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29 .クリスチャンの苦難 3 (傷と家系に流れる呪い) (ローマ8:1-2) 본문

教会論

29 .クリスチャンの苦難 3 (傷と家系に流れる呪い) (ローマ8:1-2)

cocoa 2026. 3. 8. 19:27

 

29 - [最終回] クリスチャンの苦難 3 (傷と家系に流れる呪い) (ローマ8:1-2)

 

(傷と家系に流れる呪い) (ローマ8:1-2)

 

 

ローマ人への手紙8章1節から2節まで、私が読み上げます。

 

 

(ローマ8:1-2) 1

1 それゆえ、今やキリスト・イエスにある者には、決して罪の宣告はない。

2 キリスト・イエスにあるいのちの御霊の律法が、罪と死の律法からあなたを解放したからである。

 

私が聖書の中で最も好きな箇所が、まさにこの箇所です、二つの節です!『それゆえ、今やキリスト・イエスにある者には、決して罪の宣告はない。no more Condemnation! no Condemnation!』今日はこの苦難!クリスチャンの苦難に関する三回目の時間です。

 

ですから今日は苦難について、そろそろ幕を閉じようと思います。今日は結論を出します。

 

過去二週にわたり、なぜクリスチャンの人生には苦難が必要なのか、神はなぜそれを防いでくださらないのかについて考察してきました。

 

そして、避ける道が本当に存在するのかについても学びましたね?しかし、避ける道はありませんでした。

結論として、苦難と苦痛と試練は、クリスチャンの生活に有益なものであり、そのすべてが、私たちを神の民として従順な者、聖なる者として造り上げていくためであることを、私たちは知りましたね? その点において、「イエスを信じれば、万事亨通だ。

すべての病気が退かなければならない。

 

すべて癒されなければならない。

 

」という教えは、聖書が語る内容とはあまりにも異なるものであることを、私たちは知ることができました。

 

 

先週の説教が放送された後、多くの方々が励ましの電話をくださり、「え?まるで私の話をされたようで感謝しています。

私はとても落胆していたのですが、そうではなかったんですね」というお電話も多くいただきましたが、その「レマ」に属している方なのかもしれませんが、「体を気をつけてください!」と昨日そうお電話いただきました。「体を気をつけてください!」そういうことはあまり気にしません。

 

私は!キリスト教は絶対に、この地での豊かな生活のために存在するものではありません。

 

皆さん!

 

キリスト教は目標地に到達するためのものです。目標地へ至るその道!その旅路において、私たちが万事順調!豊かさ!幸福!浮かれて騒ぐこと!そのようなもののために存在するのではない、それがキリスト教ではないということです。

 

では使徒パウロがどのように語っているかを確認し、本日の本論に戻りましょう。

 

コリントの信徒への手紙一 4章7節から私が読み上げます。

 

(コリントの信徒への手紙一 4:7-16)

 

7 だれがあなたを区別したのですか(コリント教会への言葉です。)

あなたが持っているものの中で、受けたものではないものは何ですか(あなたが持っているものの中で、神から受けたものではないものはどこにあるのですか?あなたから出たものはどこにあるのですか?)

あなたが受けたのに、なぜ受けたものではないかのように誇るのですか

 

8 あなたがたはすでに満ち足り、すでに富み、私たちなしに王様ごっこをしていたのだ。(あなたがたは信徒と言いながら、すでに満ち足り、富み、王様ごっこを好んでいたということです。) 

私たちは、あなたがたと共に王様ごっこをするために、本当にあなたがたの王様ごっこを望んでいるのだ。

 

9 私が思うには(しかし私が思うには、使徒パウロが思うには、しかし)

神は使徒である私たちを、殺すために定められた者のように、末の日に置かれたのです。

(そういうことです。「末尾に置かれた」とは、当時戦争があると、敵国で敗れた将軍や政治家、王を、彼らが凱旋行進をする時、最後尾にこう置いてきたというのです。引きずって来たのです。ずりずりずり! それで人々は凱旋を祝う一方で、最後尾にいる王や支配者たちを見て嘲笑の的としたのです。神は弟子たちをまさにそのように最後尾に置き、見せ物のようにされたというのです。最後尾に置かれ)

私たちは世界、すなわち天使と人々に、見せ物となったのです(使徒たちはこのように生きたのです。)

 

10 私たちはキリストのために(イエスのゆえに)

愚か者扱いされ(愚か者扱いされたのです。) あなたがたはキリストにあって賢い者(賢く扱われることを望むが)

私たちは弱い者(弱く扱われるのです。弱い者だと!)

あなたがたは強い者、尊い者であるが、私たちは卑しい者(あなたがたは強く扱われることを望むが、尊い者となることを望むが、私たちは卑しい者であった。

 

そうでしょう?)

 

11 今この時まで、私たちは飢え渇き、裸で、殴られ、住む場所もなく

 

12 また労苦し、自ら手で働き(神が宣教されるのに、物質も与えられなかったというのです。自ら自らの手で働き、食べて生きながら伝道したというのです。)ののしられたら祝福し(ののしられるとは、侮辱されることです。侮辱された時、私たちは祝福(blessing)したというのです。祝福しました)迫害されたら耐え忍び(迫害された時、どうしたと言いますか?耐え忍びました。)

 

13 誹謗されたなら、勧める(誹謗された時、私たちは勧めたのです。アンサー・カインドリー(answer kindly)、親切に話したのです。誹謗された時でさえ!)私たちは今まで、世の汚れたもの、万物の屑のようになったのです

 

14 私がこれを書いて、あなたがたを恥じさせようとしているのではない (これはどういうことか?当然、あなたがたは今、満ち足りて、裕福で、王様のように振る舞いたいと願っていることは、恥ずべきことだというのです。しかし、私があなたがたを恥じさせるためにこれを書いているのではなく、)ただ、あなたがたを私の愛する子供のように勧めたいのです (あなたがたは私の愛する子供のように、私の愛する人々だから、私がこのように勧めるのです。)

 

15 キリストには教師は数多いても、父となる者は少ない(偽りの牧師も数多いということです。)

キリスト・イエスにおいて、福音によって、わたしがあなたがたを生んだのです

16 それゆえ、わたしはあなたがたに勧めます。わたしを模範として従いなさい

 

『わたしが、このように愚か者扱いされ、弱い者扱いされ、卑しい者扱いされ、懸命に働いて食べて生きなければならず、 飢え渇き、裸で歩き、殴られ、宿もなく、侮られ、迫害され、中傷され、あらゆるもの、すべてのもののかすりのように扱われた、この私の姿を、あなたがたが真似るようになることを願うのだ!」と使徒パウロが語っているのです。

それが『コリント教会よ!教会が進むべき道はまさに、その道だ!』と言っているのです。

私たちが皆、そんな乞食のように生きろというのではなく、あなた方の生活にそのようなことが訪れた時、慌てふためくなということです。

 

人々はね、イエスを信じて満腹を望み、富を望み、王様のように振る舞いたいと願うのです。しかし使徒はこう語るのです。

イエスを信じる者たちは、まるで神が、殺そうとして地に投げ込まれた者のように扱われるのだと。

皆さん!神が私たちを用いる方法は、「朽ちる一粒の麦として生きよ!」と語られるのであって、世の中で成功を成し遂げて、「見よ!イエスを信じるから、こんなに立派にうまくいくのだ。

 

見よ!イエスを信じるから、こんなに幸せになるのだ。

見てごらん!イエスを信じるから、こんなに成功するんだ。

 

」ということを示しながら、そうやって働かれるわけではないのです。

 

人々は、自分を証明して伝道しようとするのです。皆さん!一度胸に手を当てて考えてみましょう。

本当にイエスのために、お金を稼ごうとしているのですか?

本当にイエスのために、皆さんが立派な人になろうと努力しているのですか?本当ですか?

 

イエス様がサタンから受けた試練は何ですか?「お前は神の子だろう?この石で、見事にパンの塊を作ってみろ!

お前の神性を一度見せろ!お前を証明してみせろ!お前は神の子だろう?神殿から飛び降りてみろ!この高い所から飛び降りてみろ!そうすれば聖書に書いてある通り、天使たちが来てお前の世話を焼くぞ!そうすれば世の人々が『わあ!本当にすごい!あの人は神の子だ!』と認めてくれるのに…なぜやらないんだ?』

 

しかしイエス様はされましたか?されませんでしたか?ご自身を証明されましたか?されませんでした!ではどうされたのですか?十字架でただ死んでしまわれたのです。それが私たちが進むべき道であり、神が働かれる方法なのです。私たちに与えられた永遠の約束と栄光は、来世的なものであり、現世で受けるものではないため、聖書は私たちにそう語り続けているのです。

 

私たちは、神を生き方によって現すべき預言者であり、祭司であり、聖なる国であり、選ばれた民ではありませんか?ペテロの手紙で私たちはよく学んできたではありませんか?

 

私たちがこの地を、この人生を生きながら、聖さに向かって一歩、また一歩進むのです。

しかしその道で神は、私たちの生涯を用いて、さらに他の神の民を救い出すために用いてくださるのです。

死にかけている魂たちの救いの働きに、私たちを召しておられるのです。だからこそ私たちは預言者であり祭司としての生涯を歩まなければならないのです。

 

しかしこの地で、罪人たちを救うために、預言者であり祭司として、最も先立って生きて行かれた方は誰でしょうか?

イエス様ではありませんか?ならば私たちは、その方の生涯に従って生きるべき、キリスト者ではないでしょうか?ならばイエスの生涯こそが、私たちの生涯となるべきではないでしょうか?

 

クリスチャンとは何ですか?キリストに従うべき者たちです!私たちはキリストと連合(連合)し、キリストと合一(合一)して救われた者たちですから、その方の生涯こそが私たちの生涯となるべき者こそが、クリスチャンではないでしょうか?ですから私たちが早天祈祷でヨハネの福音書を見ながら確認したように、ヨハネの福音書に記されたイエス様の生涯のすべてが、

詩篇にそのまま全てあったではありませんか?詩篇はダビデの生涯なのです。

 

なぜ聖書がそう示し、啓示されるのか?まさにダビデの生涯が、このイエスの生涯となったように、私たちの生涯も、まさにイエスの生涯とならなければならないからです。それを聖書は啓示しているのです。

そのようなイエスの苦難が、私たちの生活にないなら、私たちは今、その福音とは全く関係なく生きていたり、あるいは、私たちは偽物だという話です。

 

一度考えてみてください。私たちが福音とは全く関係なく、口を固く閉ざして生きていたら、なぜ迫害を受けるのでしょうか?私たちが?なぜ苦難を受けるのですか?世に向かって、「おい!私はイエス・キリストを信じる者ではないように、しっかり隠れておくよ。

「心配しないで!気にしないで!」と言うなら、なぜ世の中が私を攻撃するでしょうか?

しっかり隠れていれば、世の中は私たちを攻撃する理由がないのです。

 

しかし、私が受けた恵みと愛が何であるかを知り、この福音をそのまま私の心の中だけに留めておくことがあまりにも重荷で、溢れ出る人々に対しては、それを遮断するための攻撃が必ずあるのです。

だから多くの人々が、「李舜臣信仰」を持っているからこそ、「私がイエスを信じていることを、誰にも知らせるな!」と言うのです。だから人々は、あの人物がイエスを信じる者なのかどうか、わからないのです。

しかし皆さんが本当に神を正しく信じ、イエス・キリストの中で正しいクリスチャンとしての生き方をしているなら、皆さんは確かに、苦難と痛みと迫害を受けることになるでしょう。

 

皆さん!私たちの人生観や価値観、世界観は、この世の人々とは全く異なるべきです。表に見える華やかさが決して私たちの信仰を代表するものではないことを、私たちはこの二週間にわたり十分に考察してきました。

 

皆さん!「イエスをよく信じる人は、他の人々が羨むような幸せな人生を送り、またイエスをよく信じられない人々は、何かしらの苦難と苦痛と試練に遭う」

 

」と語ることは誤りだと、私たちは確認しましたね?

 

私たちの信仰の先輩たちは、苦難を通して従順を学ばれたのです。

イエス様も苦難を通して従順を学ばれたことを、私たちはヘブル人への手紙5章8節で確認しましたよね?

「彼は御子でありながら、苦難を受けることによって従順を学ばれました。

 

特に私たち韓国教会はそれがより深刻なようです。この外見!見せかけを見て、外見だけを見て、その人の信仰を判断するようなこと!

 

イ・ギュテ氏が書いた『韓国人の意識構造』という本を見ると、そんな話があります。

韓国人には、実に妙な二重性があると言います。その方が韓国人を貶めようとしているのではなく、単に客観的に見た、私たちの民族性を語ったのですが、妙な二重性があり、それは儒教の影響だ。

こう言います。儒教はどこから来たのでしょうか?中国から来たのです。

 

儒教とは何でしょうか?忠孝!礼儀作法!体裁!見せかけのようなものですよね?ところが、実際に儒教が生まれた中国では、それほど硬直していないというのです。なぜなら、彼らが儒教を確立していく過程で、ああ!人間として不可能なものは、このように柔軟に受け入れていたというのです。ところが、そうして作られたある一つの製品が、私たちの祖先のもとに伝わったため、この人々は柔軟性がなく、硬直性だけを持っているというのです。あまりにも硬直しているというのです。だから両班は、どんなに急な用事があっても走らない。

 

両班は水に落ちても絶対に犬かきはしない。

それが儒教です。

 

だから国家に重大な事案があっても、壬辰倭乱が勃発したのに、一国の将軍がね?戦場に出る考えはせず、父上が亡くなったから、三年の喪に服したというのです。墓のそばで、一人で喪服を着て!3年も過ごしたというのです。戦争が終わるまで!そんな二重性!

 

その人が本当にその父を、その3年間、心の奥底で、たった1時間たりとも欠かさず、

あまりにも恋しく思い、その父を尊敬する気持ちから、3年もそう生きていたでしょうか?

この罪深い身柄が?そんな見せかけを重要視するなんて!だから我々の朝鮮や高麗!こうした国々が、500年も王朝が続いたというのです。どんなに王が失政をしても、忠!これがただ刻み込まれて、どんなに嫌でもただ耐えたのです。500年も!

 

ところが中国は、200年を超えたことがありません。彼らは人々に自分を見せる時、人格や人柄、人間性といったもので表現せず、見せかけや体裁、威厳といったもので偽装し始めたのです。それを多くの人々がただ学び、それが染みついているのです。私たち韓国人に!

 

だから私たちは崔瑩や鄭夢周!こうした人々は英雄ですが、李成桂や首陽大君のような人物は、殺すべき存在になってしまったのです。私が彼らを擁護するわけではなく、そうなってしまったと!このように硬直してしまったというのです。そうした外見を見る文化が、私たちの意識構造に深く根づいているため、それが教会にまで入り込み、そうした外見で人々を今や判断するようになったのです。

 

皆さん!今の大韓民国は、国全体が試練に陥っているようです。誰と話しても、あまりに苦しく、あまりに辛いと言います。韓国は今、総体的に試練の中にいるようです。しかし今、私が見るに、韓国はその原因を誤って捉えています。神は頑なに神の民だけを愛しておられます。

この歴史は、神の民を中心に流れていくのです。アブラハムの時代には数多くの偉人がいましたが、神はアブラハムだけを見つめておられたのです。

 

皆さん!神は人類の歴史と、宇宙の摂理を、神の民の天国への入城に向けて、導いておられるのです。全世界が、クリスチャンたちの成熟した分量への成長のために、動いているのです。ソドムとゴモラはなぜ滅んだのですか?ソドムとゴモラの王が失政したからだと聖書に書いてありますか?ソドムとゴモラの政治家が腐敗したからだと書いてありますか?いいえ。義人たる十人がいなかったために、ソドムとゴモラは滅ぼされたのです。そのように神は、義人を探しておられるのであって、誰が失政し、誰がどんな政治家が腐敗しているか、こうしたことには神は関心を持たれません。神の民たちだけに心をおいておられるのです。

 

今、私たちの韓国はますます困難になっています。だから国全体が大統領を恨んでいるのです。ああ、いやだ!ああ、いやだ!だから三人が集まっても乾杯ではないそうです。今は「誰々、死ね!」これが最近流行っているそうです。酒場で!しかし私たちクリスチャンまでもが、それに同調してはいけません。

 

皆さん!大統領が失政したから国がそうなったと、皆さん!本当にそう思いますか?今まで太宗・世宗・文端世・世成延中仁明善・光仁孝賢淑敬営・李文朴崔全老金まで、私は李文朴崔動物パンで暗記しましたが、この方たちの中で、私たちの心にぴったり合った政治をした人が誰一人としていますか?皆同じです。神様は今、韓国にいる神の民たちに、何か伝えたいことがあるのです。

 

教会が悔い改めなければ、大韓民国は望みがない。大統領のせいでもなく、政治家のせいでもなく、まさに腐敗した大韓民国の教会たちのために、韓国はああなるのです。教会が悔い改めなければなりません。インターネットで「誰々死ね!」なんて幼稚な真似はやめましょう。私たちが悔い改めなければなりません。私たちが!

 

皆さん!歴史は?神が導き、権勢!あのエクソシア!エクソシアは何と言いましたか?神が与えた権勢と言いましたよね?大統領も神が立てられるのです。ならば理由があって立てられたのではないでしょうか?神の民のために!今、神が私たちにラッパを吹いておられるのです。黙示録に出てくるラッパ!そのラッパを吹いておられるのに、教会は、とんでもなく他人を、今、指さしているのです。自分たちが間違った道を進んでいることを見ようとせず。

 

私たちクリスチャンは、そのような苦難と痛みと試練が訪れた時、まずそれを許された神様の前に、自分に何か、神様の前に正しく立っていない部分がないかを点検し、また発見されたら、悔い改めて直していき、そうして自分の聖さのために、そのような苦難と痛みと試練を許された神様に感謝するようになることが、正しい信仰者なのです。

私たちが誤った道を進むのを、止めてくださる神の恵み!神の愛を、そこにも見出せるのが、真の信仰者なのです。ろうそくを持って出て行き、「誰か退け!どうにかしてくれ!」と叫ぶこと、それは私たちクリスチャンがすべきことではありません。

 

では、その苦難と痛みと試練が、むしろ私たちにとって有益であるなら、皆さんが、そうした苦痛と苦難と試練によって受けたという、皆さんが抱えている傷とは何ですか?一体その傷とは何でしょうか?その傷を癒すために、「インナーヒーリングだ。

内的な癒しだ!何だ」と言って、人々が非常に興味を持っているのですが、私はそれについて本当に言いたいことがたくさんあります。もちろん心理的に、私たちが傷ついた感情を制御し、慰めることは必要ですよね?時には!

 

しかし、まるでそのような傷が、私たちの人生に全く不要なものだったかのように、知人たちが虐待したり、無関心で、私の人生に余分な負担として押し付けられたかのように語ることは、間違っているのです。皆さんはまだ、神のこの主権と、神の御計画を、認めていない方々だということです。

 

では私たちはいつ救われたのでしょうか?創世以前です!そうでしょう?エペソ書を学びましたよね?創世以前、皆さんの名は既に呼ばれており、それならば皆さんがこの地に生まれ、神に会うその日まで、皆さんの人生は神の手の内に置かれているのです。

では生まれた時から、幼い頃であれ、青年期であれ、今であれ、あなたの人生に起こる全ての出来事や状況は、神が許さなければ起こらないのです。

 

神が、あなた方の人生がこの聖なる人生へと至る上で妨げとなるものならば阻まれ、あなた方のこの聖なる人生へと向かう上で必要なものならば、許されたのだということです。

しかし神が許されたことを認める方々が、それを傷として受け入れてはならないのです。

皆さん!私たちの人生に起こるすべてのことは、共に働いて益となるために必要なのです。

すべてが共に働いて、私たちがいつか天国に行って見たとき、私の人生に起こったすべての道にあるものたちが、

すべて共に働いて、この聖さを成し遂げるのだということです。

 

皆さん!福音が何かを正確に知り、神がどのように働かれるかを聖書を通して明確に知っている人なら、そこでそう挫折しません。そこでそう倒れていません。そこでそう涙を流していません。しかし、まだそれを皆さんが傷として持っていると言うなら、皆さんはまだ福音を正しく理解していないのです。

 

むしろ、私たちが語るその「傷」というもののゆえに、私たちが苦しむのではなく、むしろ神の細やかな、温かい、介入によって、感謝すべきことが、まさにあなたがたが語る傷の正体なのです。

 

傷の本質だと言います。

 

人間はほとんどが過去と未来の中で彷徨っていると言いますよね?「もしあの時…もし過去にあの出来事がなかったなら…」それが傷ではないですか?「もし過去にあのことをしていたなら…」そのことで苦しんでいるのではないですか?

皆さん!だからこそ、どれほど深刻かと言えば、『スクリューテープの手紙』の中で、このスクリューテープがウォームウッドに、「お前が今支配している人間たちを、過去と未来から絶対に抜け出せないようにしろ!絶対に現在を見させないようにしろ!」とまで言うのです。

悪魔たちが私たちを誘惑する方法です。私たちを惑わす方法なのです。

 

皆さん!ヨハネの福音書11章で、死んだラザロの妹であるマリアとマルタが、ラザロが死ぬ前にイエス様を呼びましたよね?

ところがイエス様はわざと二日遅れて来られたんです。四日後に!ラザロはもう死んでいました。

だからマルタとマリアは何と言ったでしょうか?

二度も!『イエス様!あなたがここにいらっしゃったなら、もしも(if only)!あなたがここにいらしただけなら、

私たちの兄は死ななかったのに…』と嘆いたのです。『あなたがここにいらしただけなら…』

 

ところがイエス様は何かおっしゃいますか?イエス様は、その過去から彼らの視線を現在へと移されるのです。

「今、あなたが信じるなら」と!『イエス様!あなたがここにいてくだされば、こんなことは起きなかったのに…』というところから、

イエス様は『今、あなたが信じるなら、神の栄光を見るであろう!』

イフ(if)!再びイエス様がそう語られるのです。

『現在を見よ!今、あなたが信じるなら、神の栄光を見るであろう!』と語られるのです。

『過去に起こった、あなたが悲しみ、苦しみ、呆然とするあの出来事が、今、あなたが信じるなら、むしろそれが神の栄光が現れる出来事となるのだ!』そう言われるのです。

 

実際にイエス様が来られたら、どうなりましたか?ラザロが生き返りました。

彼らにとってラザロの死は、苦しみであり、試練であり、傷だったのです。

しかしイエス様を信じた時、どうなったでしょうか?

ラザロが生き返ったことで、彼の死という出来事が、むしろ神の栄光を現す出来事となってしまったではありませんか?あの惨たらしい金曜日!暗い金曜日を、あの明るい復活の日へと変えてしまった、イエス・キリストのその力をただ信じるならば、過去のあの計り知れない傷跡さえも、神の栄光を現す道具となり得るのです。

 

私たちが抱えるそのような苦難と、痛みと、試練への記憶!あの困難な難関たち!あなたが今経験している試練!厳しい苦難は、すべてそう、あなたが本当にイエス・キリストだけを正しく信じさえすれば、その福音だけを正しく知っていれば、神の栄光が現れる出来事へと変えられるのです。

(アーメン!) それがまさに聖書が語っていることなのです。

 

皆さん!幼い頃、あまりにも貧しくて、あまりにも食べられずに育ち、あまりにも着るものもなく育ち、あまりにも虐待されながら育ったある少年が、盗みを働き、 強姦し、強盗を働き、何度も刑務所に入っていました。

 

そのため、この人は社会のどこにも受け入れられませんでした。そして誰の前にも出ようとしなかったのです。そんな中で、この人が何を恨んだかというと、『もし親がもう少し裕福だったら…、あの時親が私をもう少し殴らなければ…、 私がもう少し幸せな家庭に生まれていたら…」と。

 

ところがこの少年がある日、青年になってイエス・キリストに出会ったのです。

イエスに出会うと、「まさか、あんなゴミのような場所で育ち、そしてあんなゴミになってしまった私を、神様が愛してくださり、こうしてイエスを信じる者にしてくださったのか?自慢したくてたまらなかった」というのです。

それでこの人はそのイエスを自慢しながら歩き回り始めたのですが、そこで神が、彼のそのゴミのような過去を用いて、栄光を受けられたというのです。それが私たちクリスチャン全体の人生となるべきものなのです。

皆さん!ヨセフを見てください。ヨセフほど傷の多い人がどこにいるでしょうか?

ヨセフは家族によって売られたのです。そして神からも見捨てられたかのように思われました。

いや、神の御心に従って生きようと、ポティファルの妻が誘惑する中、服を脱ぎ捨てて逃げたのに、神は牢屋に放り込んでしまったのです。牢屋に行って酒の責任者!パンの責任者!パンの官長が『私はどうなるのか?』と言うと、『お前はパンとなって死ぬだろう!酒の官長、お前は出るだろう!』と言うと、酒の官長が『じゃあ俺が出てお前を助けてやる!』と言うんです。

ところが2年以上も、この男は忘れていたんです。背信!背信!傷!傷!

 

ところがヨセフは、「おい!過去に俺が兄たちに売られなければ、ポティファルの妻が俺を牢屋に入れなければ、あの酒の官長が俺を救い出してくれていれば…」と言ったでしょうか?彼は最後まで神を信じる者として、神を信頼し、神の導きを待ったのです。そのヨセフの生涯を、「栄えた」と言ったのです。聖書が!違います。エジプトの宰相になった時ではなく、牢獄にいた時、彼の生涯を「栄えた」と語ったのです。聖書にたった一度だけ出てくる、あの万事亨通(まんじこうつう)!私たちが好むあの万事亨通が、ヨセフが牢獄にいた時、彼に対して用いられた言葉なのです。

 

私たちが考えるには、失敗の場のように思え、苦難の場のように思え、試練の場のように思えるのに、神が、彼のヨセフらしさ、ヨセフの神の子らしさを形作るために牢獄に入れた、あの苦痛の場!その場こそがまさに亨通だというのです。万事亨通!皆さん!万事亨通してください!私が初めて書きますね。この言葉!万事亨通してください!皆さん!皆さんの人生に!

 

皆さん!人々が執着している、あの過去への執着は、本当に勇気のない臆病者たちの行動です。

ある面において、人々はわざとあの過去の傷に執着するのです。一度、皆さん自身を考えてみてください。

私たちがそんな過去と、その過去の痛み!傷に執着することで、私たちの内面に何が満たされるのか見てみましょう。

責任転嫁になりますよね?まず第一に!『私が今こんな状態になっているのは、まさにあの出来事のせいだ!

あの人のせいだ!』と責任転嫁するんです。人々は!そして自分のこんな人生に対する言い訳になるんです。

そして現在の失敗に対する、もっともらしい理由になってしまうのです。それが!だから人々は故意に、その傷を手放さないのです。

 

皆さん!それはむしろ過去の傷に執着することで、自分を合理化しているのです。

 

「私の性格がこんなに荒っぽいのは、過去に父親にひどく殴られたからだ!私がこんな風に盗みを働くようになったのは、過去に私があまりに貧しく育ったからだ!」

 

傷を手放せば、今のこの気に入らない現実が、ありのまま自分のものになってしまう。

しかし過去の傷にその責任を転嫁すれば、自分は逃げられるからそうするのです。

それはあまりにも臆病な行動です。臆病者がする行為です。違います。それは全て私たちの罪のせいです。

責任転嫁はしないでください!皆さん!私たちの罪によって起こるものなのです。それらは!

 

そのような堕落!アダムの中にあって私たちは、アダムと共に堕落してしまったのです。罪を犯してしまったのです。

その罪の結果が、このような途方もない苦しみと苦難と試練となってしまったのです。

全ては私たちの罪のせいであり、いかなる状況や境遇や出来事のせいではないのです。

 

皆さん!人々はそうして過去に固執することで、密かにそこから自己逃避し、現実逃避に必要な根拠を見出すのです。

だからある人々は故意に、過去の傷から抜け出そうとしないのです。

 

 

皆さん!心理学において、サイコロジーにおいて、その傷をどう扱うのでしょうか?第一に、この現実を直視 させます。自分の状態を診断し、認めさせるのです。「私は怒りを引き起こす人間だ。

 

私はいつも憂鬱だ。

 

私はいつも拒絶感に苛まれる。

 

」このように、自分を診断し、認めさせるのです。次に、二番目にどうするでしょうか?

そうして私を作った過去の何らかの出来事!何らかの人物を見つけ出すのです。

そしてその怒り!憂鬱!劣等感!拒絶感を、そこに転嫁(てんか)してしまうのです。

そして自分は清らかな天使になって、そこから抜け出すわけですね。

皆さん!そうして本当に皆さんのそのような傷が、解決されましたか?

たくさん通われたでしょう?皆さん!そんな類の方法を使う人たちは誰ですか?ブローアの人々です。

全てを鬼のせいにするんです。風邪の鬼!癌の鬼!痔の鬼!イム・ヨンボム氏を見ると、あちらの類の意見を全部集めて、「サタンが全部そうさせるんだから、追い出せば全部なくなる!」そう話していました。

本当にそうでしょうか?そんな愚かな責任転嫁が、まさにそうした異端者たちに利用されているのです。

違います。それは全て私たちの罪のせいです。病気は全て私たちの罪によって来るのです。

窃盗、姦淫、暴力?私たちの罪によって全て来るのです。虐待?私たちの責任であって、他人の責任ではないのです。

皆さん!恨みの悪霊!恨みの悪魔!そんなものどこにあるんですか?

責任転嫁でそんな傷が解決しないなら、どうやって解決できるというのですか?答えは一つです。

イエス!福音以外にありません。皆さん!私たちは元々そういう人間だったことを認めなければならないのです。

それが福音の始まりではありませんか?『私は罪人です!だからこそ、救い主が必要です!

だから神様が救い主を送ってくださいました。だから『彼の中にあって、すべてが解決されました。』が福音ではありませんか?

それが皆さんの傷の癒し、唯一の解決策なのです。

皆さん!元々私たちは元々そういう者たちです。

元々怒りを出す者たちです。元々憂鬱な者たちです。

罪のゆえに!元々拒絶された者たちです。神から拒絶された者たち、私たちは、元々私たちは、そういう者たちです。

もともと!誰のせいでもありません。過去のどんな出来事のせいでもありません。

私たちの置かれた状況のせいでもありません。私たちの罪のせいです。

私たちの罪のせいで、私たちはそうして地獄へと、そうして生きていき、地獄に落ちるしかなかった存在だったのに、私たちは救い出されたのです。神様が、そうして全ての人間と共に地獄に落ちてしまうしかなかった私たちを救い出してくださり、神の子と呼んでくださり、神の子はどう生きるべきかまで教えてくださり、私たちにそう生きられる力も与えてくださったのです。

『罪を犯すことができない(not able to sin)』者となるのだと私たちは!その力までも与えられたからこそ、「ああ!私はもう憂鬱になることはできない!私はもう怒ることはできない!私はもう拒絶感?孤独感?いや、私は神の子だから、私の人生にそんなものはありえない!」それが唯一の傷の癒し方なのです。

虐待を受けた人々が抱える傷とは何ですか?拒絶感です。

なぜなら?「私がこんなに価値のない者だから、私は虐待を受けた!」という考えが頭にぎっしり詰まっているからです。

しかし、もしあなたがたが本当にイエスを信じる者なら、あなたがたの真の父である神が、ご自身の息子さえも死なせながら、あなたがたをそれほど価値ある者として扱ってくださったことを知っている者が、どうしてそんな偽者に、あなたがたの人生を明け渡せるでしょうか?あなたの傷があなたを、ずっと引きずり続けるために、どうして差し出せるというのですか?

あなたは価値ある者ではありませんか?「なぜ私はこんなに怒っているのか、なぜ私はこんなに許せないのか?

私はどうしても過去に私にそんな傷を与えたあの人間を許せない!」それがあなたの傷ですか?

 

皆さんはイエス・キリストにあって一つに結ばれ、救われたのではありませんか?イエスが自分を石で打ち、十字架に釘付けにして殺した者たちに向かって、「父よ!彼らは自分たちが何をしているのか知らないのです。彼らをお赦しください!」と言われたその方の中にあって、皆さんはこの世を赦す者ではないのですか?

皆さんはこの世を赦した者たちだからこそ、そう生きるしかないのです。

「ああ!私の身分はそういうものだったのか!」と知る者が、どうして過去に自分に傷を与えたその人を赦せず、最後までその傷にしがみついて、行くというのでしょうか?それはまだあなたがたが福音を理解していないという話です。

 

皆さん!イエス様よりも多くの苦難と、痛みと、裏切りと、拒絶を受けた方がどこにおられますか?私たちはその方と共に苦難を受けたのです。共に拒絶されたのです。共に苦しんだのです。共に孤独だったのです。しかし、その方が、その全てを神に完全に従順になることによって、復活へと昇華されたではありませんか?神の栄光を現されたではありませんか?私たちもその中で、共に救われ、共に復活した者ではないでしょうか?

 

ところが、イエス様はそうされたのに、クリスチャンである私たちは、なぜそれを傷だと言うのでしょうか?

傷だなんて!皆さん!過去に縛られて生きてはいけません。未来の不安のために苦しんではいけません。

今を生きなさい、今を!今の私を、イエスを治療者として、彼のもとに駆け寄って癒しを受けるのです。

なぜ今を生きながら、過去から苦しみを受けるのですか?

なぜ今を生きながら、未来からその不安を贈り物として受け取るのですか?結婚した人々が時々こんな悩みをします。

「あの男性と結婚せず、あの男性と結婚していたら…」 「あの女性と結婚せず、あの時あの女性と結婚していたら…」 こんな考えを時々持つそうです。私は絶対にそんなこと考えたことありません。

ロイド・ジョーンズ牧師の本にこんな部分があります。

その方は医者だったそうです。非常に有名な医学博士だったので、友人の中にも医者が多いでしょう?

ある時、医者の友人を訪ねたところ、その方は精神科医でした。その方が!ある男性をカウンセリングしていたそうです。

「あの男性は何の症状があるんだ?」と聞いたら、極度のうつ病だそうです。「なぜそうなったのか?」と聞くと、結婚の数日前に、自分が本当に愛していた女性が、他の男性と一緒に逃げ出し、家庭を築いたため、その衝撃でそうなったというのです。

ところが隣の部屋に、同じ年頃の男性がもう一人入院していて、まったく同じうつ病!極度のうつ病にかかっているというのです。

それで「あの人は誰だ?」と聞いたら、この男性が結婚しようとしていた女性と一緒に逃げた相手だそうです。

この女がどれほどひどく振る舞い、どれほど文句を言うか、うつ病になったのです。

この人は、この女が逃げ出さなければ、自分はとても幸せになり、自分の人生は大きく開けたはずだと考えてうつ病になっているのに、

その女と暮らしたこの男は、さらに深刻なうつ病にかかって入ってきたのです。

私たちは時に、自分にとって「あの過去がなかったら、いや、あの過去にこんなことだけ起きていたら、私にはユートピアが訪れたのに…、私は本当に幸せな者になれたのに…」と夢を見るのです。

とんでもない!私たちは罪人であり、この罪人となった本性を持つ者は、イエス・キリストの中でそれが解決される前には、

決して私たちが聖書が語るあの真の幸福!真の喜びを味わうことはできません。

『もし私が過去に裕福な家に生まれていたら…!』

 

私はこういう人を知っています。本当に裕福な家に生まれ、一度も自分で稼いだことがありません。

今六十歳になったのですが、二人の兄弟が、今まで一度も職業を持ったことがないそうです。

だからこの父親は今も天国に帰れずにいるんです。子供たちの心配で!「あいつらを置いて俺がどうやって死ねるか?」って。

そんな愚痴を私が聞いたことがあるんですよ。

お金が余りにも多すぎて、あの子たちは生きる力を失ってしまったんです。皆さん!それが望みだったんですか?では?

 

あなたがたが惜しむあの過去が、必ずしもあなたを幸せな人間にしてくれたとは考えないでください。

過去にあの出来事さえなければ、あのことさえ成功していれば、という漠然とした憧れとバラ色の夢を抱いて、あなた自身を虐待し苦しめ続けるのはやめなさい。目を覚ましてください。

イエス様は、「もしイエス様がここにいらっしゃったなら…」と嘆くマリアとマルタに、「あなたがたが信じるなら」というあの「大転換」の方法を教えてくださったのです。

そうです!イエスを信じる信仰こそが、私たちをあの過去の傷から自由にしてくれるのです。

 

MBTIというのをご存知ですか?マイヤーズ・ブリッグス・タイプ・インディケーター!MBTI、それはキャサリン・ブリッグスとイザベル・マイヤーズ、あの姉妹ですよね?カール・ユングの心理類型論を基に、より簡単で日常生活に有用に活用できるよう考案された、自己報告式の性格類型指標です。これを用いて教会内でも、何やら賜物開発だの何だのと多用されていますが、このMBTIに基づいて、誰かはJ(内向的)の傾向が強い。

誰かはP(感覚)の傾向が強い。

誰かはI(内省的)の傾向が強い。

内向的だ。

誰かはE(外向的)の傾向が強い。

外向的だ。

誰かは整理が得意だ。

誰かは散らかすのが得意だ。

そうしたものは私たちが生きていく上で、人生を歩んでいく上で、確かに役立つ面はあります。ある面においては!

 

しかしそれが、傷の癒しに、本当に役立ったでしょうか?私の夫が、私に傷を深く与えました。

今まさに!『ああ!あの男がJだからああだったんだ!だから許さなきゃ!』これができたでしょうか?

それは皆さん!精神科医が使うものです。なぜ教会までそんなものを!世の人々が作り上げた、世の心理学者たちが作り上げた、その浅はかな心理学を利用して、人間が持つ究極的な傷を癒すと言い出すんですか?そんなことはあの人たちに任せましょう。

あの人たち、何を食べて生きるために、教会まで来てそんなことをするんですか?教会ではイエスだけを伝えるのです。それだけが道だと。

 

皆さん!そうやって他人と、心理的な選好に違いがあることを知ることが、私たちの傷を少しも軽減してくれないのです。

藁にもすがろうとする、苦しんでいる人々に、そんなものでそう弄んではいけないのです。

イエスをもっと詳しく教えなければなりません。福音をもっと詳しく教えなければなりません。

 

皆さん!私たちが受ける苦しみや苦難!それによって生じた傷!これら全ては、人間の堕落!つまり罪によるものだと言いましたよね?ではその罪はどう解決されるのですか?その罪は?その傷が罪によるものなら、その罪はどうすれば解決されるのですか?

イエスの中にあってのみ解決できるのではないでしょうか?その罪は!つまりそのイエスを教えなければなりません。

 

私が一体どんな存在だったのか、『あなたは元々そういう存在だ。

」ということを認めさせ、それを完全に解放してくださったイエスを知らしめてくださるべきです。その罪を解決する方法は、ただ一つ!イエス・キリストを知る方法しかなかったでしょう?神を知る知識!それによって神の従順な者へと造り変えられていくその道において、私たちは来世を見据えるようになり、それゆえこの地で起こったようなことは、草の葉のように、ただ、見捨ててしまえることが、傷の癒し方なのです。

 

そしてもう一つ!愚かな論理こそが、「家系に流れる呪い」「メルリン・ヒッキー」というこの巫女のような女が、この一冊の本を書いただけで、韓国教会全体が揺らいだのです。

「家系に流れる呪いを断たなければ生きられない!」あなたがたがイエスを信じていても、まだ家系に流れる呪いがあなたを支配しているなら、イエス様は一体何をしたというのですか?そのイエス・キリストの十字架は、それほど価値のないものなのでしょうか?

 

彼らはこんな話をします。

離婚した親の下には、離婚を繰り返す子供たちが生まれ、泥棒の家庭では、泥棒が生まれ続け、癌にかかっている人々の家系には、必ず癌にかかる人々が生まれ続ける。

フラー神学校では今でも「クラフト」という人物が、これを用いて教え続けていますが、韓国の牧師たちが群がり、人山人海をなすそうです。このクラフトという人物が、韓国の家系に流れる呪いや癒しといった概念を初めて持ち込んだ、あの牧師の師匠だといいます。だから韓国人に大ウケしたのです!

 

それを学んで、今教会に行って何を教えようというのか?

説教者たちが説教を準備する時、その説教する箇所を、まずギリシャ語やヘブライ語で読んでみるのです。

原語が何であるかを知らなければならないからです。

翻訳版には、時々誤りがあるためです!そして、その単語の時制や格といったものを調べ、その後、これらの単語が聖書全体でどのような用法で使われているのか、その箇所を全て探します。そうして「ああ!

この箇所はまさにこれだ!」という聖書の真意を明らかにして伝えることが、説教者の仕事なのです。それを「エクセジシス」と言います。

 

しかし、自分が言いたいことを言うために、聖句を引き合いに出し、似たような聖句を引き合いに出し、それをこうやって貼り付けている!人々はそれを見て、聖書なんて全く知らないから、「おい!本当に聖書をよく知っているな」なんて言うんですよ。

それを「エイスジシス」と言います。それは聖書を恣意的に解釈する行為です。

この『家系に流れる呪い』という本を、昔一度読んで投げ捨てたのですが、皆さんに知らせようと再び読んだところ、また投げ捨てました。

 

最初から最後まで、自分が言いたいことを言うために、あの節々を引っ張り出して並べたのに、この無知な本で、教界が揺れたなんて、ありえる話ですか?このイム・ヨンボムという人物が書いたこの本で、移民教会が今も騒がしいなんて、これが道理にかなっているでしょうか?皆さん、もう半年も学んだのですから、一度読んでみてください。

これが!いったいどんな話が書かれているというのでしょう。

この幼稚な論理が教界を騒がせているのに、韓国教会は今まで何を教えていたというのですか?今までずっと!また電話がかかってくるでしょうね、結構です。

電話してください。公開討論しましょう!ではこちら側から何人か出ますから、あなたたち側で最高に、その教理をよく知っている人何人かだけ出てきて、公開討論しましょう。

聖書だけを持って、何が正しいのか公開討論しましょう。

いったいイエスを信じるというのに、イエスが誰なのか、聖書が何を言っているのかも知らずに、イエスを信じているというのですか?だからこうやって惑わされ騙されるのです。

 

「家系に流れる呪い」を主張する人々が、好んで使う箇所が、申命記の箇所と、出エジプト記20章の十戒に出てくるあの箇所です。

何と言うか?『主は熱き神である。すなわち、わたしを憎む者の罪を、父から子まで、三代、四代にわたって報いる。

しかし、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、千代にわたって恵みを施す。』この箇所がそれを言っているのですか?本当に?

 

これを文字通り解釈すると、父の罪が三代、四代まで、子孫に確実に降りかかる。

そうです。その父が、神に従った者たちは、千代まで祝福を受けると、そう教えるのです。

いや、本当にイエスを信じていても、その呪いは続いて降りてくるのですか?家系に流れる呪いは、イエスの十字架でも断ち切れないのですか?それならホセア書は破り捨てなければなりません。

『ロハムミ、ロルハマだ。

と言ったその場で、『お前はもはや私が憐れむことはない。

お前は私の民ではない。

』と言ったその場で、『お前は私の愛する民となるだろう。

』と言ったそのホセア書は、全部破り捨てなければなりません。

 

皆さん!イエス・キリストの十字架によって、私たちのすべての罪は赦され、私が愛する子となるという神の言葉が成就したのです。エレミヤ書31章27節にはこうあります。

 

(エレミヤ書 31:27-30)

27 「その日が来ると、わたしはイスラエルの家とユダの家に、人の種と獣の種を蒔く。

わたし主のことばである。

 

28 わたしは以前、彼らを引き抜き、打ち砕き、倒し、滅ぼし、災いに遭わせるために、見張りを怠らなかったが、今やわたしは彼らを建て上げ、植えるために、見張りを怠らない。

わたし主のことばである。

 

29 その時が来れば、もはや『父が酸っぱいぶどうを食べたから、子らの歯が浮いた』などと言う者はいなくなる。

 

30 ただ、各人が自分の罪のために死ぬ。

酸っぱいぶどうを食べる者の歯だけが浮くのだ。

"

 

家系に流れる呪いなどどこにあるのか?各自が自分の罪によって死ぬのだ。

今や父が甘いぶどうを食べたからといって、子孫の歯が痛むようなことは決してない。

盗みを多くする家庭から盗人が出てくるのは、見て学んだことがそれだけだからだ。

いや、病気が家に流れる呪いなら、おい!病気で死んでいった神のあの数えきれないほどの僕たちが、墓からぴたりと起き上がるだろう。今どこに向かってそんなことをそんなに軽々しく言いふらしているんだ?そうしておいて自分たちが祈らなければその呪いは断たれると言うのか。そんな犬や猫の甥っ子の靴があるか?(ハハハ)おい、本当に思いっきり罵らなきゃいけないのに…。

 

皆さん!聖書を見てください。聖書を!皆さんが必要なものを得るために、偽りの僕たちを追いかけるのではなく、聖書を見てください。神が語られた神の言葉だけを見てください。

千代までその祝福が続くというのです!それは三四代!神の呪いは、それほど恐ろしいものなのに、神の恵みはそれよりも大きいという、千という神のその数字を用いて、説明している文学的な表現です。

本当に皆さんの周りで千代にわたり祝福を受け続ける家庭を見たことがありますか?

ダビデがあれほど罪を犯したのに、どうしてその家系からソロモンが生まれ、イエス様が生まれたのですか?では?

家系に流れる呪いという荒唐無稽なことに、皆さん騙されないでください。

 

皆さん!そんな家系に流れる呪い!それで、自分の責任を転嫁しないでください。

言い訳しないでください。それは全て私たちの罪のせいです。私たちのものです。

私たちのもの!皆さん!私たちはイエスを信じながらも続く病気や困難に直面し、「ああ!これが家系に流れる呪いだ!」と解釈するのではなく、「ああ!神様!このような病気や困難のないあの天の国!あの天国に早く行かせてください」と、希望の祈りを捧げるべきなのです。それが信仰者というものですよ。

「どうにかして、この呪いを断ち切り、ここでもう少し幸せに、まあ何せ死ぬまでここで生きて逝こう!」

それがクリスチャンじゃないでしょう?「どうにかして神様!この罪の肉体!今なお私を引きずり下ろしているこの罪の肉体!これを脱ぎ捨て、私をあの天国に早く行かせてください!」

 

皆さん!癒やしや、家系に流れる呪いなどについて語る時、最も卑劣なのは責任転嫁です。

自分が背負うべきものを、なぜ他人と、先祖と、他の出来事や状況に、そうやって責任を転嫁するのですか?

それは自分だけを考えるその利己主義!その罪の本質から出た結果です。

 

過去に悩んでいたある女性が、私に相談に来たことがあります。

昔!自分が過去にこんな過去があったせいで、どうしても夫に、男性に申し訳なくて、苦しくて生きていけないというのです。

だからこれをその男性に、夫に話したいと言います。

そうすれば自分は少し自由になりたいと。

そこで私はこう言いました。「絶対に話してはいけない。

あなたが責任転嫁すれば、あなたはすっきりするかもしれないが、その男性は一生その重荷を背負って生きるだろう。

たとえ許すと言っても!あなたが直面して神の前で悔い改め解決すべきだ。

あなたが気楽になるために夫に全て話して、そうすればあなたはすっきりし、夫は一生!その重荷を背負って生きなければならないのか?自分で責任を取れ!」

 

クリスチャンはそう堂々と、勇士として生きていかねばなりません。なぜ責任転嫁しようとするのですか?

もしこの中で誰かが地獄に行くなら、家系に流れる呪い! 先祖の罪のせいで行くのではなく、自分の罪のせいで行くのです。勘違いしないでください。

 

まとめます。

私たちクリスチャンには、苦難と痛みと試練が必然的であり、必須的なものです。

しかし神は逃れる道も共に与えてくださると言われました。

ところでその逃れる道とは?その問題から逃げられる道ではなく、その試練に失敗して、神の怒りを引き起こさないようにする、

従順の道が逃れる道だと、先週私が説明しました。

 

その逃れる道によって逃れ、勝利するクリスチャンの姿は、カルメル山のエリヤのようにただ勝利する姿として現れるだけでなく、

ステパノが石で打たれて死ぬ姿のように、そのような姿でも勝利する姿が現れることがある。

他の人々から見れば、むしろ敗北の姿として映ることもあると語りました。

 

しかし神の御心において、殉教を覚悟し、従順である道こそが逃れる道であるため、私たちは周囲で困難に直面している兄弟姉妹の状況や、外見だけを見て、彼らの信仰を判断してはならないと語りました。

そして私たちの人生に降りかかる苦難と、痛みと、試練は、必ず私たちの聖さの完成に必要なものであるため、それを傷だ!呪いだ!と言って、苦しんで座り込んではならず、むしろ積極的に、自分の人生に、教訓として生かさなければならないと語りました。

 

自分に傷を与えた人は、神が私の人生に送ってくださった人生の鞭!人の杖です。

私に傷を与えたあの敵ではなく、私に送ってくださった人生の鞭!人の杖!それを忘れないでください。

むしろ、そのすべての過去の困難を、私の人生では起こってはならなかったこととして、ひとまとめに恨むのではなく、

どうしても必要だったから神様が与えてくださったものだと、信仰の目で見なさいと。家系に流れる呪いはありません!

 

あなたがたがクリスチャンであるなら、あなたがたが持っている傷は、すでに神様の中で全て解決されているのです。

そこに縛られてはいけません。

その呪いは、神の偉大な、時満ちた御計画によって、イエス・キリストにおいて、完全にすべて解決され、あなたは自由人なのです。

 

最後に、私たちの聖書の箇所をいくつか読んでおしまいにします。

 

ローマ人への手紙8章1節から2節です。

 

(ローマ人への手紙 8:1-2)

1 だから、今や、キリスト・イエスにある者には、決して罪の宣告はないのです。(ノー・コンデメネーション(no condemnation)!)

2 キリスト・イエスにあるいのちの御霊の律法が、罪と死の律法からあなたを解放したからです。

 

コロサイ人への手紙2章13節です。

 

(コロサイ人への手紙 2:13-15)

13 また、あなたがたの罪と肉の割礼のない状態によって死んでいたあなたがたを、神はキリストとともに生かしてくださり、すべての罪を赦してくださった。

14 私たちに逆らい、私たちに敵対する律法の規定に記された証書を消し去り、取り除いて、十字架につけて滅ぼされた。

15 支配と権威を脱ぎ捨て、公にさらしものにし、十字架によって勝利を収められたのである。

 

(コリントの信徒への手紙二 5:17)

17 だから、キリストにある者は、新しい被造物である。古いものは過ぎ去った。見よ、すべてが新しくなったのである。

 

(コリントの信徒への手紙二 5:19)

19 これは 神が キリスト の中に おられ、 世を ご自身と 和解させ、 彼らの 罪を 彼らに 帰さず、 和解させる 言葉を 私たちに 託されたからである。