Kairosを生きる人々

28 - クリスチャンの苦難 2 (避ける道はあるのか?) (コリント人への手紙第一 10:12-14) 본문

教会論

28 - クリスチャンの苦難 2 (避ける道はあるのか?) (コリント人への手紙第一 10:12-14)

cocoa 2026. 3. 8. 20:28

 

 

28 - クリスチャンの苦難 2 (避ける道はあるのか?) (コリント人への手紙第一 10:12-14)

(コリント人への手紙第一 10:12-14)

 

 

コリント人への第一の手紙10章12節から14節までです。

 

(コリント人への第一の手紙10:12-14)

12 だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。

13 あなたがたに起こった試練は、人が耐えられる範囲を超えたものではありません。神は真実な方です。あなたがたが耐えられない試練を許されることはなく、試練に遭う時には、必ず逃れる道も備えてくださいます。そうすれば、あなたがたは耐え忍ぶことができるのです。

14 だから、愛する者たちよ、偶像礼拝を避けなさい。

 

私たちは先週から3週間にわたり、クリスチャンの苦難について考察しています。

クリスチャンの苦難!先週、私たちは、クリスチャンにとって苦しみと苦難と試練は当然であり、必然的であると結論づけました。なぜクリスチャンに苦しみと苦難とそうした試練があるのか?聖書から、クリスチャンは世と背を向けて生きなければならないため、当然、悪魔とこの世が私たちを攻撃するのだと学びました。それゆえ、私たちは苦難と痛みを経験するのです。

 

そして第二に、私たちが神の聖なる民として造られていく過程において、従順でない時、神は私たちを「パイドイア、懲戒(しつけ)される」と述べました。ですから「それは愛に基づいて、私たちに鞭を打つのであって、私たちを憎んで罰するのではない」とお話ししました。

 

そして三つ目に、神は、私たちが何の過ちもないにもかかわらず、私たちの聖さを造り出すために、時に苦難と痛みを許され、より一層純金のような信仰を造り出される。そう私たちは学びました。ですから全てのこと!この三つの状況!全てが私たちにとって有益であるとおっしゃいました。

 

しかしおそらく皆さん、頭では理解できたとしても、簡単にそこに同意はできないでしょう。誰もがその苦しみと苦難が、自分を避けてくれることを願うからです。しかし皆さん!今日私たちがまた、クリスチャンの苦難について学んでみると、その苦難と苦しみは必ず、私たちの生活に、クリスチャンの生活に、必要なものなのです。

 

私がこうお話しするからといって、私たちはイエスを信じて、いつもみすぼらしくただひたすらに苦難ばかり受け、苦痛ばかり味わわなければならないのでしょうか?もしかしたらそうお考えの方がいらっしゃるかもしれない、無駄に落胆されるかもしれないと思い、お話ししているのですが、そうではありません。

 

私がなぜこの苦難と苦痛と試練について、それらは私たちクリスチャンの生活に必然的だと言うのかというと、私たちがイエスを信じるなら、苦難と苦痛は全て消え去るべきで、病気や痛みも全て消え去るべきで、物質的な祝福が私たちに来るべきだと教える、一部の無知な人々が主張することに対して、私が反論を提起しているのです。「聖書はそのように語っていません」と言うのであって、私たちがイエスを信じるなら、ただひたすら苦難だけを受け続ける、そういうことではないのです。

ですから皆さん、あまり落胆しないでください。「大変だ!一生をそんな風に生きられるのか?」そうではないのです。

 

皆さん!有史以来、宗教が堕落すると、四つの現象が起こります。そうでした。第一に、聖職者が増えることです。なぜなら宗教が堕落すると、聖職者たちがそれを生計の手段と考え始めるからです。だから聖職者が増えるのです!第二に、その聖職者たちを養うための宗教機関が増えます。宗教機関が増えるのです!三つ目は、この聖職者たちを養い、宗教機関を運営していくために、お金が必要だということです。だからそのお金を差し出す信徒が必要なんです。だから彼らをしっかり掴んでおける宗教は、当然、祈福(きふく)へと流れていくのです。仏教も同様で、イスラム教も同様で、キリスト教も同様です!

 

人々を集めるために、イエス・キリストの十字架や復活、悔い改め、罪についての説教は、とっくに消え去り、彼らの機嫌を取る説教が横行するようになったのです。それがまさに宗教が祈福化するというものです。こうして福を願う人々だけが集まっていることが宗教集団となるため、第四に、宗教が堕落すると発生する現象として、この宗教集団が巨大な利害集団になってしまうというのです。それがまさに宗教が堕落すると生じるような現象です。

 

私たちこの西部、カリフォルニアだけでも、韓国人牧師でまだ赴任先を見つけられていない、遊んでいる牧師が2,500人います。カナダとこの西部を合わせると、3,000人の牧師が遊んでいるのです。なぜこんなに牧師が増えたのでしょうか?韓国全体の神学生の数を合わせると、全世界の神学生を合わせた数よりも多いと言われていますよね?本当にこれが私たちの韓国のキリスト教が、神の祝福を得た結果であることを切に願いますが、果たして皆さんがお考えになる時、私たちの韓国が向かう、そして私たちの韓国のキリスト教が向かう方向を見た時、皆さん本当にそうお考えですか?

 

オランダの某神学者が、韓国についてこんな評価を下す文章を書きました。『韓国キリスト教徒は、三つしか知らない。第一が神!第二が自分自身!第三がお金!』というものです。正確に見て帰ったのです。私たち韓国人ほど神を熱心に仕える人々がどこにいるでしょうか?主日礼拝!水曜礼拝!金曜賛美礼拝!区域礼拝!時には修練会!復興会!どれほど多いことか?

 

今回、祈祷院に行って、多くのアメリカ人牧師たちに会ったのですが、彼らが『私たちはエブリデイ・ファイブサーティー(everyday 5:30)、五時半にモーニングサービス(morning service)があります』と言うので、『あらまあクレイジー(Are you crazy)?』と言っていました。ありえないということですね。ところがこのオランダの神学者は、そんなに熱心に奉仕する韓国のキリスト教徒たちが、なぜ神に仕えるのかを、「自分の欲望とお金のためだ」と断定したそうです。それは恥ずべき評価と言わざるを得ません。

 

皆さん!スタンダールが書いた『赤と黒』という小説がありますよね?その『赤と黒』という小説の「赤」とは何だと思いますか?枢機卿の制服のことです。赤い制服!黒は裁判官の法服のことです。当時もヨーロッパの青年たちは、自分の欲望を満たし、蓄財し、権力を振るいながら生きていく方法がちょうど二つありました。一つは聖職者になる道、もう一つは裁判官になる道でした。

 

だから青年たちは悩むのです。若い頃!聖職者になるべきか?裁判官になるべきか?聖職者になっても、いくらでも自分の欲望を満たしながら、蓄財し権力を振るうことができるからです!それがまさに宗教の堕落の姿なのです。このように宗教の堕落は、その宗教を非常に利己的なものにしてしまうのです。

 

ですから、他人のことは考えずに、私たちは今、私たち自身を振り返りましょう。私たち自身を!皆さんご自身がどうであるかを顧みてほしいのです。皆さん!キリスト教の本質は、『私が神を利用して、私が必要とするものを手に入れること!私がどれだけ神を利用して、富貴栄華を享受し、この地で幸せに生きるか?』にあるのではないのです。私たちが6ヶ月間考察してきたように、キリスト教の本質は、『私が神の栄光のためにどう生きるべきか?』こそが私たちのキリスト教の本質なのです。私が神をいかに栄光に輝かせるかにかかっているのです。

 

キリスト教は、どう見るかによって、全く異なるのです。来世的なのか?現世的なのか?人間中心主義なのか?神中心主義なのか?これが非常に鋭く分かれているのに、人々はその区別ができていないようです。「どこを見ているのか?」です。私は来世を見つめながら、この地のものを草芥のように見ているのか?それとも、これは関係なく、目に見えないからといって、この地のものだけを追い求めているのか?私は神のために存在するのか?それとも神が私のために存在するのか?この二つは明確に分かれているのです。来世的なのか、現世的なのか?私はあの天の国を望んでいるのか?この地を望んでいるのか?神が先なのか?私が先なのか?この二つは明確に分かれているのです。こっちは偽物で、こっちが本物だと言っているのです。

 

ところがこのキリスト教が変質するにつれ、次第にこの現世的で、利己的で、人本主義的なものを、教会の中に引き入れ始めたのです。だからこうしてキリスト教の本質が揺らぐと、私はイエスを信じれば幸せになり、イエスを信じれば全ての病が去り、イエスを信じれば家庭の平和が訪れるはずなのに、イエスを信じることでそのような苦痛と苦難が訪れるので、人々は混乱するのです。私がイエスを信じれば、神が私を助けて、私を幸せで安らかにしてくださるはずなのに…そう教えられてきたため、自分の人生に苦難や痛みが訪れると、苦しむのです。耐えられないのです。

 

さらに、このように本質が揺らぐため、自分に苦しみや試練が訪れると、「私はイエスを信じたのに、なぜ私の人生にこんなことが起こるのか?神は本当に存在するのか?」というところまで行ってしまうのです。皆さん!聖書は、「現世的で、人間中心主義的な、そのような利己的な信仰を警戒せよ!」と繰り返し語っているのです。ローマ人への手紙16章17節を見てください。

 

(ローマ16:17-18)

17 兄弟たちよ、あなたがたに勧めます。あなたがたの教えに背いて論争を起こし、つまずかせる者たちを見分け、彼らから離れなさい。

18 このような者たちは、私たちの主キリストに仕えるのではなく、ただ自分の腹に仕えているのです。巧みな言葉と媚びる言葉で、純真な人々の心を惑わすのです。

 

巧みな言葉と媚びる言葉で、純真な信徒たちを惑わすのです。『お前たちが腹を満たせばそれでいいじゃないか、他に何が必要なんだ?』そんなところからは離れなさい、ということです。コリント人への第一の手紙6章13節を見ると、

 

(コリント人への第一の手紙 6:13)

13 食物は(食べるものは)腹のためにあり、腹は食物のためにある。しかし神はこれらすべてを滅ぼされるであろう(これらすべては消え去るでしょう)。体は淫行のためにあるのではなく(ここで淫行とは、快楽!安楽!幸福!という意味です。私たちクリスチャンの体は、幸福や快楽、安楽を追求するものではなく)ただ主のためであり、主は体のためにあるのです(これがキリスト教の本質であり、核心です。ここで混乱してはいけません。)

 

さて、私たちは自分の腹のために、神に仕えていると言います。私たちの食べ物のために、神に仕えると言います。そして私たちの快楽と安楽のために、宗教行為をすると言います。それを私たちは偽善(外飾)と言いましたよね?しかし私たちクリスチャンは、「ただ主のために存在する」と使徒パウロが今熱心に訴えているのです。

 

皆さん!その核心から外れてしまうと、私たちはいつも失望せざるを得ません。なぜでしょうか?皆さんの経験上、イエスを信じてから、皆さんの人生に、苦しみと、苦難と、病気と、事業の困難と、家庭の困難のようなものが、実際にあったでしょう?イエス様は「剣をもたらすためにこの地に来た」とおっしゃったのです。夫婦が、親と子が、姑と嫁が、このイエス・キリストを信じるがゆえに、互いに不和になるのです。

 

ですから重要なのは、あなたがたがこの地での立場や状況ではないのです。神は神の子どもたちだけに心をかけています。それゆえ、その神の子の聖さが造り上げられていく過程で妨げとなるものは、たとえ夫婦関係であっても壊してしまうのです。親子の関係であっても壊してしまうのです。神はそれほどまでに神の子どもたちに心を注いでいるのです。あなたがたのこの地上の幸福を壊すことになっても、あなたがたを聖なる者として造り上げ、天の国へ連れて行きたいと願うことが、まさに神の愛なのです。

 

この神の愛と恵みが、この神がいったいどのような方なのか、あまりにも知られていないために、私はそれが嫌だから、「幸せをください!」と言うのです。あなたがたが神について知っていることで、あなたがたは天国に行けません。あなたがたがイエス・キリストについて知っているだけで、あなたがたは天国に行くことはできません。それはチャールズ・スポルジョン牧師が死ぬ日まで語っていたことです。

 

あなたがたがどれほどこの聖書について多くの知識を学んだとしても、その知識があなたがたを天国へ連れて行ってはくれません。この知識が皆さんの人生に、「本当に信仰によって来ているのか?」を確認しなければなりません。それがまさに、神について知っている者と、神を知っている者の違いです。「神について知っている者たちは、それを諦められないと言うでしょう。しかし、神を知っている者は、たとえイエスが、この地に十字架を背負いに来なかったとしても、そのイエスを愛さずにはいられないのです!」これがまさにスポルジョン牧師が語る言葉なのです。たとえイエス様が私のために十字架を担われなかったとしても、真にそのイエス様を知る者は、そのイエス様を愛さずにはいられないのです。それがまさに、神について、イエスについて知る者と、神を知る者との違いなのです。

 

皆さん!聖書が、救済と善行を命じられるのも、そういう次元なのです。「お前たちは本当にキリスト教の本質を知っているのか?知らないのか?」それを神が問うために、「善行せよ!救済せよ!」と言われるのであって、「お前たちが善行し救済しなければ救われない」とカトリックが教えるようなものではないのです。ローマ人への手紙14章15節を見てください。

 

(ローマ人への手紙 14:15-17)

15 もし食物のことで (食べることで) あなたの兄弟が悲しむなら (あなたの周りに飢える者が生まれるなら)それはあなたが愛をもって行わないからです。キリストが代わりに死なれた兄弟を、あなたの食物によって滅ぼしてはなりません。

16 だから、あなたがたの善いことが非難されないようにしなさい。

17 神の国は、食べることや飲むことではなく、聖霊による義と平和と喜びである(そういうことですよ。)

 

神の国!信者の信者たる本質は、物質的なものではないのです。この現世的なものではないというのです。

 

他人を助けられない最大の理由は何ですか?自分が持っているにもかかわらず、他人を助けられない最大の理由?けちだからです。なぜけちになるのか?なぜ守銭奴になるのか?人々は依然として、自分の人生と、自分の存在において、最も重要だと考えているのは、お金だからです。『神の国は食べることや飲むことではなく、聖霊における義と平和と喜びである』とパウロがこう語っているのです。それを知る者は、兄弟姉妹を助けることによって生まれる、その平安と喜びを逃さないのです。

 

皆さん!このようにキリスト教の本質が、私たちの肉体を安楽に、快適にし、また他人の羨望を買うものでないなら、なぜ私たちの境遇や状況のようなものが、この教会共同体の中でそれほど大きく強調されなければならないのでしょうか?

 

ある方の子供が大学に落ちました。ところがその方は教会で熱心に奉仕する方でした。すると人々はすぐにこう言います。「おい!何か神様の前に悪いことをしたから、子供が大学に落ちたんだろう!」と言うのです。ある長老がビジネスで苦境に陥ると、「おい!あの信仰に何か問題があるから、神様があんな苦難を与えているんだろう!」 ですから、イエスを信じながら離婚した人は、教会に来て、ただ罪人のように座っていることになるというのです。

 

どうしてそんなに困難に陥り、家庭に問題がある方々が、教会の中に来て、まるで私は普通の共同体から、こうぽつんと切り離された人のように、そう感じさせられるのでしょうか?私たちが!神様がそうされたのですか?イエス様がそうされたのですか?イエス様はそんな方々の友となってくださったではありませんか?私たちの共同体はそうあるべきもの、それが教会です。それなのにどうしてそんな判断を下せるというのですか?それは皆さんが間違って学んできたからです。キリスト教の核心と本質を、誤解しているのです。それが!

 

教会共同体がキリスト教の核心と本質から揺らいでいるから、そうやって人々を評価するのです。立場や状況で、その人の信仰を評価すると言っているのです。とんでもない、皆さん!そうではありません。私たちクリスチャンの人生には、必ず苦難と痛みと試練が訪れるのです。必然的なことなのです、それは!なぜなら?私たちは自力で神が望まれる水準まで成長できないからです。神はそうした試練と苦難と痛みを通して、私たちを教え、戒め、照らし出していくのです。それが神の唯一の目的なのです。この地における私たちの幸福を、神は望んでおられないのです。

 

もしそうしたもの、私たちの置かれた状況や境遇が、私たちの信仰を測る物差しになるなら、使徒パウロはどうなるのですか?いつも殴られ、福音を伝えながら牢に入れられ、病にかかり、飢えに苦しみ、これは一体何だと言うのですか?それなら?パウロは何と言っていますか?パウロは福音を伝えながら牢に入れられました。するとパウロを妬む者たちが言いました。アポロ派やケパ派のような人々がそう言ったのでしょう。「見よ!パウロが本当に本物なのか?本物ならどうして神が福音を伝えるのに、牢屋に閉じ込めるのか?そして四十の打撃をどうやったらあんなに多く受けられるのか?」そう言ってパウロを妬む心から福音を伝えたのです。

 

そこでパウロは何と言うでしょうか?「私は構わない!彼らが私をどう評価しようと、私は構わない。私がこのようにでたらめな評価を受けることによって、私たちの神の福音が伝えられるなら、私は構わない!」フィリピの信徒への手紙1章20節にはこうあります。

 

(フィリピの信徒への手紙 1:20)

20 私が切に願い、望んでいるのは、どんなことにも恥じることなく、以前と同じように今も完全に大胆に生きても死んでも、私の体を通してキリストが栄光を受けられることです。

 

生きるにせよ死ぬにせよではありません。私は死ぬ方が良いのです。そうでしょう?パウロが!『私は死にたいのです!今すぐに神のもとへ行きたいのです。しかし、あなた方のために私はここに留まっているのです。あなた方の益のために私はここに留まっているのです』と言ったほど、使徒パウロはこの地上の生活に関心を置いていませんでした。それがクリスチャンのこの人生を見る人生観であるべきなのです。

 

皆さん!ルカによる福音書6章26節には、こんな御言葉があります。『すべての人から称賛されるなら、災いだ。彼らの先祖たちは偽預言者たちにそうしていた』という御言葉です。

 

誰からも称賛される牧師は、偽物だということです。イエス様がなさったお言葉です。これが!どうして牧師が誰からも称賛されるでしょうか?明らかに毒麦と麦があるのに、毒麦たちは、彼が宣べ伝える福音のせいで、苦しく辛い思いをするのです。だから後になって必ず悪口を言うようになるのです。

 

聖書がこう言っていませんか?「すべての人々があなた方を褒め称えるなら、災いだ!」あいつは偽物だということです。偽預言者たちに、「昔のあなた方の先祖たちが、そうしていた」と、ずっと褒め称えていたのです。「ほら、あの人は本物だ!本物だ!」必ず雑草が混ざっているから、この福音、神の言葉が正しく宣べ伝えられると、指をさされ、罵られながら去っていく人々がいなければならないのです。すると、そうした人々が次々と現れると、「あの牧師は何か問題がある!」そうおっしゃるでしょう?その苦難に遭う牧師に向かって、「あの牧師は何か問題がある!」こうおっしゃるでしょう。

 

パウロはどう生きたか?自分が建てた教会で、皆偽物だと言って追い出された人ではありませんか?パウロは自分が建てた教会で!福音が伝えられるのに、彼らがパウロを追い出すのです。殴りつけて、死ぬまで殴りつけて!どれほどひどかったか、死んだと思って捨ててしまったでしょう?

 

ところが何と言うでしょう?「偽物は、誰からも称賛されるものだ」と言いますよね?使徒パウロは知っているのです。人々が皆、私を称賛しなくても構わないということを。人々が皆さんの状況や立場を見て、「おい!あの人は本当にイエスを良く信じる人だな!」と見てくれなくても、気に病むなと言うのです。また、そう見せることもできないのです。私がイエスを信じて、弱い者!力のない者となり、苦しみと患難を受ける者となることが、「私がイエスをよく信じているか?そうでないか?」の根拠にはなり得ないのです。コリントの信徒への手紙一9章19節に進みましょう。

(コリントの信徒への手紙一 9:19-23)

19 私は、だれにも束縛されない自由な身ですが、多くの人々を救うために、自らすべての人の奴隷となりました。

 

 

20 ユダヤ人には、ユダヤ人を救うために、ユダヤ人のようになりました。

律法の下にある人々に対しては、私は律法の下にない者でありながら、律法の下にある人々を得るために、律法の下にある者のようになりました。

 

 

21 律法のない人々に対しては、私は神の律法のない者ではなく、キリストの律法に生きる者ですが、律法のない人々を得るために、律法のない者のようになりました。

 

 

22 信仰の弱い人々に対しては、弱い人々を得るために弱い者となりました。

 

私はあらゆる種類の人々に対して、あらゆるものとなりました。

 

それは、私が何としても、彼らの中から何人かでも救おうとするためです。

 

 

23 私は福音のために(福音を伝えるために)これらのすべてを行っています。

 

それは私が福音の恵みにあずかるためです。

 

(福音の恵みにあずかるためです)

私は、人々に尊敬され、認められようと努力しなかったのです。

それはアイ・ドン・ケア(I don’t care)!弱い人々には、私は何も知りません!知っている人々には、知っていることをまた話して聞かせ、律法を持つ人々には『律法を守ろう!』と。持たない人々には『律法なしで肉を食べる?食べよう!食べない?食べないなら!飢える?そう、飢えよう!」そこまで行ったのです。使徒パウロは!

 

皆さん!使徒パウロは、人々の評価や、敬虔のふりや、こうした形式的な外見には関心を向けませんでした。その生涯が語るのは、この地で生きたが、この地に心を置かなかったということです。どんな評価を受けようとも構わない!イエス・キリストの名が尊ばれるなら!

 

皆さん!使徒パウロの関心はただ、天と神のみにありました。

 

皆さん!それゆえ、私たちに与えられる、私が望まない環境や境遇!苦痛!苦難!試練は、私の信者たる根拠や判断基準ではないのです。すべてが神の良き計画の中にあるからこそ、その状況でいかにイエス・キリストが尊ばれるかを考えることが、真のクリスチャンの生き方なのです。

 

ハワイのハンセン病患者の村へ福音宣教に行った、ダメインという人物がいますね?彼は、あまりにも患者たちが福音を受け入れないので、神に祈りました。「神よ!私をハンセン病患者にしてください!私をハンセン病患者にしてください!神の御名を尊ばせるために、神の福音を伝えるために、私をハンセン病患者にしてください!」そして実際にハンセン病患者になってしまいました。そしてイエス・キリストの福音を伝えながら去っていったのです。

 

私が賛美集会ごとに話している私の友人!ボンス!全身が石膏のように固まって、この顎関節が開かなくてご飯もまともに食べられないのに、全身の椅子に当たる部分は全部腐って、生身が腐って、死体が腐る水が真夏に、その部屋にぽたぽた落ちる、そんな状況に置かれているその友人が、私に、『聖水さん!私はこんなにも痛い苦しみは嫌だ!そして私はこのうんざりする貧しさは嫌だ!しかし神様が私を通してなさるべきことがあり、他の人が私を見て、一体私はあの状況でもどうして神様を信じ、どうして神様を賛美しているのか?どうして私はあんなに希望に満ちた人生を生きているのか?こう考えたら、私が信じるイエスを一人でも信じる人が現れたなら、私はもう一度こんな人生を生きろと言われても生きていくよ!」それがまさに自己否認であり、十字架を背負って生きるクリスチャンの人生であり、キリスト教徒の核心であり、本質なのです。なぜなら?この地上の生活はすぐに終わるからです。皆さん!人生の意味!福音の意味を明確に知り、それが生活に溶け出している人々は、このような告白ができるのです。

 

 

 

皆さん!私たちはヨブ記から何を学びますか?神が義人であるヨブに苦難を許した後、ヨブが神の前に立ち向かうでしょう?「一体私は何を間違えたのですか?神よ、なぜ私にこんな苦難を与えるのですか?」と言うと、神は何とお答えになりますか?「お前がこうしたこうした過ちを犯したから、そして私がこうしたこうしたことを成し遂げるために、お前にはこのように苦難を許したのだ!」とおっしゃいますか?神は何とお答えになりますか?「お前は、私がこの地の礎を据える時、どこにいたのか?お前は雹の倉を見たことがあるか?太陽と闇がどこにあるか知っているか?どこから生じたか知っているか?海が溢れ出る時、誰がその境界を決めたか知っているか?」と尋ねてから、「間違っていました!」というようになるのです。何も知らないのです。自分自身が!『私は大きく、お前は小さい』ということを教えているのです。

 

なぜ神がそう答えられたかと言えば?『私があなたに、なぜ苦難を許したのか説明したとしても、あなたは理解できない。

 

』ということです。しかし『私は神である!』ということです。天地を創造した神が、なぜ理由もなく、あなたの人生にそんな苦難を許すだろうか?神がなぜ私たちの人生に、理解できない苦痛と、苦難と、試練を与えるのか、私たちは知りません。説明できません。しかし、神には確かに理由があるのです。神は偶然に、偶然に働く方ではないので、必ず理由と目的を持って、そのことを進めておられるのです。

 

神の御業を私たちがどうして理解できましょうか?神の御業を理解するとは、私が飼い犬のココに万有引力を説明するようなものです。「質量を持つものは、常に地球の中心に向かって落ちていくんだよ。

 

ココ!わかるかい?」そうしたら「ワン!」と言うでしょう。聖書に書かれていることですよ、皆さん!すべて理解できますか?

 

皆さん!私が私たちの青年たちに、神の主権について説明し、それから自由意志と、私たち人間の責任についてまた説明しました。これが一緒にまとまると、理解できないんです。「すべては神が主権的に導いておられる。

 

しかし私たちが行うべき責任もあり、私たちは自由意志を持っている。

 

」これが互いに矛盾しているように思えませんか?

 

それで一人の子が来て私に話したんです。「牧師先生!これを総合してみると、あまりにも矛盾しています。

 

神様が全てを成し遂げられると言いながら、私たちにまた責任があるなんて?」それで私はこう言いました。「なら総合するな!二つの話を総合して、神様の神としての御性質に傷がつくなら、総合するな!ただ総合せずに信じろ!」それです。私は神様の味方をするんです。

 

私はある時から神様の味方をするようになったんです。神の主権!私たちの自由意志!私たちの責任!ええ、私もどうしてこうやってまとめてしまうと、どこまでが自由意志で、どこまでが主権なのかわからなくなります。しかし私は神の側に立つ。しかしいつか私たちが天国に立って立った時、私たちの人生を平面のように見渡せる日が来るでしょう。その時、あなたの人生にあった苦難と、患難と、苦痛のあの点々が、なぜそこに刻まれたのか、私たちは明確に知るでしょう。「まさに私をこの場所に、このように聖なるものとするために、あの出来事たちが私の人生の道に、このようにあったのだ!」と!それが繋がってここまで来たのではありませんか?

 

ですから、これら全ては、私を聖なる者とするために、神が用意されたものなのだと。今はすぐに理解できなくても、その時になれば、「ああ!なぜあの時、私にこんなことがあったのか、私たちは十分に理解できるだろう」ということなのです。

 

皆さん!私たちがこのように理解できなくても、聖書は私たちの人生に、必ず苦難と痛みと試練があると語っています。

 

 

 

しかし、今日読んだ本文に、「逃れる道を与えてくださる」

 

という話があるのです。だからここで皆さんは混乱するのです。私たちの人生に必ず苦難と痛みと試練があると語るのに、「あなたたちの人生には逃れる道がある」

 

」と言っているじゃないですか?だから人々は期待するのです。「ああ!あの苦難と、困難と、苦痛と、あの試練から、逃げられる道があるんだ」と思うのです。必ずクリスチャンの人生には苦難と苦痛と試練がなければならないと言いながら、逃れる道も与えられる。

 

それでは聖書自体が矛盾を抱えることになりませんか?必ず必要なものなのに、それを逃れる道があるなら、それはダメじゃないですか?耐え抜かなければならないのに!

 

では、その話は何の話だというのでしょうか?まず、このコリント人への第一の手紙10章全体の内容が何の話なのかを知り、そしてその「逃れる道」という箇所がどこにあるのかを、一度見てみればいいのです。私たちが読んだコリント人への第一の手紙10章11節から14節までの、上記の部分は何を語っているかというと、

 

イスラエルがエジプトから出て紅海を渡り、荒野で偶像を拝んで神に懲らしめられ、姦淫をして神に懲らしめられ、神を試みて神に懲らしめられ、神を怨んで神に懲らしめられた、この四つの出来事がコリント人への第一の手紙10章に記されているのです。そして彼らが滅びたあの出来事、あのために荒野で皆死に、カナンの地に入れなかったでしょう?

 

その出来事をそう明確に説明した上で、11節で何と言っているかと言えば、『あなたがたにとって、それが戒めとなり、鏡となるように記しておいたのだ。

 

』と語っているのです。11節を見ると、

 

(コリントの信徒への手紙一 10:11-13)

11 これらのことが彼らに起こったのは、鏡となり、また末世の私たちへの戒めとして記されたのです。(そうでしょう?)

 

では何でしょうか?これらの四つの出来事によってイスラエルが滅びたように、あなた方の生活にも、このようなことが必ず起こるという話です。『それを教訓としなさい!それを鏡としなさい!」という言葉は、そのような試練と苦しみと苦難が、必ずあなた方の生活にも繰り返されるだろうということです。その時、あなた方は『イスラエルがこのようにしたために滅ぼされたことを忘れるな!』という話なのです。そして神は何とおっしゃるかと言えば、

 

12 だから、立っていると思う者は倒れないように気をつけなさい(そうですね。)

 

この四つの罪を犯した例を挙げて、今神が何を語っているかと言えば、クリスチャンはどんなに40日断食を一度したからといって、あるいは聖霊の震えを受けたからといって、一度で聖くはなれないということです。

 

偶像を拝んで多くの人が死にましたよね?そこで残った者たちが姦淫したのです。それで姦淫をしてまた多くの者が死にました。神の怒りを受けて!その中で残った者たちが、神を試しました。神を試しているうちにまた多くの人が死にました。火の蛇に噛まれて!その中で残った者たちがまた神を怨んで、荒野で皆死んでしまったじゃないですか?そうして私たちは、乗り越えなければならない試練の関門が次々とあるのです。段階があるのです。ですから、一度何かを成し遂げたからといって、「私は今や無敵のクリスチャンだ!」というのはできないのです。私たちには歩み続けるべき道があるのです。

 

そして、それがどう繋がるかというと、13節に、

 

13 あなたがたに起こったことは、人が耐えられる試練以外の何ものでもありません(そうです。あなたがたがこれまで経験した試練は、耐えられる試練!この話は何と言いましたか?アントロピノス!人々が一般的に経験する試練という意味だと言いましたよね?

翻訳が単に 「耐えられる試練!ベア(bear)、私たちが耐えうる試練!」と訳されていますが、

その前の「人が耐えられる試練以外には」という言葉は、「人々が一般的に経験する試練以外には、あなたがたに与えられない。」という意味です。そしてその後、)

神は真実であられるから、あなたがたが耐えられない試練に遭うことを許されない

 

ここでこの「耐える」という言葉は、まさに「ウィポフェロ・トゥ・ベア」耐えられない試練は君たちに与えないという意味なんです。

だから別の言い方をすれば、人々は苦難と苦痛と試練が来ると、「なぜ私だけにこんな辛い試練が来るのか?」と不平を言うんです。

でも神様が今何と言っておられるかというと、今、「違う。他の人々も同じだけの重さの苦しみは皆持っている。

 

」ということです。ただ今、あなたがたがどのレベルにいるのか?それを一度確かめてみろ、ということです。耐えられる試練は!

 

幼稚園児には、幼稚園児が耐えられる程度の試練だけを与えられるのです。中学生には?中学生が耐えられる試練を与えられるのです。高校生には?ついに微分積分が出てくるのです。大学生には?もうすぐまた入社試験を受けることになる、そういう段階的な耐えられる試験が、私たちに与えられるというのです。

 

ですから皆さん、「なぜ私だけにこんなに大きな試練が来るのか?同じ状況なのに、あの子はなぜ放っておいて、私だけに神様がこんな苦しみをくださるんだろう?」と考えるべきではありません。「どうして神様は私をここまで認めてくださるんだろう?神様は今、私を大学生として認めてくださっているんだ!私の考えでは、私の信仰はまだ幼稚園児レベルなのに、神様が私をここまで認めてくださるなんて?」

 

皆さんはあの中学生を羨ましがるでしょうか?あの中学生は、高校、大学、就職試験を続けて行かなければならない人です。皆さんは今、そこを経てここまで来られた方です。いや、私たちは必ず一人も漏れなく、その道を行かなければなりません。そうしてこそ、聖なるという目的地まで到着できるからです!近道というものはありません。全てを通らなければなりません。全てを!

 

私があの、なぜ早朝祈祷の時に少しお話しした、パク長老という方!60歳になるまで今まで一度も風邪を引いたことがない方なのに、肝臓に16センチの癌ができたんです。お腹が痛くて急に病院に行ってみたら、16センチの癌ができたと言われました。普通、癌は3センチくらいになると、痛みを感じ始めるそうです。ところが16センチになるまで放置されたんです。神様が!この方がどう告白されたかというと、『神様!私が自分を見るとき、私の信仰はこんなものしかないと思っていましたが、神様!どうして私をここまで認めてくださるのですか?どうして神様!ここまで私を認めてくださるのですか?私の信仰をここまで認めてくださるのですか?』

 

だから周囲の人々が、その方を見て気づくんです。『信仰とは、まさにあれなんだ!』『いや。神様はなぜ16センチになるまで、これを発見させずにそのままお任せになるのですか?早く直してください、神様!私に何を教えようとしているのか、私は興味ないから、早く治してください!」とあちこちの癒しの集会を追い回す人と、「神様!どうして16センチになるまで私を待ってくださり、私の信仰がここまで深まった今、教えてくださって、こうして私が平静でいられるように、あの死の前で責任を持てるようにしてくださるのですか?神様!ありがとうございます。

私をここまで認めてくださるなんて!」その真の神を周囲の人々が発見したというのです。その人生の中で!

 

皆さん!神様についてはあまりにも多く知っていますが、神様を知らないがゆえに、苦しみと試練が訪れた時、人々はこうして崩れ落ちるのです。こうして苦しむのです。こうして泣くのです。どうか皆さん、一緒に天国へ行きましょう!天国で、神様について、皆さんがどれほど多く知っているかは全く意味がないのです。

皆さん!神を知らなければならないのです。信仰を持たなければならないのです。信仰を!もう二度と興奮しないと決めたのに…。皆さん!このように…。

 

では、逃れる道を与えてくださるという言葉は何ですか?では、逃れる道を与えてくださるという言葉?この逃れる道を与えてくださるという言葉は、今この四つの出来事!この四つの出来事とは何ですか?偶像を礼拝することです。偶像を礼拝するとは何ですか?私たちはいつも、私の要求と私の計画!そして神の要求と神の計画の間で、葛藤(struggle)しますよね?いつも私たちは、罪人たちは、私の要求と私の計画を実現するために、貫徹させるために、神の要求と計画を踏みにじってしまうのです。これが偶像を拝むことです。私の要求を得るために、神を踏みにじる!これが偶像を拝むことじゃないですか?

 

この四つの出来事!それによって神の怒りを激発させ、彼らは滅びたじゃないですか?そして出てくる言葉が、「逃れる道を与える」というものです。そして14節で、再び「偶像を拝んではならない!」です。では、この逃れる道を与えるということは、「あなたがたが偶像を拝むことによって滅びるその道から、逃れる道を与える。

 

」というその「逃れる道」だということです。その困難と、苦難と、苦痛と、その試練から。逃げられる道ではなく、この偶像を拝むことによって、神から滅ぼされるその道から逃れる道!その逃れる道を語っておられるのです。

 

偶像は?いつも私たちに代償を要求し、私たちは偶像に何かを、私たちが要求しますよね?「おい!がっかりさせないから、

これ、これ聞いてくれ!」神様は?神様は代償を求めず、私たちに何かを求められます。

何を求められますか?従え!それです。従え!それだけを求めておられます。私たちに!偶像を礼拝することと、神を礼拝することが、これほど違います。しかし偶像を礼拝するように、人々は神を礼拝しているのです。

違います。神様は私たちを従順な者へと造り変えるために、その従順さを教えるために、試練と、苦しみと、苦難を許されるのです。そして耐えられる道を、共に与えてくださるのです。

なんとイエス様でさえ、ヘブル人への手紙5章8節を見ると、『彼は御子であられたが、苦しみを経験することによって従順を学ばれた。苦難を受けることによって、従順を学ばれたのです。

イエス様でさえ苦難を受けることによって従順を学ばれたのですから、私たちはどうなるでしょうか?

私たちは?私たちの人生に苦難と苦痛がなければよいのでしょうか?

私たちはそれを通して従順を学ぶのです。常に神の計画!神の要求!私たちの計画!私たちの要求!私たちの計画と要求を貫徹させようとするあまり、私たちは計画して神を無力化し、神の怒りを爆発させるのです。

それでは最後に、その逃れる道が何か、聖書で一度探して終わりにしましょう。神を怨んで滅びたあの事件はどこに出てきますか?

民数記13章、14章に出てきますよね?モーセが十二人の各部族の代表を選び、カナンを偵察させたじゃないですか?

ところがヨシュアとカレブを除いて、十人が帰って来て、「そこには入れない」と言ったんです。と言いました。

神は明らかに『私が乳と蜜が流れるあのカナンの地を、あなたがたに与える。』と約束されたのに、残りの十人は『無理だ。

そこにはアナク人!巨人たちがいて、私たちが彼らの前に立つと、蝗のようで無理だ。それにあの町は大きすぎて堅固で、我々は突破して入れない。」いや、今まで神が、どんな奇跡と、どんな御業で、彼らを導いてこられたか見ておきながら、そこで神の言葉を聞かないのです。自分たちが到底耐えられない試練だと、彼らは判断してしまったのです。

すると神はどうなさったか?あの十人を皆殺しにされたのか?いや、イスラエルの民を四十年間荒野で彷徨わせられたのだ。

そして四十年間、ヨシュアとカレブを除いて、荒野で皆殺しにされた。

耐えられなかったのだ。彼らは!耐えられない試練になってしまったのだ。

しかし神は耐えられる試練!耐えられる、逃れる道を共に与えられたのです。

ヨシュアとカレブは何と言いましたか?「違う!神が私たちと共におられるなら、私たちに約束されたのだから、彼らは私たちの糧だ!」と言いましたよね?「だから行こう!」それが逃れる道です。神の言葉を逆らったために、皆が荒野で死んでしまった、滅びてしまった、あのイスラエルが通った道を、通らなくてもいいあの逃れの道を、神はいつも共にお与えになるのです。

神の言葉に従うことです。主の御言葉に従うことです。たとえ私の目には、私が感じるには、到底私が打ち勝てない苦難のように見えても。私が到底耐えられない試練のように見えても。

それにもかかわらず、「神が約束された。私は神の子であるから、私は乗り越えられる!だからこそ、私はここで妥協せず、最後までこの道を歩むのだ!」という姿勢こそが、逃れる道なのです。

では逃れる道はないのか?ありません!あなたがたが逃げられる道はありません。

その逃れる道とは、あなたがたが殉教を覚悟しながら、神の御心に従う逃れる道なのです。

エステルのように、「死ねば死ぬまで!」と言いながら進むことが、逃れる道です。

ダニエルの三人の友人のように、「たとえこの炉の火で焼かれて死んでも、私は神のみを仕える。

」という姿勢こそが、逃れる道です。それは常に勝利の姿として現れるとは限りません。

ステパノのように石打ちにされて死ぬ姿として現れることもあるでしょう。

カルメル山でエリヤが勝利したように、そのような勝利の姿で現れることもあるのです。

 

皆さんが周囲にいる兄弟姉妹を見たとき、「おい!まったくもって不運だ!」と思うかもしれません。

それがまさに勝利の姿である可能性があります。今、彼が逃れる道に逃げ、その試練に耐え抜いている、そのような途方もない、神と共に歩む祝福の道であるかもしれないのです。

皆さん!それをもって判断してはいけないのです。

少しお金を稼いだから、健康だから、「なぜ私の人生にはこんなに病がないのか?」ある日、皆さんの肝臓にも16センチの癌が見つかるかもしれません。たとえ殉教する姿で、本当に不運な姿で行くとしても、勝利の道を歩む人々がいます。います!

 

民数記14章8節を見ると、その逃れる道をこう語っています。

 

(民数記14:8-9)

8 主が私たちを喜ばれるなら、私たちをその地へ導き入れ、その地を私たちに与えてくださる。それはまさに乳と蜜が流れる地である。(だからどうか行こう!イスラエルよ!)

9 ただ、主に逆らってはならない。また、その地の民を恐れてはならない。彼らは私たちの糧である。彼らの守り手は彼らから離れ、主は私たちと共におられる。彼らを恐れてはならない。(彼らを恐れてはならない!)

 

これが逃れる道だったのです。この道を行けば、イスラエルは皆生き延びたでしょう。

しかし彼らはこの逃れる道を選ばず、滅びの道を選んだのです。偶像を拝む道を選んだのです。

私の要求と計画を貫徹する道を選んだのです。それで滅んだのです。

逃れる道とは、私たちが逃げられる道ではなく、まさに殉教を覚悟し、神の御言葉に従うその道こそが、まさに逃れる道なのです。

皆さん!キリストの中で勇士となりなさい!皆さんは勝つことができ、神が皆さんの内にいてくださるではありませんか?

そしてその道を行けと神が求めておられるではありませんか?勝ち抜いてください!

 


 

28 - 그리스도인의 고난 2

 

(피할 길은 있는가?) (고전10:12-14)

 

 

 

고린도전서 10장 12절에서 14절까지입니다.

 

(고린도전서 10:12-14)

12 그런즉 선 줄로 생각하는 자는 넘어질까 조심하라

13 사람이 감당할 시험 밖에는 너희에게 당한 것이 없나니 오직 하나님은 미쁘사 너희가 감당치 못할 시험 당함을 허락지 아니하시고 시험 당할 즈음에 또한 피할 길을 내사 너희로 능히 감당하게 하시느니라

14 그런즉 내 사랑하는 자들아 우상 숭배하는 일을 피하라 아멘!

 

우리가 지난주부터 3주간에 걸쳐, 그리스도인의 고난에 관해서 살펴보고 있습니다. 그리스도인의 고난! 그 지난주에 우리는, 그리스도인들에게 고통과 고난과 시험은, 당연하다. 필연적이라고 결론을 내렸습니다. 왜 그리스도인들에게 고통과 고난과 그러한 시험이 있는가? 성경에서 우리는, 그리스도인들은 세상과 등을 지고 살아야 하기 때문에, 그렇기 때문에, 당연히 그 마귀와 그 세상이, 우리를 공격한다. 그렇기 때문에, 우리는 고난과 고통을 당한다.

 

그리고 두 번째로, 우리가 하나님의 그 거룩한 백성으로 지어져 가는데 있어서, 순종하지 않을 때, 하나님께서 우리를 ‘파이데이아, 징계(懲戒)하신다.’ 그랬습니다. 그래서 ‘그것은 사랑에 근거해서, 우리에게 회초리를 대는 것이지, 우리를 미워해서 징벌하시는 것은 아니다.’라고 말씀을 드렸습니다.

 

그리고 세 번째로, 하나님께서는, 우리가 아무 잘못이 없는데도, 우리의 거룩을 만들어 내시기 위해서, 하나님께서는 우리에게 때로, 고난과 고통을 허락하셔서, 더욱 더 정금 같은 믿음을 만들어내신다. 그렇게 우리가 공부를 했습니다. 그래서 모든 것! 이 세 가지 상황! 모든 것들이 다 우리에게 유익(有益)이다 그랬습니다.

 

그런데 아마 여러분들께서, 머리로는 이해가 가셨을지 몰라도, 쉽게 거기에 동의가 되지는 않으실 거예요. 누구나 다 그 고통과 고난이, 자기를 비켜가 주기를 원하기 때문에 그렇습니다. 하지만 여러분! 오늘 우리가 또, 그리스도인의 고난에 대해서 공부를 해보시면 ,그 고난과 고통은 반드시, 우리의 삶에, 그리스도인의 삶에, 필요한 것입니다.

 

제가 이렇게 말씀드린다고 해서, 우리는 예수 믿고, 그럼 늘 꾀죄죄하게 그냥, 주구장창 계속해서 고난만 당하고, 고통만 당해야 되는가? 혹시 그렇게 생각하는 분 계실까봐, 괜히 낙심하실까봐 말씀드리는 건데, 그렇지 않아요.

 

제가 왜 이 고난과 고통과 시험에 대해서, 그런 것은 우리 그리스도인의 삶에 필연적이라고 이야기하느냐 하면, 우리가 예수를 믿으면, 고난과 고통은 다 사라져야 되고, 질병과 아픔도 다 사라져야 되고, 물질적인 축복이 우리에게 와야 한다고 가르치는, 일부 몰지각한 사람들이 주장하는 것에 대해서, 제가 반론(反論)을 제기하는 거예요. ‘성경은 그 이야기를 그렇게 하고 있지 않습니다.’라고 이야기하는 것이지, 우리가 예수 믿으면 계속해서, 그냥 고난만 당하고, 이런 건 아니란 말이에요. 그러니까 여러분 너무 낙심하지 마시고, ‘큰일 났다! 어떻게 평생을 그렇게 사냐?’ 그거 아니란 말이에요.

 

여러분! 유사 이래로 종교가 타락하면, 네 가지 현상이 있다. 그랬습니다. 첫 번째가, 성직자가 많아지는 거죠. 왜냐면 종교가 타락하게 되면, 성직자들이 그것을 밥벌이로 생각하게 되거든요. 그래서 성직자가 많아지고! 두 번째로는, 그 성직자들을 먹여 살리기 위한, 종교기관이 많아지죠. 종교기관이 많아지게 되고! 세 번째로, 이 성직자들을 먹여 살리고, 종교기관을 운영해 나가기 위해서, 돈이 필요하다고요. 그래서 그 돈을 갖다 댈, 신도(信徒)가 필요하단 말이에요. 그래서 그들을 꽉 붙들 수 있는 종교는, 당연히 기복(祈福)으로 흐르게 되어 있어요. 불교도 마찬가지고, 이슬람도 마찬가지고, 기독교도 마찬가지고!

 

사람들을 불러 모으기 위해, 예수 그리스도의 십자가나, 부활이라든지, 회개라든지, 죄에 대한 설교는, 이미 없어진지 오래됐고, 그들의 비위를 맞춰 주는 설교가, 이제 횡행하게 됐죠. 그것이 바로 종교가 기복화(祈福化) 된다는 거예요. 그래서 이렇게 복을 바라는 사람들만 모여 있는 것이, 종교집단이 되기 때문에, 네 번째로, 종교가 타락하면 발생되는 현상이, 이 종교집단이 거대한 이해집단이 되어버린다는 것이죠. 그것이 바로 종교가 타락하면, 생기는 그런 현상들입니다.

 

우리 이 서부, 캘리포니아에만, 한국인 목사님들 아직 임지를 찾지 못한, 노는 목사님들이 2,500명이에요. 캐나다하고 이 서부만 합치면, 3,000명이 목사님인데, 놀고 계시다고요. 왜 이렇게 목사님들이 많아졌을까요? 한국 전체 신학생들의 수를 합치면, 전 세계 신학생들 합친 것보다 수가 더 많다고 그러죠? 정말 이것이 우리 한국의 기독교가, 하나님의 축복을 얻은 결과이기를 간절히 바랍니다만, 과연 여러분들이 생각하실 때, 우리 한국이 가는, 그리고 우리 한국의 기독교가 가는 방향을 볼 때, 여러분 정말 그렇게 생각하십니까?

 

화란의 어떤 신학자가, 한국에 대해서 이런 평가를 내리는 글을 썼습니다. ‘한국기독교인들은, 세 가지밖에 모른다. 첫째가 하나님! 둘째가 자기 자신! 셋째가 돈!’이라는 것이죠. 정확하게 보고 돌아간 거예요. 우리 한국 사람만큼 하나님을 열심히 섬기는 사람들이 어디 있어요? 주일예배! 수요예배! 금요찬양예배! 구역예배! 때때로 수련회! 부흥회! 얼마나 많아요?

 

제가 요번에 기도원에 가서, 그 미국 목사님들을 많이 만났는데, 그분들이, ‘저희는 에브리데이 파이브 서티(everyday 5:30), 다섯 시 반에 모닝 서비스(morning service) 있다.’고 그러니까, ‘아유 크레이지(Are you crazy)?’ 그러더라고요. 말도 안 된다는 것이죠. 그런데 이 화란의 이 신학자는, 그렇게 열심히 섬기는 한국의 기독교인들이, 왜 하나님을 섬기는가를, ‘자기 자신의 욕심과 돈을 위해서다.’라고 결정을 내렸다고요. 그것은 치욕적인 평가가 아닐 수가 없습니다.

 

여러분! 스탕달이 쓴 ‘적(赤)과 흑(黑)’이라는 소설이 있잖아요? 그 ‘적과 흑’이라는 소설의 적은 뭐냐면요? 추기경들의 제복을 이야기하는 거예요. 붉은 제복! 흑은 법관의 법복을 이야기하는 거예요. 당시에도 유럽의 청년들이, 자기의 욕심을 채우고. 그리고 축재(蓄財)하고 권력(權力)을 휘두르며, 살아갈 수 있는 방법이 딱 두 가지가 있었는데, 하나는 성직자가 되는 길이었고, 하나는 법관이 되는 길이었어요.

 

그러니까 청년들이 고민하는 거예요. 젊을 때! 성직자가 될까? 법관이 될까? 성직자가 되어도 얼마든지 자기 욕심을 채우면서, 축재하고 권력을 휘두를 수 있기 때문에! 그것이 바로 종교의 타락의 모습이라고요. 이렇게 종교의 타락은, 그 종교를 아주 이기적인 것으로 만들어 버린다고요.

 

그러니까 다른 사람 생각할 것 없이, 우리는 지금 우리를 돌아보자고요. 우리를! 여러분 자신이 어떤가를 돌아보시라는 거예요. 여러분! 기독교의 본질은요, ‘내가 하나님을 이용해서, 내가 필요한 것들을 얻어내는 것! 내가 얼마나 하나님을 이용해서, 부귀영화를 누리며, 이 땅에서 행복하게 사는가?’에 있지 않다고요. 우리가 6개월간 살펴본 바처럼, 기독교의 본질은, ‘내가 하나님의 영광을 위해서 어떻게 살아야 하는가?’가 바로 우리 기독교의 본질이라고요. 내가 하나님을 어떻게 영화롭게 하느냐에 달려 있는 거예요.

 

기독교는요, 어떻게 바라보느냐에 따라서, 완전히 다르다고요. 내세적이냐? 현세적이냐? 인본주의냐? 신본주의냐? 이게 아주 첨예하게 갈라져 있는데, 사람들은 그걸 구별을 못하고 있는 거 같아요. ‘어디를 바라보고 있느냐?’예요. 내가 내세를 바라보면서, 이 땅의 것을 초개같이 여기고 있느냐? 아니면, 이것은 상관없이, 눈에 보이지 않기 때문에, 이 땅의 것만을 추구하고 있느냐? 내가 하나님을 위해 존재하는 거냐? 아니면 하나님이 날 위해 존재하는 거냐? 이 두 가지가 명확히 갈려져 있다고요. 내세적이냐, 현세적이냐? 나는 그 하늘나라를 소망하고 있느냐? 이 땅을 소망하고 있느냐? 하나님이 먼저냐? 내가 먼저냐? 이 두 가지가 명확히 갈려져 있다고요. 이쪽은 가짜고, 이쪽이 진짜라니까요.

 

그런데 이 기독교가 변질되면서, 자꾸 이 현세적(現世的)이며, 이기적(利己的)이며, 인본주의적(人本主義的)인 것을, 교회 안으로 끌고 들어오기 시작했다고요. 그래서 이렇게 기독교의 본질이 흔들리니까, 내가 예수 믿으면 행복해하고, 예수 믿으면 모든 질병이 물러가야 하고, 예수 믿으면 가정의 평화가 와야 되는데, 예수 믿으면 그러한 고통과 고난이 오니까, 사람들이 헷갈리는 거예요. 내가 예수를 믿으면, 하나님이 나를 도와서, 나를 행복하고 편안하게 만들어 줘야 된다는데…, 그렇게 배워왔기 때문에, 자기의 삶의 고난과 고통이 닥치면, 힘들어 하는 거예요. 못 견디는 거예요.

 

심지어, 이렇게 본질이 흔들리니까, 자기에게 고통과 고난이 오면, ‘내가 예수 믿었는데, 왜 내 삶에 이런 일이 있는 거야? 하나님이 진짜 있긴 있는 거야?’까지 간다고요. 여러분! 성경은요, ‘현세적이며, 인본주의적인 그런 이기적인 신앙을, 경계하라!’라고 누누이 이야기하고 있다고요. 로마서 16장 17절을 보시면요,

 

(로마서 16:17-18)

17 형제들아 내가 너희를 권하노니 너희 교훈을 거스려 분쟁을 일으키고 거치게 하는 자들을 살피고 저희에게서 떠나라

18 이같은 자들은 우리 주 그리스도를 섬기지 아니하고 다만 자기의 배만 섬기나니 공교하고 아첨하는 말로 순진한 자들의 마음을 미혹하느니라

 

공교(工巧)하고 아첨하는 말로, 순진한 교인들을 미혹한다고요. ‘너희들이 배만 부르면 됐지 뭐, 다른 게 뭐가 더 필요해?’ 거기서는 떠나라는 거예요. 고린도전서 6장 13절 보시면요,

 

(고린도전서 6:13)

13 식물은 (먹는 음식은) 배를 위하고 배는 식물을 위하나 하나님이 이것 저것 다 폐하시리라 (이것저것 다 없어질 거예요.) 몸은 음란을 위하지 않고 (여기에서 음란이라는 것은, 쾌락! 편안함! 행복! 이런 뜻이에요. 우리 그리스도인의 몸은, 행복 쾌락 편안함을 추구하는 것이 아니라) 오직 주를 위하며 주는 몸을 위하시느니라 (이게 기독교의 본질이며, 핵심이라고요. 여기에서 헷갈리면 안 되는 거예요.)

 

자, 우리는 우리의 배를 위해서, 하나님을 섬긴다고 그래요. 우리의 먹을 것을 위해서, 하나님을 섬긴다고 합니다. 그리고 우리의 쾌락과 편안함을 위해서, 종교행위를 한다고요. 그것을 우리가 외식(外飾)이라고 그랬죠? 그러나 우리 그리스도인은, ‘오직 주를 위해 존재하는 것’이라고 사도바울이 지금 열심히 피력하고 있는 것입니다.

 

여러분! 그 핵심에서 벗어나면, 우리는 늘 실망할 수밖에 없어요. 왜요? 여러분의 경험상 예수를 믿고 나서, 여러분의 삶에, 고통과, 고난과, 질병과, 사업의 어려움과, 가정의 어려움 같은 것들이, 실제로 있어 왔잖아요? 예수님은 ‘칼을 주러 이 땅에 왔다’라고 이야기하셨다고요. 부부가, 부모와 자식이, 시어머니와 며느리가, 이 예수 그리스도를 믿는 것 때문에, 서로 불화(不和)하게 된다고요.

 

그러니까 중요한 것은, 너희들의 이 땅에서의 처지나 상황이 아니라는 거예요. 하나님은 하나님의 자녀들에게만 관심이 있어요. 그렇기 때문에 그 하나님 자녀의 거룩이 만들어져가는 데 있어서 방해가 되는 것은, 부부관계라도 깨버리신다는 거예요. 부모와 자식 관계라 하더라도 깨버리신다는 거예요. 하나님은 그만큼 하나님의 자녀에게 관심이 있다고요. 여러분의 행복을 이 땅에서의 행복을 깨버리는 한이 있더라도, 여러분을 거룩한 자로 만들어서, 하늘나라로 데리고 가고 싶은 것이, 바로 하나님의 사랑이라고요.

 

이 하나님의 사랑과 은혜가, 이 하나님이 도대체 어떤 분인지, 너무나 모르게 때문에, 나는 그것 싫으니까, 나는 ‘행복 주세요!’라고 이야기하는 거예요. 여러분이 하나님에 대해서 아는 것으로, 여러분이 천국 갈 수 없어요. 여러분이 예수 그리스도에 대해서 아는 것만으로 여러분이, 천국 가실 수 없습니다. 그것은 찰스 스펄전 목사님이 죽는 날까지 이야기하시는 거예요.

 

여러분이 아무리 이 성경에 대해서 많은 지식을 배운다 할지라도, 그 지식이 여러분을 천국으로 데려가 주지 않아요. 이 지식이 여러분의 삶에, ‘정말 믿음으로 와 있는가?’를 확인하셔야 돼요. 그게 바로 하나님의 대해서 아는 자와, 하나님을 아는 자가 다른 거예요. ‘하나님에 대해서 아는 자들은, 그거 포기 못한다고요 하지만, 하나님을 아는 자는, 그 예수가, 이 땅에 십자가를 지러 오지 않았다 할지라고, 그 예수를 사랑할 수밖에 없다!’ 이것이 바로 스펄전 목사가 하는 이야기라고요. 예수님이 나를 위해서 십자가를 지지 않았다 할지라도, 진짜 그 예수를 아는 분은, 그 예수를 사랑하지 않을 수가 없다는 거예요. 그게 바로 하나님에 대해서, 예수에 대해서 아는 자와, 하나님을 아는 자와의 차이점이에요.

 

여러분! 성경이요, 구제(救濟)와 선행(善行)을 명령하시는 것도, 그런 차원이라고요. ‘너희들이 정말 기독교의 그 본질을 알고 있느냐? 모르고 있느냐?’ 그것을 하나님이 묻기 위해서, ‘선행해라! 구제해라!’ 하시는 것이지, ‘너희들이 선행하고 구제해야 구원을 받는다.’라고 가톨릭이 가르치는 것처럼, 그거는 아니란 말이에요. 로마서 14장 15절로 가보시면요,

 

(로마서 14:15-17)

15 만일 식물을 인하여 (먹는 것 때문에) 네 형제가 근심하게 되면 (네 주변에 굶는 자가 생기게 되면) 이는 네가 사랑으로 행치 아니함이라 그리스도께서 대신하여 죽으신 형제를 네 식물로 망케 하지 말라

16 그러므로 너희의 선한 것이 비방을 받지 않게 하라

17 하나님의 나라는 먹는 것과 마시는 것이 아니요 오직 성령 안에서 의와 평강과 희락이라 (그런단 말이에요.)

 

하나님의 나라! 신자의 신자 됨의 본질은, 물질적인 것이 아니라고요. 이 현세적인 것이 아니란 말이에요.

 

남을 도와주지 못하는 가장 큰 이유가 뭡니까? 내가 갖고 있는 데도 불구하고, 남을 도와주지 못하는 가장 큰 이유? 인색해서 그래요. 왜 인색하죠? 왜 구두쇠가 되죠? 사람들은 여전히 자기의 인생과, 자기의 존재에 있어서, 가장 중요하다고 생각하는 것은, 돈이기 때문에 그런 거예요. ‘하나님나라는 먹고 마시는 것이 아니라, 성령 안에서의 의와 평강과 희락이다.’라고 바울이 이렇게 이야기한다고요. 그것을 아는 사람은, 형제와 자매를 도움으로써 생기는, 그 평강과 희락을 놓치지 않는다는 것이죠.

 

여러분! 이렇게 기독교의 본질이, 우리의 몸뚱아리를 편안하게, 안락하게, 또 남의 부러움을 사게 만들어 주는 것이 아니라면, 왜 우리의 처지나 상황 같은 것들이, 이 교회 공동체 안에서 그렇게 크게 부각이 돼야 되는 겁니까?

 

어떤 분 자녀가 대학을 떨어졌어요. 그런데 그분이 교회에서 열심히 봉사하는 분이었어요. 그러면 사람들은 곧 이렇게 이야기해요. ‘야! 뭔가 하나님 앞에 잘못한 게 있으니까, 애가 대학을 떨어졌을 거야!’ 그런다고요. 어떤 장로님이 비즈니스가 어려워지면, ‘야! 저 신앙에 뭔가 문제가 있으니까, 하나님이 저렇게 어려움을 주시는 걸 거야!’ 그러니까 예수를 믿으면서 이혼을 한 사람은, 교회에 나와서, 그냥 죄인처럼 앉아 있게 된다니까요.

 

어떻게 그렇게 어려움에 처하고, 가정에 어려움이 있는 분들이, 교회 안에 와서 마치 나는 평범한 공동체에서, 이렇게 뚝 떨어져 나온 사람처럼, 그렇게 느끼게 만드느냐 말이에요? 우리가! 하나님이 그러셨어요? 예수님이 그러셨냐고요? 예수님은 그런 분들의 친구가 되어 주셨잖아요? 우리 공동체는 그렇게 되어야 되는 게, 교회라고요. 그런데 어떻게 그런 판단을 내리실 수가 있냐 말이에요? 그게 여러분들이 잘못 배워 왔다는 거예요. 기독교의 핵심과 본질을, 오해하고 계신 거예요. 그것이!

 

교회 공동체가 기독교의 핵심과 본질에서 흔들리니까, 그렇게 사람들을 평가한다고요. 처지나 상황을 가지고요, 그 사람의 신앙을 평가한다니까요. 천만에요, 여러분! 그렇지 않아요. 우리 그리스도인의 삶에는, 반드시 고난과 고통과 시험이 있게 된다고요. 필연적이라고요, 그것은! 왜냐하면? 우리는 스스로 하나님이 원하는 수준까지 자라갈 수 없기 때문에, 하나님은 그러한 시험과 고난과 고통을 통해서, 우리를 가르치고, 교훈하고, 조명(照明)해 가시는 거예요. 그것이 하나님의 유일한 목적이라고요. 이 땅에서의 우리의 행복을, 하나님은 원하시는 게 아니란 말이에요.

 

만약에 그러한 것들이, 우리의 처지나 상황들이, 우리의 신앙을 잴 수 있는 잣대가 된다면, 사도바울은 뭐예요? 맨날 두들겨 맞고, 복음 전하다가 감옥 가고, 병 걸리고, 굶고, 이 뭐냐 말이에요, 그럼? 바울이 뭐라고 그래요? 바울이 복음을 전하다가 감옥에 갔어요. 그랬더니 바울을 시기하는 자들이 그랬어요. 뭐 아볼로파나 게바파 이런 사람들이 그랬겠죠. ‘봐라! 바울이 저게 진짜냐? 진짠데 어떻게 하나님이 복음을 전하는데, 감옥에 갖다 넣니? 그리고 사십에 하나를 감한 매를 어떻게 저렇게 많이 두들겨 맞게 만드냐?’ 그러면서 바울을 시기하는 마음에서 복음을 전했잖아요?

 

그러니까 바울이 뭐라 그래요? ‘나는 괜찮다! 그들이 나를 어떻게 평가하든지, 나는 괜찮다. 내가 이렇게 엉터리 평가를 받음으로 해서, 우리 하나님의 복음이 전해진다면, 나는 괜찮다!’ 빌립보서 1장 20절에 보면,

 

(빌립보서 1:20)

20 내가 간절한 기대하며 바라는 것은 내가 어떤 일에나 부끄러워하지 않고 전과 같이 지금도 온전히 담대하여 살든지 죽든지 나의 몸으로 말미암아 그리스도께서 존귀하게 되시는 것이니라

 

내가 살든지 죽든지 아니에요. 나는 죽는 게 더 좋아요. 그러죠? 바울이! ‘나는 죽고 싶어요! 지금 하나님께 가고 싶어요. 그렇지만 여러분들 때문에 내가 여기 머무는 거예요. 여러분들의 유익을 위해서 내가 여기 머무는 것입니다.’라고 얘기했을 정도로, 사도바울은, 이 땅의 삶에 대해서 관심을 두지 않았어요. 그게 그리스도인의 이 삶을 바라보는 인생관이어야 된다고요.

 

여러분! 누가복음 6장 26절에 보면, 이런 말씀이 있습니다. ‘모든 사람이 너희를 칭찬하면 화가 있도다 저희 조상들이 거짓 선지자들에게 이같이 하였느니라’라는 말씀이 있어요.

 

누구에게나 칭찬받는 목사는요, 가짜라는 거예요. 예수님이 하시는 말씀이에요. 이게! 어떻게 목사가 누구에게나 칭찬을 받아요? 분명히 가라지와 알곡이 있는데, 가라지들은, 그가 선포하는 복음 때문에, 괴롭고 힘들어 진다고요. 그러니까 뒤에 가서 반드시 욕하게 되어있어요.

 

성경이 이렇게 이야기하지 않습니까? ‘모든 사람이 너희를 칭찬하면 화가 있도다!’ 그 놈은 가짜라는 거예요. 거짓 선지자들에게, ‘옛 너희 조상들이, 그렇게 했다.’ 계속 칭찬했다는 거예요. ‘자, 저 사람은 진짜구나! 진짜구나!’ 반드시 가라지들이 섞여 있기 때문에, 이 복음이, 하나님의 말씀이 제대로 선포가 되면, 손가락질하고, 욕을 하면서, 나가는 사람들이 있어야 되는 거예요. 그러면 그러한 사람들이 막 속출하면, ‘저 목사는 뭔가 문제가 있어!’ 그렇게 얘기하실 거예요? 그 고난당하는 목사를 향해서, ‘저 목사는 뭔가 문제가 있어!’ 이렇게 이야기하실 거예요.

 

바울이 어떻게 살았냐고요? 자기가 세운 교회에서, 다 가짜라고 쫓겨난 사람 아니에요? 바울은 자기가 세운 교회에서! 복음이 전해지는데, 그들이 바울을 쫓아내요. 두들겨 패서, 죽을 때까지 패서! 오죽하면 죽은 줄 알고 갖다 버렸겠어요?

 

그런데 뭐라 그러는 거예요? ‘가짜들은, 누구에게나 칭찬을 받더라.’ 그러잖아요? 사도바울은 아는 거예요. 사람들이 다 나를 칭찬하지 않아도 된다는 거예요. 사람들이 여러분의 상황과 처지를 보면서, ‘야! 저 사람은 진짜 예수 잘 믿는 사람이구나!’ 그렇게 안 봐줘도, 개의치 말라는 거예요. 또 그렇게 보일 수도 없는 것이죠. 내가 예수를 믿고, 약한 자! 힘없는 자가 되고, 고통과 고난을 받는 자가 되는 것이, ‘내가 예수를 잘 믿고 있는가? 아닌가?’의 근거가 될 수 없다는 것입니다. 고린도전서 9장 19절로 가겠습니다.

 

(고린도전서 9:19-23)

19 나는 어느 누구에게도 얽매이지 않은 자유로운 몸이지만, 많은 사람을 얻으려고, 스스로 모든 사람의 종이 되었습니다.

 

 

20 유대 사람들에게는, 유대 사람을 얻으려고 유대 사람같이 되었습니다.

 

율법 아래 있는 사람들에게는, 내가 율법 아래 있지 않으면서도, 율법 아래에 있는 사람을 얻으려고 율법 아래 있는 사람같이 되었습니다.

 

 

21 율법이 없이 사는 사람들에게는, 내가 하나님의 율법이 없이 사는 사람이 아니라 그리스도의 율법 안에서 사는 사람이지만, 율법 없이 사는 사람들을 얻으려고 율법 없이 사는 사람같이 되었습니다.

 

 

22 믿음이 약한 사람들에게는, 내가 약한 사람들을 얻으려고 약한 사람이 되었습니다.

 

나는 모든 종류의 사람에게 모든 것이 다 되었습니다.

 

그것은, 내가 어떻게 해서든지, 그들 가운데서 몇 사람이라도 구원하려는 것입니다.

 

 

23 나는 복음을 위하여 (복음을 전하려고) 이 모든 일을 하고 있습니다.

 

그것은 내가 복음의 복에 동참하기 위함입니다.

 

(복음이 주는 복에 동참하려는 것입니다)

 

나는, 사람들에게 존경받고, 사람들에게 인정받으려고, 노력하지 않았다는 거예요. 그것은 아이 돈 케어(I don’t care)! 나는 약한 사람들에게는, 나는 아무것도 몰라요! 아는 사람들에게는, 아는 만큼 또 이야기 해주고, 율법이 있는 사람들에게는, ‘율법 지키자!’ 없는 사람들에게는, ‘율법 없이 고기 먹을래? 먹자! 안 먹어? 먹지 말자! 굶어? 그래 굶자!’ 거기까지 간 거예요. 사도바울은요!

 

여러분! 사도바울은요, 사람들의 평가나, 경건의 모양이나, 이런 형식적인 외양에 신경 쓰지 않았어요. 그 삶은 뭘 이야기하는 거냐면, 이 땅을 살았지만, 이 땅에 관심 두지 않았다는 거예요. 어떤 평가를 받든 오케이! 예수 그리스도와 이름이 존귀하게 된다면!

 

여러분! 사도바울의 관심은 오직, 하늘과 하나님께만 있었습니다.

 

여러분! 그러므로 우리에게 주어지는 그런, 내가 원하지 않는 환경이나 처지! 고통! 고난! 시험은, 나의 신자 됨의 근거나, 판단 기준이 아니라고요. 모든 것이 하나님의 선하신 계획 속에 들어가 있는 것이기 때문에, 그 상황에서 어떻게 예수 그리스도가 존귀케 될 것인가를 고민하는 것이, 진짜 그리스도인의 삶이라고요.

 

하와이에 있는 나환자촌에 가서 복음을 전했던, 다메인이란 사람이 있죠? 그 사람은, 하도 그 나환자들이 복음을 받아들이지 않으니까, 하나님께 기도했어요. ‘하나님! 나를 문둥이로 만들어 주십시오! 나를 문둥이로 만들어 주십시오! 하나님의 이름을 존귀케 하기 위해, 하나님의 복음을 전하기 위해, 나를 문둥이로 만들어 주십시오!’ 그리고 실제로 나환자가 돼 버렸어요. 그리고는 예수 그리스도의 복음을 전하다 갔어요.

 

제가 찬양 집회 때마다 말씀드리는 내 친구! 봉수! 온몸이 석고처럼 굳어서, 이 턱관절이 벌어지지 않아서 밥도 제대로 못 먹는데, 온 몸에 있는 의자에 닫는 부분은 다 썩어서, 생살이 썩어서, 시체 썩는 물이 한 여름, 그 방에 뚝뚝 떨어지는, 그 상황에 처해져 있는 그 친구가,

저에게, ‘성수야! 나는 이렇게 아픈 고통이 싫어! 그리고 나는 이 지긋지긋한 가난이 싫어! 그렇지만 하나님이 나를 통해서 하실 일이 있고, 다른 사람이 나를 보면서, 도대체 저는 저 상황에서도 어떻게 하나님을 믿으며, 어떻게 하나님을 찬양하고 있는가? 어떻게 저는 저렇게 소망에 찬 삶을 살고 있는가? 이렇게 생각하면, 내가 믿는 예수를 한 사람이라도 믿게 된다면, 나는 다시 한 번 이런 삶을 살라고 해도 살아갈 거야!’ 그게 바로 자기부인이며, 십자가를 지고 사는 그리스도인의 삶이며, 기독교인의 핵심이고, 본질이라고요. 왜냐면? 이 땅의 삶은 곧 끝날 거예요. 여러분! 인생의 의미! 복음의 의미를 명확히 알고, 그것이 삶으로 녹아 나오는 사람들은, 이런 고백을 할 수 있는 것입니다.

 

 

 

여러분! 우리가 욥기에서 무엇을 배웁니까? 하나님이 의인인 욥에게 고난을 허락하고 나서, 욥이 하나님 앞에 대들죠? ‘도대체 내가 뭘 잘못했습니까? 하나님 왜 나에게 이런 고난을 주십니까?’라고 이야기하니까, 하나님이 뭐라고 대답하십니까? ‘네가 이러 이러 이런 잘못을 했기 때문에, 그리고 내가 이러 이러 이러한 것을 만들어가기 위해서, 너에게 이렇게 고난을 허락한 거야!’라고 이야기하시나요? 하나님이 뭐라고 대답하십니까? ‘네가, 내가 이 땅의 기초를 놓을 때, 어디 있었느냐? 너 우박창고에 가봤니? 너 태양과 흑암이 어디에 있는지 아냐? 어디로부터 기인한 건지 알아? 바다가 넘쳐 날 때, 누가 그 경계를 정했는지 아냐?’ 욥이 물어보고 나서, ‘잘못했어요!’ 이렇게 되는 거예요. 아무것도 아는 게 없는 거예요. 자기는! ‘나는 크고, 너는 작다는 것’을 가르쳐 준다고요.

 

왜 하나님이 그렇게 대답하셨느냐면요? ‘내가 너에게, 왜 고난을 허락했는지 내가 설명해 준다 할지라도, 너는 이해 못한다.

 

’는 거예요. 하지만 ‘나는 하나님이다!’라는 거예요. 천지를 창조한 하나님이 왜 아무 이유 없이, 네 삶에 그런 고난을 허락했겠느냐? 하나님이 왜 우리의 삶에, 이해할 수 없는 고통과, 고난과, 시험을 주시는지, 우리는 몰라요. 설명해 낼 수가 없어요. 하지만, 하나님은 분명히 이유가 있기 때문에, 그분은 우발적으로, 우연하게 일하시는 분이 아니기 때문에, 반드시 이유와 목적을 갖고, 그 일을 진행해 나가고 계시는 거라고요.

 

하나님의 일을 우리가 어떻게 이해할 수 있어요? 하나님의 일을 우리가 이해한다는 것은, 제가 우리 강아지 코코한테, 만유인력에 대해서 설명하는 거예요. ‘질량을 갖고 있는 것은, 항상 지구의 중심을 향해 떨어지게 돼있단다.

 

코코야! 알겠니?’ 그러면 ‘멍!’ 그러겠죠. 그 성경에 있는 거 여러분! 다 이해가 가십니까?

 

여러분! 제가 우리 청년들에게, 하나님의 주권에 대해서 설명하고, 그러고 나서 자유의지와, 우리 인간의 책임에 대해서 또 설명을 해줬어요. 이게 함께 뭉치니까, 이해가 안 가는 거예요. ‘모든 것은 하나님이 주권적으로 이끌어 가신다.

 

그런데 우리가 해야 할 책임도 있고, 우리는 자유의지가 있다.

 

’ 이게 서로 모순되는 거 같잖아요?

 

그래서 한 아이가 와서 저한데 이야기하더라고요. ‘목사님! 이걸 종합해보니까, 너무 모순됩니다.

 

하나님이 모든 걸 다 이루어가신다고 하면서, 우리에게 또 책임이 있다니요?’ 그래서 제가 그랬죠. ‘그럼 종합하지 말아라! 두 이야기를 종합해서, 하나님의 하나님 되심에 손상이 온다면, 종합하지 마라! 그냥 종합하지 말고 믿어라!’ 그거예요. 저는 하나님의 편을 드는 거예요.

 

저는 어느 순간부터 하나님의 편을 들기 시작했다고요. 하나님의 주권(主權)! 우리의 자유의지! 우리의 책임! 그래요, 저도 어떻게 이렇게 합쳐놓고 나면, 그러면 어디까지가 자유의지고, 어디까지가 주권인지 몰라요. 그러나 저는 하나님의 편을 들어요. 그러나 언젠가 우리가 천국에 가서 섰을 때, 우리의 삶을 우리는 평면처럼 볼 수 있는 날이 올 거예요. 그러면 그때에 여러분의 삶에 있었던 고난과, 환란과, 고통의 그 점들이, 왜 거기에 찍혀 있는지, 우리는 명확히 알게 될 거예요. ‘바로 나를 이 자리에, 이렇게 거룩하게 만들기 위해서, 그 일들이 내 인생의 길에, 이렇게 있었던 것이구나!’라고! 그것이 이어져서 여기까지 온 거 아닙니까?

 

그러니까 이 모든 것들은, 나를 거룩하게 만들기 위해서, 하나님이 만들어 놓은 것이구나. 지금 당장은 난 이해 못하겠지만, 그때 가서는, ‘아! 왜 그때 나에게 이런 일이 있었는지, 우리가 충분히 다 이해를 할 수 있을 거’라는 것이죠.

 

여러분! 우리가 이렇게 이해할 수 없지만, 성경은 우리의 삶에, 반드시 고난과 고통과 시험이 있다고, 말씀을 하고 계십니다.

 

 

 

그런데 우리가 오늘 읽은 본문에, ‘피할 길을 주신다.

 

’라는 이야기가 있다고요. 그래서 여기서들 헷갈리는 거예요. 우리의 삶에 반드시 고난과 고통과 시험이 있다고 이야기하는데, ‘너희 삶에 피할 길이 있단다.

 

’ 그러잖아요? 그러니까 사람들이 기대한다고요. ‘아! 그 고난과, 어려움과, 고통과, 그 시험에서, 도망갈 수 있는 길이 있구나’ 라고 생각한다니까요. 꼭 그리스도인의 삶의 고난과 고통과 시험이 있어야 된다고 하면서, 피할 길도 주신다.

 

그럼 성경이 자체 내에 모순을 갖게 되잖아요? 꼭 필요한 건데, 그것을 피할 수 있는 길이 있다면, 그건 안 되잖아요? 겪어 내야 하는데!

 

그러면 그 이야기는 무슨 이야기이냐 말이죠? 그럼 먼저, 이 고린도전서 10장 전체의 내용이 무슨 이야기인지 알고, 그리고 그 피할 길이라는 그 구절이, 어디에 들어가 있는지를, 한번 살펴보면 되는 거예요. 우리가 읽었던 고린도전서 10장 11절부터 14절까지, 위의 부분은 무슨 이야기를 하고 있냐면,

 

이스라엘이 애급에서 나와서 홍해를 건너고, 광야에서 우상을 섬기다가 하나님한테 혼나고, 그리고 간음을 하다가 하나님한테 혼나고, 하나님을 시험하다가 하나님께 혼나고, 하나님을 원망하다가 하나님께 혼나고 하는, 이 네 가지 사건이, 고린도전서 10장에 기록이 돼 있다고요. 그리고 그들이 그 멸망한 사건을, 그들이 그 일 때문에 광야에서 다 죽고, 가나안에 못 들어갔잖아요?

 

그 일을 그렇게 딱 설명해놓고, 11절에서 뭐라고 이야기하느냐면, ‘너희들에게 그것을 경계로 거울이 되게 기록해 놓은 것이다.

 

’ 이렇게 이야기한다고요. 11절 보시면,

 

(고린도전서 10:11-13)

11 저희에게 당한 이런 일이 거울이 되고 또한 말세를 만난 우리의 경계로 기록하였느니라 (그러죠?)

 

그러면 뭐예요? 이러한 네 가지 사건으로 이스라엘이 멸망했는데, 너희들의 삶에도, 이러한 일들이 분명히 일어난다는 이야기예요. ‘그것을 교훈 삼아라! 그것을 거울삼아라!’라는 이야기는, 그러한 시험과 고통과 고난이, 반드시 너희들의 삶에도 반복이 될 것이라는 거예요. 그때 너희들은, ‘이스라엘이 이렇게 하므로 해서, 멸망당한 것을 잊지 말아라!’라는 이야기라고요. 그러고 나서 하나님이 뭐라고 그러냐면,

 

12 그런즉 선 줄로 생각하는 자는 넘어질까 조심하라 (그래요.)

 

이 네 가지 범죄를 저지른, 이 예를 들어주면서, 지금 하나님이 무엇을 이야기하느냐면, 그리스도인은 어떠한 무슨 뭐 40일 금식 한번 하고 나서, 아니면 무슨 성령의 전율을 받아서, 한 번에 거룩하게 되지 못한다는 거예요.

 

우상을 섬기다가 많은 사람이 죽었죠? 거기에서 남은 자들이 간음한 거예요. 그래서 간음을 하고서 많은 자들이 또 죽었어요. 하나님의 진노를 받아서! 그 중에 남은 자들이, 하나님을 시험했어요. 하나님을 시험하다가 또 많은 사람들이 죽었어요. 불뱀에 물려서! 그 중에 남은 자들이 또 하나님을 원망해서, 광야에서 다 죽어버린 거잖아요? 그렇게 우리는 계속해서 넘어야 할 시험의 관문이 있다고요. 단계가 있는 거예요. 그러니까 한 번 뭘 딱 이루어 냈다고 해서, ‘나는 이제 천하무적 그리스도인이야!’ 이게 안 된다는 거예요. 우리는 계속해서 가야 할 길이 있다고요.

 

그리고서 뭐라고 연결이 되냐면 13절에,

 

13 사람이 감당할 시험 밖에는 너희에게 당한 것이 없나니 (그래요. 너희들이 여태까지 당한 시험은, 감당할 시험! 이 이야기가 뭐라 그랬죠? 안트로피노스! 사람들이 흔히 겪는 시험이라는 뜻이라고 그랬잖아요? 번역이 그냥 ‘감당할 시험! 베어(bear), 우리가 견뎌낼 수 있는 시험!’ 이렇게 번역이 되어 있는데, 그 앞에, ‘사람이 감당할 시험밖에는’ 이 말은, ‘사람들이 흔히 겪는 시험밖에는, 너희들에게 주어지지 않는다.

 

’ 그런 거예요. 그러고 나서 그 뒤에,) 하나님은 미쁘사 너희가 감당치 못할 시험 당함을 허락지 아니하시고

 

여기에서 이 ‘감당하다’라는 말이 바로, ‘위포페로 투 베어’ 견뎌낼 수 없는 시험은 너희에게 안 준다는 뜻이거든요. 그러니까 다른 말로 하면요, 사람들은 고난과 고통과 시험이 오면, ‘왜 나에게만 이렇게 힘든 시험이 오냐?’라고 불평한다고요. 그런데 하나님이 지금 뭐라고 이야기하시는 거냐면, 지금, ‘아니다.

 

다른 사람들도 똑같이 그만큼의 무게의 고통은 다 있다.

 

’라는 거예요. 단지 지금 너희들이 어느 수준에 와 있는가? 그거를 한번 확인해 보라는 거예요. 감당할 시험은!

 

유치원생들에게는, 유치원생들이 감당할 수 있을 만한 시험만 주신다고요. 중학생들에게는요? 중학생이 감당할 수 있는 시험을 주신다고요. 고등학생에게는요? 드디어 미분 적분이 나오는 거예요. 대학생들에게는요? 이제 조금 있으면 입사시험을 또 치르게 되는, 그런 단계별의 감당할 수 있는 있는 시험들이, 우리에게 주어진다는 거예요.

 

그러니까 여러분이, ‘나에게만 왜 이렇게 큰 시험이 오는 거야? 똑같은 상황에서 쟤는 왜 놔두고, 나한테만 이렇게 하나님이 고통을 주시는 걸까?’ 여러분이 그리로 가시면 안 되고요. ‘어떻게 하나님이 나를 이 정도로 인정(認定)해 주실까? 나를 하나님은 지금 대학생으로 인정해 주고 계시네! 내가 생각하기에 나의 믿음은 아직도 유치원생 같은데, 하나님이 나를 이 정도로 인정해 주신단 말이야?’

 

여러분이 그 중학생을 부러워하실 거예요? 그 중학생은, 고등학교, 대학교 입사시험을 계속 가야 할 사람이에요. 여러분은 지금 거기를 거치고 여기까지 오신 분이고요. 아니, 우리는 반드시 한 사람도 빠짐없이, 그 길을 가야 되는 거예요. 그래야 거룩이라는 목적지까지 도착을 할 수 있게 되기 때문에! 지름길이라는 것은 없어요. 다 지나가셔야 돼요. 다!

 

제가 그 왜 새벽 기도 때 잠깐 말씀드렸던, 박 장로님이라는 분! 60이 다 되도록 여태까지 감기 한번 안 걸리신 분인데, 간에 16센티 암이 생겼어요. 배가 아파서 병원에 갑자기 가봤더니, 16센티 암이 생겼대요. 보통 암은 3센티 정도 되면, 고통을 느끼기 시작한대요. 그런데 16센티가 되도록 놔두신 거예요. 하나님이! 이 분이 어떻게 고백을 하시냐면요, ‘하나님! 내가 나를 볼 때는, 내 믿음은 요정도 밖에 안 되는 줄 알았는데, 하나님! 어떻게 저를 이렇게까지 인정을 해주십니까? 어떻게 하나님! 이렇게까지 저를 인정을 해주십니까? 나의 신앙을 이렇게까지 인정해 주십니까?’

 

그러니까 주위 사람들이, 그분을 보면서 깨닫는 거예요. ‘신앙이라는 것은, 바로 저거구나!’ ‘아니. 하나님은 어떻게 16센티가 되도록, 이것을 발견 못하게 그냥 놔두십니까? 빨리 고쳐달라고, 하나님! 나에게 뭘 가르치고자 하는지, 나는 관심 없으니까, 빨리 고쳐달라!’고 여기저기 신유 집회 쫓아다니는 사람과, ‘하나님! 어떻게 16센티가 될 때까지 나를 기다리셨다가, 내 신앙이 이 정도 되니까, 지금 알려주셔서, 이렇게 내가 담담할 수 있게, 그 죽음 앞에서 담당할 수 있게 해주십니까? 하나님! 감사합니다.

 

나를 이렇게 까지 인정해주시다니요!’ 그 참 하나님을 주위 사람들이 발견하더라는 거예요. 그 삶 속에서!

 

여러분! 하나님에 대해서는 너무나 많이 알고 있지만, 하나님을 모르기 때문에, 고통과 고난이 왔을 때, 사람들이 이렇게 무너지는 거예요. 이렇게 어려워하는 거예요. 이렇게 우는 거예요. 제발 여러분 같이 천국 가자고요! 천국에, 하나님에 대해서, 여러분이 얼마나 많이 알고 있는가는 아무 소용이 없다 말입니다.

 

여러분! 하나님을 아셔야 되는 거예요. 믿음을 가지셔야 되는 거예요. 믿음을! 다시는 흥분하지 않기로 했는데…. 여러분! 이렇게….

 

그러면 피할 길을 주신다는 말이 뭐예요? 그러면 피할 길을 주신다는 말이? 이 피할 길을 주신다는 말이, 지금 이 네 가지 사건! 이 네 가지 사건이 뭐죠? 우상을 섬기는 거예요. 우상을 섬긴다는 게 뭐예요? 우리는 늘 나의 요구와 나의 계획! 그리고 하나님의 요구와 하나님의 계획 사이에서, 스트러글(struggle)하죠? 늘 우리는, 죄인들은, 나의 요구와 나의 계획을 이루어내기 위해서, 관철시키기 위해서, 하나님의 요구와 계획을 밟아 버린다고요. 이게 우상을 섬기는 거예요. 나의 요구를 얻어내기 위해서, 하나님을 밟아 버리는 거! 이게 우상을 섬기는 거잖아요?

 

이 네 가지 사건! 그것으로 말미암아 하나님의 분노를 격발케 해서, 그들이 멸망했잖아요? 그러고 나서 나오는 말이, ‘피할 길을 준다’는 거예요. 그러고 나서 14절에, 다시 ‘우상을 섬기지 말라!’예요 그러면 이 피할 길을 준다는 것은, ‘너희들이 우상을 섬김으로 말미암아 멸망될 그 길에서, 피할 길을 주신다.

 

’라는 그 ‘피할 길’이라고요. 그 어려움과, 고난과, 고통과, 그 시험에서. 도망갈 수 있는 길이 아니라, 이 우상을 섬김으로 말미암아, 하나님으로부터 멸망당하는 그 길에서 피할 길! 그 피할 길을 이야기하시는 거예요.

 

우상은요? 항상 우리에게 대가를 요구하고, 우리는 우상에게 뭔가를, 우리가 요구하죠? ‘야! 섭섭지 않게 해줄 테니까, 이거, 이거 들어줘!’ 하나님은요, 하나님은 대가를 요구하지 않고, 우리에게 뭔가를 요구하신다고요. 뭘 요구하세요? 순종하라! 그거예요. 순종하라! 그것만 요구하세요. 우리에게! 우상을 섬기는 거와, 하나님을 섬기는 게, 이렇게 달라요. 그런데 우상을 섬기는 것처럼, 사람들은 하나님을 섬긴다고요.

 

아니에요. 하나님은 우리를 순종하는 자로 만들어 가기 위해서, 그 순종을 가르치기 위해서, 시험과, 고통과, 고난을 허락하세요. 그리고 감당할 수 있는 길을, 같이 주신다고요. 오죽하면 예수님도요, 히브리서 5장 8절을 보면, ‘그는 아드님이시지만, 고난을 당하면서 복종을 배우셨습니다.

 

’ 고난을 당함으로써, 복종을 배우셨다고요, 예수님도 고난을 당함으로써, 복종을 배우셨는데, 우리는 어떻게 되겠느냐고요? 우리는? 우리는, 우리의 삶에 고난과 고통이 없으면 되겠느냐고요? 우리는 그것을 통해서 복종을 배우는 거예요, 항상 하나님의 계획! 하나님의 요구! 우리의 계획! 우리의 요구! 우리의 계획과 요구를, 관철시키려고 하다 보니까, 우리는 계획해서 하나님을 묵사발 만들어 놓고, 하나님의 분노를 격발케 하는 거라고요.

 

그러면 마지막으로, 그 피할 길이 무엇인지, 성경에서 한번 찾아보고 마치도록 하겠습니다.

 

하나님을 원망하다가 멸망당한 그 사건이 어디에 나오죠? 민수기 13장, 14장에 나오잖아요? 모세가 열두 명의 각 지파의 대표 들를 뽑아서, 가나안을 정탐시켰잖아요? 그런데 여호수아와 갈렙 둘만 빼놓고, 열 명이 와서, ‘거기 못 들어간다.

 

’ 그랬어요. 하나님은 분명히, ‘내가 젖과 꿀이 흐르는 그 가나안 땅을, 너희에게 준다.

 

’라고 약속을 하셨는데, 나머지 열 명이 ‘안 된다.

 

거기에는 아낙 사람들! 거인들이 있어서, 우리가 그 앞에서 서면, 메뚜기 같아서 안 된다.

 

그리고 그 성읍은 너무 크고 견고해서, 우리가 못 뚫고 들어간다.

 

’아니, 지금까지 하나님이, 어떠한 기적과, 어떠한 역사로, 그들을 끌고 오셨는지 봐놓고도, 거기에서 하나님의 말을 듣지 않는 거예요. 자기들이 도저히 감당할 수 없는 시험이라고, 그들은 판단해 버린 거예요. 그랬더니 하나님이 어떻게 하십니까? 그 열 명을 다 죽여 버리죠? 그리고 그 이스라엘 백성들을 40년 동안 광야에서 돌리시는 거예요. 그리고 40년 동안, 여호수아와 갈렙만 빼놓고, 그 광야에서 다 죽여 버리는 거예요. 감당하지 못한 거예요. 그들은! 감당하지 못할 시험이 돼버린 거예요.

 

그러나 하나님은 감당할 시험! 그 감당할 수 있는, 피할 길을 함께 주셨다고요. 여호수아와 갈렙이 뭐라 그럽니까? ‘아니다! 하나님은 우리와 함께 계시면, 우리에게 약속하셨기 때문에, 그들은 우리의 밥이다!’ 그러잖아요? ‘그러니까 가자!’ 그게 피할 길이에요.

 

하나님의 말씀을 거역함으로 말미암아, 모두 광야에서 죽어버린, 멸망 받아 버린, 그 이스라엘이 간 그 길을, 안 갈 수도 있는 그 피할 길을, 하나님이 항상 같이 주신다고요. 하나님의 말을 순종하는 거예요. 여호와의 말을 순종하는 거예요. 비록 내 눈에, 내가 느끼기에는, 도저히 내가 이겨낼 수 없는 고난 같아요. 내가 도저히 감당해 낼 수 없는 시험 같아요. 그런데도 불구하고, ‘하나님이 약속하셨고, 나는 하나님의 자녀이기 때문에, 나는 이겨낼 수 있다! 그렇기 때문에, 나는 여기서 타협하지 않고 끝까지 이 길을 갈 것이다!’가, 피할 길이라고요.

 

그럼 피할 길은 없단 말인가? 없습니다! 여러분들이 도망갈 길은 없어요. 그 피할 길은, 여러분들이 순교를 각오하면서, 하나님의 뜻에 순종하는 피할 길이에요. 에스더처럼, ‘죽으면 죽으리라!’ 하면서 가보는 게, 피할 길이예요. 다니엘의 세 친구들처럼, ‘내가 이 풀무 불에 타 죽는다 할지라도, 나는 하나님만을 섬기겠다.

 

’는 게, 피할 길이에요. 그것은 항상 승리의 모습으로 나오지 않는다고요. 스데반처럼 돌에 맞아 죽는 모습으로 나올 수도 있어요. 갈멜산에서 엘리아의 승리처럼, 그런 승리의 모습으로 나올 수도 있어요.

 

여러분들이 여러분의 주변에 있는 형제자매들을 볼 때, ‘야! 참 지지리 복도 없다!’ 그게 바로 승리의 모습일 수 있어요. 지금 그가 피할 길로 피해서, 그 시험을 감당해 내고 있는, 그런 어마어마한, 하나님과 함께하는, 축복의 길일 수가 있는 거예요. 여러분! 그걸 가지고 판단하지 마시란 말이에요. 돈 좀 벌었다고, 건강하다고, ‘내 삶에 왜 이렇게 질병이 없어?’ 어느 날 여러분의 간에도 16센티 암이 발견될지 몰라요. 비록 순교하는 모습으로, 참 지지리 복 없는 모습으로 간다 할지라도, 승리의 길을 가는 사람들이 있다고요. 있어요!

 

민수기 14장 8절을 보면요, 그 피할 길을 이렇게 이야기 합니다.

 

 

(민수기 14:8-9)

8 여호와께서 우리를 기뻐하시면 우리를 그 땅으로 인도하여 들이시고 그 땅을 우리에게 주시리라 이는 과연 젖과 꿀이 흐르는 땅이니라 (그러니까 제발 가자! 이스라엘아!)

9 오직 여호와를 거역하지 말라 또 그 땅 백성을 두려워하지 말라 그들은 우리 밥이라 그들의 보호자는 그들에게서 떠났고 여호와는 우리와 함께 하시느니라 그들을 두려워 말라 하나 (그들을 두려워하지 말자!)

 

이게 피할 길이였다고요. 이 길로 갔으면, 이스라엘은 다 살았다고요. 그러나 이 피할 길을 택하지 않고, 그들은 멸망의 길을 택했기 때문에, 우상을 섬기는 그 길을 택했기 때문에, 나의 요구와 나의 계획을 관철시키는 그 길을 택했기 때문에, 망한 거예요.

 

피할 길은, 우리가 도망갈 수 있는 길이 아니라, 바로 순교를 각오하고, 하나님의 말씀에 순종하는 그 길이, 바로 피할 길인 것입니다.

 

여러분! 그리스도 안에서 용사가 되십시오! 여러분은 이길 수 있고, 하나님이 여러분 안에 계시지 않습니까? 그리고 그 길을 가라고 하나님이 요구하고 계시잖아요? 이겨내십시오!