Kairosを生きる人々

たとえ(24)なぜ理解できないのか?(II) 본문

講解説教/譬え(たとえ)

たとえ(24)なぜ理解できないのか?(II)

cocoa 2026. 3. 10. 14:51

たとえ(24)

なぜ理解できないのか?(II)

(ルカ16:27~31)

27そこで彼は言った。「それでは、父よ、どうかラザロを私の父の家へ送ってください。

28私には兄弟が五人います。彼らに証しをして、この苦しみの場所に来ないようにさせてください。」

29アブラハムは言った。『彼らにはモーセと預言者たちがいる。彼らに聞きなさい。』

30彼は言った。『そうではありません。父アブラハムよ、もし死者の中から彼らのもとに行く者がいれば、彼らは悔い改めるでしょう。』

31アブラハムは言った。『もしモーセと預言者たちの言うことを聞かないなら、たとえ死者の中から生き返る者がいても、

勧めを受け入れないだろう。』と。

 

短い動画をお見せします。

この動画はYouTubeにアップされた、韓国の祈祷院で開かれた神癒の賜物集会の一場面です。

講師が異言を話しながら預言も与え、歩き回って病も癒すような映像です。

そして集会中ずっと「喜び、Joy」と叫び続けます。

皆さんには、このような姿が本当に喜びに見えますか?皆さんの目には、この人たちが本当に福音を理解した人々に見えますか?

 

私たちは先週、金持ちと貧しいラザロのたとえを通して、なぜ金持ちが地獄に行かざるを得なかったのか、そして貧しいラザロがどのような理由でアブラハムの懐に抱かれることができたのかについて考察しました。

 

金持ちは自分自身に対する可能性と期待を最後まで諦めきれず、神の恵みの必然性を認められないまま地獄へ行くことになったのであり、 貧しいラザロは彼の行いとは関係なく、神の助け、すなわち神の恵みによってアブラハムの懐に抱かれることができたとしましたね?

私たちはそのような金持ちとラザロのたとえを通して、「私たちも天国に行くために貧しいラザロのように生きよう」という扇動的な結論を導き出すことはできないと述べました。

聖徒は乞食ラザロのように生きて天国に行くのではなく、最後まで金持ちとして生きたいという自らの姿を恵みで覆ってくださる神の恵みを受け、まさに面目が立たない乞食のように天国に入ることを学ばねばなりません。

 

そのような天国の乞食たちは、この世で自分たちの呪われるべき金持ち志向性を次々と露見させられ、暴かれながら、この世の虚ろさと空虚さを悟らされるのです。そして神の鉄槌によって、この世の力を一つ一つ剥ぎ取られる人生を歩むことになります。

そうしてついに、イエス・キリストの十字架の恵みなしには自らの存在そのものが蜃気楼に過ぎず、そのような蜃気楼たちが永遠に自らの蜃気楼であることを認められず、自分たちだけのために生きる、固定された地上の世界を地獄と呼ぶことを知るのです。

彼は乞食です。

一方、依然として人間の可能性を否定できず、神の栄光ではなく人間の栄光のために生き、神の恵みの必然性に全く同意できず、目に見える世界とその世界の力に依存し、死んでも自分のものだけを守る者たちを富者と呼ぶのです。

 

 

今日の本文を見ると、地獄にいる富者が天国のアブラハムに願い事をする場面が出てきます。

自分はこうして地獄に来ているが、自分の兄弟たちは絶対にこの地獄に来るべきではないので、ラザロを生き返らせて彼らに伝道させてほしいと頼みます。

しかしアブラハムは、モーセと預言者が彼らにいるので、彼らがモーセと預言者を通して救いを得る機会があると言います。

しかし彼らがモーセと預言者の言うことを聞かなければ、死んだラザロが生き返って下って行っても、彼らは絶対に天国に来ることはできないのです。

では、アブラハムが言ったモーセと預言者とは、いったい何を指しているのでしょうか?

(ルカ24:27)

27そこで、モーセとすべての預言者の書から始めて、聖書全体に記されているご自身に関することを

詳しく説明された。

エマオの村へ下って行く二人の弟子がイエス様を見分けられなかったとき、イエス様がモーセと預言者の書について詳しく説明してくださったとあります。

しかし、そのモーセと預言者たちは全て「ご自身について」、すなわちイエス・キリストについてのみ記していたのです。

つまり、アブラハムが言うモーセと預言者とは、旧約聖書を含む神の見えない啓示を指すのです。

 

すなわち、神の恵みを受け、神の啓示を理解する耳を得なければ、どんな目に見える奇跡や行いが与えられても、決して天国に入ることができないということです。

 

それゆえ今日の本文では、モーセと預言者という見えない啓示の言葉と、死んだラザロの帰還という見える奇跡が対比されているのです。

世の富める者たちは奇跡を求めますが、神は恵みによって救われるのです。

平たく言えば、神の啓示はただ神の恵みによってのみ与えられ、理解されるということです。

しかし、その神の啓示が目に見える世俗的な方法論によって伝えられるという、そのような人間中心主義的思考こそが、地獄に行く富者の思考なのです。

それは人間の理性と経験と思索の範囲内で真理が理解され、受け入れられるかもしれないという、呪われるべき人間中心の思考なのです。

 

 

悪魔はまさにそのような堕落した罪人たちのユダヤ主義的であり人間中心的な発想を非常に効果的に利用して教会を混乱させます。

 

(Ⅱテサロニケ2:9~12)

9悪しき者の到来は、サタンの働きに従い、あらゆる力と徴と偽りの奇跡と

10不義のあらゆる欺きをもって滅びる者たちの上に臨む。彼らは真理の愛を受け入れず、救いを得られなかったからである。

11それゆえ、神は彼らの中に惑わす力を働かせ、偽りを信じるようにさせられる。

12それは、真理を信じず、不義を愛するすべての者が裁きを受けるためである。

11節には「ピストゥオ(信仰)」という言葉が出てきます。

しかし、それは偽りを信じる信仰です。

その偽りを信じる信仰、偽りの信仰は悪しき者、サタンの策略であり、その偽りを信じる信仰がどのように与えられるかと言えば、力と徴と奇跡と不義の欺きによってもたらされるのです。

恐ろしいのは、その偽りのものを信じる信仰が神によって許されるということです。

なぜですか?真理を信じず、不義を好むすべての者を裁きに遭わせるためです。つまり、神が呪いの裁きによって永遠に滅ぼす者たちは、奇跡と力としるしに従うようにされるというのです。

マタイの福音書7章で「なぜ私たちを知らないと言うのですか?」と抗議した者たちのようにです。

 

 

12節を見ると、そのように裁きを受ける者たちは奇跡を追い求め、真理を信じないとあります。では、真理を信じるということは何を意味するのでしょうか。イエス様が「わたしが道であり、真理であり、命である」と語られましたね。したがって、真理を信じるということは、すべてがイエス・キリストの十字架の恵みによって与えられ、進行し、完成されるという、イエス・キリストの十字架の福音を信じることです。

ご存知のように、十字架の福音は、人間側の可能性や業績、功績、そして目に見える体験や経験、証拠を重視する力の原理における世俗的な基準を否定するものです。

それがまさに地獄に行く富者の世界であり、富者の方法論だからです。

それゆえ、主は弟子たちに、目に見える奇跡や異事が起こる場所には行かないよう、繰り返し強く戒められたのです。

 

(マルコ13:21~23)

21そのとき、だれかが『見よ、キリストがここにいる』とか『あそこにいる』と言っても、信じてはならない。

22偽キリストや偽預言者たちが現れて、しるしや不思議を行って、もしできるなら、選ばれた人々をも惑わそうとするからである。

23あなたがたは用心しなさい。わたしは、あらかじめ、すべてのことをあなたがたに話しておいたからである。

終わりの時には、偽キリストや偽預言者たちが礼拝堂までも占拠し、しるしや不思議を行って、選ばれた民までも惑わそうとするだろうということです。

ですから、そのような場所や人間には用心しなさいということです。

 

 

今日のキリスト教の最大の問題は、キリスト教そのものが宗教とキリスト教の違いを知らないことです。

キリスト教は宗教ではありません。

宗教とは、善悪の知識の実を食べた欲望に駆られた罪人たちが作り出した、極めて狡猾で利己的な世俗的な生き方の方法論に過ぎないのです。

 

すべての被造物は、神の御心に従順な生活を送るように造られました。

そうして唯一の神によって統治され、その統治に従順な者たちとの関係の中に、神の国が臨むのです。

 

しかし、唯一人間だけが神の言葉に従えず、善悪の知識の実という禁断の果実を摘み取って食べてしまったのです。

そして自らたちの価値基準と世界観によって、あらゆる善悪の判断を下す支配者となってしまったのです。

 

人間の歴史を一度見てください。人間の歴史は、まるで欲望に駆られた人間たちの貪欲な排泄物のように見えます。

神は他の被造物と人間の違いを歴史の中で極めて明確に示されます。

自然は神の御心に常に順応してきました。

神が雨を与えれば雨を受け、実を結びます。

一方、神が干ばつを与えればその御心に順応して枯れ死に、渇き死にます。

 

唯一人間だけが洪水を避けようと堤防を築き、船を作り、干ばつに打ち勝とうと貯水池を作り、祈雨祭を行います。

そうして誰にも負けるまいと、欲望に駆られた人間たちが文明を作り、その文明を金で売りさばきながら、それがまさに進化し進歩する人生と歴史だと主張している現場がこの世なのです。

つまり全ての人間は、欲望に駆られた人間集団が生み出した文明を生きるために、このように苦しんでいるのです。

洗濯機、テレビ、携帯電話、自動車、こうしたものがなかった時代はどう生きていたのでしょう?しかし誰かがそれらを作り出し「これを持って享受してこそ文明人だ」と言うから、皆がそうした文明を買うために人生を全て賭けて生きているのです。

 

そうして現実よりも優れた未来を夢見ながら「なりたい自分」への執着と追求を、聖書は貪欲と呼び、その貪欲こそが偶像崇拝であると正確に指摘しています。

そうして「私」に対する偶像崇拝をしている者たちを、この世の富者と呼ぶのです。彼らは自らの「なりたい未来」に対する不安と恐怖、無力感への代替案として、自分よりはるかに力強い存在である神を見出します。

世の富者たちは神に対する宗教儀式を行い、その神に供物や献金を捧げながら、絶えずその神を慰めます。

それを祈祷とも呼びます。

そうして神の保護と「なりたい自分」の達成への助けを求めるのです。

それでも自分が望むほどの達成が与えられない時、人間は宗教行為の強度をさらに高めたり、神に捧げる供物と献金の量と質をさらに高めます。

これを宗教と言います。

 

 

よく考えてみてください。宗教の中心には常に誰がいるのでしょうか?「私」でしょうか?「神」でしょうか?神をなだめて自分が望むものを得ようとするのは、神に仕えることではなく、神をなだめて得ようとするその行為に仕えているのです。

 

その点において、世の宗教者たちの神は単なるおもちゃに過ぎません。

おもちゃは「私」という存在の満足のために存在するものです。

この世の誰も、おもちゃを崇拝の対象や服従の対象とは考えません。

そのおもちゃがもはや私の満足を満たせなくなった時、私たちはいつでもそのおもちゃを捨てる準備ができています。

だからこそ、フォイエルバッハが「神は人間の欲望の投影である」と言ったことは、一見正しい見解のように思えます。

人間は神を自分たちが望む通りに絶えず操作し続けるというのです。

つまり今日でも神は進化し変化し続けているというわけです。それが過程神学へとつながった異端思想です。

 

 

イスラエルの民が、そうした自らの宗教性を露呈したことがありましたね?イスラエルが自分たちを救ってくださった神の名を呼び、その方を仕えていると頑なに主張していた時、神は「ではお前たちが仕えているという神という存在を、像として作ってみよ」と機会を与えられたのです。

その時、彼らは何を作ったでしょうか?エジプトとカナンの豊穣の神であった金の子牛を作りました。

それがキリスト教を単なる世の宗教と知り、信じている偽りの教会の実態なのです。

結局、信仰と礼拝の中心が自分自身なのです。

 

神はそうした人間の宗教性、言い換えれば富志向性を剣で打ち砕かれます。

 

神はその場でイスラエル民3,000人を神の剣で屠り尽くします。

出エジプト記に進み、その金の子牛事件に現れた富者の姿と、その富者たちに向けた神の怒りがどれほど恐ろしいものか確認してみましょう。

 

(出32:1-4)

1民は、モーセが山から降りて来るのが遅いことを見て、集まってアロンに言った。「さあ、私たちを導く神を私たちのために造りなさい。このモーセ、すなわち私たちをエジプトの地から導き出した人は、どうなったのかわからない。」

2アロンは彼らに言った。「あなたがたの妻や子たちの耳にある金の輪を外して、私のところに持って来なさい。」

2アロンは彼らに言った。「あなたがたの妻や子らの耳から金の耳輪を外して、わたしのもとに持って来なさい。」

3民は皆、耳から金の耳輪を外してアロンのもとに持って来た。

4アロンは彼らの手からそれを受け取り、鋳物に注いで鋳型で形作り、子牛の像を作った。

彼らは言った。「イスラエルよ、これがあなたたちをエジプトの地から導き出したあなたたちの神である。」

と言うのであった。

見てください。イスラエルの民が言う言葉の中の主人公は誰ですか?「私たち」です。

まさに「私」なのです。

私たちのために、私たちを導く神を作り、私たちの利益を求めることが宗教であり、その宗教の主人公は神でも巫女でもなく、まさに「私」なのです。

これがまさに偶像崇拝であり罪です。

その時、神があの世の富める者たちにどのような罰を下されるか見てください。

(出エジプト記32:26-28)

26モーセは陣営の門に立ち、言った。「主の側に立つ者は、みなわたしのもとに来なさい。」すると、レビの子孫たちがみな集まって、彼のもとに来た。

27モーセは彼らに言った。「イスラエルの神、主はこう言われる。『あなたがたは、それぞれ腰に剣を帯び、陣営のこの門からあの門まで行き来し、だれでもその兄弟を、

だれでもその友を、だれでもその隣人を殺せ。』」

28レビの子らはモーセの言葉どおりに行い、この日、民のうち三千人ほどが殺された。

神の怒りによって三千人が殺戮された。

この時が、イスラエルが過越の奇跡によってエジプトを出た後、50日目にあたる日である。

過越祭から50日目となる日を、イスラエルの祭日では何と呼びますか?五旬節(ペンテコステ)と呼びます。

つまり旧約聖書における最初の五旬節には、神の民と呼ばれる者たちが、自らの罪に対する神の怒りによって三千人が殺戮されたのです。

 

 

しかしこの出来事の中に、モーセという仲介者の型が現れます。

神がモーセに、自分たちのために金の子牛という偶像を作って仕えていたイスラエルを皆殺しにすると告げられた時、モーセがその神の怒りを遮ったのです。

 

(出エジプト記32:11~14)

11モーセは神、主に向かって嘆願して言った。「主よ、どうして、その大いなる力と強き

御手をもってエジプトの地から導き出されたあなたの民に怒りを燃やされるのですか。

12どうしてエジプト人に『主は災いを下そうとして、その民を山で滅ぼし

地から根絶やしにしようと導き出したのだ』と言わせようというのですか。どうか激しい怒りを

収め、思い直して、あなたの民にこの災いを下さないでください。

13あなたのしもべアブラハムとイサクとイスラエルを覚えてください。あなたは彼らに誓い、こう言われました。

『あなたたちの子孫を天の星のように多くし、私が与えたこの全地をあなたたちの子孫に与え、永遠の所有地とする』と。

14主は思い直され、民に下そうとしておられた災いを下されなかった。

神の怒りを遮ったモーセは神の契約を掲げ、民の側に立ちます。

その時、神は心を改められたと言いますね?このような表現は、神人同形論的表現と呼ばれるヘブライ文学の技法です。

神が後悔された、心を改められたといった表現は、実は神の全知全能という属性に合わない表現です。

それにもかかわらず、このような表現を用いて神の心がどうであったかを伝えようとし、あたかも神が人間の感情をお持ちであるかのように表現するのです。

 

ですから、上記の節で神が御心を変えられたということを、文字通り「神はイスラエルを皆殺しにしようとしたが、モーセが止めたため、しぶしぶ我慢された」といったように理解してはいけません。

もともと神の御心はイスラエルを皆殺しにすることではありませんでした。

それにもかかわらず、御心を変えられたかのように記されているのは、この世の富める者たちに対する神の怒りがどれほど大きいかを強調して表現しているのです。

重要なのは、その思い直しの過程に執り成す者の介入があったということです。

これがまさにイエス・キリストという真の執り成す者の役割を示唆しているのです。

ではなぜ三千人が死んだのか?そのように罪によって死んだ三千人が神の恵みによって生き返る場面が新約聖書に出てきます。

 

(使徒2:38~41)

38ペテロは言った。「あなたがたは悔い改め、それぞれイエス・キリストの名によってバプテスマを受け、

罪の赦しを受けなさい。そうすれば、聖霊が賜物として与えられる。

39この約束は、あなたがたと、あなたがたの子孫と、遠くのすべての者、すなわち、主なる私たちの神が、

呼び集められるすべての人々に与えられるものである。」

40また、多くの言葉をもって証しし、勧めて言った。「この背信の世代から救われなさい。」

41その言葉を聞いた人々は洗礼を受け、その日、弟子が三千人ほど増えた。

やはりこの日も五旬節の日です。

天の神であるイエス・キリストが、今なお自分を偶像として生きているこの世の富める者たちに 『お前たちは、自分たちを偶像として生きている、金の牛を作った罪人だ。悔い改めよ』と福音を宣べ伝えると、この世全体が合意してそのイエスを殺害してしまったのです。

ですから、荒野におけるイスラエルの金の牛の事件は、神殺しの事件だったのです。

それゆえ神はかくも激怒されたのです。

神の名を呼びながら実のところ自らを崇拝している狡猾な人間たちが、神殺しの事件の主犯だからです。

それゆえヨハネはこの世全体を、イエスが十字架に釘付けにされた場所と表現します。

 

(黙11:8)

8彼らの死体は、大いなる都の大通りに置かれる。その都は霊的に言えばソドムでもあり

エジプトでもあり、すなわち彼らの主が十字架につけられた場所である。

つまり聖書はこの世全体を神殺しの犯人と規定しているのです。

ところが、そのように自らの栄光と価値と富と力のために神を殺害したその現場で、実に理解しがたいことが起こったのです。

世界に殺されるその神が、自らを殺している彼らの罪をすべて吸い取られたのです。

そして彼らの罪と共に死んでしまわれました。

そして自らを殺した彼らを生き返らせてしまわれたのです。

それが十字架です。

 

 

再び使徒行伝第2章に戻ります。

ペテロが新約聖書の最初の五旬節に、まさにそのイエス・キリストの十字架の福音について説教しました。

するとその福音を理解する者たちが現れ、その数は三千人でした。

 

つまり、このような図式です。

旧約の五旬節には神の律法によって屠られる罪人たち三千が登場し、新約の五旬節にはそうして罪人として死んだ、そして永遠に死なねばならなかった者たちのために命を捧げたイエスによって生き返る義人たち三千が登場するのです。

神の怒りによって死なねばならなかった富者たちが、神の助けによって天国の「ラザロ(神が助けた者)」となるのです。

 

しかし41節を見ると、そうして生き返った新約の三千人が「言葉を受け」て救われたとあります。

そこでの「言葉」が「ロゴス」です。

その「ロゴス」という言葉は、ヨハネ福音書1章で「言葉として来られたイエス」を描写する際に用いられた言葉です。

つまり、神の言葉がイエスであり、イエスが神の言葉のすべての内容なのです。

そのイエスを全世界が合意して殺したのに、恵みの聖霊が来られると、その殺されたイエスを、言葉を受け入れる人々が現れたというのです。

 

ですから「言葉を受け入れる、福音を理解する」とは、神の恵みによって「イエス・キリストを受け入れる、イエス・キリストの十字架を理解する」という言葉と同じ意味なのです。

このように救いと棄てられることは、ただみ言葉によってのみ分けられ、判断されるのです。

 

 

それゆえ、まさにこの使徒言行録に出てくる新約の五旬節に、分かれていた言葉が一つに統合され、すべての人々に理解されるという出来事が現れるのです。

歴史を通じて受け入れられなかった神の言葉が、ある少数の人々に受け入れられるという歴史が起きたのです。

ペテロの説教を聞いて死んでいた神殺し者三千人が生き返る事件があったまさにその日、マルコの屋上で弟子たちに異言が注がれたのです。

 

(使徒2:1~11)

1五旬節の日が来たとき、彼らはみな一箇所に集まっていた。

2すると突然、天から激しい風が吹くような音がして、彼らが座っていた家全体を満たした。

3火の舌のようなものが分かれて見えた。それが一人一人の上に留まった。

4彼らはみな聖霊に満たされ、聖霊が語らせたままに、異言で話し始めた。

5その頃、敬虔なユダヤ人が世界中からエルサレムに集まっていた。

6この音を聞いて大勢の群衆が集まり、それぞれ自分の母国語で弟子たちが話すのを聞いた。

彼らは驚き

7皆驚き、不思議に思いながら言った。「見よ、この人たちは皆、ガリラヤの人ではないか。

8どうして、私たち一人ひとりの生まれ故郷の方言で聞くことができるのか。」

9私たちは、パテシヤ人、メディア人、エラム人、またメソポタミア、ユダヤ、カッパドキア、ポンテ、

アジア、

10プルーギアとパンフィリア、エジプトとクレネに属するリビアの地方、ローマから来た旅人たち、ユダヤ人とユダヤ教に改宗した者たち、

11クレタ人とアラビア人である。私たちは皆、それぞれの母国語で『神の偉大な御業』が語られているのを聞いているのだ」と言った。

弟子たちに聖霊が臨むと、弟子たちは他の言語で話し始めた。

これがtongueとしての異言なのかforeign languageとしての異言なのかを区別することは、さほど重要な問題ではありません。

ペンテコステの日に奇妙な言葉が現れたということが重要なのです。

そして少なくとも十五カ国から来たディアスポラたちが、その弟子たちの異言を「一つ」として理解したという点が重要なのです。

そして何よりも重要なのは、その弟子たちの異言が「神の偉大な御業」に関するものだったということです。

 

つまり、神の偉大な業、すなわち神の恵みの救いに関する話が、これまで世の人々には異国の異言として聞こえていたのです。

ところが、イエス・キリストの十字架と復活、そして昇天によって聖霊が臨まれると、それらの異なる異言が、彼らが理解できる言葉へと一つになったというのです。

こうして神の偉大な業が、理解できなかった異言から理解できる言葉へと変わったことで、救いが起こったというのです。

金持ちがラザロになる奇跡が起こったのです。

ですからキリスト教の異言は、ただ神の偉大な御業、すなわちイエス・キリストの十字架の福音に関する内容でなければならないのです。

ところで、そのような異言が理解できる言葉になるという奇跡が聖霊降臨によって成就されたということは、天からの啓示である福音が罪人たちに聞かれるためには、神の恵みの介入がなければならなかったことを示しているのです。

 

 

では、この異言というものがこの世に生じた原因は何でしょうか。創世記のバベルの塔の出来事です。

 

(創世記11:1-9)

1全地の言葉は一つで、言語も一つであった。

2彼らが東へ移り住み、シナルの平野にたどり着いてそこに住んだとき

3互いに言った。「さあ、煉瓦を作ってしっかり焼き上げよう」。こうして煉瓦を石の代わりに

アスファルトを土の代わりに用いた。

4また言った。「さあ、城と塔を築き、その頂を天に届かせよう。我々の名を上げ、全

地の上に散らされることを避けよう」と言った。

5主は、人の子らが築く町と塔を見ようと、降って来られた。

6主は言われた。「この民は一つの氏族であり、言語も一つである。彼らはこのように始めたのだから、今後、彼らの企てることを禁じることはできないだろう。

7「さあ、我々は下って行って、そこで彼らの言葉を混乱させ、互いに理解し合えないようにしよう」と言われた。

8主はそこで彼らを全地に散らされたので、彼らは城壁の建設をやめた。

9それゆえ、その名をバベルと呼んだ。主がそこで全地の言葉を混乱させられたからである。主はそこで彼らを全地に散らされた。

神は絶対的に依存すべき存在であり、神の恵みによってのみ生きるべき人間たちが、自らの力と知恵と努力で天に届こうとし、自らの名を全世界に知らしめようとしたのである。

神に絶対的に依存する存在として、神の恵みによってのみ生きるべき人間たちが、自らの力と知恵と努力で天に届こうとし、自らの名を全世界に知らしめようとした。

それは何でしょうか。自己崇拝、偶像崇拝、世の富める者たちの生き方です。

神はそのような偶像崇拝に怒りを発し、罪人たちの言葉をそれぞれ異なる方言に変えてしまったのです。

つまり、理解できない方言というものの第一義的な意味は、神の怒りと裁きなのです。

そのような人間の傲慢に対する神の怒りと方言の話は、イザヤ書でより明確に説明されています。

 

(イザヤ28:1~13)

1酔いしれる者よ、エフライムの傲慢な冠よ、災いだ。酒に溺れる者の町よ、

栄光の冠のように肥えた谷の頂に築かれた町よ、枯れゆく花のように、

災いだ。

2見よ、主にある強き力ある者が、打ち下ろす雹のように、破壊する暴風のように、

大水の氾濫のように、その手でその冠を地に投げ捨てる。

3エフライムの酔いどれの驕りの冠は、足で踏みにじられる。

4その肥えた谷の頂にある栄光の枯れゆく花は、夏前に熟した

いちじくのようだ。見る者はそれを見て、すぐに摘み取って食べるであろう。

5その日、万軍の主は、その残された民にとって栄光の冠となり、美しい

花冠となられる。

6裁きの座に着く者には裁きの神となり、城門で争いを制する者には力となられる。しかし

7このユダの民も、ぶどう酒にふらつき、強い酒によろめく。祭司も預言者も、強い酒によろめき、ぶどう酒にふらつき、強い酒によろめく。

彼らは幻を誤って解き、裁きに誤りを犯す。

8すべての食卓は吐瀉物と汚れたもので満ち、清い所はない。

9彼らは言う。「彼は誰に知識を教え、誰に道を示して悟らせるのか。乳離れした子らに言うのか」

10見よ、彼らは戒めに戒めを重ね、戒めに戒めを重ね、教えに教えを重ね、教えに教えを重ねる。しかし、ここでも少し、あそこでも少し、と彼らは言うのだ。

10見よ、戒めに戒めを加え、戒めに戒めを加え、教えに教えを加え、教えに

教えを加えるが、ここでも少し、あそこでも少しというのだ。

11それゆえ、この民には、聞き慣れない口と異国の言葉をもって語られるであろう。

12かつて彼らに言われた、「これがあなたの安息、これがあなたの安らぎである。疲れた者に安息を与えよ」と。しかし彼らは聞き入れなかった。

13主は彼らに言われた、「戒めに戒めを加え、戒めに戒めを重ね、教えに教えを加え、教えに教えを重ね、ここでも少し、

あちらでも少し」と仰せになり、彼らを

歩みながら後ろに倒れ、折れ、つまずき、捕らえられるようになさるであろう。

エフライム、すなわち北イスラエルの傲慢が極みに達した時、神は彼らに怒りを示される。

神がそれほど高慢になったご自身の民を打たれるのに、誰を動員されるかと言えば、見知らぬ口と異国の言葉を持つアッシリアを用いて打たれるのです。

ところで興味深いのは、異国の言葉を持つアッシリアがイスラエルを打つことになった理由が、イスラエルの言葉にあるということです。

10節を見ると、預言者を通してイスラエルに神の言葉が下ると、イスラエルは預言者に「ああ、戒めに戒めを加え、戒めに戒めを加え、教えに教えを加え、教えに教えを加えるが、ここでも少し、あそこでも少しだ」と言ったとあります。

これは「チャブ・ラチャブ、チャブ・ラチャブ、カブ・ラカブ、 カブ・ラカブ、ジェール・シャム、ジェール・シャム」という言葉は、特に意味のある言葉ではなく、酒に酔って喚き散らす戯言、あるいは幼児に歩みを教える時に発する無意味な音、誰かを嘲笑したり挑発したりする時に発する音です。

平たく言えば、異言です。

そのことでイスラエルは裁きを受けるのです。

 

 

つまりこういうことです。

傲慢を冠のようにかぶっていた背信的なイスラエルに、神が預言者を通して神の道を伝えたところ、イスラエルはその声をまるで異言のように理解できず、「エレレ・カッコン、シュラ・シュラ」と嘲笑したというのです。

神は神の道を異言のように扱う背信的な罪人たちに対して、アッシリアという異言を送って打ちのめした後、彼らに神の道を異言で「チャブ・ラチャブ、チャブ・ラチャブ、カブ・ラカブ、カブ・ラカブ、ジェール・シャム、ジェール・シャム」と聞こえさせるとおっしゃっているのです。

つまり、神の怒りと裁きは、福音を、神の啓示を異言で聞かせるようにしてしまうのです。

創世記のエデンの園で、いのちの木を遮られた神の姿と同じ姿です。

13節を見ると、そのように福音を異言で聞く者たちはどうなるでしょうか?後ろに倒れて折れ、つまずき、捕らえられるのです。

16節を見ると、なぜ彼らが後ろに倒れるのかが記されています。

 

(イザヤ28:16)

16それゆえ、主なる神はこう言われる。「見よ、わたしはシオンに一つの石を据え、礎とした。それは試みられた石、尊く堅固な礎石である。これを信じる者は、決してつまずくことはない

。」

神がシオンに一つの石を据えられるが、その石を見分けられない者たちは、その石につまずいて倒れるというのです。

つまり、イエス・キリストの十字架の恵みを理解できない者たちにとって、イエスそのものが「シャーラ・シャーラ」という異言となるのです。

そして彼らはイエスにつまずいて倒れ、のろいの裁きを受ける者たちとなるのです。

このイザヤ書の話をパウロがローマ書でこのように引用して書いています。

 

(ローマ9:29~33)

29またイザヤがあらかじめ言ったとおり、「もし万軍の主が私たちに子孫を残してくださらなかったなら

私たちはソドムのように、ゴモラのようにあったであろう」と言っているとおりです。

30では、私たちは何を言おうか。義を追い求めなかった異邦人が義を得た。すなわち

信仰から来る義である。

31義の律法に従って歩んだイスラエルは律法に至らなかった。

32どうしてそうなったのか。彼らは信仰によらず、行いによったからである。彼らはつまずきの石に

つまずいたのである。

33「見よ、わたしはつまずきの石、妨げの岩をシオンに置く。これを信じる者は

恥をかくことはない」と書いてあるとおりである。

よく見ると、パウロが今、信仰による神の義に従わず、行いによる律法に従っているユダヤ主義者たちに対して警告している場面です。

富みですね?彼らにとって、イエス・キリストの十字架の恵みは、つまずきの石、すなわち異言となるというのです。

引き続き、目に見える人間の行いと目に見えない恵みが衝突しているのです。

 

 

ですから、キリスト教徒にとって異言とは、人間の罪深さを反芻させるものであると同時に、神の啓示は神が知らせてくださらなければ、罪人である人間の知恵や努力では決して理解できないという、啓示の恵み性、すなわち裁きと恵みの両面を示すものです。

 

 

そうしてバベルの塔で始まった神の呪いと裁きの異言が、イエス・キリストの十字架の恵みによって新約の五旬節の日に一つに開かれ、神の恵みの中にある者たちに神の道が理解されるようになり、彼らが生き返って来たのです。

 

したがって、マルコの屋上の部屋における教会初の異言は、イエス・キリストの十字架の福音の必然性を啓示する啓示的出来事であり、啓示的賜物であったのです。

 

 

しかし冒頭でお話ししたように、悪魔は恵みとは全く関係なく、目に見え経験されて初めて自分のものとできるという律法主義と人間主義を巧妙に刺激し、その異言の意味を歪めてしまったのです。

 

それがコリント教会の問題でした。

 


 


비유(24)

왜 못 알아들을까?(II)

 

(눅16:27~31)

27가로되 그러면 구하노니 아버지여 나사로를 내 아버지의 집에 보내소서

28내 형제 다섯이 있으니 저희에게 증거 하게 하여 저희로 이 고통 받는 곳에 오지 않게 하소서

29아브라함이 가로되 저희에게 모세와 선지자들이 있으니 그들에게 들을 지니라

30가로되 그렇지 아니 하니이다 아버지 아브라함이여 만일 죽은 자에게서 저희에게 가는 자가 있으면 회개 하리이다

31가로되 모세와 선지자들에게 듣지 아니하면 비록 죽은 자 가운데서 살아나는 자가

있을지라도 권함을 받지 아니하리라 하였다 하시니라

 

제가 짧은 영상을 하나 보여드리겠습니다.

이 영상은 youtube에 올라온 한국의 한 기도원에서 열린 신유 은사 집회의 한 장면입니다.

강사가 방언을 하면서 예언도 해 주고, 돌아다니면서 병도 고쳐주는 그런 영상입니다.

그리고는 집회 내내 ‘기쁨, Joy’를 외칩니다.

여러분에게는 이런 모습이 정말 기쁨으로 보이십니까? 여러분의 눈에는 이 사람들이 정말 복음을 알아들은 사람들로 보이십니까?

 

우리는 지난주에 부자와 거지 나사로의 비유를 통하여 왜 부자가 지옥에 갈 수밖에 없었으며 거지 나사로는 어떤 이유로 아브라함의 품에 안길 수 있게 된 것인지에 대해 살펴보았습니다.

 

부자는 자기 자신에 대한 가능성과 기대를 끝까지 포기하지 못하고 하나님의 은혜의 필연성을 인정하지 못한 채 지옥에 가게 된 것이고, 거지 나사로는 그의 행위와 관계없이 하나님의 도우심, 즉 하나님의 은혜에 의해 아브라함의 품에 안길 수 있게 된 것이라 했지요?

우리는 그러한 부자와 나사로의 비유를 통해 ‘우리도 천국에 가기 위해 거지 나사로처럼 살자’라는 선동적 결론을 도출할 수 없다고 했습니다.

성도는 거지 나사로처럼 살아서 천국에 가는 것이 아니라 끝까지 부자로만 살고 싶은 자신의 모습을 은혜로 덮으시는 하나님의 은혜를 입어 그야말로 면목 없는 거지처럼 천국에 들어가는 것임을 배워야 하는 것입니다.

 

그러한 천국의 거지들은 이 세상에서 자신들의 저주 받을 부자 지향성을 계속해서 들키고 폭로당하면서 이 세상의 허황됨과 심심함을 깨달아 가게 되는 것이고, 하나님의 철장에 의해 이 세상의 힘을 하나하나 털리는 삶을 살게 되는 것입니다.

그렇게 하여 결국은, 예수 그리스도의 십자가 은혜가 아니면 자신들의 존재 자체가 신기루에 불과한 것이며, 그러한 신기루들이 영원히 자신들의 신기루 됨을 인정치 못하고, 자신들만을 위해 살게 되는, 고정되는 땅의 세상을 지옥이라 한다는 것을 알게 되는 것입니다.

그가 거지입니다.

반면에 여전히 인간의 가능성을 부인하지 못한 채 하나님의 영광이 아닌 인간의 영광을 위해 살아가는, 하나님의 은혜의 필연성에 전혀 동의하지 못하고 눈에 보이는 세상과 그 세상의 힘에 의존하여 죽어서도 자기 것만을 챙기는 자들을 부자라 하는 것입니다.

 

 

오늘 본문을 보시면 지옥에 있는 부자가 천국의 아브라함에게 부탁을 하는 장면이 나옵니다.

자기는 이렇게 지옥에 와 있지만 자기 형제들은 절대로 이 지옥에 오면 안 되니까 나사로를 살려 보내어 그들에게 전도를 하게 해 달라고 합니다.

그런데 아브라함은 모세와 선지자가 그들에게 있으므로 그들이 모세와 선지자를 통하여 구원을 얻을 기회가 있다는 말을 합니다.

그러나 그들이 모세와 선지자를 듣지 않으면 죽은 나사로가 살아 내려가도 그들은 절대 천국에 올 수 없다는 것입니다.

그렇다면 아브라함이 말한 모세와 선지자란 도대체 무엇을 말하는 것일까요?

(눅24:27)

27이에 모세와 및 모든 선지자의 글로 시작하여 모든 성경에 쓴바 자기에 관한 것을

자세히 설명하시니라

엠마오 마을로 내려가던 두 제자가 예수님을 알아보지 못하자 예수님께서 모세와 선지자의 글에 대해 자세하게 설명을 해 주셨다고 합니다.

그런데 그 모세와 선지자는 전부 ‘자기에 관한 것’ 즉 예수 그리스도에 관한 것만 기록하고 있었다는 것입니다.

그러니까 아브라함이 말하는 모세와 선지자란 구약 성경을 비롯한 하나님의 보이지 않는 계시를 말하는 것입니다.

 

즉 하나님의 은혜를 입어 하나님의 계시를 알아들을 귀를 얻지 못하면 그 어떤 눈에 보이는 기적들과 행위들이 주어진다고 해도 절대 천국에 들어 갈 수가 없다는 것입니다.

 

그래서 오늘 본문에 모세와 선지자라는 보이지 않는 계시의 말씀과, 죽은 나사로의 귀환이라는 눈에 보이는 기적이 대조되고 있는 것입니다.

세상의 부자들은 기적을 원하지만 하나님은 은혜로 구원하신다는 것입니다.

쉬운 말로 하나님의 계시는 오직 하나님의 은혜로만 주어지고 이해되어진다는 말입니다.

그런데 그 하나님의 계시가 눈에 보이는 세상 적 방법론에 의해 전해질 수 있다는 그러한 인본주의적 사고가 바로 지옥에 갈 부자들의 사고라는 것입니다.

그것이 인간의 이성과 경험과 사유의 폭 안에서 진리는 이해되어질 수도 있고 받아들여질 수도 있다는 저주받을 인간 중심의 사고인 것입니다.

 

 

마귀는 바로 그러한 타락한 죄인들의 유대주의 적이며 인본주의적인 발상을 아주 유효적절하게 사용하여 교회를 혼란시킵니다.

 

(살후2:9~12)

9악한 자의 임함은 사단의 역사를 따라 모든 능력과 표적과 거짓 기적과

10불의의 모든 속임으로 멸망하는 자들에게 임하리니 이는 저희가 진리의 사랑을 받지 아니하여 구원함을 얻지 못 함이니라

11이러므로 하나님이 유혹을 저의 가운데 역사하게 하사 거짓 것을 믿게 하심은

12진리를 믿지 않고 불의를 좋아하는 모든 자로 심판을 받게 하려 하심이니라

11절에 보면 ‘피스튜오, 믿음’이라는 단어가 나옵니다.

그런데 거짓 것을 믿는 믿음입니다.

그 거짓 것을 믿는 믿음, 가짜 믿음이 악한 자, 사단의 궤계인데 그 거짓 것을 믿는 믿음이 어떻게 주어지게 되는가하면 능력과 표적과 기적과 불의의 속임으로 오게 된다는 것입니다.

무서운 것은 그 거짓 것을 믿는 믿음이 하나님에 의해 허락이 된다는 것입니다.

왜요? 진리를 믿지 않고 불의를 좋아하는 모든 자로 심판을 받게 하려고요. 그러니까 하나님께서 저주의 심판으로 영원히 멸망시킬 자들은 기적과 능력과 표적을 좇게 하신다는 말입니다.

마태복음 7장의 ‘왜 우리를 모른다 하십니까?’하고 항의를 했던 그들처럼 말입니다.

 

 

12절에 보면 그렇게 심판을 받을 자들은 기적을 좇으며 진리를 믿지 않는다고 했는데, 그렇다면 진리를 믿는다는 것은 무엇을 말합니까? 예수님께서, 내가 곧 길이요, 진리요, 생명라고 말씀을 하셨지요? 따라서 진리를 믿는다는 것은, 모든 것이 예수 그리스도의 십자가 은혜에 의해 주어지고 진행되며 완료된다는, 예수 그리스도의 십자가 복음을 믿는 것을 말합니다.

여러분이 아시다시피 십자가 복음은 인간 측에서의 가능성과 업적과 공로, 그리고 눈에 보이는 체험과 경험과 증거를 중시하는 힘의 원리 속의 세상 적 기준을 부정하는 것입니다.

그게 바로 지옥에 갈 부자들의 세상이며 부자들의 방법론이기 때문입니다.

그래서 주님은 당신의 제자들에게 눈에 보이는 기적과 이사가 있는 곳에는 가지 말라고 신신당부를 하셨던 것입니다.

 

(막13:21~23)

21그 때에 사람이 너희에게 말하되 보라 그리스도가 여기 있다 보라 저기 있다 하여도 믿지 말라

22거짓 그리스도들과 거짓 선지자들이 일어나서 이적과 기사를 행하여 할 수만 있으면 택하신 백성을 미혹케 하려 하리라

23너희는 삼가라 내가 모든 일을 너희에게 미리 말하였노라

말세에 거짓 그리스도들과 거짓 선지자들이 예배당까지 점령하여 이적과 기사를 행하면서 택하신 백성들까지 미혹케 하려 할 것이라는 말입니다.

그러니까 그런 곳과 그런 인간들은 삼가라는 것입니다.

 

 

오늘날 기독교의 가장 큰 문제는 기독교 자체가 종교와 기독교의 차이를 모른다는 것입니다.

기독교는 종교가 아닙니다.

종교는 선악과를 따먹은 욕망하는 죄인들이 만들어 낸 아주 교활하고 이기적인 세상살이의 방법론에 불과한 것입니다.

 

모든 피조물은 하나님의 뜻에 순응하는 삶을 살도록 지어졌습니다.

그렇게 한 분 하나님에 의해 통치가 되고 그 통치에 순종하는 것들과의 관계 속에 하나님 나라가 임하게 되는 것입니다.

 

그런데 유독 인간만이 하나님의 말씀에 순종하지 못하고 선악과라는 금단의 열매를 따 먹어 버린 것입니다.

그리고는 자기 자신들의 가치 기준과 세계관에 의해 모든 선악의 판단을 내리는 통치자가 되어 버린 것입니다.

 

인간의 역사를 한 번 보세요. 인간의 역사는 마치 욕망하는 인간들의 탐욕스러운 배설물처럼 보입니다.

하나님은 다른 피조물들과 인간의 차이를 역사 속에서 극명하게 드러내어 보이십니다.

자연은 하나님의 뜻에 언제나 순응해 왔습니다.

하나님께서 비를 주시면 비를 맞고 열매를 맺습니다.

반면에 하나님께서 가뭄을 주시면 그 뜻에 순응하여 말라 죽고 목말라 죽습니다.

 

유독 인간만이 홍수를 피하겠다고 제방을 쌓고, 배를 만들고, 가뭄을 이겨 보겠다고 저수지를 만들고, 기우제를 지냅니다.

그렇게 누구에게도 질 수 없다는, 욕망하는 인간들이 문명을 만들고 그 문명을 돈을 받고 팔아가며, 그게 바로 진화하고 진보하는 인생과 역사라고 우기고 있는 현장이 이 세상입니다.

그러니까 모든 인간은 욕망하는 인간 집단이 만들어 낸 문명을 사느라 이렇게 고생하고 있는 것입니다.

세탁기,TV, 핸드폰, 자동차, 이런 것들 없었을 때는 어떻게 살았지요? 그런데 누군가가 그런 것들을 만들어 놓고 ‘이런 것을 가지고 누려야 문명인이다’하니까 전부 그런 문명을 사기 위해 삶을 올인 하며 사는 것입니다.

 

그렇게 현실보다 더 나은 미래를 꿈꾸며 ‘되고 싶은 나’에 대한 집념과 추구를 성경은 탐심이라고 하고 그 탐심은 곧 우상 숭배라고 정확하게 짚어내고 있습니다.

그렇게 ‘나’에 대한 우상 숭배를 하고 있는 자들을 이 세상 부자라고 하는 것이고, 그들은 자신들의 ‘되고 싶은 미래’에 대한 불안과 공포와 무기력함에 대한 대안으로 자기보다 월등하게 힘이 센 존재인 신이라는 것을 찾습니다.

세상의 부자들은 신에 대한 종교 의식을 행하고 그 신에게 헌물과 헌금을 하면서 지속적으로 그 신을 달랩니다.

그걸 치성이라고도 합니다.

그렇게 해서 신의 보호와 ‘되고 싶은 나’의 성취에 대한 도움을 구하는 것입니다.

그렇게 했는데도 자기가 원하는 만큼의 성취가 주어지지 않을 때 인간들은 종교 행위의 강도를 더 높이기도 하고 신에게 바치는 헌물과 헌금의 양과 질을 더 높입니다.

이걸 종교라고 합니다.

 

 

잘 생각해 보세요. 종교의 중심에는 항상 누가 있는 것입니까? ‘나’입니까? ‘신’입니까? 신을 달래서 내가 원하는 것을 얻어 내려하는 것은 신을 섬기는 것이 아니라 신을 달래서 얻어내려고 하는 그것을 섬기는 것입니다.

 

그런 면에서 세상 종교인들의 신은 장난감에 불과한 것입니다.

장난감은 ‘나’라는 존재의 만족을 위해 존재하는 것입니다.

이 세상 그 누구도 장난감을 숭배의 대상이나 순종의 대상으로 여기지 않습니다.

그 장난감이 더 이상 나의 만족을 챙겨주지 못할 때 우리는 그 장난감을 언제든지 버릴 준비가 되어 있습니다.

그래서 포이에르 바흐가 ‘신은 인간 욕망의 투사이다’라고 한 것은 일견 옳은 견해라 보입니다.

인간들은 신을 자신들이 원하는 대로 지속적으로 조작해 낸다는 것입니다.

그러니까 오늘날도 신은 계속 진화하고 변한다는 것이지요. 그게 과정신학으로 이어진 이단 사상입니다.

 

 

이스라엘 백성이 그러한 자신들의 종교성을 들킨 적이 있었지요? 이스라엘이 자신들을 구원해 주신 하나님의 이름을 부르며 그 분을 섬긴다고 박박 우기고 있을 때 하나님께서 ‘그럼 너희들이 섬기는 그 하나님이라는 신을 형상으로 한 번 만들어 봐’하고 기회를 주셨습니다.

그 때 그들이 무엇을 만들었나요? 애굽과 가나안의 풍요의 신이었던 금송아지를 만들었습니다.

그게 기독교를 한낱 세상의 종교로 알고, 믿고 있는 엉터리 가짜 교회의 실상인 것입니다.

결국 신앙과 예배의 중심이 자기 자신인 것입니다.

 

하나님은 그러한 인간의 종교성, 다른 말로 부자 지향성을 칼로 부수어 버리십니다.

 

하나님은 그 자리에서 이스라엘 백성 3,000명을 하나님의 칼로 도륙을 해 버립니다.

출애굽기로 가서 그 금송아지 사건 속에 나타난 부자의 모습과 그 부자들을 향한 하나님의 진노가 얼마나 무서운 것인지 확인을 해 보겠습니다.

 

(출32:1-4)

1백성이 모세가 산에서 내려옴이 더딤을 보고 모여 아론에게 이르러 가로되 일어나라 (우리를)인도할 신을 (우리를) 위하여 만들라 이 모세 곧 (우리를) 애굽 땅에서

인도하여 낸 사람은 어찌 되었는지 알지 못함 이니라

2아론이 그들에게 이르되 너희 아내와 자녀의 귀의 금 고리를 빼어 내게로 가져 오라

3모든 백성이 그 귀에서 금 고리를 빼어 아론에게로 가져 오매

4아론이 그들의 손에서 그 고리를 받아 부어서 각도로 새겨 송아지 형상을 만드니

그들이 말하되 이스라엘아 이는 너희를 애굽 땅에서 인도하여 낸 너희 신이로다

하는지라

보세요. 이스라엘 백성들이 하는 말 속의 주인공이 누구입니까? ‘우리’입니다.

바로 ‘나’라는 것입니다.

우리를 위하여, 우리를 인도할 신을 만들어, 우리의 유익을 구하는 것이 종교이고 그 종교의 주인공은 신도 아니고 무당도 아니고 바로 ‘나’인 것입니다.

이게 바로 우상 숭배이고 죄입니다.

그때 하나님께서 그 세상의 부자들에게 어떤 벌을 내리시는지 보세요.

(출32:26-28)

26이에 모세가 진 문에 서서 가로되 누구든지 여호와의 편에 있는 자는 내게로 나아오라 하매 레위 자손이 다 모여 그에게로 오는지라

27모세가 그들에게 이르되 이스라엘의 하나님 여호와께서 이같이 말씀하시기를 너희는 각각 허리에 칼을 차고 진 이 문에서 저 문까지 왕래하며 각 사람이 그 형제를,

각 사람이 그 친구를, 각 사람이 그 이웃을 도륙하라 하셨느니라

28레위 자손이 모세의 말대로 행하매 이 날에 백성 중에 삼천 명 가량이 죽인바 된지라

하나님의 진노로 삼천 명이 도륙을 당합니다.

이때가 이스라엘이 유월절의 기적을 통해 애굽을 나온 지 50일 째가 되는 날입니다.

유월절로부터 50일 째 되는 날을 이스라엘 절기로 무슨 날이라 하지요? 오순절이라 합니다.

그러니까 구약의 최초의 오순절에는 하나님의 백성이라고 하는 자들이 그들의 죄를 향한 하나님의 진노에 의해 삼천 명이 도륙을 당한 것입니다.

 

 

그런데 이 사건 안에 모세라는 중보자의 모형이 등장합니다.

하나님께서 모세에게 자기 자신들을 위해 금송아지라는 우상을 만들어 섬기던 이스라엘을 전부 진멸해 버리겠다고 하셨을 때 모세가 그 하나님의 진노를 막아섭니다.

 

(출32:11~14)

11모세가 그 하나님 여호와께 구하여 가로되 여호와여 어찌하여 그 큰 권능과 강한

손으로 애굽 땅에서 인도하여 내신 주의 백성에게 진노 하시나이까

12어찌하여 애굽 사람으로 이르기를 여호와가 화를 내려 그 백성을 산에서 죽이고

지면에서 진멸하려고 인도하여 내었다 하게 하려 하시나이까 주의 맹렬한 노를

그치시고 뜻을 돌이키사 주의 백성에게 이 화를 내리지 마옵소서

13주의 종 아브라함과 이삭과 이스라엘을 기억 하소서 주께서 주를 가리켜 그들에게

맹세하여 이르시기를 내가 너희 자손을 하늘의 별처럼 많게 하고 나의 허락한 이 온 땅을 너희의 자손에게 주어 영영한 기업이 되게 하리라 하셨나이다

14여호와께서 뜻을 돌이키사 말씀하신 화를 그 백성에게 내리지 아니 하시니라

하나님의 진노를 막아선 모세가 하나님의 언약을 들이대며 백성들의 편을 듭니다.

그때 하나님께서 뜻을 돌이키셨다고 하지요? 이런 표현은 신인동형론 적 표현이라고 하는 히브리 문학의 기법입니다.

하나님이 후회 하셨다, 돌이키셨다는 등의 표현은 사실 하나님의 전지전능이라는 속성과 맞지 않는 표현입니다.

그럼에도 불구하고 이러한 표현들을 써서 하나님의 마음이 어떠했는지를 전달하고자 하여 마치 하나님이 인간의 감정을 가지신 것처럼 표현을 하는 것입니다.

 

그러니까 위의 구절에서 하나님께서 뜻을 돌이키셨다는 것을 문자 그대로, 하나님은 이스라엘을 다 죽여 버리시려고 하셨는데 모세가 말리는 바람에 억지로 참으셨다는 식으로 이해를 하시면 안 됩니다.

원래 하나님의 뜻은 이스라엘을 모두 죽이시려는 것이 아니었습니다.

그럼에도 뜻을 돌이키신 것처럼 기록을 한 것은 이 세상 부자들에 대한 하나님의 진노가 얼마나 큰 것인지를 강조하여 표현하고 있는 것입니다.

중요한 것은 그 돌이킴의 과정에 중보자의 개입이 있었다는 것입니다.

이게 바로 예수 그리스도라는 참 중보자의 역할 암시인 것입니다.

그런데 왜 삼천 명이 죽었는가? 그렇게 죄로 말미암아 죽은 삼천 명이 하나님의 은혜로 살아나는 장면이 신약에 나옵니다.

 

(행2:38~41)

38베드로가 가로되 너희가 회개하여 각각 예수 그리스도의 이름으로 세례를 받고

죄 사함을 얻으라 그리하면 성령을 선물로 받으리니

39이 약속은 너희와 너희 자녀와 모든 먼데 사람 곧 주 우리 하나님이 얼마든지

부르시는 자들에게 하신 것이라 하고

40또 여러 말로 확증하며 권하여 가로되 너희가 이 패역한 세대에서 구원을 받으라 하니

41그 말을 받는 사람들은 세례를 받으매 이 날에 제자의 수가 삼천이나 더 하더라

역시 이 날도 오순절 날입니다.

하늘의 하나님이신 예수 그리스도가 여전히 자기 자신을 우상삼아 살고 있는 이 세상 부자들에게 ‘너희는 너희 자신을 우상 삼아 살고 있는, 금송아지 만든 죄인이니 회개하라’고 복음을 전하시자 이 세상이 전부 합의하여 그 예수를 살해해 버렸습니다.

그러니까 광야에서의 이스라엘의 금송아지 사건은 하나님 살해 사건이었던 것입니다.

그래서 하나님께서 그렇게 진노를 하신 것입니다.

하나님의 이름을 부르면서 실상은 자기 자신을 섬기고 있는 교활한 인간들이 하나님 살해 사건의 주범들이기 때문입니다.

그래서 요한은 이 세상 전체를 예수님이 십자가에서 못 박히신 곳이라고 표현을 합니다.

 

(계11:8)

8저희 시체가 큰 성 길에 있으리니 그 성은 영적으로 하면 소돔이라고도 하고

애굽이라고도 하니 곧 저희 주께서 십자가에 못 박히신 곳 이니라

그러니까 성경은 이 세상 전체를 하나님 살해범으로 규정하고 있는 것입니다.

그런데 그렇게 자기 자신의 영광과 가치와 부와 힘을 위해 하나님을 살해한 그 현장에서 참으로 이해하기 힘든 일이 벌어진 것입니다.

세상에게 살해당하는 그 하나님께서 자기 자신을 죽이고 있는 그들의 죄를 쭉 빨아들이신 것입니다.

그리고는 그들의 죄와 함께 죽어 버리셨습니다.

그리고는 자신을 살해한 그들을 살려 내 버리신 것입니다.

그게 십자가입니다.

 

 

다시 사도행전 2장으로 돌아가겠습니다.

베드로가 신약의 첫 번째 오순절에 바로 그 예수 그리스도의 십자가 복음에 대해 설교를 하였습니다.

그랬더니 그 복음을 알아듣는 이들이 생겼는데 그 숫자가 삼천이었습니다.

 

그러니까 이런 그림입니다.

구약의 오순절에는 하나님의 율법에 의해 도륙을 당하는 죄인들 삼천이 등장하는 것이고 신약의 오순절에는 그렇게 죄인으로 죽었던, 그리고 영원히 죽어야 했던, 자들을 위해 목숨을 바친 예수에 의해 살아나는 의인 삼천이 등장하는 것입니다.

하나님의 진노로 죽어야 했던 부자들이 하나님의 도우심으로 천국의 ‘나사로(하나님이 도우셨다)’가 되는 것입니다.

 

그런데 41절을 보면 그렇게 살아난 신약의 삼천이 ‘말을 받아’구원을 받았다고 합니다.

거기에서 ‘말’이 ‘로고스’입니다.

그 ‘로고스’라는 단어는 요한복음 1장에서 ‘말씀으로 오신 예수’를 묘사할 때 쓰인 단어입니다.

그러니까 하나님의 말씀이 예수이고 예수가 하나님 말씀의 모든 내용인 것입니다.

그 예수를 온 세상이 합의하여 죽였는데 은혜의 성령이 오시자 그 죽임당한 예수를, 말씀을 받아들이는 사람들이 생기더라는 것입니다.

 

그러니까 ‘말씀을 받는다, 복음을 이해한다’는 것은 하나님의 은혜로 ‘예수 그리스도를 받는다, 예수 그리스도의 십자가를 이해한다’는 말과 같은 말인 것입니다.

그렇게 구원과 유기는 오직 말씀에 의해서만 분리가 되고 판단이 되는 것입니다.

 

 

그래서 바로 이 사도행전에 나오는 신약의 오순절에, 갈라졌던 말이 하나로 통합이 되어 모든 이들에게 이해가 되는 사건이 등장하는 것입니다.

역사 내내 받아들여지지 않던 하나님의 말이 어떤 소수의 무리에게 받아들여지는 역사가 일어난 것입니다.

베드로의 설교를 듣고 죽어있던 하나님 살해자 삼천 명이 살아나는 사건이 있었던 바로 그날, 마가의 다락방에서 제자들에게 방언이 터졌습니다.

 

(행2:1~11)

1오순절 날이 이미 이르매 저희가 다 같이 한곳에 모였더니

2홀연히 하늘로부터 급하고 강한 바람 같은 소리가 있어 저희 앉은 온 집에 가득하며

3불의 혀 같이 갈라지는 것이 저희에게 보여 각 사람 위에 임하여 있더니

4저희가 다 성령의 충만함을 받고 성령이 말하게 하심을 따라 다른 방언으로 말하기를 시작 하니라

5그 때에 경건한 유대인이 천하 각국으로부터 와서 예루살렘에 우거하더니

6이 소리가 나매 큰 무리가 모여 각각 자기의 방언으로 제자들의 말하는 것을 듣고

소동하여

7다 놀라 기이히 여겨 이르되 보라 이 말하는 사람이 다 갈릴리 사람이 아니냐

8우리가 우리 각 사람의 난 곳 방언으로 듣게 되는 것이 어찜이뇨

9우리는 바대인과 메대인과 엘람인과 또 메소보다미아, 유대와 가바도기아, 본도와

아시아,

10브루기아와 밤빌리아, 애굽과 및 구레네에 가까운 리비야 여러 지방에 사는 사람들과 로마로부터 온 나그네 곧 유대인과 유대교에 들어온 사람들과

11그레데인과 아라비아인들이라 우리가 다 우리의 각 방언으로 ‘하나님의 큰일’을 말함을 듣는도다 하고

제자들에게 성령이 임하자 제자들이 다른 방언들로 말을 하기 시작했습니다.

이게 tongue으로서의 방언인지 foreign language로서의 방언인지를 구분하는 것은 별로 중요한 사안이 아닙니다.

오순절 날 이상한 말이 등장했다는 것이 중요한 것입니다.

그리고 적어도 열다섯 개국에서 온 디아스포라들이 그 제자들의 방언을 ‘하나’로 알아들었다는 것이 중요한 것입니다.

그리고 무엇보다 중요한 것은 그 제자들의 방언이 ‘하나님의 큰일’에 관한 것이었다는 것입니다.

 

그러니까 하나님의 큰일, 즉 하나님의 은혜의 구원에 관한 이야기가 그동안 세상 사람들에게 다른 나라 방언으로 들렸었던 것입니다.

그런데 예수 그리스도의 십자가와 부활, 그리고 승천으로 말미암아 성령이 임하시자 그 각기 다른 방언들이 자기들이 이해할 수 있는 말로 하나가 되더라는 것입니다.

그렇게 하나님의 큰 일이 알아들을 수 없었던 방언에서 이해할 수 있는 말씀이 되니 구원이 일어나더라는 것입니다.

부자가 나사로가 되는 기적이 일어난 것입니다.

그러니까 기독교의 방언은 오직 하나님의 큰일, 즉 예수 그리스도의 십자가 복음에 관한 내용이어야만 하는 것입니다.

그런데 그러한 방언이 알아들을 수 있는 말이 되는 기적이 성령 강림에 의해 성취가 되었다는 것은, 하늘의 계시인 복음이 죄인들에게 들려지기 위해서는 하나님의 은혜의 개입이 없이는 안 된다는 것을 보여주는 것입니다.

 

 

그런데 이 방언이라는 것이 이 세상에 생기게 된 원인이 무엇입니까? 창세기의 바벨탑 사건입니다.

 

(창11:1-9)

1온 땅의 구음이 하나이요 언어가 하나이었더라

2이에 그들이 동방으로 옮기다가 시날 평지를 만나 거기 거하고

3서로 말하되 자, 벽돌을 만들어 견고히 굽자 하고 이에 벽돌로 돌을 대신하며

역청으로 진흙을 대신하고

4또 말하되 자, 성과 대를 쌓아 대 꼭대기를 하늘에 닿게 하여 우리 이름을 내고 온

지면에 흩어짐을 면하자 하였더니

5여호와께서 인생들의 쌓는 성과 대를 보시려고 강림하셨더라

6여호와께서 가라사대 이 무리가 한 족속이요 언어도 하나이므로 이같이 시작하였으니 이후로는 그 경영하는 일을 금지할 수 없으리로다

7자, 우리가 내려가서 거기서 그들의 언어를 혼잡케 하여 그들로 서로 알아듣지

못하게 하자 하시고

8여호와께서 거기서 그들을 온 지면에 흩으신 고로 그들이 성 쌓기를 그쳤더라

9그러므로 그 이름을 바벨이라 하니 이는 여호와께서 거기서 온 땅의 언어를 혼잡케

하셨음이라 여호와께서 거기서 그들을 온 지면에 흩으셨더라

하나님 절대 의존적 존재로, 하나님의 은혜에 의해서만 살아야 하는 인간들이 스스로의 힘과 지혜와 노력으로 하늘에 닿으려 했고, 자기들의 이름을 온 세상에 내려 했습니다.

그게 뭡니까? 자아 숭배, 우상 숭배, 세상 부자들의 삶인 것입니다.

하나님은 그러한 우상 숭배에 진노를 하셔서 그 죄인들의 언어를 각기 다른 방언으로 만들어 버리신 것입니다.

그러니까 알아들을 수 없는 방언이라는 것의 일차적 의미는 하나님의 진노와 심판인 것입니다.

그러한 인간들의 교만에 관한 하나님의 진노와 방언 이야기는 이사야서에서 조금 더 명료하게 설명이 됩니다.

 

(사28:1~13)

1취한 자 에브라임의 교만한 면류관이여 화 있을진저 술에 빠진 자의 성 곧

영화로운 관 같이 기름진 골짜기 꼭대기에 세운 성이여 쇠잔해 가는 꽃 같으니

화 있을진저

2보라 주께 있는 강하고 힘 있는 자가 쏟아지는 우박 같이, 파괴하는 광풍 같이,

큰물의 창일함 같이 손으로 그 면류관을 땅에 던지리니

3에브라임의 취한 자의 교만한 면류관이 발에 밟힐 것이라

4그 기름진 골짜기 꼭대기에 있는 그 영화의 쇠잔해 가는 꽃이 여름 전에 처음 익은

무화과와 같으리니 보는 자가 그것을 보고 얼른 따서 먹으리로다

5그 날에 만군의 여호와께서 그 남은 백성에게 영화로운 면류관이 되시며 아름다운

화관이 되실 것이라

6재판 석에 앉은 자에게는 판결하는 신이 되시며 성문에서 싸움을 물리치는 자에게는 힘이 되시리로다 마는

7이 유다 사람들도 포도주로 인하여 옆걸음 치며 독주로 인하여 비틀거리며 제사장과 선지자도 독주로 인하여 옆걸음 치며 포도주에 빠지며 독주로 인하여 비틀거리며

이상을 그릇 풀며 재판할 때에 실수하나니

8모든 상에는 토한 것, 더러운 것이 가득하고 깨끗한 곳이 없도다

9그들이 이르기를 그가 뉘게 지식을 가르치며 뉘게 도를 전하여 깨닫게 하려는가 젖

떨어져 품을 떠난 자들에게 하려는가

10대저 경계에 경계를 더하며 경계에 경계를 더하며 교훈에 교훈을 더하며 교훈에

교훈을 더하되 여기서도 조금, 저기서도 조금 하는구나 하는도다

11그러므로 생소한 입술과 다른 방언으로 이 백성에게 말씀하시리라

12전에 그들에게 이르시기를 이것이 너희 안식이요 이것이 너희 상쾌함이니 너희는

곤비한 자에게 안식을 주라 하셨으나 그들이 듣지 아니하였으므로

13여호와께서 그들에게 말씀하시되 경계에 경계를 더하며 경계에 경계를 더하며 교훈에 교훈을 더하며 교훈에 교훈을 더하고 여기서도 조금, 저기서도 조금 하사 그들로

가다가 뒤로 넘어져 부러지며 걸리며 잡히게 하시리라

에브라임, 즉 북 이스라엘의 교만이 극에 달했을 때 하나님께서 그들에게 진노하십니다.

하나님께서 그렇게 교만해진 당신의 백성들을 치시는데 누구를 동원하시냐면 생소한 입술과 다른 방언을 가진 앗수르를 들어서 치십니다.

그런데 재미있는 것은 방언을 가진 앗수르가 이스라엘을 치게 되는 이유가 이스라엘의 방언 때문입니다.

10절을 보시면 선지자를 통하여 이스라엘에게 하나님의 말씀이 떨어지자 이스라엘이 선지자에게 ‘대저 경계에 경계를 더하며 경계에 경계를 더하며 교훈에 교훈을 더하며 교훈에 교훈을 더하되 여기서도 조금, 저기서도 조금 하는구나’했다고 합니다.

이건 ‘차브 라차브, 차브 라차브, 카브 라카브, 카브 라카브, 제에르 샴, 제에르 샴’이라는 말로 별다른 뜻이 있는 말이 아니라 술에 취해 주정 부리는 허튼 소리, 혹은 아가들에게 걸음마를 가르칠 때 하던 의미 없는 소리, 누군가를 조롱하거나 약 올릴 때 하는 소리입니다.

쉬운 말로 방언입니다.

그 일로 이스라엘이 심판을 받는 것입니다.

 

 

그러니까 이런 말입니다.

교만을 면류관처럼 쓰고 있던 패역한 이스라엘에게 하나님께서 선지자를 통하여 하나님의 도를 전했더니 이스라엘이 그 소리를 마치 방언처럼 못 알아듣고 ‘엘렐레 까꿍, 쏼라 쏼라’하며 조롱하더라는 것입니다.

하나님은 하나님의 도를 방언처럼 여기는 패역한 죄인들에게 앗수르라는 방언을 보내어 두들겨 패신 후 그들에게 하나님의 도를 방언으로 ‘차브 라차브, 차브 라차브, 카브 라카브, 카브 라카브, 제에르 샴, 제에르 샴’으로 들리게 하시겠다고 하시는 것입니다.

그러니까 하나님의 진노와 심판은 복음을, 하나님의 계시를 방언으로 들리게 만들어 버리는 것입니다.

창세기의 에덴 동산에서 생명나무를 막아 버리시는 하나님의 모습과 동일한 모습입니다.

13절을 보시면 그렇게 복음을 방언으로 듣게 되는 자들이 어떻게 된다고 합니까? 뒤로 넘어져 부러지며 걸리며 잡히게 된답니다.

16절을 보시면 왜 그들이 뒤로 넘어지게 되는지가 나옵니다.

 

(사28:16)

16그러므로 주 여호와께서 가라사대 보라 내가 한 돌을 시온에 두어 기초를 삼았노니 곧 시험한 돌이요 귀하고 견고한 기초 돌이라 그것을 믿는 자는 급절하게 되지 아니

하리로다

하나님께서 시온에 한 돌을 두시는데 그 돌을 알아보지 못하는 자들이 그 돌에 걸려 넘어지게 된다는 것입니다.

그러니까 예수 그리스도의 십자가 은혜를 이해하지 못하는 자들에게는 예수 자체가 “쏼라 쏼라‘라는 방언이 되는 것입니다.

그리고 그들이 예수에게 걸려 넘어져서 저주의 심판을 받게 될 자들이라는 것입니다.

이 이사야서의 이야기를 바울이 로마서에서 이렇게 인용을 해서 쓰고 있습니다.

 

(롬9:29~33)

29또한 이사야가 미리 말한바 만일 만군의 주께서 우리에게 씨를 남겨 두시지 아니

하셨더면 우리가 소돔과 같이 되고 고모라와 같았으리로다 함과 같으니라

30그런즉 우리가 무슨 말 하리요 의를 좇지 아니한 이방인들이 의를 얻었으니 곧

믿음에서 난 의요

31의의 법을 좇아간 이스라엘은 법에 이르지 못하였으니

32어찌 그러하뇨 이는 저희가 믿음에 의지하지 않고 행위에 의지함이라 부딪힐 돌에

부딪혔느니라

33기록된바 보라 내가 부딪히는 돌과 거치는 반석을 시온에 두노니 저를 믿는 자는

부끄러움을 당치 아니하리라 함과 같으니라

잘 보시면 바울이 지금 믿음에 의한 하나님의 의를 좇지 않고 행위에 의한 율법을 좇고 있는 유대주의자들에 대해 경고를 하고 있는 장면입니다.

부자이지요? 그들에게는 예수 그리스도의 십자가 은혜가 부딪히는 돌, 즉 방언이 될 것이라는 말입니다.

계속해서 눈에 보이는 인간의 행위와 보이지 않는 은혜가 충돌하고 있는 것입니다.

 

 

그러니까 기독교인에게 있어서 방언이라는 것은 인간의 죄인 됨을 반추하게 하는 것임과 동시에, 하나님의 계시는 하나님께서 알려주시지 않으면 절대 죄인인 인간의 지혜나 노력으로 알아듣거나 이해할 수가 없는 것이라는, 계시의 은혜 성, 즉 심판과 은혜의 양면을 보여주는 것입니다.

 

 

그렇게 바벨탑에서 시작된 하나님의 저주와 심판의 방언이 예수 그리스도의 십자가 은혜에 의해 신약의 오순절 날 하나로 열리게 되고 하나님의 은혜 속에 들어 있는 자들에게 하나님의 도가 이해되어지게 되어 그들이 살아 올라오게 된 것입니다.

 

따라서 마가의 다락방에서의 교회 최초의 방언은 예수 그리스도의 십자가 복음의 필연성을 계시하는 계시적 사건이요 계시적 은사였던 것입니다.

 

 

그런데 서두에 말씀을 드렸던 것처럼 마귀는 은혜와는 전혀 상관없이 눈에 보이고 경험되어져야 내 것으로 삼을 수 있다고 하는 율법주의와 인본주의를 절묘하게 자극하여 그 방언의 의미를 왜곡해 버린 것입니다.

 

그게 고린도 교회의 문제였습니다.

고린도 교회는 여러분이 아시는 것처럼 유대 땅에 있는 교회가 아니라 헬라의 유명한 도시인 고린도에 세워진 교회입니다.

따라서 고린도 교회는 아주 자연스럽게 밀교라고 하는 헬라의 신비 종교와 헬라철학, 그리고 헬라의 타락한 도덕성의 영향을 심하게 받고 있었습니다.

특히 헬라의 신비종교들의 영향으로 신비적 체험이나 기적 등이 교회 안에서 늘 분쟁의 씨앗이 되고 있었습니다.

특히 방언과 예언, 그리고 신유(병 고침)등의 특이한 현상들이 교인들 사이에서 영성의 고저를 가르는 특별한 것이 되어 있었습니다.

 

바울은 그러한 고린도 교회에게 ‘은사’라는 것이 무엇인지를 잘 가르쳐 줍니다.

하나님께서 성도에게 은사를 주시는 것은 예수 그리스도가 주이심을 알게 하는 데에 도움을 주는 선물의 차원으로 주시는 것이라는 겁니다.

사도 바울은 그것을 신령한 것이라 부릅니다.

 

(고전12:1~7)

1형제들아 신령한 것에 대하여는 내가 너희의 알지 못하기를 원치 아니하노니

2너희도 알거니와 너희가 이방인으로 있을 때에 말 못하는 우상에게로 끄는 그대로

끌려 갔느니라

3그러므로 내가 너희에게 알게 하노니 하나님의 영으로 말하는 자는 누구든지 예수를 저주할 자라 하지 않고 또 성령으로 아니하고는 누구든지 예수를 주시라 할 수

없느니라

4은사는 여러 가지나 성령은 같고

5직임은 여러 가지나 주는 같으며

6또 역사는 여러 가지나 모든 것을 모든 사람 가운데서 역사하시는 하나님은 같으니

7각 사람에게 성령의 나타남을 주심은 유익하게 하려 하심이라

사도 바울은 성령이 주시는 은사가 성도로 하여금 신령한 것을 알게 하는 용도로 주어진 것이라고 하면서 은사의 이야기를 꺼냅니다.

그런데 그 신령한 것을 아는 것이 무엇인지가 3절에 나오는데 ‘예수를 저주할 자라 하지 않고 십자가에서 죽은 예수가 주’라는 것을 시인하는 것이 신령한 것을 아는 것이라 합니다.

그리고 그 신령한 것을 알게 하기 위해 주어진 것이 성령의 은사라는 것입니다.

7절을 보시면 성령의 은사가 ‘유익하게 하려 하심’이라고 나와 있지요? 거기에서 ‘유익’은 정확히 번역을 하면 ‘공동의 유익’입니다.

거기에서 ‘공동’이란 예수를 머리로 한 교회 전체를 말하는 것입니다.

그러니까 은사라는 것은 어떤 개인에게 사유화 되어 그 개인의 능력을 보여주는 용도로 주어지는 것이 아니라 교회로 하여금 예수 그리스도의 주되심과 예수 그리스도의 십자가의 필연성을 깨닫게 해주기 위해 주어진 하나님의 한시적 선물인 것입니다.

왜냐하면 이 세상 모든 부자들이 십자가에서 연약하게 죽어버린 예수 같은 삶은 패배요 실패로 보고 있기 때문입니다.

그런데 어떻게 그 십자가에 달리신 분을 왕으로, 주로 섬길 수 있겠습니까?

따라서 교회에 주어진 모든 은사는 예수님의 주되심과 인간의 불가능함과 무력함, 그리고 은혜의 필연성을 이해하는 데에 필요한 것이어야지 누군가에게 사유되어 그 사람의 능력을 자랑하는 것이어서는 안 됩니다.

그런데 고린도 교회에서 방언을 하고 예언을 하고 병을 고치고 하는 이들이 자신들의 은사를 자랑삼아 교회의 한 몸 됨에 기여를 하기는커녕 교회를 분열시키고 있었습니다.

사도 바울은 그러한 은사들이 예수 그리스도의 사랑 안에 들어 있는 자들에게서 나오는 진짜 은사가 아닐 때에는 그게 아무리 신기해 보이고 신통해 보여도 다 가짜라는 것을 고린도 전서 13장에서 장황하게 피력합니다.

 

(고전13:1~3)

1내가 사람의 방언과 천사의 말을 할지라도 사랑이 없으면 소리 나는 구리와 울리는

꽹과리가 되고

2내가 예언하는 능이 있어 모든 비밀과 모든 지식을 알고 또 산을 옮길만한 모든

믿음이 있을지라도 사랑이 없으면 내가 아무 것도 아니요

3내가 내게 있는 모든 것으로 구제하고 또 내 몸을 불사르게 내어 줄지라도 사랑이

없으면 내게 아무 유익이 없느니라

보세요. 천사의 말과 방언을 한다 할지라도 그게 예수님의 사랑을 받은 자에게서 나오는 것이 아니면 소리 나는 구리나 울리는 꽹과리와 조금도 다를 바가 없는 것이랍니다.

심지어 예언을 하는 능력이 있어서 모든 비밀과 모든 지식을 알고 산을 옮길만한 믿음이 있어 보이는 사람일지라도 그것이 예수님의 사랑 안에 들어 있지 않은 사람이 행하는 것일 때에는 아무것도 아니란 것입니다.

nothing이라는 말입니다.

심지어 자기 것을 다 팔아서 구제를 하고 자기 몸을 불살라 내어주며 이웃을 위해 희생을 한다고 해도 예수님의 사랑 안에 들어 있는 사람이 행한 것이 아닐 때 그건 개죽음이라는 말입니다.

이게 다 뭡니까? 그 모든 것들이 다 부자들의 자기자랑에 불과하다는 것입니다.

 

 

여기에서 사도바울이 특별히 예언과 방언에 대해 언급을 하고 있는 것은 고린도 교회의 많은 문제 중에 특히 예언과 방언의 문제가 아주 심각한 것이었기 때문입니다.

 

조금 전에 우리가 살펴본 바에 의하면 방언이라는 것은 이 세상이 알아들을 수없는 하나님의 복음, 하나님의 계시를 상징하는 것이고, 그 방언인 하나님의 말씀이 세상에 떨어졌을 때 그것을 알아듣지 못하는 자들이 바로 심판에 해당하는 것임을 보여주는 계시적 은사였습니다.

 

예언도 마찬가지입니다.

방언이 심판과 저주를 그 내용으로 담고 있는 것이어서 통역이 없으면 절대로 알아들을 수 없는 것이었던 반면에 예언이라는 것은 하나님으로부터 말미암고 하나님에 의해 실행되고 하나님에 의해 완성되는 하나님의 언약에 대한 말씀을 예언이라고 하는 것입니다.

 

(롬11:36)

36이는 만물이 주에게서 나오고 주로 말미암고 주에게로 돌아감이라 영광이 그에게

세세에 있으리로다 아멘

이렇게 하나님의 은혜로 모든 세상만사, 만물의 이치를 주님이 중심이 된 언약의 성취로 풀어내는 것을 예언이라 하는 것입니다.

예를 하나 들어 드릴게요.

(단9:1-2)

1메대 족속 아하수에로의 아들 다리오가 갈대아 나라 왕으로 세움을 입던 원년

2곧 그 통치 원년에 나 다니엘이 서책으로 말미암아 여호와의 말씀이 선지자

예레미야에게 임하여 고하신 그 연수를 깨달았나니 곧 예루살렘의 황무함이 칠십년

만에 마치리라 하신 것 이니라

다니엘이 바벨론의 느브갓네살 왕의 꿈을 해석해 주고, 벨사살 왕의 잔치 자리에서 나타난 하나님의 손이 벽에다가 쓰신 ‘메네 메네 데겔 우바르신’의 의미 등을 해석해 준 것은 모두 하나님께서 이스라엘을 비롯한 세계의 역사를 어떻게 끌고 가실 것이며 그 역사의 과정을 통하여 무엇을 가르칠 것인가에 대한 것이었습니다.

예언이란 그렇게 하나님에게서 나와서 하나님에 의해 실행이 되고 완료가 되는 하나님의 일에 관한 것입니다.

그런데 지금 읽으신 다니엘서 9장에 보면 다니엘이 예레미야의 책을 읽다가 하나님께서 선지자 예레미야에게 임하셔서 고해 주신 이 세상 역사 70이레에 관한 것을 깨닫게 되지요? 그리고는 70이레에 대해 설명을 하는데, 그러한 것이 바로 예언인 것입니다.

 

 

따라서 성경적인 예언이란 하나님의 계시된 말씀이 하나님에 의해 성취가 되고 완료가 될 것임에 대한 것일 때 비로소 예언인 것입니다.

그래서 예언은 반드시 성취되어야 합니다.

그러니까 요즘 흔히 교회 예배당에서 예언이랍시고 지껄이는 수많은 목사들의 예언은 그게 하나님의 말씀, 즉 십자가 복음에 관한 것이 아니면 다 가짜인 것입니다.

가끔 맞으면 안 됩니다.

예언은 반드시 성취되어야 합니다.

하나님의 뜻이니까요. ‘당신은 하나님께서 돈을 많이 벌게 하셔서 큰 그릇으로 쓰실 것’이라는 둥, ‘올해 안에 세 번의 기회가 주어질 터인데 그 기회를 놓치지 말고 잡아야 한다’는 둥, ‘올해 안에 당신의 배우자가 나타날 것인데 그 배우자의 성이 배씨라는 둥’이런 것은 예언이 아닙니다.

무당 짓거리에 불과한 것입니다.

그 중심에는 전부 ‘인간’이 자리하고 있습니다.

어떤 목사는 갑자기 성령이 임해서 그런 능력이 생겼다고 너스레를 떠는데 그게 강신무라는 것입니다.

신이 강림하여 무당이 된 것. 무당 세계에서는 학습무보다 조금 센 무당이지요. 그런데 그 강신무들이 예배당 안으로 들어와 버린 것입니다.

 

 

아무튼 방언이든 예언이든 초대 교회 때 주어진 그러한 은사들은 전부 예수 그리스도에 관한 하나님의 계시였습니다.

왜냐하면 초대교회 때는 아직 정경이 완성이 되지 않았을 때이기 때문에 어떤 식으로든 교회에 계시가 떨어져야 했기 때문입니다.

 

하나님은 예언을 통하여 교회에 당신의 계시를 전하셨고 방언을 통하여 계시의 은혜 성을 주지시키시면서 그 방언을 통역하여 전달하게 함으로써 역시 예수 그리스도에 관한 하나님의 계시를 전해 주셨습니다.

쉬운 말로 통역이 된 방언이 예언이 되는 것입니다.

그러나 이제 계시가 완료가 되고 정경이 완성이 되면, 쉬운 말로 온전한 것이 오게 되면 그 예언과 방언이 필요가 없게 되지요? 완성된 계시가 책으로 주어지게 되니까요. 그래서 바울은 가시적이며 경험적인 계시의 종결을 이렇게 표현합니다.

 

(고전13:8~10)

8사랑은 언제까지든지 떨어지지 아니하나 예언도 폐하고 방언도 그치고 지식도

폐하리라

9우리가 부분적으로 알고 부분적으로 예언하니

10온전한 것이 올 때에는 부분적으로 하던 것이 폐하리라

온전한 성경이 완성이 되면 한시적 계시로 주어지던 방언과 예언이 그치게 된다는 것입니다.

뿐만 아닙니다.

바울은 방언과 예언이 한시적으로 주어지고 있던 그 사도시대에도 예언과 방언이라는 경험적 도구들을 통하여 말씀을 이해해야 했던 어떤 이들을 어린아이라고 표현을 합니다.

 

(고전13:11)

11내가 어렸을 때에는 말하는 것이 어린 아이와 같고 깨닫는 것이 어린 아이와 같고

생각하는 것이 어린 아이와 같다가 장성한 사람이 되어서는 어린 아이의 일을

버렸노라

사도 바울은 방언과 예언을 어린아이 때 행하던 유치한 것으로, 어른이 되어서 버려야 하는 것으로 말을 하고 있습니다.

그런데 어떻게 된 게 오늘날 교회에서는 예언과 방언을 하는 사람들이 어른이고 그런 것을 못하는 사람들이 어린아이로 취급을 당하고 있습니다.

마치 아기 엄마가 아기의 옹알이를 흉내 내면서 ‘참 멋진 은사다, 난 그런 네가 부럽다’하고 있는 것입니다.

사도 바울은 방언이 곧 하나님의 말씀인 예언이 되어야 한다는 의미에서 방언을 하는 사람들에게 그 방언을 통역할 수 있는 은사도 함께 달라고 기도하라고 했습니다.

 

(고전14:13)

13그러므로 방언을 말하는 자는 통역하기를 기도할지니

왜 방언 통역을 위해 기도를 해야 합니까?

(고전14:6~9)

6그런즉 형제들아 내가 너희에게 나아가서 방언을 말하고 계시나 지식이나 예언이나

가르치는 것이나 말하지 아니하면 너희에게 무엇이 유익하리요

7혹 저나 거문고와 같이 생명 없는 것이 소리를 낼 때에 그 음의 분별을 내지 아니하면 저 부는 것인지 거문고 타는 것인지 어찌 알게 되리요

8만일 나팔이 분명치 못한 소리를 내면 누가 전쟁을 예비하리요

9이와 같이 너희도 혀로서 알아듣기 쉬운 말을 하지 아니하면 그 말하는 것을 어찌

알리요 이는 허공에다 말하는 것이라

알아듣지도 못하는 방언은 교회에 전혀 유익이 되지 않는다는 것입니다.

그래서 교회에서 행하는 방언은 반드시 통역이 있어야 했습니다.

그리고 여럿이서 함께 웅얼거리는 것도 막았습니다.

 

(고전14:27~28)

27만일 누가 방언으로 말하거든 두 사람이나 다불과 세 사람이 차서를 따라 하고 한

사람이 통역할 것이요

28만일 통역하는 자가 없거든 교회에서는 잠잠하고

이렇게 방언에 통역이 붙어야 하는 이유는 세상이 알아들을 수 없는 방언이 하나님의 은혜에 의해 통역이 되어 전달이 되어질 때, 그 때 예언의 기능을 갖게 되기 때문입니다.

통역이 되지 않는 방언은 그게 아무리 하나님이 주신 것이라 할지라도, 하나님이 주셨다는 면에서는 그 개인에게 유익이 될지는 몰라도 교회에는 절대 유익이 되지 않기 때문입니다.

그래서 바울은 방언을 믿지 않는 자를 위한 것이고 예언을 믿는 자를 위한 것이라 한 것입니다.

왜냐하면 방언이 통역이 되지 않았을 때 그 못 알아듣는 방언의 기능은 믿지 않는 자들의 심판을 선언하는 기능이 있기 때문입니다.

그래서 바울은 방언이 믿지 않는 자들에게 떨어지는 것이라 한 것입니다.

아니 심지어 바울은 통역이 되지 않는 알아듣지 못하는 방언은 개인에게도 별 유익이 없는 것이라 합니다.

 

(고전14:14~16)

14내가 만일 방언으로 기도하면 나의 영이 기도하거니와 나의 마음은 열매를 맺히지

못하리라

15그러면 어떻게 할꼬 내가 영으로 기도하고 또 마음으로 기도하며 내가 영으로

찬미하고 또 마음으로 찬미하리라

16그렇지 아니하면 네가 영으로 축복할 때에 무식한 처지에 있는 자가 네가 무슨

말을 하는지 알지 못하고 네 감사에 어찌 아멘 하리요

잘 보셔야 합니다.

많은 분들이 방언으로 기도를 하면 남들보다 오래, 몇 시간씩 앉아서 기도를 해도 시간이 금방 가기 때문에 기도를 많이 하기 위해 방언 기도를 한다고 합니다.

그런데 자기가 무슨 기도를 했는지는 모릅니다.

그럴 때 ‘자기가 무슨 기도를 했는지도 모르는데 그게 무슨 기도입니까?’라고 물으면 바로 이 구절을 들이대며 ‘나는 무슨 기도를 했는지 모르지만 내 영이 하나님과 직접 기도를 한 것이므로 그 기도가 진짜 기도다’라고 말씀들을 하십니다.

 

여러분, 방언이라는 것은 계시가 완성되지 않았을 때에 하나님께서 계시로 주시는 것이라 했지요? 그렇다면 그 방언은 성령이 주시는 성령의 은사지요? 그런 면에서 14절이 ‘내가 만일 방언으로 기도하면 나의 영이 기도하는 것’이라고 한 것입니다.

거기에서 ‘영’이라는 단어는 ‘프뉴마, 성령’을 지칭하는 것입니다.

계시가 완료되기 전에 성도에게서 방언이 나오는 것은 그 안에 계신 성령의 계시로 주어지는 것입니다.

그런데 그 방언인 계시가 당사자에게 이해가 되어 지지 않을 때에는 그것이 하나님이 주시는 것임에도 불구하고 그 당사자의 마음에 열매가 맺혀지지 않는다는 것입니다.

그래서 ‘방언으로 기도하면 내 안의 성령이 기도하는 것’이라고 표현을 한 것입니다.

그러나 나의 마음에는 열매가 맺히지 않습니다.

따라서 바울은 올바른 기도와 올바른 찬양에 대해 교훈을 주시는데 그것이 15절입니다.

‘성령의 이끌림에 의해 내 마음으로 기도하고, 성령의 이끌림에 의해 내 마음으로 찬양하라’

거기에서 ‘마음’이라고 번역이 된 헬라어 ‘누스’는 ‘지성, 사고’라는 뜻입니다.

그러니까 인간의 지성으로 이해되어 지지 않고 사고의 영역 밖의 것들, 즉 통역 되지 못한 방언 같은 것들은 하나님의 도구로는 쓰일지 몰라도 정작 당사자에게는 아무런 유익이 없다는 것입니다.

 

 

그래서 사도 바울이 방언보다는 예언을 하려고 하라고 강력하게 권고를 했던 것입니다.

 

(고전14:1~5)

1사랑을 따라 구하라 신령한 것을 사모하되 특별히 예언을 하려고 하라

2방언을 말하는 자는 사람에게 하지 아니하고 하나님께 하나니 이는 알아듣는 자가

없고 그 영으로 비밀을 말함 이니라

3그러나 예언하는 자는 사람에게 말하여 덕을 세우며 권면하며 안위하는 것이요

4방언을 말하는 자는 자기의 덕을 세우고 예언하는 자는 교회의 덕을 세우나니

5나는 너희가 다 방언 말하기를 원하나 특별히 예언하기를 원하노라 방언을 말하는

자가 만일 교회의 덕을 세우기 위하여 통역하지 아니하면 예언하는 자만 못하니라

여기에서 덕을 세운다는 말은 그냥 ‘유익이 되다, 건축하다, 확고히 하다’는 의미의 ‘오이코도메오’입니다.

그러니까 계시로써의 방언은 하나님의 백성에게 하나님께서 주시는 것이므로(단 그것이 진짜 계시로서의 방언이었을 때에 한하여) 방언하는 자가 스스로 확고하게 서는 것이 될 수 있지만 예언은 하나님께서 믿는 자들인 교회에게 주시는 것이므로 교회를 확고하게 하는 것이 된다는 것입니다.

그러나 사람에게 유익이 되는 것은 방언이 아니라 예언이라는 것입니다.

 

(고전14:19)

19그러나 교회에서 네가 남을 가르치기 위하여 깨달은 마음으로 다섯 마디 말을 하는

것이 일만 마디 방언으로 말하는 것보다 나으니라

이렇게 초대교회 때의 예언과 방언은 계시적 은사였습니다.

그래서 바울은 방언하는 것을 교회에서 금하지 말라고 한 것입니다.

계시가 완료가 되지 않았는데 계시로 내려오는 방언을 금하면 안 되니까요? 그런데 이제 계시가 완료되었단 말입니다.

그럼에도 그러한 구절들을 오늘날에도 똑같이 문자적으로 적용을 하여 교회에서 방언하는 것을 금하는 것은 이단이라는 식의 주장을 하는 것은 너무 무식한 짓인 것입니다.

 

 

여러분, 기적이나 방언 같은 신비한 은사가 초대 교회 때인 사도 시대 이후 완전히 사라졌던 것이 교회사에 나타나 있습니다.

그런데 언제부터 그러한 기적이나 신비한 은사가 교회에 나타났는지 아십니까? AD 4세기 때부터입니다.

그때는 기독교가 로마의 국교가 되었을 때입니다.

 

기독교가 로마에 의해 핍박을 받고 압제를 받을 때에는 기적이나 신비한 은사 같은 것이 교회에 없었습니다.

그래서 카타콤이나 갑바도기아 같은 지하 감옥에서 기독교인들이 처참하게 죽어갔던 것입니다.

기독교가 핍박을 받을 때에는 기독교가 십자가를 지고 순교의 피를 흘리며 참 복음을 전하고 있었습니다.

그런데 기독교가 핍박을 받는 자리에서 힘과 권력을 쥐고 핍박을 하는 자리에 올라가자 교회 안에 기적과 신비한 은사들이 풍성하게 나타나기 시작했다는 말입니다.

왜일까요? 힘의 원리가 참 복음을 잠식해 들어가 보이는 것이 진짜이고, 경험되어지는 것이 진리이며, 힘을 갖고 상대를 공격하는 것이 성공이며 승리라는 마귀 적 가르침을 교회에 뿌려댔기 때문입니다.

그래서 처음에 영상으로 보신 그런 무당들이 교회 안에서 버젓이 선지자 흉내를 내고 있는 것입니다.

속지 마세요.

 

혹시 이 자리에 방언을 하시는 분들이 계시면 우리가 성경을 통해 확인 한 것처럼 ‘하나님의 계시, 하나님의 십자가 복음은 이렇게 세상에게 방언일 수밖에 없는 것이고, 나에게도 심판과 저주의 방언이었었는데 어떻게 나는 그것을 예언으로 이해할 수 있게 되었는가?’감사하시고 아직도 그 복음을 방언으로 듣고 있는 세상을 긍휼의 눈으로 바라보세요. 그리고 아직 방언이라는 것을 해보지 감사신 분들도 똑같이 ‘세상은 내가 전하는 복음을 방언으로 들으며 오히려 나를 조롱하지만 하나님께서 나에게는 성령을 보내셔서 그 방언을 통역해 주고 계시니 웬 은혜인가?’하고 감사하세요.

우리 모든 성도는 다 세상에게는 방언일 뿐인 하나님의 복음을 이해하고 알아듣고 전하는 사람들입니다.

여러분이 진짜 하늘의 방언을 하시는 분들이고 여러분이 진짜 통변의 은사를 받은 분들이며 여러분이 진짜 예언을 하시는 분들입니다.

잠시 잠간 후면 오실 이가 오시리라. 회개하고 십자가를 붙들라. 이게 교회에서 외쳐져야 할 유일한 방언이며 유일한 예언입니다.

 

세상의 무당굿에 속지 마세요.

 


 

たとえ(24)

なぜ理解できないのか?(II)

 

(ルカ16:27~31)

27そこで彼は言った。「それでは、父よ、どうかラザロを私の父の家へ送ってください。

28私には兄弟が五人います。彼らに証しをして、この苦しみの場所に来ないようにさせてください。」

29アブラハムは言った。『彼らにはモーセと預言者たちがいる。彼らに聞きなさい。』

30彼は言った。『そうではありません。父アブラハムよ、もし死者の中から彼らのもとに行く者がいれば、彼らは悔い改めるでしょう。』

31アブラハムは言った。『もしモーセと預言者たちの言うことを聞かないなら、たとえ死者の中から生き返る者がいても、

勧めを受け入れないだろう。』と。

 

短い動画をお見せします。

この動画はYouTubeにアップされた、韓国の祈祷院で開かれた神癒の賜物集会の一場面です。

講師が異言を話しながら預言も与え、歩き回って病も癒すような映像です。

そして集会中ずっと「喜び、Joy」と叫び続けます。

皆さんには、このような姿が本当に喜びに見えますか?皆さんの目には、この人たちが本当に福音を理解した人々に見えますか?

 

私たちは先週、金持ちと貧しいラザロのたとえを通して、なぜ金持ちが地獄に行かざるを得なかったのか、そして貧しいラザロがどのような理由でアブラハムの懐に抱かれることができたのかについて考察しました。

 

金持ちは自分自身に対する可能性と期待を最後まで諦めきれず、神の恵みの必然性を認められないまま地獄へ行くことになったのであり、 貧しいラザロは彼の行いとは関係なく、神の助け、すなわち神の恵みによってアブラハムの懐に抱かれることができたとしましたね?

私たちはそのような金持ちとラザロのたとえを通して、「私たちも天国に行くために貧しいラザロのように生きよう」という扇動的な結論を導き出すことはできないと述べました。

聖徒は乞食ラザロのように生きて天国に行くのではなく、最後まで金持ちとして生きたいという自らの姿を恵みで覆ってくださる神の恵みを受け、まさに面目が立たない乞食のように天国に入ることを学ばねばなりません。

 

そのような天国の乞食たちは、この世で自分たちの呪われるべき金持ち志向性を次々と露見させられ、暴かれながら、この世の虚ろさと空虚さを悟らされるのです。そして神の鉄槌によって、この世の力を一つ一つ剥ぎ取られる人生を歩むことになります。

そうしてついに、イエス・キリストの十字架の恵みなしには自らの存在そのものが蜃気楼に過ぎず、そのような蜃気楼たちが永遠に自らの蜃気楼であることを認められず、自分たちだけのために生きる、固定された地上の世界を地獄と呼ぶことを知るのです。

彼は乞食です。

一方、依然として人間の可能性を否定できず、神の栄光ではなく人間の栄光のために生き、神の恵みの必然性に全く同意できず、目に見える世界とその世界の力に依存し、死んでも自分のものだけを守る者たちを富者と呼ぶのです。

 

 

今日の本文を見ると、地獄にいる富者が天国のアブラハムに願い事をする場面が出てきます。

自分はこうして地獄に来ているが、自分の兄弟たちは絶対にこの地獄に来るべきではないので、ラザロを生き返らせて彼らに伝道させてほしいと頼みます。

しかしアブラハムは、モーセと預言者が彼らにいるので、彼らがモーセと預言者を通して救いを得る機会があると言います。

しかし彼らがモーセと預言者の言うことを聞かなければ、死んだラザロが生き返って下って行っても、彼らは絶対に天国に来ることはできないのです。

では、アブラハムが言ったモーセと預言者とは、いったい何を指しているのでしょうか?

(ルカ24:27)

27そこで、モーセとすべての預言者の書から始めて、聖書全体に記されているご自身に関することを

詳しく説明された。

エマオの村へ下って行く二人の弟子がイエス様を見分けられなかったとき、イエス様がモーセと預言者の書について詳しく説明してくださったとあります。

しかし、そのモーセと預言者たちは全て「ご自身について」、すなわちイエス・キリストについてのみ記していたのです。

つまり、アブラハムが言うモーセと預言者とは、旧約聖書を含む神の見えない啓示を指すのです。

 

すなわち、神の恵みを受け、神の啓示を理解する耳を得なければ、どんな目に見える奇跡や行いが与えられても、決して天国に入ることができないということです。

 

それゆえ今日の本文では、モーセと預言者という見えない啓示の言葉と、死んだラザロの帰還という見える奇跡が対比されているのです。

世の富める者たちは奇跡を求めますが、神は恵みによって救われるのです。

平たく言えば、神の啓示はただ神の恵みによってのみ与えられ、理解されるということです。

しかし、その神の啓示が目に見える世俗的な方法論によって伝えられるという、そのような人間中心主義的思考こそが、地獄に行く富者の思考なのです。

それは人間の理性と経験と思索の範囲内で真理が理解され、受け入れられるかもしれないという、呪われるべき人間中心の思考なのです。

 

 

悪魔はまさにそのような堕落した罪人たちのユダヤ主義的であり人間中心的な発想を非常に効果的に利用して教会を混乱させます。

 

(Ⅱテサロニケ2:9~12)

9悪しき者の到来は、サタンの働きに従い、あらゆる力と徴と偽りの奇跡と

10不義のあらゆる欺きをもって滅びる者たちの上に臨む。彼らは真理の愛を受け入れず、救いを得られなかったからである。

11それゆえ、神は彼らの中に惑わす力を働かせ、偽りを信じるようにさせられる。

12それは、真理を信じず、不義を愛するすべての者が裁きを受けるためである。

11節には「ピストゥオ(信仰)」という言葉が出てきます。

しかし、それは偽りを信じる信仰です。

その偽りを信じる信仰、偽りの信仰は悪しき者、サタンの策略であり、その偽りを信じる信仰がどのように与えられるかと言えば、力と徴と奇跡と不義の欺きによってもたらされるのです。

恐ろしいのは、その偽りのものを信じる信仰が神によって許されるということです。

なぜですか?真理を信じず、不義を好むすべての者を裁きに遭わせるためです。つまり、神が呪いの裁きによって永遠に滅ぼす者たちは、奇跡と力としるしに従うようにされるというのです。

マタイの福音書7章で「なぜ私たちを知らないと言うのですか?」と抗議した者たちのようにです。

 

 

12節を見ると、そのように裁きを受ける者たちは奇跡を追い求め、真理を信じないとあります。では、真理を信じるということは何を意味するのでしょうか。イエス様が「わたしが道であり、真理であり、命である」と語られましたね。したがって、真理を信じるということは、すべてがイエス・キリストの十字架の恵みによって与えられ、進行し、完成されるという、イエス・キリストの十字架の福音を信じることです。

ご存知のように、十字架の福音は、人間側の可能性や業績、功績、そして目に見える体験や経験、証拠を重視する力の原理における世俗的な基準を否定するものです。

それがまさに地獄に行く富者の世界であり、富者の方法論だからです。

それゆえ、主は弟子たちに、目に見える奇跡や異事が起こる場所には行かないよう、繰り返し強く戒められたのです。

 

(マルコ13:21~23)

21そのとき、だれかが『見よ、キリストがここにいる』とか『あそこにいる』と言っても、信じてはならない。

22偽キリストや偽預言者たちが現れて、しるしや不思議を行って、もしできるなら、選ばれた人々をも惑わそうとするからである。

23あなたがたは用心しなさい。わたしは、あらかじめ、すべてのことをあなたがたに話しておいたからである。

終わりの時には、偽キリストや偽預言者たちが礼拝堂までも占拠し、しるしや不思議を行って、選ばれた民までも惑わそうとするだろうということです。

ですから、そのような場所や人間には用心しなさいということです。

 

 

今日のキリスト教の最大の問題は、キリスト教そのものが宗教とキリスト教の違いを知らないことです。

キリスト教は宗教ではありません。

宗教とは、善悪の知識の実を食べた欲望に駆られた罪人たちが作り出した、極めて狡猾で利己的な世俗的な生き方の方法論に過ぎないのです。

 

すべての被造物は、神の御心に従順な生活を送るように造られました。

そうして唯一の神によって統治され、その統治に従順な者たちとの関係の中に、神の国が臨むのです。

 

しかし、唯一人間だけが神の言葉に従えず、善悪の知識の実という禁断の果実を摘み取って食べてしまったのです。

そして自らたちの価値基準と世界観によって、あらゆる善悪の判断を下す支配者となってしまったのです。

 

人間の歴史を一度見てください。人間の歴史は、まるで欲望に駆られた人間たちの貪欲な排泄物のように見えます。

神は他の被造物と人間の違いを歴史の中で極めて明確に示されます。

自然は神の御心に常に順応してきました。

神が雨を与えれば雨を受け、実を結びます。

一方、神が干ばつを与えればその御心に順応して枯れ死に、渇き死にます。

 

唯一人間だけが洪水を避けようと堤防を築き、船を作り、干ばつに打ち勝とうと貯水池を作り、祈雨祭を行います。

そうして誰にも負けるまいと、欲望に駆られた人間たちが文明を作り、その文明を金で売りさばきながら、それがまさに進化し進歩する人生と歴史だと主張している現場がこの世なのです。

つまり全ての人間は、欲望に駆られた人間集団が生み出した文明を生きるために、このように苦しんでいるのです。

洗濯機、テレビ、携帯電話、自動車、こうしたものがなかった時代はどう生きていたのでしょう?しかし誰かがそれらを作り出し「これを持って享受してこそ文明人だ」と言うから、皆がそうした文明を買うために人生を全て賭けて生きているのです。

 

そうして現実よりも優れた未来を夢見ながら「なりたい自分」への執着と追求を、聖書は貪欲と呼び、その貪欲こそが偶像崇拝であると正確に指摘しています。

そうして「私」に対する偶像崇拝をしている者たちを、この世の富者と呼ぶのです。彼らは自らの「なりたい未来」に対する不安と恐怖、無力感への代替案として、自分よりはるかに力強い存在である神を見出します。

世の富者たちは神に対する宗教儀式を行い、その神に供物や献金を捧げながら、絶えずその神を慰めます。

それを祈祷とも呼びます。

そうして神の保護と「なりたい自分」の達成への助けを求めるのです。

それでも自分が望むほどの達成が与えられない時、人間は宗教行為の強度をさらに高めたり、神に捧げる供物と献金の量と質をさらに高めます。

これを宗教と言います。

 

 

よく考えてみてください。宗教の中心には常に誰がいるのでしょうか?「私」でしょうか?「神」でしょうか?神をなだめて自分が望むものを得ようとするのは、神に仕えることではなく、神をなだめて得ようとするその行為に仕えているのです。

 

その点において、世の宗教者たちの神は単なるおもちゃに過ぎません。

おもちゃは「私」という存在の満足のために存在するものです。

この世の誰も、おもちゃを崇拝の対象や服従の対象とは考えません。

そのおもちゃがもはや私の満足を満たせなくなった時、私たちはいつでもそのおもちゃを捨てる準備ができています。

だからこそ、フォイエルバッハが「神は人間の欲望の投影である」と言ったことは、一見正しい見解のように思えます。

人間は神を自分たちが望む通りに絶えず操作し続けるというのです。

つまり今日でも神は進化し変化し続けているというわけです。それが過程神学へとつながった異端思想です。

 

 

イスラエルの民が、そうした自らの宗教性を露呈したことがありましたね?イスラエルが自分たちを救ってくださった神の名を呼び、その方を仕えていると頑なに主張していた時、神は「ではお前たちが仕えているという神という存在を、像として作ってみよ」と機会を与えられたのです。

その時、彼らは何を作ったでしょうか?エジプトとカナンの豊穣の神であった金の子牛を作りました。

それがキリスト教を単なる世の宗教と知り、信じている偽りの教会の実態なのです。

結局、信仰と礼拝の中心が自分自身なのです。

 

神はそうした人間の宗教性、言い換えれば富志向性を剣で打ち砕かれます。

 

神はその場でイスラエル民3,000人を神の剣で屠り尽くします。

出エジプト記に進み、その金の子牛事件に現れた富者の姿と、その富者たちに向けた神の怒りがどれほど恐ろしいものか確認してみましょう。

 

(出32:1-4)

1民は、モーセが山から降りて来るのが遅いことを見て、集まってアロンに言った。「さあ、私たちを導く神を私たちのために造りなさい。このモーセ、すなわち私たちをエジプトの地から導き出した人は、どうなったのかわからない。」

2アロンは彼らに言った。「あなたがたの妻や子たちの耳にある金の輪を外して、私のところに持って来なさい。」

2アロンは彼らに言った。「あなたがたの妻や子らの耳から金の耳輪を外して、わたしのもとに持って来なさい。」

3民は皆、耳から金の耳輪を外してアロンのもとに持って来た。

4アロンは彼らの手からそれを受け取り、鋳物に注いで鋳型で形作り、子牛の像を作った。

彼らは言った。「イスラエルよ、これがあなたたちをエジプトの地から導き出したあなたたちの神である。」

と言うのであった。

見てください。イスラエルの民が言う言葉の中の主人公は誰ですか?「私たち」です。

まさに「私」なのです。

私たちのために、私たちを導く神を作り、私たちの利益を求めることが宗教であり、その宗教の主人公は神でも巫女でもなく、まさに「私」なのです。

これがまさに偶像崇拝であり罪です。

その時、神があの世の富める者たちにどのような罰を下されるか見てください。

(出エジプト記32:26-28)

26モーセは陣営の門に立ち、言った。「主の側に立つ者は、みなわたしのもとに来なさい。」すると、レビの子孫たちがみな集まって、彼のもとに来た。

27モーセは彼らに言った。「イスラエルの神、主はこう言われる。『あなたがたは、それぞれ腰に剣を帯び、陣営のこの門からあの門まで行き来し、だれでもその兄弟を、

だれでもその友を、だれでもその隣人を殺せ。』」

28レビの子らはモーセの言葉どおりに行い、この日、民のうち三千人ほどが殺された。

神の怒りによって三千人が殺戮された。

この時が、イスラエルが過越の奇跡によってエジプトを出た後、50日目にあたる日である。

過越祭から50日目となる日を、イスラエルの祭日では何と呼びますか?五旬節(ペンテコステ)と呼びます。

つまり旧約聖書における最初の五旬節には、神の民と呼ばれる者たちが、自らの罪に対する神の怒りによって三千人が殺戮されたのです。

 

 

しかしこの出来事の中に、モーセという仲介者の型が現れます。

神がモーセに、自分たちのために金の子牛という偶像を作って仕えていたイスラエルを皆殺しにすると告げられた時、モーセがその神の怒りを遮ったのです。

 

(出エジプト記32:11~14)

11モーセは神、主に向かって嘆願して言った。「主よ、どうして、その大いなる力と強き

御手をもってエジプトの地から導き出されたあなたの民に怒りを燃やされるのですか。

12どうしてエジプト人に『主は災いを下そうとして、その民を山で滅ぼし

地から根絶やしにしようと導き出したのだ』と言わせようというのですか。どうか激しい怒りを

収め、思い直して、あなたの民にこの災いを下さないでください。

13あなたのしもべアブラハムとイサクとイスラエルを覚えてください。あなたは彼らに誓い、こう言われました。

『あなたたちの子孫を天の星のように多くし、私が与えたこの全地をあなたたちの子孫に与え、永遠の所有地とする』と。

14主は思い直され、民に下そうとしておられた災いを下されなかった。

神の怒りを遮ったモーセは神の契約を掲げ、民の側に立ちます。

その時、神は心を改められたと言いますね?このような表現は、神人同形論的表現と呼ばれるヘブライ文学の技法です。

神が後悔された、心を改められたといった表現は、実は神の全知全能という属性に合わない表現です。

それにもかかわらず、このような表現を用いて神の心がどうであったかを伝えようとし、あたかも神が人間の感情をお持ちであるかのように表現するのです。

 

ですから、上記の節で神が御心を変えられたということを、文字通り「神はイスラエルを皆殺しにしようとしたが、モーセが止めたため、しぶしぶ我慢された」といったように理解してはいけません。

もともと神の御心はイスラエルを皆殺しにすることではありませんでした。

それにもかかわらず、御心を変えられたかのように記されているのは、この世の富める者たちに対する神の怒りがどれほど大きいかを強調して表現しているのです。

重要なのは、その思い直しの過程に執り成す者の介入があったということです。

これがまさにイエス・キリストという真の執り成す者の役割を示唆しているのです。

ではなぜ三千人が死んだのか?そのように罪によって死んだ三千人が神の恵みによって生き返る場面が新約聖書に出てきます。

 

(使徒2:38~41)

38ペテロは言った。「あなたがたは悔い改め、それぞれイエス・キリストの名によってバプテスマを受け、

罪の赦しを受けなさい。そうすれば、聖霊が賜物として与えられる。

39この約束は、あなたがたと、あなたがたの子孫と、遠くのすべての者、すなわち、主なる私たちの神が、

呼び集められるすべての人々に与えられるものである。」

40また、多くの言葉をもって証しし、勧めて言った。「この背信の世代から救われなさい。」

41その言葉を聞いた人々は洗礼を受け、その日、弟子が三千人ほど増えた。

やはりこの日も五旬節の日です。

天の神であるイエス・キリストが、今なお自分を偶像として生きているこの世の富める者たちに 『お前たちは、自分たちを偶像として生きている、金の牛を作った罪人だ。悔い改めよ』と福音を宣べ伝えると、この世全体が合意してそのイエスを殺害してしまったのです。

ですから、荒野におけるイスラエルの金の牛の事件は、神殺しの事件だったのです。

それゆえ神はかくも激怒されたのです。

神の名を呼びながら実のところ自らを崇拝している狡猾な人間たちが、神殺しの事件の主犯だからです。

それゆえヨハネはこの世全体を、イエスが十字架に釘付けにされた場所と表現します。

 

(黙11:8)

8彼らの死体は、大いなる都の大通りに置かれる。その都は霊的に言えばソドムでもあり

エジプトでもあり、すなわち彼らの主が十字架につけられた場所である。

つまり聖書はこの世全体を神殺しの犯人と規定しているのです。

ところが、そのように自らの栄光と価値と富と力のために神を殺害したその現場で、実に理解しがたいことが起こったのです。

世界に殺されるその神が、自らを殺している彼らの罪をすべて吸い取られたのです。

そして彼らの罪と共に死んでしまわれました。

そして自らを殺した彼らを生き返らせてしまわれたのです。

それが十字架です。

 

 

再び使徒行伝第2章に戻ります。

ペテロが新約聖書の最初の五旬節に、まさにそのイエス・キリストの十字架の福音について説教しました。

するとその福音を理解する者たちが現れ、その数は三千人でした。

 

つまり、このような図式です。

旧約の五旬節には神の律法によって屠られる罪人たち三千が登場し、新約の五旬節にはそうして罪人として死んだ、そして永遠に死なねばならなかった者たちのために命を捧げたイエスによって生き返る義人たち三千が登場するのです。

神の怒りによって死なねばならなかった富者たちが、神の助けによって天国の「ラザロ(神が助けた者)」となるのです。

 

しかし41節を見ると、そうして生き返った新約の三千人が「言葉を受け」て救われたとあります。

そこでの「言葉」が「ロゴス」です。

その「ロゴス」という言葉は、ヨハネ福音書1章で「言葉として来られたイエス」を描写する際に用いられた言葉です。

つまり、神の言葉がイエスであり、イエスが神の言葉のすべての内容なのです。

そのイエスを全世界が合意して殺したのに、恵みの聖霊が来られると、その殺されたイエスを、言葉を受け入れる人々が現れたというのです。

 

ですから「言葉を受け入れる、福音を理解する」とは、神の恵みによって「イエス・キリストを受け入れる、イエス・キリストの十字架を理解する」という言葉と同じ意味なのです。

このように救いと棄てられることは、ただみ言葉によってのみ分けられ、判断されるのです。

 

 

それゆえ、まさにこの使徒言行録に出てくる新約の五旬節に、分かれていた言葉が一つに統合され、すべての人々に理解されるという出来事が現れるのです。

歴史を通じて受け入れられなかった神の言葉が、ある少数の人々に受け入れられるという歴史が起きたのです。

ペテロの説教を聞いて死んでいた神殺し者三千人が生き返る事件があったまさにその日、マルコの屋上で弟子たちに異言が注がれたのです。

 

(使徒2:1~11)

1五旬節の日が来たとき、彼らはみな一箇所に集まっていた。

2すると突然、天から激しい風が吹くような音がして、彼らが座っていた家全体を満たした。

3火の舌のようなものが分かれて見えた。それが一人一人の上に留まった。

4彼らはみな聖霊に満たされ、聖霊が語らせたままに、異言で話し始めた。

5その頃、敬虔なユダヤ人が世界中からエルサレムに集まっていた。

6この音を聞いて大勢の群衆が集まり、それぞれ自分の母国語で弟子たちが話すのを聞いた。

彼らは驚き

7皆驚き、不思議に思いながら言った。「見よ、この人たちは皆、ガリラヤの人ではないか。

8どうして、私たち一人ひとりの生まれ故郷の方言で聞くことができるのか。」

9私たちは、パテシヤ人、メディア人、エラム人、またメソポタミア、ユダヤ、カッパドキア、ポンテ、

アジア、

10プルーギアとパンフィリア、エジプトとクレネに属するリビアの地方、ローマから来た旅人たち、ユダヤ人とユダヤ教に改宗した者たち、

11クレタ人とアラビア人である。私たちは皆、それぞれの母国語で『神の偉大な御業』が語られているのを聞いているのだ」と言った。

弟子たちに聖霊が臨むと、弟子たちは他の言語で話し始めた。

これがtongueとしての異言なのかforeign languageとしての異言なのかを区別することは、さほど重要な問題ではありません。

ペンテコステの日に奇妙な言葉が現れたということが重要なのです。

そして少なくとも十五カ国から来たディアスポラたちが、その弟子たちの異言を「一つ」として理解したという点が重要なのです。

そして何よりも重要なのは、その弟子たちの異言が「神の偉大な御業」に関するものだったということです。

 

つまり、神の偉大な業、すなわち神の恵みの救いに関する話が、これまで世の人々には異国の異言として聞こえていたのです。

ところが、イエス・キリストの十字架と復活、そして昇天によって聖霊が臨まれると、それらの異なる異言が、彼らが理解できる言葉へと一つになったというのです。

こうして神の偉大な業が、理解できなかった異言から理解できる言葉へと変わったことで、救いが起こったというのです。

金持ちがラザロになる奇跡が起こったのです。

ですからキリスト教の異言は、ただ神の偉大な御業、すなわちイエス・キリストの十字架の福音に関する内容でなければならないのです。

ところで、そのような異言が理解できる言葉になるという奇跡が聖霊降臨によって成就されたということは、天からの啓示である福音が罪人たちに聞かれるためには、神の恵みの介入がなければならなかったことを示しているのです。

 

 

では、この異言というものがこの世に生じた原因は何でしょうか。創世記のバベルの塔の出来事です。

 

(創世記11:1-9)

1全地の言葉は一つで、言語も一つであった。

2彼らが東へ移り住み、シナルの平野にたどり着いてそこに住んだとき

3互いに言った。「さあ、煉瓦を作ってしっかり焼き上げよう」。こうして煉瓦を石の代わりに

アスファルトを土の代わりに用いた。

4また言った。「さあ、城と塔を築き、その頂を天に届かせよう。我々の名を上げ、全

地の上に散らされることを避けよう」と言った。

5主は、人の子らが築く町と塔を見ようと、降って来られた。

6主は言われた。「この民は一つの氏族であり、言語も一つである。彼らはこのように始めたのだから、今後、彼らの企てることを禁じることはできないだろう。

7「さあ、我々は下って行って、そこで彼らの言葉を混乱させ、互いに理解し合えないようにしよう」と言われた。

8主はそこで彼らを全地に散らされたので、彼らは城壁の建設をやめた。

9それゆえ、その名をバベルと呼んだ。主がそこで全地の言葉を混乱させられたからである。主はそこで彼らを全地に散らされた。

神は絶対的に依存すべき存在であり、神の恵みによってのみ生きるべき人間たちが、自らの力と知恵と努力で天に届こうとし、自らの名を全世界に知らしめようとしたのである。

神に絶対的に依存する存在として、神の恵みによってのみ生きるべき人間たちが、自らの力と知恵と努力で天に届こうとし、自らの名を全世界に知らしめようとした。

それは何でしょうか。自己崇拝、偶像崇拝、世の富める者たちの生き方です。

神はそのような偶像崇拝に怒りを発し、罪人たちの言葉をそれぞれ異なる方言に変えてしまったのです。

つまり、理解できない方言というものの第一義的な意味は、神の怒りと裁きなのです。

そのような人間の傲慢に対する神の怒りと方言の話は、イザヤ書でより明確に説明されています。

 

(イザヤ28:1~13)

1酔いしれる者よ、エフライムの傲慢な冠よ、災いだ。酒に溺れる者の町よ、

栄光の冠のように肥えた谷の頂に築かれた町よ、枯れゆく花のように、

災いだ。

2見よ、主にある強き力ある者が、打ち下ろす雹のように、破壊する暴風のように、

大水の氾濫のように、その手でその冠を地に投げ捨てる。

3エフライムの酔いどれの驕りの冠は、足で踏みにじられる。

4その肥えた谷の頂にある栄光の枯れゆく花は、夏前に熟した

いちじくのようだ。見る者はそれを見て、すぐに摘み取って食べるであろう。

5その日、万軍の主は、その残された民にとって栄光の冠となり、美しい

花冠となられる。

6裁きの座に着く者には裁きの神となり、城門で争いを制する者には力となられる。しかし

7このユダの民も、ぶどう酒にふらつき、強い酒によろめく。祭司も預言者も、強い酒によろめき、ぶどう酒にふらつき、強い酒によろめく。

彼らは幻を誤って解き、裁きに誤りを犯す。

8すべての食卓は吐瀉物と汚れたもので満ち、清い所はない。

9彼らは言う。「彼は誰に知識を教え、誰に道を示して悟らせるのか。乳離れした子らに言うのか」

10見よ、彼らは戒めに戒めを重ね、戒めに戒めを重ね、教えに教えを重ね、教えに教えを重ねる。しかし、ここでも少し、あそこでも少し、と彼らは言うのだ。

10見よ、戒めに戒めを加え、戒めに戒めを加え、教えに教えを加え、教えに

教えを加えるが、ここでも少し、あそこでも少しというのだ。

11それゆえ、この民には、聞き慣れない口と異国の言葉をもって語られるであろう。

12かつて彼らに言われた、「これがあなたの安息、これがあなたの安らぎである。疲れた者に安息を与えよ」と。しかし彼らは聞き入れなかった。

13主は彼らに言われた、「戒めに戒めを加え、戒めに戒めを重ね、教えに教えを加え、教えに教えを重ね、ここでも少し、

あちらでも少し」と仰せになり、彼らを

歩みながら後ろに倒れ、折れ、つまずき、捕らえられるようになさるであろう。

エフライム、すなわち北イスラエルの傲慢が極みに達した時、神は彼らに怒りを示される。

神がそれほど高慢になったご自身の民を打たれるのに、誰を動員されるかと言えば、見知らぬ口と異国の言葉を持つアッシリアを用いて打たれるのです。

ところで興味深いのは、異国の言葉を持つアッシリアがイスラエルを打つことになった理由が、イスラエルの言葉にあるということです。

10節を見ると、預言者を通してイスラエルに神の言葉が下ると、イスラエルは預言者に「ああ、戒めに戒めを加え、戒めに戒めを加え、教えに教えを加え、教えに教えを加えるが、ここでも少し、あそこでも少しだ」と言ったとあります。

これは「チャブ・ラチャブ、チャブ・ラチャブ、カブ・ラカブ、 カブ・ラカブ、ジェール・シャム、ジェール・シャム」という言葉は、特に意味のある言葉ではなく、酒に酔って喚き散らす戯言、あるいは幼児に歩みを教える時に発する無意味な音、誰かを嘲笑したり挑発したりする時に発する音です。

平たく言えば、異言です。

そのことでイスラエルは裁きを受けるのです。

 

 

つまりこういうことです。

傲慢を冠のようにかぶっていた背信的なイスラエルに、神が預言者を通して神の道を伝えたところ、イスラエルはその声をまるで異言のように理解できず、「エレレ・カッコン、シュラ・シュラ」と嘲笑したというのです。

神は神の道を異言のように扱う背信的な罪人たちに対して、アッシリアという異言を送って打ちのめした後、彼らに神の道を異言で「チャブ・ラチャブ、チャブ・ラチャブ、カブ・ラカブ、カブ・ラカブ、ジェール・シャム、ジェール・シャム」と聞こえさせるとおっしゃっているのです。

つまり、神の怒りと裁きは、福音を、神の啓示を異言で聞かせるようにしてしまうのです。

創世記のエデンの園で、いのちの木を遮られた神の姿と同じ姿です。

13節を見ると、そのように福音を異言で聞く者たちはどうなるでしょうか?後ろに倒れて折れ、つまずき、捕らえられるのです。

16節を見ると、なぜ彼らが後ろに倒れるのかが記されています。

 

(イザヤ28:16)

16それゆえ、主なる神はこう言われる。「見よ、わたしはシオンに一つの石を据え、礎とした。それは試みられた石、尊く堅固な礎石である。これを信じる者は、決してつまずくことはない

。」

神がシオンに一つの石を据えられるが、その石を見分けられない者たちは、その石につまずいて倒れるというのです。

つまり、イエス・キリストの十字架の恵みを理解できない者たちにとって、イエスそのものが「シャーラ・シャーラ」という異言となるのです。

そして彼らはイエスにつまずいて倒れ、のろいの裁きを受ける者たちとなるのです。

このイザヤ書の話をパウロがローマ書でこのように引用して書いています。

 

(ローマ9:29~33)

29またイザヤがあらかじめ言ったとおり、「もし万軍の主が私たちに子孫を残してくださらなかったなら

私たちはソドムのように、ゴモラのようにあったであろう」と言っているとおりです。

30では、私たちは何を言おうか。義を追い求めなかった異邦人が義を得た。すなわち

信仰から来る義である。

31義の律法に従って歩んだイスラエルは律法に至らなかった。

32どうしてそうなったのか。彼らは信仰によらず、行いによったからである。彼らはつまずきの石に

つまずいたのである。

33「見よ、わたしはつまずきの石、妨げの岩をシオンに置く。これを信じる者は

恥をかくことはない」と書いてあるとおりである。

よく見ると、パウロが今、信仰による神の義に従わず、行いによる律法に従っているユダヤ主義者たちに対して警告している場面です。

富みですね?彼らにとって、イエス・キリストの十字架の恵みは、つまずきの石、すなわち異言となるというのです。

引き続き、目に見える人間の行いと目に見えない恵みが衝突しているのです。

 

 

ですから、キリスト教徒にとって異言とは、人間の罪深さを反芻させるものであると同時に、神の啓示は神が知らせてくださらなければ、罪人である人間の知恵や努力では決して理解できないという、啓示の恵み性、すなわち裁きと恵みの両面を示すものです。

 

 

そうしてバベルの塔で始まった神の呪いと裁きの異言が、イエス・キリストの十字架の恵みによって新約の五旬節の日に一つに開かれ、神の恵みの中にある者たちに神の道が理解されるようになり、彼らが生き返って来たのです。

 

したがって、マルコの屋上の部屋における教会初の異言は、イエス・キリストの十字架の福音の必然性を啓示する啓示的出来事であり、啓示的賜物であったのです。

 

 

しかし冒頭でお話ししたように、悪魔は恵みとは全く関係なく、目に見え経験されて初めて自分のものとできるという律法主義と人間主義を巧妙に刺激し、その異言の意味を歪めてしまったのです。

 

それがコリント教会の問題でした。

コリント教会は、皆様がご存知のようにユダヤの地にある教会ではなく、ギリシャの有名な都市コリントに建てられた教会です。

したがってコリント教会は、ごく自然に密教と呼ばれるギリシャの神秘宗教とギリシャ哲学、そしてギリシャの堕落した道徳性の影響を強く受けていました。

特にギリシャの神秘宗教の影響で、神秘的な体験や奇跡などが教会内で常に争いの種となっていました。

特に異言と預言、そして癒し(病の治癒)などの特異な現象が、信徒たちの間で霊性の高低を分ける特別なものとなっていました。

 

パウロは、そのようなコリント教会に「賜物」というものが何であるかをよく教えています。

神が聖徒に賜物を与えられるのは、イエス・キリストが主であることを知らせる助けとなる贈り物の次元で与えられるものだというのです。

使徒パウロはそれを霊的なものと呼びます。

 

(コリント人への手紙第一 12:1~7)

1兄弟たちよ、霊的なことについて、あなたがたが知らないままでいることを私は望みません。

2あなたがたも知っているとおり、あなたがたが異邦人であったとき、言葉のない偶像に引かれるままに

引かれて行ったのです。

3ですから、あなたがたに知らせます。神の霊によって語る者はだれも、イエスをのろうとは言わず、また、聖霊によらない者はだれも、イエスを主と言えないのです。

4賜物はいろいろでも、御霊は同じです。5働きはいろいろでも、主は同じです。

4賜物は様々でも、聖霊は同じであり

5働きは様々でも、主は同じであり

6また、働きは様々でも、すべての人の中ですべてのことを働かせられる神は同じです。

7聖霊の現れを各人に与えられるのは、益となるためです。

使徒パウロは、聖霊が与える賜物が聖徒に霊的なことを知らせるために与えられたものであると述べ、賜物の話を持ち出します。

しかし、その霊的なことを知るということが何であるかは3節に出てきますが、「イエスを呪う者と言わず、十字架で死んだイエスが主である」ということを認めることが霊的なことを知ることだと言います。

そして、その霊的なことを知らせるために与えられたものが聖霊の賜物であるということです。

7節を見ると、聖霊の賜物が「益となるように」と書かれていますね?ここで「益」とは正確に訳せば「共同の益」です。

ここで「共同」とは、イエスを頭とする教会全体を指します。

つまり賜物とは、ある個人に私物化され、その個人の能力を示すために与えられるものではなく、教会がイエス・キリストの主権とイエス・キリストの十字架の必然性を悟るために与えられた、神の一時的な贈り物なのです。

なぜなら、この世のすべての富める者たちは、十字架で弱く死んでしまったイエスのような生き方を敗北と失敗と見なしているからです。

では、どうしてその十字架にかけられた方を王として、主として仕えることができるでしょうか?

したがって、教会に与えられたすべての賜物は、イエス様の主権と人間の不可能性と無力さ、そして恵みの必然性を理解するために必要なものでなければならず、誰かに私物化されてその人の能力を誇示するものであってはなりません。

ところがコリント教会では、異言を語り、預言し、病を癒す者たちが、自らの賜物を誇りとし、教会の体としての結束に貢献するどころか、教会を分裂させていました。

使徒パウロは、そのような賜物がイエス・キリストの愛の中にある者たちから出る真の賜物でない場合、それがどれほど不思議に見え、霊的に見えても、すべて偽物であることをコリントの信徒への手紙一13章で詳しく述べています。

 

(コリントの信徒への手紙一13:1~3)

1たとえ人語や天使の言葉を話せても、愛がなければ、鳴る銅鑼や鳴る鉦に過ぎません。

2たとえ預言する力があり、あらゆる秘密や知識を知り、山をも動かすほどの信仰があっても、愛がなければ、私は何ものでもありません。

3たとえ持っているすべてのものを施し、自分の体を焼かれるほど捧げても、愛がなければ、私に何の益もありません。

3たとえ持っているすべてのものを施し、自分の体を焼かれるほど捧げても、愛がなければ、私に何の益もありません。

見てください。天使の言葉を話し異言を語るとしても、それがイエス様の愛を受けた者から出るものでなければ、鳴る銅や響く鉦と少しも変わらないのです。

たとえ預言する力があり、すべての秘密と知識を知り、山を移すほどの信仰を持っているように見える人であっても、それがイエス様の愛の中に入っていない人が行うものである時には、何ものでもないのです。

nothingという言葉です。

たとえ自分の持ち物をすべて売り払って救済し、自分の体を焼き尽くして捧げ、隣人のために犠牲を払うとしても、イエス様の愛の中にある者が行ったものでないなら、それは無駄死にだと言うのです。

これは一体何でしょうか?そのすべてが、金持ちたちの自己顕示に過ぎないということです。

 

 

ここで使徒パウロが特に預言と異言について言及しているのは、コリント教会の多くの問題の中でも、特に預言と異言の問題が非常に深刻だったからです。

 

少し前に私たちが考察した通り、異言とはこの世が理解できない神の福音、神の啓示を象徴するものであり、その異言である神の言葉がこの世に下った時、それを理解できない者たちがまさに裁きに該当することを示す啓示的な賜物でした。

 

預言も同様です。

異言が裁きと呪いをその内容として含んでいるため、通訳がなければ絶対に理解できないものであったのに対し、預言とは神から発せられ、神によって実行され、神によって完成される神の契約に関する言葉を預言と呼ぶのです。

 

(ローマ11:36)

36万物は主から出て、主によって成り、主のもとへ帰る。栄光は彼にある。

世々限りなく。アーメン

このように神の恵みによって、すべての世の万事、万物の道理を主を中心とした契約の成就によって解き明かすことを預言というのです。

例を一つ挙げましょう。

(ダニエル9:1-2)

1メディア族のアハシュエロスの子ダリヨがカルデアの国の王として立てられたその元年

2すなわちその治世の元年、わたしダニエルは書物によって、主の言葉が預言者

エレミヤに臨んで告げられた年数を悟った。すなわちエルサレムの荒廃が七十年

で終わるという御言葉である。

ダニエルがバビロンのネブカドネツァル王の夢を解き明かし、ベルシャザル王の宴席に現れた神の手が壁に記した「メネ、メネ、テケル、ウーバルシン」の意味などを解釈したのは、すべて神がイスラエルをはじめとする世界の歴史をいかに導かれるか、そしてその歴史の過程を通して何を教えようとされるかに関するものでした。

預言とは、このように神から出て、神によって実行され、完了される神の御業に関するものです。

さて、今お読みになったダニエル書9章を見ると、ダニエルがエレミヤの書を読んでいるうちに、神が預言者エレミヤに臨んで告げられたこの世の歴史70の週に関することを悟るでしょう?そして70の週について説明しますが、そのようなものがまさに預言なのです。

 

 

したがって、聖書的な預言とは、神の啓示された御言葉が神によって成就され、完了されるものであるとき、初めて預言なのです。

ですから預言は必ず成就されなければなりません。

つまり、最近よく教会の礼拝堂で預言だと言ってべらべら語る多くの牧師たちの預言は、それが神の御言葉、すなわち十字架の福音に関するものでなければ、すべて偽物なのです。

たまに当たってはいけません。

預言は必ず成就されなければなりません。

神の御心だからです。「あなたは神が金をたくさん稼がせて大きな器として用いる」だとか、「今年中に三度の機会が与えられるが、その機会を逃さず掴め」だとか、「今年中にあなたの配偶者が現れるが、その配偶者の姓はペ氏だ」といったものは預言ではありません。

単なる巫女の戯れに過ぎません。

その中心には全て「人間」が位置しています。

ある牧師は突然聖霊が臨んでそのような能力が生まれたと吹聴していますが、それが降神巫(こうしんむ)というものです。

神が降臨して巫女になったもの。巫女の世界では学習巫より少し強い巫女です。ところがその降神巫たちが礼拝堂の中に入り込んでしまったのです。

 

 

いずれにせよ異言であれ預言であれ、初代教会時代に与えられたそのような賜物は全てイエス・キリストに関する神の啓示でした。

なぜなら初代教会時代はまだ正典が完成していなかったため、何らかの形で教会に啓示が下らねばならなかったからです。

 

神は預言を通して教会に御自身の啓示を伝え、異言を通して啓示の恵みの性質を知らせながら、その異言を解釈して伝えることによって、やはりイエス・キリストに関する神の啓示を伝えてくださったのです。

分かりやすい言葉に解釈された異言が預言となるのです。

しかし今や啓示が完了し正典が完成すれば、分かりやすい言葉による完全なものが来れば、その預言と異言は不要になるのではないでしょうか?完成された啓示が書物として与えられるからです。それゆえパウロは、目に見える経験的な啓示の終結をこのように表現します。

 

(コリント人への手紙第一13:8~10)

8愛はいつまでも消えることはありません。預言も廃れ、異言も止み、知識も

廃れるでしょう。

9私たちは部分的に知り、部分的に預言します。

10完全なものが来るときには、部分的なものは廃れるのです。

完全な聖書が完成すれば、一時的な啓示として与えられていた異言と預言は止むことになるのです。

それだけではありません。

パウロは異言と預言が一時的に与えられていたあの使徒時代にも、預言と異言という経験的な道具を通して御言葉を理解しなければならなかったある人々を幼子と表現しています。

 

(コリント人への手紙一 13:11)

11私が幼かった時には、話すことも幼子のように、悟ることも幼子のように、

考えることも幼子のようにでしたが、大人になると、幼子のことを

捨て去りました。

使徒パウロは異言と預言を幼子時代にしていた幼稚なものと、大人になって捨て去るべきものとして語っています。

ところがどういうわけか、今日の教会では預言と異言をする人々が大人であり、そうしたことができない人々が幼子として扱われています。

まるで赤ん坊の母親が赤ん坊の喃語を真似しながら「なんて素晴らしい賜物だろう、私はそんな君が羨ましい」と言っているようなものです。

使徒パウロは、異言がすなわち神の言葉である預言とならなければならないという意味で、異言を話す人々に、その異言を通訳できる賜物も共に与えられるよう祈るようにと命じました。

 

(コリント人への手紙第一 14:13)

13それゆえ、異言を語る者は、解釈を祈るべきです。

なぜ異言の解釈のために祈らなければならないのでしょうか?

(コリント人への手紙第一 14:6~9)

6ですから、兄弟たちよ、もし私があなたがたのところに行って、異言を語り、啓示を語り、知識を語り、預言を語り、

教えること、あるいは語らないなら、あなたがたに何の益があるでしょうか。

7あるいは、笛や琴のように、命のないものが音を立てる時、その音の区別を付けなければ、笛を吹いているのか、琴を弾いているのか、どうして分かるでしょうか。

8もしラッパがはっきりしない音を鳴らすなら、誰が戦いに備えるでしょうか。

9同様に、あなたがたも、舌で理解しやすい言葉を語らなければ、その語ることをどうして

知ることができるでしょうか。それは空に向かって語っているのと同じです。

理解できない異言は、教会に全く益をもたらさないということです。

ですから、教会で行われる異言には必ず通訳が必要でした。

また、多くの人が一緒にぶつぶつ呟くことも禁じられました。

 

(コリント人への手紙第一 14:27~28)

27もし誰かが異言で話すなら、二人か、多くても三人が順番に話し、一人の

人が通訳すべきである。

28もし通訳する者がいないなら、教会では黙っていなさい。

このように異言に通訳が付かなければならない理由は、世が理解できない異言が神の恵みによって通訳され伝えられる時、その時に預言の機能を持つようになるからです。

通訳されない異言は、それがどれほど神から与えられたものであっても、神が与えたという点ではその個人には益となるかもしれませんが、教会には決して益にならないからです。

それゆえパウロは、異言は信じない者のためのものであり、預言は信じる者のためのものであると述べたのです。

なぜなら、異言が通訳されない時、その理解できない異言の機能は、信じない者たちの裁きを宣言する機能があるからです。

それゆえパウロは、異言は信じない者たちに落ちるものだと述べたのです。

いや、むしろパウロは、通訳されない理解できない異言は個人にとってもほとんど益がないと言います。

 

(コリント人への手紙第一 14:14~16)

14もし私が異言で祈るなら、私の霊は祈っているが、私の心は実を結ばない。

15では、どうすればよいか。私は霊で祈り、また心で祈り、私は霊で賛美し、また心で賛美する。

16そうでなければ、あなたが霊で祝福しても、知識のない者は、あなたが何を言っているのか知らず、あなたの感謝にどうして「アーメン」と言えるだろうか。よく注意すべきである。

16そうでなければ、あなたが霊で祝福するとき、無学な者があなたの言うことを理解できず、あなたの感謝にどうして「アーメン」と言えるでしょうか。

よく見てください。

多くの人々は異言で祈ると、他の人より長く、何時間も座って祈っても時間があっという間に過ぎるため、多く祈るために異言祈りをするとします。

しかし、自分がどんな祈りをしたかは分かりません。

そんな時、「自分がどんな祈りをしたのかも分からないのに、それがどんな祈りですか?」と尋ねると、すぐにこの箇所を引用して「私はどんな祈りをしたか分かりませんが、私の霊が神と直接祈ったのですから、その祈りが本当の祈りです」とおっしゃいます。

 

皆さん、異言とは啓示が完成していない時に神が啓示として与えられるものだとおっしゃいましたね?ならば、その異言は聖霊が与える聖霊の賜物ですよね?その意味で14節が「もし私が異言で祈るなら、私の霊が祈っているのです」と述べているのです。

そこでの「霊」という言葉は「プネウマ、聖霊」を指しています。

啓示が完成する前に聖徒から異言が出ることは、その内に住まわれる聖霊の啓示によって与えられるものです。

しかし、その異言である啓示が当人にとって理解されない場合、それが神から与えられたものであっても、その当人の心に実を結ばないのです。

だからこそ「異言で祈るときは、私の中の聖霊が祈っている」と表現したのです。

しかし私の心には実が結ばれません。

したがってパウロは正しい祈りと正しい賛美について教訓を与えます。それが15節です。

「聖霊の導きによって心で祈り、聖霊の導きによって心で賛美せよ」

ここで「心」と訳されたギリシャ語「ヌース」は「知性、思考」という意味です。

つまり、人間の知性で理解されず、思考の領域を超えたもの、すなわち通訳されない異言のようなものは、神の道具としては用いられるかもしれないが、当の本人には何の益もないということです。

 

 

それゆえ使徒パウロが異言よりも預言をしようと強く勧めたのです。

 

(コリント人への手紙第一 14:1~5)

1愛を追い求めなさい。霊的なものを熱心に求めなさい。とりわけ預言をしようと努めなさい。

2異言を話す者は人に対してではなく、神に対して話すのです。なぜなら、それを理解する者は

おらず、御霊によって秘密を語るからです。

3しかし預言する者は人に向かって語り、益を与え、励まし、慰めるのです。

4異言を語る者は自分の益を建てますが、預言する者は教会の益を建てるのです。

5私はあなたがたが皆、異言を語ることよりも、むしろ預言することを望みます。異言を語る者が

もし教会の益を建てるために通訳しないなら、預言する者に及ばないのです。

ここで「徳を建てる」という言葉は、単に「益となる、築き上げる、堅くする」という意味の「オイコドメオ」です。

つまり、啓示としての異言は神の民に神が与えられるものであるため(ただしそれが真の啓示としての異言であった場合に限り)、異言を話す者が自らを堅く立たせることにはなるが、預言は神が信じる者たちである教会に与えられるものであるため、教会を堅く立たせることになるというのです。

しかし、人に益となるのは異言ではなく預言であるということです。

 

(コリント人への手紙第一 14:19)

19しかし、教会で、あなたがたが教え合うために、悟りのある心をもって五つの言葉で話すことは

一万の言葉の異言で話すよりも優れている。

このように、初代教会の時代の預言と異言は啓示的な賜物でした。

それゆえパウロは、教会で異言を禁じてはならないと言ったのです。

啓示が完了していないのに、啓示として下される異言を禁じてはならないからです。しかし今や啓示は完了したのです。

それにもかかわらず、そのような聖句を今日でも文字通り適用し、教会で異言を禁じることを異端だと主張するのは、あまりにも無知な行為です。

 

 

皆さん、奇跡や異言のような神秘的な賜物が初代教会時代である使徒時代以降、完全に消え去っていたことは教会史に現れています。

ところで、いつからそのような奇跡や神秘的な賜物が教会に現れたかご存知ですか?AD4世紀からです。

当時はキリスト教がローマの国教となった時です。

 

キリスト教がローマによって迫害され、圧制を受けていた時には、奇跡や神秘的な賜物のようなものは教会に存在しませんでした。

だからこそ、カタコンベやガバトギアのような地下牢でキリスト教徒たちが惨めに死んでいったのです。

キリスト教が迫害を受けていた時には、キリスト教は十字架を背負い、殉教の血を流しながら真の福音を伝えていました。

ところが、キリスト教が迫害を受ける立場から力と権力を握り、迫害する立場に上ると、教会の中に奇跡と神秘的な賜物が豊かに現れ始めたというのです。

なぜでしょうか?力の原理が真の福音を蝕んでいくように見え、目に見えるものが真実であり、経験されるものが真理であり、力を持って相手を攻撃することが成功であり勝利であるという悪魔的な教えを教会に撒き散らしたからです。

だから最初に映像でご覧になったような巫女たちが、教会の中で平然と預言者の真似をしているのです。

騙されないでください。

 

もしこの場に異言を語られる方がいらっしゃれば、私たちが聖書を通して確認したように『神の啓示、神の十字架の福音はこのように世にとって異言でしかないものであり、私にとっても裁きと呪いの異言であったのに、どうして私はそれを預言として理解できるようになったのか?」と感謝し、今もその福音を異言で聞いている世を憐れみの目で見てください。そして、まだ異言というものを経験したことがない方々も同様に「世は私が伝える福音を異言として聞き、むしろ私を嘲笑うが、神が私に聖霊を送ってくださり、その異言を通訳してくださっている。なんと恵みだろうか?」と感謝してください。

私たちすべての聖徒は、世にとっては異言に過ぎない神の福音を理解し、聞き分け、伝える者たちです。

あなたがたこそが真の天の異言を語られる方であり、あなたがたこそが真の通訳の賜物を受けた方であり、あなたがたこそが真の預言をなさる方です。

間もなく来られる方が来られます。悔い改め、十字架にすがれ。これが教会で叫ばれるべき唯一の異言であり、唯一の預言です。

 

世の中の巫女の儀式に騙されてはいけません。