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たとえ(27) 屋台のつまみ皿の上の焼き雀にも劣る私 본문
たとえ(27) 屋台のつまみ皿の上の焼き雀にも劣る私
(ルカ14:7-14)
7招かれた人々が上座を選ぶのを見て、彼らにたとえて言われた。
8あなたがたは、だれでも婚礼の宴に招かれたとき、上座に着いてはならない。さもなければ
あなたより上位の人が招かれた場合
9あなたと彼を招いた者が来て、『この人に席を譲りなさい』と言うだろう。そのとき、あなたは恥ずかしくて末席に行かねばならない。
10招かれたなら、むしろ末の座に着け。そうすれば、あなたを招いた者が来て、『友よ、上座に着きなさい』と言うだろう。その時、共に座っている者たちの前で、あなたは栄誉を受けるのだ。
11 自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされる。
12 また、自分を招いた者には言われた。「昼でも夜でも宴会を催すなら、友や兄弟や
親族や裕福な隣人を招いてはならない。彼らがあなたを招き返して、あなたに
お返しをするかもしれないからである。
13宴を催すなら、むしろ貧しい者、体の不自由な者、足の不自由な者、目の見えない者を招きなさい。
14彼らは返すものがないから、あなたに報いがある。義人の復活の時、
あなたが報いを受けるからである」と言われた。
韓国で指折りの大教会の元老牧師が最近、持病で危篤状態だと聞きました。
そんな折、ちょうど昨日、その方のご子息が集中治療室で酸素吸入器に頼りながら苦しむお父様について書かれた文章を偶然目にしました。
そのご子息の話によると、ご自身の父親がその大教会の主任牧師職を早期に退任された理由は、毎週訪れる説教への重圧感のためだったそうです。
ご父上は説教を「十字架」と表現されるほど説教準備に徹底され、その説教を聞いて一人の魂でも神のもとに戻りますようにと切に祈りながら、毎回全エネルギーを注いで説教準備をなさったそうです。
しかし、そのような過酷な作業があまりにも重荷となり、まだ最盛期であった時期に早期引退という重大な決断を下されたのです。
牧会の最後の瞬間まで、一つの魂に向けた愛と奉仕のエネルギーを全て注ぎ尽くされたあの元老牧師の情熱が感じられませんか?
説教の準備があまりにも負担で、大きな教会の主任牧師の座から早期退職されるほど、毎回の説教に全力を尽くされたというその牧師の話を読みながら、私は限りなく恥ずかしくなりました。
実は私も最近、説教者として説教を準備する過程があまりにも重荷で、力尽きてしまいます。
牧師の仕事を辞めたいと思うことが一日に何度も訪れるほど、それほどに疲れるのです。
むしろどこかに行って肉体労働でもしながら、日々の食事を心配しながら生きる方がずっと楽だろうと、頻繁に考えてしまいます。
しかし私が説教を辞めたいと思う理由は、先述したあのベテラン牧師とは少し異なります。
あの元老牧師は、ご自身の説教を通して、たとえ一人の魂でも多く神のもとに戻らせるために、説教の準備に全エネルギーを注ぎ込み、十字架のような苦しみを通られたとおっしゃいましたが、私は説教を重ねるほどに「果たしてこの説教は正しいのだろうか?」という疑念が深まるため、力尽きてしまうのです。
私も過去には、どうすれば自分の説教を通して一人でも多くの人を救えるかを悩んだ人間でした。
ところがどういうわけか、聖書を読めば読むほど、そして聖書について学べば学ぶほど、一人の魂への愛と奉仕の心が深まるどころか、果たして自分に説教をする資格があるのかという自責の念ばかりが増していくのです。
そして聖書がますます難しくなっていくのです。
もう少し率直にお話しすれば、聖書を知れば知るほど、その福音の深みを覗き込めば覗き込むほど、そんな生き方は嫌だと言わざるを得ません。
十字架を背負えという神の言葉がますます胸に迫るのではなく、「なぜ私だけがそう生きなければならないのですか?」という怨みが私の内から押し寄せるように湧き上がってくるのです。
ただ適当に「善良に生きて神から報いを受けましょう」と会衆の機嫌を取って、何となく生きていたいという気持ちが湧き上がるのです。
それだけでなく、聖書をもっと知り深く研究すれば、それだけ生活の質が変わり成熟すると思っていたのに、変わるどころか巧みに自分の欲望と罪深い性質を隠す腕ばかりが上がっているようで、そうしているうちに「説教する者がこの有様なのに、説教を聞く人々はなおさらだろう」という諦めがいつも先に立つのです。
そうしながら心の中では「お前自身さえ変えられない説教を他人に大声で叫ぶのはあまりにも偽善的ではないか?」という恥ずかしい指摘の声が絶えず聞こえてきます。
私はこれまで、説教者とは聖徒たちの人生の方向を示し、教え、導く役割を担う人だと考えていました。
だから聖書が求める数多くの「せよ、するな」という命令を懸命に守ろうと努め、他の人々にも強いてきました。
しかし今や、もはや自分自身と神の前で、そして教会の前で、そんな芝居を続ける力も面目がありません。
なぜなら、実は「愛せよ、仕えよ、犠牲を払え、己を否定せよ」と叫びながら、私はそれが嫌で人がいない場所にこそこそ身を隠すことが多かったのです。また、数多くの「するな」という命令を教会の前で叫びながら、そのような命令を下される神様が実に苛烈に感じられることもありました。
ところが人々は、そんな説教をする私は少なくとも自分たちよりはまともな人生を送っているだろうと想像しているのが私の目には映ります。
聖哲和尚が亡くなる際、「生きてきて数多くの善男善女を騙してきた」と遺言を残されたそうですが、私はそのお気持ちの深さを胸に刻むことができる気がします。
自分は真理が何なのか、人生というものが何なのかさえ知らないのに、人々がそんな自分をあまりにも立派な人間だと思っているという事実が、善男善女を騙すことのように思えたのです。
その方は、そのような評価が生きたまま無間地獄に落ちたような苦痛として感じられたと遺言を残されました。
今の私の心境はまさにそれです。
ここ数ヶ月間、私の心を押しつぶしてきたのは、もはやそのような忌まわしい舞台に立ちたくないという思いでした。
依然として私の人生の主人は「私」であり、その「私」という偶像の地位のために説教さえも利用する、そんな私の実体を次第に深く知っていく中で、説教者という肩書きが重荷に感じられるからです。
だから最近、私が説教のたびに神の恵みを執拗に掴み、しがみついているように見えるのでしょう。
今や本当に神の恵みでなければならぬという、神の恵みの必然性があまりにも切実に体現されてしまい、他の話をすることができません。
皆さん、一度考えてみてください。自分自身の中に潜む汚れた不浄を次々と暴かれ続けている者が、会衆に向かってまさにその罪を指摘し、「あなた方は罪人です」と説教することが、果たして容易なことでしょうか?あまりにも痛ましいのです。
私の内なるものを全て暴かれて痛く、それを他の人々に全て暴露することが痛く、そこに座っている人々の心を慰めるどころか「私たちは死ぬべき者であり、そうして死ぬことになる」という毒舌のような話を伝えなければならないことが痛いのです。
なぜ使徒パウロの晩年がそれほど寂しく孤独だったのか、今なら分かる気がします。
なぜ皆が彼のそばを去っていったのか、テモテへの第二の手紙4章を読みながら不思議に思っていたのですが、今は少し理解できそうです。
そしてなぜ彼が、その働き終盤に至るまで「罪人の中の罪人」という名誉あるとは言えない称号を自ら抱き続けていたのかも、少し理解できそうです。
私たちはあまりにも簡単に忘れて生きてきたようです。私たち人間は、イエス・キリストの主権を現す道具であり器に過ぎないということを。
なぜ私たちはイエスという方の完全な助けのみに頼らなければならないのかを現す道具として生きるべき者たちが、そのイエスを助け神の業を成し遂げ、そのイエスに似て神を喜ばせようとしたことが、あまりにも恥ずかしいことです。
しかし重要なのは、そのような自責の念の中でもなお「私」という存在への崇拝の心が消えていないという事実です。
実に執拗な罪性です。
そうして私は、到底不可能な存在であることが神の前で丸裸に晒されました。
しかし聖書は私だけでなく、すべての人間がそのような者だと宣言しています。
善悪の知識の木の実を食べたすべての人間は、最も高い上座の座を目標地点として、ひたすらに生きているのです。
主は今日の本文でまさにそれを指摘しておられます。
本文7節を見ると、パリサイ人たちがそのパリサイ人たちの首領の家に招かれて入り、何をしていたかがよく分かります。
(ルカ14:7)
7招かれた人々が上座を選ぶのを見て、彼らにたとえを話して言われた。
招かれた人々が上座、すなわち主人の席と最も近い席に座ろうと絶えず争っていたということです。
この箇所で「選ぶ」と訳されたギリシャ語「エクセレゴント」は、「選ぶ」を意味する「エクレゴ」の未完了過去形です。
ギリシャ語の未完了過去形は、過去の継続的な動作を指します。
招かれたパリサイ人たちが休むことなく上座の争いを繰り広げていたということです。
そして「見て」と訳された「エペコン」は現在分詞です。
つまり、イエス様は続くパリサイ人たちの上座争いの競争を詳細に見守りながら、この教訓のたとえを投げかけられたのです。
人間たちの上座争い、すなわち自己崇拝という罪悪の現場で、彼らの罪状を爆撃してしまわれるのです。
ユダヤ人の食事席の配置はU字型テーブルの中央に主人が座り、その主人の席に近い場所から上座でした。
その席に招かれた律法学者たちとパリサイ人たちが互いに上座に座ろうとしたということは、彼らの律法を守る行為が結局は上座に座るための芝居に過ぎなかったことを暴かれたのです。
マタイによる福音書23章に進むと、イエス様はより詳細にパリサイ人と律法学者たちの実体を暴いておられます。
(マタイ23:2~12)
2律法学者たちとパリサイ人たちはモーセの座に座っている。
3だから、彼らの言うことは何でも行い、守りなさい。しかし、彼らの行いは見習ってはならない。彼らは言うだけで、行わない。
4また重い荷を束ねて人の肩に負わせながら、自分ではそれを指一本動かそうともしない。
5彼らは、すべての行いを人に見せびらかすためにそうするのである。すなわち、彼らの鞄は広く、
衣のふちは大きく、
6宴会の上座と会堂の席上、
7市場での挨拶と人から『ラビ』と呼ばれることを好む。
8しかし、あなたがたは『ラビ』と呼ばれてはならない。あなたがたの師はひとりであり、あなたがたはみな兄弟だからである。
9また、地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父はひとり、天におられる方だからである。
10また、『指導者』と呼ばれてはならない。あなたがたの指導者はひとり、キリストだからである。
11あなたがたのうちで偉い者は、あなたがたに仕える者となるべきである。
12だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされる。
パリサイ人と律法学者、そして律法学者たちの律法を守る行為は、実は上座に座り、自分を誇示し、見せびらかすための自己実現と自己拡大の道具であったのです。
神の恵みから離れた者たちは、何をもってしても自分の価値と栄光を得ようとするのです。
主はそうした人間たちの立派な律法遵守の行為を「高ぶる」と規定し、そのように「自己高揚」に陥っている者たちは必ず低くされるだろうと呪いを宣告なさったのです。
人間という存在は、そのように律法遵守や宗教的行為さえも自己崇拝の道具として用いる悪党たちなのです。
では、どうすれば低くされる人生を歩めるのでしょうか?私たちは低くされる人生を生きるために、善行にも励み、宣教にも赴き、教会生活も熱心に行ってきたのに、主がそうした全てを「高ぶる」人生を送るための偽装戦術だと暴いてしまわれたのです。では今、私たちは何をすれば真に低くされる人生を歩めるようになるのでしょうか?
(ルカ18:10~14)
10二人の人が祈ろうとして神殿に上った。一人はパリサイ人で、もう一人は取税人であった。
11パリサイ人は立って、離れて祈って言った。「神よ、私は他の者たち、すなわち、強奪し、不正を行い、姦淫をする者たちとは違い、この取税人とも違いありません。
12私は七日に二度断食し、収入の十分の一をささげています」と言った。
13取税人は遠くに立って、あえて天を見上げることもできず、ただ胸をたたいて
「神よ、お憐れみください。私は罪人です」と言った。
14 あなたがたに言っておく。この人が、あの人よりも義と認められて家に帰って行ったのである。
自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるのである。」
高ぶる人生とへりくだる人生の模範が登場しています。
ここで真に低く生きる者が現れます。それが取税人です。
取税人は何をしたでしょうか?あえて天を見上げることもできず、ただ胸を打ちながら『神よ、憐れんでください。私は罪人です』と自らの罪深い実体を正しく自覚し、神の憐れみに身を委ねたのです。
大した宗教行為をしたわけでもなく、特に善行をしたという記録もないのです。
ただ「私は天を見上げる資格すらない罪人です。
どうか助けてください」と心からの自己否認をしているのです。
それが真に低く生きる人生というものなのです。
一方、高く生きる人生とはどのようなものでしょうか?貪欲、不正、姦淫をせず、不法も犯さず、週に二度断食し、収入の十分の一をきちんと捧げながら「神様、これで私はよくやっているでしょうか?」と言ったパリサイ人の人生です。
皆さん、少し混乱していませんか?今日の改革派教会の目標地点は、パリサイ人の人生に近いのでしょうか?それとも徴税人の人生に近いのでしょうか?ファリサイ派の生き方に近いでしょう?「強奪、不正、姦淫、不法を行わず、十分の一税をきちんと納め、断食も熱心にして神を喜ばせる人生を生きよう」が今日の改革派教会のモットーではありませんか?ところが大変なことになりました。
イエス様はそれが高ぶる人生だと言われました。
どうなさいますか?今、心の中で「ああ、それは真心から湧き出る行いではないからそうなんだ、真心から湧き出る善い行いは神様がへりくだる人生として喜んで受け入れてくださるはずだ」と考える方がいらっしゃいますか?皆さん、私たちの真心はどれほどの持続力を発揮できるでしょうか?一度抱いた真心が続けざまに真心として残るでしょうか?私たちは心から湧き出る神への奉仕の行為を爪の先ほども行うことのできない者たちです。
いつも自分自身の地位を守ることだけに固執する者たちが、どうして見えない神を喜ばせる行いをできるでしょうか?私たちは結局「私」の栄光と「私」の価値だけを守り取っているのです。
そんな者たちはどうなさるというのですか?
(マタイ23:13~15)
13 わざわいだ。偽善的な律法学者たち、パリサイ人たちよ。あなたがたは天の国の門を人々の前で閉ざし、自分たちも入らず、入ろうとする者も入れないのだ。
15 わざわいだ。偽善者である律法学者たち、パリサイ人たちよ。あなたがたは、一人の信者を獲得するために、海と陸をくまなく巡り歩き、見つけ出すと、その者を自分たちよりも二倍も地獄の子とするのだ。
神は、パリサイ人や律法学者たちの「上座を求める」律法遵守の行為を、地獄に行く行為として呪われたのです。
それゆえ主は、ご自身の公生涯を通じて繰り返し、自らを高めようとする者たちへの警告をなさった。
それがまさに罪の本質であり核心だからである。
(マルコ12:39)
39会堂の席と宴会の上座を求める律法学者たちに気をつけよ
(ルカ20:46)
46長い衣を着て歩き回ることを好み、市場で挨拶され、会堂の席と宴会の
上座を好む律法学者たちに気をつけなさい
これは人間の自己高揚と地位固めの行為が、無底の穴へと落ちることだと警告されているのです。
しかし、自らを高める生き方のモデルが常にパリサイ人と律法学者であるのはなぜでしょうか。
彼らは外見上、熱心な宗教的行為を行い、律法においては非の打ち所がないと自負するほど、道徳的・倫理的・良心的見地から立派な人生を送っていた人々でした。
それが低くされる人生ではなかったでしょうか?ではなぜ主は、人間の高くされる人生を警告される度に彼らを例に挙げられるのでしょうか?低くされる人生は人間の努力で成し遂げられるものではないからです。
今日の本文をよくご覧になれば、宴席の席順を決める権限は宴の主催者が持っていることが明確に記されています。
(ルカ14:8-10)
8あなたがたは、だれでも婚礼の宴に招かれたら、上座に着いてはいけない。もし、
あなたより高い地位の人が招かれた場合
9あなたと彼を招いた者が来て、『この人に席を譲りなさい』と言うでしょう。その時、あなたは恥ずかしくて末席に行かざるを得なくなるのです
10招かれたら、むしろ末席に座りなさい。そうすれば、あなたを招いた者が来て、『友よ、上座に着きなさい』と言うでしょう。その時こそ、共に座っているすべての人々の前で栄光が与えられるのです
たとえ自分たちの思い通りに上座を占めて座っても、上座に座るべき人はすでに主人の心の中で決まっているということを。
その話を今、パリサイ人たちが聞いていることを見逃してはなりません。
イエスは今、パリサイ人たちのあらゆる宗教的行為や律法遵守の行いは、堕落した人間たちの自己偶像化作業に過ぎず、人間たちがそのような自らの行いで上座の争いを繰り広げようとも、神の国の上座はすでに決定され完了しているものであるため、人間たちの高ぶりと上座の座を巡る争いは天の国の上座配分に何の影響も及ぼし得ないことを悟れと告げているのです。
聖徒たちよ、この世の実体、いや、あなた方の生活の実体を正しく見よと。
あなた方の生活も、実は自己高揚と上座争いで満ちてはいないか、と指摘されているのです。
神の恵みから離れたこの世の実体が、そのようなゾンビたちの世界であることを正しく直視せよと。
主は11節でこのようにこのたとえ話の核心を突いておられます。
(ルカ14:11)
11 自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされる。
まるで私たちに「低くあれ」と試みよと要求されているかのようです。
しかし私たちは幾度となく試みてきましたよね?その度にどうでしたか?そのような試みの中でも主人公は依然として「私」なのです。
そうして私たちの「低くあれ」という努力は結局、自己高揚へと繋がる場合がほとんどだということを考慮すると、主がそのようなお言葉を述べられているようには思えません。
この言葉は、神の恵みを受けて聖霊を受ける者たちは、低くされる人生へと導かれ、キリストの霊を受けられない者たちは、最後まで自分だけを高くする者として生きるようになるというお言葉なのです。
聖徒は聖霊を受け、自らの実体を絶えず暴かれ、ゾンビで満ちたこの世の実体を正しく見ることができるようになるのです。
それにもかかわらず、自分の人生がゾンビたちの人生と大して変わらないことを経験し、「ああ、私という人間は神の恵みがなければ、一瞬たりとも生きている存在にはなれないのだ」と認めるようになること、それがまさに低くされることなのです。
それはまさに、その後に続く節の中でさらに明らかになります。
本文12節から記述されている、宴に招かれてその主人の宴に参加することになる人々の様子が、このように描かれています。
(ルカ14:12-14)
12また、自分を招いた人に向かって言われた。「昼の宴でも夜の宴でも、友や兄弟や
親族や裕福な隣人を招いてはならない。彼らがあなたを招き返して、あなたに
お返しをするかもしれないからである。
13宴会を催すなら、むしろ貧しい者や体の不自由な者や足の不自由な者や目の見えない者を招きなさい。
14彼らは返すものがないから、あなたに報いとなる。義人の復活の時、
あなたが報いを受けるからである。」
宴に招かれる者たちは、何も返すものがない者でなければならないということです。
ところで、この宴とはどのような宴かと言えば、天国の小羊の婚礼の宴を指しています。
今日の本文のすぐ下に続くたとえを見てみましょう。
(ルカ14:16~24)
16イエスは言われた。「ある人が盛大な宴会を設け、多くの人を招いた。
17宴会の時が来たので、招かれた者たちに僕を遣わして、『どうぞおいでください。すべてが整いました』と言った。
すると
18皆一様に断って、一人は『畑を買ったので、見に行かねばならず、どうかお許しください』と言い、
19また一人は『牛五頭を買ったので、試しに行かねばならず、どうかお許しください』と言い、
20また一人は『結婚したので、行けません』と言った。
21しもべが帰って、主人にそのことを告げると、家主は怒って、そのしもべに言った。「急いで
町の通りや路地に出て、貧しい者、体の不自由な者、目の見えない者、足の不自由な者を
連れて来なさい。」
22しもべが言った。「ご主人様、お命じになったとおりにしました。しかし、まだ席があります。」
23主人はしもべに言った。『道や垣根に出て行き、人を強いて連れて来て、私の家を
満たせ。
24あなたがたに言っておく。かつて招かれた者たちは、だれも私の祝宴を味わうことはないであろう。』
このたとえ話は、私たちがすでに学んだたとえ話ですね?これは天の王である神の子、小羊の婚礼の宴に関するたとえ話です。
しかし、その小羊の婚礼の宴に招かれた人々は、自分の用事を口実に宴の会場へ向かいませんでした。
平たく言えば、自分の用事がある人々は、その用事のために他人の宴に行かないのです。
「私」という偶像を崇拝することが忙しすぎて、他人の宴に祝いに赴くことが面倒なのです。
彼らがまさにパリサイ人たちなのです。
パリサイ人たちの律法遵守や善行が、すべて自分の日常を管理するための一環であったことが、またもや暴かれるのです。
その時、宴会の主人はどんな人々を呼び集めたでしょうか?21節を見ると、貧しい者たち、足の不自由な者たち、目の見えない者たち、足の不自由な者たちを呼び集めました。
彼らは今日の本文に出てくる「返すものがない者たち」です。
23節を見ると、そのように宴会に招かれる者たちが「強いて招かれる者たち」として描かれています。
自分は宴会とは全く関係のない者だと思いぼんやりしていたところ、誰かが来て手を掴み宴会へ引きずり込むのです。
それが強要なのです。
神の天国の宴は、私たちが報いを準備して行く場所ではなく、強要されて招かれて行く場所だということです。
このたとえと並行するたとえが記録されているマタイの福音書に行けば、より明確に理解できるでしょう。
(マタイ22:8~14)
8そこで、僕たちに言いました。「婚礼の宴は用意されたが、招かれた者たちはふさわしくなかった。
9だから、大通りや路地に出て、出会う人々に婚礼の宴に招いて来なさい。」
10そこで、僕たちは道に出て、悪い者も良い者も出会うままに皆連れて来ました。婚礼の宴の席は人でいっぱいになりました。
11王が席に着こうとして入ろうとしたとき、そこに礼服を着ていない一人の男を見つけた。
12王は言った。「友よ、どうして礼服を着ずにここに入ったのか。」すると彼は黙り込んでしまった。
13王は従者たちに言った。「この男の手足を縛って、外の暗闇に投げ出せ。そこで
彼は泣き叫び、歯ぎしりするであろう。」
14招かれた者は多いが、選ばれた者は少ない。
ここでまず招かれた者たちとは、パリサイ人や律法学者を含むユダヤ人たちを指すことは、容易に理解できるでしょう。
神はユダヤ人たちに律法と祭祀とみ言葉をまずお与えになりました。
罪人たちは律法と祭祀とみ言葉によって、自らの無力さと不可能性、そして十字架の必然性を悟るべきでした。
しかし人間は聖霊の助けなしに、自力でその境地に達することはできません。
むしろ律法と祭祀とみ言葉を用いて、自らの満足と価値と栄光を貪り取ってしまうのです。
それが最初に招かれた者たちです。
彼らは自らの肉体にのみ関心を持っています。
それゆえ、自らの日常に縛られているのです。
彼らは律法と祭祀の行いを熱心に実践し、償うべき功績を作ろうとする者たちです。
ところが主は、宴に招かれる者は償うべき功績のない者でなければならないとおっしゃいました。
主はこの婚礼の宴への招きのたとえを通して、何か返すものを用意しようと律法を守ったり宗教的行為をする者たちは、決して神の招きに応じるつもりがない者たちであることを白日のもとに明らかになさるのです。
人間たちが巧妙に隠している本心をはっきりと暴いてしまわれるのです。
そして、その神の子羊の婚礼の宴に招かれる人々を「償うものがない、強いて招かれる者」と規定なさるのです。
10節をご覧になると、主は悪人も善人も皆連れて来いとおっしゃっていますね?この言葉は、神の天国の宴に入ることができる根拠が、人間の善い行いや悪い行いと全く無関係であることを示しているのです。
主人が与えた礼服を着ているだけで、その宴で上座に座ることができるのです。
しかし、その礼服は主人が与えるものだとありましたね?自分が持ってきた服を着ると追い出されます。
主人が与える礼服とは何でしょうか?
先週、ヨハネの黙示録を通して探しましたね?
(黙19:7-9)
7わたしたちは喜び、大いに喜び、彼に栄光を帰しましょう。小羊の婚礼の時が
来たのです。その花嫁は整えられました。
8神は彼女に、輝き清らかな亜麻布を着ることをお許しになりました。この亜麻布は聖徒たちの正しい行いです。
9天使がわたしに言いました。「書き記しなさい。小羊の婚礼の宴に招かれた者たちは幸い
です。」
まさにこの婚礼の宴が、今日の本文と本文下のたとえで詳しく説明されているものです。
この小羊の婚礼の宴に招かれた者たちは幸いである。
しかし彼らは、何も返すものがない者たちとして招かれたのです。
彼らはただ主人が与える礼服を着ればよいのです。それが義の亜麻布です。
その義の亜麻布とは、小羊の血で洗われた亜麻布を指します。
(黙示録7:13~14)
13長老の一人が答えて私に言った。「この白い衣を着た者たちは誰で、どこから来たのですか。」
14 私は言った。『主よ、あなたがご存じです。』すると彼は私に言った。『彼らは大患難から出て来た者たちで、小羊の血でその衣を洗い、白くした者たちである。』
つまり、義の亜麻布とは、小羊の血の功績をただで着ることを意味します。
それは宴会の主である神から贈り物として与えられるものです。
まさにその小羊の血によって洗われる恵みの救いを、聖徒たちの正しい行いと呼ぶのです。
ですから、聖徒たちが神の前に差し出すべき正しい行いとは、イエス・キリストの十字架の血の功績を信じることだけです。
ヨハネの福音書6章28節を見ると、どうすれば神の業を行うのかと問う弟子たちに、主が答えられています。
『神が遣わした者を信じるのが、神のわざである。』それがまさに聖徒たちの正しい行いなのです。
したがって、神の恵みによって救いを得る神の民が、神に返すべきものは何もないのです。
しかし私たちはどうでしょうか?それがあまりにも自尊心を傷つけるので、絶えず「私」の存在性を確立し、守ろうとします。
それが人間中心主義です。
神に何かを絶えず返そうとします。
今日の教会はまるでカインの捧げ物をしているようです。
熱心に捧げているように見えますが、その捧げ物を神が褒めてくださらないと、腹を立てたり不平を言ったりします。
それでは、その供え物の主は誰なのでしょうか?供え物を受け取られる神ではなく、まさに「私」なのです。
そして、その「私の供え物」を守るためにアベルを打ち殺すことが、私たちの姿ではないでしょうか?それが、自分たちの律法を守る行為と供え物の行為を守ろうとしてイエス様を打ち殺したパリサイ人たちの姿ではないでしょうか?いや、まさに私の今の姿がそうなのです。
教会という者たちが「私」の地位に少しでも傷がつくことがあれば、その対象が神であっても放っておかないという邪悪な心持ちで信仰生活というものをしているのです。
内面をひっくり返してみると、常に「私」という自我が主人として座しているのです。
だから説教をしても自己自慢であり、コラムを書いても全くの自己自慢だらけなのです。
そうではないように、謙遜で、柔和さで、さらには自己卑下で立派に包装することもありますが、それがより狡猾な自我崇拝であり、自己拡張であることに自ら気づかされる時、本当に自らを殺したいほどに憎むようになるのです。
しかし今日の聖句を読みながら、私は本当に大きな恵みを受けました。
私たちは、それほど貧しい者として、病者として、私は者として、盲人として、何も返すことのできない者として暴かれながらも、それにもかかわらず、私たちを強いて招いてくださったイエス・キリストの恵みだけをつかむ者となるのだということを、はっきりと見たからです。
神は何か返そうと躍起になる私たちに、恵みをもって訪れ、何も返すものがない者として造り変えてくださる方です。
私たちを聖化し、アップグレードして神の誇る働き手として造り上げるのではなく、貧しい者として、病者として、足の不自由な者として、盲人として造り変えてくださることが救いだというのです。
マルコによる福音書8章35節に進みます。
(マルコ8:35)
35 だれでも自分の命を救おうとする者は、それを失う。しかし、わたしと福音のために
自分の命を失う者は、それを救うのである。
この御言葉を「熱心に伝道しよう」とか「殉教しなければ生きられない」と理解するのは誤りです。
この御言葉は、十字架にかけられた神の創造が、欲望に駆られる人間を死なせ、主を愛する者として生かすという御言葉です。
私たちの内で行われるイエスの新しい創造の御業が、まさにこのような方法で起こることを宣言するものです。
欲望する人間の動きは常に身体の安息へ向かって作用します。
なぜでしょうか?理由は人間の肉体が、古い自我である欲望する人間の生活の根拠だからです。
もし世界が美しく見えるならば、それは現在自分の肉体の現実性が安楽の領域に属しているからであり、逆に世界が呪われたように見えるならば、それは現在自分の肉体が苦しみの領域に属しているからです。
このような文脈から見ると、結局、欲望する人間にとって周囲の環境(世界)の価値は、現在自分の肉体が経験する安息の有無にかかっているということになります。
しかし、身体の安息を求める欲望する人間の逃避線は、非聖なる領域だけでなく聖なる領域にまで食い込んでいます。
したがって、欲望する人間にとって聖なる領域である教会さえも、自らの身体のための道具へと転落してしまうのです。
このような文脈から見ると、教会とは、欲望する人間の身体の安息を助ける欲望の角逐場となる潜在性を常に内包しているのです。
つまり、信徒たちは自らの身体を楽にするために様々な宗教行事に熱心に取り組み、これに対する報いとして牧師は聖なる仮面をかぶり、死の祭りを繰り広げるのです。
それが結局は自己高揚に他ならないのです。
聖徒の生活は、決して自己の価値や栄光を手にしようとする場にはなり得ません。
十字架にかけられたキリストの霊が、聖徒の生活を十字架へと、十字架に向かって介入されるからです。
その時より聖徒は、自らの意思で生きてきた内なる歴史の現場から離れ、イエス・キリストが導かれる十字架の道へ一歩一歩踏み出すのです。
かくして神の国のご馳走に招かれた聖徒たちは、イエス・キリストが歩まれたその道をそのまま追って生きるようになるのです。
イエス様は、この地に来られて、貧しい者として、病者として、足の不自由な者として、盲人として生き、そして去って行かれました。
ただ神の言葉を成就するため、契約を成し遂げるために、弱く弱い姿で世に打ちのめされ、ついに十字架を背負って去って行かれたのです。
それは神の自作劇と言っても過言ではありません。
そうすることで、自分たちの犠牲を守るために罪なきアベルを打ち殺すこの世のカインたちの正体が暴かれるからです。
聖徒たちはまさにその道を歩むのです。
神の契約の中で、イエス・キリストの十字架の必然性を明らかにするための道具として生き、去っていくのです。
イエスがそうであったように。
(コロサイ1:15~16)
15彼は、見えない神の像であり、すべての被造物に先立って生まれた方です。
16すべてのものは、彼によって創造されました。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、見えないもの、
すなわち、玉座、主権、統治、権威など、すべてのものは、彼によって、また彼のために創造されました。
このように、この世のすべての人間は、誰であれ、イエス様を現すための道具に過ぎないのです。
私たちのためにイエス様がおられるのではなく、イエス様を現すために私たちが道具として、器として用いられるのです。
そのようなイエス様に対する正しい自覚があるとき、私たちはカナンの女のような偉大な告白をすることができるのです。
「主よ、私は犬です。
そのような犬に、主人の食卓のパン屑を少し分けてください」このように主の前で犬の立場に低く身を置き、ただ主の憐れみだけを願う者が聖徒なのです。
そのような者たちに主の愛を求める資格があるでしょうか?カナンの女にイエス様が「犬」とおっしゃった時、その女がイエス様がどなたかを知らなかったなら、大いに怒るべきことです。
しかし、イエスがどなたかを知り、自分がその御前でどのような存在であるかを知る者は、その御前でただ憐れみだけを求めます。
ところが私たちは、そのような主の御前で、自分への愛と関心と配慮だけを求め続けてはいませんか?違います。
私たちはそれほど神について無知なのです。
私たちは依然として神中心ではなく人間中心の信仰生活を送っているのです。
神はそうした私たちの生活に介入され、必ず私たちを貧しい者、足の不自由な者、病者、盲人、犬のように低くされるでしょう。
その時、慌てないでください。
今日の本文の最後の節で、自分を低くする者が高められると言いましたね?はい、その通りです。
そのように低くされる者が天国の上座に上がる者だということです。
ルカによる福音書12章に行くと、神が守り保護される者がどのような扱いを受けるかがよく書かれています。
(ルカ12:4~7)
4わたしは、わたしの友であるあなたがたに言う。体を殺しても、それ以上は何もできない者たちを
恐れてはならない。
5あなたがたが恐れるべき者を、わたしがあなたがたに示そう。殺した後、さらに地獄に投げ込む権威を持つその者を恐れなさい。まことに、あなたがたに言う。その者を恐れなさい。
6雀五羽がアサリオン二枚で売られているではないか。しかし神の前では、その一羽でさえ
忘れられることはない。
7あなたがたには、むしろ髪の毛の一本までも数えられている。恐れてはならない。あなたがたは多くの雀よりも尊いのだ。
神が雀に食べ物を与え、守ってくださると言われながら、雀五羽がアサリオン二枚で売られるというお言葉です。
アサリオンは16分の1デナリオンに過ぎないお金です。
マタイによる福音書10章に行くと、二羽の雀が一アサリオンで売られるという言葉が出てきます。
ところが二アサリオンで五羽なら、一羽はおまけでくれることになります。
神が守られる雀の価値があまりにも安くないでしょうか?「神が守られ保護される雀が一タラントで売られるのではないか?」がふさわしいでしょうか?それとも「神が守られる雀が二アサリオンで一羽おまけに付けて五羽で売られるのではないか?」がふさわしいでしょうか?前者ですよね?ところが神が守られる雀は二アサリオンで五羽ずつ売られ、屋台の酒の肴として渡されるのです。
重要なのは、雀はそれにもかかわらず、そのような神の御心に従ったということです。
では「ましてやあなたがたはどうか?」という問いをどう理解すべきでしょうか?私たちの髪の毛まで数えてくださる神様が、私たちもそれほど安い値段で売り渡すことができるということを意味します。
私たちはそうして世に打ちのめされて死ぬ姿で、価値のない姿で去ることになりますが、世は私たちを絶対に地獄へは送れないのですから、死後に地獄まで送り込まれる神様を恐れ、神様に従順な者として生きなければならないということです。
必ずそうして造り上げてくださるということです。
それが聖徒に向けた神様の御業なのです。
ご覧ください。なぜ今日の説教題が『屋台のつまみ皿の上の雀焼きより劣る私』なのかお分かりでしょう?雀は自分がいくらで売られどこへ売られようと神様を恨みません。
猛獣たちでさえ、食べるものがなければただ餓死します。
唯一人間だけが、自らの力を発揮して危機を免れようと立ち上がるのです。
神の国という観点から、雀の方が優れているのでしょうか?私たち人間の方が優れているのでしょうか?屋台のつまみ皿の上の雀たちの方がはるかに優れているのです。
雀たちは神の御心に従い、裸で酒の肴皿の上に上がっているのに、人間だけが神の処置に不満だと、その雀を肴にして酔っぱらっているのです。
それが自己高揚なのです。
今、私が話していることです。
私たちはそれほど不可能な無力な者たちなのです。
だから神様は私たちの実体を暴き出し、イエスのように十字架に吊るして死なせてしまうのです。
それが聖徒の人生なのです。
そうして神様によって死ぬ者たち、低くされる者たちが聖徒であり、彼らを殴り殺す、報いを受けるべき者たちが世なのです。
神様がそうして私たちを死に追いやられる時、当然のこととして受け止めなければなりません。
神様の御前では、私は犬に過ぎない存在ですから。そして、そうして私が犬として暴かれた場所で、カナンの女のようにその方の憐れみを求めるのです。
神の憐れみだけが私たちを救う唯一の希望だからです。孤独で辛くても、ただひたすらに生き続けてください。
そうして低くされ続けながら、小羊の婚礼の宴に着席する私たちの姿を思い描いてみてください。
いかなる公式もなく、私たちの生活の中でイエス・キリストを現わされる神の御業に、ただ黙々と従順に従いながら生きていればよいのです。
비유(27) 포장마차 안주 접시 위의 참새구이보다 못한 나
(눅14:7-14)
7청함을 받은 사람들의 상좌 택함을 보시고 저희에게 비유로 말씀하여 가라사대
8네가 누구에게나 혼인 잔치에 청함을 받았을 때에 상좌에 앉지 말라 그렇지 않으면
너보다 더 높은 사람이 청함을 받은 경우에
9너와 저를 청한 자가 와서 너더러 이 사람에게 자리를 내어 주라 하리니 그 때에 네가 부끄러워 말석으로 가게 되리라
10청함을 받았을 때에 차라리 가서 말석에 앉으라 그러면 너를 청한 자가 와서 너더러 벗이여 올라앉으라 하리니 그 때에야 함께 앉은 모든 사람 앞에 영광이 있으리라
11무릇 자기를 높이는 자는 낮아지고 자기를 낮추는 자는 높아지리라
12또 자기를 청한 자에게 이르시되 네가 점심이나 저녁이나 베풀거든 벗이나 형제나
친척이나 부한 이웃을 청하지 말라 두렵건대 그 사람들이 너를 도로 청하여 네게
갚음이 될까 하라
13잔치를 배설하거든 차라리 가난한 자들과 병신들과 저는 자들과 소경들을 청하라
14그리하면 저희가 갚을 것이 없는 고로 네게 복이 되리니 이는 의인들의 부활 시에
네가 갚음을 받겠음이니라 하시더라
한국에서 몇 손가락 안에 들어가는 큰 교회의 원로 목사님께서 최근에 지병으로 위중하다는 소식을 들었습니다.
그러던 차에 바로 어제, 그분의 아드님께서 중환자실에서 산소 호흡기에 의존한 채 고통을 겪고 계신 아버님에 대해 쓰신 글을 우연히 읽게 되었습니다. 그 아드님의 말에 의하면 자기 아버지께서 그 큰 교회의 담임목사자리에서 조기 은퇴를 하신 이유가 매 주 돌아오는 설교에 대한 중압감 때문이라고 했습니다. 자기 아버지는 설교를 ‘십자가’라고 표현을 하실 정도로 설교 준비에 철저하셨으며 그 설교를 듣고 한 영혼이라도 하나님께 돌아오기를 간절히 기도하며 매번 온 에너지를 쏟아 부어 설교 준비를 하셨다고 했습니다.
그런데 그러한 고단한 작업이 너무나 버거우셔서 아직 한창이시던 때에 조기 은퇴라는 중대한 결정을 내리셨다는 것입니다.
목회의 마지막 순간까지 한 영혼을 향한 사랑과 섬김의 에너지를 모두 다 쏟아 부으셨던 그 원로 목사님의 열정이 느껴지지 않으십니까?
설교 준비가 너무 버거워서 큰 교회의 담임 목사 자리에서 조기 은퇴를 하실 정도로 매 설교에 전력을 다하셨다는 그 목사님의 이야기를 읽으면서 저는 한없이 부끄러워졌습니다.
사실 저도 요즈음 설교자로서 설교를 준비하는 과정이 너무나 버겁고 힘이 듭니다.
목사 노릇 그만하고 싶다는 생각을 하루에도 몇 번씩 할 정도로 그렇게 힘이 듭니다. 차라리 어디에 가서 육체적인 노동이라도 하면서 하루하루 끼니 걱정해가며 사는 것이 훨씬 편할 것 같다는 생각을 수시로 합니다.
그런데 제가 설교를 그만하고 싶다고 생각을 하는 이유는, 앞에서 언급한 그 원로 목사님과는 조금 다릅니다.
그 원로 목사님은 당신의 설교를 통하여 한 영혼이라도 더 하나님께 돌아오게 하기 위해 설교 준비에 모든 에너지를 쏟아 붓느라 십자가 같은 고통을 통과하셨다고 하셨지만, 저는 설교를 거듭할수록 ‘과연 이 설교가 맞기는 맞는 건가?’라는 회의가 점점 깊어지기 때문에 힘이 드는 것입니다.
저도 과거에는 어떻게 하면 나의 설교를 통하여 한 사람이라도 더 구원할 것인가를 고민했던 사람입니다.
그런데 어떻게 된 것인지 성경을 읽으면 읽을수록, 그리고 성경에 대해 공부를 하면 할수록, 한 영혼에 대한 사랑과 섬김의 마음이 깊어지는 것이 아니라, 과연 내가 설교를 해도 되는 사람인가라는 자괴감만 늘어갑니다.
그리고 성경이 점점 더 어려워집니다. 조금 더 솔직하게 말씀을 드리면 성경을 알면 알수록, 그 복음의 깊이를 들여다보면 볼수록, 그렇게 살기가 싫다고 해야 맞을 겁니다. 십자가를 지라는 하나님의 말씀이 점점 더 가슴에 와 닿는 것이 아니라, ‘왜 나만 그렇게 살아야 합니까?’라는 원망이 제 속에서 물밀듯 밀려 올라옵니다. 그냥 대충 ‘착하게 잘 살아서 하나님께 상급을 받읍시다’하고 회중들의 비위나 맞추면서 그냥 저냥 살고 싶은 마음이 샘솟듯 솟아오릅니다.
뿐만 아니라 성경을 더 많이 알고 더 깊이 연구를 하면 그만큼 삶의 질이 변하고 성숙되어질 줄 알았는데 변하기는커녕 교묘하게 자신의 욕망과 죄 된 속성을 감추는 실력만 늘어가는 것 같고, 그러다보니 ‘설교하는 자가 이 모양인데 설교를 듣는 사람들은 오죽할까?’라는 체념이 자꾸만 앞서게 됩니다. 그러면서 속에서는 ‘너 하나도 변화시키지 못하는 설교를 다른 사람들에게 소리쳐 외치는 것이 너무 위선적이지 않니?’라는 부끄러운 지적의 소리가 계속 들려옵니다.
저는 지금까지 설교자는 성도의 삶의 방향을 제시해 주고 가르쳐 주고 인도해 주는 역할을 하는 사람인 줄 알았습니다. 그래서 성경에서 요구하는 수많은 ‘하라, 하지 말라’의 명령을 열심히 지켜보려 애를 쓰며 다른 사람들에게도 강요해 왔습니다. 그러나 이제는 더 이상 제 자신과 하나님 앞에서, 그리고 교회 앞에서 그런 연극을 지속할 힘과 면목이 없습니다. 왜냐하면 사실은 ‘사랑하라, 섬겨라, 희생해라, 자기를 부인해라’하고 외치면서 저는 그게 하기 싫어서 사람들이 없는 곳으로 꽁꽁 몸을 숨기기 일쑤였고, 수많은 ‘하지 말라’의 명령을 교회 앞에서 외치면서 그런 명령을 하시는 하나님이 참 표독스럽게 느껴지기도 했습니다. 그런데 사람들은 그런 설교를 하는 저는 적어도 자신들보다는 괜찮은 삶을 살고 있을 것이라고 상상을 하는 것이 제 눈에 보입니다. 성철 스님이 돌아가시면서 ‘살아오면서 수많은 선남선녀를 속였다’고 유언을 남기셨다고 하는데 저는 그 분의 마음을 가슴깊이 이해할 수 있을 것 같습니다. 자기는 진리가 무엇인지, 삶이라는 것이 무엇인지조차 모르고 있는데 사람들은 그러한 자신을 너무 괜찮은 사람으로 보고 있다는 그 사실이 선남선녀를 속이는 일로 여겨졌던 것입니다. 그분은 그러한 평가가 산채로 무간지옥에 떨어진 것 같은 고통으로 와 닿았다고 유언을 남기셨습니다.
지금 저의 심경이 바로 그러합니다. 최근 몇 개월간 저의 마음을 짓눌러 온 것이, 이제 더 이상 그런 가증스러운 무대에 서고 싶지 않다는 것이었습니다. 여전히 내 인생의 주인은 ‘나’이고, 그 ‘나’라는 우상의 위상을 위해 설교까지도 이용해 먹는 그런 저의 실체를 제가 점점 더 깊이 알아가고 있는 마당에 설교자라는 타이틀이 너무 버겁기 때문입니다. 그래서 요즘 제가 설교 때마다 하나님의 은혜를 집요하게 붙들고 늘어지는 것 같습니다. 이젠 정말 하나님의 은혜가 아니면 안 된다는 하나님 은혜의 필연성이 너무나 절실하게 체휼이 되어져서 다른 이야기를 할 수가 없습니다.
여러분 한 번 생각해 보세요. 자기 자신에게 자기 속의 더러운 오물들을 계속해서 들키고 있는 사람이 회중들에게 바로 그 죄에 대해 지적을 하고 ‘당신들은 죄인입니다’하고 설교를 하는 게 쉬울 것 같으세요? 너무 아픕니다. 내 안의 것을 다 들켜 버려서 아프고, 그것을 다른 이들에게 다 폭로하는 것이 아프고, 그 자리에 앉아 있는 이들의 마음을 위로는 못해줄 망정 ‘우리는 죽어야 하는 자들이고 그렇게 죽게 될 것’이라고 독설 같은 이야기를 전해야 하는 것이 아픕니다.
왜 사도 바울의 말년이 그렇게 쓸쓸하고 외로웠는지 이제는 알 것 같습니다. 왜 모든 이들이 다 그의 곁을 떠나갔는지 디모데후서 4장을 읽으면서 의아해 했었는데 이제 조금 알 것 같습니다. 그리고 왜 그가 그의 사역 말년에까지 ‘죄인 중의 괴수’라는 명예롭지 못한 타이틀을 스스로 붙들고 갔었는지를 조금 알 것 같습니다.
그렇게 우리 인간들은 예수 그리스도의 주되심을 드러내는 도구요 그릇일 뿐임을 우리는 너무 쉽게 잊고 살았던 것 같습니다. 왜 우리는 예수라는 분의 전적인 도움만을 의지해야 하는지를 드러내는 도구로 살아야 하는 자들이, 그 예수를 도와 하나님의 일을 성취하고 그 예수를 닮아 하나님을 기쁘시게 해드리려고 했다는 것이 너무나 부끄럽습니다. 그런데 중요한 것은 그러한 자괴감 속에서도 여전히 ‘나’라는 존재에 대한 숭배의 마음이 사라지지 않고 있다는 사실입니다. 참으로 집요한 죄 성입니다. 그렇게 저는 도저히 불가능한 자라는 것이 하나님 앞에서 낱낱이 까발려졌습니다.
그런데 성경은 저뿐만이 아니라 모든 인간들이 다 그러한 자들이라고 선언해 버립니다. 선악과를 따먹은 모든 인간은 가장 높은 상좌의 자리를 목표지점으로 하여 일로매진하며 살고 있다는 것입니다. 주님은 오늘 본문에서 바로 그것을 지적하고 계십니다. 본문 7절을 보시면 바리새인들이 그 바리새인들의 두령의 집에 초청을 받아 들어가서 무엇을 하고 있었는지가 잘 나옵니다.
(눅14:7)
7청함을 받은 사람들의 상좌 택함을 보시고 저희에게 비유로 말씀하여 가라사대
청함을 받은 사람들이 상좌, 즉 주인의 자리와 가장 가까운 자리에 앉으려고 지속적으로 경쟁을 하고 있었다고 합니다. 이 구절에서 ‘택하다’라고 번역이 된 헬라어 ‘엑셀레곤토’는 ‘선택하다’는 뜻의 ‘에클레고’의 미완료 과거형입니다. 헬라어의 미완료 과거형은 과거의 계속적인 동작을 가리키는 것입니다. 초청을 받은 바리새인들이 쉬지 않고 상좌 다툼을 벌이고 있었다는 말입니다. 그리고 ‘보시고’라고 번역이 된 ‘에페콘’은 현재분사입니다. 그러니까 예수님께서 계속되는 바리새인들의 상좌 다툼의 경쟁을 자세하게 지켜보시면서 이 교훈의 비유를 던지신 것입니다. 인간들의 상좌 다툼, 즉 자아숭배라는 죄악의 현장에서 그들의 죄상을 폭격해 버리시는 것입니다.
유대인들의 식사 자리 배치는 U자형 테이블 중앙에 주인이 앉고 그 주인의 자리에 가까운 자리부터 상좌였습니다. 그 자리에 초청을 받은 율법사들과 바리새인들이 서로 상좌에 앉으려 했다는 것은 그들의 율법지킴의 행위가 결국 상좌에 앉기 위한 연극에 불과했다는 것을 폭로당하는 것입니다. 마태복음 23장으로 가면 예수님께서 보다 자세하게 바리새인들과 서기관들의 실체를 폭로해 버리십니다.
(마23:2~12)
2서기관들과 바리새인들이 모세의 자리에 앉았으니
3그러므로 무엇이든지 저희의 말하는 바는 행하고 지키되 저희의 하는 행위는 본받지 말라 저희는 말만 하고 행치 아니하며
4또 무거운 짐을 묶어 사람의 어깨에 지우되 자기는 이것을 한 손가락으로도 움직이려 하지 아니하며
5저희 모든 행위를 사람에게 보이고자 하여 하나니 곧 그 차는 경문을 넓게 하며
옷 술을 크게 하고
6잔치의 상석과 회당의 상좌와
7시장에서 문안 받는 것과 사람에게 랍비라 칭함을 받는 것을 좋아 하느니라
8그러나 너희는 랍비라 칭함을 받지 말라 너희 선생은 하나이요 너희는 다 형제니라
9땅에 있는 자를 아비라 하지 말라 너희 아버지는 하나이시니 곧 하늘에 계신 자시니라
10또한 지도자라 칭함을 받지 말라 너희 지도자는 하나이니 곧 그리스도니라
11너희 중에 큰 자는 너희를 섬기는 자가 되어야 하리라
12누구든지 자기를 높이는 자는 낮아지고 누구든지 자기를 낮추는 자는 높아지리라
바리새인들과 서기관들, 그리고 율법사들의 율법지킴의 행위들이 사실은 상좌에 앉아 자신을 자랑하고 드러내기 위한 자아 성취와 자기 확장의 도구였다는 것입니다. 하나님의 은혜를 떠난 자들은 무엇을 가지고도 자기 자신의 가치와 영광을 챙기려 한다는 것입니다. 주님은 그러한 인간들의 기특한 율법지킴의 행위를 ‘높아지기’라고 규정을 하시고 그렇게 ‘자기 높아지기’에 빠져있는 자들은 반드시 낮아지게 될 것이라고 저주를 해 버리십니다. 인간이라는 존재는 그렇게 율법 지키기나 종교 행위들마저도 자아 숭배의 도구로 쓰는 악당들입니다.
그렇다면 어떻게 해야 낮아지는 삶을 사는 것일까요? 우리는 낮아지기의 삶을 살기 위해 애써 선행도 하고, 선교도 가고, 교회 생활도 열심히 하고 했는데 주님께서 그러한 모든 것들을 ‘높아지기’의 삶을 살기 위한 위장 전술이라고 폭로를 해 버리셨으니 이제 우리는 무엇을 하여야 진짜 낮아지기의 삶을 살 수 있게 되는 것일까요?
(눅18:10~14)
10두 사람이 기도하러 성전에 올라가니 하나는 바리새인이요 하나는 세리라
11바리새인은 서서 따로 기도하여 가로되 하나님이여 나는 다른 사람들 곧 토색, 불의, 간음을 하는 자들과 같지 아니하고 이 세리와도 같지 아니함을 감사하나이다
12나는 이레에 두 번 씩 금식하고 또 소득의 십일조를 드리나이다 하고
13세리는 멀리 서서 감히 눈을 들어 하늘을 우러러 보지도 못하고 다만 가슴을 치며
가로되 하나님이여 불쌍히 여기옵소서 나는 죄인이로소이다 하였느니라
14내가 너희에게 이르노니 이 사람이 저보다 의롭다 하심을 받고 집에 내려갔느니라
무릇 자기를 높이는 자는 낮아지고 자기를 낮추는 자는 높아지리라 하시니라
높아지기의 삶과 낮아지기의 삶의 표본이 등장하고 있습니다. 여기에서 진짜 낮아지기의 삶을 사는 이가 나오는데 그가 바로 세리입니다. 세리가 뭘 했나요? 감히 눈을 들어 하늘을 우러러 보지도 못하고 다만 가슴을 치며 ‘하나님이여 불쌍히 여기옵소서, 나는 죄인이로소이다’하고 자신의 죄 된 실체를 올바로 자각하고 하나님의 긍휼에 자신을 맡겨 버렸습니다. 뭐 대단한 종교 행위를 하는 것도 아니고 대단하게 착한 일을 했다는 기록도 없습니다. 그냥 ‘난 하늘을 쳐다 볼 자격도 없는 그런 죄인입니다. 저 좀 도와주세요.’하고 진심어린 자기부인을 하고 있는 것입니다. 그게 진짜 낮아지기의 삶이라는 것입니다. 반면에 높아지기의 삶은 어떤 것이라 하나요? 토색, 불의, 간음을 하지 않고, 불법도 저지르지 않으며, 이레에 두 번씩 금식을 하고, 소득의 십일조를 꼬박꼬박 드리며 ‘하나님 저 이만하면 잘하고 있는 거지요?’했던 바리새인의 삶입니다. 여러분 조금 헛갈리지 않으세요? 오늘날 개혁교회의 목표지점이 바리새인의 삶과 가깝습니까? 아니면 세리의 삶과 가깝습니까? 바리새인의 삶과 가깝지요? ‘토색, 불의, 간음, 불법 행하지 말고, 십일조 꼬박꼬박 내고, 금식도 열심히 하여 하나님을 기쁘게 해 드리는 삶을 살자’가 오늘날 개혁교회들의 모토가 아니던가요? 그런데 큰일 났습니다. 예수님께서 그게 높아지기의 삶이랍니다. 어떻게 하실 거예요? 지금 속으로 ‘아, 그건 진심에서 우러나오는 행위가 아니라서 그렇지, 진심에서 우러나오는 착한 행위는 하나님께서 낮아지기의 삶으로 기쁘게 받으실 거야’ 이렇게 생각하시는 분들 계시지요? 여러분, 우리의 진심이 어느 정도의 지속력을 발휘할 수 있나요? 한 번 먹은 진심이 계속해서 진심으로 남던가요? 우리는 마음에서 우러나는 하나님 섬김의 행위를 손톱만큼도 행할 수 없는 그런 자들입니다. 언제나 우리 자신의 상좌 챙기기에만 집착하는 자들이 어떻게 보이지 않는 하나님을 기쁘게 해 드리는 행함을 합니까? 우리는 결국 ‘나’의 영광과 ‘나’의 가치만을 챙겨 갖습니다. 그런 자들은 어떻게 하신다고요?
(마23:13~15)
13화 있을 진저 외식하는 서기관들과 바리새인들이여 너희는 천국 문을 사람들 앞에서 닫고 너희도 들어가지 않고 들어가려 하는 자도 들어가지 못하게 하는 도다
15화 있을 진저 외식하는 서기관들과 바리새인들이여 너희는 교인 하나를 얻기 위하여 바다와 육지를 두루 다니다가 생기면 너희보다 배나 더 지옥 자식이 되게 하는 도다
하나님께서 바리새인들과 서기관들의 상좌 챙기기로서의 율법지킴의 행위를 지옥에 갈 행위라 저주를 해 버리십니다. 그래서 주님은 주님의 공생애 내내 반복하여 자기를 높이려 하는 자들에 대한 경고를 하십니다. 그게 바로 죄의 본질이요 핵심이기 때문입니다.
(막12:39)
39회당의 상좌와 잔치의 상석을 원하는 서기관들을 삼가라
(눅20:46)
46긴 옷을 입고 다니는 것을 원하며 시장에서 문안 받는 것과 회당의 상좌와 잔치의
상석을 좋아하는 서기관들을 삼가라
이것은 인간의 자기 높이기와 자기 자리 굳히기의 행위는 무저갱으로 낮아지는 행위임을 경고하시는 것입니다. 그런데 자기 높이기의 삶을 사는 모델이 항상 바리새인과 서기관입니다. 그들은 외양으로 볼 때 열심 있는 종교 행위를 하던 사람들이며 율법으로는 흠이 없는 자라고 자처할 만큼 도덕적 윤리적 양심적 삶을 훌륭하게 살아내던 사람들입니다. 그게 낮아지기의 삶 아니던가요? 그런데 왜 주님은 인간의 높아지기의 삶을 경고하실 때마다 그들을 예로 드실까요? 낮아지기의 삶은 인간의 노력으로 되어 지는 것이 아니기 때문입니다.
오늘 본문을 잘 보시면 잔치 자리의 상좌 배정의 권한은 잔치집 주인이 갖고 있다는 것이 명확하게 기록이 되어 있습니다.
(눅14:8-10)
8네가 누구에게나 혼인 잔치에 청함을 받았을 때에 상좌에 앉지 말라 그렇지 않으면
너보다 더 높은 사람이 청함을 받은 경우에
9너와 저를 청한 자가 와서 너더러 이 사람에게 자리를 내어 주라 하리니 그 때에 네가 부끄러워 말석으로 가게 되리라
10청함을 받았을 때에 차라리 가서 말석에 앉으라 그러면 너를 청한 자가 와서 너더러 벗이여 올라앉으라 하리니 그 때에야 함께 앉은 모든 사람 앞에 영광이 있으리라
아무리 자기들 마음대로 상좌를 차지하고 앉아도 상좌에 앉을 사람은 이미 주인의 마음속에 결정이 되어 있다는 것입니다. 그 이야기를 지금 바리새인들이 듣고 있다는 것을 놓치시면 안 됩니다. 예수님은 지금 바리새인들의 모든 종교 행위와 율법지킴의 행위는 타락한 인간들의 자기 우상화 작업에 불과한 것이며 아무리 인간들이 그러한 자기들의 행위로 상좌 다툼을 벌인다 할지라도 하나님 나라의 상좌는 이미 결정이 되고 완료가 되어 있는 것이므로 인간들의 높아지기와 상좌 자리 쟁탈전은 하늘나라 상좌 배정에 아무런 영향을 미칠 수 없다는 것을 알라는 것입니다. 성도들아, 이 세상의 실체, 아니 너희의 삶의 실체를 올바로 보라는 것입니다. 너희들의 삶도 실은 자기 높아지기와 상좌 다툼으로 가득 차 있지 않느냐는 것을 지적하시는 것입니다. 하나님의 은혜를 떠난 이 세상의 실체가 그러한 좀비들의 세상임을 올바로 직시하라는 것입니다. 주님은 11절에서 이렇게 이 비유의 핵심을 짚어 주십니다.
(눅14:11)
11무릇 자기를 높이는 자는 낮아지고 자기를 낮추는 자는 높아지리라
마치 우리보고 낮아지기를 시도해 보라고 요구하시는 듯이 보입니다. 그러나 우리는 수없이 시도해 봤잖아요? 그때마다 어떻던가요? 그러한 시도 속에서도 주인공은 여전히 ‘나’입니다. 그렇게 우리들의 낮아지기의 노력은 결국 자기 높아지기로 이어지는 경우가 대부분이라는 것을 감안할 때 주님이 그러한 말씀을 하고 계신 것은 아닌 것 같습니다. 이 말씀은 하나님의 은혜를 입어 성령을 받게 되는 자들은 낮아지는 삶으로 끌려가게 되고, 그리스도의 영을 받지 못한 자들은 끝까지 자기만을 높이는 자로 살게 된다는 말씀인 것입니다. 성도는 성령을 받고 자신들의 실체를 끊임없이 폭로 당하게 되고, 좀비로 가득 찬 세상의 실체를 올바로 볼 수 있게 됩니다. 그럼에도 자신의 삶이 좀비들의 삶과 별반 다를 바가 없다는 것을 경험하며 ‘아, 나라는 인간은 하나님의 은혜가 없으면 단 한시도 살아있는 존재가 될 수 없구나’하는 것을 인정하게 되는 것, 그것이 바로 낮아지는 것입니다.
그것은 바로 밑에 이어지는 구절들 속에서 더욱 분명해 집니다. 본문 12절부터 기술이 되고 있는, 잔치에 청함을 받아 그 주인의 잔치에 참여하게 되는 사람들의 모습이 이렇게 묘사가 되어 있습니다.
(눅14:12-14)
12또 자기를 청한 자에게 이르시되 네가 점심이나 저녁이나 베풀거든 벗이나 형제나
친척이나 부한 이웃을 청하지 말라 두렵건대 그 사람들이 너를 도로 청하여 네게
갚음이 될까 하라
13잔치를 배설하거든 차라리 가난한 자들과 병신들과 저는 자들과 소경들을 청하라
14그리하면 저희가 갚을 것이 없는 고로 네게 복이 되리니 이는 의인들의 부활 시에
네가 갚음을 받겠음이니라 하시더라
잔치에 청함을 받게 되는 이들은 아무것도 갚을 것이 없는 자들이어야 한다는 것입니다. 그런데 이 잔치가 어떤 잔치인가 하면 천국의 어린양 혼인잔치를 말하는 것입니다. 오늘 본문 바로 밑으로 이어지는 비유를 보겠습니다.
(눅14:16~24)
16이르시되 어떤 사람이 큰 잔치를 배설하고 많은 사람을 청하였더니
17잔치할 시간에 그 청하였던 자들에게 종을 보내어 가로되 오소서 모든 것이 준비
되었나이다 하매
18다 일치하게 사양하여 하나는 가로되 나는 밭을 샀으매 불가불 나가 보아야 하겠으니 청컨대 나를 용서하도록 하라 하고
19또 하나는 가로되 나는 소 다섯 겨리를 샀으매 시험하러 가니 청컨대 나를 용서하도록 하라 하고
20또 하나는 가로되 나는 장가들었으니 그러므로 가지 못하겠노라 하는지라
21종이 돌아와 주인에게 그대로 고하니 이에 집주인이 노하여 그 종에게 이르되 빨리
시내의 거리와 골목으로 나가서 가난한 자들과 병신들과 소경들과 저는 자들을
데려오라 하니라
22종이 가로되 주인이여 명하신 대로 하였으되 오히려 자리가 있나이다
23주인이 종에게 이르되 길과 산울 가로 나가서 사람을 강권하여 데려다가 내 집을
채우라
24내가 너희에게 말하노니 전에 청하였던 그 사람은 하나도 내 잔치를 맛보지 못하리라 하였다 하시니라
이 비유는 우리가 이미 공부를 한 비유지요? 이것은 하늘의 왕이신 하나님의 아들, 어린양의 혼인잔치에 관한 비유입니다. 그런데 그 어린양의 혼인잔치에 초대를 받은 사람들이 자신들의 볼일을 핑계로 잔치 집으로 향하지 않습니다. 쉬운 말로 자기 볼일이 있는 사람들은 그 볼일 때문에 남의 잔치에 가지 않는 것입니다. ‘나’라는 우상을 섬기는 일이 너무 바빠서 남의 잔치에 축하하러 가는 일이 귀찮은 것입니다. 그들이 바로 바리새인들이라는 것입니다. 바리새인들의 율법지킴이나 선한 행위들이 전부 자기 일상 챙기기의 일환이었음이 또 한 번 폭로가 되는 것입니다. 그때 잔치의 주인이 어떤 사람들을 불러 모읍니까? 21절을 보시면, 가난한 자들과 병신들과 소경들과 저는 자들을 불러 모읍니다. 그들은 오늘 본문에 나오는 ‘갚을 것이 없는 자들’입니다. 23절을 보시면 그렇게 잔치에 초청을 받는 이들이 ‘강권하여 초청을 받는 자들’로 묘사가 되어 있습니다. 자기는 잔치와 아무런 상관이 없는 자인 줄 알고 멍하니 있었는데 누군가가 와서 손을 붙들고 잔치 집으로 끌고 가는 것입니다. 그게 강권입니다. 하나님의 천국잔치는 우리가 갚을 것을 준비하여 가는 곳이 아니라 강권하여 초청을 받아 가는 곳이라는 말입니다. 이 비유와 병행되는 비유가 기록이 되어있는 마태복음으로 가면 좀 더 분명하게 이해가 가실 것입니다.
(마22:8~14)
8이에 종들에게 이르되 혼인 잔치는 예비 되었으나 청한 사람들은 합당치 아니하니
9사거리 길에 가서 사람을 만나는 대로 혼인 잔치에 청하여 오너라 한대
10종들이 길에 나가 악한 자나 선한 자나 만나는 대로 모두 데려 오니 혼인자리에 손이 가득한지라
11임금이 손을 보러 들어올 새 거기서 예복을 입지 않은 한 사람을 보고
12가로되 친구여 어찌하여 예복을 입지 않고 여기 들어왔느냐 하니 저가 유구무언
이어늘
13임금이 사환들에게 말하되 그 수족을 결박하여 바깥 어두움에 내어 던지라 거기서
슬피 울며 이를 갊이 있으리라 하니라
14청함을 받은 자는 많되 택함을 입은 자는 적으니라
여기에서 먼저 청함을 입은 자들은 바리새인들과 서기관들을 비롯한 유대인들을 말한다는 것을 어렵지 않게 아실 수 있으실 것입니다. 하나님은 유대인들에게 율법과 제사와 말씀을 먼저 맡겨 주셨습니다. 죄인들은 율법과 제사와 말씀을 가지고 자신들의 무력함과 불가능함과 십자가의 필연성을 깨달아야 했습니다. 그러나 인간은 성령의 도우심이 없이 자력으로 그 자리에 갈 수가 없습니다. 오히려 율법과 제사와 말씀을 가지고 자신들의 만족과 가치와 영광을 챙겨 버립니다. 그게 처음 초청받은 자들입니다. 그들은 자신들의 육신에만 관심이 있습니다. 그래서 자신들의 일상에만 묶여 있는 것입니다. 그들은 율법과 제사의 행위를 열심히 행하며 갚을 거리를 만드는 자들입니다. 그런데 주님은 잔치에 초청을 받는 자들은 갚을 거리가 없는 자여야 한다고 하셨습니다. 주님은 이 혼인잔치 초청의 비유를 통하여, 무언가 갚을 거리를 마련하겠다고 율법지킴이나 종교 행위를 하는 자들은, 절대로 하나님의 초청에 응할 생각이 없는 자들이라는 것을 백일하게 드러내 버리시는 것입니다. 인간들이 교묘하게 감추고 있는 속내를 확 까발려 버리시는 것입니다.
그리고는 그 하나님의 어린양의 혼인잔치에 초청을 받을 사람들을 ‘갚을 것이 없는, 강권하여 초청을 받는 자’라고 규정해 버리시는 것입니다. 10절을 보시면 주님께서 악한 자나 선한 자나 다 데려오라고 하시지요? 그 말은 하나님의 천국잔치에 들어갈 수 있는 근거가 인간들의 선한 행위나 악한 행위와 전혀 무관하다는 것을 보여주는 것입니다. 주인이 주신 예복만 입고 있으면 그 잔치에서 상좌에 앉게 되는 것입니다. 그런데 그 예복은 주인이 주는 예복이라고 했지요? 자기가 가지고 온 옷을 입으면 쫓겨납니다. 주인이 주시는 예복이 무엇입니까?
지난주에 요한계시록을 통하여 찾아 봤지요?
(계19:7-9)
7우리가 즐거워하고 크게 기뻐하여 그에게 영광을 돌리세 어린 양의 혼인 기약이
이르렀고 그 아내가 예비하였으니
8그에게 허락하사 빛나고 깨끗한 세마포를 입게 하셨은즉 이 세마포는 성도들의 옳은 행실이로다 하더라
9천사가 내게 말하기를 기록하라 어린 양의 혼인 잔치에 청함을 입은 자들이 복이
있도다
바로 이 혼인잔치가 오늘 본문과 본문 아래의 비유에 장황하게 설명이 되어 있는 것입니다. 이 어린양의 혼인잔치에 청함을 입은 자들은 복이 있습니다. 그런데 그들은 아무것도 갚을 것이 없는 자들로 초청을 받은 것입니다. 그들은 그냥 주인이 주시는 예복만 입으면 되는데 그것이 의의 세마포입니다. 그 의의 세마포는 어린양의 피에 씻은 세마포를 말합니다.
(계7:13~14)
13장로 중에 하나가 응답하여 내게 이르되 이 흰옷 입은 자들이 누구며 또 어디서
왔느뇨
14내가 가로되 내 주여 당신이 알리이다 하니 그가 나더러 이르되 이는 큰 환난에서
나오는 자들인데 어린양의 피에 그 옷을 씻어 희게 하였느니라
그러니까 의의 세마포는 어린양의 피의 공로를 거저 덧입는 것을 말합니다. 그건 잔치의 주인이신 하나님으로부터 선물로 주어지는 것입니다. 바로 그 어린양의 피로 씻겨 지는 은혜의 구원을 성도들의 옳은 행실이라 한다는 것입니다. 그러니까 성도들이 하나님 앞에 내어놓아야 하는 옳은 행실은 예수 그리스도의 십자가 피의 공로를 믿는 것뿐입니다. 요한복음 6장 28절에 보면 어떻게 하여야 하나님의 일을 하는 거냐고 묻는 제자들에게 주님께서 대답을 하십니다. ‘하나님의 보내신 자를 믿는 것이 하나님의 일이니라.’ 그게 바로 성도들의 옳은 행실인 것입니다. 따라서 하나님의 은혜로 구원을 얻는 하나님 백성이 하나님에게 갚을 것은 아무것도 없게 되는 것입니다.
그런데 우리는 어떻습니까? 그게 너무 자존심 상해서 끊임없이 ‘나’의 존재성을 확립하고 챙기려 합니다. 그게 인본주의입니다. 하나님께 무언가 계속 갚으려 합니다. 오늘날의 교회는 마치 가인의 제사를 드리는 것 같습니다. 열심히는 드리는 것 같은데 그 제사를 하나님이 칭찬해 주지 않으면 골을 내고 원망을 해 대는 것입니다. 그러면 그 제사의 주인이 누구인 것입니까? 제사를 받으시는 하나님이 아니라 바로 ‘나’인 것입니다. 그리고 그 ‘나의 제사’를 지키기 위해 아벨을 때려죽이는 것이 우리의 모습 아닌가요? 그게 자신들의 율법지킴의 행위와 제사의 행위를 지키겠다고 예수님을 때려죽인 바리새인들의 모습 아닙니까? 아니 바로 저의 지금 모습이 그러합니다.
교회라는 자들이 ‘나’의 위상에 조금이라도 흠이 되는 것이 있으면 그 대상이 하나님일지라도 가만두지 않겠다는 악한 심보로 신앙생활이라는 것을 하고 있는 것입니다. 속을 뒤집어 보면 항상 ‘나’라는 자아가 주인으로 자리하고 있습니다. 그래서 설교를 해도 자기 자랑이고 칼럼을 써도 온통 자기 자랑 투성이 입니다. 아닌 것처럼, 겸손으로, 온유함으로, 심지어 자기비하로 근사하게 포장을 하기도 하지만 그게 더 교활한 자아숭배요, 자기 확장이라는 것을 자신에게 들키게 될 때 정말 스스로를 죽이고 싶을 만큼 미워하게 됩니다.
그런데 오늘 본문을 보면서 저는 정말 너무 큰 은혜를 받았습니다. 우리는 그렇게 가난한자로, 병신으로, 저는 자로, 소경들로, 아무것도 갚을 수 없는 자로 폭로가 되면서, 그럼에도 불구하고 우리를 강권하여 초청해 주신 예수 그리스도의 은혜만을 붙드는 자가 되는 것임을 확실하게 보았기 때문입니다. 하나님은 무언가 갚아보겠다고 날뛰는 우리에게 은혜로 찾아오셔서 아무것도 갚을 것이 없는 자로 만들어 내시는 분입니다. 우리를 성화시키고, 업그레이드시켜서 하나님의 자랑스러운 일꾼으로 만들어내시는 것이 아니라, 가난한 자로, 병신으로, 저는 자로, 소경으로 만들어 버리시는 것이 구원이란 말입니다.
마가복음 8장 35절로 갑니다.
(막8:35)
35 누구든지 제 목숨을 구원코자 하면 잃을 것이요 누구든지 나와 복음을 위하여
제 목숨을 잃으면 구원하리라
이 말씀을 ‘열심히 전도하자’나, ‘순교해야 살 수 있다’는 것으로 이해하는 것은 잘못된 것입니다. 이 말씀은, 십자가에 달리신 하나님의 창조는 욕망 하는 인간을 죽이시고, 주를 사랑하는 자로 살리신다는 말씀입니다. 우리 안에서 일어나는 예수님의 새 창조사역이 바로 이런 방식으로 일어난다는 것을 선포하는 것입니다.
욕망 하는 인간의 움직임은 항상 몸의 안식을 향해 작동합니다. 왜요? 이유는 인간의 육신이, 옛 자아가 욕망 하는 인간의 삶의 근거이기 때문입니다. 만약 세상이 아름답게 보인다면 그것은 현재 자신의 몸의 현실성이 편함의 장에 속해 있다는 것이며, 반면에 세상이 저주스럽게 보인다면 그것은 현재 자신의 몸이 괴롭힘 당하는 장에 속해 있기 때문입니다. 이러한 맥락에서 보면 결국 욕망 하는 인간에게 주변 환경(세상)의 가치는 현재 자신의 몸이 겪는 안식여부에 달려 있다는 것이 됩니다.
그런데 몸의 안식을 향한 욕망 하는 인간의 탈주 선은 비 거룩의 장에서만 아니라 거룩의 장까지 파고듭니다. 그러므로 욕망 하는 인간에겐 거룩의 장인 교회조차도 자신의 몸을 위한 도구로 전락되고 맙니다. 이런 맥락에서 볼 때 교회란, 욕망 하는 인간의 몸의 안식을 도와주는 욕망의 각축장이 될 잠재성을 항상 내포하고 있는 것입니다. 즉, 교인들은 자신의 몸을 편하게 하기 위해서 다양한 종교행사에 열심을 내고, 이에 대한 보답으로 목사는 거룩이라는 가면을 쓰고 죽음의 굿판을 벌이는 것입니다. 그게 결국 자기 높이기라는 것입니다. 성도의 삶은 그렇게 자기의 가치나 영광을 챙겨 갖는 자리로 절대 갈 수가 없습니다. 십자가에 달리신 그리스도의 영이 성도의 삶을 십자가로, 십자가를 향하여 간섭을 하시기 때문입니다. 그때부터 성도는 자기의 뜻대로 살던 내 역사의 현장에서 벗어나 예수 그리스도가 이끄시는 십자가의 길로 한발 한 발 내 딛게 되는 것입니다.
그렇게 하나님 나라의 잔치에 초청을 받은 성도들은 예수 그리스도가 가신 그 길을 그대로 좇아 살게 됩니다. 예수님께서 이 땅에 오셔서 가난한 자로, 병신으로, 저는 자로, 소경으로 살다가 가셨습니다. 오직 하나님의 말씀을 이루시기 위해, 언약을 성취하시기 위해 약하디 약한 모습으로 세상에게 두들겨 맞으시다가 결국 십자가를 지고 돌아가 버리신 것입니다. 그건 하나님의 자작극이라고 해도 과언이 아닙니다. 그래야 자신들의 제사를 지키기 위해 무죄한 아벨을 때려죽이는 이 세상의 가인들의 정체가 폭로되기 때문입니다. 성도들은 바로 그 길을 가게 됩니다. 하나님의 언약 안에서 예수 그리스도의 십자가의 필연성을 드러내기 위한 도구로 살다가 가는 것입니다. 예수가 그랬던 것처럼.
(골1:15~16)
15그는 보이지 아니하시는 하나님의 형상이요 모든 창조물보다 먼저 나신 자니
16만물이 그에게 창조되되 하늘과 땅에서 보이는 것들과 보이지 않는 것들과 혹은
보좌들이나 주관들이나 정사들이나 권세들이나 만물이 다 그로 말미암고 그를 위하여 창조되었고
이렇게 이 세상의 모든 인간들은 누구라 할 것 없이 모두 예수님을 드러내기 위한 도구들에 불과한 것입니다. 우리를 위해 예수가 있는 것이 아니라 예수를 드러내기 위해 우리가 도구로, 그릇으로 쓰여 지는 것입니다. 그러한 예수에 대한 올바른 자각이 있을 때 우리는 가나안 여인과 같은 위대한 고백을 할 수 있는 것입니다. ‘주님 저는 개입니다. 그러한 개에게 주인의 밥상의 부스러기를 조금 나누어 주세요’ 이렇게 주님 앞에서 개의 자리로 낮아져서 그 분의 긍휼만을 구하는 자가 성도인 것입니다. 그러한 자들에게 주님의 사랑을 요구할 자격이 있나요? 가나안 여인에게 예수님께서 ‘개’라는 말씀을 하셨을 때 그 여인이 예수님이 어떤 분이신지를 몰랐다면 크게 화를 낼 일입니다. 그러나 예수가 누구이신지를 알고 자신이 그 앞에서 어떤 존재인지를 아는 이는 그 앞에서 그저 긍휼만 구할 뿐입니다. 그런데 우리는 그러한 주님 앞에서 자신에 대한 사랑과 관심과 배려만을 요구하고 있지 않습니까? 아닙니다. 우리는 그렇게도 하나님에 대해 무지한 것입니다. 우리는 여전히 하나님 중심이 아닌 인간 중심의 신앙생활을 하고 있는 것입니다. 하나님은 그러한 우리의 삶 속에 개입하셔서 반드시 우리를 가난한 자로, 저는 자로, 병신으로, 소경으로, 개로 낮추실 것입니다. 그때 당황하지 마시란 말입니다. 오늘 본문 마지막 절에서 자기를 낮추는 자가 높아질 것이라 했지요? 네, 맞습니다. 그렇게 낮추어지는 자가 천국의 상좌로 올라갈 자라는 말입니다. 누가복음 12장으로 가면 하나님께서 지키고 보호하시는 자가 어떤 대우를 받는지 가 잘나와 있습니다.
(눅12:4~7)
4내가 내 친구 너희에게 말하노니 몸을 죽이고 그 후에는 능히 더 못하는 자들을
두려워하지 말라
5마땅히 두려워할 자를 내가 너희에게 보이리니 곧 죽인 후에 또한 지옥에 던져 넣는 권세 있는 그를 두려워하라 내가 참으로 너희에게 이르노니 그를 두려워하라
6참새 다섯이 앗사리온 둘에 팔리는 것이 아니냐 그러나 하나님 앞에는 그 하나라도
잊어버리시는 바 되지 아니 하는도다
7너희에게는 오히려 머리털까지도 다 세신 바 되었나니 두려워하지 말라 너희는 많은 참새보다 귀 하니라
하나님께서 참새를 먹이시고 참새를 지키신다고 하면서 참새 다섯이 앗사리온 둘에 팔린다는 말씀을 하십니다. 앗사리온은 16분의 1 데나리온에 불과한 돈입니다. 마태복음 10장으로 가면 참새 두 마리가 한 앗사리온에 팔린다는 말이 나옵니다. 그런데 두 앗사리온에 다섯 마리면 한 마리는 덤으로 주는 것입니다. 하나님이 지키시는 참새의 가치가 너무 헐하지 않나요? ‘하나님이 지키시고 보호하시는 참새가 한 달란트에 팔리는 것이 아니냐?’가 어울려요? 아니면 ‘하나님이 지키시는 참새가 두 앗사리온에 한 마리 덤으로 얹어서 다섯 마리에 팔리는 것이 아니냐?’가 어울려요? 전자지요? 그런데 하나님이 지키시는 참새가 두 앗사리온에 다섯 마리씩 팔려 포장마차의 안주로 넘어가는 것입니다. 중요한 것은 참새는 그러함에도 불구하고 그러한 하나님의 뜻에 순종하더라는 것입니다.
그렇다면 ‘하물며 너희일까 보냐?’라는 질문을 어떻게 이해해야 하겠습니까? 우리의 머리카락까지 세시는 하나님께서 우리도 그렇게 싼값에 팔아넘길 수 있다는 것입니다. 우리는 그렇게 세상에게 맞아죽는 모습으로, 가치 없는 모습으로 가게 되지만 세상은 우리를 절대 지옥으로는 보내지 못 할 테니까 죽은 뒤에 지옥까지 보내버리시는 하나님을 두려워하며 하나님께 순종하는 자로 살아야 한다는 것입니다. 반드시 그렇게 만들어 가신다는 것입니다. 그게 성도를 향한 하나님의 일하심이라는 것입니다. 보세요. 왜 오늘 설교제목이 ‘포장마차 안주 접시 위의 참새구이보다 못한 나’인 줄 아시겠어요? 참새는 자신이 얼마에 팔리던 어디로 팔리던 하나님을 원망하지 않습니다. 맹수들조차 먹 거리가 없으면 그냥 굶어 죽습니다. 유독 인간만이 스스로의 힘을 발휘하여 위기를 모면하겠다고 나서는 것입니다. 하나님 나라의 관점에서 참새가 나은 것입니까? 우리 인간이 나은 것입니까? 포장마차 안주 접시 위의 참새들이 훨씬 나은 것입니다. 참새들은 하나님의 뜻에 순종하여 발가벗고 안주 접시 위에 올라가 있는데 인간만이 하나님의 처사가 불만스럽다고 그 참새를 안주삼아 주정을 부리고 있는 것입니다. 그게 자기 높이기인 것입니다. 지금 제 얘기 하고 있는 것입니다.
우리는 그렇게 불가능하고 무력한 자들입니다. 그래서 하나님은 우리의 실체를 폭로 시켜버리시고 예수처럼 십자가에 매달아 죽여 버리시는 것입니다. 그게 성도의 인생입니다. 그렇게 하나님에 의해 죽는 자들이, 낮아지는 자들이 성도이고 그들을 때려죽이는, 갚을 것이 있는 자들이 세상인 것입니다.
하나님께서 그렇게 우리를 죽여가실 때에 당연한 것으로 여기셔야 합니다. 하나님 앞에서 나는 개에 불과한 존재니까요. 그리고 그렇게 내가 개로 폭로된 자리에서 가나안 여인처럼 그분의 긍휼을 구하는 것입니다. 하나님의 긍휼만이 우리를 살릴 수 있는 유일한 희망이니까요. 외롭고 힘들어도 그냥 열심히 살아 계세요.
그렇게 계속 낮아지면서 어린양의 혼인잔치에 앉아있는 우리의 모습을 그려 보십시다. 아무런 공식도 없이 우리의 삶속에서 예수 그리스도를 드러내시는 하나님의 처사에 그저 묵묵히 순응하며 살아 있으면 됩니다.
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