 것이 사람을 더럽게 하는 것이 아니라 인간의 마음 안에 들어 있는 것이 인간을 더러운 것으로 규정하는 것이라고 말씀을 하십니다.

본문 18절 이하를 보세요.

 

(막7:18-20)

18예수께서 이르시되 너희도 이렇게 깨달음이 없느냐 무엇이든지 밖에서 들어가는 것이 능히 사람을 더럽게 하지 못함을 알지 못하느냐

19이는 마음에 들어가지 아니하고 배에 들어가 뒤로 나감이니라 하심으로 모든 식물을 깨끗하다 하셨느니라

20또 가라사대 사람에게서 나오는 그것이 사람을 더럽게 하느니라

 

주님은 지금 인간들의 율법지킴을 음식에 비유해서 말씀을 하고 계신 것입니다.

음식이 배 속에 들어가서 뒤로 나가는 것처럼 인간의 행위가 인간을 더럽게 하거나 깨끗하게 하는 조건이 될 수 없다는 것입니다.

왜냐하면 음식이 배속에 들어갔다가 밖으로 나가는 동안 마음에 영향을 미치지 못하는 것처럼 율법지킴이라는 인간의 행위도 인간의 더러움과 깨끗함의 판결에 그 어떤 영향도 미칠 수 없다는 것입니다.

그렇다면 인간을 더럽다고 규정하는 데에는 무엇이 결정적인 영향을 미치게 되는 걸까요?

 

(렘17:9~10)

9만물보다 거짓되고 심히 부패한 것은 마음이라 누가 능히 이를 알리요 마는

10나 여호와는 심장을 살피며 폐부를 시험하고 각각 그 행위와 그 행실대로 보응하나니

 

인간의 마음은 날 때부터 더럽기 때문에 그 어떤 것으로도 깨끗하게 청소가 안 된다는 것입니다.

그러면 어떻게 해야 합니까?

 

(빌2:5)

5너희 안에 이 마음을 품으라 곧 그리스도 예수의 마음이니

 

우리의 마음을 그리스도 예수의 마음으로 바꾸어 버려야 합니다.

몇 가지 행위로 개선시키고 향상시키는 정도가 아니라 예수님의 마음으로 바꾸어야 구원에 이를 수 있습니다.

그렇다면 어떻게 예수의 마음을 품을 수 있는가?

 

(겔36:26)

26또 새 영을 너희 속에 두고 새 마음을 너희에게 주되 너희 육신에서 굳은 마음을

제하고 부드러운 마음을 줄 것이며

 

하나님께서 새 언약을 주시는데 당신 백성들의 마음을 새것으로 바꾸어 주시겠다고 하십니다.

그런데 그 새 마음이 어떻게 우리에게 들어오는가 하면 하나님의 성령이 우리에게 들어올 때에 우리가 새로운 마음을 갖게 된다는 것입니다.

그래서 사도 바울은 그의 서신 서에서 우리가 이미 새로운 마음을 갖고 있다고 선언을 해 버립니다.

 

(고전2:15~16)

15신령한 자는 모든 것을 판단하나 자기는 아무에게도 판단을 받지 아니 하느니라

16누가 주의 마음을 알아서 주를 가르치겠느냐 그러나 우리가 그리스도의 마음을

가졌느니라

 

새 마음은 우리가 누구한테 배워서 가질 수 있는 것도 아니고, 착한 행위를 열심히 해서 갖게 되는 것도 아니라, 하나님께서 우리 안에 뚫고 들어오셔서 옛 마음을 제하여 버리고 새 마음을 심어 버리는 은혜의 선물로만 받을 수 있는 것이라는 말입니다.

그러한 은혜의 복음을 믿는 자들이 이미 새 마음을 받은 자들입니다.

그들에게는 영원한 하나님 나라가 약속이 되어 있고 그 속에서 누릴 영생이 이미 주어져 있습니다.

그들에게 있어서 눈에 보이는 세상 적 조건이나 환경이 그렇게 큰 문제가 될까요? 그들에게 있어서 육적 생존의 세상에서의 예수님의 침묵이 그렇게 원망스러운 것이 되겠습니까? 그들이 여전히 자기의 체면과 존재성 챙기기를 위해 예수님마저도 살해해 버리는 삶을 살게 될까요? 그들에게 예수님의 생명의 복음이 오병이어의 보잘것없는 것으로 보이겠습니까? 그들이 여전히 물위를 걷는 기적을 이 세상 문제의 해결 따위로 해석을 하겠습니까?

죄송한 말씀이지만 이 질문에 다 걸리시지요? 새 마음을 받은 자로서 아니라고 말하고 싶은데 여전히 그렇지요? 그렇지 않은 경우보다 그러한 경우가 훨씬 더 많습니다.

그래서 하나님은 밖에서 들어가는 것이 당신 백성들의 의인됨에 아무런 영향을 미칠 수 없도록 조치를 취해 놓으신 것입니다.

왜냐하면 우리는 구원을 얻은 이후에도 여전히 이 생존의 세상에서 ₴나’라는 존재의 가치 챙기기와 존재성 챙기기, 영광 챙기기에 혈안이 되어 살기 때문입니다.

우리는 기특한 종교행위를 하고도 ‘나’의 자랑을 챙기며, 선한 일을 해 놓고도 ‘나’의 위상을 높이는 데에 그 것을 사용합니다.

성도는 그러한 기특하고 착한 일을 하는 속에서도 자기의 영광을 챙기고 있는 자신의 모습을 직시하며 그게 바로 ‘죄’라는 것을 자각하고, 종교행위까지도 ‘나’의 의로 챙겨가지는 ‘나’의 그 어떤 행위도 ‘나’의 의로움에 기여할 수 없다는 것을 절실하게 깨달으면 되는 것입니다.

거기에서 예수 그리스도의 십자가의 필연성이 나에게 한발 더 가까이 각인이 되는 것입니다.

여러분은 행위를 가지고 천국에 가는 것이 아니라 예수를 붙들고 천국에 가시는 것입니다.

 

 

그래서 예수님께서 ‘수고하고 무거운 짐 진 자들아 다 내게로 오라, 내가 너희를 쉬게 하리라’고 말씀을 하신 것입니다.

 

(마11:28~30)

28수고하고 무거운 짐 진 자들아 다 내게로 오라 내가 너희를 쉬게 하리라

29나는 마음이 온유하고 겸손하니 나의 멍에를 메고 내게 배우라 그러면 너희 마음이

쉼을 얻으리니

30이는 내 멍에는 쉽고 내 짐은 가벼움이라 하시니라

 

여기에서 수고하고 무거운 짐 진 자들은 단순히 인생의 질고를 안고 사는 사람들을 지칭하는 것이 아닙니다.

여기에서 수고하고 무거운 짐 진 자들은 바로 위에 명시가 되어 있습니다.

 

(마11:25)

25그 때에 예수께서 대답하여 가라사대 천지의 주재이신 아버지여 이것을 지혜롭고 슬기 있는 자들에게는 숨기시고 어린 아이들에게는 나타내심을 감사 하나이다

 

보시다시피 지혜롭고 슬기 있는 자들이 수고하고 무거운 짐 진 자들입니다.

그렇다면 지혜롭고 슬기 있는 자들은 누구를 가리키는 것일까요? 

율법주의 속에 갇혀 자기들만이 선민이고 율법과 제사를 지키는 자기들의 행위가 하나님 앞에 공로로 상달이 될 것이라 믿는 유대주의 자들을 말합니다.

그들은 자기들의 구원을 스스로의 행위로 챙겨야 하기 때문에 모든 종교 행위와 선한 행위가 짐일 수밖에 없습니다.

주님은 그들을 당신에게로 초청하십니다.

그리고는 자기에게 배우라고 말씀을 하시지요? 무엇을 배우라고 하시나요? 온유와 겸손을 배우라고 하십니다.

그 말은 온유와 겸손을 배워서 온유와 겸손을 내 놓으라는 말이 아니라 온유와 겸손으로 자기를 부인하고 십자가를 지신 예수의 십자가 은혜를 믿으라는 말입니다.

그때 그들은 율법주의에서 벗어나 예수의 십자가를 전가 받은 자가 되어, 예수의 멍에를 맨 자가 된다는 것입니다.

 

여러분, 여러분이 하나님 앞에 공로로 가져갈 수 있는 것은 단 한 가지도 없습니다.

그러니까 어줍지 않게 되지도 않는 선한 행위를 연극하려 하지 마시고, 먼저 예수의 은혜를 잘 배우세요. 십자가를 먼저 이해하시라는 말입니다.

그러한 자기부인 속에서 예수의 선이 내 안에서 나오게 하셔야 합니다.

 

그리고 여러분의 삶 속에서 나오는 모든 행위 속에서, 그게 선한 행위이든, 악한 행위이든, 그 모든 행위 속에서 어김없이 자기의 가치와 영광을 챙기려 하는 자신 속의 악마 성을 올바로 직시하시고 그때마다 예수 그리스도의 십자가 은혜를 감사함 속에서 붙드세요.

그렇게 우리가 부인이 되어져 갈 때 우리 속에서 예수가 내어 놓으시는 진짜 하늘의 선과 진짜 하늘의 의가 우리 삶 속에서 문득 문득 보여 지게 될 것입니다.

수고하고 무거운 짐 진 여러분, 자유하세요. 예수님께서 이미 여러분의 마음을 새것으로 바꾸어 주셨습니다.

그래서 그 새 마음을 가진 자들은 그 어떤 행위를 내어 놓아도 하나님 앞에 의로운 자로 여김을 받습니다.

여러분이 다른 사람들에게 대단한 성인군자로 인정받지 못해도 괜찮아요. 이 세상에서 멋지게 성공해서 ‘저 사람은 축복받은 사람이다’라는 평가, 안 받아도 됩니다.

여러분의 삶에 고난이 닥쳤다고 해서 ‘다른 사람들이 나의 이런 삶을 보면 혹시 하나님의 저주를 받았다고 하지나 않을까?’ 그런 걱정하지 마세요. 밖에서 들어가는 것이 새 마음에 아무런 영향을 못 줍니다.

하나님께서는 당신께서 거저주신 그 새 마음을 성도들의 옳은 행실이라고 쳐 주시는 것입니다.

옳은 행실을 해서 옳다 하시는 것이 아니라 그 새 마음을 감사함으로 면목 없이 받는 순종의 자세가 옳은 행실이라는 것입니다.

 

(계19:8)

8그에게 허락하사 빛나고 깨끗한 세마포를 입게 하셨은즉 이 세마포는 성도들의 옳은 행실이로다 하더라

 

보세요. 성도들이 행한 행위가 옳은 행실이 아니라 예수 그리스도의 의가 성도들의 옳은 행실이랍니다.

그러니까 예수의 은혜를 입은 자들은 이미 하나님께 내어 놓을 완벽한 옳은 행실을 준비하고 있는 사람이란 말입니다.

그런데 그러한 예수의 은혜를 전적으로 의지하지 않고 자기의 옳은 행실을 보태어 하나님께 인정을 받겠다고 하는 유대주의 자들은 하나님께서 이렇게 심판을 하십니다.

 

(계20:12~13)

12또 내가 보니 죽은 자들이 무론대소하고 그 보좌 앞에 섰는데 책들이 펴 있고 또 다른 책이 펴졌으니 곧 생명책이라 죽은 자들이 자기 행위를 따라 책들에 기록된 대로 심판을 받으니

13바다가 그 가운데서 죽은 자들을 내어주고 또 사망과 음부도 그 가운데서 죽은 자들을 내어주매 각 사람이 자기의 행위대로 심판을 받고

 

수고하고 무거운 자기 행위의 짐을 지고 예수의 은혜를 전적으로 의지하지 않은 자들은 말 그대로 그들의 행위대로 심판을 받습니다.

그들은 모두 사망으로 던져지게 되어 있습니다.

그러나 우리의 행위가 예수 그리스도의 의 안에 들어 있는 예수의 옳은 행실로 하나님 앞에 올려 졌다는 십자가 복음을 아는 이들은 그 예수의 옳은 행실로 심판을 받기에 천국에 들어가게 되는 것입니다.

이러한 십자가 복음, 예수의 은혜를 아는 이들이 어떻게 함부로 막 살 수 있겠습니까?

그것을 아는 만큼 면목 없이 그 은혜 앞에 납작 엎드려 순종하는 자로 조금씩 지어져 가는 것입니다.

그게 신앙생활입니다.

여기에 무슨 기적이 그렇게 필요하고, 무슨 능력이 그렇게 필요합니까? 기적과 능력을 원하는 이들은 항상 이 세상에서의 생존에 목을 매고 있는 사람들이고 그들에게는 예수의 은혜가 오병이어 정도로 밖에 안 보이는 것입니다.

그들에게는 예수가 유령일 수밖에 없는 것입니다.

그 보이지 않는 은닉된 천국 속의 진짜 예수를 배우세요.