Kairosを生きる人々

(28) - 餅一つあげたら、本当に食べたりしないだろうか? 본문

講解説教/譬え(たとえ)

(28) - 餅一つあげたら、本当に食べたりしないだろうか?

cocoa 2026. 3. 8. 23:00

 

 


 (28) - 餅一つあげたら、本当に食べたりしないだろうか? 

 

 

(マルコ13:28~37)

(マルコによる福音書 13:28-37)

28 いちじくの木のたとえを学べ。その枝が柔らかくなり、葉が生え出せば、夏が近いことを知る。

29 同じように、あなたがたも、これらのことが起こるのを見れば、人の子が近く、まさに門口に来ていることを知れ。

30 まことに、あなたがたに言う。この世代が過ぎ去る前に、これらのことはすべて起こる。

31 天地は滅びても、わたしの言葉は決して滅びない。

32 しかし、その日と時は、だれも知らない。天の御使いたちも、御子も知らない。ただ父だけが知っておられる。

33 だから、目を覚ましていて、その時がいつなのかわからないのだから。

34 たとえ人が家を離れて異国へ行くとき、その僕たちに権限を与え、それぞれに仕事を任せ、門番に目を覚ましていなさいと命じるのと同じである。

35 だから目を覚ましていなさい。家の主人がいつ来るか、夕暮れ時か、真夜中か、鶏が鳴く時か、明け方か、あなたがたは知らないからである。

36 彼が突然来て、あなたがたが眠っているのを見られないようにしなさい。

37 目を覚ましていなさい。私があなたがたに言うこの言葉は、すべての人に対する言葉である。」と仰せになった。

 

わが国の伝承童話の中に、「太陽と月」という童話があります。

餅売りの母が、市場で商売を終え、山を越え峠を越えて家路につく途中、虎が現れます。

そして、しつこく「餅一つくれれば食わないぞ!」と、好意を示しながら、 母が売れ残った餅を全部奪い取って食べます。

そうして餅を全部奪い取った虎が、ただ腹を叩きながら帰ったでしょうか?

いいえ。虎は、その母にこれ以上残った餅がないと知った瞬間!その母を捕まえて食べてしまったのです。

そして幼い兄妹が残っている家に行き、母の真似をしながら、その兄妹まで害そうとするのです。

手に何か 、小麦粉も塗り、あらゆる手口を使います。その時、兄妹は神様に祈り、縄を下ろしてほしいと願い、天に昇って太陽と月になったというおとぎ話です。虎は腐った縄を伝い、兄妹を捕まえようと天へ昇ろうとしたところ、縄が切れて、籾殻畑に落ちてしまい、 籾の穂先があんなに真っ赤なのは、親切にも説明まで添えてあるんです。

私が福音を知った後、この『太陽と月』という童話を題材にしたミュージカルを見に行ったことがあります。

私はすでにその話の内容を全て知っていたため、餅売りの母親が、虎の親切を装った罠に引っかかるたびに、本当に胸が痛みました。結局は餅も全て奪われ、さらには食べられてしまうのに…。

あの母親は、自分を食わないという虎の誘惑に惑わされ、自分の全財産とも言える、売れ残った餅を、次々と虎に捧げ物として差し出す姿が、まるで地獄に行きたくないがために、やりたくない宗教行為を無理にこなし、心にもない愛と奉仕を絞り出すために、時間とエネルギーを浪費している今日の教会の信徒たちのようだったからです。

生きるために餅を捧げるのです。

牧師たちは講壇の上で、「餅一つくれれば、食わないぞ!」と唸り、信徒たちは会衆席に座って、「本当ですか?それなら本当に地獄に行かず生きられますか?」 と相槌を打ちながら、自分の所有物とエネルギーを搾り取られる構図!まさに邪悪な虎と、愚かで哀れな餅売りの母親のようではありませんか?実はあげたくないのです。

やりたくないのです。私の餅ですから。でもその餅をあげれば食われないと言うから、無理やり差し出すのです。

聖徒は、熱心に餅を捧げることで死を、地獄を免れることができるのではありません。

聖徒は、自分の手元に虎に捧げる餅が一つもないとしても、ある者が、すでに自分の死を飲み込んで、 打ち砕いてしまったというその信仰によって、だから私に餅を要求する地獄の虎は、たとえ私が餅を出さなくても、自分を食い尽くすことはできないというその信仰によって、地獄を免れるのです。

信仰によって!それが聖徒の実存です。

だから神は、その恵みの現実を、御自身の民に教えるために、時に聖徒の生活の中で、差し出す餅がないようにしてしまうのです。

餅を出したくても出す餅がないようにしてしまうのです。

それにもかかわらず、私はあなたを救うということを聖徒たちに刻み込むために、餅を出せないようにしてしまうのです。

悪魔は常に、「パン一つ与えれば」というこの人間の行為を手がかりとして提示します。

「善悪の知識の実を食べれば」という行為を根拠に、「神のように」という自己規定の誘惑をしたエデンの園のあの悪魔が、全く同じ方法で、歴史全体を包括しながら人間たちを惑わしているのです。

皆さん、黙示(黙示)とは、過去・現在・未来が統合された概念なのです。

決して年代記的に、歴史的な順序でそれを理解しようとしてはいけません。創世記の蛇は、 全歴史を包括し続けて活動しています。そして創世記のアダムこそが私たちなのです。それが黙示です。

人間は価値があり、尊く、能力ある存在であるゆえに、自らから生産され、創造され、蓄積されたそのパンによって、生存と幸福の基盤を築かねばならないという、実に巧妙な誘惑です。

それが悪魔の誘惑なのです。お前たちは価値ある存在であり、 力ある存在だから、お前たちはパンを生産し蓄積できると煽るのです。

なぜ神によって受動的・被動的に引きずられるだけなのか、ということです。

『善悪の果実を食べろ!食べれば、こうなるぞ!』と言うのです。お前のパンでお前の生存を!お前の幸福を守れと。

お前のパンで!素晴らしいでしょう?

だから人間の価値を尊ぶ善悪の果実を食べた全ての人間が、その悪魔にパンを捧げて生きるのです。

全ての人間が『私』という王の、『私』という存在!この王の、 安寧と救済のために、安らぎのために、そしてその偉大なる王の自尊心のために、悪魔が提示する条件を満たそうと、血眼になって生きるのです。

目に見える私の行為と、私の所有物が、あたかも私を救えるかのように!悪魔が要求する餅を生産し蓄積し、この世の神の祭壇に捧げるのです。そのこの世の神の本質は元々「私」なのです。私!結局は私のために、その世界にパンを私に捧げているのです。

全ての人間が!それが人類の歴史です。

皆さん、人間はそれほど偉大な存在ではありません。『いや、神のかたちに造られたのに、偉大な存在ではないと?』はい。

神のかたちとは、人間が神に匹敵する能力を持つ者という意味ではありません。

人間が神のかたちに造られたとは、人間という存在は、完全に空っぽになって、神という存在によって満たされ、完全に神のものだけが現れてこそ、 それが神の像なのです。

パウロはイエス様を指して神の像と言っていますよね?コリントの信徒への手紙二4章4節で!イエス様がご自身を空しくして!フィリピの信徒への手紙2章7節以下に!ご自身を空しくして、神の御心でご自身を満たして生きてこられたじゃないですか?だから 「私は自分が望む言葉も、望む行為も一つもせず、私の中におられる聖霊がすべてなさったのです」とおっしゃっていますよね?

神が命じられる言葉だけを発した。そうでしょう?それが神の御姿なのです。

私が空しくされ、神が私に満たされ、神のものだけが現れること!

ですから、神の御姿とは、自己否認の完全さを前提とする概念こそが、神の御姿なのです。

私が完全に否認されて初めて、神が満たされ、その時、神の御業だけが現れることを、神の御姿と呼ぶのであって、私たちが神に似た能力を所有する者として造られたから、だから私たちが神の御姿だ!という話ではないのです。誤解しないでください。

人間は、神の言葉によって、神の御心の中で初めて存在し、幸せになれるのです。

だから今日の本文30節と31節で、神の言葉の永遠性!その永遠性!不変性が宣言されているのです。本文30節を見てください。

 

30 まことに、あなたがたに告げます。この世代が過ぎ去る前に、これらのことはすべて成就するでしょう(すべて成就するでしょう!)

31 天地は滅び去っても、わたしの言葉は決して滅び去ることはありません

 

終わりの時について尋ねる弟子たちに、主が答えられた御言葉です。

すべてのものが消え去っても、神の御心!神の計画!神の契約!神の御言葉だけが最後まで残り、すべて成就する!成就するという意味です。

しかしこの「テテレステイ、すべて成就する」という御言葉が、十字架の上で宣言されてしまったのです。

「すべて成し遂げた!」そうでしょう?神の契約、御言葉、黙示がすべて成就したのです。

どこで?十字架の上で成し遂げられるのです。

十字架の上で!ですからこの世は目に見える可視的な現象や、現実!行いで判断するのではなく、神の言葉に込められた、

完了した未来の観点から見なければならないのです。天地はすべて消え去るかもしれませんが、私たちの行いのようなものはすべて消え去ってしまうのです。

この世はすべて消え去ってしまうのです。出来事、状況、現象、現実、すべて消え去ってしまうのです。

最後まで残る永遠なるものは何ですか?神の言葉以外にないのです。

だからこそ、しかし神の言葉は必ずすべて成就する、 そうでした。

その神の言葉がすべて成就するということは、この黙示の完成性を語っているのです。

言葉の完成性!これは必ず完成され、すでに完成されているのです。すべて成就したのですから!

ですから、その完成された黙示の永遠の中で、この現実を見つめなければなりません。

消え去ってしまうこの行為と出来事と現実に縛られて、自分の未来を不安に思うべきではないのです。

私の行為とこの出来事のために、私の未来が がこうこう変わるのではないか?これは違うのです。言葉は完了しているのです。

この行為と出来事と現実が揺らぐのです。ですから、これを持って揺れる現実を持って、未来を推測したり判断したりしてはならないのです。私が餅を準備して未来を準備するのではないのですから。

私が虎に餅を差し出して未来を準備するのではなく、未来は既に定められており、私が餅を差し出そうが差し出さなかろうが、その未来に影響を与えることはできないのです。

あらゆる現象と現実というものは、全て消え去るでしょう。

神の御心と神の御言葉のみが永遠に成就されるのです。過去と現在のその現象と出来事と現実と行為が、積み重なって、積み重なって積み重なって、 未来が決まるのではなく、決まった未来があり、その未来が現在と過去へとこうして流れ落ちてくるのです。

これが時間です。時間は過去から未来へ流れるものではないのです。完成された未来は私たちに既に与えられており、その未来がここで花開くのです。

だから私が水曜日に聖書勉強した時、お話ししましたよね?黙示とは、完了しているものであり、神の計画であり、御心であり、御言葉だからです!その黙示は種なのです。

その種が、大きく咲き誇り、この種の内容を示すこと、これこそが歴史なのです。

ですから歴史とは、完了した黙示の顕現的現象であって、この歴史によって黙示が揺らぐことはないのです。

神の御心と契約が揺らぐわけではないのです。

皆さん、今日の内容は少し難しいかもしれませんが、よく聞いて、何度も聞いて、完全に理解しておかなければなりません。

そうしてこそ、皆さんが他の場所に行っても、この言葉が果たして聖書に基づいて正しいのか?間違っているのかを分別できるのです。いつも幼児的なレベルで皆さんを慰め、なだめてほしいと言ってはいけません。

皆さんは成長し続けなければなりません。御言葉の学びにおいては!

さあ、考えてみてください。皆さん!本当に重要なのは、人間と人間が経験するこの現実ではなく、神の契約であり、 御言葉なのです。その契約の成就の過程において、その契約の成就の過程において、その人間が救いの材料として用いられるのであって、人間の救いが目的ではないのです。

この人間中心主義に陥っている人間たちは、常にこれを目的とするため、残りの全てが脇役になってしまうのです。

取るに足らないものになってしまうのです。そうではないのです。

重要なのは、神です。神の契約であり、神の栄光です。それが現れるために必要だったのが、人間の救いだったのです。

人間の救いのために神の栄光が使われたのではないのです。

考えてみてください。エデンの園で最も大切なものは人間でしたか?違います。園の中央に何がありましたか?

命の木と善悪の知識の木があったのです。その二本の木が最も重要なのです。

人間が二本の木よりも重要だったなら、善悪の知識の実一つ食べたからといって、人間を追い出してはいけません。

人間が、善悪の知識の実の損傷によって追い出されたということは、本当に重要なのは、園の中央に植えられていた、善悪の知識の木と命の木だということです。人間が尊いのではありません。皆さん!

人間は、神の契約の下にある者であって、契約を踏み越えられる存在ではありません。

善悪の知識の木と命の木は、神の契約!すなわち福音を内包する型なのです。

それが重要なのです。これを現すために、その中には神の属性と栄光と力が入っているため、これを現すために人間が必要だったのです。ところが人間がこれを損なったせいで追い出されるというわけです。

人間は、そのような神と神の国原理を現す、道具に過ぎないのです。

善悪の知識の木と命の木は、そのイエス・キリストが内包していた、その神の属性と神の国その原理を の模範として示したのです。

それが善悪の知識の木と命の木です。単なる木があった、と考えるのではなく、よく聞いてください。

人間は、自らの力では、善悪の知識の試練を通過できない存在です。善悪の知識の木は、神が出題された神の国入学試験問題です。

それを解けば、永遠に生きられます。しかし神の試練は、被造物が解けるものではありません。神の試験は、神だけが解けるのです。

しかし神はただお一人です。そのお一人である神が、ご自身の民を造り、その試験問題を突破させて、ご自身の国へ迎え入れたいと願っておられるのです。

ではどうすればよいのでしょうか?神はただお一人なのに。そして神が出題した問題は神以外には解けません。

神が解かなければならないのです。

その善悪の知識の実の試練を、神であるイエス・キリストを遣わして解かせます。

イエスは律法の終り!律法の完成!これが善悪の知識の実の試練ですよね?律法の終り!律法の完成となられ、善悪の知識の実の試練を通過してしまわれるのです。

そしてその合格者の身分を、神が選ばれた民にただで与えてくださるのです。これが命の木です。

つまり善悪の知識の木と命の木は、神の恵み!そして神の国という構造!神の属性を内包しているのです。

その二つの木そのものが!それを現すことが、神の栄光を現すことであり、その神の栄光のために、私が創造した者を来させよ!

これがどういう意味かお分かりでしょう?今こそ。

それを現すために人間が必要だったのです!人間の救いが必要だったのです!人間の救いが中心ではないというのです。

しかし善悪の知識の木の実を食べて神のようになろうとした人間たちは、これを認めません。

私が神なのですから。私が神なのですから。さあ、まさにその善悪の知識の木と命の木の中に込められているその内容が福音であり、

それを『恵みの原理』と呼び、それを『愛』とも呼ぶのです。

それが神の国(ハヌク)の構造であり、神の属性なのです。

聖徒とは、まさにそれを証しする者として生きるのです。

「あなたがたはわたしの証人となる」と言われた時のその働きこそが、まさにそれを証しすることです。

神がどのような方であり、どれほど偉大な方であり、どのような赦しと愛をもって私たちを愛してくださったかを証しするのであって、神が私のために存在するのではないのです。

あなたは愛されるために生まれた人ではありません。あなたは神の栄光を現すために存在する人です。

ですから聖徒は神から命の木の実!すなわち天のパンを食べる者であって、善悪の知識の実の試練を自らの力で通過しようとしたり、

言い換えれば自らパンを生産して生きようとしたり、自尊心を張ってはならないのです。

私がパン一つ差し出して、パン一つ与えて、善悪の知識の木の試練を解き、命の木の実を食べて生き返るのではなく、パンが、命の木の実が、私に無償で与えられるのです。これが神の国(ハゴド)の構造です。

水曜日に申し上げましたよね?神の国とは何ですか?

神の国?この地にその神の国様式で造られたものは何か?

幕屋!幕屋の中心は至聖所!至聖所の中でも贖罪の座!その贖罪の座と契約の箱はどんな構造でできていますか?

贖罪の座は契約の箱の蓋です。赦しが注がれる場所です。マーシーシート!憐れみと恵みが注がれる場所です。

その下には?契約の箱の中の証の板が入っています。

しかしその証の板は、人間の失敗を象徴しているのです。

出エジプト記25章 章でまさにその贖罪の蓋の様式が示されていますが、32章でこの連中が金の牛像を作ったせいで、

証の板が降りてくる途中で割れてしまい、再びその失敗を根拠として、上って降りてきたその証の板が収められているのです。

つまり神の国という構造とは、 神は常に赦すお方としておられ、被造物は常に赦される立場にあるのです。

その赦しを注がれる方と赦しを受ける者の間を埋めるのが、「愛」というものです。それが赦しです。

それが神の国なのです。皆さん!

神の栄光のみが明らかにされ、私たちは被造物の立場にへたりこんで、その赦しと生命力を受け取るのが、神の国という構造なのです。これが善悪の知識の木と命の木であり、この現実を明らかにするのが神の国!この地に植えられた神の国!聖徒はそれを証しするのです。

神の愛はどれほど大きく、その方の赦しはどれほど豊かなかを現す者であって、私がパンを差し出して、神の赦しも必要ない、

そんな立派な者にアップグレードされることではないのです。

ダメだということは分かっているでしょう?嘘をつかないでください。いつも変わった!変わった!と言うのに、成熟した!成熟した!と言うのに、少し考えてください。皆さん!

聖書は何と言っていますか?百の戒めを守っていても、一つ破れば全て破ったことになる、と。では成熟というものの定義は何ですか?一体!成熟とは、ある時点と比較して自分が良くなったことを指すのに、その良くなった状態で、皆さんが完璧に神の言葉を守れるでしょうか?違いますよね?守れないじゃないですか?私たちは朝起きてから罪のことばかり考えています。

では成熟とは何だというのですか?まったく!

百個守った人も、千個守った人も、その人の人生の中で、一つの過ちがある時は、皆同じだと言うのに、何が成熟だと言うのですか?

何が成熟だと言うのですか?百個守っていた人が二百個守れば、成熟だと言うのですか?神様はこれも殺す、そう言われたのです。

では何が発展で何が成熟だというのですか?

私は最後まで罪人として、神様の前に晒されるのです。

そしてその罪人に注がれる、神様の恵みだけが現れるべきで、私が何度も餅を差し出して、他の人よりまともな存在になろうとするのは、福音を理解していない人間です。

よく理解しなければなりません。

皆さん!善悪の果実を食べて、善悪の判断は自分で行い、自分が神のように成り上がろうとし、宇宙の中心が『私』だと言う者たちは、絶対にこれを認められません。『いや、私は発展するんだ!私は向上できる!私は立派な人間だ!私はイエス様の中の一片だ!」それを自慢したいのです。

さあ、そうして全ての人間は、神様から餅を受け取って食べる者でなければなりません。

それが神の国(神の国)の構造です。だから全ての人間の代表であるアダムが、アダムという言葉自体が 「人」という意味なんです。アダムが、善悪の知識の木の実を食べたことで歴史が始まるのです。

人間の始まりはここだ!これが死んだ土の姿なんです。私たちが死んだ土だったというのです。

神が息を吹き込む前はただの死んだ土でした。ここから出発するのです。ここから!

​

彼らがどのようにして神の子となるかを示すのが聖書です。

だから出発点は死んだ土から始まるのです。善悪の知識の実を食べなければなりません。

食べてはいけないと与えたのではなく、食べなさいと与えたのです。

そしてそれを食べた者が、「ムート・タムート、必ず死ぬ」はずなのに、どうして生きられるようになるのかを示すのです。

ですから聖書全体は、恵みと十字架以外の話は一言も書かれていないのです。

たった一言!「お前たちはパンを作れない!」から歴史が始まるのです。ところがパンを作れ!お前たちはパンを作れると執拗にせがむ者がいる、それが悪魔なのです。「善悪の知識の実を取れば…!」それが繰り返されるのです。

私たちの生活の中で!「善悪の知識の実を食べれば…できるんだからやってみろ!」

聖書は、そうして善悪の知識の実を食べ、自分はパンを生産し捧げられる存在になったと自慢する、そんな状態の人間を「死んだ者」と言います。エペソ人への手紙2章1節を見てください。

 

(エペソ人への手紙 2:1-3)

1 あなたがたの過ちと罪によって死んでいたあなたがたを、神は生かしてくださいました。

2 その時、あなたがたはその中で歩み、この世の風潮に従い、空中の権威を持つ者に従っていました。すなわち、今、不従順の子らの中に働いている霊です。

3 かつて私たちも皆、その中にあって、肉の欲望に従って歩み、肉と心の望むことを行い、他の人々と同じように、本質的に怒りの子らでした。

 

さて、この姿こそが、「パン一つくれれば食わないだろう!」と誘惑するこの世の神に捕らわれ、彼が求めるパンだけを追い求めて生きる人生の姿です。

そうして死んだ者たちは、この世の神に騙され、肉の欲望に従い、肉と心の望むことを行い、パンを生産するのです。

そうです。それが罪と咎によって死んだ状態なのです。

彼らは神を利用しても、自分たちを救うまさにそのパンを得るために全力を尽くします。

今日のキリスト教もそうではありませんか?神を利用しても、私が作るパン!私が蓄積し生産するそのパン!を得ることに全力を尽くすのです。

ここでパウロは、すべての人間は 「本質的に怒りの子!」と言います。生来の怒りの子という意味です。

生まれた時から!それは、罪の奴隷!罪人!などと置き換えて呼べます。

怒りの子!罪の奴隷!罪人!奴隷とは、主人に従属し、主人を構成する付属品のようなものです。それが奴隷です。

古代時代の奴隷の概念!

では罪の奴隷である人間が、奴隷が行う行為は、その行為も全て主人のものになります。

では罪の奴隷が行う善い行いは誰のものですか?主人のものです。だから罪なのです。

罪の奴隷が行う全ての行為は主人のものだから、罪の奴隷という状態でなされる、人間のどんな善い行為も全て罪です。

だからガンジーやシュバイツァーの行為が罪だと言うのです。私が言います!彼らは神を知らなかったからです。

ましてやイエス様が神の子ではないと悪影響を与えた神学者がシュバイツァーだったのですから!彼らの行為は全て罪です。

ところが今日の教会はまさにその善い行いをしようとしているのです。

だから世から称賛を受けようとしているのです。

健全な教会!健康な教会!笑わせるなと言ってください。神はその内面を見透かされるのですから。

『本当にあなたがたは私の栄光のためにそのことをしているのか?違うだろう?あなたがたの教会を自慢したいだけだろう?

あなたがたの牧師を自慢したいだけだろう?自分を自慢したいだけだろう?』神はその内面を見透かされるのです。

それが罪です。皆さん!

さあ、そうして私たちは、餅を生産し、蓄積して、生存と幸福に至ろうとするすべての人間からは、罪しか出てこないということを、

肝に銘じなければなりません。それが悪魔に属する者の状態であり、死んだ者の状態です。

「いや、でもここでは生きたと言っているではありませんか?」はい。その生きたものが何かを私が教えようとしているのです。

今日!その生ける者たちの行いがどのようなものか、教えようと思います。

そうして皆が死んでいるこの世に、主が訪れてくださいました。皆が死んでいたのです。

義人はいない、ひとりもいません。善を行う者は一人もいませんでした。皆死んでいたのです。

主はこの世に降りて来られ、ご自身とは何の関係もない、呪いの十字架を負われることによって、選ばれた群れの死を飲み込み、彼らを目覚めさせられました。そしてそうして生きている者たちに、「目を覚ましていなさい!」と命じられるのです。

「目を覚ましていなさい!」それが今日の聖句です。

この『目を覚ましていなさい』における『目を覚ましていること』が何であるかを、皆さんがはっきりと理解して行かなければならないのです。主人が家を離れる際、僕たちにそれぞれの事柄を任せて、『目を覚ましていなさい』と命じて去りました。

ところがその主人が、 いつ戻ってくるかは誰も知りません。したがって、しもべたちは、主人が戻ってくるまで常に目を覚ましていなければなりません。まぶたが閉じそうになったら、枕を高くしてでも目を覚ましていなければならないのです。

そうでしょう?常に目を覚ましていなさいと言ったのですから!

しかしそれは肉体を持つ人間には、到底不可能な命令ですよね?例えば「一日に三時間だけ眠って起きているように」とか、

「昼は眠り、夜は起きているように」といった具体的な命令なら、いくらでも人間の能力で実行可能な命令です。

しかし 「常に目を覚ましていなさい!いつも目を覚ましていなさい!」という命令は無理です。それは不可能なことだからです。

人間が眠らずに目を覚まして耐えられる時間は限られています。人間は必ず眠らなければなりません。

だから拷問の中で、最も恐ろしい拷問は眠らせないことです。皆、自白します。経験して、知っています。私はね。皆、自白します。眠らせなければ!殴られるのは耐えられます。

でも眠くて死にそうなのに、奴らは交代で寝て、自分は眠らせない。そうすると後で皆、自白します。

さて、それでは、いつ戻ってくるかもわからない旅に出ながら、僕たちに起きているように命令を下して行くその主人の命令の真意が、何か深遠な内容を含んでいると思いませんか?肉を持つ人間の特性上、不可能なことを要求しているのを見ると、「その『目を覚ましていること』の主体は、僕たちではないかもしれない!」という推論が可能ですよね。できないことを主人がよく知っているのに、

「目を覚ましていなさい」と無理を言う方ではないのです。なぜ?その方はイエスだからです!

ですから「常に目を覚ましていなさい」におけるその「目覚め」の主体が、その僕ではなく別の御方かもしれないという推論が可能になるでしょう?あまりに急いで死んでいた者が今目覚めたのだから、熱心に主の御言葉に従順な者として生きること、善い行いを多くし、宗教的行為を熱心に行いながら生きることが、目覚めていることだとそう推測してはいけません。

それはパンを生産して、自分にパンを捧げる行為になり得るからです。いくらでも!

考えてみてください。私たちが学んだ十人の乙女のたとえを通してでも、主は「目を覚ましていなさい」という勧告をされました。

そうでしょう?そのたとえの核心は「目を覚ましていなさい」でした。

目を覚ましていなさい!しかし、賢い五人の乙女は、目を覚ましていたでしょうか?眠っていたのです。

それでも彼女たちは目を覚ましていた者と見なされ、婚礼の宴に吸い込まれました。

そして門は閉ざされました。眠っていたのに、花婿が来て「入って来い!」と言うと、残りの愚かな者たち、油を買いに行った隙に門をパッと閉めてしまったのです。

彼女たちの目が開いていたからではなく、花婿が引きずり込んだのです。それでいて、目を覚ましていたと認めてやる。

賢い乙女だと言うのです。そうしながら「あなたたちも目を覚ましていなさい」と言う。ならば、あの乙女たちのようにすればよいのでは?しかし、あの乙女たちは眠っていたというのです。

このジレンマをどう解決されるおつもりですか?

主が求める「目を覚ましていること」は、私たちが作り出せる「目を覚ましていること」ではないということを、私たちは十人の乙女のたとえを通して、はっきりと認識していなければなりません。

今日の本文のたとえと並行するたとえが、ルカの福音書にも出てきます。そちらを見てみましょう。ルカの福音書12章35節。

 

(ルカの福音書12: 35-40)

35 腰に帯を締め、あかりをともして、立って待ちなさい。

36 あなたがたは、まるで主人が婚礼の宴から帰って来て、戸を叩くとき、すぐに開けてあげようとしている者のようにあれ。

37 主人が来て、目を覚ましているのを見たら、そのしもべたちは幸いである。まことに、あなたがたに告げる。主人は帯を締め、しもべたちを食卓に着かせ、自ら給仕するであろう。(これは非常に重要な言葉ですが、この点は来週続けて説明します。)

38 もし主人が二更か三更になって帰ってきて、しもべたちがこのようにしているのを見たら、そのしもべたちは幸いである。

39 あなたがたも知っているとおり、家の主人が、いつ盗人が来るか知っていたなら、その家を破られないようにしたであろう。

40 だから、あなたがたも備えていなさい。思わぬ時に人の子が来るのである。ない時に人の子が来るであろうと仰せになった。

 

ここでは、家の主人がどこへ行って来るのかが具体的に説明されています。どこでしょう?婚礼の家です!

改訳聖書では婚礼の家と訳されていますが、ギリシャ語では単に婚礼の宴です。婚礼の宴!十人の乙女のたとえ話でも婚礼の宴が言及され、ここでも婚礼の宴が言及されていることに注意して見てください。

「目を覚ましていなさい」という命令と、常に婚礼の宴が結びついています。

いったい婚礼の宴と目を覚ましていることには、どんな関係があるのでしょうか?主人は、今まさに婚礼の宴を終えて戻ってきている最中ですよね?婚礼の宴を終えて戻ってくるのです。

婚礼の宴を行うために来るのではなく、宴の会場から来るのですから。

ところでこの話がどこに当てはまるかというと、終わりの時、主の再臨の時を説明しているのです。

ところが婚礼の宴の会場から戻ってきているのです。イエス様が!『えっ、婚礼の宴は後で行われるのでは?』さて、このような疑問を一つ持っておく必要があります。

その主人こそが婚礼の宴の主役だったのか、それとも賓客だったのかは、さほど重要な問題ではありません。

何せたとえ話ですから。ここで重要なのは、その主人が出席した婚礼の宴が、すでに完了した宴であるということです。

その主人様は今、宴会の家から戻ってきているのですから!

ユダヤ人の婚礼の宴は、短くても一週間、長くは一ヶ月以上続きます。したがって、その婚礼の宴に出席した主人様がいつ戻ってくるかは、誰も知りません。ところが主人様は婚礼の宴に出かける際、僕たちに腰に帯を締め、灯火をともし、立って待てと命じます。

どこで見た?出エジプト記で見たでしょう?過越の祭り!これも来週説明します。

さて、そんな無理な要求がどこにある?いつ来るかもわからないのに、腰に帯を締め、ランプを持ち、立っていろって?門の前に!交代で目を覚ましていなさいでもなく、その命令を聞く「すべての僕たちよ!目を覚ましていなさい!」です。

本文37節を見てください。

 

(マルコによる福音書 13:37)

37 目を覚ましていなさい。わたしがあなたがたに言うこの言葉は、すべての人に対する言葉である。

 

そうでしょう?主人を待つすべての者が目を覚ましていなければならないのです。

今からその「目を覚ましている」とは何かを一緒に考えてみましょう。

私たちが論点逸脱の誤りを犯さないために、必ず、このたとえ話の背景として捉えるべきことが、まさに「婚礼の宴の完結性」という点です。婚礼の宴は完了したというのです。

僕たちを離れて別の場所へ行かれた主人が、主であることには異論はないでしょう?それはすでに私たちが学んだことですから!主です!

さて、その主人が再び戻ってこられる、その目に見える帰還を私たちは再臨と言います。

その再臨の時を準備せよという主の勧告の物語の中に、このたとえ話が含まれているのです。

ところが、私たちをこの世に残して去って行かれた主が行かれた場所は、婚礼の宴なのです。

そして、その宴の席から降りてこられるのです。

ですから見てください。十人の乙女のたとえと、今日の本文のたとえを合わせてみると、主は、すでに完了した婚礼の宴から、婚礼の宴を終結させるために来られるのです。

「すでに、まだではない(already not yet)」です。これこそが予定(予定)なのです。

すでに永遠という領域の中で完了したある黙示が!だから私が黙示は完了したと言うのです。

皆さんはすでに永遠の中で選ばれ、完了されている方々です。

永遠という、永遠の中で完了したある黙示が、この世の歴史として展開されること!これを予定と言うのです。

神の御心!契約!御言葉は変えられず、失敗することもありません。

しかしそれが過去と現在と未来が統合されている概念である、永遠という領域の中では、待ち時間や順序というものが存在しないため、すでに全知全能の神が立てられた計画、 御言葉は、完了したものであるということです。

一日が千年のようで、千年が一日のような場所ですから。

その完了している神の黙示が、歴史の中で「このように」展開されるのです。

黙示という巻物を、ずっと広げると、歴史になるというわけです。

それをくるくると巻くと、黙示になります。神の契約となるのです。それが未来から押し寄せてくるものを、私たちが時間と呼ぶのです。それを歴史と呼ぶのです。それがまさに予定なのです。

全知全能の神が永遠の中で計画されたことは、絶対に失敗することのないその完成性!「これが歴史の中で展開されること、そうでしょう?」というこの認識が、予定なのです。難しく考える必要はありません。皆さん!

永遠とは何と言いましたか?過去と現在と未来が統合された概念を永遠と言いましたよね?その永遠という概念の中で歴史を見ると、

エデンの園のアダムの中に、私が入り込むことになるのです。なぜなら?過去、現在、未来が統合されているからです。

聖書を見ると、創世記の内容がパウロの書簡に次々と現れ、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記の内容が福音書に次々と現れます。過去、未来、現在が一つにこうまとまっているのです。

これが黙示というものです。黙示(黙示)!

ですから、その霊魂という概念の中で歴史を見ると、エデンの園のアダムの中に私が入り、私が罪人になるのです。

そしてヨハネの黙示録の子羊の婚礼の宴に、私が入り込んでいるのです。

未来に!それが永遠だと言いましたよね?その永遠をどう生きるのですか?私は信仰によって生きるじゃないですか?「そうだ!」そうでしょう?その信仰によって永遠を生きる者を、永遠の命を生きるというのです。

ですから皆さん、今まさに永遠の命を生きているのです。何か幸せで安らかなものを永遠の命と勘違いしないでください。

永遠を生きるのが永遠の命なのに、信仰の中で!その神の完成された神の国を、私が認識していて、望んでいるという事実そのものが、永遠の命を生きているということなのです。なぜなら?まだ来ていないものに私がいるからです。

信仰によって!どこでこんな説教をするでしょう?誰も理解できないでしょうから…(ハハハハ)

歴史は、順序を持って積み重なっていくように見え、偶発的で偶然的なものによって!まるでラグビーボールのように、自らの生命力を発揮しながら、あちこちに跳ね回っているように見えますが、実は天の契約の中に、すでに完成されているものが、可視的に展開されているに過ぎないのです。それが歴史です。皆さん!

したがって、小羊の婚礼の宴は、すでに完了した宴なのです。『テテレステイ!成し遂げた!成し遂げた!』ですから、皆さんが今、餅を少し出せないからといって、虎に食われるでしょうか?食われないでしょう?食われないのです。完了したからです!

ところが、この人たちは怖くて、しきりに餅を出します。恐れているのです。

善いことをしなければ震え上がる!教会に一日行かなければ、主日を守らなかったから、神様が私に何か害を加えるだろう?震え上がる!絶えず餅を作り出そうとするのです。

なぜ?餅一つあげれば食われないから!でも餅をあげなければ?食われると思い込んでいるのです。

だから自由がなく、労苦と重い荷を依然として背負っているのです。放縦しろと言っているのではありません。

皆さん!どうして聖徒という人々が神の恵みの深さも知らずに、自分の優れや善良さ、善良さをまず優先しようとするのですか?どうして自分の熱心さをまず優先しようとするのですか?どうして自分の宗教行為をまず優先しようとするのですか?

褒められたいからです!牧師に褒められ、信徒たちに褒められ、さらには世の中からも褒められたいのです。

だから日刊紙で褒めちぎられる教会は、健全な教会になってしまいました。この時代に!イエス様は違うとおっしゃっているのに!真の教会は、世から憎まれるはずなのに、今日の健全で健全な教会は、日刊紙から称賛を受けるのです。

主は、その婚礼の宴が行われる完成された御国から、可視的な歴史の中で、何か教育を受けている御自身の民たちを訪ねて来られるのです。彼らがまさに「目を覚ましている者だ!」という意味です。目覚めていることが根拠となって訪ねて来られるのではなく、主が訪ねて来られるその場所こそが、「目覚めている場所」なのです。

心に留めておいてください。主は、あなたがたがパンをどれだけ生産したかを根拠として、あなたがたを訪ねて来られるのではありません。これは正しいですよね?ではなぜ、いつも「目を覚ましていなさい」 というその目覚めを、パンを多く生産している状態だと理解しているのですか?考えていないのです。考えを!悪魔がそれを狙っているのです。この思考の終焉!考えないで!何を考える?ただ見ろ!見続けろ!神秘的なものを見ろ!体験しろ!何を考える?

いいえ。考えなければなりません。目を覚ましていなさいという主の言葉は、私たちが守らなければならない命令というより、聖霊が臨んだ者たちから自然と湧き出る必然的な姿勢なのです。では、それは何だと言うのですか? よく聞いてください。最後まで! え?

救いは、目を覚ましているという行為を前提として、私たちが勝ち取れるものではないでしょう? すでに救われると定められている者たちが、「目を覚ましている」 という過程を通過するのです。同意しますか?結婚の宴は既に完了した宴ですから!餅一つ与えても食べられないのではなく、既に食べられない者としてこの世に来るのです。聖徒は!

それにもかかわらず、人間の熱心と努力によって、餅を差し出さなければ食べられない状態から解放されるというその思考自体が死んでいる状態なのです。アルミニウス主義と言いますね。神は「守れば生き、守れなければ死ぬ」という命令と共に、イスラエルに律法と祭祀というものを与えました。まるで「餅一つ与えれば食われないだろう!」と言っているようでしょう?「守れ!生かしてやる」と言っているのです。その意図で与えられたものですか?

ところが悪魔がその意図を曲解してしまうのです。これが重要な点です。皆さん!神の意図はそうではないのです。神は律法と祭祀を、善悪の知識の木と命の木として与えられたのです。律法と祭祀!律法とは何でしたか?善悪の知識の木でしたよね?「食べてはならない!」しかし人間がそれを食べずにいられるでしょうか?できません。人間は必ず摘み取って食べてしまうのです。神の言葉を守れないのです。人間だからそうなるのです。その時どうすべきでしょうか?

生命の木が、この善悪の知識の実を踏みにじり、善悪の知識の実を成就し完成させて、死ぬべき者に食べられなければならないでしょう?これが犠牲というものです。完璧な供え物、点も欠点もない供え物が、神に捧げられる代わりに、犠牲によって、死ぬべき者がただで生き返るのです。これが生命の木と善悪の知識の実の話なのです。その神の言葉が、今、福音として与えられているのです。律法と犠牲は!ところが悪魔はそれを「パン一つくれれば、食わないだろう!」と曲解してしまうのです。だからパリサイ人たちはどうしましたか?「そうだ、パンだ!パンだ!パンだ!パンを作らねば!」

五つのパンと二匹の魚の奇跡がここに繋がるべきなのです。この物語に!そうすれば明快に繋がりますよね。そうでしょう?イエス様は、どんなパンとして来られたのですか?天のパンとして来られた方なのです。それはユダヤ人、パリサイ人たちが今生産し蓄えようとしていたあのパンではないのです。それが命の前提となり、根拠となるものではないというのです。

神は『お前たちは決して餅を捧げて呪いから解放される者ではないから、祭りの供え物として下されるわが子を頼りに、わたしのもとに来なさい!』 という恵みの必然性を説明するために、そのような仕掛けとして、律法と犠牲を授けられたのです。

ところがイスラエルは、律法と犠牲によってパンを生み出そうと、騒ぎ立て続けたのです。そのパンを否定すると、「これは食べられないパンだ!」とイエスが言われたのに、「お前が私のパンを侮るのか?」と言ってイエスを殺してしまったのです。「お前が何様だ?私のパンを侮るのか?お前が持ってきたパン!それより私のパンの方が優れているのだ!」これが人間というものです。これが罪人です。

善悪の知識の実を食べた人間は、決して自身の無用さと無力さを暴かれたくありません。それを利用して悪魔が律法と祭祀を、誤解させ悪用するのです。

聖徒とは、餅を出して危機を免れる者ではなく、出す餅がないにもかかわらず、虎に食われないという恵みの現実を体験する人々です。そうしてこそ神は愛おしくなるのです。私が餅を出し続けることによって私を生かしてくれる、そんな虎のような神は、私の愛の対象ではないのです。それは和やかな関係ではないのです。神との!

ある日、神様が年老いて、例えば私より力がなくなったら、その餅を作っていた力で何をするでしょう?そのおじいさんを殴り殺すと言います。しかし、それらを無理にやっています。やりたくないのに!

さて、どうして私たちが差し出す餅がないのに、どうして虎が私たちを食い殺せないという現実が私たちに訪れたのでしょう?

十字架によって!イエス様が十字架にかけられ、虎に丸ごと食べられてしまったことによって、虎の口が裂かれたのです。

その十字架の場所で、神の子と、その花嫁である教会の聖婚(成婚)が成し遂げられたのです。

ですから聖徒は、すでに婚礼の宴が開かれている永遠の中に、その完成された国に入っている人なのです。皆さん!

彼らはこの世で一体、なぜ私たちとイエスの結婚に、イエスの血が必要なのか?なぜ?そんな楽しい婚礼の宴に、なぜ必ず血が必要なのか?これを確かに学び、復活の体を得て再びその婚礼の宴の場へ復帰するのです。

それが人生の目的です。信仰生活の目的!なぜ主人が、婚礼の宴に来られるのか?そして婚礼の宴のために来られるとも言われるのか、今お分かりでしょう?

そういう意味で、『already not yet』ならば正しいです。

しかし『already not yet』の間のそのギャップを、人間のパン作りという行為で埋めなければならないという意味では、『already not yet』は間違っているのです。これは間違っているのです!

この「already」は変えられず、失敗することもできません。

しかし「not yet」は、私たちが今、歴史の中で学んでいくその過程!完成の地点へ向かうその過程におけるnot yetであって、

それを私たちの力で埋めるものではないのです。

そうして聖徒は、自らの婚礼の宴に、なぜ花婿の血が必要だったかを学ぶために、この世に留学に来た者たちであるため、この世で『私 」という存在の罪の姿を、自分自身と神の前で、一つ一つ暴かれなければならず、度々つまずく自身の無力さと不可能性を、痛切に肯定しなければなりません。

自分がどんな存在であるかを知ってこそ、その赦しの大きさがわかるのです。

そしてその赦しの大きさを知ってこそ、私を赦してくださった方への感謝が湧いてくるのです。

ところがイエスを信じると、まるで即座に聖人になったかのように、「あなたはもうイエスを信じたのだから酒をやめ、タバコをやめ、善い行いをし、これまで執着し中毒になっていたものを全て断たねばならない」などと始めるのです。

だから無理に自分を、善人として偽装し始めるのです。

人々は!そうしているうちに「私はそれでも他の人とは違って、こんなに立派に様々なことを行っているんだ!」と思い、他の人々と比べて非常に立派な人間だと自ら認識してしまうのです。

だから自分を許してくださる方への愛が芽生えるのではなく、無理やりこれをさせているその方が憎くてたまらないんです。

心の中では!それを苦労で重い荷物だと言うんです。

簡単に言えば、「餅一つくれれば食わないだろう!」という悪魔のささやきが絶えず聞こえてくるのに、神様は私たちの生活に介入して、常に差し出す餅がない状態にしてしまうんです。

それが罪人であることの暴露です。善いことをしないということではありません!やっておきながら、昔はそれがとても誇らしく、

そのことをした自分が立派だと思っていたのに、これも実は、「全て私の満足と私の誇りと私の価値を守ること、栄光を守ることから出たものなんだ!これをどうやって神様に捧げよう?」と、こちらに降りてくるのです。

その時、私が出す餅がどんどんなくなっていくのです。

でも、そうすると餅一つあげなければ、食われてしまうはずなのに、餅一つあげなかったのに、食われない。食われないんです。

神様が!その時、膝を打つんです。

「これが福音なんだ!私はそんな者なのに、神様がただただ無償で覆ってくださるんだ!」これが聖徒の信仰生活であって、大した熱心や努力や功績や業績を、山ほど抱えて神様の前に向かう、そんな凱旋行進じゃないんです。

みんなあまりにも偉そうなんです。今日の教会は!それにみんな良すぎる!自分すら自分に騙されるんです。

後になって!神はそのフォトショップをX線でばっちり暴いてしまうんです。

見ようとしないなら、あちこちで鏡を持ってきて、見ようとしないならあちこちで鏡を持ってきて。「これがあなただ!」聖霊を受けていない人は結局、そのガラスを割ってしまうんです。

それがイエス様の十字架の出来事です。聖霊を受けた者は?罪について、義について、裁きについて、そこで悟り、慟哭するのです。「神様!どうしてこんな人間のために御子を死なせたのですか?」と降りていくのです。

皆さん、悪魔に私たちがパンを出し続ければ、悪魔は結局、そのパンを出した者まで飲み込んでしまうのです。

パンを出さなければ生きられないというのは、 まさに、善悪の知識の木の実を食べなければ神のようになれないという、悪魔の国の原理なのです。それが力の原理です。

ところが神は、悪魔を当惑させてしまうのです。

差し出すパンのない者たちを、ご自身の死によって捧げ、無償で救い上げてしまうのです。悪魔は当惑します。

「え? そうしたら殺さなければならないのに…、 なのに神はなぜ生かすんだ?」悪魔は当惑するのです。

その当惑こそが恵みなのです。

悪魔の国の原理が、事必帰正(さひつけいしょう)!勧善懲悪(かんぜんちょうあく)という立派な原理で動くなら、神の国原理は、

漁夫の利(ぎょふのり)!無為徒食(むいてくしょく)の原理で運営されるのです。

力の原理の中では、自尊心が傷つくことです。「なぜ私がそうしなければならないのか?」

しかし、そうすることで被造物は被造物の位置に落ち着き、王である神の栄光だけが現れるのです。

皆さん、忘れないでください。神の国とは何でしょうか?神は常に赦すお座りに座っていられなければならず、その民は常に、神の生命力!あれは何と言いましたか?「バラク」、祝福!神の祝福と、恵みの赦しを受けるお座りに降りていること、これこそが神の国です。そしてその状態は何と言いましたか?神が神の座に着き、被造物が被造物の座に着く状態を、「サバス、安息」と言うと言いましたよね?それが!それが安息だと言うのです!

聖書はまさにその状態を、「一つになること!連合!結婚!」などの様々な言葉で表現しているのです。

一つになることは、私たちが非常に立派な存在になって、同質性を発揮することが一つになることではなく、私たちは完全に否定され、自己否定!自己絶望!の中で神のものが完全に注がれ、神が享受することを共に享受するその面目を失った状態が、一つになることです。それが結婚です。

だからこそ創世記に、アダムとエバの結婚の宴が記されているのです。

今日3時間だけお時間を頂ければ、完璧に全て説明できるのですが…(ハハハハ)来週まで続きをしなければいけないので、来週になれば皆さんまた今日の話全て忘れてしまうでしょうから。とにかく残念ですが…。

しかしこれは必ず知っておいてください。毎週の説教が皆そうですが!必ず知っておいてください。

そのような神の国という現実を自覚し、それを受け入れる状態。

自分とこの世の無用さと無力さを自覚している状態!「私は何か立派なことをしていて、熱心に祈っていて、熱心に宗教行為をしていて…」という状態ではなく、「私はパンを差し出すことのできる者ではありません!」 という状態こそが、目覚めている者なのです。

だからそこで目覚めている者!十人の乙女のたとえで、賢い五人の乙女が、眠っていたのです。

『私たちはこういう存在です』が暴かれる状態が、目覚めているのです。全世界は皆眠っています。

皆眠っている中、神の恵みを受けた者たちが一団います。彼らだけが、神の恵みを受けて、神の国へたださっと引き上げられるのです。

だから残りの五人の乙女が、油を準備していなかったことが露見した途端、降りてきては、さっと引きずり込み、門を閉めてしまうのです。『目を覚ませ!油を準備せよ!懸命に労せ!伝道せよ!宣教せよ!献金せよ!』という話ではないのです。申し訳ありませんが!

そこに、どれほどの皆さんの真心がかかっているでしょうか?やはりその行為の中心は『 私」じゃないですか?私が救われるために行うその行為!それが罪だと言っているのです。なぜ私は救われる資格があると思うのですか?いったい何の根拠で?そして私は自分の救いのために何かできるという考えは、いったいどこから来たというのですか。

皆さんの理解を助けるために、人類最初の結婚の場面に戻ってみましょう。創世記2章21節をご覧ください。

 

(創世記 2:21-25)

21 主なる神はアダムを深い眠りに陥らせた。彼が眠ると、神はそのあばら骨の一つを取って、その代わりに肉で埋め、

22 主なる神はアダムから取ったあばら骨で女を作り、彼女をアダムのもとに連れて来られた。

23 アダムは言った。「これは骨中の骨、肉中の肉。男から取られたから、女と呼ぼう。」

24 それゆえ、人は父母を離れて、その妻と結ばれ、二人は一体となる。

25 アダムとその妻は二人とも裸であったが、恥ずかしく思わなかった。

 

神はアダムという花婿を眠らせ、そのアダムの脇腹 を貫いて、心臓を守る肋骨の一つを引き抜いてください。

そして、それをもってまた別の人を造り出してください。神はその人をアダムのもとに連れて来られました。

アダムはその人を見て、「私の身の骨の肉、骨の骨」という愛の告白をします。

なぜなら、それは本当に自分の骨だったからです。自分のものだったからです。

愛の告白をするのです。そしてその愛の告白と共に、その女性に何かを与えます。

それが何か分かりますか?「女」という名前です。「女」という名前です。

「私の身の骨の肉、骨の骨」というあの偉大な愛の告白と共に与えられるのが、「女」という名前だということです。

アダムが、女性に愛の告白と共に名前を与えるこの場面が、出エジプト記で、律法の衣をまとって一度登場します。一度見てみましょう。出エジプト記22章16節。

 

(出エジプト記 22:16-20)

16 人が婚約していない処女を誘い、寝床を共にしたなら、身代金を払って妻としなければならない。

17 もしその父が彼女を彼に与えることを拒むなら、彼はその処女に聘礼の代償として金を払わなければならない。

18 あなたは占い師を生かしておいてはならない。

19 獣と姦淫する者は必ず殺さなければならない。

20 主以外の神々に犠牲を捧げる者は滅ぼさなければならない。

 

ここで男が女と結婚するために支払わなければならない金についての話が出てきますね?

これを納幣金(なっぴきん)と言います。納幣金!ここでは聘幣(へいひ)金と出ていますが、男が女と結婚するためには、男が女の家族や女に支払わなければならない金があり、それが聘幣というものです。

中東地方では今でもそうです。これが今では「함(ハム)」というもので、 女性の家に入るものです。

それが聘幣です。納幣金です。それが!結婚式が終わった後に賄賂を贈るのも、これと通じるものです。

男性が成婚への感謝の意を花嫁の家に伝えるのが賄賂です。

このように男性は女性と一つになるために支払うべき代償があり、それは妻の価値に見合う結納品でした。

これらは全て聖書に由来するものです。皆さん!妻の価値!私がこの妻をどれほど価値ある存在だと思っているか?その分だけ金を払ったのです。男性諸君、なぜそんな顔をしているのですか?(ハハハ)「頭おかしいのか?」今そう思っているでしょう?

「俺ならもっと金をもらうべきだ」 今そんな表情で…(ハハハハ)

『私は妻をこれほど愛しています。そして私は妻を最後まで責任を持ちます』なぜなら?その聘礼金が妻に渡され、夫が亡くなった時に生活費として使われるようになっていたからです。

だから『私はこの妻を最後まで責任を持ちます』という告白として聘礼を出すのです。

つまり結納金は、妻の身代金である以前に、新郎の愛の告白と言えるのです。「私がこの妻をどれほど愛しているか?」という愛の告白!

家に帰って夫婦喧嘩しないでください。「この厄介者め!あの時お前は篭にイカ一つ入れたんだぞ」なんて言わないで。

今はすっかり変質してしまって。はい!

アダムはまさにその結納金で、「女」という名前を与えたのです。女よ!これだ!女よ!その名の中には、「肉の肉!骨の骨!」というアダムの愛の告白が込められているのです。

そうして夫の死を根拠として、夫と一体である女の誕生!これこそが結婚なのです。これが救いです。

これが「一つとなる」ことです。ですから結婚は、救いを説明するために与えられたものであって、皆さんが幸せに食べて、よく生きるために与えられたものではありません。

その制度は!天国には存在しないものが、なぜこの世で一時的に与えられたのか?その救いの現実が何であるかを悟って知れと与えられたのです。

死よりも深い愛!これは一つの型なのです。神の子である花婿イエスと、その子の花嫁である教会とのあの婚礼の宴!その結合が、どのような形で起こるのかについての分かりやすい絵が、アダムとイブの誕生の物語なのです。

神の子であるイエスがこの地に降りてきて、その大きな愛をもって、ご自身の花嫁と結婚してしまうのです。

それが救いなのです。それがルツ記なのです。貧しいに過ぎなかったルツがボアズと結婚することによって、身分が格上げされるのです。地主になるのです。救いなのです。それが!それが結婚なのです。

しかしその過程は容易ではありません。神の子が花嫁と結婚するためにこの地に来られたのに、その花嫁は冷たく死んでいるのです。

イエス様がこの地に来られた時、全ての人間は死んでいたでしょう?花嫁は冷たく死んでいるのです。

どうして?罪と過ちによって!『無』なのです。

その「無」から、死んでいる無から、どうして神の国と、その国に入る神の民が創造されるのかが、創世記1章で型として描かれているのです。それが最初の創造というものです。

無から混沌と虚無!枠組みもなく構造もなく、虚無、エンティティネス(emptiness)!内容もないもの、虚無!ないのです。それが無です。無(む)!そこでどのように神の国という枠組みが築かれ、中身が満たされるのか?この救いの物語を型として示したのです。

それが救いというものです。無です。無!

その時、花婿は十字架を背負い、十字架の上で、死へと沈んでいきます。死はどうやってメタファーとなるのか?眠り!十字架の上で眠りにつくのです。誰が?花婿が!そして彼の脇腹が貫かれ、彼の心臓を覆っていた肋骨が摘出されるのです。

そしてその花婿の体の一部として、花嫁が新たに生き返るのです。

そうしてイエスの死によって、「あなたは私の身の肉の身、骨の骨!」という告白が私たちに注がれたのです!だから私たちはイエスのように見なされるのです。なぜ?イエスが私たちに愛の告白をしたからです。

「あなたは私の身の肉の身、私の骨の骨だ!」神は私たちをイエスとして見てくださるべきなのです。

だから!イエス様の愛の告白ゆえに!

その告白が、愛の告白が私たちに注がれ、神である父から離れた息子と私たちが、一つの体となることが救いなのです。

何ですか?その場で!その場で!私たちに生きる者!生きる者という名が与えられたからです。

死んでいたのに、イエス様が十字架を負い、私たちと結婚されたことによって、それが創世記2章です。

これが!行き来するから今まさに混乱されていますが、違いますよね?理解は全てできているんですよね?

​

十字架で私たちと結婚されたというのです。それゆえに私たちに名が与えられたのですが、それが『生きる者』です。

それはどうやって分かるのですか?創世記3章15節以降に進んでみれば分かります。

つまり旧約だけ知って新約を理解することはできず、新約だけ知って旧約を理解できないのです。進みましょう。すると!

さあ、アダムとエバが結婚して一つの体になりました。

ところが花嫁が善悪の知識の木の実を取って食べ、その一つの体の関係が壊れてしまったのです。

『肉の肉!骨の骨』と言われたのに。その花嫁が夫に言い訳をし、夫は花嫁に言い訳をし、この一体となる関係が壊れてしまったのではありませんか?罪によって!それが花嫁の死です。

なぜ?男から出た女が、男と断たれた時、それがまさに死ではないですか?だから女は死ぬのです。死んだのです。

『ムート・タ・ムート!』死を猶予したのではなく、死んだのです。

しかし恵みによって生かされるのです!殺さなかったわけではありません。死んだのです。それは!

出エジプト記22章はその状態を姦淫(かんにん)と言っています。

偶像崇拝だと言います。それが死ですよね?だから出エジプト記22章で、その結婚に関する決礼の下に、突然巫女の話を出すのです。

姦淫についての話が出てくるので、男と女が互いを言い訳にして過ちを転嫁するでしょう?その時神は創世記3章1 5節の御言葉をください。

「蛇の子孫は女の子孫の踵を噛み、女の子孫は蛇の子孫の頭を踏みつける」という原初の福音です。

この言葉は、神の系譜であるその女の子孫が、蛇に踵を噛まれて血を吸われる者として生きるようになる、

これが十字架ですよね?その血を吸われることが、まさに相手の頭を踏みつける勝利の十字架であることを示しているのです。

常識で判断される、この力の原理と、到底常識では理解できない、神の国原理が、今ここで明らかに現れているのです。

蛇は相手の血を吸う方式で!力の原理ですよね?その方法で生き、神の子である神の子らは、自らの血と肉を食べよと差し出す方法で!これがヨハネの福音書6章ですよね?『食べよ!』と言うじゃないですか?差し出す方法で勝つのだと言います。

これが聖霊を受けていない者たちには理解できないのです。これが!だから福音が愚かで、愚かなものと見なされるのです。

「どうしてそれが勝利なんだ?」と言うのです。

しかし神の国原理は違います。アダムが、その言葉を理解して、再び女に名前を与えますよね?アダムがその女に名前を与えた出来事を何と言いましたか?結婚式の時、婚約式と言いましたよね?『私はあなたをこんなに愛している!あなたはこれほど価値ある者だ!』と名をつけるじゃないですか?でも何という名をつけたでしょう、新しく?『生きる者の母!ハワ』とつけたじゃないですか?あなたは『生きる者』だという意味です。それを理解することがまさに生きるということなのです。皆さん!

あの十字架の、血の福音を理解することが生きるということです。それが目覚めているということなのです。

新しい結婚が起こるのです。

見てください。創世記3章15節のあの原初の福音が与えられるやいなや、新しい結婚が起こり、死んでいる女性に「生きる者」という印が与えられるのです。贖いの印が与えられるのです。

贖いが入り込むのです。新たに!十字架の上で、まさにそのように神と私たちの結婚が成し遂げられたのです。

その結婚の実体、本質を知る者が目覚めている者です。ですから、それを知る者は、結婚の宴から戻ってくる主人を待つでしょう?

その結婚の宴が何であるかを知っているからです!そして結婚を執り行うために来る花婿を待つでしょう?その者が目覚めているというのです。大げさに何か宗教行為を熱心に行い、善行を熱心にすること、これが目覚めていることではないのです。

彼らが眠っている可能性があるというのです。

これを箱として、私が立派な存在として、いつも自分に思われること!これが死んでいるのです。

これが眠っているというのです。これを理解する者が福音を知る者なのです。彼らが婚礼の家から戻ってくる主人を喜んで迎えるのです。

さあ、その物語、その福音の物語が、十字架の上で現実化してしまうのです。

十字架の上で、最後のアダムが、新しいエバ!すなわち『生きる者』たちのために、眠りにつくのです。

死ぬのです。そして彼の命を、花嫁の氷の棺、 納品として支払ってしまうのです。

「私の花嫁の価値は、私の命と同じだ」という花婿の告白です。そしてその花嫁に「生きる者」という新しい名を贈り物として与えるのです。それが結婚であり、それが「一つの体」です。

それが連合というものです。

ですから花嫁は餅を生産し蓄積して、花嫁の資格を備えるのではなく、花婿の愛によってただで花嫁の座に着くのです。

聖徒は神の国へ行く時、自分の名前を持って行ってはいけません。どんな名前を持って行けばいいのでしょうか?

私の花婿の名前を持って行かなければなりません。

「私はキリストの花嫁です」と言って行かなければなりません。

キリストの花嫁でない者は、単独では入れません。キリストの花嫁にのみ「生きる者」という名が与えられるのです。

しかしこの時代は、ひたすら自分の名のために生きています。

神さえも自分の名のために利用するのですから。その名を持って入れば皆死にます。

キリストの花嫁としてのみ入らねばなりません。「私は何者でもありません」花嫁としてのみ!

神は、そうして福音を理解したアダムに皮の衣を作って着せられました。皮の衣は恥を覆い隠したのです。

「私は恥ずかしくて隠れました」と言うので、恥を覆うのです。ユダヤ人にとって、男の服が女を覆うことは、すなわち結婚を意味していました。ルツ記にも出てきますよね?「私を覆ってください」と言うでしょう?ルツがボアズに!結婚してほしいという意味です。覆ったのです。それが結婚です。

聖書には一点一画の隙もありません。誤差もありません。時には鳥肌が立つほどです。神と罪人のその結婚の型が、創世記からずっと~黙示録まで!だからヨハネの黙示録が小羊の婚礼の宴で終わるのです。

その結婚は、メレディス・クライン(Meredith G. Kline)教授の本を読みながら、創世記3章に非常に面白い言葉遊びがあることを私が知りました。話が出たついでに一度探して行きましょうか?創世記3章1節。

 

(創世記3:1)

1 主なる神が造られた野の獣のうちで、蛇が最も狡猾であった。蛇が女に尋ねて言った。「神は、本当にあなたがたに、園のすべての木の実を食べてはならないと言われたのですか。」

 

さて、「パン一つあげれば食わないだろう!」と言うような蛇が出てくるんですが、その蛇が狡猾だと言いますよね?

その「狡猾」という言葉がヘブライ語で「アロム」なんです。

ところが7節の「裸であること」が、わざわざ「エロム」という言葉が使われているんです。創世記3章7節。

 

(創世記 3:7)

7 すると、彼らの目が開け、自分たちの体が裸であることに気づいた。

 

これが「エラム」です。「アルム」と「エラム」!クラインによれば、聖書は「アルム」と「エラム」という語を通して、人間の裸であることが「エラム」、すなわち蛇の狡猾さ「アルム」を身にまとったことを示しているというのです。

これがヘブライ人の言葉遊びなのです。

つまり私たちが裸であるということは、蛇の狡猾さが身にまとわれたという意味なのです。

ですから聖書は、「脱げ!」とも語り、「着よ!」とも語るのです。

「 脱げ!」というのは、蛇の狡猾さを脱げという意味であり、「着よ!」というのは、その狡猾さを、イエス・キリストの恵みの義の衣で覆えという意味なのです。

ですから脱ぐのが正しいのか、着るのが正しいのか、そんなことで争わないでください。恥が覆われる状態!罪と過ちに対する死が恵みによって覆われる状態こそが、まさに「一つの体となること!」結婚なのです。

一つの体となり、結合し、婚礼の宴なのです。

だから女が造られるその場面で、婚礼の宴が執り行われたのであり、その下に「妻」という名がすぐに出てくるのであり、

その場で「あなたは私の身の骨の髄、骨の骨」という「一つの体」の思想が宣言されるのです。

一つの体!そしてヨハネの福音書で 「私たちは一つとなるでしょう」というその一つの体という思想が、イエス様によって引き続き宣言されているのです。皆同じことを言っているのです。皆さん!

私たちはそのイエスの功績によってイエスと一つの体となります。

神と一つの体になるのです。しかし私たちの力によってではなく、私たちの業績や功績によってではなく、神の恵みによって、面目を失った空っぽの器になってしまうのです。

それが神の国の子らの人生なのです。エゼキエル書16章6節を見てください。

 

(エゼキエル16:6-14)

6 わたしがあなたのそばを通りかかったとき、あなたは血まみれで、もがき苦しんでいるのを見た。わたしはあなたに言った。『血まみれであっても生きよ』と。また言った。『血まみれであっても生きよ』と。(血まみれになった死体が一つあったが、)

7 わたしはあなたを野の草のように多くした。あなたは大きく育ち、非常に美しく、乳房がはっきりし、髪の毛も生えた。しかしあなたはなお裸の赤子であった(また出てきますね?創世記と同じ言葉が出ています。「エラム」)

8 わたしがあなたのそばを通りかかったとき、あなたの時が愛らしい時であったので、わたしの衣であなたを覆い(皮の衣が出てくるんですよね?覆って)裸を隠した。そしてあなたに誓い、契約を結んで、あなたをわたしのもとに属させた。主なる神の言葉である。(神の花嫁の宴が出てくるんです。ここです!)

9 わたしは水であなたを洗い、あなたの血を洗い流し、あなたに油を注ぎ

10 刺繍の衣を着せ、水豚の皮の靴を履かせ、細布で帯を締め、絹で覆い

11 宝飾品を飾り、腕輪を手首に嵌め、鎖を首にかけ

12 鼻輪を鼻に付け、耳輪を耳に嵌め、華やかな冠を頭に載せた。

13 このように、あなたは金、 銀で飾り、細布と絹と刺繍の衣を着せ、また上等の小麦粉と蜜と油を食べさせた。こうしてあなたは極めて美しく栄え、王妃の地位に上ったのだ。(誰が?教会が!皆さんです!)

14 あなたの華やかさゆえに、あなたの名声が異邦人の間に広まった。それはわたしがあなたに与えた栄光によって、あなたの華やかさが完全になったからである。主なる神の言葉である。

 

この死んだ血まみれの女を、王妃にしたのは誰ですか?

何をしたからですか?違います。ただ血まみれで死んでいたのです。

しかし神が洗い清め、着せ、価値あるものとして王妃に立てたことを、救いと言うのです。

それが結婚なのです。それを知り、「この世で私が神の前に差し出せるものは何もないのだ!ただ神の言葉をよく聞くだけでよいのだ!」とこの立場に降り立ち、日常の中で自分がどんなパンを作って自分を幸せにしようとする、その世俗的な思考様式から一歩引いた状態!まあ、時々またそこに戻ってはしまうけれど、その状態!それが「目覚め」です。

それを知る者は、再び世の力の原理の中に入っても、「これは違うのに…」と苦しみます。苦痛です。

その時、何度も神様の御名を叫び求めるのです。それが「目覚め」です。世からは嘲笑されます。非効率的です。非経済的です。

愚かな五人の乙女は、いつ来るか分からないその花婿のために、日常で自分の利益のために使える、余剰の油を準備しないと言います。経済的だからです!効率的だから!力の原理の中では非常に賢い人たちですよね?愚かな者たちはそれで自分の日常をいくらでも飾ることができるのに、それを飾らず、ひたすら花婿だけを見つめながら、日常で損をしているんです。

「何を準備したか」に焦点があるのではなく、「この人は日常の中で嘲笑され、損をしているんだな!」に焦点があるというわけです。そして眠っている!これは馬鹿者たちです。これは!信仰的に見ても馬鹿!世の中で見ても馬鹿!

しかし彼は目覚めているのです。聖徒は世の中で、教会で必ず、その扱いを受けるようになっています。

絶対に私たちの自慢!私たちの自慢げな態度を守らせないというのです。神様ですよ!

ノアを見てください。120年間、何の役にも立たない、世の中の、この力の原理の中では何の役にも立たない船ばかり作って逝きました。それが目覚めている状態です。しかし世の中から見ると、「おい、パンでも作れ!この野郎!お前は全く必要のない、一体何を作っているんだ?餅を出せ!餅!」皆さん!それが聖徒です。あのイエスの義(ぎ)!それに頼って面目を失って待つことが目覚めていることなのです。

だから婚礼の宴のたとえで、礼服を着ていない者は、皆追い出されるのです。

その礼服は誰が与える礼服?主人が与える礼服です。自分がどんなに素敵な服!ピエール・カルダンだ!良いものじゃないのか?最近のジバンシィ!良いものか?とにかくバーバリー!こんなものを着て座っていても、主人が与えた服を着なければ、皆追い出されます。どんなに立派な行いや業績で、皆さんが山ほど持ってその宴に赴き座っていたとしても、主人が与えたあの義の白い衣!亜麻布の子羊の血で洗われて白くされたあの衣!それを着なければ皆追い出されるのです。それを着なさいというのです。

ご覧ください。創世記から福音書、 書簡、ヨハネの黙示録が一つにつながっているじゃないですか?これが黙示というものです。過去、現在、未来が一つにまとまっているのです。十字架を中心に!

そんなに人々に認められたいのですか?そんなに人々に褒められたいのですか?どうせ、神様の前にひっくり返してみれば、みんな糞の塊なんだ!そう思わないのか?聴聞会でもやってみるか?首相に選ばれた首相候補は、あの大学の2年先輩なんだ。

同じ学校に通ってた。俺はこめかみにまで知ってる。

あの野郎のことを!俺が聴聞会に行ってみるか?そう言っていたのに、自ら辞任したそうです。

そしてまたそれを、何て幼稚な幼稚園児レベルで、公用車を使っただとか、家政婦を雇っただとか、そんなこと自分たちはしたのか?あの立場で一度、いや道知事や首相が、旅館で寝ずにホテルで寝たことがそんなに欠点なのか?旅館で寝るのが偉いのか?あれ全部見せかけだ。あれ!どんな奴が旅館で寝たいですか?なのにそんなことで自分たちを偽装し、暴露し、大騒ぎしながら、神様の前で偉そうにしているんです。世界中が!神様は全部ご存知なのに…!

だから私たちには義の衣が必要なのです。イエスの義でなければ皆死にます。それを掴まなければなりません。

でもそれを教えてくれる場所がありません。まったく!その話をすべきなのに、それを教えてくれる場所がないのです。

イエスの話!十字架の血の話をすべきなのに…!その話をしてくれる場所がないと言っているのです。

餅を作れと、あなた方の日常でも餅作りが来たと言うのです!皆さん、婚礼の宴のたとえで人々がなぜ宴の招待に応じなかったのですか?牛も買わねばならず、嫁入りもしねばならず、畑に、また畑にも出ねばならないからです!何ですか?『餅を作らなければならないんです』という意味です。

聖徒にとっては、この世と自分自身が無価値で虚ろなものに思えるため、その日常に縛られて、宴を逃す過ちを犯さないのです。

それが目覚めている状態です。しかし日常に縛られていると、宴に行きたくなくなるのです。

私たちは眠ろうが覚めようが、イエスの義!その義の白い衣だけを、 求める者にならなければなりません。

もう一度、私たちはパンを差し出して「パン一つくれれば食われないだろう!」という存在にパンを差し出して生きるのではなく、

口を開けてパンを受け取って食べる者だということです。本当に最後にもう一箇所見てみましょう。ヨハネの福音書6章33節。

 

(ヨハネの福音書 6:33 -35)

33 神のパンは天から下って来て、世に命を与えるものである。

34 彼らは言った。「主よ、このパンをいつも私たちに与えてください。」

35 イエスは言われた。「わたしこそが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は永遠に渇くことがない。」

 

「わたしを食べなさい!」と言っているでしょう?「わたしを食べなさい!」いつイエスが「パンを出せ!」と言ったことがありますか?「わたしを食べなさい!」と言ったのです。

人間はどんな種類のパンでも、幸福に到達することはできません。

それは、どんな努力や試みでも、人間が自ら作り出した方法では、死に属する者が生き返ることはできないという意味です。

そうして自分の日常を通して、自分が差し出すパンを作ることに忙しくしている者ではなく、花婿の功績によって完成されたあの婚礼の宴の恵み深さを知った者たちが、婚礼の宴から戻ってくる主人を、待ち焦がれるようになるのです。

皆さん!婚礼の宴にだけ関心が向いているのです!なぜなら?私はただその場に主人公として存在しているからです。

私が花嫁なのです。

だから婚礼の宴に関わる存在たちが皆、待ち望まれるのです。

彼らだけが待ち望まれるのです。それを「目覚めていること」と呼ぶのです。

恵みを知る者たち!彼らが目覚めているのです。所有の餅!物質のパン!善行のパン!熱心のパン!善良のパン!

世は、多くのパンを生産せよと要求します。

多くの人々が日常を通してそのパンを生産するために奔走している時、私たちはそのパンは、人間はパンだけで生きるのではなく、

神の口から出る言葉によって、完成されたその言葉によって生きるのだと叫びながら、私たちの花婿だけを待つのです。

彼らを聖徒と呼びます。

ですから、行いの問題ではなく、視点の問題です。

どこを見ているのか?皆眠っていましたが、眠っている最中でも私はなぜ?肉体をまとっているから!眠っている最中でも、

『私はこのように眠らざるを得ない存在だから!花婿よ!早くその完成された婚礼の宴へ私を連れて行ってください!』それが目覚めている者です。

それが恵みの中にいる者です。

それでは、目を覚ましている僕たちの具体的な務めは何であり、彼らはこの世でどのような扱いを受けるのかについて、

来週引き続き学びます。To be continued.



 비유(28)

떡 하나 주면 정말 안 잡아먹을까?(I)

 

(막13:28~37)

28무화과나무의 비유를 배우라 그 가지가 연하여지고 잎사귀를 내면 여름이 가까운 줄을 아나니

29이와 같이 너희가 이런 일이 나는 것을 보거든 인자가 가까이 곧 문 앞에 이른 줄을

알라

30내가 진실로 너희에게 말하노니 이 세대가 지나가기 전에 이 일이 다 이루리라

31천지는 없어지겠으나 내 말은 없어지지 아니하리라

32그러나 그 날과 그 때는 아무도 모르나니 하늘에 있는 천사들도, 아들도 모르고

아버지만 아시느니라

33주의하라 깨어 있으라 그 때가 언제인지 알지 못함 이니라

34가령 사람이 집을 떠나 타국으로 갈 때에 그 종들에게 권한을 주어 각각 사무를

맡기며 문지기에게 깨어 있으라 명함과 같으니

35그러므로 깨어 있으라 집 주인이 언제 올는지 혹 저물 때 엘는지, 밤중 엘는지,

닭 울 때 엘는지, 새벽 엘는지 너희가 알지 못함이라

36그가 홀연히 와서 너희의 자는 것을 보지 않도록 하라

37깨어 있으라 내가 너희에게 하는 이 말이 모든 사람에게 하는 말이니라 하시니라

 

우리나라 전래 동화 중에 해님 달님이라는 동화가 있습니다. 떡 장수 어머니가 장에서 장사를 마치고 산을 넘고 고개를 넘어 집으로 돌아가는 도중에 호랑이가 나타납니다. 그리고는 연신 ‘떡 하나 주면 안 잡아먹지’라는 호의를 베풀며 어머니가 팔다 남은 떡을 다 빼앗아 먹습니다. 그렇게 떡을 다 빼앗아먹은 호랑이가 그냥 배를 두드리며 갈 길을 갔나요? 아닙니다. 호랑이는 어머니에게 더 이상 남은 떡이 없다는 것을 알게 된 순간 그 어머니를 잡아먹어 버립니다. 그리고는 어린 남매가 남아 있는 집으로 가서 어머니 흉내를 내며 그 남매까지 해치려 합니다. 그때 남매는 하나님께 기도를 하여 동아줄을 내려 달라고 해서 하늘로 올라가 해님과 달님이 되었다는 그런 동화입니다. 호랑이는 썩은 동아줄을 타고 남매를 잡으러 하늘로 올라가다가 동아줄이 끊어져 수수밭에 떨어지는 바람에 수수의 꼭대기가 벌건 것이라고 하지요?

제가 복음을 알게 된 후에 이 해님 달님이라는 동화를 소재로 한 뮤지컬을 보러 간 적이 있었습니다. 저는 이미 그 이야기의 내용을 다 알고 있었기 때문에 그 떡장수 어머니가 호랑이의 그 호의를 가장한 속임수에 속을 때마다 참 마음이 안타까웠습니다. 결국에는 떡도 다 빼앗기고 심지어 잡아먹히기까지 할 텐데 그 어머니는 자기를 잡어먹지 않겠다는 호랑이의 꾐에 빠져 자신의 전 재산이라 할 수 있는 팔다 남은 떡을 계속해서 호랑이에게 제물로 바치는 모습이 꼭 지옥에 가기 싫어서 하기 싫은 종교 행위를 억지로 하고, 마음에도 없는 사랑과 섬김을 짜내느라 시간과 에너지를 허비하고 있는 오늘날 교회의 교인들처럼 보였기 때문입니다.

목사들은 강대상에서 ‘떡 하나 주면 안 잡아먹지’하고 으르렁 거리고 교인들은 회중의 자리에 앉아서 ‘정말?’하고 맞장구를 치며 자기의 소유와 에너지를 털리는 형국, 그게 꼭 사악한 호랑이와 어리석고 불쌍한 떡장수 어머니 같지 않으세요?

성도는 열심히 떡을 바침으로 사망을, 지옥을 모면할 수 있는 것이 아닙니다. 성도는 자신의 수중에 호랑이에게 바칠 떡이 하나도 없다할지라도 어떤 이가 이미 자신의 죽음을 삼켜서 파기시켜 버렸다는 그 믿음으로, 그래서 나에게 떡을 요구하는 지옥의 호랑이는 비록 내가 떡을 내 놓지 않는다 할지라도 자신을 잡아먹을 수 없다는 믿음으로 지옥을 모면하게 되는 것입니다. 그게 성도의 실존입니다. 그래서 하나님은 그 은혜의 현실을 당신 백성들에게 가르치시기 위해 때때로 성도의 삶 속에 내어 놓을 떡이 없게 만들어 버리시는 것입니다. 그럼에도 불구하고 난 너를 구원한다는 하나님의 열심을 성도에게 각인시키기 위함입니다.

 

마귀는 항상 ‘떡 하나 주면’이라는 인간 행위를 단서로 제시합니다. ‘선악과를 따 먹으면’이라는 행위를 근거로 ‘하나님처럼’이라는 자기규정의 유혹을 했던 에덴동산에서의 마귀가 똑같은 방법으로 역사 전체를 아우르며 인간들을 미혹하고 있는 것입니다. 인간들은 가치 있고 소중하고 능력 있는 존재이기 때문에 자기에게서 생산되어지고 만들어지고 축적이 된 떡으로 생존과 행복의 기반을 마련해야 한다는 근사한 부추김입니다. 왜 하나님에 의해 수동적이며 피동적으로 끌려만 가야 하냐는 것입니다. 너의 떡으로 너희 생존을 사수하라는 것입니다. 멋지죠?

 

그래서 인간의 가치를 소중하게 여기는, 선악과를 따먹은 모든 인간들이 그 마귀에게 떡을 바치며 삽니다. 모든 인간이 ‘나’라는 왕의 안위와 구안을 위해 그리고 그 위대한 왕의 자존심을 위해 마귀가 제시하는 조건을 충족시키려 혈안이 되어 삽니다. 눈에 보이는 ‘나’의 행위와 ‘나’의 소유가 마치 ‘나’를 구원 할 수 있을 것처럼 마귀가 요구하는 떡을 생산하고 축적하여 세상 신의 제단에 올려놓는 것입니다. 그게 인류의 역사입니다.

여러분, 인간은 그렇게 대단한 존재가 아닙니다. 인간이 하나님의 형상으로 지어졌다는 것은 인간이 하나님과 방불한 능력을 소유한 자라는 의미가 아닙니다. 인간이 하나님의 형상으로 지어졌다는 것은, 인간이라는 존재는 완전히 비워져서 하나님이라는 존재에 의해 채워져야 비로소 존재일 수 있다는 말입니다. 바울은 예수님을 가리켜 하나님의 형상이라고 하지요?(고후4:4) 예수님께서 자기를 비워(빌2:7)하나님의 뜻으로 채워 버리시는 삶을 사셨지요? 그게 바로 하나님의 형상의 올바른 의미인 것입니다. 그러니까 하나님의 형상이라는 것은 완전한 자기부인이 전제가 된 말인 것입니다.

인간은 그렇게 하나님의 말씀에 의해, 하나님의 뜻 안에서 비로소 존재할 수 있고 행복할 수 있습니다. 그래서 오늘 본문 30절과 31절에 하나님 말씀의 영원성이 선포되고 있는 것입니다.

(막13:30-31)

30내가 진실로 너희에게 말하노니 이 세대가 지나가기 전에 이 일이 다 이루리라

31천지는 없어지겠으나 내 말은 없어지지 아니하리라

그렇지요? 마지막 때에 관해 묻는 제자들에게 주님께서 대답해 주신 말씀입니다. 모든 것이 다 사라져도 하나님의 뜻, 하나님의 계획, 하나님의 언약, 하나님의 말씀만이 끝까지 남아 다 이룬다, 성취가 된다는 말씀인 것입니다. 그러니까 이 세상은 눈에 보이는 가시적 현상이나 현실로 판단할 것이 아니라 하나님의 말씀 속에 담긴 완료된 미래의 관점에서 보아야 하는 것입니다. 모든 현상과 현실이라는 것은 다 사라질 것인데 하나님의 뜻과 하나님의 말씀만이 영원히 성취될 것이니까요. 과거와 현재의 현상과 사건과 현실과 행위가 차곡차곡 쌓여서 미래가 결정이 되는 것이 아니라 결정된 미래가 있고 그 미래가 현재와 과거로 쏟아져 내려오는 것입니다. 그렇게 정말 중요한 것은 인간과 인간이 겪는 현실이 아니라 하나님의 언약이며 말씀인 것입니다. 그 언약 성취의 과정에서 인간의 구원이 재료로 쓰일 뿐입니다. 중요한 건 하나님이란 말입니다.

 

생각해 보세요. 에덴동산에서 가장 소중한 것이 인간이었나요? 아닙니다. 에덴동산의 중심은 동산 중앙에 심겨져 있던 선악과나무와 생명나무였습니다. 인간이 그 나무들보다 더 소중한 존재라면 그까짓 선악과 하나 먹었다고 그 소중한 인간이 에덴에서 쫓겨나면 안 됩니다. 인간은 선악과나무와 생명나무의 소중함을 드러내는 도구에 불과합니다. 얼마나 소중하면 그거 하나 따 먹었다고 하나님 보시기에 좋았던 인간이 쫓겨나겠습니까? 인간은 하나님의 언약 아래에 있는 자이지 언약을 타고 넘을 수 있는 존재가 아닌 것입니다.

선악과나무와 생명나무는 하나님의 언약, 즉 복음을 담고 있는 모형이었습니다. 다른 말로 선악과나무와 생명나무는 예수 그리스도가 담고 있는 하나님의 속성과 하나님 나라의 원리를 모형으로 보여주는 것이었습니다. 인간은 그러한 하나님과 하나님 나라의 원리를 드러내는 도구에 불과한 존재인 것입니다.

 

인간은 스스로의 힘으로 선악과 시험을 통과할 수가 없는 존재입니다. 선악과는 하나님이 출제하신 하나님 나라 입학 시험문제입니다. 하나님의 시험은 하나님만이 통과하실 수 있습니다. 그런데 하나님은 한 분이십니다. 그 한 분이신 하나님께서 당신의 백성들을 만들어 그 시험문제를 통과시켜 당신의 나라에 들여보내시고 싶어 하십니다. 그래서 그 선악과 시험문제를 하나님이신 예수 그리스도를 보내어 풀게 하십니다. 예수님은 율법의 마침, 율법의 완성이 되셔서 선악과 시험을 통과해 버리십니다. 그리고는 그 합격자의 신분을 하나님이 택하신 백성들에게 먹여 주십니다. 그게 생명나무입니다. 그것을 은혜의 원리라고 하는 것이고, 그것을 사랑이라고도 부릅니다. 그리고 그것이 하나님의 속성이며 하나님 나라의 구조이기도 합니다. 성도는 바로 그것을 증거 하는 자로 사는 것입니다. 그러니까 성도는 하나님으로부터 생명나무실과, 즉 하늘의 떡을 얻어먹는 자이지, 선악과 시험을 스스로의 힘으로 통과하겠다고, 다른 말로 스스로 떡을 생산해 내어 살아보겠다고 자존심을 부려서는 안 되는 것입니다. 내가 떡 하나 주어서, 선악과 시험 풀어서 생명나무 실과 먹고 살아나는 것이 아니라 떡이, 생명나무 실과가 나에게 무상으로 먹여지는 것이 구원인 것입니다.

그래서 모든 인간의 대표인 아담이 선악과를 따먹는 것으로 역사가 시작이 되는 것입니다. ‘너희는 떡 못 만든다.’에서 인간의 역사가 시작된다는 것입니다. 그런데 ‘떡을 만들어라, 너희는 떡을 만들 수 있다’라고 계속 채근 질을 해대는 자가 있으니 그게 마귀입니다. ‘선악과 따 먹으면...’

 

성경은 그렇게 선악과를 따먹고 ‘나는 떡을 생산하여 떡을 바칠 수 있는 존재가 되었다’고 너스레를 떠는 그러한 상태의 인간을 ‘죽은 자’라고 선언해 버립니다.

(엡2:1~3)

1너희의 허물과 죄로 죽었던 너희를 살리셨도다

2그 때에 너희가 그 가운데서 행하여 이 세상 풍속을 좇고 공중의 권세 잡은 자를

따랐으니 곧 지금 불순종의 아들들 가운데서 역사하는 영이라

3전에는 우리도 다 그 가운데서 우리 육체의 욕심을 따라 지내며 육체와 마음의 원하는 것을 하여 다른 이들과 같이 본질상 진노의 자녀이었더니

이 모습이 바로 ‘떡 하나 주면 안 잡아먹지’라고 유혹을 하고 있는 세상 신에게 붙들려 그가 요구하는 떡만을 추구하며 사는 인생의 모습인 것입니다. 그렇게 죽은 자들은 세상 신에게 속아서 육체의 욕심을 따라, 육체와 마음의 원하는 것을 하며 떡을 생산해 냅니다. 그게 죄와 허물로 죽은 상태라는 것입니다. 그들은 신을 이용해서라도 자신들을 살릴 바로 그 떡을 얻어내려 총력을 기울입니다.

여기에서 바울은 모든 인간을 ‘본질상 진노의 자녀’라 부릅니다. 그 말은 ‘죄의 종, 죄인’등으로 바꾸어 부를 수 있습니다. 종은 주인에게 예속되어 있는, 주인을 이루는 부속품 같은 것입니다. 따라서 종의 행위는 그를 소유하고 있는 주인의 소유가 됩니다. 그러니까 죄의 종인 인간이 행하는 모든 행위는 그게 어떤 모양을 하고 있다하더라도 죄의 것입니다. 바꾸어 말하면 떡을 생산하고 축적하여 생존과 행복에 이르려 하는 모든 인간에게서는 죄밖에 나오지 않는다는 말입니다. 그게 마귀에게 속한 자의 상태요, 죽은 상태입니다.

 

그렇게 모두가 죽어 있는 이 세상에 주님이 찾아오셨습니다. 그분은 이 세상에 내려오셔서 자신과는 아무런 상관이 없는 저주의 십자가를 지심으로 어떤 선택된 무리의 죽음을 삼켜 버리시고 그들을 깨워 버리셨습니다. 그리고는 그렇게 해서 산 자들에게 ‘깨어 있으라’고 명령을 하십니다. 그게 오늘 본문의 이야기입니다.

 

주인이 집을 떠나면서 종들에게 각각의 사무를 맡기며 깨어있으라고 명령을 하고 떠났습니다. 그런데 그 주인이 언제 돌아올지는 아무도 모릅니다. 따라서 종 된 자들은 주인이 돌아올 때까지 항상 깨어 있어야 한다는 것입니다. 그런데 그건 육신을 입고 있는 인간에게는 도저히 불가능한 명령입니다. 가령 ‘하루에 세 시간씩만 자고 깨어 있어라’라든지 ‘낮에는 자고 밤에는 깨어 있으라’는 등의 구체적인 명령은 얼마든지 인간의 능력으로 수행이 가능한 명령입니다. 그런데 ‘항상 깨어 있으라’는 명령은 억지입니다. 인간이 잠을 자지 않고 깨어서 버틸 수 있는 시간은 제한되어 있습니다. 인간은 반드시 자야 합니다. 그렇다면 지금 언제 돌아올지도 모르는 여행을 떠나면서 종들에게 ‘깨어 있으라’고 명령을 하달하고 가는 주인의 명령의 진의가 무언가 심오한 내용을 담고 있다는 생각이 들지 않으세요? 육을 갖고 있는 인간의 특성상 불가능한 것을 요구하는 것으로 보아 그 깨어있음의 주체가 종들이 아님을 추론해 볼 수 있겠지요?

너무 서둘러서 죽어 있던 자가 이제 깨어났으니까 열심히 주님의 말씀을 순종하는 자로 살아내는 것이 깨어 있는 것이라고 추측하시면 안 됩니다. 그건 우리가 떡을 생산해 내는 행위니까요. 그런 떡은 호랑이 아가리로 들어가는 어리석고 가련한 떡일 뿐입니다.

 

생각해 보세요. 우리가 공부한 열 처녀의 비유를 통해서도 주님은 ‘깨어 있으라’는 권고를 하시는데, 슬기로운 다섯 처녀가 자고 있었잖아요? 그런데 그들이 깨어있는 자로서 혼인잔치에 들어갔단 말입니다. 주님이 요구하시는 깨어있음은 우리가 생산해 낼 수 있는 깨어있음이 아니라는 것을 우리는 열 처녀의 비유를 통해 감지하고 있어야 합니다.

 

오늘 본문의 비유와 병행이 되는 비유가 누가복음에도 나옵니다. 그리로 한 번 가볼까요?

(눅12:35~40)

35허리에 띠를 띠고 등불을 켜고 서 있으라

36너희는 마치 그 주인이 혼인집에서 돌아와 문을 두드리면 곧 열어 주려고 기다리는

사람과 같이 되라

37주인이 와서 깨어 있는 것을 보면 그 종들은 복이 있으리로다 내가 진실로 너희에게 이르노니 주인이 띠를 띠고 그 종들을 자리에 앉히고 나아와 수종하리라

38주인이 혹 이경에나 혹 삼경에 이르러서도 종들의 이같이 하는 것을 보면 그 종들은 복이 있으리로다

39너희도 아는 바니 집 주인이 만일 도적이 어느 때에 이를 줄 알았더면 그 집을 뚫지 못하게 하였으리라

40이러므로 너희도 예비하고 있으라 생각지 않은 때에 인자가 오리라 하시니라

여기에서는 집 주인이 어디에 갔다 오는 것인지가 구체적으로 설명이 되어 있습니다. 어디지요? 혼인잔치입니다. 열 처녀의 비유에서도 혼인잔치가 언급이 되고 여기에서도 혼인잔치가 언급이 되고 있다는 것을 주의 깊게 보셔야 합니다. 깨어있음과 혼인잔치가 도대체 무슨 연관이 있는 것일까요? 개역 성경에는 혼인집이라고 번역이 되어 있지만 헬라어 성경을 보면 그냥 ‘혼인잔치’입니다. 주인은 혼인잔치를 다 치르고 돌아오는 것입니다. 그 주인이 혼인잔치의 주인공이었는지 아니면 하객이었는지는 별로 중요한 사안이 아닙니다. 어차피 비유니까요. 여기에서 중요한 것은 그 주인이 다녀 온 혼인잔치가 이미 완료된 잔치라는 것이 중요합니다. 주인은 잔치를 다 치르고 돌아온 것입니다.

유대인들의 혼인잔치는 짧게는 일주일에서 길게는 한 달 이상 이어집니다. 따라서 그 혼인잔치에 갔던 주인이 언제 돌아올지는 아무도 모르는 것입니다. 그런데 주인이 혼인잔치에 가면서 종들에게 ‘허리에 띠를 띠고 등불을 켜고 서 있으라’고 명령을 합니다. 그런 억지가 어디 있습니까? 그럼에도 주님은 억지를 부리십니다. 교대로 깨어 있으라도 아니고 그 명령을 듣는 모든 종들에게 깨어 있으라고 하시는 것입니다. 본문 37절을 보세요.

(막13:37)

37깨어 있으라 내가 너희에게 하는 이 말이 모든 사람에게 하는 말이니라 하시니라

그렇지요? 주인을 기다리는 모든 자가 다 깨어 있어야 합니다. 지금부터 그 깨어있음이라는 것이 무엇인지 함께 고민을 해 보겠습니다.

35절에 나오는 ‘허리에 띠를 띠고 등불을 켜고’라는 어구를 보시면 구약의 어떤 명령이 생각나세요? 출애굽기 12장의 유월절이 생각나시지요? 하나님께서 어린양의 피를 인방과 문설주에 바름으로 살아난, 공로 없는 이스라엘 사람들에게 허리에 띠를 띠고 지팡이를 들고 신을 신고 급히 유월절을 먹으라고 하시지요? 그리고는 그들 앞에 등불로, 불기둥으로 서십니다. 이스라엘은 허리에 띠를 띠고 이제 광야 40년을 살아내야 하는 것입니다. 이스라엘 사람들의 복식은 치마 같은 겉옷을 치렁치렁 걸쳐 입는 그런 것이었기 때문에 그들이 허리띠를 띨 때는 급히 어디로 출발을 하거나 중요한 일을 할 때였습니다. 그렇게 성도는 주님께서 혼인잔치로 떠나시게 되면 성도 또한 어떤 길을 열심히 가게 되는 것이고, 어떤 일에 투입이 되는 것입니다.

따라서 혼인잔치로 떠나는 주인이 종들에게 하신 명령은 성도의 광야 인생 전체의 내용을 상징적으로 표현하고 있는 것이라 할 수 있습니다. 성도는 이 세상에서 건너가야 할 여정이 있고 해야 할 일이 있다는 것입니다. 그걸 성경이 ‘깨어 있음’이라고 표현하는 것입니다.

 

우리가 논점일탈의 오류를 범하지 않기 위해 반드시 이 비유의 배경으로 붙들어야 할 것이 바로 혼인잔치의 완료성이라는 점입니다. 종들을 떠나 다른 곳으로 가신 주인이 주님이라는 것에는 별 이견이 없으시지요? 이제 그 주인이 다시 돌아오시는 그 가시적 귀환을 우리가 재림이라고 부릅니다. 그 재림의 때를 준비하라는 주님의 강화의 내러티브 안에 이 비유가 들어 있는 것이잖아요? 그런데 우리를 세상에 남겨두고 떠나신 주님이 가신 곳이 혼인잔치라는 것이 이해가 가세요? 우리는 어린양의 혼인잔치는 먼 미래에 성취되는 것으로 알고 있었잖아요? 그런데 주님은 혼인잔치에서 돌아오신단 말입니다. 열 처녀의 비유와 오늘 본문의 비유를 합쳐보면 주님은 이미 완료된 혼인잔치에서 혼인잔치를 종결하시기 위해 다시 오신다는 것입니다. 이걸 어떻게 이해해야 하지요?

 

이게 바로 예정이라는 것입니다. 이미 영원이라는 영역 속에서 완료가 된 어떤 묵시가 이 세상에 역사로 펼쳐지는 것을 우리가 예정이라는 어설픈 단어로 표현하는 것입니다.

영원이 뭐라고 했지요? 과거와 현재와 미래가 통합이 된 개념을 영원이라 합니다. 그 영원이라는 개념 속에서 역사를 보면 에덴동산의 아담 안에 내가 들어가게 되는 것이고 요한계시록의 어린양의 혼인잔치에 내가 들어가게 되는 것입니다. 역사는 순서를 가지고 차곡차곡 쌓여 가는 것처럼 보이고 우발적이고 우연적인 것들에 의해 마치 럭비공처럼 스스로 생명력을 발휘하며 이리 튀고 저리 튀는 것처럼 보이지만 사실은 하늘의 언약 안에 이미 완료되어 있는 것이 가시적으로 펼쳐지고 있는 것일 뿐입니다. 따라서 어린양의 혼인잔치는 이미 완료된 잔치인 것입니다. 주님은 그 혼인잔치가 벌어지는 나라로부터, 가시적 역사 속에서 무언가 교육을 받고 있는 당신의 백성들을 찾아오시는데 그들이 바로 깨어 있는 자들이라는 것입니다. 깨어 있음이 근거가 되어서 찾아오시는 것이 아니라 주님이 찾아오시는 그 자리가 바로 깨어있음의 자리라는 것입니다. 그러니까 깨어 있으라는 주님의 말씀은 우리가 지켜내야 할 명령이라기보다 성령이 임한 자들에게서 나오는 필연적 자세라 할 수 있는 것입니다.

 

바꾸어 말하면 구원은 깨어 있음이라는 행위를 전제로 우리가 쟁취할 수 있는 것이 아니라 이미 구원되기로 작정된 자들이 깨어있음이라는 과정을 통과하는 것임을 알 수 있습니다. 혼인잔치는 이미 완료된 잔치니까요. 떡 하나 주어서 안 잡아먹히는 것이 아니라 이미 잡아먹힐 수 없는 자로 이 세상에 오는 것입니다. 그럼에도 인간들의 열심과 노력으로 떡을 내어 놓아야 잡아먹힘에서 풀려날 수 있다는 바로 그 사고가 죽어 있는 상태인 것입니다.

 

하나님은 지키면 살고 못 지키면 죽는다는 명령과 함께 이스라엘에게 율법과 제사라는 것을 주십니다. 마치 떡 하나 주면 안 잡아먹겠다는 호랑이의 제안처럼 보이지요? 그러나 그것은 율법지킴이라는 떡을 내어 놓으라는 주문이 아니라 ‘너희는 절대 떡을 내어 놓아 저주에서 풀려날 수 있는 자가 아니니 제사의 제물로 내려 갈 내 아들을 의지하여 내게로 오라’는 은혜의 필연성을 설명하기 위한 장치였던 것입니다. 그런데 이스라엘이 계속해서 율법과 제사로 떡을 생산해 내겠다고 수선을 피웠던 것입니다. 선악과를 따먹은 인간은 절대 자신의 무용함과 무력함을 폭로당하고 싶어 하지 않기 때문입니다. 마귀가 율법을 오해시키고 악용한 것입니다.

 

성도는 떡을 내 놓아서 위기를 모면하는 자들이 아니라 내 놓을 떡이 없는데도 호랑이가 잡아먹지 못하는 은혜의 현실을 경험하는 사람들인 것입니다. 어떻게 그렇게 된 것이지요? 예수님께서 십자가에 달리셔서 호랑이에게 통째로 먹혀 버리심으로 말미암아 호랑이의 아가리를 찢어 버리셨기 때문입니다. 그 십자가의 자리에서 하나님의 아들과 그의 신부인 교회의 성혼이 이루어진 것입니다. 그러니까 성도는 이미 혼인잔치가 벌어지고 있는 영원 속의 완료된 나라에 들어가 있는 사람인 것입니다. 그들이 이 세상에서 ‘도대체 왜 우리와 예수님의 혼인에 예수님의 피가 필요했는지’를 확실하게 배우고 부활의 몸을 입고 다시 그 혼인잔치의 장으로 복귀하게 되는 것입니다. 왜 주인이 혼인잔치에서 오시는지, 그리고 혼인잔치를 위해 오신다고도 하는지 아시겠지요? 그런 의미에서 already, not yet 이라면 옳습니다. 그러나 already와 not yet 사이의 갭을 인간의 떡 만들기의 행위로 채워야 한다는 의미에서의 already, not yet 은 잘못된 성경이해인 것입니다.

 

그렇게 성도는 자기의 혼인잔치에 왜 신랑의 피가 필요했는지를 배우기 위해 이 세상에 유학을 온 사람들이기 때문에 이 세상에서 ‘나’라는 존재의 죄악상을 나 자신과 하나님 앞에서 낱낱이 폭로를 당해야 하고, 수시로 넘어지는 자신의 무력함과 불가능함을 처절하게 긍정해야 합니다.

쉽게 이야기해서 ‘떡 하나 주면 안 잡아먹지’하는 마귀의 속삭임이 계속해서 들려오는데 하나님은 우리의 삶에 개입하셔서 내 놓을 떡이 없는 상태로 만들어 버리시는 것입니다. 그게 죄인 됨의 폭로입니다. 왜냐하면 마귀에게 계속해서 떡을 내어 놓다보면 마귀는 결국 그 떡을 내어 놓는 자까지 삼켜버리는 것이 마귀 나라의 사악함이기 때문입니다. ‘떡을 내 놓아야 살 수 있다’는 것은 정확하게 ‘선악과를 먹어야 하나님처럼 된다’라는 마귀 나라의 원리인 것입니다. 그런데 하나님은 마귀를 당황케 만들어 버리시는 것입니다. 내 놓을 떡이 없는 자들을 당신의 죽음으로 받쳐서 무상으로 건져 버리시는 것입니다. 마귀가 당황하지요. 그걸 은혜라고 합니다. 마귀 나라의 원리가 사필귀정, 권선징악의 기특한 원리로 돌아가는 것이라면 하나님 나라의 원리는 어부지리, 무위도식의 원리로 운영되는 곳입니다. 힘의 원리 속에서는 자존심 상하는 일입니다. 그러나 그래야 피조물이 피조물의 자리로 내려앉게 되고 왕이신 하나님의 영광만이 드러나게 되는 것입니다.

우리가 지난 수요예배 때 공부했던 것처럼 하나님 나라의 구조는 속죄 소 밑에 증거 판, 즉 인간의 죄와 실패가 깔리는 모습인 것입니다. 그 속죄소 위에 제물의 피가 뿌려진다는 것은 하나님께서 당신 백성들의 행위를 안 보시겠다는, 오직 당신 아들의 피만 보시겠다는 의지의 표명인 것입니다. 그렇게 하나님 나라는, 왕이신 하나님은 계속해서 용서하는 자리에 앉아 계시고 피조물인 당신의 백성들은 용서를 받는 자리에서 그분의 은혜만을 바라는 자로 내려앉는 구조로 영원히 존재하게 되는 것입니다. 성경은 바로 그 상태를 하나 됨, 연합, 혼인 등의 여러 단어로 표현을 하는 것입니다. 그러한 하나님 나라의 현실을 자각하고 수긍하는 상태를 깨어 있음이라고 하는 것입니다. 그래서 깨어있음이라는 것과 혼인잔치가 항상 연결이 되어 있는 것입니다. 혼인잔치의 본질을 올바로 이해하고 있는 것이 깨어있음이기 때문입니다.

 

여러분의 이해를 돕기 위해 인류 최초의 결혼 장면으로 돌아가 보겠습니다.

(창2:21~25)

21여호와 하나님이 아담을 깊이 잠들게 하시니 잠들매 그가 그 갈빗대 하나를 취하고

살로 대신 채우시고

22여호와 하나님이 아담에게서 취하신 그 갈빗대로 여자를 만드시고 그를 아담에게로

이끌어 오시니

23아담이 가로되 이는 내 뼈 중의 뼈요 살 중의 살이라 이것을 남자에게서 취하였은즉 여자라 칭하리라 하니라

24이러므로 남자가 부모를 떠나 그 아내와 연합하여 둘이 한 몸을 이룰 지로다

25아담과 그 아내 두 사람이 벌거벗었으나 부끄러워 아니 하니라

하나님께서 아담이라는 신랑을 잠들게 하시고 그 아담의 옆구리를 뚫어 심장을 지키고 있는 갈비뼈를 하나 뽑아내십니다. 그리고는 그것으로 또 다른 사람을 만들어 내십니다. 하나님은 그 사람을 아담에게 이끌어 오셨습니다. 아담은 그 사람을 보고 ‘내 살 중의 살이요 뼈 중의 뼈’라는 사랑고백을 합니다. 그리고는 그 사랑고백과 함께 그 여자에게 무언가를 주는데 그것이 ‘여자’라는 이름입니다. 아담이 여자에게 사랑고백과 함께 이름을 주는 이 장면이 출애굽기에서 율법의 옷을 입고 등장합니다.

(출22:16~20)

16사람이 정혼하지 아니한 처녀를 꾀어 동침하였으면 빙폐를 드려 아내로 삼을 것이요

17만일 그 아비가 그로 그에게 주기를 거절하면 그는 처녀에게 빙폐 하는 일례로 돈을 낼 지니라

18너는 무당을 살려 두지 말지니라

19짐승과 행음하는 자는 반드시 죽일 지니라

20여호와 외에 다른 신에게 희생을 드리는 자는 멸할 지니라

여기에서 남자가 여자와 결혼을 하기 위해 지불해야 하는 돈에 관한 이야기가 나옵니다. 남자가 여자와 결혼을 하기 위해서는 남자가 여자 가족이나 여자에게 지불해야 하는 돈이 있었는데 그것이 빙폐라는 것입니다. 납폐라고도 하지요? 그것이 요즈음에는 함이라는 것으로 여자 집으로 들어가는 것입니다. 결혼식이 끝난 후에 폐백을 하는 것도 다 이와 상통하는 것입니다. 남자가 성혼에 대한 감사의 인사를 신부 집에 하는 것이 폐백입니다. 그렇게 남자는 여자와 하나가 되기 위해 치러야할 대가가 있는데 그것이 아내의 가치에 상응하는 예물이었습니다. ‘내가 아내를 이만큼 사랑합니다. 그리고 난 아내를 끝까지 책임을 지겠습니다.’라는 고백으로 빙폐를 내는 것입니다. 그러니까 빙폐는 아내의 몸값이기 이전에 신랑의 사랑고백이라 할 수 있습니다.

아담이 바로 그 빙폐로 ‘여자’라는 이름을 준 것입니다. 그 이름 안에는 ‘살 중의 살, 뼈 중의 뼈’라는 아담의 사랑고백이 담겨 있는 것입니다. 그렇게 남편의 죽음을 근거로 하여 남편과 한 몸인 여자의 탄생이 바로 혼인인 것입니다. 죽음보다 깊은 사랑. 이건 하나의 모형인 것입니다.

하나님의 아들이신 신랑 예수와 그 아들의 신부인 교회와의 혼인잔치, 연합이 어떠한 모양으로 일어날 것인가에 대한 알기 쉬운 그림이 아담과 이브의 탄생이야기인 것입니다.

하나님의 아들이신 예수가 이 땅에 내려오셔서 그 크신 사랑으로 당신의 신부와 결혼을 해 버리십니다. 그게 구원이지요? 그런데 그 과정이 쉽지가 않습니다. 하나님의 아들이 신부와 혼인을 하기 위해 이 땅에 내려왔는데 그 신부가 싸늘하게 죽어 있는 것입니다. 어떻게? 죄와 허물로. 없음입니다.

그때 신랑은 십자가를 지고 잠(죽음)에 빠집니다. 그리고 그의 옆구리가 뚫리고 그의 심장을 막고 있던 갈비뼈가 적출이 되는 것입니다. 그리고 그 신랑의 몸의 일부로 신부가 새롭게 살아나게 되는 것입니다. 그렇게 예수님의 죽음으로 ‘너는 내 살 중의 살이요 뼈 중의 뼈’라는 사랑고백이 우리에게 부어졌고 하나님 아버지를 떠난 아들과 우리가 한 몸이 된 것이 구원인 것입니다. 왜요? 그 자리에서 우리에게 ‘산자’라는 이름이 주어지기 때문입니다. 그게 창세기에서 힌트 되고 있는 것입니다.

 

아담과 하와가 혼인을 하여 한 몸이 되었습니다. 그런데 신부가 선악과를 따먹고 그 한 몸의 관계가 깨져 버렸습니다. 그게 신부의 죽음입니다. 남자에게서 나온 여자가 남자와 끊어졌을 때 그건 곧 죽음을 의미하는 것입니다. 출애굽기 22장이 그 상태를 행음이라고 하지요? 그래서 혼인에 대한 결례에 갑자기 우상 섬김과 행음의 이야기가 등장하는 것입니다.

남자와 여자가 서로를 핑계 대며 잘못을 전가합니다. 그때 하나님은 창세기 3장 15절의 말씀을 주십니다. 뱀의 후손이 여자의 후손의 발꿈치를 물 것이고 여자의 후손은 뱀의 후손의 머리를 밟을 것이라는 원시복음입니다. 그 말은 하나님의 라인인 여자의 후손은 뱀에게 발뒤꿈치를 물려 피를 빨리는 자로 살게 되는데 그 피 빨림이 바로 상대의 머리를 밟는 승리의 십자가임을 보여주는 것입니다. 뱀은 상대의 피를 빠는 방식으로(힘의 원리)살고 하나님의 아들은 자기의 피와 살을 먹으라고 내어주는 방식으로(은혜의 원리)사는 것입니다. 그게 상대의 머리를 밟는 승리라는 것입니다.

아담이 그 말씀을 알아듣고 다시 여자에게 이름을 줍니다. 빙폐로 주었던 ‘여자’라는 이름이 폐기가 되고 ‘하와’ 즉 ‘산자의 어미’라는 이름이 새로 주어지는 것입니다. 새로운 혼인이 일어나는 것입니다. 죄로 말미암아 죽었던 여자가 신랑에 의해 다시 살게 되는데 그 신랑은 이제 육적 신랑이 아닌 여자의 후손이라는 새 신랑인 것입니다. 그 새신랑의 발뒤꿈치가 마귀에게 물림으로 말미암아 죽었던 여자가 살아 그 신랑의 신부가 되는 것입니다.

생각해 보세요. 선악과를 따먹으면 정녕 죽으리라는 하나님의 약속에 의해 그 여자는 죽어야 했습니다. 그런데 여자의 이름을 ‘하와, 산자의 어미’로 지었다는 것은 그 여자가 ‘여자의 후손’에 의해 살 것이라는 확신에 의한 것이었습니다. 우리가 바로 그 여자 안에 들어 있는 것입니다. 그래서 우리 성도가 산자가 된 것입니다.

 

그 이야기가 십자가에서 실제화 되어 버리는 것입니다. 십자가 위에서 마지막 아담이 새로운 하와, 즉 산자들을 위해 잠이 드는 것입니다. 그리고 그의 생명을 신부의 빙폐로 지불해 버립니다. 내 신부의 가치는 내 목숨과도 같다는 신랑의 고백인 것입니다. 그리고는 그 신부에게 ‘산자’라는 새로운 이름을 선물해 주는 것입니다. 그게 혼인입니다. 그게 한 몸입니다. 그게 연합이라는 것입니다. 그러니까 신부는 떡을 생산해 내고 축적하여 신부의 자격을 갖추는 것이 아니라 신랑의 사랑에 의해 거저 신부의 자리에 앉게 되는 것입니다.

 

하나님은 그러한 아담에게 가죽옷을 지어 입히시지요? 가죽 옷은 부끄러움을 덮어 버렸습니다.

유대인들에게 있어서 남자의 옷이 여자에게 덮이는 것은 곧 혼인을 의미하는 것이었습니다. 그래서 룻기에서도 룻이 보아스에게 나를 덮어 달라는 말을 하는 것입니다. 하나님과 죄인의 혼인의 모형이 창세기에 등장하는 것입니다.

 

메리디스 클라인(Meredith G. Kline) 교수의 책을 보면서 창세기 3장에 아주 재미있는 워드플레이(word play)가 나온다는 것을 알게 되었습니다.

(창3:1)

1여호와 하나님의 지으신 들짐승 중에 뱀이 가장 간교 하더라 뱀이 여자에게 물어

가로되 하나님이 참으로 너희더러 동산 모든 나무의 실과를 먹지 말라 하시더냐

여기에서 ‘간교하다’라고 번역이 된 히브리어가 ‘아룸’입니다. 그런데 7절에 나오는 ‘벌거벗음’이라는 단어가 굳이 ‘에룸’이라는 단어로 들어가 있습니다.

(창3:7)

7이에 그들의 눈이 밝아 자기들의 몸이 벗은 줄을 알고 무화과나무 잎을 엮어 치마를 하였더라

여기에서 ‘벌거벗다’라고 번역이 된 단어가 ‘에룸’입니다. 클라인에 의하면 성경이 이 ‘아룸’과 ‘에룸’이라는 단어를 통하여 인간의 벌거벗음이 바로 뱀의 간교를 입은 것을 설명하기 위한 히브리 문학의 워드 플레이라는 것입니다. 그러니까 마귀의 유혹에 넘어가 벌거벗은 부끄러움의 자리로 내려간 인간의 상태는 마귀의 간교를 입은 상태가 되는 것이고 그 마귀의 간교가 벗겨지는 것이 의의 옷이 덮이는 것이 되기도 하는 것입니다. 그리고 그렇게 부끄러움이 덮이는 상태, 죄와 허물의 죽음이 은혜로 덮이는 상태가 한 몸 되기이며 연합이며 혼인잔치 인 것입니다.

그래서 여자가 만들어지는 그 장면에서 혼인잔치가 거행 되었던 것이고 그 자리에서 ‘너는 내 살 중의 살이요 뼈 중의 뼈’라는 한 몸 사상이 선포되는 것입니다.

(겔16:6~14)

6내가 네 곁으로 지나갈 때에 네가 피투성이가 되어 발짓하는 것을 보고 네게 이르기를 너는 피투성이라도 살라 다시 이르기를 너는 피투성이라도 살라 하고

7내가 너로 들의 풀 같이 많게 하였더니 네가 크게 자라고 심히 아름다우며 유방이

뚜렷하고 네 머리털이 자랐으나 네가 오히려 벌거벗은 적신이더라

8내가 네 곁으로 지나며 보니 네 때가 사랑스러운 때라 내 옷으로 너를 덮어 벌거벗은 것을 가리우고 네게 맹세하고 언약하여 너로 내게 속하게 하였었느니라 나

주 여호와의 말 이니라

9내가 물로 너를 씻겨서 네 피를 없이 하며 네게 기름을 바르고

10수 놓은 옷을 입히고 물돼지 가죽신을 신기고 가는 베로 띠우고 명주로 덧입히고

11패물을 채우고 팔 고리를 손목에 끼우고 사슬을 목에 드리우고

12코 고리를 코에 달고 귀고리를 귀에 달고 화려한 면류관을 머리에 씌웠나니

13이와 같이 네가 금, 은으로 장식하고 가는 베와 명주와 수 놓은 것을 입으며 또 고운 밀가루와 꿀과 기름을 먹음으로 극히 곱고 형통하여 왕후의 지위에 나아갔느니라

14네 화려함을 인하여 네 명성이 이방인 중에 퍼졌음은 내가 네게 입힌 영화로 네

화려함이 온전함 이니라 나 주 여호와의 말 이니라

하늘 왕후의 혼인잔치 장면입니다. 벌거벗은 적신이었던 어떤 이가 하늘의 왕후가 되는데 그게 전부 하나님의 열심에 의한 것입니다. 여호와 하나님께서 깨끗이 씻기고 치장을 하여 화려한 왕후로 재탄생이 되는 것입니다.

그런데 8절을 보시면 그 신부는 하나님의 옷으로 덮임을 받는 자입니다. 이것이 혼인잔치입니다. 하나님이 벌거벗은 부끄러운 자를 당신의 옷으로 덮으시고 치장을 시켜 신부로 세워내시는 것이지 신부가 자격이 있어서 신부의 자리에 서게 되는 것이 아닙니다. 신부는 피투성이였습니다. 죽은 자였다는 것입니다. 죽은 자에게 하나님의 은혜의 옷이 덮여 그 죽은 자가 하늘의 왕후가 되는 것입니다. 그런데 그 옷은 신랑의 죽음으로 만들어지는 옷입니다. 신랑이 피투성이의 자리로 내려가 피투성이의 신부를 하늘 왕후로 만들어 내시는 것입니다. 아가서 8장의 ‘사랑은 죽음같이 강하다’라는 말이 바로 이 하늘 신랑의 사랑을 그리고 있는 구절인 것입니다. 죽음을 통과하여 사랑을 성취해 버리는 하나님의 사랑입니다.

 

바로 그 신랑이 준비한 예복, 십자가의 예복을 입지 않은 자는 뱀의 간교를 입고 있는 자입니다. 그들은 절대 혼인잔치에 못 들어갑니다. 그래서 예복을 입지 않은 자가 주인에 의해 쫓겨난 것입니다. 그도 무언가를 입고 있었습니다. 그러나 그가 어떤 훌륭한 옷을 입고 있던 그가 예수의 의라는 혼인잔치의 예복을 입고 있지 않다면 그는 벌거벗은 것이고, 뱀의 간교를 입은 것입니다. 그게 바로 인간의 자기주장, 자아실현, 자기자랑, 자아확장에서 나오는 모든 것들, 즉 호랑이 앞에 내어 놓은 떡인 것입니다. 그 떡으로는 절대 혼인잔치에 들어갈 수가 없는 것입니다.

 

그렇다면 십자가로 완료가 된 혼인잔치가 성대하게 베풀어지고 있는 하늘에서 오시는 신랑 예수를 깨어서 기다리는 사람들은 누구를 가리키겠습니까? 그 혼인잔치의 본질과 그 혼인잔치의 중요성을 아는 자들만이 오매불망 신랑만 기다리게 되는 것입니다. 혼인잔치를 완료시킨 신랑 이외에 다른 방법이나 길이 없다는 것을 알기 때문입니다.

그렇게 이미 천상에서는 하나님의 은혜로 혼인잔치가 완료되어 있음을 믿음으로 아는 자들만이 혼인잔치에서 돌아오는 주인을 기다리게 되는 것입니다.

그들은 이 땅에서 더 이상 자기들이 생산해 낼 수 있고 쌓을 수 있는 떡이 없다는 것을 압니다. 그래서 그들에게는 일상이 목적이 되는 것이 아니라 일상이 주인을 기다리는, 그 주인의 명령대로 살아내는 과정으로 밀려나게 되는 것입니다. 오직 그들의 관심은 벌거벗은 자신을 은혜의 옷으로 덮어버린 신랑에게만 집중이 되는 것입니다. 다른 이들은 신랑에 의해 완료 되어 있는 천국 잔치의 실체를 알 수가 없기 때문에 잔치에 초청을 받아도 못 가는 것입니다. 왜요? 일상을 챙겨야 하기 때문에요. 소도 사야하고, 장가도 가야하고, 밭에도 나가봐야 합니다. 효율성이지요? 경제적입니다. 이성적이고요. 그러나 그게 호랑이 앞에 내어 놓을 떡입니다. 그 떡을 준비하느라 공짜로 초대받은 천국 잔치에 못 가는 것입니다. 떡은 우리가 생산하여 취하거나 쌓을 수 있는 것이 아니라 오히려 하늘로부터 받는 것입니다. 하나님은 떡을 주시는 분이지 떡을 요구하시는 분이 아니란 말입니다.

(요6:33~35)

33하나님의 떡은 하늘에서 내려 세상에게 생명을 주는 것 이니라

34저희가 가로되 주여 이 떡을 항상 우리에게 주소서

35예수께서 가라사대 내가 곧 생명의 떡이니 내게 오는 자는 결코 주리지 아니할 터이요 나를 믿는 자는 영원히 목마르지 아니하리라

사람들은 자신을 증명하거나 자랑할 수 있는 세상의 힘을 떡으로 여기고 주님을 찾아왔습니다. 그것을 달라는 것이지요. 그 떡이 자신들을 행복하게 만들어 줄 수 있다고 철떡 같이 믿고 있는 것입니다. 그런데 그런 사람들은 순진하기나 하지요. 바리새인들은 어떠했습니까? 그러한 속물스러운 인간 욕심의 표상처럼 여겨졌던 세리들을 사람 취급도 안했습니다. 돈이 아무리 좋아도 어떻게 인간이 그렇게 살 수가 있냐는 것이지요. 그렇게 눈에 보이는 물질적 욕망을 나무라고 비난하던 바리새인들은 다른 방법으로 그들의 만족을 챙겼습니다. 그게 바로 율법지킴, 착한 행위 등이었습니다. 그러나 성경은 그것도 역시 인간 세상의 떡이라고 규정해 버립니다.

 

인간은 그 어떤 종류의 떡으로도 행복에 이를 수 없습니다. 그 말은 그 어떤 노력과 시도로도 인간 스스로 만들어낸 방법으로는 죽음에 속해 있는 자들이 살아올라 올 수 없다는 말입니다.

그렇게 자신의 일상을 통하여 자신이 내어 놓을 떡을 만드는데 분주한 자가 아니라 신랑의 공로로 완료된 혼인잔치의 은혜 성을 알게 된 자들이 혼인잔치에서 돌아오는 주인을 오매불망 기다리게 되는 것입니다. 그걸 깨어있음이라고 하는 것입니다.

슬기로운 다섯 처녀 보세요. 경제성과 효율성이라고는 눈곱만치도 찾아 볼 수 없지요?

언제 올지도 모르는 신랑을 기다리기 위해 그 비싼 기름을 일상 속에서 준비하고 있습니다. 그것으로 자신의 일상을 살찌울 수도 있습니다. 어리석은 다섯 처녀가 그리했습니다.

그런데 슬기로운 다섯 처녀는 이 세상의 떡을 소중히 여기는 자들에게는 비효율적이요 비경제적인 바보로 여겨지게 되는 것입니다.

 

마찬가지입니다. 세상은 우리에게 열심히 떡을 만들어 내라고 요구를 합니다. 소유의 떡, 물질의 떡, 선행의 떡, 열심의 떡, 착함의 떡 등등 많은 떡을 생산해 내라고 요구합니다. 많은 사람들이 일상을 통하여 그 떡들을 생산해 내느라 동분서주합니다. 그런데 중요한 것은 그렇게 자기의 떡에 착념하는 자들은 하늘나라 혼인잔치의 초청을 경홀히 여기게 된다는 것입니다.

성도는 그 모든 육의 것들이 우리를 살게 하고 행복하게 하는 것이 아니라 오직 신랑의 공로와 은혜로 우리가 살게 되고 우리가 행복할 수 있다는 하나님 나라의 완료 성을 믿고 그 신랑만을 기다리는 자로 살게 되는 것입니다. 그게 깨어 있는 자입니다. 그건 노력으로 되는 것도 아니고 열심을 부려서 얻을 수 있는 것도 아니라 하나님이 은혜로 주시는 믿음에 의해서만 알게 되는 것입니다. 그래서 깨어 있었던 슬기로운 다섯 처녀가 세상과 함께 자고 있는 모습이 성경에 그려져 있는 것입니다. 깨어있음은 우리 인간이 챙겨낼 수 있는 것이 아니기 때문입니다.

 

그렇다면 깨어있는 종들의 구체적인 일이 무엇이며 그들은 이 세상에서 어떤 대접을 받게 되는지에 관해 다음 주에 계속해서 공부해 보겠습니다