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☆(29) パン一つあげたら、本当に食べたりしないのか?(II) 본문
たとえ(29)
パン一つあげたら、本当に食べたりしないのか?(II)
(マルコ13:28~37)
28いちじくの木のたとえを学べ。その枝が柔らかくなり、葉が生えれば、夏が近いことを知る。
29同じように、あなたがたも、これらのことが起こるのを目撃したら、人の子が近く、まさに門の前に来ていることを
知れ。
30まことに、あなたがたに告げます。この世代が過ぎ去る前に、これらのことはすべて実現するでしょう。
31天地は滅び去っても、わたしの言葉は決して滅びません。
32しかし、その日と時は、だれも知りません。天にいる御使いたちも、子も知りません。
父だけが知っておられます。
33目を覚ましていてください。その時はいつ来るか分からないからです。
34たとえ人が家を離れて異国へ行くとき、そのしもべたちに権限を与え、それぞれに仕事を
任せて、門番に目を覚ましていなさいと命じるのと同じである。
35だから目を覚ましていなさい。家の主人がいつ来るか、夕暮れに来るか、夜中に来るか、
鶏が鳴く時に来るか、明け方に来るか、あなたがたは知らないからである。
36彼が突然来て、あなたがたが眠っているのを見られないようにしなさい。
37目を覚ましていなさい。私があなたがたに言っていることは、すべての人に言っているのです。」
私たちは先週、婚礼の宴から戻って来られる主人を迎えるために目を覚ましていなければならない聖徒の生活について学びました。目を覚ましているとは、私たちの行いを聖く清く保ち、宗教的行為に熱心になるような類いのことではなく、ただ私たちの花婿だけが私たちの救いの主体であることを確かに悟り、すべての関心を私たちの花婿に向け、彼だけに栄光と価値を帰する生き方を指すと述べました。だから、賢い五人の乙女が、自分たちの日常の豊かさに役立つ油を、いつ来るか分からない花婿を待つことに注ぎ込んだのだと?なぜなら、神を知らないすべての人間の日常は、人間の可能性を誇示する場であるため、その人間の可能性を差し押さえられた者たちには、日常よりも神と神の国にこそ関心が向かうからです。今日の本文と並行する箇所と言えるルカによる福音書12章に進むと、主が弟子たちの日常をすべて差し押さえてしまう場面が出てきます。
(ルカ12:36)
36あなたがたは、まるで主人である主人が婚礼の宴から帰って来て、戸を叩くとき、すぐに開けてあげられるように待っている
人のようにあれ
僕たちには他のやるべきことがたくさんあります。家事もしなければならず、畑に出て畑仕事もしなければならず、家族がいれば家族の世話もしなければならず、やるべきことは非常に多いのです。しかし主は、戸の前に立って、主人が戸を叩くとき「すぐに」戸を開けてあげられる場所に待機せよと命じているのです。他のことをして主人を待たせてはならないということです。ですから、主を待つ神の国の子らは、他の日常に気を散らしてはならないのです。ただ主が来られることだけを待ち望み、自分たちの日常が自分たちを存在させ、幸せにできるというすべての期待と希望を捨て、主人だけが私の生存の根拠であり、主人だけが私の幸福の源であることを固く握りしめなさいということです。彼らがまさに主の奉仕、すなわち十字架の恵みを受けた者たちであり、現実の中でも主と関係を持ちながら生きる真の聖徒であるということです。
(ルカ12:37)
37主人が来て、目を覚ましているのを見れば、その僕たちは幸いである。まことに、あなたがたに言う。主人は帯を締め、僕たちを席に着かせ、自ら来て仕えるであろう。
ご覧ください。主人が来た時に躊躇せず、すぐに門を開けたような僕を、主人は帯を締め、僕たちを座らせて給い、給仕すると言います。これはどういう意味でしょうか?どこかで見た絵ではありませんか?
ヨハネの福音書13章には、イエス様が捕らえられる前の夜、弟子たちの足を洗われる場面が出てきますよね?その時、イエス様は腰に布を巻かれ、弟子たちを座らせてから彼らの足を洗われたのです。するとペテロは何と言いましたか?「どうして主が私の足を洗われるのですか」と引き留めました。主はそのペテロにこうおっしゃいました。
(ヨハネ13:8~10)
8ペテロは言った。「どうか、私の足を洗わないでください。」イエスは言われた。「もし私があなたを洗わないなら、あなたは私とは何の関係もないのです。」
9シモン・ペテロが言った。「主よ、私の足だけでなく、手も頭も洗ってください。」
10イエスは言われた。「洗った者は、足を洗う必要はない。全身が清いからである。あなたがたは清いが、皆がそうではない。」
イエスは弟子たちの足を洗いながら、あなたがたはすでに洗った者だから全身が清いと宣言されます。その全身には足も含まれているのです。
ではなぜ足を洗われるのでしょうか。主は今、彼らの全身がどのように清められたかを自ら示されたのです。彼らの全身が清められ聖別されたのは、彼らの行いや功績によるのではなく、主の足洗い、すなわち十字架によってそうなったことを示されているのです。まだ十字架を背負われる前ですが、これから十字架を背負われることで、主に選ばれた者たちがどうなるかについての予告なのです。ですから、主の足洗いはお主と弟子たちの関係性を示しておられるのです。弟子たちは足を洗ってくださる主との関係性によって清められた者となった、ということです。弟子たちの熱心さ、功績、資格、業績などは、彼らの清さに少しも貢献できないことを示しておられるのです。
しかし主は弟子たちに「あなたがたも互いに足を洗い合いなさい」と言われましたね?それはどういう意味でしょうか?イエスのように互いのために死ねというのでしょうか?それは不可能なことだとよくご存じでしょう?その箇所で私たちが見逃してはならない重要な言葉が出てきます。
(ヨハネ13:14~15)
14わたしがあなたがたの主であり、また師であるのに、あなたがたの足を洗ったのです。だから、あなたがたも互いに足を洗い合うべきです。
15わたしがあなたがたにしたように、あなたがたもするように、わたしは模範を示したのです。
15節を見ると「模範を示した」という言葉が出てきますね?それが重要な言葉です。イエス様が弟子たちの足を洗うという模範を示され、そのままするように言われたということです。
イエス様が示された模範とは何でしょうか。聖徒の聖さ、聖徒の清さは双方の協力による働きによって達成されるのではなく、イエス様の一方的な犠牲である洗う行為によって達成されることを示されたのが、イエス様の足洗いなのです。洗う者はむしろ洗われる者よりも低く身を屈め、一方的に洗われる者に恵みが注がれるのです。それゆえイエスと弟子たちは互いに足を洗い合うのではなく、イエスが一方的に弟子たちの足を洗われたのです。では聖徒が互いの足を洗い合うべきとは何を意味するのでしょうか。イエスが模範を示されたように、私たちはイエスの一方的な功績によって清められた者であることを示すことです。「私はイエスの恵みがなければ決して清められることのできない存在です」という自覚こそが、相手の足を洗う行為なのです。そうして「私」という存在の無用さと不可能性が真に告白される人の内には、いったい何が現れるでしょうか?イエスの価値と栄光だけが現れるのです。それを自己否認というのです。世はそのような人々を見て何と言うでしょうか?愚か者、間抜け、弱者、意志のない者などといった非難を浴びせるでしょう。「私はこんな人間なのに、イエス様がこんな私をも救ってくださった」と示す者が、まさに足を洗う者ではありませんか?ですから当然、世はそのような人々を見て軽蔑と侮辱と蔑視を浴びせるでしょう。しかし、そうして相手の足を洗う者を見て、主を受け入れる者たちがいるとあります。
(ヨハネ13:20)
20まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしが遣わした者を受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。わたしを受け入れる者は、わたしを遣わした方を受け入れるのです。
これは世の世界観や価値観では到底不可能なことです。世の世界観や価値観は、足を洗う者たちなど目もくれません。しかし、そのような者たちを受け入れる変態たちがいるのです。彼らこそが聖徒なのです。つまり聖徒とは、天の目と耳を賜ったこの世の変種なのです。そうして「ただ主の恵みこそが私の生存と存在の根拠です」と告白する者たちが互いに向き合う時、どう接するでしょうか?互いに「私は罪人の中の罪人です」と告白しないでしょうか?そうして自らをこの世で最も低い者、罪人、みじめな者だと心から告白する者たちが、何に望みを置くでしょうか?膝を折り、自らの足を洗ってくださり、花嫁として清く洗い清めてくださった花婿だけを見つめ、その花婿だけを待つようになるでしょう。私たちがまさにその場所へと少しずつ降りていくのです。それがまさに目覚めている者の生き方なのです。そして彼らがまさに小羊の花嫁たちなのです。
その目覚めた生き方を皆さんが理解しやすいよう、聖書の中の例を見つけてもう少し具体的に説明しましょう。私たちの主が弟子たちを残して天に昇られる際、弟子たちに何をするよう言われたかから改めて始めましょう。今日の本文とよく比較しながら聞いてください。
(使徒1:6~11)
6彼らが集まっていたとき、イエスに尋ねて言った。「主よ、イスラエルの国を回復されるのは
今でしょうか」
7イエスは言われた。「時と期は、父がご自身の権威に委ねられている。あなたがたが知るべきことではない。
8しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受ける。そしてエルサレムと、ユダヤとサマリアと、地の果てまで、わたしの証人となるであろう」
9この言葉を終わられると、彼らの見ているところから天に上げられ、雲が彼を覆って見えなく
なった。
10昇られるとき、弟子たちは天をじっと見つめていた。すると、白い衣を着た二人が彼らのそばに立って
11言った。「ガリラヤの人たちよ、どうして天を見つめているのか。あなたがたの中から天に
上げられたこのイエスは、天に上って行かれたのと同じように、来られるのだ。」
この絵をよく見てください。僕たちが『ご主人様、いつお帰りになりますか?』と尋ねると、ご主人様は『私がいつ来るかは神様だけがご存じだ』とおっしゃいました。そしてご主人様は僕たちに何かを命じ、遠くへ去って行かれます。そしてそのように再び来られるのです。今日の本文のたとえでは「目を覚ましていなさい。私が戻ってきたらすぐに門を開ける準備をしておきなさい」と比喩的に表現されていますが、ここでは具体的にそのことが明らかにされています。
何でしょうか?「地の果てまで行き、わたしの証人となりなさい」です。今日の本文の内容と比較してみると、「目を覚ましていなさい。私が戻ってきたらすぐに門を開けることができるその場所にいなさい」という言葉と「地の果てまで行き、私の証人となりなさい」は同じ文脈の命令であることがわかりますね?そしてそれをヨハネ福音書の表現に変えると「私があなたがたに模範を示したように、あなたがたも互いの足を洗いなさい」です。それが証人だからです。
そして、そうして互いの足を洗い合う生き方をしていると、その生き方を通してイエス様を受け入れる者が現れると語られています。
しかし、今読んだ使徒行伝1章によれば、それは弟子たちが自らの力で成し遂げられる命令ではありません。「聖霊が降臨すれば」という前提が付いていますよね? では、弟子たちの命令遂行は誰の力によって成されるのでしょうか?聖霊の力によってなされるのです。したがって、目を覚ましている生活は、私たちの熱心や努力によってなされるのではなく、聖霊の働きによって成し遂げられるのです。聖霊の働きによって、彼らが小羊の花嫁であることが明らかにされ、そうして目を覚ましている者たちが発見される時、イエスの足を洗うという恵みがその場で現れるのです。なぜ主人が目を覚ましている僕たちに仕えるという箇所がこのたとえ話に入っているのか、お分かりでしょう?主人によって足を洗われた者たちが、目を覚ましている人生を歩むということを、そのように表現したのです。
そして加えて、そのように目を覚ましている人生、私たち自身の資格と熱心と業績と功労をすべて捨て去り、私たちの足を洗ってくださったイエスだけが明らかにされる人生が通路となって、イエスを主として迎える者たちがいるであろうと語られたのですが、それを使徒パウロがどのように表現しているか見てください。
(Ⅱコリント11:2)
2わたしは神の熱意をもって、あなたがたのために熱心に働いています。わたしは、あなたがたを、ただ一人の夫であるキリストに捧げるために、清く整えた処女として、お見合いさせているのです。
聖書は本当に隙がありませんね?パウロは、互いの足を洗い合う生活、自己否定の生活こそが、他の人々を主の花嫁として仲介する生活だと表現しています。つまり、主の功績のみに頼り、自分自身のあらゆる肉的な行いと功績を排泄物と見なす者こそが主の花嫁であり、彼らが花婿の到来を待ち焦がれ、目を覚ましている者だということなのです。そしてそのような主の花嫁たちによって、他の花嫁たちが仲介されているのです。つまり伝道とは、私たちの価値や人気や名声などを使って人々を教会に誘い連れてくることではなく、世の価値観では到底共にいたくない無力さと不可能性の領域へ、神の選ばれた者が抗しがたく引き込まれていくことなのです。
結論として、目覚めた聖徒は聖霊の導きによって、自らが築き上げた「私」という存在の価値と名声と人気と所有を少しずつ剥ぎ取られ、最終的には全てを剥ぎ取られ、「イエス様が全てであり、私は何もないのです」という告白をする場所へと引きずり下ろされるのです。それが足を洗われる人生となり、他の人々をイエスへと仲介する人生となるのです。それが生涯にわたって進行する聖徒の信仰生活なのです。
改めて申し上げます。聖徒は自分自身を啓発し、成熟させ、発展させ、アップグレードして神を喜ばせる者ではなく、「私は罪人の中の罪人です。主よ、私から離れてください」という痛切な告白をする者として低くならなければならないのです。しかし神は決してその人を離れません。
重要なのは、そのような人生が私たちの熱心さや努力や実力から生まれるのではなく、聖霊の働きによってのみ生まれるということです。平たく言えば、私たちの実力では死んでもできないことが、私の中に独り生きておられる私たちの神の働きによって、外にちらちらと現れてくるのです。だから、目を覚ましている者、人々を主に仲介する者、地の果てまで行き主の証人となる者たちの足を、主が洗われるのです。主が足を洗われた者たち、その主との正しい関係性の中で絶えず恵みを受けている者たちから、そのような神の熱意が爆発的に現れるのです。
このように聖徒は、イエス様の赦しの中で自らの存在価値と意義を見出すべき者であり、「私」という存在を中心に据え、赦しを私物化した形で自己を理解してはならないのです。
「私」を中心に「私の歴史」が囲まれ、その「私の歴史を抱いた大きな原因であるイエスの歴史が聖徒を覆い隠してしまうのです。それゆえ聖徒の歴史はすべてイエスの歴史に編入されるようになっています。それが恵みの場です。それがこの地に入り込んでいる神の国構造なのです。神の赦しの契約の中で、すべてが神の物へと溶け込んでしまう国、それが神の国です。私たちはつい、神が喜ばれる人生を生き抜いて神を喜ばせ、報いも受けようという、そんな立派な考えを抱きますが、人間はもともとそのような目的で創造されたのではありません。(エペソ1:11~14)11すべてのことを御心に従って働かせられる方の御旨によって、私たちはあらかじめ定められた者となり、その御心の中にあって、御国の相続者となったのです。12それは、キリストにあって、あらかじめ定められた私たちを、御栄えの賛美とするためです。13あなたがたも、真理のことば、すなわちあなたがたの救いの福音を聞いて、また信じて約束の聖霊をもって印を押されたのです。14これは、私たちの受け継ぐべきものに対する保証であり、神がご自身の栄光を賛美させるために私たちを贖い、ご自身の栄光を賛美させるためなのです。神はなぜ、ご自身の民を創世の前から予定して救われたのでしょうか?神の栄光を賛美し、賛美させるためです。ですから神は、私たちが善い行いを熱心に成し遂げて御心を喜ばせようと私たちを召されたのではなく、「神だけが私たちの存在の基盤であり、神だけが私たちの救い主である」という徹底的な自己絶望と自己否認の下での賛美を聞きたくて、私たちを創造されたのです。(イザヤ43:7)7わたしの名によって呼ばれる者、すなわち、わたしの栄光のために創造した者を、みなここに来させよ。わたしは彼らを造り、彼らを立てたのだ。私たちはなぜ創造されたのでしょうか?神の栄光のために創造されたのです。では、神はいつ栄光を受けるのでしょうか?私たちの賛美の中で栄光を受けるのです。平たく言えば、神は私たちが被造物の立場に身を置き、神の偉大さを余すところなく現すその場で栄光を受けるのです。その時、聖徒の中から神の属性である謙遜の勝利が溢れ出るのです。それがまさに栄光です。その賛美がどのような賛美なのか、もう少し明確に記されている箇所があります。(エペソ1:3-6)3私たちは、私たちの主イエス・キリストの父である神を賛美します。神は、キリストにおいて、天にあるすべての霊的な祝福をもって私たちを祝福してくださいました。4すなわち、創世の以前、キリストにおいて私たちを選び、愛のうちに御自身の御前に聖く傷のない者としてくださるため5御心のままに私たちを定め、イエス・キリストによって御自身の子供としてくださったのです。6これは、御自身の愛する方において、私たちに賜られた恵みの栄光を賛美させるためです。非常に重要な箇所です。よくご覧ください。神が私たちを創世の前から予定し、選び、御子とするのは、私たちを聖く、傷のない者とするためです。そこには、私たちが聖くなく、傷のある存在であるという前提が含まれているのです。彼らを聖く、傷のない者とし、神が栄光と賛美を受けることが、創造の目的であり、救いの目的なのです。しかし、私たちを聖く、傷のない者とする方法は「愛のうちに、キリストによって」です。そうでしょう?ある人々が語るように、救いを受けた後に聖徒が聖く傷のない立場へ懸命に努力して進むのではなく、初めから終わりまで全て「キリストのうちに、彼の愛のうちに」成し遂げられるということです。そしてそれを恵みと呼び、その恵みはただで与えられるものだとしますよね?ですから聖徒はキリストの中に、神の愛の中にあって聖く、傷のない者となるのです。そしてそれは私たちの功績や業績、熱心による貢献なしに、恵みによってただ与えられるものだから、そこから感謝の賛美が湧き出るのです。そしてそのようなへりくだりの立場において、神の属性であり神の国における生活の原理である、へりくだりの中の勝利が溢れ出るのであり、それが神の栄光、独り子なのです。神はまさにそれを目的として御子たちを救われたのです。
ところが私たちは、自分たちが立派な存在になって神を喜ばせようと言います。それは神を賛美することではなく、神から賛美を受けようとする非常に悪い考えなのです。
それが聖書を単なる文字としてしか見ない人々の誤りなのです。水曜礼拝の時にも少し触れましたが、聖書は文字で書かれていますが、文字の層だけで理解してはならない書物です。聖書は神の国についての啓示です。啓示は人間の言語の限界の中で人々に記録され伝えられますが、その文字は神の国における秘密を黙示として内包しています。ですから啓示は文字そのものではなく、その中に込められた真意によって解釈されなければならないのです。ところが主は、その聖書全体が「私」について、すなわち主ご自身について記されているのだと繰り返し語られました。したがって聖書はイエス・キリストによって解釈されなければ、いかなる解釈も誤りであり曲解なのです。しかし聖書の真意は聖霊が臨んだ者にのみ示されます。ゆえに聖霊が臨んだ者たちは聖書を見ながら、その中に神の恵みを見出すのです。ところがイエスを信じると言いながら、聖霊によって真のイエスを信じる者ではなく、宗教としてのキリスト教を信じる者たちは、聖書を単なる文字としてしか見ることができません。それゆえ聖書全体を神の律法として見るようになります。聖書全体はイエス・キリストの十字架と神の恵み、そして被造物の塵のような存在についてのみ記しているのに、聖書を文字通りにしか見ると「これをすれば祝福が与えられる、あれをすれば罰を受ける」といった律法的な教訓が込められた道徳書としてしか見えなくなるのです。それが目と耳に割礼を受けていない者たちの誤りなのです。
神がイスラエルに預言者たちを遣わされた時、なぜ「行って彼らの目と耳を塞げ」と語られたのでしょうか。神の言葉の中で神の恵みと愛を聞かず、「守らなければ殺す」という苛烈な暴君の声を聞く者たちは、神の恵みの外にいる者たちであることを明らかにされるという御言葉なのです。そして彼らは必ず地獄に投げ込まれるという神の意志の表明なのです。神は全歴史を包括し、そのようにして御自身の選ばれた民と捨てられた民を区別なさるのです。
考えてみてください。アダムが神の言葉を単なる文字通りの律法として考えた時、何が起こりましたか?自ら神から離れてしまったではありませんか?神の言葉が律法となれば、人間は自ら神を離れ、自らを地獄に投げ込むほかなくなるのです。善悪の知識の木の実を食べてはならないという神の命令は、「食べれば殺す」に焦点があったのではなく、「たとえあなたがたが私の命令を守れなくても、私の赦しと恵みがあなたがたに臨み、あなたがたは生きるであろう。それがまさに無償で与えられる命の木なのだ」というメッセージが込められていたのです。そこから感謝の賛美が湧き上がり、その賛美の中に神の栄光が現れるのです。そして実際にそうなったではありませんか?
同じことです。神はイスラエルに旧約聖書を与えました。それを律法とも呼びますよね?その中には数多くの「せよ」「するな」という命令が入っています。そしてそれを守らない時には呪いを受けるという恐ろしい警告が常に付随しています。しかし皆さんもご存知のように、旧約の律法と祭祀は人間に守れと与えられたものでしたか?律法と祭祀はエデンの園の善悪の知識の木と命の木の実をそのまま移したものであると言いましたよね?律法、すなわち善悪の知識の木は、人間が食べない選択ができるものではなく、食べざるを得ないものでした。しかし神様は、恵みの実、すなわち小羊の身代わりの犠牲をすでに用意しておかれ、その小羊の犠牲によって死ぬべき者たちが恵みによって生き返るという新しい創造の御業が起こることを、その中に込められていたのです。ところがイスラエルはその律法、聖書を文字通りに解釈しました。その結果、何が起こったでしょうか?イスラエルは律法を守ろうと立ち上がったのです。そこで、もどかしい神様が直接降りてきて『子供たちよ、あれは守れと与えたのではなく、それを通して私のもとに来て降伏せよと与えたのだ』と親切に説明してくださったのです。すると、聖書を文字だけ見た者たちが、その聖書を与えた神様を打ち殺してしまいました。
同じことです。新約聖書もまた文字通り、律法として見るならば、聖書全体が私たちにとって重荷となります。到底不可能なことを神は繰り返し守るよう強調なさっているではありませんか?
皆さん、私たちは聖書を通してイエスへと進むのであって、私たちの熱心と努力を発揮して神も感動される結果を生み出すのではありません。それが聖書によってかえって目と耳が塞がれてしまった哀れな人々なのです。預言者たちが神の言葉を伝えながら「守らなければ呪われる」と言った時、「そうだ守らねば」と立ち上がった人々が目と耳が塞がれた人々だったということを決して忘れないでください。これについては少し補足説明が必要ですが、私が来週非常に詳しく説明いたします。
さて、聖霊を受けていない者たちがなぜ聖書を律法としてしか見られなくなるのかというと、人間の言語そのものがまさに律法、正誤を内包しているからです。例を挙げましょう。時々、男子トイレにこんな言葉が貼ってあるのを見かけます。「男が流すべきでないものは涙だけではない」小便器の前にこんな言葉が貼ってあるということは、「絶対に床に流してはいけない」という法がその中に含まれているのです。そしてそこには「流せば悪、流さなければ善」という判断が既に組み込まれているのではありませんか?しかし、それがそう判断されるためには、人間たちの社会的合意が必要です。人間たちが歴史を通じて合意してきたことによって、ある行為は善と判断され、ある行為は悪と規定されることもあります。ところで、そのような人間たちの社会的合意の背景には、人間たちの社会的行動と習慣とパターンがあるのです。そのような人間たちの習慣とパターンと行為によって、人間たちは互いに合意を導き出し、それによって言語と文字を生み出すのです。
しかし重要なのは、人間の行為と習慣とパターンがどこから生まれるかです。それは人間の心の中から生まれます。しかし全ての人間は、「私」という存在の「神のような」人生を達成するために、欲望する心を持っています。それゆえ神は、万物の中で最も汚れたものは人間の心だとおっしゃったのです。つまり、善悪の知識の木の実を食べて堕落した人間たちは、自らの欲望を達成するために行為を行い、そうして各自から生じた行為から合意を導き出します。なぜなら人間の行為とは、すべてが神のようにありたいと願う「私」という存在の利益のための行為であるため、すぐに合意が成立するからです。そして人間たちはその行為に正当性を与えるために、それを法制化します。つまり人間の法とは、行為を正しく行うために作られたものではなく、人間の行為に正当性を与えるために作られたものと言うべきです。人間たちが「神のように」という自らの価値と地位を守るために立派な行為を行い、自分たちが善だと合意したものを法という確認印を押してしまうのです。「これは正しく、これは間違っている」素晴らしいでしょう。そうして法が作られると、その法によって
文字と言語が孕まれ、出産されます。
したがって聖書を文字だけで読む人々は、その中から人間の行為の正当性だけを見つけ出そうと血眼になるのです。
人間の認識というものは、時間的限界性と空間的限界性の中に閉じ込められています。世宗大王が六歳の誕生日に何をしたか、私たちは知りませんよね?時間的限界性です。そして今この時間、ネパールに住む9歳の「デマン」という子が何をしているか、私たちは知りませんよね?空間的限界性です。したがって、こうした時間的・空間的限界性に閉じ込められた人間の認識で聖書を文字通りに解釈するということ自体が言語道断です。そうして聖書は、聖霊の助けなしには絶対に理解不可能な神の啓示なのです。ですから聖書を学びながら、その中からイエスだけ、十字架だけを取り出して伝えると、人々は怒るのです。なぜ『私』がそこにいないのか、ということです。皆さん、もともと神の救いの歴史の過程の中に、人間が割り込む隙はありません。初めから終わりまで神の御業なのです。ですから主はこの世に残された御自身の民に、このように祈りを教えられたのです。
(マタイ6:12~13)
12わたしたちが、わたしたちに罪を犯した者を赦したように、わたしたちの罪も赦してください。
13わたしたちを試みに遭わせないで、ただ悪から救い出してください。
皆様がよくご存知の、主が教えてくださった祈りの一部です。これは今、救われた聖徒たちがこの世を生きながらなすべき祈りなのです。では、救われた聖徒はすでに罪の赦しを受けた人々なのでしょうか?では、なぜ「私たちの罪をお赦しください」という祈りをしなければならないのでしょうか。ある人々の主張のように、イエス様は十字架によって私たちの原罪のみをお赦しになったので、自犯の罪は引き続き赦しを受けなければならないという意味で、「私たちの罪をお赦しください」という祈りをしなければならないのでしょうか。いいえ。イエス様の十字架において、私たちのすべての罪はすでに赦されています。
以前、主の祈りを講解した際、主の祈りの中に使われている動詞が全て過去形であることをお話ししました。ギリシャ語には不定過去形(アオリスト)というものがあります。この不定過去形は、過去の単発的な特別な(specific)出来事を指すものです。しかしこの不定過去が命令形(imperative)で使われる場合、過去の意味と現在の意味と終末論的意味(eschatological meaning)を同時に含んでいると説明しましたね?したがって私たちが「御国が来ますように」と祈る時、その御国は既に到来し、到来しつつあり、必ず到来するという意味が全て込められているのです。
では、私たちが「私たちの罪をお赦しください」という祈りを捧げる時、その中に込められた内容は何でしょうか?私たちの罪はすでに赦され、赦されつつあり、完全に赦されるであろうという過去・現在・未来の時制がすべて凝縮されて、その祈りの中に含まれているのです。つまり、聖徒はすでに赦された存在ですが、この世の現実の中でも、赦しと赦されるという赦しの構造(枠組み)の中に置かれているということです。すでに清められた者たちが、引き続き足を洗われる構造の中で生きるということなのです。しかし「私たちの罪をお赦しください」という前提に何が付け加えられているかと言えば、「私たちが私たちの罪をお赦ししたように」と付け加えられています。まるで私たちが私たちに罪を犯した人々を赦したことを模範として、そのような方法で私たちの罪を赦してほしいという要求のように見えませんか?違います。それはこの主が教えてくださった祈りを最初に受けたユダヤ人たちの状況で理解しなければなりません。
ユダヤ人の律法は「目には目を、歯には歯を」の原理で罪に対処するよう定められています。罪という行為には必ず報いが伴います。殺人を犯した者、姦淫した者、親に不孝な者、全て石打ちの刑に処されるのです。むしろ処刑しなければ律法に背くことになります。ところが、私たちに罪を犯した者を赦す時代が来たのです。どうして律法の時代は終わりを迎えたのでしょうか?イエス様の十字架の出来事によって、すべての律法が完成し、今や律法の定罪が無効となる時代が来たのです。それゆえ、殺人を犯した者、姦淫を犯した者、安息日を破った者、親に不孝を働いた者など、石打ちの刑に処されるべき者たちが、律法の定罪から逃れ、生き延びることができる赦しの時代が開かれたのです。イエス様の十字架によって、行いの量に応じて罰を受け、報いを受けるという律法の時代は終焉を迎えたのです。それと同じように私たちが赦され、それと同じように私たちが赦されていることを告白するのが、「私たちが私たちの罪を赦してくださったように、私たちの罪を赦してください」という祈りの真意です。ですから、その祈りは赦しの請願というよりも、赦しの時代が開かれたという宣言であり、そのような赦しの時代の中で恵みによって救われている聖徒の現実に対する自覚なのです。それを忘れないようにしてくださるという祈りなのです。私の行いは神の御業によって覆われ、すでに善悪の意味を失った行為であることを忘れないようにしてくださるという祈りなのです。
では、その直後に続く「試みに遭わせないでください」とは、どのような意味の祈りでしょうか?
そのような赦しの構造の中で、無償でただ与えられる救いの意味を歪め、薄める試練が必ず私たちの生活に降りかかるということでしょう。神は決して私たちをそのような試練に放り出したりはなさらないのです。私たちは数えきれないほどその試練に失敗しますが、結局神は神の恵みを称える御民の賛美を受け取られるのです。だからこそ「試みに遭わせないでください」が否定過去形なのです。しかし試練は存在します。私たちがすべての罪から赦されたにもかかわらず、あまりにも頻繁に主の赦しを忘れ、自らの行いで赦しの座に就こうとする行為をどれほど繰り返すでしょうか?それがまさに試練なのです。私たちはその度に赦され、その度に試練から出てくるのです。だから主の祈りの祈りは否定過去でありながら、請願の形をとっているのです。完了はしているが、生活の中でその完了が毎瞬経験される、そういう形を言っているのです。まさにそのような赦しの構造を忘れ、度々自分の行いによって、律法を守ることで神の義に到達しようとするのが悪なのです。神は私たちをその悪から救い出してくださるのです。それが「ただ悪から救ってください」です。
そうして私たちは度々試練に陥ります。神の恵みの場から抜け出し、私たちの力と知恵と熱心と努力、そしてこの世の財産の獲得と蓄積などで、赦しと救いと幸福の場に入ることができるかのように生きています。聖書は、そのような試練を神が与えられると語っています。しかしその試練は、滅ぼそうとして与えられるものではなく、自らの無力さと無能さを認め、神の恵みの場へ入るよう招く恵みの試練なのです。
(伝3:18)
18私は心の中でこう言った。「神は人の行いを試される。それは彼らが
自分たちが獣と何ら変わらないことを悟らせるためである。」
これを見てください。私たちは人生という試験場を通過しながら、自分が何者であるかを悟るようになっているでしょうか。獣であることを悟るようになっているのです。それは、私たちが常に神の試練の中で罪ばかりを注ぎ出す者として暴かれるということなのです。したがって、その試練は神が完成させてくださらない限り、到底通過できないような試練なのです。それゆえ、私たちの主がその試験を通過され、私たちに無償で転嫁してくださったのです。その赦しの現実を学び、悟っていくことが信仰生活というものです。そこから賛美が湧き出るのです。「私は獣であり、神は王であられる」しかし、「私もこれくらいならよくやっているでしょう?」という傲慢から、いったいどんな賛美が出るでしょうか?
このように聖徒の祈りは「神よ、私たちが神の恵みの構造の中でただで救われたことを忘れ、驕り高ぶって神の前で巨人となり、ネフィリムとなり、勇士となり、有名な者とならないようにしてください」と要約されなければなりません。それにもかかわらず、私たちは頻繁に赦されるべきことを犯して苦しみ、頻繁に試練に陥り、神の赦しとその方の恵みを色あせさせてしまいます。それゆえ結局、私たちは「私は獣です」という告白と共に、すべてを剥ぎ取られ、空っぽの手で十字架の前に進み、神の十字架だけをしっかりと握ることになるのです。そうして私たちが獣の座へと降りていく中で、私たちの内からは罪だけが溢れ出てきます。しかし聖霊が私たちと共におられ、そのような卑しめられる道において赦しの意味を深く悟らせ、試練の意味を見抜かせ、傲慢な立場から押し出されることで、神が喜ばれる者として押し下げられていくのです。
ところが、そうして神が喜ばれる者となるほどに、その人の口からは「私は罪人の中の罪人です」という告白が心から溢れ出るというこの逆説を、皆様が理解されなければなりません。
皆さん、とはいえ私たちの本質が変わるわけではありません。罪人としての私たちの本質が異なって変わるのであれば、ローマ人への手紙1章に出てくるあのリストが決して再び現れてはならないのです。本質が変わったからです。一度見てみましょうか?
(ローマ1:28~32)
8また、彼らは心に神を置くことを嫌ったため、神は彼らをその迷った心に従って見捨て、不適切なことを行わせられた。
29すなわち、あらゆる不義、卑劣、貪欲、悪意に満ちた者、妬み、殺人、争い、詐欺、悪意に
満ちた者、陰口を言う者、
30誹謗する者、神に憎まれる者、侮辱する者、高慢な者、自慢する者、悪を企てる者、親に逆らう者、
31愚かな者、背信者、無情な者、無慈悲な者です。
32彼らは、このようなことを行う者は死刑に値すると神の定めを知りながら、
自分たちだけが行うだけでなく、またそのことを行う者を正しいと認めるのです。
このようなものが、今もなお私たちの内から出てきていませんか? そうであれば、救われたからといって、私たちの肉の性質が変わったわけではないことがわかりますね?そのような望みのない肉の性質を依然として持つ私たちの内に聖霊が入り、時折その方が私たちの外へ溢れ出る時、私たちの生活の中に生ける姿が現れるに過ぎません。重要なのは、後にその肉がすべて剥がれ落ち、その内に住まわれる聖霊によって完全に支配された者として私たちが完成されるということです。そうして聖徒は、死者の生と生ける者の生を絶えず経験しながら、死とは何か、生きるということとは何かを正しく学び、その死がどのように生へと変えられていったかを恵みの中で学ぶのです。
このように理解していただければ結構です。放蕩息子の父が、息子を世の中へと放り出し、その息子に自身の実体を正確に見る目を持たせたでしょう?その時、その息子に誰が切実に思い浮かびますか?父です。父の家の内で父の恵みによって生きることは、どれほど幸せなことだったかをようやく悟るのです。ところがその父が、その資格のない者を無償で赦してくださるのです。その時、放蕩息子から溢れ出るものが父への賛美なのです。神様はそれを望んでおられるのです。しかし長男はどうでしたか?父の律法を完璧に守りました。しかしその守り全てが自分の力となってしまいました。ついには自分のその優越感で父までも弾劾してしまうのです。「どうしてこんな風に事を処理するのか」と。
見てください。人間は律法を守ると、即座にそれを自分の力として蓄積してしまいます。そしてそれで自分の弟との差異性を確保するのです。もしその差異性を認めない時、それが父であっても即座に弾劾してしまうのです。なぜこんな風に物事を進めるのか、ということです。
神は長子のような者を求めておられるのではありません。熱心に父の言うことを聞き、自らの価値と栄光を手にし、他者との差異性を示し、父さえも教えようとするような者を求めておられるのではありません。放蕩息子のように、父の恵みと愛の深さを悟り、その前で塵のように降伏する者を求めておられるのです。では私たちは放蕩息子のように食べ飲み遊びさえすればよいのでしょうか?それはできません。
(ローマ6:1-2)
1それでは、私たちは何を言おうか。恵みを増すために罪の中に留まるべきだろうか。
2それはできません。罪に対して死んだ私たちが、どうしてその中になお生き続けられましょうか。
使徒パウロはそれはできないと言います。ではどう生きろというのか?次回詳しく説明します。
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