Kairosを生きる人々

たとえ(26)救いは執行猶予ではなく赦免です. 본문

講解説教/譬え(たとえ)

たとえ(26)救いは執行猶予ではなく赦免です.

cocoa 2026. 3. 9. 14:40

 

 

 

たとえ(26)

救いは執行猶予ではなく赦免です

 

(ルカ13:6~9)

6そこで、たとえを挙げて言われた。「ある人がぶどう畑にいちじくの木を植えた。来て実を探したが、見つからなかった。

7ぶどう園の番人に言った。『三年も来て、このいちじくの木に実を求めているのに、得られない。切り捨ててしまえ。どうして無駄に地を占めているのか』

8番人は答えて言った。『ご主人様、今年だけお許しください。私が周りを掘り返し、肥やしを施します。

9その後、もし実を結ぶなら結構ですが、そうでなければ切り捨ててください』と。

 

法律用語の中に執行猶予というものがあります。

裁判官が被告に有罪判決を下した後、一定期間刑の執行を保留し、その期間を何事もなく誠実に無事に過ごせば、宣告の効力がなくなることを指します。

仮に執行猶予を宣告された被告がその期間中に別の罪を犯したり、法律に抵触する行為をした場合には、直ちに猶予されていた刑が執行されます。

 

多くの方々が聖徒の身分を執行猶予状態の被告と考えているようです。

神様が十字架の恵みによって一旦刑の執行を猶予してくださったものの、その執行猶予期間中に善い行いを多くし罪から遠ざかる生活を送らなければ、いつでもその執行猶予は無効となり刑が執行される可能性がある、という救いに関する誤った理解が広く蔓延しています。

それゆえ、今日の本文のたとえ話も、あたかも神様が実を結ばない、すなわち切り倒すべき無花果の木に対する刑の執行を一年間延期してくださった出来事程度に解釈する人々があまりにも多いのです。

あたかも執行猶予の期間中に懸命に努力して実を結ばなければ、斧によって切り倒されるという残酷な刑の執行が行われるという脅し用のたとえとして理解しているのです。

そのため教会内にも、労苦し重い荷を負いながらも、時にその荷を背負わせてくださった神を恨みつつ、無理やり熱心な宗教行為や強引な善行を作り出す人々があまりにも多いのです。

 

 

私が軍隊を除隊し復学する前に、KBS大学歌謡祭に冗談半分で出場したところ、予想外に大賞を受賞する事件(?)がありました。

ところが大賞を受けて翌日学校に行くと、教授方や先輩方の目つきが尋常ではありませんでした。

当時は威圧的な軍事政権時代だったため、学生たちの反政府デモが絶えなかった時期でした。

ところが、全ての学友が政権打倒を叫び、さらには焼身自殺までしている時に、ある奴が国営放送局が主催する大学歌謡祭に出て大賞を受賞したのです。

教授や先輩方の強い引き止めと妨害で、私は放送活動をほとんどできなかったため、歴代大学歌謡祭大賞受賞者の中で最も無名な人物となりました。

その頃、キリスト教放送局のプロデューサーとして働いていた先輩の依頼を受け、その先輩の番組にレギュラー出演することになりました。そのコーナー名は『キム・ソンスのコ・ポップス』というコーナーでした。

当時有名な英語講師だったパク・ヒョンヨン氏と共同で進行していたコーナーで、熱心なリスナーがかなり多かったコーナーでした。

 

リスナーのエピソードも紹介し、私が毎週ギターを弾きながらリスナーのリクエスト曲をその場で英語にアレンジしてライブで歌ってあげる、そんな番組でした。

当時、私はまだ大学を卒業する前だったので、アルバイトがてら一生懸命放送をしていました。

そんなある日、数日前に世を去られた有名デザイナーが私を必死に探しているという知らせを放送局のPDから聞きました。

当時はケーブルテレビの制作環境があまり良くなかったため、ラジオ番組を生で収録してケーブルテレビに流すことが多く、私たちの番組にも毎回ケーブル局のカメラが入っていました。

そして二時間ずっと私が放送する場面がテレビで中継されていたのです。

それをその方がご覧になったのです。

後で連絡を取り会ってみると、私がキム・ヒョンシクさんの『愛していました』という歌を英語で歌うのを聞きながら、本当に声をあげて号泣されたとおっしゃいました。

そして、ご自身のファッションショーのフィナーレに来て、ライブで歌ってほしいとおっしゃいました。

私は快く承諾しました。

ところが、歌うのはあなたが最も好きな歌でなければならないとおっしゃいました。

その歌は詩人ヤン・ジュンヘ氏が作詞した「去りゆく船」という歌でした。

長い間、その歌を心に響く切なく歌ってくれる人を探していたが、まさに私がその人だったのです。

そしてご自身が構想した伴奏アレンジを書き留めたノートまで私に見せながら、すぐに録音しようとおっしゃったのです。

当時オーストリアで演奏活動中だった韓国最高のトランペット奏者が飛行機で駆けつけ、その方が知り合いのオーケストラメンバーが多数招集され、ついにその曲を録音することになりました。

その方がその曲にどれほど愛着を持っていたかというと、曲の冒頭に入る波の音を自ら東海まで行って録音してこられたほどでした。

トランペットのイントロが響き渡り、私が歌い始めた時、その方は録音室の外でずっと泣いていらっしゃいました。

 

 

歌の録音が全て終わり、それがCDとして発売されることになりました。

そうしているうちに、私はその方と何度か会い、ファッションショーに関する相談もしたり、日常の話を気軽に交わすような間柄になりました。

そんな中、私はその方がその歌をそれほど好きな理由について聞くことになりました。

自分は幼い頃から人をとても好きだったそうです。

しかし、いつも裏切られ、自分は常に被害者として残されることをあまりにも頻繁に経験してきたとおっしゃっていました。

そんなある日、あの『去りゆく船』という曲を聴きながら、こんな考えが浮かんだそうです。

「私が人々に捨てられるのは、今の私に何かが足りず、不足しているからだ。

今からでも一生懸命努力して、去りゆく船の歌詞のように、私がこの世を去る時に、世の中が私の不在をあまりにも惜しみ、悲しむほどに、もっと善良で、もっと立派な人間にならなければ」それがその方の人生の目標でした。

立派な人生目標でしょう?

そうして人生の目標を決めてからは、人々に無礼な言動を絶対に慎み、どれほど経済的に苦しくても貧しく哀れな人々を助けることをやめず、全世界から愛される立派な人物になるために刻苦勉励したと語られています。

そしてその歌を頻繁に聴き、その歌を聴くたびに、自分がこの世を去った時に、自分の死を悲しみ、慕う人々を思い浮かべ、感動の涙を流したそうです。

そうして一生懸命に善良に生きれば、人々から認められることもでき、極楽往生もでき、少なくともこの世より良い生に生まれ変われるという確固たる信仰が彼にはあったのです。

だからその度に、より善良でより立派な人間になるために、不断の努力を誓われたそうです。

 

 

CDが発売された日、私はその方にCDをお届けしに行かなければなりませんでした。

しかし、なぜかただ渡すだけでは気が進みませんでした。

当時、私は教会で伝道爆発訓練という研修を受け、青年部を対象とした伝道爆発訓練の講師を務めていました。

そこで毎週、教会の前にある高速バスターミナルに出て、「もしあなたが今夜この世を去るなら、天国に入り永遠の命を得ることを確信していますか?」という福音提示質問1番を皮切りに、毎週少なくとも数十人に福音提示をし、決心祈りまでさせていた熱心な指導者でした。

そこでCDのジャケットに長文の手紙を書き、その手紙と共にCDをお渡しすることにしました。

その手紙の内容は、おおよそ以下の通りです。

「先生、人がこの世を去ると、その人を待つ二つの世界があります。そこが天国と地獄です。

先生は私に、この世で善良に生き、他人に害を及ぼすような生き方をしなければ、世の中が先生を尊敬し愛し、長く長く記憶してくれるでしょう。その功績により、先生は極楽に行けるとおっしゃいました。

私はイエスを信じる者です。

聖書から学んだことですが、人がどれほど善良で立派に生きても、イエスの十字架を信じなければ絶対に天国には行けないと学びました。

なぜなら、すべての人間はエデンの園におけるアダムの中で、神が禁じられた善悪の知識の実を食べて死刑宣告を受けた状態だからです。

人間はイエス様の十字架の恵みに頼らなければ、絶対に天国に行くことはできません。

私が願うのは、先生のように善良な方が私のようにイエスを信じて、必ず天国に一緒にいられることです」私はこのような手紙をCDと共に差し上げました。

 

 

数日後、その方から電話がありました。

「キムさん、キムさんがおっしゃることはよくわかります。キムさんの言う通りなら、私たち人間は今、執行猶予状態なのですね。善悪の知識の実を食べて死ぬべき者たちが、まだ刑が執行されていないから生きているわけですから。しかし、どんなに恐ろしい神様でも、その執行猶予期間中に人間たちが善良に正しく生き抜けば、当然お赦しくださるべきではないでしょうか?」これがまさに人本主義です。

私はその方に即座に答えました。

「先生、先生がおっしゃる通り、全ての人間は今まさに執行猶予の期間を生きているのです。

そしてその期間に裁判官が望む水準の善良で善い人生を良く生き抜けば、当然天国に行けるのです。

聖書はそれを律法と呼んでいます。

しかし問題は、天の裁判官である神に死刑宣告を受けた人間たちは、どれほど善良で善い人生を生き抜こうとも、その裁判官である神が望む水準の善良な人生を生き抜くことはできないということです。

その方は完全な聖さを望まれるからです。

ですから人間は誰かの助けを受けなければ、皆が死刑執行場で最期を迎えるほかないのです。

だからこそ私たちは、私たちの罪を代価なしに赦してくださったイエス様の恵みの福音を信じなければ、執行猶予の状態から完全赦免の状態へと進むことができるのです。

’ そしてそれ以上の返答はなかったのです。

 

 

その方は今やこの時の世界から離れ、永遠の世界へ入られました。

その永遠の世界には天国と地獄のみが存在します。

その方がどこへ入られたかは神のみがご存知です。

しかし、生きている間に神の言葉を通してイエス・キリストの赦免令を感動のうちに聞けなかった者たちは、どれほど熱心に執行猶予期間をよく生き抜いたとしても、必ず死という刑の執行場所へ向かわねばなりません。

この世のすべての人間は皆、死という死刑宣告を受けて生きている、執行猶予期間を生きている者たちなのです。

しかしその執行猶予は、人間の行いでは絶対に刑を免れることのできない、運命的で限定的な執行猶予なのです。

その終わりには必ず死という刑が執行されます。

しかしその執行猶予の期間中に、天から赦免令を受ける人々がいます。彼らを聖徒と呼ぶのです。

 

 

皆さん、トム・ハンクス主演の『グリーンマイル』という映画をご覧になったことはありますか?グリーンマイルとは、死刑囚が閉じ込められている刑務所から死刑執行場までの緑色の床を「グリーンマイル」と呼ぶのです。

死刑囚がいったんその緑色の床に足を踏み入れると、一歩一歩がすべて死への歩みとなるのです。

この地に生まれるすべての人間は、皆そのグリーンマイルの上を一歩一歩歩んでいるのです。

平たく言えば、毎日毎日死んでいるのです。

そしてそのグリーンマイルで最後の歩みを踏み出す瞬間、全ての人間は永遠の死という刑の執行を受けることになります。

つまり厳密に言えば、全ての人間が置かれている状態は執行猶予ではなく、刑執行場へと一歩一歩向かっている状態なのです。

ところが、看守たちに捕らえられて刑執行場へ向かっている途中、赦免令を持った特使が訪れ、「お前、お前、お前、赦免だ」と言ってその場で手錠と縄を解いてくれたと想像してみてください。それが救いなのです。

今日の本文はまさにその話をしているのです。

 

 

今日の本文は、エルサレムで起きた凄惨な悲劇に関する話の後につけられたたとえ話です。

 

エルサレムの神殿にガリラヤの人々が祭祀を捧げに来ていたようです。

ところが何があったのか、ピラトが、祭祀を捧げていた彼らをその場で殺してしまったのです。

そのことで祭壇の上の供え物に、祭祀を捧げていた人々の血が混ざってしまったのです。

考えてみてください。礼拝していた人が突然、天井から落ちてきた照明に当たって死んでしまったのです。

皆さんはそれを見て、どんなことを思うでしょうか?「あの人がどんな罪を犯したから、神様にそんな罰を受けるのか?」と思わないでしょうか?人々はまさにその疑問を持ってイエス様のところに来たのです。

 

(ルカ13:1)

1ちょうどその時、何人かが来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らの犠牲の血に混ぜた事件をイエスに告げた。

ここで「その時」とは、ルカ12章の「あなたがたは天と地の兆しを見分けることができるのに、どうしてこの時代を見分けることができないのか」というイエスの叱責が響いたまさにその時を指します。

イエス様は、ご自身がこの世に来られた理由は火を投げ込むためだとおっしゃり、その火が落ちれば旧約の記述通り、ある者には裁きの火となり、ある者には救いの火となるのに、なぜ人々は天の裁きと救いには関心を示さず、天地の気象で読み取れる日常のことばかり気にしているのかと嘆かれたのです。

ですから、イエス様はまるでポンプの始動水のように、この世の火による裁きの始動火となるため、十字架を担うためにこの地に来られたのです。

そして、ルカによる福音書12章の最後に、このようなお言葉を述べられています。

 

(ルカ12:58~59)

58 あなたが訴えられている相手と共に裁判官のもとに行くなら、道中で和解するよう努めなさい。相手があなたを裁判官に引き渡し、裁判官が役人に引き渡して牢に閉じ込めることのないように気をつけなさい。

59あなたに言っておく。ホリ(ローマの最小貨幣)一つでも残らず返さなければ、決してそこから出て行けないであろう。

と仰せになりました。

今は天地の気象に関心を持ち、日常に心を留めて生きる時ではなく、あなたを訴えに来るその訴え主と和解することに力を注ぐべき時なのです。

なぜなら、あなたを訴える者はホリ(ローマの最小貨幣)の寛容ささえ持たない方だからです。訴える者が望む通りに完璧に、訴える者の心にかなわなければ、あなた方は皆死ぬのです。

だから、あなた方が唯一生き残る道は、訴える者と和解することしかないのです。

ここで訴える者は当然イエス・キリストです。

そして続く話がエルサレム神殿での虐殺事件とシロアムの塔の事件です。

 

 

当時ユダヤ人たちはサマリア人たちと共にガリラヤのナザレの人々を非常に軽蔑していました。

サマリアは紀元前721年にアッシリアのサルゴン2世によって居住地を完全に占領され、2万7千人の北イスラエルの核心人物たちがメソポタミア北部に連行され、アッシリアとバビロンとハマテの人々が北イスラエル地域に移住して血統が混ざってしまったような場所であったため軽蔑されていたのです。ガリラヤのナザレは異邦との国境地帯として貧しく無礼な者たちが住んでいた場所として知られていたため、軽蔑し侮っていたのです。

それゆえ、フィリポがナタナエルにイエス様を紹介した時、ナタナエルが「ナザレから何の良いものが出るだろうか」と反問したのです。

聖書はルカによる福音書13章の冒頭で、そのガリラヤの人々と彼らを軽蔑していたエルサレムの人々を共に登場させます。

そして、その二つの地域の人々の予期せぬ死を物語の主題として取り上げます。

ガリラヤの人々は祭祀を執り行っている最中に異邦人の剣に倒れ、エルサレムの人々はヒゼキヤが戦争のためにギホン泉から引いて作ったシロアムの池のほとりで水路工事をしていたところ、シロアムの池を見張っていた見張り台に押し潰されて死んだのです。

どちらも異邦人の暴君の型であるピラトが関与した事件です。

 

主は彼らの死の本質が罪の軽重や多寡とは何ら関係がないと力強く強調なさいます。

なぜなら罪というものは、多寡の区別や大小の区別、そして重軽の区別によって罰が変わるものではないからです。

すべての罪は神の前での罪であり(詩篇51)、その罪は多少や軽重の区別を問わず、すべて死刑に処されるのです。

したがって、生きていてほのかな罪でも犯した者は全員死刑なのです。

それは、すべての人間は自動的に地獄に落ち、永遠の死に処されなければならないという意味です。

それが神の恵みが加わらない塵たちの運命です。

それにもかかわらず、彼らはあたかもその地獄の刑罰とは全く無関係な人々であるかのように、他人に降りかかる不幸や悲劇を罪と結びつけて論争すること自体が愚かな行為なのです。

主はそのような者たちに大いに怒り、こう言われます。

 

(ルカ13:5)

5あなたがたに言っておく。いや、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びるのだ。

主は12章の終わりで、ホリの罪でもある者は絶対に牢から出られないと語られ、訴え主と和解せよと命じられましたね?そしてすぐに「悔い改めよ」と語りを続けられるのです。

つまり主は今、火を投げ、裁きを行い、訴えに来られるというのです。

その時、私たちがすべきことは、善い行いを多く積んで主の前に差し出す者ではなく、主の十字架の功績のみに頼る悔い改めた者として主の前に立ち、主と和解した者となることです。

今日の本文の物語は、そのように続いているのです。

 

 

しかし、悔い改めは私たちがするものではなく、主がさせてくださるものです。

それは私たちが二人の息子のたとえを通して詳しく学んだことです。

パウロはどのように語っているか見てみましょうか?

(ローマ2:4)

4それとも、神の慈しみによって、あなたがたが悔い改めるように導かれていることを知らずに、その

慈しみと寛容と長い忍耐の豊かさを軽んじているのですか。

では、聖徒はこの地上でどのような人生を生きるべきだというのでしょうか?天地の気象を弁えて日常を予見するように、この世に火を投げに来られたイエスによって既に火が投げられており、この世は今や裁きの火の海であることを正しく認識し、この燃えさかる裁きの世で生き残る道は、ただイエス・キリストの恵みのみに頼る道以外にないことを確かに握り、その方の義のみを完全に頼る者として生きればよいのです。

 

 

そのような恵みの十字架に対する理解を深めるために、イエス様が一つのたとえ話をさらに加えられます。それがまさに今日の本文にある実を結ばないいちじくの木のたとえ話なのです。

たとえ話は奇妙な形で始まります。

ぶどう畑にいちじくの木を植えたある主人が登場します。

なぜぶどう畑にいちじくの木を植えたのでしょうか?ぶどう畑のぶどうを特に重要視するユダヤ人のぶどう畑に、ぶどうではない別のものが植えられたということは、そのぶどう畑のぶどうの木が主人が望む実を結ばなかったため、主人がぶどうを刈り取ってしまい、別の果実の収穫を期待していることを示しているのです。

つまりぶどう園に植えられたいちじくの木は、ぶどうに代わる代替作物なのです。

代替作物とは、すでに先行する失敗を前提とした概念です。

つまり失敗と無能を強調するための仕掛けというわけです。

 

ではなぜ主はわざわざぶどう園に植えられたいちじくの木をたとえの題材として用いられるのか?

旧約聖書を見ると、神はご自身の選ばれた民イスラエルを常にぶどうといちじくでたとえられています。

 

(ホセア9:10)

10昔、わたしはイスラエルを荒野でぶどうに出会うように出会い、あなたがたの先祖を

いちじくの木で最初に実る初穂を見るように見た。しかし彼らはバアル・ペオルに行き、恥ずべき偶像に身を捧げたので、彼らの愛する偶像のように忌むべきものとなった。

神はイスラエルを、灼熱の荒野で出会うみずみずしいぶどうのように見なされ、いちじくの木に初めて実った果実を見るように愛おしく見てくださったのです。

しかし、そのぶどうといちじくの木の果実は、神を裏切り、偶像に身を捧げて、偶像のように忌むべきものとなったのです。

それがまさに、神の御姿に造られたにもかかわらず、神の恵みを離れ「私」という偶像を拝むようになった堕落した者たちの姿なのです。

善悪の知識の実を食べた人間たちの果てしない自己愛の欲望が、いかに執拗で汚れたものであるかを如実に示す物語なのです。

ぶどう畑に植えられたいちじくの木の物語が、まさにその物語なのです。

 

 

イザヤ書5章1節以下にも同じ話が記されていますね?神様は肥沃なぶどう園に極上級のぶどうの木を植え、見張り台まで立てて最適な環境を整えてくださったのです。

ところがその極上級のぶどうの木が、何の役にも立たない野ぶどうを実らせてしまったのです。

イザヤ書5章4節を見ると、神が嘆き悲しまれておられます。「私がぶどう園のためにしたことに、さらに何を加えられようか?」と深く嘆いておられるのです。

まるで最良の環境であるエデンで「神のように」なろうとする肉の欲望に従い、不従順という野ぶどうを結んでしまったアダムの姿のようではありませんか?まさに善悪の知識の実を取って食べたアダムの姿が、神の選ばれた民であるイスラエルにおいてそのまま再現されているのです。

これがまさに神の恵みが去ってしまった塵たちの実体なのです。

神は今、救いにおける人間の不可能性と無力さを一つ一つ暴き出しておられるのです。

 

(詩篇80:8)

8主はエジプトから一本のぶどうの木を取って来られ、諸国を追い出してこれを植えた。

神はイスラエルをぶどうの木と呼んでおられます。

ところで、そのぶどうの木はカナンでどんな実を結んだでしょうか?私たちが毎週水曜日に士師記を学んでいるのですが、本当に呆れるばかりです。神がエジプトから一本のぶどうの木を連れてきてカナアンに植えたのに、そのぶどうの木は野ぶどうばかりを実らせ続けたのです。

このように、人間は自らの力では決して救いに至ることができません。

 

 

では、そのような人間の無力さと不可能性の中で、救いの実が結ばれるためには、どのようなことが起こらなければならないのでしょうか?神の恵みの覆いが必要です。

 

今日の本文7節を見ると、主人が無花果の木の実を3年間待ったという箇所が出てきます。

 

(ルカ13:7)

7ぶどう園の管理人に言った。『私は三年来、この無花果の木に実を求めてきたが、得られなかった。切り捨ててしまえ。どうして土地だけを無駄にするのか。』

実はこの言葉は、レビ記19章の律法から引用して語られたものです。

 

(レビ19:23)

23あなたがたがその地に入って、あらゆる種類の木を植えたなら、その実は割礼を受けていないものと見なされ、

すなわち三年間、あなたがたはそれを割礼を受けていないものと見なして食べてはならない。

イスラエルが約束の地カナンに入って果樹を植えるようになった時、三年間に実る果実は絶対に食べてはならなかったのです。

なぜなら、三年に満たない果実は割礼を受けていないもの、すなわち不浄なものとして扱われ、食べてはならないと命じられていたからです。

では、三年が過ぎた果樹に実った果実は食べてよいということになりますが、その果実を食べられる根拠は何でしょうか?三年後には別の果実が実るのでしょうか?同じ木にどんな別の果実が実るというのでしょう?同じ木には同じ果実しか実りません。

では、三年後にはその木の果実を食べられる根拠は何でしょうか?三年後にはその果樹が割礼を受けた木となるからです。

そうですね?しかし割礼とは何でしょうか?木が苦労して受け取れるものですか?割礼そのものが、当事者の裂け目の代わりに、ある別の存在の裂け目が生じ、その別の存在の代わりに裂け目が当事者に転嫁される契約のしるしなのです。

したがってカナンにおける果樹が三年後に食べられる果実を結ぶのは、その果樹の労苦によるのではなく、その果樹に恵みを与えたある存在の配慮によるのです。

 

 

それがまさにイエス様の十字架の割礼の出来事なのです。

私たちが懸けられて裂かれるべき十字架の上で、天地万物の創造主であるイエス様が裂かれてしまったのです。

そしてその裂け目が私たちに帰属し、2000年前にすでに、未来に私たちに執行されるはずだった死刑という刑が執行されてしまったのです。

ですから聖徒の人生は執行猶予の人生ではなく、すでに刑が執行されてしまった無罪の状態になってしまったのです。

 

映画『グリーンマイル』には、悪辣な看守が電気椅子で処刑されたインディアンの遺体を侮辱する場面があります。

その時、善良な看守が彼を押しのけながらこう言います。

「この人はすでに電気椅子で自分の罪の代償を全て払った、清く潔い人だ。

これ以上この人を侮辱するな」そうでしょう?電気椅子に座る前のその死刑囚は悪辣な罪人でした。

しかし電気椅子でその罪の代償を全て払ったのです。

その時彼の肉体は罪の代償を払った清らかな肉体となるのです。

もちろん私が皆さんの理解を助けるために肉的な次元での例えを挙げたのです。

どういうことかお分かりでしょう?

私たちがまさにその状態なのです。

私たちはそうして十字架にかけられて死ぬべき存在でした。

ところがイエス様が私たちを抱きしめ、十字架に懸けられて裂かれてしまったのです。

神様はイエス様がその胸に抱かれた御民が、その十字架の上でイエスと共に刑罰を受けたものと見なしてくださるのです。

それが割礼です。

その後、その割礼を受けた者たちから出る実は、神が喜んで受け取られる実となるのです。

以前と実が変わったからではなく、イエスの功績によってそうなるのです。

 

本文8節をご覧になれば、その事実がより明確に理解できるでしょう。

 

(ルカ13:8)

8答えて言った、「主よ、今年もそのままおいてください。私が周りを掘り返し、肥やしをあげますから」。

ぶどう園の主人は、園丁に実を結ばないいちじくの木を切り倒せと言いました。

 

レビ記の表現で言い換えると、その無花果の木は割礼を受けていない不浄な木だからです。

ところが園丁はぶどう園の主人の前に立ち塞がります。

そして一年だけ待ってほしいと頼みます。

必ず実を結ばせるというのですか?どうやって?「私が周囲を掘り返し、肥料を与えましょう」

園丁が深く掘り起こし肥料を与えると言うのです。

園丁の労苦が実を結ぶのです。

ついに木は園丁の労苦によって割礼を受けた木となるのです。

そしてその割礼を受けた木が結ぶものは、その形や内容がどのようなものであれ、主人が食べられる実となるのです。

 

ここで「肥料、コプリア」は死を暗示する言葉です。

肥料というものが、自らの死によって生命を育む役割を果たすのです。

死の中に復活のエネルギーを宿しているのが肥料なのです。

イエス様は十字架の上で、一粒の朽ちる麦の粒となられ、肥料として蒔かれたのです。

もしかすると心の中で「あまりに飛躍しすぎではないか?」と疑問を持たれる方もいらっしゃるかもしれません。

その証拠をお示ししましょう。

その「肥やし」という言葉の前に「そのままにしておきなさい」という語句が出てきますね? その言葉が「アプヒエミ」という単語です。

その言葉が全く同じように使われている場所があるのですが、そこは十字架の上です。

そこへ一度行ってみましょう。

(ルカ23:34)

34そこでイエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、

自分たちが何をしているのか知らないのです。」彼らがイエスの服を分け合ってくじを引いているとき

イエス様が十字架の上で、自分を釘付けにしている人々に向かって父の赦しを請う場面です。

ここで「赦してください」と訳されている言葉が「アプヒエミ」です。

この言葉は「免除する、赦す、見捨てずに放っておく」という意味の言葉です。

ですから主は十字架の上で、父なる神に死刑を受けるに値する者たちを遮りながら、「私がその刑罰を全て引き受けますから、彼らの罪を免除してください、赦してください」と祈っておられるのです。

まさにその言葉が今日の本文にそのまま用いられているのです。

ですから今日の本文のたとえ話は、まさに神の恵みの十字架に関するたとえ話なのです。

 

イエス様は三年間実を結ばなかった、いやその後も永遠に実を結ぶことのできない呪われた無花果の木となられ、枯れしわになった十字架の木に吊るされて死んでしまわれたのです。

それが私たちを生かす肥料となったのです。

それを知り、それを信じることにこそ悔い改めがあります。

神は創世以前にお選びになったご自身の民のもとに訪れ、まさにその恵みの十字架の福音を理解させることによって、自らを神として「私」という偶像を崇めながら生きている悪人たちを、神の御足の下へと立ち返らせられるのです。

それを救いと呼びます。

 

 

ですから厳密に言えば、神が喜ばれる実を結ぶことのできるぶどうの木は、イエス様ただお一人です。

ところがその極上品のぶどうの木が、自ら肥料となってしまわれたのです。

決して実を結ぶことのできない野ぶどうの枝を、ご自身の体に接ぎ木してしまわれたのです。

それが極上品のぶどうの木の死です。

肥料化作業です。

死ぬべき野のぶどうは、極上品ぶどうの木であるイエス様にすがりつき、その方を養分としてかろうじて命ある者となったのです。

それがローマ人への手紙11章の論旨です。

 

(ローマ11:16~18)

16初穂の粉が聖なるものならば、パンも聖なるものであり、根が聖なるものならば、枝も聖なるものである。

17また、いくつかの枝が折られたのに、野のオリーブの木であるあなたが、それらの間に接ぎ木されて

真のオリーブの木の根の汁を共に受ける者となったのだから、

18その枝に向かって誇るな。たとえ誇るとしても、あなたが根を保っているのではなく、根があなたを保っているのだ。

聖徒は、まことのオリーブの木に接ぎ木された野のオリーブの木に過ぎないため、決して誇るべきではないということです。

野のオリーブの木の枝は、まことのオリーブの木から落ちた瞬間、死んだものなのです。

そして、それらの野のオリーブの木が真のオリーブの木に接ぎ木されたのも、彼ら自身の功績や業績や努力に基づいてそうなったのではありません。

さらに、その野のオリーブの木に実る果実も、野のオリーブの木のものであるとは言えません。

実は根の樹液によって結ばれるものだからです。ところが、そのように本物のオリーブの木に寄り添ってかろうじて命を得た野生のオリーブの木が、自分たちが結んだ実を業績として掲げながら自分を誇っているとしたら、それほど滑稽なことがどこにあるでしょうか。

それがまさにパリサイ人たちでした。

主はそうした者たちにこう一喝されました。

 

(ヨハネ15:4-6)

4わたしの中に留まりなさい。わたしもあなたがたの中に留まります。枝がぶどうの木に留まっていないなら、それ自体で実を結ぶことができないのと同じように、あなたがたもわたしの中に留まっていないなら、実を結ぶことはできません。

5わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしの中に留まり、わたしがその人の中に留まるなら、その人は豊かな実を結びます。わたしから離れては、あなたがたは何もできません。

6人がわたしの中に留まらないなら、枝のように外に投げ出されて枯れてしまう。人々はこれを集めて火に投げ込み、焼いてしまう。

イエス様から離れては、誰も神が喜ばれる実を結ぶことはできないのです。

ただイエスに結びついている者だけが神が喜ばれる実を結ぶのですが、それも自分たちが結ぶのではなく、まことのぶどうの木であるイエスが結ぶ実をただで受け継いで、神の愛される者となるのです。

それが割礼であり、洗礼なのです。

今日の本文でまさにそのイエスを見いださなければならないのです。

ぶどう畑の管理人となられ、切り捨てられるべき私たちを弁護し、「私が彼らのために肥料となるので、彼らを赦してください」と私たちを抱きしめてくださった、まさにそのイエスを見いださなければならないのです。

私たちの人生の実が私たち自身のものではないことは、まさに上記の聖句にもはっきりと示されています。

 

(ヨハネ15:1~2)

1わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫であられる。

2わたしにあって実を結ばない枝は、父がそれを切り取ってしまわれる。また

実を結ぶ枝は、もっと多くの実を結ぶように、それを刈り込み、きれいにされる。

イエス様はご自身がぶどうの木だと語っておられます。

しかし、イエスという真のぶどうの木に接ぎ木されたにもかかわらず、実を結ばない者は切り捨てられるとおっしゃっていますね?この表現は非常に誤解されやすい部分ですが、ここで「切り捨てる」と訳されたギリシャ語の「アイロ」は「持ち上げる」という意味の単語です。

つまり正確に訳せば、イエス様に接ぎ木された者が実を結ばない時、神ご自身がその枝を日当たりの良い場所へ持ち上げて実を結ばせてくださるということです。

つまり枝の生涯において実を結ばせる主体は神であるということです。

 

それにもかかわらず、そのような神の恵みを無視し、自分たちがまるで善く正しい実を結び、世の愛を受け、神の愛を得られる存在だと錯覚することがまさに悪なのです。

 

(エレミヤ2:21~23)

21わたしはあなたを純粋な真の種、すなわち尊いぶどうの木として植えたのに、どうしてあなたはわたしに対して異邦のぶどうの木の悪い枝となったのか。

22主なる主は言う。たとえ灰汁で身を洗い、多くの石鹸を用いても、

あなたの罪はなおもわたしの前にある。

23どうして『わたしは汚れていない。バアルを追い求めなかった』と言えるのか。

谷間のあなたの道を見よ。あなたの行いを知れ。

ここに明確に出ていますね?神がイスラエルを真の種、すなわち尊いぶどうの木として植えたのに、そのぶどうの木が異邦の悪いぶどうの木になったとあります。

そしてその下に悪いぶどうの木の正体が描かれていますが、彼らは自ら灰水で洗い、多くの石鹸で洗いながら「私は汚れていない」と言う者たちだと言います。

彼らは神によって恵みをもって植えられた者であり、したがって神によって実を結び、神によって清められることができる者であるのに、彼らは自分たちは自らの力で自生したのだと、自らの力で清められることができると主張するのです。

これこそが悪しき枝であり、これこそがユダヤ主義、人間主義なのです。

人間は神の栄光の前に、自らの塵のような存在と汚れた罪人であることを正しく直視し、神の恵みだけを乞うてこそ、生きる者となれるのです。

ところが灰汁と石鹸で自らを洗いながら「我々もこれで十分清いだろう?」と虚勢を張る者こそ、まさに悪しきぶどうの木なのです。

真のぶどうの木とは、「私はイエスという真のぶどうの木に恵みによって接ぎ木され、初めて生きる者となった者だ」という謙虚な告白をする者たちなのです。

ですから、私たちが先週考察したたとえ話に、このような内容が含まれているのです。

 

(マタイ15:11~14)

11口に入るものが人を汚すのではなく、口から出るものが人を

汚すのである。

12すると弟子たちが近寄って言った。「パリサイ人たちがこの言葉を聞いて、つまずいていることをお知りですか。」

13イエスは答えて言われた。「植えられたものの中で、私の天の父が植えていないものは、すべて引き抜かれる

ものだから

14そのままにしておきなさい。彼らは盲人であり、盲人を導く者である。もし盲人が盲人を

導くなら、二人とも穴に落ちるであろう」と言われた。

人々がどれほど自分の力と努力と熱意で葡萄の木を立派に植え、「どうだ、本当に立派だろう?」と自分の行いを自慢したとしても、それが神が植えたものでない時には、すべて引き抜かれるということなのです。

『神が』植えたものだけが残り続けるのです。

なぜなら、神の国という存在様式は、外から入り込むことで内側が影響を受けるような形式ではないからです。

神の国という存在様式は恵みそのものです。

恵みによって存在し、恵みによって営まれ、恵みによって完成に至る場所なのです。

 

 

それにもかかわらず、あたかもイエス様の十字架はかろうじて執行猶予程度しか得られなかったと考え、その執行猶予期間中に私たちが自らの力で実を結ばなければ再び刑が執行されると主張する一部のアルマニアン主義者や他宗教者たちの無理な主張は、私たちの主の十字架の救いの完成性に甚大な傷をつける悪しき主張です。

そうしたところから家系に流れる呪いなどというでたらめな雑教理が出てくるのです。

イエス様の十字架はそれ自体が完全なものです。

これ以上私たちが努力して解き放つべき呪いもなく、私たちが懸命に努力しなければ十字架の効力が無効になるようなこともありません。

私たちは執行猶予を宣告された者たちではありません。

イエスにおいて完全な赦しを受けた者たちなのです。

私たちが受けるべき刑罰は、すでにイエスがすべて受け取ってくださったのです。

ですから私たちは、清く尊い天の子としてすでに完成されているのです。

ですから、あなた方の外にあるどんな汚れたものでも、あなた方を汚すことはできません。

それにもかかわらず、今日の聖化論は巧妙に私たちに重荷を課しています。

イエスを信じた後であっても、熱心に努力して聖く生きることに努めない者は、決して救われた者ではありえない。良い実を結べというのです。

良い言葉です。

しかし、それ以前にまずなすべきことは、主の十字架の恵みを深く体験し学ぶことです。

私たちは枝です。

枝はどれほど熱心でも、自ら実を結ぶことはできません。

枝ができることは、実がないことが露呈されるたびに、まことのぶどうの木であるイエス様の恵みの必然性をしっかりと掴むことだけです。

それが労苦し重い荷をイエスの前に置く生き方なのです。

 

(ルカ11:46)

46主は言われた。「ああ、律法学者たちよ、災いだ。あなたがたは、人々に負わせがたい重荷を負わせながら、自分ではその重荷に指一本も触れないのだ。」

ご覧なさい。パリサイ人や律法学者たちといった律法学者たちが、律法の遵守と善き生活を強調しながら、人々の背中にただ重荷を山ほど負わせただけだというのです。

そして彼らが背負った重荷に対して、少しも助けを与えられなかったということです。

律法は労苦し重い荷をさらに負わせるだけで、その荷を下ろすことには少しも役立たなかったということです。

 

 

皆さん、人は死んで名を残すために生きるよう造られた存在ではありません。

 

世の人々から良い評判を得ることを目標に生きるべきでもありません。

この世は私たちが歩む道を知らないからです。

私がこの世を去る時、人々が私を慕い、私の去りを惜しみ、私の不在を長く悲しんでくれること、それが何の役に立つでしょうか?人はまさにその死後の命である永遠を準備しながら生きるために造られた存在なのです。

永遠の中で私は天国と地獄、どちらへ行くことになるのか?そこに心を向けるべきです。

 

聖徒の皆さん、私たちはグリーンマイルの上で日々死にかけていた者でした。

ところがあの恐ろしい死の現場に大赦免令が下り、天の王子たちとなってしまったのです。

その恵みの福音を理解する者だけが聖徒なのです。

告発者として来られるそのイエスと和解しなければなりません。

イエスを信じてください。

 

 


 


비유(26)

구원은 집행유예가 아니라 사면입니다

 

(눅13:6~9)

6이에 비유로 말씀하시되 한 사람이 포도원에 무화과나무를 심은 것이 있더니 와서 그 열매를 구하였으나 얻지 못한지라

7과원지기에게 이르되 내가 삼 년을 와서 이 무화과나무에 실과를 구하되 얻지 못하니 찍어 버리라 어찌 땅만 버리느냐

8대답하여 가로되 주인이여 금년에도 그대로 두소서 내가 두루 파고 거름을 주리니

9이 후에 만일 실과가 열면이어니와 그렇지 않으면 찍어버리소서 하였다 하시니라

 

법률 용어 중에 집행유예라는 것이 있습니댜.

판사가 피고에게 유죄 판결을 내리고서 일정한 기간 동안 형의 집행을 보류하며, 그 기간을 아무런 사고 없이 성실하게 무사히 넘기면 선고의 효력이 없어지게 하는 것을 말합니댜.

만일 집행유예를 선고받은 피고가 그 기간 동안에 또 다른 죄를 짓거나 법에 저촉되는 행위를 했을 때에는 그 즉시 유예되었던 형이 집행 됩니댜.

 

많은 분들이 성도의 신분을 집행유예 상태의 피고로 생각하고 계신 듯합니댜.

하나님께서 십자가의 은혜로 일단 형의 집행은 유예시켜 주셨지만 그 집행유예의 기간 동안에 착한 일을 많이 하고 죄를 멀리하는 삶을 살지 않으면 언제든지 그 집행유예는 무효가 되고 형이 집행이 될 수 있다는 식의 구원에 대한 잘못된 이해가 아주 편만하게 퍼져 있습니댜.

그래서 오늘 본문의 비유도 마치 하나님께서 열매를 맺지 못하는, 곧 찍어버려야 할 무화과나무에 대한 형의 집행을 일 년 간 뒤로 미루어주신 사건 정도로 해석을 하는 사람들이 너무 많습니댜.

만일 그 집행유예의 기간 동안에 열심히 노력해서 열매를 맺지 않으면 도끼에 의해 찍히는 참혹한 형의 집행이 이루어진다는 식의 협박용 비유로 이해를 하는 것입니댜.

그래서 교회 안에도 수고하고 무거운 짐을 지고는 때로 그런 짐을 지워 주신 하나님을 원망도 하면서 꾸역꾸역 열심 있는 종교행위와 억지스러운 선한 일을 만들어 내는 이들이 너무나 많이 있습니댜.

 

 

제가 군대를 제대하고 복학을 하기 전에 KBS 대학 가요제에 장난삼아 출전을 했다가 예상치 못하게 대상을 수상하는 사건(?)이 있었습니댜.

그런데 대상을 받고 다음 날 학교에 갔더니 교수님들과 선배님들의 눈초리가 심상치 않았습니댜.

당시는 서슬 퍼렇던 군사정권 시절이었기 때문에 학생들의 대정부 시위가 끊이지 않던 때였습니댜.

그런데 모든 학우들이 정권타도를 외치며, 심지어 분신까지 하고 있는 때에 어떤 놈이 국영방송국이 주최하는 대학가요제에 나가 대상을 받은 것입니댜.

교수님들과 선배님들의 강력한 만류와 저지로 저는 방송활동을 거의 못했기 때문에 역대 대학가요제 대상 수상자 중 가장 안 유명한 사람이 되었습니댜.

그 무렵 기독교 방송국 프로듀서로 일을 하던 선배의 부탁을 받고 그 선배의 프로그램에 고정으로 출연을 하게 되었는데, 그 코너 이름이 ‘김성수의 코 팝스’라는 코너였습니댜.

당시 유명한 영어 강사였던 박현영씨와 공동으로 진행을 하던 코너였는데 열혈 청취자가 꽤 많았던 그런 코너였습니댜.

 

청취자들의 사연도 소개를 해 주고 제가 매주 기타를 치며 청취자들의 신청곡을 즉석에서 영어로 바꾸어 라이브로 불러주던 그런 프로그램이었습니댜.

당시 저는 아직 대학을 졸업하기 전이었기 때문에 아르바이트 삼아 열심히 방송을 했었습니댜.

그러던 어느 날, 며칠 전 세상을 떠나신 유명 디자이너께서 저를 애타게 찾고 있다는 소식을 방송국 피디들에게 전해 듣게 되었습니댜.

그때는 케이블 티브이의 제작 여건이 별로 좋지 못하던 때라서 라디오 방송을 생으로 찍어서 케이블 티브이로 내보내곤 했었는데 저희 프로그램에도 매번 케이블 방송국의 카메라가 들어 왔었습니댜.

그리고 두 시간 내내 제가 방송하는 장면이 티브이로 중계가 되었습니댜.

그걸 그분이 보셨던 것입니댜.

나중에 연락을 하고 만나보니, 제가 김현식 씨의 ‘사랑 했어요’라는 노래를 영어로 부르는 것을 들으면서 정말 소리 내어 펑펑 우셨다고 하셨습니댜.

그리고는 당신의 패션쇼 피날레에 와서 라이브로 노래를 불러 달라고 하셨습니댜.

저는 흔쾌히 수락을 했습니댜.

그런데 노래는 당신이 가장 좋아하는 노래를 불러야 한다고 하셨습니댜.

그 노래가 시인 양중해씨가 가사를 쓴 ‘떠나가는 배’라는 노래였습니댜.

지금까지 오랫동안 그 노래를 자신의 마음에 와 닿게 애절하게 불러줄 사람을 찾고 있었는데 바로 제가 그 사람이라는 것이었습니댜.

그리고는 자신이 구상한 반주 편곡을 적어 놓은 노트까지 제게 보여주시면서 당장 녹음을 하자는 것이었습니댜.

당시 오스트리아에서 연주 활동을 하고 있던 한국 최고의 트럼펫 주자가 비행기를 타고 날아오고 그분이 아시는 오케스트라 멤버들이 대거 호출이 되어 드디어 그 곡을 녹음을 하게 되었습니댜.

그분이 그 곡에 대해 얼마나 애착을 갖고 계셨는가 하면 그 곡의 맨 앞에 들어가는 파도소리를 직접 동해에 가서 녹음을 해 오셨을 정도였습니댜.

트럼펫 전주가 울려 퍼지고 제가 노래를 부르기 시작했을 때 그분이 녹음실 밖에서 계속 울고 계셨습니댜.

 

 

노래 녹음이 다 끝나고 그게 CD로 출반이 되게 되었습니댜.

그러면서 저는 그분과 여러 차례 만나서 패션쇼에 관한 상의도 하고 일상의 이야기도 두런두런 나누는 그런 사이가 되었습니댜.

그러던 중 저는 그분이 그 노래를 그토록 좋아하는 이유에 대해 듣게 되었습니댜.

자신은 어려서부터 사람을 너무 좋아했다고 합니댜.

그런데 늘 배신을 당했고 자신은 항상 피해자로 남겨지는 일을 너무 자주 겪어오셨다고 하셨습니댜.

그러던 어느 날 그 ‘떠나가는 배’라는 곡을 들으면서 이런 생각을 하셨다고 합니댜.

‘내가 사람들에게 버림을 당하는 것은 지금의 내가 무언가 부족하고 모자라기 때문이댜.

지금부터라도 열심히 노력해서, 떠나가는 배의 가사처럼, 내가 이 세상을 떠날 때에 세상이 나의 부재를 너무나 안타까워하며 슬퍼할 만큼 더 착하고 더 훌륭한 사람이 되어야지’ 그게 그분의 인생 목표였습니댜.

괜찮은 인생 목표지요?

그렇게 인생의 목표를 정한 후부터 사람들에게 무례한 언행을 절대로 삼가 했고, 아무리 경제적으로 힘이 들어도 가난하고 불쌍한 사람들 돕는 것을 멈추지 않았으며, 전 세계의 사랑을 받는 훌륭한 인물이 되기 위해 각고의 노력을 했다고 하셨습니댜.

그리고는 그 노래를 수시로 들으며 그 노래를 들을 때마다 자신이 이 세상을 떠나게 되었을 때에 자신의 죽음을 애통해 하며 그리워하는 사람들을 떠 올리며 감동의 눈물을 흘렸다는 것입니댜.

그렇게 열심히 착하게 살다보면 그렇게 사람들에게 인정도 받을 수 있고, 극락왕생도 할 수 있고, 적어도 이생보다는 더 나은 생으로 환생을 할 수 있다는 확고한 신앙이 그분에게 있었습니댜.

그래서 그때마다 더 착하고 더 훌륭한 사람이 되기 위해 각고의 노력을 다짐하셨다고 합니댜.

 

 

CD가 출반이 되던 날, 저는 그분께 CD를 전달해 드리러 가야 했습니댜.

그런데 왠지 그냥 전달해 드리기는 싫었습니댜.

저는 당시에 교회에서 전도폭발 훈련이라는 것을 받고 청년부들을 대상으로 하는 전도폭발 훈련 교사를 하고 있었습니댜.

그래서 매주 교회 앞에 있는 고속버스 터미널에 나가 ‘만일 당신이 오늘밤 이 세상을 떠난다면 천국에 들어가 영생을 누릴 것을 확신 하십니까?’라는 복음제시 질문 1번을 시작으로 매주 적어도 수십 명에게 복음제시를 하고 결신기도까지 시키던 열심 있는 지도자였습니댜.

그래서 CD 속지에 장문의 편지를 써서 그 편지와 함께 CD를 전달해 드리기로 했습니댜.

그 편지의 내용은 대략 이러합니댜.

‘선생님, 사람이 이 세상을 떠나게 되면 그 사람을 기다리는 두 세계가 있는데 그곳이 천국과 지옥입니댜.

선생님은 제게, 이 세상에서 착하게 살고 남에게 해를 끼치는 삶을 살지 않으면 세상이 선생님을 존경해 주고 사랑해 줄 것이고, 오래오래 기억해 줄 것이며, 그 공로로 선생님은 극락에 가실 수 있으실 것이라고 말씀을 하셨습니댜.

저는 예수를 믿는 사람입니댜.

저는 성경에서 배우기를 사람이 아무리 착하고 훌륭하게 살아도 예수님의 십자가를 믿지 않으면 절대 천국에 갈 수 없다고 배웠습니댜.

왜냐하면 모든 인간은 에덴동산 위의 아담 안에서 하나님이 금지하신 선악과를 따먹고 사형 선고를 받은 상태이기 때문입니댜.

인간은 예수님의 십자가 은혜를 의지하지 않고는 절대 천국에 갈 수가 없습니댜.

제가 바라옵기는 선생님처럼 선하신 분이 저와 같이 예수를 믿고 꼭 천국에 함께 갔으면 하는 것입니다’ 저는 이런 편지를 CD와 함께 전해 드렸습니댜.

 

 

며칠 있다가 그분에게서 전화가 왔습니댜.

‘미스터 김, 미스터 김이 하는 말이 무슨 말인지는 잘 알겠어요. 미스터 김의 말대로라면 우리 인간들은 지금 집행유예 상태인 거네요. 선악과를 따먹고 죽어야 하는 이들이 아직 형이 집행이 되지 않아서 살아 있는 것이니까요. 그런데 아무리 무서운 하나님이라도 그 집행유예 기간 동안에 인간들이 착하고 선하게 잘 살아내면 당연히 용서해 주셔야 하는 것 아닐까요?’ 이게 바로 인본주의입니댜.

저는 그분께 즉시 대답을 해 드렸습니댜.

‘선생님, 선생님이 말씀하신 대로 모든 인간은 지금 집행유예의 기간을 살고 있는 것이 맞습니댜.

그리고 그 기간 동안에 재판관이 원하는 수준의 착하고 선한 삶을 잘 살아내면 당연히 천국에 갈 수 있습니댜.

성경은 그것을 율법이라고 합니댜.

그러나 문제는 하늘의 재판관이신 하나님에게 사형 선고를 받은 인간들은 아무리 착하고 선한 삶을 살아낸다 해도 그 재판관이신 하나님이 원하시는 수준의 착한 삶은 살아낼 수가 없습니댜.

그분은 완전한 거룩을 원하시기 때문입니댜.

그래서 인간은 누군가의 도움을 받지 않으면 모두가 사형 집행 장에서 최후를 맞을 수밖에 없는 것입니댜.

그래서 우리는 우리의 죄를 값없이 용서해 주신 예수님의 은혜의 복음을 믿어야만 집행유예의 상태에서 완전사면의 상태로 갈 수 있게 되는 것입니댜.

’ 그리고는 더 이상 회답이 없었습니댜.

 

 

그분은 이제 이 시간의 세상을 벗어나서 영원의 세계로 들어가셨습니댜.

그 영원의 세계에는 천국과 지옥만이 존재합니댜.

그분이 어디로 들어가셨는지는 하나님만이 아십니댜.

그러나 살아생전에 하나님의 말씀을 통하여 예수 그리스도의 사면령을 감격 속에서 듣지 못한 이들은 아무리 열심히 집행유예 기간을 잘 살아냈다고 하더라고 반드시 사망이라는 형 집행 장소로 향해야 합니댜.

이 세상 모든 인간들이 다 사망이라는 사형 선고를 받고 사는, 집행유예 기간을 사는 사람들입니댜.

그런데 그 집행유예는 인간의 행위로는 절대 형을 모면할 수 없는 운명적이며 제한적인 집행유예입니댜.

그 끝에는 반드시 사망이라는 형이 집행됩니댜.

그러나 그 집행유예의 기간 동안에 하늘로부터 사면령을 받는 사람들이 있으니 그들을 성도라고 하는 것입니댜.

 

 

여러분, 혹시 톰 행크스가 주연한 ‘그린마일(green mile)’이라는 영화를 보셨나요? 그린마일이라는 것은 사형수들이 갇혀있는 감옥에서부터 사형집행 장소까지의 초록색 바닥을 ‘그린마일’이라고 합니댜.

사형수가 일단 그 초록색 바닥에 발을 딛게 되면 한걸음 한걸음이 다 죽음의 발걸음이 되는 것입니댜.

이 땅에 태어나는 모든 인간들은 전부 그 그린마일 위를 한발 한 발 걷고 있는 것입니댜.

쉬운 말로 매일 매일 죽고 있는 것입니댜.

이제 그 그린마일에서 마지막 발걸음을 떼는 순간 모든 인간은 다 영원한 사망이라는 형 집행을 당하게 됩니댜.

그러니까 엄밀히 말해서 모든 인간들이 처한 상태는 집행유예가 아니라 형 집행 장소로 한발 한 발 가고 있는 상태인 것입니댜.

그런데 그렇게 간수들에게 붙들려 형 집행 장소로 향하고 있는 도중에 사면령을 가진 특사가 찾아와 ‘너, 너, 너, 사면’하고 그 자리에서 수갑과 포승을 풀어주었다고 생각해 보세요. 그게 구원입니댜.

오늘 본문이 바로 그 이야기를 하고 있는 것입니댜.

 

 

오늘 본문은 예루살렘에서 일어난 참혹한 비극에 관한 이야기 뒤에 붙여지는 비유입니댜.

 

예루살렘 성전에 갈릴리 사람들이 제사를 지내러 왔던 모양입니댜.

그런데 무슨 일이 있었는지 모르지만 빌라도가, 제사를 드리고 있던 그들을 그 자리에서 죽여 버린 것입니댜.

그 일로 제단 위의 제물에, 제사를 드리던 사람들의 피가 섞여 버린 것입니댜.

생각해 보세요. 예배를 드리던 사람이 갑자기 천정에서 떨어진 조명에 맞아 죽었습니댜.

여러분은 그것을 보시면서 어떤 생각이 드실 것 같으세요? ‘저 사람이 무슨 죄를 지었기에 하나님에게 저런 벌을 받지?’하지 않으시겠어요? 사람들이 바로 그 질문을 갖고 예수님에게 온 것입니댜.

 

(눅13:1)

1그 때 마침 두어 사람이 와서 빌라도가 어떤 갈릴리 사람들의 피를 저희의 제물에 섞은 일로 예수께 고하니

여기에서 ‘그 때’란 누가복음 12장의 ‘너희가 천지의 기상은 분변할 줄을 알면서 어찌 이 시대는 분변치 못하느냐?’는 예수님의 일갈이 떨어지던 바로 그때를 말합니댜.

예수님은 당신께서 오신 이유가 이 세상에 불을 던지러 오신 것이라고 말씀을 하시면서 그 불이 떨어지면 구약의 진술대로 어떤 이에게는 심판의 불이 될 것이고, 어떤 이들에게는 구원의 불이 될 터인데 왜 사람들은 그 하늘의 심판과 구원에는 관심이 없고 천지의 기상으로 읽혀지는 일상에만 관심을 두고 있느냐고 안타까워 하셨습니댜.

그러니까 예수님은 마치 펌프의 마중물처럼 이 세상 불 심판의 마중불이 되시기 위해, 십자가를 지시기 위해 이 땅에 오셨다는 것입니댜.

그리고는 누가복음 12장 마지막에서 이런 말씀을 하십니댜.

 

(눅12:58~59)

58네가 너를 고소할 자와 함께 법관에게 갈 때에 길에서 화해하기를 힘쓰라 저가 너를 재판장에게 끌어가고 재판장이 너를 관속에게 넘겨주어 관속이 옥에 가둘까 염려하라

59네게 이르노니 호리라도 남김이 없이 갚지 아니하여서는 결단코 저기서 나오지

못하리라 하시니라

지금은 천지의 기상에나 관심을 가지며 일상에 착념하여 살 때가 아니라 너를 고소하러 오는 그 고소 자와 화해하는 데에 힘을 써야 할 때라는 것입니댜.

왜냐하면 너를 고소하는 이는 호리(로마의 가장 작은 동전)의 선처도 없는 분이기 때문이라는 것이지요. 고소 자가 원하는 대로 완벽하게 고소자의 마음에 들지 못 하면 너희들은 다 죽는다는 것입니댜.

그러니까 너희가 유일하게 살 길은 고소 자와 화해하는 것밖에 없다는 것입니댜.

여기에서 고소 자는 당연히 예수 그리스도이십니댜.

그리고 이어지는 이야기가 예루살렘 성전에서의 학살 사건과 실로암 망대 사건인 것입니댜.

 

 

당시 유대인들은 사마리아 사람들과 함께 갈릴리 나사렛 사람들을 아주 경멸을 했습니댜.

사마리아는 주전 721년에 앗수르의 사르곤2세에 의해, 살던 곳을 완전히 점령당해 2만 7천명의 북 이스라엘 핵심 인사들이 메소포타미아 북쪽으로 끌려가고 앗수르와 바벨론과 하맛 사람들이 북 이스라엘 지역으로 이주해와 혈통이 뒤섞여 버린 그런 곳이어서 경멸을 했었고, 갈릴리 나사렛은 이방과의 접경 지역으로서 가난하고 무례한 자들이 살던 곳으로 알려져 있었기 때문에 경멸하고 업신여겼던 것입니댜.

그래서 빌립이 나다나엘에게 예수님을 소개했을 때 나다나엘이 나사렛에서 무슨 선한 것이 날 수 있겠느냐고 반문을 했던 것입니댜.

성경은 누가복음 13장 서두에서 그 갈릴리 사람들과 그들을 경멸했던 예루살렘 사람들을 공히 등장을 시킵니댜.

그리고는 그 두 지역 사람들의 예기치 못한 죽음을 이야기의 주제로 뽑아 올립니댜.

갈릴리 사람들은 제사를 지내다가 이방인의 칼에 맞아 죽었고 예루살렘 사람들은 히스기야가 전쟁을 하기 위해 기혼 샘에서 끌어다가 만든 실로암 못 가에서 수로 공사를 하다가 실로암 못을 지키던 망대에 깔려 죽었습니댜.

둘 다 이방인의 괴수의 모형인 빌라도가 관여한 사건입니댜.

 

주님은 그들의 죽음의 본질이 죄의 경중이나 다소에 아무런 관련이 없다고 힘주어 강조하십니댜.

왜냐하면 죄라는 것은 많고 적음의 구분이나 크고 작음의 구분, 그리고 무겁고 가볍고의 구분에 의해 벌이 달라지는 것이 아니기 때문입니댜.

모든 죄는 하나님 앞에서의 죄이고(시51) 그 죄는 다소와 경중의 구분을 막론하고 모두 사형에 처해지는 것입니댜.

따라서 살면서 호리의 죄라도 지은 사람은 전부 사형입니댜.

그 말은 모든 인간은 자동적으로 다 지옥에 떨어져 영원한 사망에 처해져야 한다는 말입니댜.

그게 하나님의 은혜가 가입되지 않는 티끌들의 운명입니댜.

그럼에도 자기들은 마치 그 지옥의 형벌과는 전혀 무관한 사람들인 것처럼 다른 사람들에게 닥친 불행이나 비극을 죄와 결부시켜 갑론을박하는 것 자체가 무식한 짓인 것입니댜.

주님은 그러한 자들에게 대노하시며 이렇게 말씀을 하십니댜.

 

(눅13:5)

5너희에게 이르노니 아니라 너희도 만일 회개치 아니하면 다 이와 같이 망하리라

주님은 12장 말미에서, 호리의 죄라도 있는 자들은 절대 감옥에서 못 나온다고 말씀을 하시면서 고소 자와 화해하라고 하셨지요? 그리고는 곧이어 ‘회개하라’로 말씀을 이어가시는 것입니댜.

그러니까 주님은 이제 불을 던지러, 심판을 하러, 고소하러 오신다는 것입니댜.

그때 우리가 해야 할 것은 착하고 선한 일을 많이 쌓아서 그 앞에 내어 놓는 자가 아니라 주님의 십자가 공로만을 의지하는 회개하는 자로 주님 앞에 서야, 주님과 화목한 자가 된다는 것입니댜.

오늘 본문의 내러티브가 그렇게 이어지고 있는 것입니댜.

 

 

그런데 회개는 우리가 하는 것이 아니라 주님께서 하게 만드시는 것입니댜.

그건 우리가 두 아들의 비유를 통해 자세하게 공부를 했습니댜.

바울은 어떻게 이야기 하는지 볼까요?

(롬2:4)

4혹 네가 하나님의 인자하심이 너를 인도하여 회개케 하심을 알지 못하여 그의

인자하심과 용납하심과 길이 참으심의 풍성함을 멸시 하느뇨

그러니까 성도는 이 땅에서 어떤 삶을 살아야 한다는 말입니까? 천지의 기상을 분변하여 일상을 예견하는 것처럼, 이 세상에 불을 던지러 오신 예수에 의해 이미 불이 던져졌으며 이 세상은 지금 심판의 불바다라는 것을 올바로 인식을 하고, 이 불붙은 심판의 세상에서 살아날 길은 오직 예수 그리스도의 은혜만을 의지하는 길밖에 없음을 확실히 붙들어 그분의 의만을 온전히 의지하는 자로 살면 되는 것입니댜.

 

 

그러한 은혜의 십자가에 대한 이해를 더하시기 위해 예수님이 비유 하나를 더 보태시는데 그게 바로 오늘 본문의 열매 맺지 못 하는 무화과나무의 비유인 것입니댜.

비유는 이상한 모양으로 시작이 됩니댜.

포도원에 무화과나무를 심은 어떤 주인이 등장합니댜.

왜 포도원에 무화과나무를 심었을까요? 포도원의 포도를 유난히 중요시하는 유대인의 포도원에 포도가 아닌 다른 것이 심겼다는 것은 그 포도원의 포도나무가 주인이 원하는 열매를 맺지 못해서 주인이 포도를 걷어버리고 다른 열매의 소출을 기대하고 있음을 보여주는 것입니댜.

그러니까 포도원에 심긴 무화과나무는 포도를 대신한 대체작물인 것입니댜.

대체작물이란 이미 앞선 실패를 전제하고 있는 개념입니댜.

그러니까 실패와 무능력을 강조하기 위한 장치라는 것이지요.

 

그런데 왜 주님이 굳이 포도원에 심긴 무화과나무를 비유의 소재로 쓰시는 것일까?

구약 성경을 보면 하나님은 당신의 선택된 백성 이스라엘을 줄곧 포도와 무화과로 비유를 하십니댜.

 

(호9:10)

10옛적에 내가 이스라엘 만나기를 광야에서 포도를 만남 같이 하였으며 너희 열조

보기를 무화과나무에서 처음 맺힌 첫 열매를 봄같이 하였거늘 저희가 바알브올에 가서 부끄러운 우상에게 몸을 드림으로 저희의 사랑하는 우상 같이 가증하여 졌도다

하나님께서 이스라엘을 뜨거운 광야에서 만나는 싱그러운 포도처럼 여겨주셨고 무화과나무에서 처음 맺힌 열매를 보는 것처럼 사랑스럽게 보아주셨다는 것입니댜.

그런데 그 포도와 무화과나무 열매가 하나님을 배반하고 우상에게 몸을 드려 우상과 같이 가증해졌다고 합니댜.

그게 바로 하나님의 형상으로 지어졌으나 하나님의 은혜를 떠나 ‘나’라는 우상을 섬기게 된 타락한 자들의 모습인 것입니댜.

선악과를 따먹은 인간들의 끝없는 자기애의 욕망이 얼마나 집요하고 더러운 것인지를 여실히 보여주는 이야기입니댜.

포도원에 심긴 무화과나무의 이야기가 바로 그 이야기인 것입니댜.

 

 

이사야서 5장 1절 이하에도 동일한 이야기가 나오지요? 하나님께서 기름진 포도원에다가 극상품 포도나무를 심으시고 망대까지 세워서 최적의 환경을 만들어 주셨습니댜.

그런데 그 극상품 포도나무가 아무짝에도 쓸모없는 들 포도를 맺어 버린 것입니댜.

이사야서 5장 4절을 보시면 하나님께서 탄식을 하시는데 ‘내가 포도원을 위하여 행한 것 외에 무엇을 더할 것이 있었으랴?’하고 장탄식을 하십니댜.

마치 최적의 환경인 에덴에서 ‘하나님처럼’되어 보겠다는 육의 욕망을 따라 불순종이라는 들 포도를 맺어버린 아담의 모습 같지 않으세요? 바로 선악과를 따먹은 아담의 모습이 하나님의 선택된 백성인 이스라엘에게서 그대로 재현이 되고 있는 것입니댜.

이게 바로 하나님의 은혜가 떠나버린 티끌들의 실체인 것입니댜.

하나님은 지금 구원에 있어서의 인간의 불가능함과 무력함을 낱낱이 폭로하고 계신 것입니댜.

 

(시80:8)

8주께서 한 포도나무를 애굽에서 가져다가 열방을 쫓아내시고 이를 심으셨나이다

하나님은 이스라엘을 포도나무라 칭하십니댜.

그런데 그 포도나무들이 가나안에서 어떤 열매를 맺었나요? 우리가 수요일마다 사사기를 공부하는데 정말 가관이지요? 하나님께서 한 포도나무를 애굽에서 가져다가 가나안에 심으셨는데 그 포도나무가 계속 들 포도만 맺었습니댜.

그렇게 인간은 스스로의 자력으로 절대 구원에 이를 수가 없습니댜.

 

 

그렇다면 그러한 인간의 무력함과 불가능함 속에서 구원의 열매가 맺히기 위해서는 어떤 일이 일어나야 합니까? 하나님의 은혜의 덮으심이 있어야 합니댜.

 

오늘 본문 7절을 보시면 주인이 무화과나무 실과를 3년간 기다렸다는 대목이 나옵니댜.

 

(눅13:7)

7과원지기에게 이르되 내가 삼 년을 와서 이 무화과나무에 실과를 구하되 얻지 못하니 찍어 버리라 어찌 땅만 버리느냐

사실 이 말씀은 레위기 19장의 율법에서 인용하여 하신 말씀입니댜.

 

(레19:23)

23너희가 그 땅에 들어가 각종 과목을 심거든 그 열매는 아직 할례 받지 못한 것으로

여기되 곧 삼년 동안 너희는 그것을 할례 받지 못한 것으로 여겨 먹지 말 것이요

이스라엘이 약속의 땅 가나안에 들어가서 과목을 심게 되었을 때 삼년 동안 열리는 과실은 절대 먹으면 안 되었습니댜.

왜냐하면 삼년 미만의 과실은 할례 받지 못한 것, 즉 부정한 것으로 여겨서 먹지 말라는 것입니댜.

그렇다면 삼년이 지난 과수에서 열린 과실은 먹어도 된다는 이야기인데, 그 과실들을 먹을 수 있는 근거가 뭐가 됩니까? 삼년 뒤에는 다른 과실이 열리나요? 똑같은 나무에서 무슨 다른 과실이 열리겠습니까? 같은 나무에서는 같은 과실만 열립니댜.

그런데 삼년 뒤에는 그 나무의 과실을 먹을 수 있는 근거가 뭡니까? 삼년 뒤에는 그 과실나무가 할례 받은 나무가 되기 때문입니댜.

그렇지요? 그런데 할례라는 것이 무엇입니까? 나무가 애를 써서 받아낼 수 있는 것입니까? 할례라는 것 자체가 그 당사자의 쪼개짐 대신에 어떤 다른 존재의 쪼개짐이 일어나고 그 다른 존재의 대신 쪼개짐이 당사자에게 전가되는 언약의 징표입니댜.

따라서 가나안에서의 과실나무가 삼년이 지난 뒤에 먹을 수 있는 과실을 맺게 되는 것은 그 과실나무의 수고에 의해서가 아니라 그 과실나무에게 은혜를 베푼 어떤 존재의 배려 때문인 것입니댜.

 

 

그게 바로 예수님의 십자가 할례사건인 것입니댜.

우리가 매달려 쪼개져야 할 십자가 위에서 천지만물의 창조주이신 예수님이 쪼개져 버리신 것입니댜.

그리고는 그 쪼개짐이 우리에게 전가가 되어 2,000년 전에 이미, 미래에 우리에게 집행될 사형이라는 형이 집행이 되어 버린 것이 된 것입니댜.

그러니까 성도의 인생은 집행유예의 인생이 아니라 이미 형이 집행이 되어 버린 무죄의 상태가 되어 버린 것입니댜.

 

그린마일이라는 영화에 보면 악독한 교도관이 전기의자에서 사형을 당한 인디언의 시체를 모욕하는 장면이 나옵니댜.

그때 선한 교도관이 그를 밀치며 이런 말을 합니댜.

‘이 사람은 이미 전기의자에서 자기의 죄 값을 다 치룬 순결하고 깨끗한 사람이댜.

더 이상 이 사람을 모욕하지 마라’ 그렇지요? 전기의자에 앉기 전의 그 사형수는 악독한 죄인입니댜.

그러나 전기의자에서 그 죄 값을 다 치렀습니댜.

그때 그의 육신은 죄 값을 다 치른 순결한 육신이 되는 것입니댜.

물론 제가 여러분의 이해를 돕기 위해 육적인 차원에서의 비유를 든 것입니댜.

무슨 말인지 이해가 가시지요?

우리가 바로 그 상태인 것입니댜.

우리는 그렇게 십자가에 달려 죽어 마땅한 존재들이었습니댜.

그런데 예수님께서 우리를 품에 안으시고 십자가에 매달려 쪼개져 버리신 것입니댜.

하나님은 예수님께서 그 가슴에 품으신 당신의 백성들이 그 십자가 위에서 예수와 함께 형벌을 받은 것으로 여겨 주시는 것입니댜.

그게 할례입니댜.

그 뒤로 그 할례 받은 자들에게서 나오는 열매는 하나님께서 기쁘게 드실 수 있는 열매가 되는 것입니댜.

그 전과 열매가 달라져서가 아니라 예수님의 공로로 그렇게 되는 것입니댜.

 

본문 8절을 보시면 그 사실이 좀 더 명료하게 이해가 되실 것입니댜.

 

(눅13:8)

8대답하여 가로되 주인이여 금년에도 그대로 두소서 내가 두루 파고 거름을 주리니

포도원 주인은 과원지기에게 과실을 맺지 못 하는 무화과나무를 찍어버리라고 했습니댜.

 

레위기의 표현으로 바꾸어 말하면 그 무화과나무는 할례 받지 못한 부정한 나무이기 때문입니댜.

그런데 과원지기가 그 포도원 주인의 앞을 막아섭니댜.

그리고는 일 년만 더 기다려 달라고 합니댜.

반드시 과실을 맺게 하겠다는 것입니까? 어떻게요? ‘내가 두루 파고 거름을 주리니’

과원지기가 두루 파고 거름을 주겠다고 합니댜.

과원지기의 수고가 가입이 되는 것입니댜.

드디어 나무가 과원지기의 수고에 의해 할례 받은 나무가 되는 것입니댜.

그리고 그 할례 받은 나무가 맺는 것은 그 모양과 내용이 어떠한 것이라 할지라도 주인이 먹을 수 있는 열매가 되는 것입니댜.

 

여기에서 ‘거름, 코프리아’는 죽음이 함의된 단어입니댜.

거름이라는 것 자체가 자신의 죽음으로 생명을 살리는 역할을 하는 것입니댜.

죽음 안에 부활의 에너지를 담고 있는 것이 거름입니댜.

예수님은 십자가 위에서 한 알의 썩어지는 밀알이 되셔서 거름으로 심겨지신 것입니댜.

혹시 마음속으로 ‘너무 지나친 비약이 아니냐?’는 질문을 하실 분들이 계실지 모르겠습니댜.

제가 그 증거를 대 드리겠습니댜.

그 거름이라는 단어 앞에 ‘그대로 두소서’라는 어구가 나오지요? 그 단어가 ‘압히에미’라는 단어입니댜.

그 단어가 똑같이 쓰인 곳이 있는데 거기가 십자가 위입니댜.

그리로 한 번 가보지요.

(눅23:34)

34이에 예수께서 가라사대 아버지여 저희를 사하여 주옵소서 자기의 하는 것을 알지

못 함이니이다 하시더라 저희가 그의 옷을 나눠 제비 뽑을 새

예수님께서 십자가 위에서 자기를 못 박고 있는 사람들을 향하여 아버지의 용서를 구하시는 장면입니댜.

여기에서 ‘사하여 주옵소서’라고 번역이 된 단어가 ‘압히에미’입니댜.

그 단어는 ‘면제하다, 용서하다, 버리지 않고 놔두다’라는 뜻의 단어입니댜.

그러니까 주님은 십자가 위에서 아버지에게 사형을 받아 마땅한 자들을 막아서시며 ‘제가 그 형량을 다 채울 테니 저들의 죄를 면제해 주옵소서, 사면해 주옵소서’라고 기도를 하고 계신 것입니댜.

바로 그 단어가 오늘 본문에 그대로 쓰이고 있는 것입니댜.

그러니까 오늘 본문의 비유는 바로 하나님의 은혜의 십자가에 관한 비유인 것입니댜.

 

예수님은 삼년간 열매 맺지 못했던, 아니 그 후에도 영원히 열매를 맺을 수 없는 저주 받은 무화과나무가 되셔서 말라비틀어진 십자가 나무에 매달려 죽어 버리신 것입니댜.

그게 우리를 살리는 거름이 된 것입니댜.

그걸 아는 것, 그리고 그걸 믿는 것이 바로 회개입니댜.

하나님은 창세전에 택하신 당신의 백성들에게 찾아가셔서 바로 그 은혜의 십자가 복음을 이해시키심으로, 스스로가 신이 되어 ‘나’라는 우상을 섬기며 살고 있는 악당들을 하나님의 발 아래로 돌이키시는 것입니댜.

그걸 구원이라 합니댜.

 

 

그러니까 엄밀히 말해 하나님께서 기뻐하시는 열매를 맺을 수 있는 포도나무는 예수님 한 분 뿐이십니댜.

그런데 그 극상품의 포도나무가 스스로 거름 화 되어 버리신 것입니댜.

절대로 열매를 맺을 수 없는 들 포도나무들의 가지를 스스로의 몸에 접붙여 버리신 것입니댜.

그게 극상품 포도나무의 죽음입니댜.

거름 화 작업입니댜.

죽어야 할 들 포도들은 극상품 포도나무이신 예수님에게 빌붙어 그 분을 양분삼아 겨우 생명 있는 자가 된 것입니댜.

그게 로마서 11장의 논지입니댜.

 

(롬11:16~18)

16제사하는 처음 익은 곡식 가루가 거룩한즉 떡덩이도 그러하고 뿌리가 거룩한즉 가지도 그러 하니라

17또한 가지 얼마가 꺾여 졌는데 돌감람나무인 네가 그들 중에 접붙임이 되어

참 감람나무 뿌리의 진액을 함께 받는 자 되었은즉

18그 가지들을 향하여 자긍하지 말라 자긍할지라도 네가 뿌리를 보전하는 것이 아니요 뿌리가 너를 보전하는 것 이니라

성도는 참 감람나무에 접붙임을 받은 돌 감람나무일 뿐이므로 절대 자긍해서는 안 된다는 것입니댜.

돌 감람나무 가지는 참 감람나무에서 떨어지는 순간 죽은 것입니댜.

그리고 그 돌 감람나무들이 참 감람나무에 접붙임을 받은 것도 자기들의 공로나 업적이나 노력을 근거로 하여 그리 된 것도 아닙니댜.

뿐만 아니라 그 돌 감람나무에 맺히게 되는 열매도 돌 감람나무의 것이라 할 수 없습니댜.

열매는 뿌리의 진액으로 맺어지는 것이니까요. 그런데 그렇게 참 감람나무에 붙어 겨우 생명을 얻은 돌 감람나무들이 자신들이 맺은 열매를 업적으로 내어 놓으면서 자신을 자랑하고 있다면 그처럼 우스운 일이 어디 있겠느냐는 것입니댜.

그게 바로 바리새인들이었습니댜.

주님은 그러한 자들에게 이렇게 일갈을 하셨습니댜.

 

(요15:4-6)

4내 안에 거하라 나도 너희 안에 거하리라 가지가 포도나무에 붙어 있지 아니하면 절로 과실을 맺을 수 없음 같이 너희도 내 안에 있지 아니하면 그러하리라

5나는 포도나무요 너희는 가지니 저가 내 안에, 내가 저 안에 있으면 이 사람은 과실을 많이 맺나니 나를 떠나서는 너희가 아무 것도 할 수 없음이라

6사람이 내 안에 거하지 아니하면 가지처럼 밖에 버리워 말라지나니 사람들이 이것을 모아다가 불에 던져 사르느니라

예수님을 떠나서는 그 누구도 하나님이 기뻐하시는 열매를 맺어낼 수 없다는 것입니댜.

오직 예수님에게 붙어있는 자만이 하나님이 기뻐하시는 열매를 맺게 되는데 그것도 자신들이 맺는 것이 아니라 참 포도나무이신 예수가 맺는 열매를 거저 전가 받아 하나님의 사랑받는 자가 되는 것입니댜.

그게 할례인 것이고 세례인 것입니댜.

오늘 본문에서 바로 그 예수를 발견해야 하는 것입니댜.

과원지기가 되셔서 찍혀 버려야 할 우리를 변호하시며 ‘제가 그들을 위해 거름이 될 테니 그들을 면제해 주소서’라고 우리를 품어 안아 주신 바로 그 예수를 발견할 수 있어야 하는 것입니댜.

우리 삶의 열매를 우리가 맺는 것이 아님은 바로 그 위의 구절에도 여실히 나타나 있습니댜.

 

(요15:1~2)

1내가 참 포도나무요 내 아버지는 그 농부라

2무릇 내게 있어 과실을 맺지 아니하는 가지는 아버지께서 이를 제해 버리시고 무릇

과실을 맺는 가지는 더 과실을 맺게 하려하여 이를 깨끗케 하시느니라

예수님은 당신 자신이 포도나무라고 말씀을 하십니댜.

그런데 예수라는 참 포도나무에 접붙임을 받았음에도 과실을 맺지 못하는 자는 제해 버리신다고 하시지요? 그 어구가 아주 오해가 많은 부분인데 여기에서 ‘제하여 버리다’라고 번역이 된 헬라어 ‘아이로’는 ‘들어 올리다’라는 뜻의 단어입니댜.

그러니까 정확히 번역을 하면, 예수님에게 접붙임을 당한 자들이 열매를 맺지 못할 때 하나님께서 직접 그 가지를 양지 바른 곳으로 들어 올리셔서 열매를 맺게 하신다는 것입니댜.

그러니까 가지의 삶에서 열매를 맺으시는 주체는 하나님이신 것입니댜.

 

그럼에도 그러한 하나님의 은혜를 무시하고 자기들이 마치 선하고 착한 열매를 맺어 세상의 사랑을 받고 신의 사랑을 받아 낼 수 있는 존재라고 착각을 하는 것이 바로 악인 것입니댜.

 

(렘2:21~23)

21내가 너를 순전한 참 종자 곧 귀한 포도나무로 심었거늘 내게 대하여 이방 포도나무의 악한 가지가 됨은 어찜이뇨

22주 여호와 내가 말하노라 네가 잿물로 스스로 씻으며 수다한 비누를 쓸지라도 네

죄악이 오히려 내 앞에 그저 있으리니

23네가 어찌 말하기를 나는 더럽히지 아니하였다 바알들을 좇지 아니하였다 하겠느냐

골짜기 속에 있는 네 길을 보라 네 행한 바를 알 것이니라

여기에 명확하게 나오지요? 하나님께서 이스라엘을 참 종자, 곧 귀한 포도나무로 심으셨는데 그 포도나무가 이방의 악한 포도나무가 되었다고 합니댜.

그리고 그 밑에 악한 포도나무의 정체가 그려지는데 그들은 스스로 잿물로 씻고 수다한 비누로 씻으면서 ‘나는 더럽지 않다’고 말하는 자들이라고 합니댜.

그들은 하나님에 의해 은혜로 심겨진 자들이고, 따라서 하나님에 의해 열매를 맺으며, 하나님에 의해 깨끗해 질 수 있는 자들인데, 그들이 자신들은 스스로의 힘으로 자생하게 된 것이고, 스스로의 힘으로 깨끗해 질 수 있다고 우기는 것입니댜.

이게 바로 악한 가지이며 이게 바로 유대주의, 인본주의인 것입니댜.

인간은 하나님의 영광 앞에서 자신들의 티끌 됨과 더러운 죄인 됨을 올바로 직시하고 하나님의 은혜만을 구걸해야 산 자가 될 수 있는 자들입니댜.

그런데 잿물과 비누로 스스로를 씻으면서 ‘우리도 이 정도면 깨끗하지?’하고 너스레를 떠는 자들이 바로 악한 포도나무라는 것입니댜.

참 포도나무는 ‘나는 예수라는 진짜 포도나무에 은혜의 접붙임을 받아 비로소 산 자가 된 사람이야’라는 겸손한 고백을 하는 자들인 것입니댜.

그래서 우리가 지난주에 살펴보았던 비유에 이런 내용이 들어가 있는 것입니댜.

 

(마15:11~14)

11입에 들어가는 것이 사람을 더럽게 하는 것이 아니라 입에서 나오는 그것이 사람을

더럽게 하는 것 이니라

12이에 제자들이 나아와 가로되 바리새인들이 이 말씀을 듣고 걸림이 된 줄 아시나이까

13예수께서 대답하여 가라사대 심은 것마다 내 천부께서 심으시지 않은 것은 뽑힐

것이니

14그냥 두어라 저희는 소경이 되어 소경을 인도하는 자로다 만일 소경이 소경을

인도하면 둘이다 구덩이에 빠지리라 하신대

사람들이 아무리 자기들의 힘과 노력과 열심으로 포도나무를 멋지게 심어 놓고는 ‘어때, 참 멋지지?’하며 자기들의 행위를 자랑할 지라도 그게 하나님이 심으신 것이 아닐 때에는 다 뽑힌다는 것입니댜.

‘하나님이’ 심으신 것만 남는다는 것입니댜.

왜냐하면 하나님 나라의 존재방식은 밖에서 들어가는 것으로 안의 것이 영향을 받는 그런 양식이 아니기 때문입니댜.

하나님 나라의 존재 양식은 은혜입니댜.

은혜로 존재하고 은혜로 경륜되며 은혜로 완료가 되어지는 곳입니댜.

 

 

그럼에도 불구하고 마치 예수님의 십자가는 겨우 집행유예 정도만을 따낸 것으로 생각하고 그 집행유예 기간 동안에 우리가 우리의 힘으로 열매를 맺어 내지 못하면 다시 형이 집행이 된다고 주장하는 일부 알매니언 주의자들이나 타 종교인들의 억지는 우리 주님의 십자가 구원의 완료성에 엄청난 흠집을 내는 악한 주장인 것입니댜.

그런 데에서 가계에 흐르는 저주니 뭐니 하는 엉터리 잡 교리들이 나오는 것입니댜.

예수님의 십자가는 그 자체로 완전한 것입니댜.

더 이상 우리가 노력하여 풀어내야 할 저주도 없고, 우리가 열심히 노력하지 않으면 십자가의 효력이 무효가 되는 그런 일도 없습니댜.

우리는 집행유예를 선고 받은 자들이 아닙니댜.

예수 안에서 완전한 사면을 받은 자들입니댜.

우리가 받을 형은 이미 예수가 다 받아 버리셨습니댜.

그래서 우리는 순결하고 고귀한 하늘의 자녀로 이미 완성이 되어 버린 것입니댜.

그래서 여러분 밖의 그 어떤 더러운 것도 여러분을 더럽게 만들지 못합니댜.

그럼에도 오늘날의 성화론은 우리에게 교묘하게 짐을 지우고 있습니댜.

예수를 믿고 난 후라 할지라도 열심히 노력하여 거룩하게 살기를 힘쓰지 않는 사람은 절대 구원 얻은 사람일 수 없으니 좋은 열매들을 맺어 내라는 것입니댜.

좋은 소리입니댜.

그러나 그보다 먼저 선행되어야 할 것이 주님의 십자가 은혜를 깊이 체험하고 배우는 것입니댜.

우리는 가지입니댜.

가지는 아무리 열심을 내어도 스스로 열매를 맺어 낼 수 없습니댜.

오직 가지가 할 수 있는 일은 자기 자신의 열매 없음이 폭로 될 때마다 참 포도나무이신 예수님의 은혜의 필연성을 꼭 붙드는 것뿐입니댜.

그것이 수고하고 무거운 짐을 예수 앞에 내려놓는 삶인 것입니댜.

 

(눅11:46)

46가라사대 화 있을 진저 또 너희 율법사여 지기 어려운 짐을 사람에게 지우고 너희는 한 손가락도 이 짐에 대지 않는도다

보세요. 바리새인들과 서기관들 등의 율법사들이 율법지킴과 선한 삶을 강조하면서 사람들 등에 짐만 잔뜩 지웠다는 것입니댜.

그리고는 그들이 짊어진 짐에 대해 조금도 도움을 주지 못했다는 것입니댜.

율법은 수고하고 무거운 짐을 더 지우는 것일 뿐, 그 짐을 내려놓는 것에는 조금도 도움이 안 되더라는 것입니댜.

 

 

여러분, 사람은 죽어서 이름을 남기기 위해 살도록 지어진 존재가 아닙니댜.

 

세상 사람들에게 좋은 평판을 얻는 것을 목표로 살아서도 안 됩니댜.

세상은 우리가 가는 길을 알지 못하기 때문입니댜.

내가 이 세상을 떠날 때에 사람들이 나를 그리워 해주고, 나의 떠남을 아쉬워 해주며, 나의 부재를 오래도록 아파해 주는 것, 그게 무슨 소용이 있습니까? 사람은 바로 그 죽음 뒤의 삶인 영원을 준비하며 살도록 지어진 존재입니댜.

영원 속에서 나는 천국과 지옥, 둘 중 어디로 가게 될 것인가? 거기에 관심을 가지셔야 합니댜.

 

성도 여러분, 우리는 그린 마일 위에서 하루하루 죽어가던 사람이었습니댜.

그런데 그 무시무시한 죽음의 현장으로 대 사면령이 떨어져 하늘의 왕자들이 되어 버린 것입니댜.

그 은혜의 복음을 이해하는 이들만이 성도입니댜.

고소 자로 오실 그 예수와 화해하셔야 합니댜.

예수를 믿으세요.