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教会論

26 - 偽善者 (マルコ7:6-9)

cocoa 2026. 3. 8. 22:27

 

26 - 偽善者 (マルコ7:6-9)

 

今日の御言葉を分かち合いましょう。マルコによる福音書7章6節から9節までです。

 

(マルコによる福音書 7:6-9)

6 イエスは言われた。「イザヤは、あなたたち偽善者についてよく預言している。『この民は、口ではわたしを敬うが、心はわたしから遠く離れている。

7 彼らは人の戒めを教えとして教えるが、それはわたしをむなしく礼拝することである。』と書いてある。

8 あなたがたは神の戒めを捨てて、人の伝承を守っている。

9 また言われた。「あなたがたは、自分の伝承を守るために、神の戒めをよく捨てているのだ。」

 

本文をお読みになればお分かりのように、「偽善」についての話です。イエス様はイザヤ書29章を用いて、今まさに偽善について警告しておられるのです。さて、皆さんの理解を確認するため、聖書をもう一箇所だけ探してみましょう。

ヨハネによる福音書18章3節に行きます。

 

(ヨハネによる福音書 18:3-5)

3 ユダは、大祭司たちやパリサイ人たちから得た手下たちを連れて、松明や松明の火、武器を持ってそこに来た。

4 イエスは、ご自分に起こるべきことをすべて知っておられたので、進んで出て来て言われた。「あなたがたは、だれを探しているのか。」

5 彼らは「ナザレのイエス」と答えた。イエスは「私だ」と言われた。イエスを売ったユダも彼らと一緒に立っていた。

 

今日、偽善について一緒に学ぶのですが、なぜ今、大祭司たちとパリサイ人たちが送った役人たちと兵士たちが、イエス様を捕らえていく場面を一緒に読んだかというと、このパリサイ人たちを通して、私たちがこの偽善を学ぼうとしているからです。

パリサイ人と言えば思い浮かぶのは、偽善(外飾)ですよね?偽善と言えばパリサイ人!

今、ユダが兵士と役人たちを連れて来て、イエス様を捕らえに来たのですが、その兵士と役人たちを誰が提供したかと言えば、

パリサイ人たちが提供したのです。

皆さん!パリサイ人たちは民族主義者でした。自民族を深く愛する者たちだったのです。

そしてこのパリサイ人たちは、当時のギリシャやローマの文明によって次第に色あせ、薄められていく自らの純粋な信仰を守ろうと努めた、熱心な宗教者たちだったのです。

神に仕える者たちでした。

そして彼らはメシアを待っていたのです。

命がけでメシアを待っていたのに、なぜ彼らはメシアが直接来られたのに、そのメシアを釘付けにして殺さざるを得なかったのか?

真のメシアが来られたのに!それほど熱心に宗教生活をし、それほど熱心に律法を守っていたあのパリサイ人たちが、

なぜイエス様を釘付けにして殺したのか?私たちがこのパリサイ人たちについて学ぶ中で、あのパリサイ人たちと共に、

イエス様を殺すことに同調した皆さんや私の姿を、今日振り返る時間を持つでしょう。

先ほどお話しした通り、パリサイ人と言えば、まず思い浮かぶ言葉が「偽善」です。皆さん!偽善とは何でしょうか?

外食のことでしょうか?私たちが偽善と聞くと何を思い浮かべますか?表と裏が異なること!それを私たちは偽善と言いますよね?

表と裏が異なること!では単に表と裏が異なることを偽善と言うなら、皆さん!本当は家でもっと寝ていたいのに、我慢して起きて学校に行くこと!それは表と裏が異なることですよね?それは偽善でしょうか?今日は一日家でゆっくり休みたい。

体がすごく痛い。風邪をひいた。でも我慢して、仕事に出かけて死ぬほど働くこと!それを私たちが偽善と言うでしょうか?

表と裏が違うじゃないですか?それは私たちが偽善とは言わず「誠実だ!」と言うのです。

私の心の中には、ある友人が、隣人が憎くてたまらないのに、我慢して微笑みと愛をもって接することを、私たちが偽善だと言うでしょうか?表と裏が違うじゃないですか?それは私たちが忍耐だと言うでしょう?いや、私たちの若者たちですよ?

欲望が燃え上がるように湧き上がります。欲望が燃え上がるように湧き上がるのに、「ああ!未来の本当に愛する人のために、

耐えなければならない!太ももを刺しながら耐えなければならない。」これを私たちが偽善と言いますか?

それは「敬虔の訓練!敬虔の練習だ!」と語るのです。

単に私たちが表と裏が違うことを、偽善とは言いません。聖書が語っている偽善とは何を意味するのでしょうか?

イエス様は、罪人のためにこの地に来られたと言います。

ご自身がそう宣言して歩まれたと言います。イエス様は取税人の友となられ、姦淫の女を赦されました。

そして強盗を救われたと言います。罪人の友となられ、姦淫の女に「私はあなたを赦す」と宣言し、その場で赦されたのです。

そしてあの醜い強盗さえも救い出されたのです。

しかし唯一、そのイエス様が罵倒した人々がいました。

それがまさに偽善者たちだったのです。いや、イエスは全ての罪を赦すと思っていたのに、唯一イエスが罵倒を浴びせた者たちがいて、彼らがまさに、偽善者たちだったのです。マタイの福音書23章33節を見ると、

 

(マタイの福音書 23:33)

33 蛇どもよ、毒蛇の子どもどもよ、あなたがたはどうして地獄の裁きを逃れられようか

 

『お前たち蛇め!毒蛇の子らよ!お前たちがどうして地獄の裁きを逃れられようか?お前たちは地獄へ落ちる!』と、

そう呪われた一団がいたのです。つまり彼らは姦淫した者よりも、殺人を犯した者よりも悪い者たちだということです。

彼らは誰でしょうか?偽善者たちだと言います。

では一体この偽善(外飾)とは何なのか、イエス様がこれほどまでに呪いの罵声を浴びせたのか?皆さん!

ユダヤ人にとって、あの蛇というものがどんな意味を持っているか、皆さんよくご存知でしょう?ユダヤ人にとってこの蛇は、

呪いと裁きと罪、そしてその罪の元凶の象徴なのです。

ところが自分たちを見て、律法を忠実に守り、神を命がけで愛している自分たちを指して、蛇だと言い、蛇の子だと言い、

私が時々「犬の子どもたち」と言うのは、それは何でもないことです。

偽善とは何なのか、どうしてイエス様はこれほどまでに憤慨されたのでしょうか?聖書から一つ一つ丁寧に探っていきましょう。

ルカによる福音書11章42節を見ると、

 

(ルカによる福音書 11:42-44)

42 わざわいだ、パリサイ人たちよ。あなたがたは、ミントやクミンやあらゆる野菜の十分の一をささげながら、正義と神への愛を捨てている。しかし、これらも行うべきであり、あれも捨ててはならない。

43 わざわいだ、パリサイ人たちよ。あなたがたは会堂での高い席や、市場での挨拶を喜んでいる。

44 わざわいだ、あなたがたは、平らに埋められた墓のようだ。その上を歩く者は、それを知らない。

 

偽善的なパリサイ人たちに、イエス様は「平らに埋めた墓」と言われました。平らに埋めたとは、このように平らに、

墓らしくないように舗装してあるため、外見上は墓ではないのに、実は『お前たちは腐った水が流れ出る、腐った臭いがする墓だ!』 と語っているのです。

『お前たちは宗教生活を熱心に行い、律法を熱心に守っているように見えるが、実はお前たちの心の真意はそうではない!』とイエスは今、そう指摘しておられるのです。

しかし、あのユダヤ人たちはいったいどんな心でそうしたのか、イエス様が「お前たちは表と裏が違う墓だ!」とこう言われたのか?その答え、理由が43節にあるのです。

「偽善者たちよ、お前たちパリサイ人よ!お前たちは会堂の高い席と、市場で挨拶されることを喜んでいるではないか。」 つまり、そうした宗教的行為や律法を守る全ての行いが、全て自己顕示のためだったというのです。

それをイエスは「偽善だ!」と非難されるのです。彼らを指して!見せびらかすために宗教的行為を行っていた彼らを指して、

イエスは「蛇ども!毒蛇の子どもども!」と叫ばれるのです。

だから皆さん!『キリスト教は、何を成したか?』が重要なのではなく、『私はどんな人間か?』が重要だと言ったでしょう?

なぜ私がそう言うのかというと、まさにこのように自分の誇りのために、他人に自分の義を誇示するためにする行為が多いからです。

そうしたものは偽善なのです。ですから、私たちが行いだけで「信仰が良いか悪いか」を判断できないのです。ある人は、

そうやって自分の誇りのために、見せかけ!褒め言葉を得るために善を行い、宗教的行為をする人たちがいるのです。

皆さん!罪とは、ある形や姿ではなく、傾向なのです。傾向!『神の座に私が座り、その栄光を私が受けよう』ということです。

そして『他人から称賛され、私の自尊心も満たそう!』ということが、罪の本質であり、罪の始まりではありませんか?

アダムの罪!そのような傾向が、私たちの善い行いや宗教的行為に入り込むと、それは偽善というものです。

しかしその偽善というものは、単に非難されるだけでなく、「どうしてあなたがたは地獄の裁きを逃れられるだろうか?」と言われるほど恐ろしいものなのです。それをマタイの福音書6章で、聖書はより明確に詳しく説明しています。

マタイの福音書6章1節を見てください。

 

(マタイによる福音書 6:1-2)

1 人に見せるために、彼らの前で自分の義を行ってはならない。そうしなければ、天におられるあなたがたの父から報いを受けることができない。

 

このマタイによる福音書6章で区別しているのは、人から称賛されることと、神から称賛されることを区別しているのです。

そして、私たちが行う代表的な宗教的行為の中から、三つを挙げているのです。

例えば!それは何かというと、祈り(祈禱)と断食(禁食)と施し(救濟)です。

祈りと断食と施しをしながら、見せびらかす者たちはどうするのか、そして神を本当に愛する彼らの純粋な心から出るような行為は、

どのようなものかを区別していると言っています。2節を見ると、

 

2 だから、施しをするときは、偽善者たちが人々に栄光を得ようと会堂や通りでそうするように、あなたがたの前にラッパを吹いてはならない。まことに、あなたがたに告げる。彼らはすでに自分たちの報いを受けているのだ。(そうです。)

誰かを助ける時、誰かを施す時、人から称賛されるために大げさに宣伝しながら助けること!それを、偽善と言うのです。

助けてもイエス様に叱られるのです。

もしこのような心でやったのなら、皆様がよくご存知のあの新長老様です。

多くの方を助けておられます。私がそばで近くで見ているので、よく知っています。

ところがその方が誰かを助ける時、どんな約束をされるかというと、「もしあなたの口から、どんな経路を通じても、私の名前三文字が出たら、それで終わりだ!」と念を押されるのです。

だから誰にも知られずに助けるのです。誰にも知られずに!

ところが、何かの水害義援金を届けるとか、何かの寄付をする時ですよ。

それに掴まって5分くらい立っていなきゃいけないじゃないですか? 渡す人、受け取る人! その気まずいキムチ顔で!

あれなぜそうするんでしょう? 写真を撮って知らせなきゃいけないからですよ。

この人が早く受け取りに行こうとすると、必ず掴まれているじゃないですか?もっと写真を撮らなきゃいけないから!それを私たちは「見せかけ」と言うんです。

あれは金を出して善いことをしていると言いながら、神様に怒られる行為なんです。

昔、私の大学の隣、新林洞で夜学を4年間やったんですが、本当に一生懸命やりました。

子供たち30~40人を集めて、精神薄弱児もいれば、精神遅滞児もいて、その子たちを集めて毎日私たちが交代で!学生に何のお金があるんですか?1万円ずつ出して、子供たちの食事を全部作って食べさせ、勉強を教え、運動を教え、一緒に遊んであげ、銭湯に連れて行って風呂に入らせて!

私がそこで4年間ずっと自分と戦った内容は、まさにこれです。

『私は本当に彼らを愛しているのか?それとも他人が私を褒めてくれるその称賛に、今や慣れてしまっているのか?』という問いを4年間も葛藤したのです。

そして結局最後に下した結論は、『私は彼らを愛することよりも、他人が私に向けてくれる称賛の方が、より良かったのだ』という結論だったのです。

そこに当時、もう20代前半で司法試験に合格し、「先生」と呼ばれていた後輩がいました。

彼も同じ考えを持っていたんです。今では韓国で非常に有名な検事になっています。とても有名なアナウンサーと結婚して!その友人が後で私と二人きりで向かい合い、何も言わなかったんです。お互いに!それからお互い顔を見つめながら、「お前もそう思うのか?」と言うと、その友人が「兄貴もか?」と言うんです。

「そうだ!」私たちが下した結論は、「これ以上この場所を汚すな、去ろう!」でした。それで辞めたんです。

私の妻は、私がそこで一生懸命奉仕している姿を見て、私に惚れて嫁に来たんです。

私がそんな気持ちでしていたことも知らずに!皆さん!それは見せかけです。

「他人が私をどう評価してくれるか?」という動機から何かを始めるなら、それは見せかけ(外飾)だと、聖書は語っています。そして5節、6節を見ると、

 

(マタイによる福音書 6:5)

5 また、あなたがたが祈るとき、見せかけの人たちのようにならないようにしなさい。彼らは、人に見られるために、会堂や大通りの角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分たちの報いを受けています。

 

ええ、祈る時でさえ人に見せるために祈るというのです。早朝礼拝も人に見せるために来る人たちがいます。

そしてあらゆる美辞麗句を駆使して、祈りの練習をしてくる人たちもいますよね?ええ、たくさん練習してください。

しかしその心の動機が、このように人に見せるために祈るということは、理にかなっていないのです。

ある長老は、自分が長老になってから、今まで一度も早朝祈りを欠かさなかったことを誇りに思っています。

それで私がその長老に、『長老!いったいどんな心で早朝祈りを今まで一度も欠かさなかったのですか?』と尋ねました。

80歳になろうとしているのですから。するとこう言うのです。「他の人たちが『長老なのに早朝祈祷に来ない』と何か言うんじゃないかと思って行き始めて、今までそうして通っているんです」と言うのです。

それは皆さん!律法によって死んだ私たちを、再び律法で縛る行為です。

まさにそういう人たちが、ただ毎日通っているうちに、牧師がたまに一度や二度早朝祈祷に来られないと、後で陰で悪口を言うのです。『おい!長老は一度も欠かさず来てるのに、牧師が早朝礼拝をサボるのか』と文句を言う人たちは皆そういう方々です。

自由ではない方々です!

祈りとは何かを知り、神の前でのあの宗教的行為が、善き信仰生活とは何かを知っている方々なら、決してそうやって他人を指さして非難したり、自慢したりすることはできないのです。

それに教会ごとに、自分の額に『私は祈りが上手な人!』って書いて貼り付けて歩く人たちがいるじゃないですか?

『私の祈りを受けなければ、家庭は幸せにならず、私の祈りを受けなければ、ビジネスはうまくいかず』って、こんな風に大勢を連れて歩き回りながら、祈ってあげながら歩く人たちがいるでしょう?

皆さん!祈りとは何でしょうか?自分にはできないから、誰かの助けが必要だと気づくことが祈りの始まりではありませんか?

自分でできることなら、なぜ祈る必要があるでしょう?一生懸命努力すればいい!これは自分にはできないことだから、

「神様!助けてください!」が祈りではないですか?ところが、自分が祈れば、その神様も動かせるという話が成り立つでしょうか?神様はそんなに目標もなく、計画もない方なんですか?私たちがただすがりついてせがめば、神様がご自身の意思も変えられる方なら、そんな神様をどうして信じられますか?

祈りとは、自分の不可能性を認め、そこから出発するものですよね?それなのにその祈りを自慢して歩き回り、自分が祈ったから誰々が答えを得たなんて、どうして自慢できるんですか?

マルコによる福音書9章に、口がきけない悪霊に取りつかれた少年の話が出てきますよね?

イエスが三人の弟子と共に変容の山に登り、降りてこられた時、この口がきけない、耳の聞こえない悪霊に取りつかれた少年が苦しんでいました。その両親が弟子たちに近づき、悪霊を追い出してほしいと頼んだのです。

弟子たちは悪霊を追い出せると思っていました。なぜなら?その前にすでに悪霊を追い出した経験があったからです。経験があるというわけです。

弟子たちはその力が自分にあると思っていました。だからこそ、イエス様がいらっしゃらない間に、自分たちで何か見せびらかしたかったのです。自慢したかったのです。自分たちがイエス様の次くらいの階級だと、人々に認められたかったのです。

それで悪霊を追い出そうとしたのですが、出ていきませんでした。

そこでイエス様が来て、悪霊を追い出してくださった後、弟子たちが尋ねます。

「なぜ私たちは悪霊を追い出せなかったのですか?」するとイエス様は「祈りと断食以外には、この種のものは出て行かない!」とおっしゃったのです。

皆さん!この弟子たちはユダヤ人です。そして神の国を宣べ伝えていたイエス・キリストの弟子たちです。

彼らが悪霊を追い出しながら、一度も祈らなかったでしょうか?本当に?しかしイエスは彼らに向かって、「祈りと断食以外には、この種のものは出て行かない!」と語られたのです。あなたがたが自分たちを見せびらかし、自分の義を示し、自慢するためにしていることは、祈りですらないのだと。それは神が聞かれないという話です。

では、どうやって集団で歩き回り、店ごとに回って、「私たちの祈りを受けなさい!あなたのビジネスがうまくいくでしょう!私たちの祈りを受けなさい!あなたの家庭が平安になるでしょう!」という話が生まれるのでしょうか?ただ後ろでこっそり涙を流しながら祈ってくれるのは、いいですよ!しかし、祈るということをもって、このように自慢するのは、あってはならないことだということです。

もしかすると創世記のこの箇所が原因で、そう誤解されているのかもしれません。

創世記49章22節以下に書いてあります。ええ、この画面に表示しますので、一度読んでみてください。ヤコブがヨセフを祝福する場面です。

[ (創世記 49:22-26)

22 ヨセフは豊かな枝、泉のほとりの豊かな枝。その枝は塀を越えた。

23 弓を引く者が彼を苦しめ、彼を射、彼を苦しめたが、

24 ヨセフの弓はますます強く、その腕は力強い。それはヤコブの全能者の手による。彼からイスラエルの岩、牧者が出た。

25 あなたの父の神によって、彼はあなたを助け、全能者によって、彼はあなたに祝福を与える。天の上の祝福と、下の泉の祝福と、乳飲み子の祝福と、胎の祝福と。

26 あなたの父の祝福は、私の父祖の祝福よりも優れ、永遠の山が尽きることのないように、この祝福はヨセフの頭に戻り、 兄弟の中で優れた者の頭上に帰するであろう。]

 

祝福(ふくはつ)とは何でしょうか?

祈る(ふ)! 幸い(ふ)! 「幸いを祈る」という意味ですよね?

祝福とは! 私たちが今、祝福! 祝福! とあまりにも安易に言葉を使いすぎているので、まあ私が受けるこの世の幸い! そんなものを祝福だと思っているのですが、まあいいでしょう。

そう使おうではありませんか。祝福とは、本来聖書が語る祝福とは、祈る(祝)! 恵み(福)! という祈りです。

恵みを祈って与えること! ヤコブがヨセフに祝福を祈って与えているのです。神に!

しかし、何と言うかと言えば、「あなたの神があなたに祝福を与えるであろう」ではなく、「私の神」と言うのです。

私の神! 私の神! ヤコブの神!お前の父の神!お前の父は誰ですか?ヤコブ!自分を指しているのです。

そして、なんと26節では、「お前の父の祝福、ヤコブ!自分の祈りが、私の両親の祝福よりも優れている」と言っているのです。

「私の祖先アブラハムとイサクの祈りよりも、私の祈りが優れている」とこう言っているのです。

この場面を見て人々は、「見よ!効力のある祈りとそうでない祈りがあるのだ」と言うかもしれないが、この話はそういう話ではないでしょう?皆さん!ヤコブはいったいどんな人間なのか、自分の祖先であるアブラハムとイサクよりも、自分の祈りが優れていると言うのか?このヤコブに比べれば、アブラハムとイサクは信仰の勝利者です。

ヤコブは?死ぬまでずっと詐欺ばかりしていた人間です。この男が!それなのに、どこで平然と、自分が自分の父や祖父の祈りよりも、自分の祈りの方が優れていると言えるというのですか?

それはこのヤコブが、自分のような人間を、こんなにも不甲斐ない人間を救い出してくださった、その神の愛と恵み!

私が経験したあの神様のあの大きな愛と恵み!それを私が経験したからこそ、私たちの父と私たちの祖父が経験したあの愛よりも、

私はより大きな愛を経験したと言っているのです。

私の祈りがより効力があると言っているのではないのです。

ヤコブは知っていました。自分が百三十何歳でファラオの前に進み出て、ファラオが「あなたはいくつですか?」と尋ねた時、

「私の旅人の人生!百三十何歳、実に険しい人生を歩んできました」と自ら告白するほど、彼の人生は、本当に詐欺に満ちたような人生だったのです。ところがいつの日か気づくと、神が自分を導きながら、最後まで救い出してくださったことを、ヤコブは知っていたのです。だからこそ、私は彼ら!私たちの祖父や父よりも大きな、神の愛と恵みを経験したという意味なのです。これは!

ある医師が、非常に有能な医師がいると言います。

それほど評判の高い有能な医師がいるのです。ところが、ある人は行っていぼを治してもらいました。

ある人は行って白血病を治してもらいました。誰がこの医師の有能さを、真に体験し経験した人でしょうか?

誰がこの医師が有能であることを、より深く悟ることができるでしょうか?白血病が治った人が、「やあ!この人本当に腕がいい!」ということを、より深く知るのではないでしょうか?そういう意味で、ヤコブが今ヨセフに語っているのは、私の祈りが私たちの父や祖父の祈りよりも効き目がある、 そういう話をしているのではないのです。

祈りとは、私がどれほど不可能な人間であり、神だけが私の人生の主であるということを告白し、それ以前に、私が天地を創造された神の前で、祈りを捧げることができる、そう祈りを捧げられるようになった身分であることに、感激しながら入るもの!それが祈りなのです。いや、どうして私たちが神様の前に立てるというのですか?

神様は罪人を見ると、突撃して殺してしまうのが、神様だったじゃないですか?それなのに、どうして私たちがこんな身分になって、毎日聖所に入ることができるというのですか?そこからの感動をもって入るのが祈りなのです。

それなのに、どうして祈ることを自慢できるというのですか?それは偽善というものです。

そしてマタイの福音書で三番目に言及される宗教的行為が、断食(禁食)です。16節を見ると、

 

(マタイによる福音書 6:16)

16 断食するときは、偽善者たちのように悲しそうな顔をしてはいけません。彼らは断食していることを人に見せびらかすために、顔を醜くするのです。まことに、あなたがたに言います。彼らはすでに自分たちの報いを受けています。

 

人々は断食(禁食)をしても自慢します。「私は3日間やったぞ!」するとそばにいた人が「私は1週間やった」と言い、

向こうにいた人が「私は40日間!」と言う。そうするとただその場で沈黙が流れるのです。

ある人は40日間の断食を5回も実施!これはさらに私たちを落胆させますよね?そんな風に自慢する人たちがいるのですから。

「断食は3日目が一番つらい!」なぜそんなことを言うのか?自分がやったという証拠です!

皆さん!断食とは何ですか?食事を断つことです。そうでしょう?なぜ食事を断つのですか?私たち人間が、力の源として知っているものは何ですか?食べるということです。

私のエネルギー源は何ですか?私の力は何ですか?食べることでしょ?その食べることを断つということは、「今、私は自分の力!自分のエネルギー!自分の能力に頼らず、ただ神様だけを頼ります!」という信仰告白が、断食なんです。どうにかして食事を断って、自分を自傷する姿を神様の前で見せながら、「神様!私の祈りを聞き入れてくれないなら、もっと飢え続けるぞ!」これは自傷行為です。自害(じがい)!あれは「飢え食」と言うのです!断食ではありません。

また断食とは、たとえ私の祈りが聞き入れられなくても、「神様!私は食べるものに目を留めません。

これを自分の力の源とは考えず、神様が喜ばれるものを私の糧とします!」という断食なのです。

ですから、そのような生き方ができない時、皆さん!飢えてください!苦しみを感じてください!その空腹の苦しみがどれほど大きいかを感じながら、「私の人生に訪れる苦難が、これほど痛く辛くとも、私は神が喜ばれることだけを、私の糧として生きる!」と決意し、告白することが断食なのです。

また断食のもう一つの意味は、神様の御前でみっともない自分!罪を犯した自分を悲しみ、嘆き、神様の御前に出て悔い改めることです!旧約聖書に多く出てきますよね?灰をかぶり断食すること!ここで嘆き悲しむと言っても、単に文字通り、ただ嘆き悲しむだけではありません。

自分が今、罪を悟り、神がどなたであるかを悟り、聖霊によってです。そうなるゆえに、自分の過去に犯した罪があまりにも汚く醜いのです。だから悲しみ嘆くけれど、そこから救い出される喜びが共にある、そんな悲しみ嘆きこそが断食なのです。断食にはもっと積極的な意味が込められているのです。

「神よ!私は神を最高の喜びとして生きています。

私は食べる喜びを、神を喜ぶことと引き換えにすることはできません!」という告白こそが、断食なのです。

しかし断食をしながら、「私は40日間断食したぞ!ああ!3日目には辛かった!15日目くらいになると、ああ!あの時はもう正気じゃなかったよ!」

違います。断食はそんな風に自慢できるものではありません。

イザヤ書を見ると、58章に、聖書が語る断食!神が望まれる断食とは何か、正確に示しています。

 

(イザヤ58:4-7) (新改訳)

4 あなたがたは争い、喧嘩しながら断食するのか。こんな悪質な殴り合いをするために断食するのか。あなたがたの声を天に届かせたいと思うなら、今日のような断食をしてはならない。

5 「これが、わたしの喜ぶ断食だろうか。これが、人が悔い改め、苦しむ日となるだろうか。」頭を葦のように垂れ、粗布と灰の上に座ることを、どうして断食と呼べようか。主があなたを喜んで迎える日と言えるだろうか。

6 「わたしが喜ぶ断食とは、不当な束縛を解き放つこと、くびきの縄を解くこと、虐げられた者を解放すること、あらゆるくびきを砕くことではないか?」

7 また飢えた者にあなたの食物を分け与え、さまよう貧しい者を家に迎え入れることではないか?裸の者を見たら、その者に衣を着せること、あなたの肉親を避けて隠れないことではないか?

 

私が喜ぶ断食とは、まさにこういうことなのです。神様が語っておられることではありませんか?単に食事を断つことではなく、

このような告白なのです。『神よ!私は神が喜ばれることを、私の糧として生き、歩むクリスチャンです!』これが断食なのです。

ですから皆さん、毎日毎日断食しているのです。断食する人生を生きているのです。

しかしその人生が、自分の人生に現れない時、実際に皆さん!断食してみてください。

そうしながら『なぜ私はそう生きられないのか?』について、悔い改めてください。そして確認してください。

『私の身分は、このような実が必ず私の人生に現れなければならない、それが私の身分だ!』と言いながら、皆さん!その食事を断ちながら、そのようなことに気づくことが、断食なのです。断食の真の意味!

その意味を知る者たちは、生活の中でこのような実が現れるのです。

哀れな者を憐れみ、貧しい者を助け、抑圧される者を救い出す、そのような生活が、自分の人生の中に現れるというのです。

「おい!私は何日も断食したのに、お前はたった一食も断てないのか?」これは断食(禁食)ではなく、外食 (見せかけ)です。

見せかけとは何ですか?自分を誇ることだと言いましたよね?そこに公然とイエス様がどう罵ったか?『蛇ども!毒蛇の子どもども!』皆さん!死ぬほど腹を空かせておいて、こんな罵りを受けるつもりですか?死ぬほど宗教行為をして、こんな罵りを受けるつもりですか?見せかけが何なのかを知らなければならないのです。

私たちの教会に数週間通って、来なくなった方がいらっしゃいました。

なぜだろうと不思議に思っていたのですが、昨日その答えを聞きました。

私たちの教会に来て、自分が少し熱心に働いたそうです。ところが牧師がその働きを認めてくれなかったというのです。

それが理由です。

皆さん!私たちが開拓してまだ6ヶ月ですが、私たちの教会で何か大した仕事があったでしょうか?この間?何をすると言えば、

ゴミを数回捨てに行ったり、駐車場で駐車管理を数回された程度でしょう。

それを認めないから、教会を変えられたそうです。そう言いながら、その方が忠告されたのは、信徒が何か仕事をするなら、

何かのチーム長!何かの長!といった役職をわざわざ作って与えるべきだということでした。

皆さん!教会の中にそんな政治が必要でしょうか?教会を維持するために、そんな人間的な政治が、この教会の中に入らなければならないというのですか?

だから、自分の自慢のために、自分の義のために、仕事をしているうちに、それを誰かが認めてくれないと、腹が立つのです。

皆さん!それを偽善と言うのです。一生懸命働いていても、地獄に行くというのです。マタイの福音書では何と書いてあるのですか?『私は、神よ!こんなこともし、こんなこともし、こんなこともしたのに、まさか私を知らないというのですか?』

『この不法を行う者たちよ!私から離れ去れ!』

いや、死ぬほど働いたんです。死ぬまで!教会のために、神のために働いたのに、イエス様がこう言われるんです。

『この不法を行う者たちよ!私から離れ去れ!』地獄へ行けと言うんです。偽善者たち!彼らに向けた言葉です。

誰かに見せるために行った行いは、イエス様から、このような呪いの言葉を浴びせられるというのです。

イエス様はマタイによる福音書23章で、このように偽善(外飾)を整理してくださっています。

 

(マタイによる福音書 23:1-3, 5-7)

1 そこで、イエスは群衆と弟子たちに語って言われた。

2 「律法学者たちとパリサイ人たちはモーセの座に座っている。

3 だから、彼らが言うことは何でも行い、守りなさい。しかし、彼らの行いは見習ってはならない。彼らは言うだけで、行わないからだ。」

 

パリサイ人たちに対して、イエスは「彼らは言うだけで、行わない」 と言います。

ファリサイ派の人々は本当に行わなかったのでしょうか?いいえ、ファリサイ派ほど熱心に宗教的行為を行った人々はいません。

彼らは命を懸けて律法を守ったのです。命を懸けて神に仕えたのです。しかしイエス様は、神であるその方が、

「お前たちは何もしていない」とおっしゃるのです。それがこの偽善から出てくるものです。

自分の誇りのために行ったことなら、それは何もしていないのと同じだというのです。

そうして、さらに何とおっしゃっているかと言えば、5節を見ると、

 

5 彼らは、すべての行いを人に見せびらかすためにそうする。すなわち、律法の書き記した文字を広くし、衣の房を大きくし、

6 宴会の上座と会堂の席上、

7 市場で挨拶され、人々から『ラビ』と呼ばれることを好む。

 

彼らが好むものは何ですか?宴会の上座に座り、会堂の上座に座り、市場で挨拶され、人々にラビと呼ばれることを好むのです。

そのような動機から彼らの行いは出たのだと。

イエス様はそれを偽善(外飾)と呼び、それは何もしなかったのと同じだと言われました。

このような動機で事を行う人々には、はっきりと現れる現象があります。

それは何か?自分の誇りのために他人を犠牲にするのです。

必ず自分たちの清さを誇示するために、他人の罪を指摘しなければならないのです。

彼らは!なぜなら?他人の不幸を、飾りとして少し添えておかなければ、自分の幸福がより味わい深くなるからです。

他人の不幸は、私の幸福!他人の罪を少し暴いておかなければ、自分のその取るに足らない義 (義)がより輝いて見えるのです。

自分の自慢がより一層際立つのです。

自分の幸福がより一層際立つのです。他人の罪をどうにかして暴き出し、晒せば、自分が正しいことが明らかになるため、

彼らは必ず他人を犠牲にするのです。断罪するのです。歩き回って!

だから、どれほどひどいことか、マタイの福音書7章で、イエス様が、『偽善者たちよ! どうして自分の目にある梁は見えず、

他人の目にあるちりだけを見るのか?』とおっしゃったでしょう? 偽善者たち! 『偽善者たちよ! 自分の目にある梁を見よ!』とおっしゃるのです。特徴だと言っているのです。他人を犠牲にするのです。他人を裁くのです。

『私は早朝祈祷してる!私は献金たくさんしてる!私は宣教に行って来た!私は聖書たくさん読んでる!お前はなぜできない?』

自分がした宗教行為で、相手を叩きのめすんです。それを偽善(外飾)と言うんです。私たちは!

宣教に行って来たことですか?宣教師たちが行って来ると、自分はこれをした、あれをした、と自慢しますよね?それが自慢なんです。宣教が何かと言いましたか?皆さん! どれほどひどい状況か、ここにいてはいけないと思わせるほどだから、神様がそこまで送り出して、その聖さを造り上げてくださるのです。

短期宣教も同じです。ここに残っている人々は、ここにいてもいい人たちです。

ここに残ってはいけない人たち! 宣教地まで送り出して、何か教えたいことが、宣教なのです。

でも行って帰ってきて、それを自慢するのか?

献金も同様で、牧師も同じです。牧師が何が偉いから牧師になるんですか?違いますよ、

牧師は、そうやってきっちり縛っておかないと、天方地軸、自分の好き勝手に生きています。

そういう可能性の多い人たちが牧師になるんです。だから縛っておくんです。私のような人間は、今世間で新しい酒が出ると、

覆盆子酒、何だの山茱萸酒!こういうのが出ると、頭の中でその味が再生されるんです。

こうやって!これはどんな味だろう。これが!だから神様が事務所の中に縛り付けているんです。

勉強させるんです。御言葉の研究をさせるのです。

そうしなければ、またあちこち歩き回って酒を飲みまくり、悪いことをするでしょうから!しかし、そのことを自慢するのか?

宗教行為が自慢になる時、それがどれほど恐ろしいことか、皆さん必ず知らなければなりません。

まるでミミズを座らせて、爪にマニキュアを塗りながら、「お前たち!爪あるか?」軟体動物が、骨のない軟体動物なのに、爪がどこにあるというのか?それを自慢しているんです。

何だよお前ら!まつ毛あるのか?ミミズに眉毛があるわけないだろ?それよりもっと笑える話だ。

あれは!私たちの信仰生活!私たちの宗教行為が、私たちの口から自慢話になってはいけないということだ。

皆さん!イエスは安息日に手の不自由な人を癒やしました。

手の不自由な人を癒やした後、あのパリサイ人たちに何と尋ねたか?

『安息日に、安息日に!罪を犯すのが正しいのか?善を行うのが正しいのか?安息日に人を殺すのが正しいのか?

救うのが正しいのか?』救うのが正しいでしょう?善を行うのが正しいでしょう?

『ならば行いなさい、お前たちは今、律法を、自分たちの見せびらかしのために守っているのだな!』と指摘されると、

どうしますか?自分たちの見せびらかしが効かなくなり、イエスの見せびらかしが始まり、イエスが明らかになり始めたから、

彼を殺そうとするのです。その律法を使って!

律法とは何でしょうか?神の民を、その罪と死から救い出すために、私たちに求められた要求です。

命を救い出すために!しかしパリサイ人たちはそれを用いて、自分たちの見せびらかしをしたかったのです。

だからイエスを殺してしまうのです。自分たちの見せびらかしができなくなり、イエスが次々と現れるから、

自分たちの見せびらかしのために、そのイエスを殺さざるを得なかったのです。

それがまさに教会の中で行われている、偽善の恐ろしい結果なのです。

私が初めてアメリカに来た時、開拓教会に伝道師として入りました。

そこで私は毎週土曜日、若者たちを集めて、麻薬や音楽に親しむような子供たちを集め、毎週土曜日に私が公演しました。

『楽しく遊びたいならここに来て遊べ!タバコを吸う?ここに来て吸え!』そうしたら、ある女性伝道師が電子ピアノを一つプレゼントしてくれました。

それで誰にも話すなと言われました。私に!主任牧師にも話すなと言われました。

だから話しませんでした。本当に!ところが数週間後、みんな知っていたんです。

そしてその方が私に向かって何と言うかと言えば、「あのような空気も読めない人間!話すなと言ったのに本当に話さないのか?」と。見せびらかさないといられないんです。

私たちが冒頭で読んだヨハネの福音書で、パリサイ人たちが、軍隊と下僕たちが、何を持ってイエス様を探しに来ますか?

イエス様を殺しに来ますか?松明を持って来ます。

ヨハネの福音書が1章からイエスについて何と言っていますか?「イエスは光である!」そうです。

その光!その太陽を捕まえに来るのに、松明を持って来ると言うのです。なぜこのような場面が設定されているか分かりますか?その光のために、私が持っているこの松明が、目立たなくなるのです。

その光のために、私が持っているこの松明が、明るく見えなくなるのです。だからその光を殺してしまうのです。

私の松明を自慢したくて!神に命をかけて仕えると言っていたあの者たちが、したことです。

今日、同じことが私たちの教会で起きているのです。皆さん!

それが教会の中で行われる偽善の恐ろしい結果だと言います。

自分を誇示するために、神様までも動員して、その首を絞められることが、偽善の結果だと言います。

彼らにイエス様はなんて言われるでしょう?『蛇どもよ!毒蛇の子らよ!お前たちはどうして地獄の裁きを逃れられようか?』

だから私は皆さんに「教会の仕事を熱心にやれ!」なんて言わないんです。

違います。神様を本当に知ると、その恵みと愛を本当に知ると、自然と「何か私が神様のためにできることはないか?」と探し求めるようになるんです。なぜ?「私がゴミを数回捨てたのに、気づいてくれないのか?」と言って飛び出すのではなく、私が受けた神様の愛があまりにも感謝でいっぱいだからです。それで何かしたいんです。

見てください、わかりますよね!最近、学生たちは忙しいですから、ソクジンのような子は、最近は学業があまりないので、来てやっているんです。いつ来たのかもわからないくらいです。来たと言って、いつ帰るのかもわからずに行きます。

そういうことです。ただ自然に湧き上がるようにやりたいんです。それが神様の仕事であるべきだということです。

でもそこに、いったいどんな自慢があるでしょうか?

パク・ミジャ執事さん!ウ・ヘヨン執事さん!毎日、あの暑い台所で働いていますが、写真も撮らせません。

「私がこんなことをしているのを人に知られたくない!」私たちの青年たちも同じです。そういうことです。

皆さん!私たちは信仰によって持っているクリスチャンです。では、私たちが最も見習うべき人物は誰ですか?

信仰の祖先!アブラハムですよね?そのアブラハムに対して神様がどう語られたかと言えば、「わたしがあなたを救い出す」と。それだけにとどまらず、「アブラハムによってすべての民族が祝福を受ける!あなたは祝福の源となる」と語られたのです。

しかしアブラハムが大規模な伝道集会を開いたことがありますか?何かプログラムを作ったことがありますか?

アブラハムがどんなことをそんなにやったというのですか?

皆さん!ただ自分の人生の中で、神が求める聖なる生活を苦闘しながら築いていっただけなのです。

妻を二度も売り渡しながら、神に叱られ、また立ち上がり、再び立ち上がってみて、前進してみながら、その聖なる境地に至るのです。私たちの人生とはそういうものです。

何かを成し遂げて、何を自慢の種にして、神様の前に捧げるのではありません。その自慢が皆さんを地獄へ引きずり込むのです。

『蛇どもよ!毒蛇の子どもどもよ!お前たちがどうして地獄の判決を逃れられようか?」

私たちはそんなことをするのではないのです。この地に来て、私たちが業績を積むのではなく、私たちの聖さを築いていくのです。

「私は今日も神の御心に従って生きてきたか?」それを確認していくうちに、そう、自然と湧き上がってきて、働くようになるのです。そうなる前に、皆さん!とんでもなく自分の誇りのために、他人に自分の義を誇示するために働くことは、やめてください。それが私たちクリスチャンの正しい信仰生活です。

皆さん!死ぬほど教会仕事をして、見せかけだけの者となって、イエス様にそうして呪いの言葉を浴びせられる、

そんな不幸な人々にならないでください。まず自分の聖さを整えてください。

そうしているうちに、神様が確かに任せてくださる仕事が目に見えるようになってきます。

それならその時、黙ってやりなさい!黙って!そうすれば良いのです。祈ります。

 


 

 

26 - 외식하는 자 (막7:6-9)

 

오늘 말씀을 나누도록 하겠습니다. 마가복음 7장 6절에서 9절까지입니다.

 

(마가복음 7:6-9)

6 가라사대 이사야가 너희 외식하는 자에 대하여 잘 예언하였도다 기록하였으되 이 백성이 입술로는 나를 존경하되 마음은 내게서 멀도다

7 사람의 계명으로 교훈을 삼아 가르치니 나를 헛되이 경배하는도다 하였느니라

8 너희가 하나님의 계명은 버리고 사람의 유전을 지키느니라

9 또 가라사대 너희가 너희 유전을 지키려고 하나님의 계명을 잘 저버리는도다 

 

본문을 읽어 보시면 알겠지만, ‘외식(外飾)’에 대한 이야깁니다. 예수님께서 이사야서 29장을 가지고, 지금 외식에 대해서 경고를 하고 계시죠. 자, 여러분의 이해를 보기 위해서, 성경을 한 군데만 더 찾아보겠습니다. 요한복음 18장 3절로 가겠습니다.

 

(요한복음 18:3-5)

3 유다가 군대와 및 대제사장들과 바리새인들에게서 얻은 하속들을 데리고 등과 홰와 병기를 가지고 그리로 오는지라

4 예수께서 그 당할 일을 다 아시고 나아가 가라사대 너희가 누구를 찾느냐

5 대답하되 나사렛 예수라 하거늘 가라사대 내로라 하시니라 그를 파는 유다도 저희와 함께 섰더라 

 

제가 오늘 외식에 대해서 함께 공부할 텐데, 왜 지금 대제사장들과 바리새인들이 보낸 하속들과 군대가, 예수님을 붙잡아가는 장면을 함께 읽어드렸냐 하면은, 이 바리새인들을 통해서 우리가, 이 외식을 공부하려고 그래요. 바리새인 하면 생각나는 게, 외식(外飾)이죠? 외식하면 바리새인! 지금 유다가, 군대와 하속들을 데리고 와서, 예수님을 잡으러 왔는데, 그 군대와 하속을 누가 제공했냐 하면, 바리새인들이 제공했단 말이에요.

여러분! 바리새인들은요, 민족주의자들이에요. 자기네 민족을 너무나 사랑하는 자들이었어요. 그리고 이 바리새인들은, 당시 희랍과 그 로마의 문명으로, 자꾸 퇴색되어져가고, 희석되어져 가는, 자기들의 순수한 신앙을 지키고자 노력했던, 그런 열심이 있는 종교인들이었다고요. 하나님을 섬기는 자들이었어요.

그리고 그들은 메시아를 기다렸단 말이에요. 메시아를 목숨 걸고 기다렸는데, 왜 그들은 메시아가 직접 오셨는데, 그 메시아를 못 박아 죽일 수밖에 없었는가? 진짜 메시아가 오셨는데! 그렇게 열심히 종교생활을 하고, 그렇게 열심히 율법을 지켰던 그 바리새인들이, 왜 예수님을 못 박아 죽였는가? 우리가 이 바리새인들에 대해서 공부하면서, 그 바리새인들과 함께, 예수님을 죽이는 데 동조(同調)했던 여러분과 저의 모습을, 오늘 돌아보는 시간을 가질 겁니다.

좀 전에 말씀드린 대로, 바리새인하면, 먼저 생각나는 단어가 외식입니다. 여러분! 외식이 뭐죠? 밖에 나가서 밥 사먹는 게 외식인가요? 외식하면 우리가 생각나는 게 뭡니까? 겉과 속이 다른 것! 그것을 우리가 외식이라고 그러죠? 겉과 속이 다른 것! 그러면 단순히 겉과 속이 다른 것을 외식이라고 한다면, 여러분! 정말 집에서 더 자고 싶은데, 참고 일어나서, 학교에 가는 것! 그것 겉과 속이 다른 거죠? 그거 외식입니까? 오늘 하루 집에서 푹 쉬고 싶다. 몸이 너무 아프다. 몸살이 걸렸다. 그런데 참고, 일 나가서 죽도록 일하는 거! 그거 우리가 외식이라고 그럽니까? 겉과 속이 다르잖아요? 그것은 우리가 외식이라고 안 그러고 ‘성실(誠實)하다!’ 그런다고요.

내 마음속에는, 어떤 친구가, 이웃이 미워죽겠는데, 참고 미소로 사랑으로 대해주는 것을, 우리가 외식이라 그럽니까? 겉과 속이 다르잖아요? 그것은 우리가 인내(忍耐)라 그러죠? 아니, 우리 청년들 말이죠? 욕정이 불일 듯 일어나요. 욕정이 불일 듯 일어나는데, ‘아! 미래의 내 정말 사랑하는 사람을 위해서, 참아야 되겠다! 허벅지를 찔러가며 참아야 되겠다.’ 이것을 우리가 외식이라 그럽니까? 그거는 ‘경건(敬虔)의 훈련! 경건의 연습이다!’ 이렇게 이야기한다고요.

단순히 우리가 겉과 속이 다른 것을, 외식이라고 하지 않아요. 성경이 말하고 있는 외식은 무엇을 의미할까? 예수님은, 죄인들을 위해서 이 땅에 오셨다고 그래요. 본인이 그렇게 천명하고 다니셨다고 그래요. 예수님은 세리의 친구가 되셨고, 간음한 여자를 용서하셨어요. 그리고 강도를 구원하셨다고요. 죄인들의 친구가 되셨고, 간음한 여자를, ‘나는 너를 용서한다.’ 그 앞에서, 용서하셨다고요. 그리고 그 추악한 강도를, 건져 내셨단 말이에요.

그런데 유일하게 그 예수님이, 그 욕을 한 사람들이 있어요. 그게 바로 외식하는 자들이었어요. 아니, 예수님은 모든 죄를 다 용서하실 줄 알았는데, 유일하게 예수님이 욕을 퍼부은 자들이 있는데, 그들이 바로, 외식하는 자들이었다고요. 마태복음 23장 33절에 보시면,

 

(마태복음 23:33)

33 뱀들아 독사의 새끼들아 너희가 어떻게 지옥의 판결을 피하겠느냐

 

‘유 스네이크(you snake)! 뱀들아! 독사의 새끼들아! 너희가 어떻게 지옥에 판결을 피하겠느냐? 너희는 지옥 간다!’ 그렇게 저주한 한 무리가 있었다고요. 그러니까 그들은 간음한 자보다, 살인한 자보다 더 나쁜 자들이라는 것이죠? 그들이 누굽니까? 외식하는 자들이라고요.

그럼 도대체 이 외식(外飾)이 뭐기에, 예수님이 이렇게 저주의 욕을 하셨을까? 여러분! 유대인들에게, 그 뱀이라는 것이 어떤 의미를 갖고 있는지, 여러분 잘 아시죠? 유대인들에게 이 뱀은, 저주와 심판과 죄와 그 죄의 원흉의 상징이라고요. 그런데 자기들 보고, 율법을 잘 지키고 있는, 하나님을 목숨 걸고 사랑하고 있는 자기들을 가리켜, 뱀이라 그러고, 뱀의 새끼라 그러고, 제가 가끔 개자제분이라고 하는 건, 그건 아무것도 아니에요.

외식이 뭐기에, 이렇게 예수님은 거기에 대해서 분개(憤慨)하실까? 성경에서 한번 차근차근 짚어보도록 하겠습니다. 누가복음 11장 42절에 보시면,

 

(누가복음 11:42-44)

42 화 있을찐저 너희 바리새인이여 너희가 박하와 운향과 모든 채소의 십일조를 드리되 공의와 하나님께 대한 사랑은 버리는도다 그러나 이것도 행하고 저것도 버리지 아니하여야 할찌니라

43 화 있을찐저 너희 바리새인이여 너희가 회당의 높은 자리와 시장에서 문안 받는 것을 기뻐하는도다

44 화 있을찐저 너희여 너희는 평토장한 무덤 같아서 그 위를 밟는 사람이 알지 못하느니라

 

외식하는 바리새인들에게, 예수님께서, ‘평토장한 무덤’이라 그래요. 평토장했다는 것은, 이렇게 평평하게, 무덤 같지 않게 포장을 해놔서, 겉으로 보기에는 무덤이 아닌데, 실제로 ‘너희들은 썩은 물이 나는, 썩은 냄새가 나는 무덤이다!’ 그렇게 이야기 하는 거예요. ‘너희들은 종교생활 열심히 하고, 너희들이 율법 열심히 지키는 것 같은데, 사실은 너희 마음 본심은 그게 아니다!’ 예수님이 지금 그렇게 지적하고 있어요.

그런데 그 유대인들이 도대체 어떻게 무슨 마음으로 했기에, 예수님이, ‘너희들은 겉과 속이 다른 무덤이다!’ 이렇게 이야기하셨냐 말이에요? 그 답이, 이유가, 43절에 있다고요. ‘외식하는 자들은, 너희 바리새인이여! 너희가 회당의 높은 자리와, 시장에서 문안 받는 것을 기뻐하는도다.’ 즉 그러한 종교행위와, 그런 율법을 지켰던 모든 것들이, 다 자기 자랑을 위해서 했다 말이죠. 그것을 예수님은, ‘외식이다!’ 그런다고요. 그들을 가리켜! 잘난 척하기 위해서 행위를 종교행위를 했던 그들을 가리켜서 예수님이, ‘뱀들아! 독사의 새끼들아!’ 그런다고요.

그래서 제가 여러분! ‘기독교는, 무엇을 했느냐?’가 중요한 것이 아니라, ‘내가 어떤 사람이냐?’가 중요한 거라 그랬죠? 왜 제가 그렇게 이야기하는 거냐면은, 바로 이렇게 자기의 자랑을 위해서, 남들에게 자기의 의(義)를 드러내기 위해서 하는, 행위들이 많단 말이에요. 그런 것들은 외식이란 말이에요. 그래서 우리가 행위만으로, 우리가 ‘신앙이 좋다. 나쁘다.’라고 판단할 수 없다는 것이죠. 어떤 사람은, 그렇게 자기의 자랑을 위해서, 외식! 칭찬을 받기 위해서 그렇게 선을 행하고, 종교행위를 하는 사람들이 있다는 거예요.

여러분! 죄라는 것은, 어떤 형태나 모양이 아니라, 경향(傾向)이라고요. 경향! ‘하나님의 자리에 내가 앉아서, 그 영광을 내가 받겠다.’는 것이죠. 그리고 ‘남들에게 칭찬받고, 내가 나의 자존심도 충족시키겠다!’라는 것이, 죄의 본질이며, 죄의 시작 아닙니까? 아담의 죄! 그런 경향이, 우리의 선한 행위나 종교 행위에 들어가게 되면, 그것은 외식이란 말이에요.

그런데 그 외식이라는 것이, 단순히 욕만 먹는 게 아니라, ‘어찌 너희가 지옥의 판결을 피하겠느냐?’ 이야기할 만큼 무서운 거란 말이죠. 그것을 마태복음 6장에서 더 확실히 자세하게 성경이 설명해 주고 있습니다. 마태복음 6장 1절을 보시면요,

 

(마태복음 6:1-2)

1 사람에게 보이려고 그들 앞에서 너희 의를 행치 않도록 주의하라 그렇지 아니하면 하늘에 계신 너희 아버지께 상을 얻지 못하느니라

 

이 마태복음 6장에서 무엇을 구별하고 있느냐 하면, 사람에게 칭찬받는 것과, 하나님께 칭찬받는 것을, 구별하고 있어요. 그러면서 우리가 하는 대표적인 종교행위 중에, 세 가지를 들고 있다고요. 예로! 그게 뭐냐면은, 기도(祈禱)와 금식(禁食)과 구제(救濟)예요. 기도와 금식과 구제를 하면서, 외식하는 자들은 어떻게 하며, 하나님을 정말 사랑하는 그들의 순수한 마음에서 나오는 그런 행위는, 어떤 것인지를 구별하고 있다고요. 2절에 보면요,

 

2 그러므로 구제할 때에 외식하는 자가 사람에게 영광을 얻으려고 회당과 거리에서 하는 것 같이 너희 앞에 나팔을 불지 말라 진실로 너희에게 이르노니 저희는 자기 상을 이미 받았느니라(그래요.)

누구를 도와줄 때, 누구를 구제할 때, 사람에게 칭찬받기 위해서 떠벌리면서 도와주는 것! 그것을, 외식이라 그런단 말이요. 도와주고도 예수님에게 욕먹는 거예요.

만약에 이러한 마음으로 했다면, 여러분께서 잘 아시는 그 신장로님이요, 많은 분들 돕고 계시거든요. 제가 옆에서 가까이서 보니까, 잘 알죠. 그런데 그분이 누구를 도울 때, 어떤 약속을 하시냐 하면, ‘만일 당신 입에서, 어떤 경로를 통해서건, 내 이름 석 자가 나오게 되면, 그걸로 끝이다!’ 그렇게 신신당부를 하세요. 그러니까 아무도 모르게 돕는 거예요. 아무도 모르게!

그런데 무슨 수재의연금 갖다 낸다든지, 무슨 성금 낼 때 말이에요. 그 붙들고 한 5분씩 서있어야 되잖아요? 주는 사람, 받는 사람! 그 어색한 김치 표정 지으면서! 그거 왜 그러는 거죠? 사진 찍어서 알려야 되니깐요. 이 사람이 빨리 받아가려고 그러면, 꼭 잡고 있잖아요? 사진 더 찍어야 된다고! 그것을 우리는 외식이라 그러는 거예요. 그거는 돈 주고 착한 일 한다고 하면서, 하나님께 욕먹는 짓이라는 것이죠.

제가 옛날에 우리 대학교 옆에, 그 신림동에서 야학을 4년 동안 했는데, 정말 열심히 했어요. 아이들 그 3-40명 모아서, 정신박약아도 있고, 정신지체아도 있고, 그 아이들 모아서 매일 우리가 돌아가면서! 학생들이 무슨 돈이 있어요? 만 원씩 내어서, 아이들 밥 다 해먹이고, 공부 가르치고, 운동 가르치고, 같이 놀아주고, 목욕탕 데려가서 목욕하고!

제가 그런데 4년 동안 내리 저하고 싸운 내용이 뭐냐면, 바로 이거예요. ‘내가 정말 이들을 사랑하는가? 아니면 남들이 나를 칭찬해 주는 그 칭찬에, 지금 익숙해져가고 있는 것인가?’를 4년 동안 싸웠다고요. 그래서 결국 마지막에 결론을 내린 것은, ‘나는 이들을 사랑하는 것보다, 남들이 나를 향해서 칭찬해주는 그 칭찬이, 더 좋았던 것이다.’라는 결론을 내렸다고요.

거기에 그때 벌써 그 20대 초반에 사법고시 합격해서, 영감님이라고 불리던 우리 후배가 있었어요. 걔도 똑같은 생각을 한 거예요. 지금은 굉장히 한국에서 날린 검사가 되어있죠. 아주 유명한 아나운서하고 결혼해서! 그 친구가 나중에 저하고 둘이 딱 마주앉아서, 아무 말도 안 했어요. 서로! 그러고선 서로 얼굴 쳐다보면서, ‘너도 그러니?’ 그랬더니, 그 친구가, ‘형도 그래?’ 그러더라고요. ‘그래!’ 우리가 무슨 결론을 내렸냐면, ‘우리 더 이상 이곳을 더럽히지 말자 떠나자!’ 그래서 그만뒀다니깐요.

저희 집사람은, 제가 거기서 그렇게 열심히 섬기는 거 보고, 저한테 반해서 저한테 시집왔어요. 제가 그렇게 그런 마음으로 한 것도 모르고! 여러분! 그건 외식이에요. ‘남들이 나를 어떻게 평가해줄까?’라는 동기에서 뭔가 시작이 된다면, 그것은 외식(外飾)이라고, 성경이 이야기하는 것입니다. 그리고 5절, 6절에 보면요,

 

(마태복음 6:5)

5 또 너희가 기도할 때에 외식하는 자와 같이 되지 말라 저희는 사람에게 보이려고 회당과 큰 거리 어귀에 서서 기도하기를 좋아하느니라 내가 진실로 너희에게 이르노니 저희는 자기 상을 이미 받았느니라

 

예, 심지어 우리는 기도를 할 때도 사람에게 보이기 위해서 기도한다니깐요. 새벽기도도 사람에게 보이기 위해서 나오는 사람들이 있어요. 그리고 온갖 미사여구 동원해서, 기도 연습해오는 사람들이 있죠? 예, 연습 많이 하세요. 그러나 그 마음의 동기가, 이렇게 사람들에게 보이기 위해서 기도를 한다는 것은, 말이 안 된다는 거예요.

어떤 장로님은요, 자기가 장로가 되어서, 지금까지 새벽기도를 한 번도 안 빠졌다는 것을 자랑스럽게 여겨요. 그래서 제가 그 장로님보고, ‘장로님! 도대체 어떤 마음으로 새벽기도를 여태까지 한 번도 안 빠지신 것입니까?’ 80이 다 되셨으니깐요. 그랬더니, ‘남들이 장론데 새벽기도 안 나온다고 뭐라 그럴까봐 나가기 시작해서, 지금까지 그렇게 나가고 계시다’는 거예요.

그것은요, 여러분! 율법으로부터 죽은 우리를, 다시 율법으로 묶는 거예요. 꼭 그런 사람들이요, 그냥 매일 나가다가, 목사가 가끔 한두 번 새벽기도 못 나오면, 뒤에 가서 욕한다 말이에요. ‘야! 장로는 한 번도 안 빠지는데, 목사가 새벽기도 빠진다.’고 욕하는 사람들은 다 그런 분들이에요. 자유롭지 못한 분들!

기도가 뭔지 알고, 하나님 앞에서의 그 종교행위라는 게, 선한 신앙생활이 뭔지 아는 분들은요, 절대 그렇게 남을 향해서 지적하고, 자랑할 수가 없다고요. 그리고 교회마다, 자기 이마에다가 ‘나는 기도 잘하는 사람!’ 그렇게 써 붙이고 다니는 사람들이 있잖아요? ‘내 기도 받아야, 가정이 행복하며, 내 기도 받아야, 비즈니스가 풀리며, 이렇게 무리로 데리고 다니면서, 기도해주면서 다니는 사람들이 있죠?

여러분! 기도라는 게 뭡니까? 내가 할 수 없기 때문에, 이제 누군가의 도움을 받아야 되겠다는 게 기도의 시작이잖아요? 자기가 할 수 있는 거면, 뭐 하러 기도해요? 열심히 노력하면 되지! 이건 내가 못하는 것이니까, ‘하나님! 도와주십시오!’가 기도잖아요? 그런데 자기가 기도하면, 그 하나님도 움직일 수 있다는 게 말이 되냐 말이죠? 하나님은 그렇게 목표도 없고, 계획도 없는 분이시냐 말이에요? 우리가 그냥 매달려서 조르면, 하나님이 자기의 뜻도 변개하시는 분이라면, 우리가 그 하나님을 어떻게 믿겠냐 말이에요?

기도라는 것은요, 나의 불가능함을 시인하고, 거기서부터 출발하는 게 기도잖아요? 그런데 그 기도를 자랑을 하고 다니고, 내가 기도해서 누구누구 응답받았다는 것을, 어떻게 자랑하냐고요?

마가복음 9장에, 벙어리 귀신 들린 아이 이야기가 나오죠? 예수님이 세 제자와 함께 변화산에 올라갔다가 내려오시니까, 이 벙어리, 귀머거리 귀신이 들린 아이가, 괴로워하고 있어요. 그 부모가 제자들에게 찾아와서, 귀신을 쫓아달라고 했다고요. 제자들은 귀신을 쫓아낼 수 있을 줄 알았어요. 왜냐면? 그 전에 이미 귀신을 쫓아내본 경력이 있다고요. 경험이 있다 말이죠.

그 제자들은 그 능력이 자기에게 있는 줄 알았어요. 그렇기 때문에 예수님이 안 계신 사이에, 자기들이 한번 뭔가 보여주고 싶었던 거예요. 자랑하고 싶었던 거예요. 자기가 예수님 다음 계급 정도는 된다는 것을, 사람들에게 인정받고 싶었던 거라고요. 그래서 귀신을 쫓아내려고 하는데, 안 나갔어요. 그래서 예수님이 오셔서, 귀신을 쫓아내준 후에, 제자들이 물어보죠. ‘왜 우리는 귀신을 못 쫓아냈습니까?’ 그랬더니, 예수님이 ‘기도와 금식 이외에는 이런 유가 나갈 수 없다!’라고 그런다고요.

여러분! 이 제자들은 유대인이에요. 그리고 하나님나라를 전파하던 예수 그리스도의 제자들이라고요. 이들이 귀신을 쫓으면서, 기도 한 번 안 했을까요? 정말? 그런데 예수님이 그들을 향해, ‘기도와 금식 외에는 이런 유가 나갈 수 없다!’라고 이야기한다고요. 너희들이 너희들을 나타내고, 너희들의 의를 나타내고, 자랑하기 위해서 하는 것은, 기도도 아니라는 거예요. 그거는 하나님이 듣지 않으신다는 이야기예요.

그런데 어떻게 무리를 지어 돌아다니면서, 업소마다 돌아다니면서, ‘우리 기도 받아! 네 비즈니스 잘 풀릴 거야! 우리 기도 받아! 네 가정이 평안해질 거야!’라는 이야기가 어떻게 나오냐 말이에요? 그냥 뒤에서 몰래 눈물 흘리며 기도해 주는 거는, 오케이! 그렇지만 기도를 한다는 걸 가지고, 이렇게 자랑을 한다는 것은, 있을 수가 없는 것이라는 이야깁니다.

혹시 창세기의 이 구절 때문에, 그렇게 오해하시는지 모르겠어요. 창세기 49장 22절 이하에 보면요, 예, 이 화면에 올려드릴 테니까, 한번 읽어 보세요. 야곱이 요셉에게 축복하는 장면이에요.

 

[ (창세기 49:22-26)

22 요셉은 무성한 가지 곧 샘 곁의 무성한 가지라 그 가지가 담을 넘었도다

23 활쏘는 자가 그를 학대하며 그를 쏘며 그를 군박하였으나

24 요셉의 활이 도리어 견강하며 그의 팔이 힘이 있으니 야곱의 전능자의 손을 힘입음이라 그로부터 이스라엘의 반석인 목자가 나도다

25 네 아비의 하나님께로 말미암나니 그가 너를 도우실 것이요 전능자로 말미암나니 그가 네게 복을 주실 것이라 위로 하늘의 복과 아래로 원천의 복과 젖먹이는 복과 태의 복이리로다

26 네 아비의 축복이 내 부여조의 축복보다 나아서 영원한 산이 한 없음 같이 이 축복이 요셉의 머리로 돌아오며 그 형제중 뛰어난 자의 정수리로 돌아오리로다 ]

 

축복(祝福)이라는 것은 뭐죠? 빌 축(祝)! 복 복(福)! ‘복을 빈다’라는 의미죠? 축복이라는 것이! 우리가 지금 축복! 축복! 너무나 그냥 말을 잘못 쓰고 있으니까, 뭐 내가 받는 이 세상의 복! 그런 거 축복으로 알고 있는데, 뭐 괜찮아요. 그렇게 쓰자고요. 축복은, 원래 성경에서 말하는 축복은, 빌 축! 복 복! 해서 기도하는 거예요. 복을 빌어주는 거! 야곱이 요셉에게 복을 빌어주고 있다고요. 하나님께!

그런데 뭐라고 이야기하느냐면, ‘네 하나님께서 너에게 복을 주실 것이다.’가 아니라, ‘내 하나님’이라고 그래요. 내 하나님! 내 하나님! 야곱의 하나님! 네 아비의 하나님! 네 아비는 누구에요? 야곱! 자기를 이야기하는 거예요. 그리고 심지어 26절에서, ‘네 아비의 축복이, 야곱! 자기의 기도가, 내 부모 중의 축복보다 낫다.’라고 그런다고요. ‘내 조상 아브라함과 이삭의 기도보다, 내 기도가 더 낫다’라고 이렇게 이야기 한다고요.

이 장면을 가지고 사람들이, ‘봐라! 약발이 더 있는 기도가 있고, 그렇지 않은 기도가 있다.’라고 이렇게 이야기 할 수도 있을 것 같은데, 이 이야기는, 그 이야기가 아니잖아요? 여러분! 야곱이 도대체 어떤 사람인데, 자기 조상인 아브라함과 이삭보다, 자기의 기도가 더 낫다고 이야기하냐고요? 이 야곱에 비하면, 아브라함과 이삭은 신앙의 승리자들이요. 야곱은요? 순 죽을 때까지 사기만 치던 사람이에요. 이 사람은! 그런데 어디다 대놓고, 자기가 자기 아버지와 할아버지의 기도보다, 자기 기도가 더 낫다고 이야기 하냐고요?

그것은 이 야곱이, 자기 같은 인간을, 이렇게 못난 인간을 구원해 내주신, 그 하나님의 사랑과 은혜! 내가 겪은 그 하나남의 그 큰 사랑과 은혜! 그것을 내가 겪었기 때문에, 우리 아버지와 우리 할아버지가 겪은 그 사랑보다, 나는 더 큰 사랑을 경험했다고 이야기하는 것이지, 내 기도가 더 효력이 있다고 지금 이야기하는 거 아니라고요.

야곱은 알았어요. 자기가 백삼십 몇 살에 바로 앞에 가서, 바로가 ‘당신 몇 살이요?’ 그러니까, ‘내 나그네 인생! 백서른 몇 살에, 참 험악한 삶을 살았습니다.’라고 스스로 고백할 정도로, 그의 삶은, 정말 사기로 점철된 그런 삶이였다고요. 그런데 어느 날 보니까, 하나님이 자기를 끌고 가시면서, 끝까지 구원해 내신 것을, 야곱은 알았던 거예요. 그렇기 때문에 내가 그들! 우리 할아버지와 아버지보다 더 큰, 하나님의 사랑과 은혜를 경험했다는 뜻이라고요. 이것은!

어떤 의사가, 아주 용한 의사가 있다고 그래요. 그렇게 평판이 나있는 용한 의사가 있어요. 그런데 어떤 사람은 가서 티눈을 고침을 받았어요. 어떤 사람은 가서 백혈병을 고침을 받았어요. 누가 더 이 사람이 용하다는 것을, 진정으로 체험하고 경험한 사람입니까? 누가 더 깊이 이 사람이 용한 의사라는 것을, 깨달을 수 있을까요? 백혈병이 나은 사람이, ‘야! 참 이사람 진짜 용하다!’라는 것을, 더 깊이 알 거 아니에요? 그런 의미에서, 야곱이 지금 요셉에게 이야기하는 것이지, 내 기도가 우리 아버지와 할아버지의 기도보다 더 약발이 있다. 이런 얘기하는 거 아니라고요.

기도라는 것은, 내가 얼마나 불가능한 인간이며, 하나님만이 내 인생의 주인이시라는 것을 고백하고, 그보다 먼저, 내가 천지를 창조하신 하나님 앞에서, 기도를 드릴 수 있는, 그렇게 기도를 드릴 수 있게 된 신분이라는 것에, 감격하며 들어가는 거! 그게 기도라고요. 아니, 어떻게 우리가 하나님 앞에 서요? 하나님은 죄인들을 보시면, 돌격해서 죽여 버리는 게, 하나님이셨잖아요? 그런데 우리가 어떻게 이런 신분이 되어서, 매일마다 지성소에 들어 가냐 말이에요? 거기부터 감격하고 들어가는 게 기도라고요. 그런데 어떻게 기도하는 것을 자랑하냐 말이죠? 그것은 외식이라는 것입니다.

그리고 마태복음에서 세 번째로 언급하는 종교행위가 바로, 금식(禁食)이에요. 16절에 보시면,

 

(마태복음 6:16)

16 금식할 때에 너희는 외식하는 자들과 같이 슬픈 기색을 내지 말라 저희는 금식하는 것을 사람에게 보이려고 얼굴을 흉하게 하느니라 내가 진실로 너희에게 이르노니 저희는 자기 상을 이미 받았느니라

 

사람들은 금식(禁食)을 하고도 자랑해요. ‘나 3일 했어!’ 그럼 옆에 있다가, ‘난 1주일 했다.’ 저쪽 뒤에 있는 사람이, ‘나는 40일!’ 그럼 그냥 거기서 숙연해지는 거죠. 어떤 사람은 40일 금식 5회 실시! 이거는 더 우리를 낙담케 하죠? 그렇게 자랑하는 사람들이 있다니깐요. ‘금식은 3일째가 가장 힘들어!’ 그거 왜 얘기해요? 나는 했다는 거죠!

여러분! 금식이 뭡니까? 밥을 굶는 거예요. 그죠? 밥을 왜 굶습니까? 우리 인간이, 힘의 근원으로 알고 있는 게 뭐예요? 먹는 거예요. 나의 에너지원이 뭡니까? 나의 힘이 뭐예요? 먹는 거죠? 그 먹는 것을 끊는다는 것은, ‘이제 나는 나의 힘! 나의 에너지! 나의 능력을 의지하지 않고, 오직 하나님만을 의지하겠습니다!’라는 신앙고백이, 금식이라고요. 어떻게 해서든지 밥을 굶어서, 자기를 자해(自害)하는 모습을 하나님 앞에 보여드리면서, ‘하나님! 내 기도 안 들어주면, 나 더 굶을 거야!’ 이거는 자해라고요. 자해(自害)! 그거는 ‘굶식’이라고 그러는 거야! 금식이 아니라요.

아울러 금식은요, 설사 내가 기도하는 것이 들어지지 않는다 할지라도, ‘하나님! 나는 내가 먹는 것!’ 우리가 왜 공부하고 왜 열심히 일하죠? 먹고 살기 위해서 하는 거예요. ‘하나님! 나는 여기에 눈 두지 않습니다. 나는 이것을 내 힘의 근원으로 생각하지 않고, 하나님이 기뻐하시는 것을, 내 양식으로 삼겠습니다!’라는 금식이란 말이에요.

그래서 그러한 삶이 살아지지 않을 때, 여러분! 굶으세요! 고통을 느껴보세요! 그 배고픔의 고통이 얼마나 큰 것인지 느끼면서, ‘내 삶에 오는 고난이, 이렇게 아프고 힘들지라도, 나는 하나님이 기뻐하시는 것만을, 나의 양식으로 삶을 거야!’라고 다짐하고, 고백하는 것이 금식이라고요.

또 금식의 또 하나의 의미는, 하나님 앞에서의 못난 자신! 범죄 한 자신을 슬퍼하며, 애통해 하며, 하나님 앞에 나와 회개하는 것! 구약에 많이 나오죠? 재를 뒤집어쓰고 금식하는 거! 여기에서 애통하며 슬퍼한다고 해서, 그냥 그것이 그 말 그대로, 애통하며 슬프기만 한 것은 아니에요.

자기가 이제 죄를 깨닫고, 하나님이 누구신지를 깨닫고, 성령에 의해서요. 그렇게 되었기 때문에, 자기의 옛날에 저질러 놓은 죄가 너무나 지저분하고 추한 거예요. 그러니까 슬프고 애통하지만, 거기에서 건져내어짐을 받은 기쁨이 함께 공조하는, 그러한 슬픔과 애통이 있는 것이, 바로 금식이란 말이죠. 금식에는 좀 더 적극적인 그러한 의미가 들어가 있는 것입니다.

‘하나님! 나는 하나님을 내 최고의 기쁨으로 삶습니다. 나는 먹는 즐거움을, 하나님을 즐거워하는 것과 바꿀 수가 없습니다!’라는 고백이, 금식이란 말이에요. 그런데 금식하는 거 갖고, ‘나는 40일 금식했어! 아! 3일째 힘들었어! 15일쯤 되니까, 아! 그때는 정신도 없더라!’

아뇨. 금식은 그렇게 자랑할 수 있는 것이 아닙니다. 이사야서에 보면, 58장을 보면요, 성경이 말하는 금식! 하나님이 원하는 금식이 무엇인지, 정확히 나타내주고 있어요.

 

(이사야 58:4-7) 

4 너희가 다투고 싸우면서, 금식을 하는구나. 이렇게 못된 주먹질이나 하려고 금식을 하느냐? 너희의 목소리를 저 높은 곳에 들리게 할 생각이 있다면, 오늘과 같은 이런 금식을 해서는 안 된다.

5 "이것이 어찌 내가 기뻐하는 금식이겠느냐? 이것이 어찌 사람이 통회하며 괴로워하는 날이 되겠느냐?" 머리를 갈대처럼 숙이고 굵은 베와 재를 깔고 앉는다고 해서 어찌 이것을 금식이라고 하겠으며, 주님께서 너희를 기쁘게 반기실 날이라고 할 수 있겠느냐?

6 "내가 기뻐하는 금식은, 부당한 결박을 풀어 주는 것, 멍에의 줄을 끌러 주는 것, 압제받는 사람을 놓아 주는 것, 모든 멍에를 꺾어 버리는 것, 바로 이런 것들이 아니냐?"

7 또한 굶주린 사람에게 너의 양식을 나누어 주는 것, 떠도는 불쌍한 사람을 집에 맞아들이는 것이 아니겠느냐? 헐벗은 사람을 보았을 때에 그에게 옷을 입혀 주는 것, 너의 골육을 피하여 숨지 않는 것이 아니겠느냐?

 

내가 기뻐하는 금식은 바로 이런 거라는 것이죠. 하나님께서 이야기하시는 거 아닙니까? 단순히 밥을 굶는 것이 아니라, 이러한 고백이란 말이에요. ‘하나님! 나는 하나님이 기뻐하시는 것을, 나의 양식으로 삶고 살아가는, 그리스도인입니다!’ 이게 금식이란 말이에요. 그래서 여러분은, 매일 매일 금식하고 계신 거예요. 금식하는 삶을 살고 계시는 거예요.

그런데 그 삶이, 내 삶에 나타나지 않을 때, 실제로 여러분! 금식해보시란 말이에요. 그러면서 ‘나는 왜 그렇게 살고 있지 못한 가?’에 대해서, 회개(悔改)하시라고요. 그래서 확인하시라고요. ‘나의 신분은, 이런 열매가 반드시 내 삶에 나타나야 하는 게 바로, 내 신분이야!’라고 하면서, 여러분! 그 밥을 굶으면서, 그런 것을 깨달으시는 것이, 금식이란 말이에요. 금식의 참된 의미!

그 의미를 아는 자들은, 삶 속에서 이러한 열매가 나타나는 거예요. 불상한 자들을 불쌍히 여기고, 가난한 자들을 도우며, 압제받는 자들을 건져내는 그러한 삶이, 자기의 인생 속에서 나타나는 거라고요. ‘야! 나는 며칠 금식했는데, 너는 단 한 끼도 못 굶냐?’ 이건 금식(禁食)이 아니라, 외식(外飾)이라고요. 외식은 뭐라고요? 자기를 자랑하는 거라 그랬죠? 거기에 대놓고 예수님이 어떻게 욕하셨다고요? ‘뱀들아! 독사의 새끼들아!’ 여러분! 죽도록 밥 굶어 놓고, 이런 욕 들으실 거예요? 죽도록 종교행위 해놓고, 이런 욕먹으실 거예요? 외식이 뭔지를 아셔야 되는 거예요.

우리교회에 몇 주 동안 나오시다가, 안 나오시던 어떤 분이 있어요. 왜 그러실까 궁금했는데, 어제 그 답을 들었어요. 우리 교회에 와서 자기가 일을 좀 열심히 하셨대요. 그런데 목사가 그 일을 안 알아줬다는 거예요. 그게 이유예요.

여러분! 우리 개척한지 이제 6개월 됐는데, 뭐 대단하게 우리 교회에서 할일이 있었습니까? 그동안에? 뭐 할 일이라 해봐야, 쓰레기 좀 몇 번 갖다 버리고, 주차장에서 주차관리 몇 번 하셨을 거예요. 그거 안 알아준다고, 교회를 옮기셨다. 그러시더라고요. 그러면서 그분이 충고하시는 게, 교인들이 무슨 일을 하면, 무슨 팀장! 무슨 장! 이런 것을 자꾸 만들어서 줘야 된대요. 여러분! 교회 안에서 그런 정치가 있어야 되겠습니까? 교회를 유지하기 위해서, 어떤 그런 인간적인 정치가, 이 교회 안에 들어와야 되냐 말이에요?

그러니까 자기 자랑을 위해서, 자기의 의(義)를 위해서, 일을 하다 보니까, 그거를 누가 안 알아주면 속이 상한 거예요. 여러분! 그것을 외식이라고 한다니깐요. 열심히 일을 하고도, 지옥 간다니깐요. 마태복음에서 뭐라고 그래요? ‘내가, 하나님! 이런 일도 하고, 이런 일도 하고, 이런 일도 했는데, 아니, 나를 모르신단 말이에요?’ ‘이 불법을 행하는 자들아! 내게서 떠나가라!’

아니, 죽어라고 일했어요. 죽을 때까지! 교회 위해서, 하나님 위해서 일을 했는데, 예수님이 그러는 거예요. ‘이 불법을 행하는 자들아! 내게서 떠나가라!’ 지옥으로 가라는 거죠. 외식하는 자들! 그들에게 하는 이야기에요. 누구에게 보이기 위해서 한 일들은, 예수님으로부터, 이런 저주의 욕을 듣게 된다는 것이죠.

예수님께서 마태복음 23장에서, 이렇게 외식(外飾)을 정리해주고 계세요.

 

(마태복음 23:1-3, 5-7)

1 이에 예수께서 무리와 제자들에게 말씀하여 가라사대

2 서기관들과 바리새인들이 모세의 자리에 앉았으니

3 그러므로 무엇이든지 저희의 말하는 바는 행하고 지키되 저희의 하는 행위는 본받지 말라 저희는 말만 하고 행치 아니하며

 

바리새인들더러 예수님이, ‘그들은 말만 하고 행치 아니한다.’라고 이야기해요. 바리새인들이 정말 행치 않았나요? 아니요, 바리새인들만큼 열심히 종교행위를 행한 사람들이 없어요. 그들은 목숨 걸고 율법 지켰다니깐요. 목숨 걸고 하나님을 섬겼다고요. 그런데 예수님은, 하나님이신 그분이, ‘너희들은 아무것도 안했다.’라고 이야기한다니깐요. 그게 이 외식에서 나오는 것입니다. 자기의 자랑을 위해서 한 것이면, 그건 아무 것도 안한 것과 똑같은 거라는 거예요. 그러면서 뭐라고 계속해서 말씀하시냐 하면, 5절을 보면요,

 

5 저희 모든 행위를 사람에게 보이고자 하여 하나니 곧 그 차는 경문을 넓게 하며 옷술을 크게 하고

6 잔치의 상석과 회당의 상좌와

7 시장에서 문안 받는 것과 사람에게 랍비라 칭함을 받는 것을 좋아하느니라

 

그들이 좋아하는 게 뭐예요? 잔치의 상석에 앉고, 회당의 상좌에 앉고, 시장에서 문안 받는 거 좋아하고, 사람들이 랍비라 불러주는 것을 좋아한다고요. 그러한 동기에서 그들의 행위가 나왔다고요. 그것을 예수님은 외식(外飾)이라고 하고, 그것은 아무 것도 안한 것이라는 거예요.

이러한 동기(動機)로 일을 하는 사람들은, 분명하게 나타나는 현상이 있는데, 뭐냐면? 자기의 자랑을 위해서 남을 희생시켜요. 반드시 자기들의 깨끗함을 자랑하기 위해서, 다른 사람의 죄를 지적해야 돼요. 그들은! 왜냐하면? 남의 불행을, 고명으로 좀 얹어놔야, 자기의 행복이 더 고소한 거예요. 남의 불행은, 나의 행복! 남의 죄(罪)를 좀 들춰내야, 자기의 그 알량한 의(義)가, 더 빛이 나는 거예요. 자기의 자랑이 더욱 더 드러난다고요. 자기의 행복이 더욱 더 드러난다고요. 남의 죄를 어떻게 해서든지 까집어 내어서, 드러내놓으면, 자기가 의롭다는 것이 드러나기 때문에, 그들은 반드시 남을 희생시켜요. 정죄한다고요. 돌아다니면서!

그러니까 오죽하면, 마태복음 7장에서, 예수님이, ‘외식하는 자들아! 너희는 어떻게 너희 눈에 들보는 못보고 남의 눈에 그 티만 보느냐?’ 그러면서 그러잖아요? 외식하는 자들! ‘외식하는 자들아! 네 눈에 들보를 봐라!’ 그런다고요. 특징이라니깐요. 남을 희생시켜요. 남을 정죄한다고요. ‘나는 새벽기도 해! 나는 헌금 많이 해! 나는 선교 갔다 왔어! 나는 성경 많이 읽어! 너는 왜 못해?’ 자기가 한 종교 행위로, 상대방을 두들겨 팬다고요. 그것을 외식(外飾)이라고 하는 거예요. 우리는!

선교 갔다 온 거요? 선교사들 갔다 오면, 자기는 뭐 했고, 뭐 했고, 막 자랑하죠? 그게 자랑이에요. 선교가 뭐라 그랬습니까? 여러분! 오죽하면 여기에 있으면 안 될 것 같으니까, 하나님이 거기까지 보내서, 그 거룩을 만들어 가시겠어요? 단기선교도 마찬가지예요. 여기 남아있는 사람들은, 여기 남아있어도 되는 사람들이에요. 여기 남아 있어서는 안 될 사람들! 선교지까지 보내서, 뭔가 가르치고 싶은 게, 선교라고요. 그런데 갔다 와서 그걸 자랑하냐 말이죠?

헌금도 마찬가지고요, 목사도 마찬가지예요. 목사가 뭐가 대단해서 목사가 되는 겁니까? 아녜요, 목사는, 그렇게 딱 묶어놓지 않으면, 천방지축 자기 마음대로 살아요. 그런 가망이 많은 사람들이, 목사 되는 거예요. 그렇기 때문에 묶어놓는 거예요. 저 같은 사람은, 지금 시중에서 새로운 술이 나오면요, 복분자주, 무슨 산사춘! 이런 게 나오면, 머릿속에서 그 맛이 재생이 돼요. 이렇게! 이거는 무슨 맛일 것이다. 이게! 그러니까 하나님이 사무실 안에 묶어 놓는 거예요. 공부하게 하시는 거예요. 말씀 연구하게 하시는 거예요. 안 그러면은, 이거 또 돌아다니면서, 술 퍼마시고 못된 짓 하고 다닐 거니까! 그런데 그 일을 자랑하냐 말이에요?

종교행위가 자랑으로 나갈 때, 그게 얼마나 무시무시한 것인지, 여러분 꼭 아셔야 되는 거예요. 마치 지렁이들 앉혀 놓고, 손톱에 매니큐어 칠하면서, ‘너희들! 손톱 있어?’ 연체동물이, 뼈가 없는 게 연체동물인데, 손톱이 어디 있어요? 그거 자랑하는 거죠. 뭐 너희들! 속눈썹 있어? 지렁이가 눈썹이 어디 있어요? 그보다 더 웃긴 일이에요. 그건! 우리의 신앙생활! 우리의 종교행위가, 우리의 입으로 자랑거리가 되서는 안 된다는 것이죠.

여러분! 예수께서, 안식일에 손 마른 사람을 고쳤어요. 손 마른 사람을 고치시고, 그 바리새인들에게 뭐라고 물어봅니까? ‘내가 안식일 날, 안식일 날! 죄를 범하는 게 났냐? 선을 범하는 게 났냐? 안식일 날 사람을 죽이는 게 옳으냐? 살리는 게 옳으냐?’ 살리는 게 옳죠? 선을 행하는 게 옳죠? ‘그러면 행해야지, 너희들은 지금 율법을, 너희들 생색내기 위해서 지키는구나!’ 딱 지적받으니까, 어떻게 해요? 자기들이 생색이 안 나고, 예수님이 생색이 나기 시작하고, 예수님이 드러나기 시작하니까, 그를 죽이려고 하는 거예요. 그 율법을 가지고!

율법이라는 게 뭐죠? 하나님의 백성들을, 그 죄와 사망에서 건져내기 위해서, 우리에게 요구하신 요구(要求)라고요. 생명을 건져내기 위해서! 그러나 바리새인들은 그것을 가지고, 자기들 생색을 내고 싶었다고요. 그러니까 예수를 죽여 버리는 거예요. 자기들의 생색이 안 나고, 예수가 자꾸 드러나니까, 자기들의 생색을 위해서, 그 예수를 죽여 버릴 수밖에 없는 것이에요. 그것이 바로 교회 안에서 행해지고 있는, 외식의 무서운 결과라고요.

제가 처음에 미국에 왔을 때, 개척교회에 전도사로 들어갔는데, 거기에서 제가 토요일마다 청년들을 모아서, 무슨 마약하고 음악하고 이런 아이들 모아서, 매주 토요일 마다 제가 공연했어요. ‘신나게 놀려면 여기 와서 놀아라! 담배 펴? 여기 와서 펴!’ 그러니까 어떤 여자전도사님이, 전자 피아노를 하나 선물해 줬어요. 그래서 아무한테도 이야기하지 말라 그랬어요. 저한데! 담임목사한테도 애기 하지 말라 그랬어요. 그래서 얘기 안 했어요. 진짜로! 그런데 몇 주 있다가, 사람들이 다 알고 있더라고요. 그리고 그분이 저를 향해서 뭐라고 이야기하느냐 하면, ‘저런 눈치도 없는 인간! 얘기하지 말랬다고 진짜 얘기 안 하냐?’ 생색이 안 나면 못 견디는 거예요.

우리가 서두에 읽었던 요한복음에, 바리새인들이, 군대와 하속들이, 무얼 들고 예수님을 찾아옵니까? 예수님을 죽이러 옵니까? 횃불을 들고 와요. 요한복음이 1장부터 예수에 대해서 뭐라고 증거하죠? ‘예수는 빛이다!’ 그래요. 그 빛! 그 태양을 잡으러오는데, 횃불을 들고온다니깐요. 왜 이런 장면이 설정되어 있는 줄 아세요? 그 빛 때문에, 내가 들고 있는 이 횃불이, 티가 안 나는 거예요. 그 빛 때문에, 내가 들고 있는 이 횃불이, 밝아 보이지가 않은 거예요. 그러니까 그 빛을 죽여 버리는 거예요. 내 횃불을 자랑하고 싶어서! 하나님을 목숨 걸고 섬긴다고 했던 그자들이, 한 일이란 말입니다. 오늘날 동일한 일들이 우리 교회에서 일어나고 있는 것입니다. 여러분!

그것이 교회 안에서 행해지는 외식의 엄청난 결과라 말이에요. 내 자랑 하기 위해서, 하나님까지도 동원하여, 그의 목을 조를 수 있는 것이, 외식의 결과란 말입니다. 그들에게 예수님이 뭐라 그러세요? ‘뱀들아! 독사의 새끼들아! 너희가 어떻게 지옥의 판결을 피하겠느냐?’

제가 그래서 여러분들에게 ‘교회 일 열심히 하라!’ 이런 말 안하는 거예요. 아니에요. 하나님을 정말 아시게 되면, 그 은혜와 사랑을 정말 알게 되면요, 자연스럽게 뭔가 내가 하나님을 위해서 할 게 없는가? 찾아다니게 되어 있어요. 왜? ‘내가 쓰레기 몇 번 버렸는데, 안 알아 주냐?’ 그러고서 튀어 나가는 게 아니라, 내가 받은 하나님의 사랑이 너무나 감사해요. 그런데 뭔가 하고 싶어요.

보면, 보이죠! 요즘 뭐 우리 학생들이 바쁘니깐, 석진이 같은 애는, 요즘 학업이 별로 없으니까, 와서 하는 거예요. 그냥 언제 왔는지도 모르겠어요. 왔다 하고, 그냥 언제 가는지도 모르게 가요. 그런 거예요. 그냥 우러나서 하고 싶은 거예요. 그것이 하나님의 일이어야 한다고요. 그런데 거기에 무슨 자랑이 있겠습니까? 박미자 집사님! 우혜영 집사님! 맨날 부엌에서 그 더운데 일하시지만, 사진도 못 찍게 해요. 내가 이런 거 하는 거 사람들한테 알리기 싫다! 우리 청년들도 마찬가지예요. 그런 거예요.

여러분! 우리는 믿음으로 갖고 있는 그리스도인입니다. 그러면 우리가 가장 본받아야 할 인물이 누구예요? 믿음의 조상! 아브라함이잖아요? 그 아브라함을 향해서 하나님이 어떻게 이야기 하시냐면, ‘내가 너를 구원해내 준다.’ 거기에만 그치는 게 아니라, ‘아브라함으로 말미암아 모든 족속이 복을 받으리라! 네가 복의 근원이 될지라.’라고 이야기해주신다고요.

그런데 아브라함이 대규모 전도 집회 연 적이 있습니까? 무슨 프로그램 만들어 낸 일이 있어요? 아브라함이 무슨 일을 그렇게 했습니까? 여러분! 그냥 자기의 삶 속에서, 하나님이 요구하시는 거룩한 삶을 스트러글(stuggle) 하면서 만들어 간 거 밖에 없어요. 와이프도 두 번씩 팔아먹으면서, 하나님한테 혼나고, 또 일어나서, 다시 또 일어나보고, 전진해보고 하면서, 그 거룩까지 가는 거예요. 우리의 삶은 그거예요.

무슨 일을 해서, 뭘 자랑거리로 만들어서, 하나님 앞에 갖다 바치는 게 아니라고요. 그 자랑이 여러분을 지옥으로 끌고 갈 거란 말입니다. ‘뱀들아! 독사의 새끼들아! 너희들이 어떻게 지옥의 판결을 피하겠느냐?’

우리는 그런 일 하는 거 아니에요. 이 땅에 내려와서, 우리가 업적 쌓는 거 아니고, 우리의 거룩을 만들어 가는 거예요. ‘나는 오늘도 하나님의 뜻에 맞게 살아갔는가?’ 그것을 확인하다 보면, 그래, 자연스럽게 우러나서 일을 하게 된다니깐요. 그렇게 되기 전에, 여러분! 엉뚱하게 자기의 자랑을 위해서, 남들에게 나의 의를 드러내기 위해서, 일하는 것은, 멈추시란 말이에요. 그게 우리 그리스도인의 바른 신앙생활이에요.

여러분! 죽도록 교회일 하고, 외식하는 자 되어서, 예수님께 그렇게 저주의 욕 듣는, 그런 불행한 사람들 되지 마시고, 먼저 자기의 거룩을 챙겨 가세요. 그러다 보면 하나님이 분명히 맡기실 일들이 눈에 보이게 되어 있어요. 그럼 그때, 말없이 하십시오! 말없이! 그럼 되는 거예요. 기도하겠습니다.