| 일 | 월 | 화 | 수 | 목 | 금 | 토 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 1 | 2 | 3 | ||||
| 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 |
| 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 |
| 18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 | 24 |
| 25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 | 31 |
- 心の貧しい者は幸いである
- コリント人への第二の手紙
- 罪の代価
- マーティン・ロイド・ジョーンズ牧師
- kairosを生きる人々
- Tulip
- 山上の説教
- わがうちに おられる方は
- I'm Not Okay But I'm Still Here
- カイロスを生きる人々
- 聖餐
- 山上の垂訓
- Lord
- 聖霊への冒涜
- ヨハネの黙示録
- アルミニウス主義
- カルヴァン主義
- Today
- Total
Kairosを生きる人々
27 - クリスチャンの苦難 1 (苦痛のない地獄) (ピリピ1:29) 본문
27 - クリスチャンの苦難 1 (苦痛のない地獄) (ピリピ1:29)
(ピリピ人への手紙 1:29)
29キリストのために、あなたがたに恵みを与えられたのは、ただ彼を信じるだけでなく、また彼のために苦難も受けるためである。
今、皆さんに配っているハンドアウトは、私が新約聖書の中から、「なぜクリスチャンには苦難があるのか、なぜそれは必然なのか?」についての聖句を、一つも漏らさず全て探し出しておいたものです。
ですから、家に帰って必ず読んでみてください。
今日私たちが読んだ御言葉のように、苦難について、一度考えてみようと思います。
約3週間にわたり、「クリスチャンにはなぜ苦難が必然なのか、
そしてそれが必然であるならば、私たちに訪れる『傷』とは何か、ではその傷を癒そうとする癒しの集会や、そこで語られる 『家系に流れる呪い!』といった、とんでもない話は何なのか?まで掘り下げていきます。3週間かけて!
有名なドイツの神学者であるヘルムート・ティリケ牧師が、アメリカ各地を巡り説教した後、アメリカについて感じたことを尋ねられた際、こう答えました。
「彼らは苦難について不適切な見解を持っている。
これは単なるアメリカの問題ではなく、全世界のキリスト教徒の問題だ」と語っています。
今日読んだ聖書箇所には、明らかに「苦難は恵みである!」と書かれています。
しかし多くの人々が、その苦難について誤った見解を持っています。
皆さんはその苦難について、どのような見解をお持ちですか?いったんイエスを信じるようになれば、神の助けによって、すべての苦難と逆境は消え去り、幸福と平和が私の人生に訪れると、皆が思い込んでいますよね?だから神が存在するなら、私たちの人生のこの苦難は当然、その神がすべて防いでくださるべきだと考えます。
実際にバートランド・ラッセルのような人物や、ヴォルテールのようなアンチクリスチャンたち!
彼らは人間が経験する戦争と飢餓!犯罪!病気を防いでくれない神は、信じる必要がないと言いながら、キリスト教を拒否しました。
そしてある牧師は、この地上の貧困や病気さえ解決できない、そんな神がどこにいるのか?だから三拍子の祝福だ!
こうしたもので人々を惑わし、多くの人を集めることに成功した牧師もいますよね?
では本当にイエスを信じれば、苦痛や苦難が全て消えるのでしょうか?その答えは、皆さんがこれまで生きてきた経験から推測しても、そうではないと、あまりにも簡単に分かるはずです。
皆さん!苦痛を好む人はいないでしょう。
苦難を喜んで受ける人もいないでしょう。
そして試練が訪れた時、その試練に快感を感じる人は、なおさらいません。
誰もが皆、苦難と苦痛と試練のない人生を、追い求めるのです。苦痛を楽しむ人!苦痛を受けながら快感を感じる人を、
私たちは「マゾヒスト」と呼びます。それは精神疾患です。
しかし皆さん!ご存知ですか?どこかで苦痛を感じられず、もがいている人たちがいるということを!
その苦痛を感じられることを切に願い、祈っている人たちがいることをご存知ですか?まさにハンセン病患者たちです。
私たちが「らい病」とも「癩病」とも呼ぶ、あのハンセン病患者たち!ハンセン病とは、全身のこの痛点(痛みを感知する神経)が
感染によって、痛みを感じられなくなること、それがまさに癩病!ハンセン病というのです。
私たちの体は、知らず知らずのうちに、その痛みによって守られているということを、皆さんご存知ですか?
目を長く見開していると、目が痛くて、私たちは瞬きをし、涙が出て、視力を守ることができるのです。
そして熱いストーブのそばに行くと、手が熱いため、素早く手を引っ込めることができます。
より大きな火傷を負わずに済むのです。
また、新しい靴を履くと、かかとが擦りむけますよね。
すると私たちは歩き方に気をつけますよね?そして家に帰って薬を塗り、絆創膏を貼ったりするのです。骨がずれたら、
これを巻いて首にかけなければなりません。
なぜですか?痛いからです。これが痛くなければ、骨がずれていても無理に手を使い続けることになります。
そうすると、永遠に手を使えなくなる可能性もあるのです。
私たちはその痛みによって、苦しみによって、骨を守ることができるのです。
このように苦痛は、時に私たちをより大きな被害から守る役割を果たします。
しかしハンセン病患者は痛みを感じないため、視力をほとんど失うと言われています。
なぜなら?まばたきをしないからです。
目が痛くないからです。そして彼らは、手がストーブの近くに行っても熱いと気づかないため、手が焼けても気づかないと言います。どこかで肉を焼く匂いがする。この程度!
顔を洗う時でさえ、私たちは熱すぎると、熱くてすぐに手を離しますが、彼らは気づかないので、その熱い湯で顔を洗いながら、肉が焼けることに気づかないのです。
箒で掃く時、あまりに硬いものを掃く時、私たちは無理なら諦めますが、彼らは痛みを感じないので、 ずっと掃き続けて指が折れても、気づかないんです。
そうやって彼らは麻酔なしで手術ができ、友達の前で指にピンを刺しながら、流れる血を自慢する子もいるそうです。
しかし痛みがないことで、彼らは命の危機を感じながら生きているのです。
だから彼らの唯一の願いは、痛みを感じるべき時に痛みを感じたいということ。
それがまさに彼らの唯一の願いです。
彼らは消えゆくその痛み!その痛みの喪失を防ぐために、治療をするのだそうです。
痛みを掴み続けるために治療をするのだそうです。
痛みはこうして、私たちの肉体を守るために、どうしても必要なものなのです。
では、私たちクリスチャンの人生に起こる苦難と痛みと試練は、どう見るべきでしょうか?
神は御自身の民を、私たちが想像もできないほど愛しておられます。
私たちのような者たちのこの命を救い出すために、御自身の息子の命さえも断たれるほどに愛されたのです。
息子よりも私たちをさらに深く愛されたのです。
ではなぜ、それほど愛する神が、神の民である私たち、その子らの人生に訪れる苦しみや苦難を防いでくださらないのでしょうか?
確かにイエス様は「世の終わりまで、いつもあなたと共にいる」と約束され、私たちの内に住まっていらっしゃいます。
そして私たちの人生に介入してくださっているのに、なぜ私たちが苦しむ時、このような苦難に遭う時、防いでくださらないのでしょうか?ということです。
アウシュビッツ収容所から、かろうじて生き延びた「エリ・ヴィーゼル」という人が、『夜』という文章を書きましたよね?そこで彼はこう語っています。
「神よ!今まで私が信じてきた私の神は、死にました。神よ、あなたが生きているなら、どうして今、何もしないで、
この殺戮をただ見ているだけなのですか?子供たちを鉤に刺し、彼らは殺し、人を茹で殺し、ガス室に入れて殺しています。
あなたはなぜそれを止めないのですか?あなたを呼ぶ彼らを、なぜ無視するのですか?彼らは人を殺して、乾パンを作って食べています。それなのにあなたは今、何をしているのですか?そして神は去った。」とこう語っています。
収容所だけでなく、生活の現場で、多くのキリスト教徒を自称する人々が、「神よ!なぜあなたは私の苦しみを無視するのですか?」と叫びながら、教会を去って行っているのに、なぜ神はその苦しみを放置しておられるのか?ということです。
皆さん!この苦しみの理由について、一度、私たちが聖書から探り、考えてみましょう。
聖書では、私たちが試練に遭い、苦難を受け、痛みを経験する理由を三つに説明しています。
まず、私たちはクリスチャンとして、この世と背を向け、今やこの世と敵対する、神の御心に従って生きる者たちであるため、
当然この世が、サタンが、私たちを攻撃するのです。
それゆえに訪れる苦難が襲い、痛みが私たちの生活に降りかかるだろうと聖書は語っています。マタイによる福音書5章10節に進みます。
(マタイによる福音書 5:10-12)
10 義のために迫害される者は幸いである。天の国は彼らのものである。
11 わたしのために、あなたがたをののしり、迫り、偽ってあらゆる悪口をもってあなたがたを攻撃するとき、あなたがたは幸いである。
12 喜びなさい。楽しみなさい。あなたがたの天の報いは大きいからである。あなたがたの前におられた預言者たちも、同じように迫害されたのである。
マタイによる福音書24章9節に進みます。
(マタイによる福音書24:9)
9 そのとき、人々はあなたがたを苦難に渡し、あなたがたを殺すであろう。あなたがたはわたしの名のために、すべての民から憎まれるであろう。
ペテロの手紙一 5章9節に進みます。
(ペテロの手紙一 5:9-10)
9 信仰に立って、悪魔に立ち向かいなさい。あなたがたが知っているとおり、この世にいる兄弟姉妹たちも、みな同じ苦難を経験しているのです。
10 すべての恵みの神、すなわち、キリストにおいてあなたがたをその永遠の栄光へと招いてくださった方が、あなたがたを、わずかな苦難の後、ご自身が完全にしてくださり、堅く立たせてくださり、強めてくださり、確かな土台を築いてくださいます。
ここ10節に、私たちに真の希望を与える言葉があります。
「わずかな」——私たちの人生とは!苦難と痛みに満ちた私たちの人生は、「一時」なのです。
ヨハネの福音書16章33節を見てください。
(ヨハネの福音書 16:33)
33 わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためである。世ではあなたがたは苦難に会うが、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている。
ヘブル人への手紙11章35節に進みます。
(ヘブライ人への手紙 11:35-38)
35 …またある人々は、拷問を受けながらも、より良い復活のいのちを得るために、あえて解放されることを望みませんでした。
36 またある人々は、嘲りを受けたり、鞭で打たれたり、さらには縛られたり、牢獄に閉じ込められたりしながら、試練に耐えました。
37 また彼らは石で打たれ、鋸で切られ、剣で殺されました。彼らは貧しさに苦しみ、患難に遭い、虐待を受けながら、羊や山羊の皮をまとってさまよいました。
38 この世は、このような人々を受け入れる場所ではありませんでした。そこで彼らは荒野や山や洞窟や穴をさまよい歩きました。
私たちはこのように神の側に立つため、世から排斥されるのです。
皆さん!ある強盗たちが計画を練っていました。一発当てようと!熱心に計画を立てていると、その中の一人が突然心変わりしました。「私はできない。もうこんな強盗は続けられない。
正直に生きるんだ!」その瞬間!彼はその集団から孤立することになりました。
世の中で私たちが「私は神の御心に従って生きる!」と決断する瞬間!私たちは世の中から攻撃を受けるのです。皆さん!
皆さん!アフリカにある、あのスーダンのウドゥク族について、私が一度お話ししましたよね?そのウドゥク族は、
一万三千人の部族が全員脱出し、エチオピアの難民キャンプへ数年前に移動した部族です。
その部族がなぜスーダンから脱出したかというと、彼らはイエスを信じたからです。
このスーダンにイスラム政府が成立すると、彼らはキリスト教撲滅政策を打ち出しました。
そこで50人ずつ砂漠に連れ出し、水も食料も一切与えず、二日に一度イスラム政府の車がそこへ行ったといいます。
訪問して改宗する者は連れ帰り、そうでない者はそのままその場で渇きと飢えで死なせたというのです。
そうした迫害を逃れて、彼らがエチオピアへ一万三千人が逃亡したのです。
彼らは今から50年前、二人の女性宣教師によって福音を聞きました。
その種がぐんぐん育ち、今や一万三千人の部族全体がイエスに帰ったのですが、迫害があまりにも激しいのです。
エチオピア難民キャンプへ逃れました。一握りの穀物が一日分の糧だったそうです。
それで彼らは一日を生き延びなければなりませんでした。
子どものお腹は栄養失調で腹水がたまり、このように膨れ上がり、カエルのように膨れ上がり、頭はすっかり禿げ、そして傷を治療することができず、その傷口にはウジが住み着き、そのような場所でも、彼らはイエスに仕えることができるというその事実一つだけで喜んで生きていたのです。
その福音の種を蒔いた二人の宣教師のおばあさんが、再びその地を訪れた時、 彼らは本当に貴重な贈り物を宣教師のおばあさんたちに贈った。そうでしょう? なんと卵一箱! 彼らが一日で食べられる、配給で受け取ったその穀物を食べずに、鶏に餌を与えて、難民キャンプで最も貴重だと言われる、金よりも貴重な卵を作り出したのです。
それでそれを宣教師の方々に渡しながら、彼らを抱きしめて、 「私を愛してくださる、私を愛してくださる」という賛美歌を歌ったそうです。私を愛してくださる!いや、あの状況で私を愛してくださる!あの50年前、あの二人の宣教師が唯一アフリカの言葉で教えてくれた、「イエスの愛は聖なる言葉です」という賛美歌を共に歌ったというのです。
皆さん!イエスを信じながら、今日この私たちが生きる時代に、そのような迫害を受けている人々が存在することを、皆さんは想像したことがありますか?イエスを信じ、それゆえ神の側に立つ者たちを、この世とサタン悪魔は、放っておかないのです。
説教者にも同じことが言えます。人々は、説教者たちにこう助言します。
「確かな境界線を引くな!確かな線を引いてしまうと、その線の外にいる人は、当然去ることになる」と言うのです。
「だから確かな線は引くな!正しく教えよ、しかし確かな線は引くな!」正しく教えながら、どうして確かな線を引かずにいられましょうか?
「皆さん!あそこへ行けば、皆さん!死にます!皆さん、教会に通っていると言いながら、皆さん!その道を行けば、皆さんは死にます!」と線を引かなければならないでしょう?ところが人々は言うのです。
「そうすれば皆去ってしまう。これ以上聞く者は残らない。だから線を引くな!悔い改めについて、罪について、イエス・キリストの血について、十字架については、できる限り説教するな!」と。
人々が負担に感じるというわけです。
それにもかかわらず、線を引いて、あなたたちがそこへ行くなら大変なことになると言う、立派な牧師さんが、LAに三人いると聞いたことがあります。一人はアダムス通りにあるサモナ教会にいると聞き、残りの二人はどこにいるのか分かりません。
とにかく、そういう人を指して人々は言うのです。
「頑固者だ! 意地っ張りだ!」そうでしょうか? 皆さん! 永遠の命がかかった問題なのに、ただぼんやりと線を引かないことが、
果たして正しいことでしょうか? そうやって行く人々は常に非難されます。
ああ! 第二に、私たちの罪によって私たちに来る、神の懲戒(ちょうかい)があります。
それは懲罰ではなく懲戒です。懲戒とは、愛の鞭のようなものです。
神が人間をこの世に置かれた唯一の目的は何だと言いましたか?私たちを聖く、神の子らしくして、天国に連れて行きたいのです。
子らしくして、天国に入れたいから、この人生を許されたのです。
ですからこの地は、この宇宙は、その目的を達成するために、私たちに与えられた暫定的で、一時的な仮設の建物に過ぎないのです。
神はただひたすら神の民の聖さだけに心を留めておられます。
その聖さへ向かう道において、私たちが従順でなく従わない時、神は私たちに対して懲らしめをなさるのです。
今や私たちがほぼ暗記しているであろうヘブル人への手紙12章5節を見てみましょう。
(ヘブル人への手紙 12:5-11)
5 また、あなたがたは、息子たちに勧めるように、あなたがたに勧めたみ言葉を忘れたのか。こう言われた。「わが子よ、主の懲らしめを軽んじてはならない。主が戒められるとき、落胆してはならない。
6 主は、愛する者を懲らしめ、その受け入れる息子を、すべて鞭打たれるからである。
7 あなたがたが耐えているのは、しつけを受けるためである。神はあなたがたを子として扱っておられる。もししつけを受けない子が父のもとにいるなら、その子は父の子ではない。
8 すべての子はしつけを受ける。もしあなたがたにしつけがないなら、それは私生児であって、真の子ではない。
9 私たちの肉体の父が私たちをしつけたとき、私たちは彼を敬った。ましてや、すべての霊の父である方に従って生きることを、なおさら望まないはずがない。
10 彼らは一時的に、自分の思い通りに私たちを懲らしめたが、神は私たちの益のために、ご自身の聖さにあずからせてくださるのです。
11 どんな懲らしめも、そのときは喜ばしいとは見えず、むしろ悲しいものに見えますが、後に、それに従う者には、義の平和な実を結ばせるのです。
懲らしめの原語は何と言いましたか?パイデイア!『パイディオン』とは何ですか?幼子たちです!
「パイデイア、懲らしめ」という言葉は、親が、我が子を、この幼子たちを、人間らしく育てるために行う教育!訓練を、私たちが「パイデイア」と呼ぶのです。神はそれを懲らしめだ!と語られるのです。
ですから、懲らしめとは、神の愛の根拠から、私たちに与えられるものです。
この懲らしめは、現在と未来にある、世の迫害に対して、私たちを準備させてくれます。
強くしてくれるのです。そして、まだ残っている罪の性質を、根こそぎ取り除いてくれるのです。
そして、私たちをより大きく用いるために、私たちに与えられるものなのです。
私たちの次男が、時々親が見ていない隙に、三男を殴ることがあります。
それは悪いことですよね? そこで私は次男を呼びます。部屋にそっと! そして、叩きます。なぜ叩くのか? 悪い癖を直すためです。
すると箴言13章24節にはこうあります。
(箴言 13:24)
24 鞭を惜しむ者は子を愛さず、子を愛する者はしつけを怠らない。
聖書の多くの箇所に、「子は打って育てよ!」という言葉があるそうです。
神様がまさにそのような心で私たちに懲らしめを与えてくださるのです。
ブライアン・チャペル牧師の友人の方には、高校に通う息子か、中学校に通う息子がいました。
その息子は頭が良く、十分な能力があるのに、勉強をしないんです。それで警告したそうです。
「次も同じような成績を取ったら、お父さんに叱られるぞ!」と。
でも次も同じように勉強してこなかったそうです。それでトイレに連れて行き、お尻を叩いたというのです。
このアメリカで!そうしたらこの子が全部叩かれた後、振り返ってパパをぎゅっと抱きしめたそうです。そしてパパに、「パパ!愛してるよ。」と言ったそうです。
それでこの方は驚いて、聞いてみたそうです。
「パパ!ごめんなさい。」でもなく「パパ!許してください!」でもなく、「パパ!愛してるよ!」なぜその子がそんなことを言ったのか?尋ねてみると、自分が殴られながら鏡で、トイレの鏡で、自分を殴る父親の顔を見たというのです。
すると、その父親は自分よりも苦しそうで、自分を殴っていたというのです。
「僕のお父さんは僕よりも苦しそうで、僕が良くなるために、その愛する気持ちで僕を殴ったんだ!」ということを、
その子は殴られたその場で悟ってしまったのです。だから、叩かれた後、この痛みを癒す間もなく振り返って、父をぎゅっと抱きしめたんです。「パパ!愛してる!」って!
皆さん、聖書には、神様が私たちをどれほど愛しておられるか、とても詳しく説明されていますよね?私たちは懲らしめを受ける時、
振り返って、その神様である父を抱きしめたのです。パパ!愛してる!
私が尊敬する先輩牧師さんが、子供が2階から落ちたんです。
それで全身が裂けてしまったというんです。命は助かったけれど!だから子供を急に麻酔できなかったので、薄い布団でぐるぐる巻きにして大人たちががっちり押さえ、生身の肉を縫い合わせたんです。
するとこの子が、生身の肉に針が入るので、痛くて耐えられず、自分を押さえつけている父親に哀願したそうです。
泣きながら、「パパ!私を解放して!」と、「パパ!私を解放して!」と。しかし、そこで解放したらどうなるでしょう?縫合できなくなるのです。傷を!
だからこの父親は、その子をしっかりと抱きしめながら、そう神様に祈ったそうです。
「神様!私の全身を引き裂く凌辱刑が、この苦しみより辛いでしょうか?」自分の四肢を引き裂く凌辱刑よりも、今この瞬間が自分にとってより苦痛だというのです。それが父の心なのです。神様は私たちの懲らしめを通して、そのような苦しみを体現しておられるのです。
神は全知全能の方なのに、その完全な神がどうして苦しみを受けるのですか?皆さん!神学を学ばれた方は、このような疑問を明確にされるべきでしょう?その方は苦痛とは無縁の方なのです。
ところが2000年前、その神がこの地上に降りてこられたのです。
そしてその神の民の苦しみを体現するために、人間となって、生まれてから亡くなるまで、私たちが経験すべきあらゆる苦痛と、
苦難と、侮辱と軽蔑と差別と、不当な扱いと、 死に至るまでを、すべて経験して去られたのです。
そして自ら私たちの頭となられたのです。
そうです!その方は依然として神です。しかし皆さん!ご存知ですか?
私たちのこの脳は、苦痛を感じないということを。どういうわけか蓋さえ開ければ、私たちの脳は苦痛を感じないと言いますよね?
しかし私たちの体の中にある全ての痛みは、その脳を通るようになっているのです。
そこで感知されるようになっているのです。足の指の痛み!爪の下の痛み!口の中の痛み!お腹の痛み!全て脳を通じて感知されるのです。
そのイエス・キリストは私たちの頭となられ、ご自身が自ら体現された教会の痛みを、今この時に経験しておられるのです。
神であるその方が!懲らしめを受ける時、皆さんの人生が苦しい時、それを思い起こさなければなりません。
第三に、私たちに苦難と痛みと試練が訪れる理由は、私たちの善悪を離れて、神が私たちを神の強い民として鍛えるために、
私たちに苦しい試練を許されるからです。それは、私たちの信仰の旅路に、様々な多くの益をもたらします。
第一に、神のその試練は、私たちの信仰を清めます。ペテロの手紙一 1章5節に行きます。
(ペテロの手紙一 1:5-7)
5 あなたがたは、終わりの日に現される救いを得るために、信仰によって神の力によって守られているのです。
6 それゆえ、あなたがたは、今しばらくの間、さまざまな試練によって悲しむことが避けられないが、(ここにも「しばらく」が出てきますね?)むしろ大いに喜ぶべきである。
7 あなたがたの信仰の試練は、火で精錬されても消え去る金よりも尊く、イエス・キリストが現れる時に、称賛と栄光と誉れを得るためである。
はい、そのような試練!そのような苦難!そのような苦しみは、私たちを純金よりも堅く、清くしてくれるのです。
皆さん!あの徳の高い人々のような、そのような強い信仰!そのような信仰は、この豊かさの国アメリカで皆さんに見つけられますか?一度周りを見渡してみてください。
皆さん!それが可能だと思いますか?信仰の試練!その信仰の試練とは、まさに今、エイズや飢餓、栄養失調で死んでいくしかない難民キャンプで、「主は私を愛しておられる」という賛美歌を歌えるようにしてくれるのです。
主は私を愛しておられる!私たちが見る時、それがどうして愛と言えるのか?
主は私を愛しておられる!しかし主は私を愛しておられる!そう告白できる純金のような信仰!その信仰を私たちに贈ってくださるのです。
そしてその神の試練は、私たちを成熟させると言います。ヤコブの手紙1章2節に行きます。
(ヤコブの手紙 1:2-4)
2 兄弟たちよ、あなたがたがさまざまな試練に会うときは、それを喜びなさい。
3 なぜなら、あなたがたの信仰の試練が忍耐を生むことを知っているからです。
4 忍耐を完全に成し遂げなさい。それはあなたがたを完全で、何一つ欠けるところのない者とするためです。
ローマ人への手紙5章3節に進みます。
(ローマ5:3-4)
3 それだけでなく、私たちは患難の中でも喜んでいます。患難は忍耐を生み、
4 忍耐は練られ、練られは希望を生むことを知っているからです。
軍隊に行くと、必ず兵士が受けるべき訓練があります。それがまさに遊撃訓練です。
除隊するまで三度、四度、五度と受ける人もいますが、軍隊に行った者が最も恐れる訓練でもあります。
なぜならあまりにも苦痛だからです!必要もないような気合を入れさせたり、泥水の中に放り込んで、その水を飲ませたり、
最も恐ろしい高みに立たせて、人を押して落とすこともあります。
「11番フクロウ!恋人はいますか?」もちろん私はいませんでした。
そう答えなければなりませんよね?今は恋人がいます。「では名前は?」「ヨンジャです!」「では名前を呼びながら降下!」そうすると、「ヨンジャ!」まで言う人見たことないです。私は!ヨンジャと言いかけて「うわっ!」です。
みんな怖くて!でもそうやって遊撃訓練を何度か受け、終盤頃になると、ただ軽く飛び降りるんです。
軽く!そして、そこで本当の男になるんです。そこで!そんな苦痛と苦難は辛いですよね?でも、それを乗り越えた者は、勇士になるんです。軍人になるんです。
三つ目に、神様は神の試練を通して、神の御業を示す機会として用いられます。ヨハネの福音書9章1節を見ると、
(ヨハネの福音書 9:1-3)
1 イエスが道を行かれるとき、生まれつき目の見えない人を見かけられた。(これは明らかに人間への試練ですよね?苦難です。)
2 弟子たちが尋ねて言った。「先生、この人が生まれつき盲目なのは、誰の罪のためですか。本人のためですか、両親のためですか。」
3 イエスは答えて言われた。「この人も両親も罪を犯したからではない。神のなされる業がこの人に現れるためである。」
「いや、神が、神のなされる業を現すために、ただ厳しい人々を盲目にしてもいいんですか?」
そんな質問はしませんよね?私たちの立場や状況はそれほど深刻ではないのです、皆さん!私たちがそこに命をかけるような状況ではないのです。これは「一時的」だと言っているのです。
一時的!そして、あらゆる病気や、そのような罪悪は、すべて私たちの罪のために来たのだと。
神がそう作られたのではないのです!
そしてその試練は、私たちをキリストの姿に変えていきます。ローマ人への手紙8章28節に行くと、
(ローマ8:28-29)
28 私たちは知っている。神を愛する者たち、すなわち、その御心に従って召された者たちのためには、すべてのことが(試練と苦難と痛みと喜び、すべてが含まれているでしょう?そのすべてが)共に働いて益となるのです
29 神はあらかじめ知っておられる者たちを、また、御子の姿に倣わせるためにあらかじめ定められたのです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となるためです。
御子の姿にあやからせるためです!イエス・キリストは、私たち人間のその苦しみと、そのような苦難を体現し、理解するために、
私たち人間の体をまとってこの地に来られたのです。
では、私たちはどうなるのでしょうか?私たちが真に、まことのイエス・キリストを知るためには、イエス・キリストのその苦難を知らずには、その苦難を理解せずには、そのイエスを私たちが正しく知ることはできないのです。
イエス様は貧しく、苦しみ、侮辱され、恥をかき、死にました。しかし、その苦難が、その痛みが、その試練が、何のためだったのでしょうか?自ら受けた苦難ではなく、他人によって受けた苦難だったのです。
皆さん!私たちが時にこの地を生きながら、不当な苦難を受けることがあります。本当に理不尽です。
私は何も悪いことをしていません。それなのに不当です。『でもなぜ私が神よ!これを耐え忍ばなければならないのですか?』その時、皆さん!イエスを思い起こせと言うのです。
イエスこそがまさにその苦難を経験されたのだと。その不当さと、その侮辱感と、その恥辱と、その裏切りをまさにイエスが経験されたことを、あなたがたは理解せよと言うのです。
そうしながらキリストの姿へと少しずつ変えられていけと言うのです。
私たちがイエスの苦難を理解できず、イエスを知ることができないのです。
そしてその試練は、私たちの心を神のみに向けさせてくださいます。コリントの信徒への手紙二7章8節に進みます。
(コリントの信徒への手紙二 7:8-11)
8 あの手紙であなたがたを悲しませたとしても、私はそれを後悔しません。あの手紙が一時的にあなたがたを悲しませたことを知り、私はすぐに後悔しましたが、
9 今ではむしろ喜んでいます。それはあなたがたが悲しみを味わったからではなく、悲しみを味わうことによって悔い改めに至ったからです。あなたがたが神の御心に適った悲しみを持ったので、結局あなたがたは私たちのために損をしたわけではありません。
10 神の御心にかなう悲しみは、悔い改めて救いに至らせるため、後悔することはありません。しかし世の悲しみは死をもたらします。
11 ご覧なさい。神の御心にかなう悲しみによって、どれほどの変化があなたがたに起こったでしょうか。あなたがたが示したその熱心さ、その弁護、その義憤、その恐れ、その慕い、その情熱、その懲らしめる心を見てください。あなたがたはそのすべてにおいて、何の過ちもないことを示しました。
何の過ちもなく受けるあなたがたのその悲しみこそが、あなたがたをこのように神のみを仰ぎ見る者へと造り変えるのです。
皆さん!このような試練を通して、神は世のすべてが虚しく、一時的なものであることを悟らせ、世のもののために生きようとする心が 消え去らせ、天国と神のみを望みとする者へと私たちを造り変えてくださるのです。
皆さん!子が皆さんの思い通りにならないでしょう?
夫が皆さんの思い通りにうまくいかないでしょう?
妻が皆さんの思い通りに従ってくれないでしょう?そんな時、聖霊が共におられる者たちは、どんな心が起こるでしょうか?
『首を吊って死んでしまおうか?」という方向へ行くのでしょうか?手の力がすっと抜けて、「やはりこの地上のものに目を留めて生きるべきものは何もない!」という方向へ進むのです。
皆さん!皆さんの夫に、子供に、妻に、大いに失望しなければなりません。大いに失望しなければなりません。それが世に向かって、世を見つめる私たちクリスチャンの価値観であり、世界観とならなければならないのです。だから、その世から目を離させるようにしてくれるのです。
あのC・S・ルイスが第二次大戦中に書いた『スクリューテープの手紙』という本があります。
スクリュー・テープの手紙!ベテラン悪魔であるスクリュー・テープが、甥の悪魔ウォームウッドに宛てた手紙です。
寓話のようなものですね。悪魔が私たちをいかに惑わすかを正確に説明しています。ぜひ読んでみてください。
そこにある最初の手紙にこう書いてありました。「ウォームウッドよ、我が愛しき甥よ!お前が今担当しているあの患者たち!(クリスチャンたちのことです。)
彼らには他のことは何でも許してやれ、ただ決して世の中から目を背けさせないようにしろ!もし彼らが世の中から目を背けようとしたら、この世が与えるあの素晴らしい快楽と、その甘美さを経験させてやれ!事業を成功させてやれ!そうして金銭の威力が何かを悟らせよ!性的快楽が何たるかを悟らせよ!そうしてそこから抜け出せなくしてやれ!宝くじでも当たらせてやれ、賭博場で一度大儲けさせてやれ!そうすれば彼らは決してこの世から目を離せなくなる。
その快楽はあまりにも甘美な誘惑だからだ!」
サタンは、悪魔は、そんな甘美さで、そんな好奇心で、私たちを惑わすのです。
私たちが持っていないもの、それらへの漠然とした好奇心を私たちに呼び起こすのです。
男女が互いに関心を持って見つめ合うのは何ですか?自分が持っていないものに対して好奇心を持っているからじゃないですか?
貧しい人が金持ちに対して!自分が経験したことのないものだから好奇心を抱かせるのです。
名誉に対して好奇心を持たせるというのです。しかし実際に行ってみると、何でもないのです。
だから馬を速く走らせるために、ここに人参をこうやってぶら下げるのです。
馬はそれを食べようと懸命に走りますが、死ぬまで走っても、その人参は口に入らないのです。
私たち人間が満足できるほどの快楽は、私たちに与えられないというのです。
そうして地獄へ行くように仕組んであるのです。そんな好奇心で!
私たちにこの適度な苦難と苦痛は、まさにそこから抜け出させてくれるんです。
正気に戻らせてくれるんです。ソロモンが伝道の書で、『虚しいことよ、虚しいことよ!すべては虚しい!すべてが虚しいのだ!』と。あの人たちは言うんです。
『お前は全部やってみて虚しいと言うが、俺はやってみもせずに虚しいなんてどうやって告白できる?あまりにも理不尽だ。
俺もやってみて虚しいってことを一度確かめてやる』それがどれほど恐ろしいことか分かりますか?皆さん!
罪というものは、一度はまり込むと、そこから抜け出すには、リバースエンジニアリング(reverse engineering)、
それだけの時間がさらにかかるのです。十年もタバコを吸い酒を飲んでいた人が、それを断つには、十年も苦痛に耐えなければなりません。そうしてようやく抜け出せるのです。
十五年タバコを吸っていたなら、十五年間じっと耐えなければならないんです。
肝臓と同じくらい損をするんですよ。元に戻らなければならないから!皆さん!それを経験しなくてもいいんです。
行ってみたら大したことなかったんです。私の言葉を信じてください。ベネティ・オブ・ザ・ベネティ!
それを知らせるために、神様は私たちに試練を許されたんです。苦難を許されたんです。子供を悩ませるようにしたのです。
だから聖書は、『神が許された試練が訪れたら、むしろ喜べ!』と言っているのです。
喜べ!確かに無理な要求ですが、聖書はこう求めています。ペテロの手紙一4章12節を見ると、
(ペテロの手紙一 4:12-13)
12 愛する皆さん、試練の火が皆さんの間で燃え上がっても、何か不思議なことが起きたかのように驚いてはいけません。
13 それほどまでに、皆さんはキリストの苦難に与っているのです。喜びなさい。そうすれば、彼の栄光が現れるとき、皆さんも喜び跳ね、楽しみながら喜ぶようになるでしょう。
喜べと言うのです。
そして今日の本文は何でしたか?『苦難は恵みだ!』と定義づけてしまうのです。苦難は恵みだ!
エレミヤ書29章11節を見ると、バビロンに捕囚として連れて行かれたイスラエルに向かって、神はこう語られます。
『わたしがあなたがたのために計画していることは、災いではない』と。いや、今まさに連れ去られて死ぬほど苦しんでいるのに、
神はこう言われるのです。
『わたしが確かにあなたがたをこのようにしたのに、あなたがたのために計画していることは災いではない。
繁栄だ! あなたがたに未来への希望を与えようとしているのだ』と。神の御心はまさにこれなのです。
実際、彼らがバビロンに捕囚として連れ去られる前には、彼らが犠牲を捧げる時、神に捧げる犠牲の時、偶像に捧げる犠牲!神に捧げる祭壇!その祭壇が共存していたのです。
考古学的にも証明されていることですよ。
しかしバビロン捕囚の後、彼らが捧げる祭壇は、神に捧げる祭壇だけになったのです。
正気に返るのです。罰を受けるべきなのです。あのバビロン捕囚の生活!あの期間がなければ。彼らは引き続き偶像と神を同時に仕えていたでしょう。
このように私たちに降りかかる試練と、患難と、苦痛と、苦難は、私たちがクリスチャンであることが確認されさえすれば、
それは皆さんにとって祝福です。贈り物です。それが確認できないから苦しいのです。
そういう意味で、あのレマのイ・ミョンボム氏や、ベレアのキム・ギドン氏や、そういう人たちが言うように、イエスを信じれば、すべての病が治らなければならない、 悪霊さえ追い出せば、それだけで病が全て去るというのは、まったくもって荒唐無稽な詐欺です。
皆さん!ジョン・カルビンとマルティン・ルターは、あだ名が総合病院でした。死ぬまで!マーティン・ロイド・ジョーンズ牧師は神経衰弱で、睡眠薬がなければ眠れなかった方です。
亡くなる日まで!ジョン・ウェスリーも同じでした。チャールズ・スポルジョンは、死ぬ日まで体の痛みに苦しんでいた方です。
こうした方々は一体何なのでしょうか?神の呪いを受けた方なのでしょうか?
サロム障害者センターのあのパク・モーセ牧師の夫人!彼女の唯一の祈りの課題が何かわかりますか?
「神様!たった5分だけ痛みなく生きさせてください。
たった5分だけ!」彼女は呪われた人ですか?皆さん?ではイエス様は一体何ですか?使徒パウロは何ですか?
遠くに行く必要はありません。私は牧会する前は、どこも痛んだことのない人間でした。牧会し始めてから、痛まないところがないのです。これはどういうことでしょうか?必ずそれは、私たちクリスチャンの生活に必要だから、神様が許しておられるのです。
許しておられるのです。私たちの信仰の旅路に必ず必要なものだからです!
それでは皆さん!この命題を解き明かしていきましょう。
『その苦しみと苦難と試練の原因は、神である。』正しいですか?神がその苦しみと、苦難と、その試練を創造して、
私たちに送ってくださるのでしょうか?それは全て、私たちの罪のために起こる出来事だと言います。
皆さん!ロサンゼルスで夜、どの通りでも自由に歩き回れますか?なぜそうなったのでしょう?
皆さん!空港で飛行機に乗るのに、なぜこんなに大変になったのでしょう?なぜ家々には防犯窓や鉄格子、防犯アラームなどが設置されなければならないのでしょう?なぜ今日も地球のあちこちで新兵器が開発され続け、各地で戦争が絶えないのでしょう?それは神様が全部お作りになったんですか?
なぜ経済はこんなに「停滞と回復」を繰り返しながら、私たちを不安にさせるんですか?なぜこんなに病気はますます私たちを苦しめるんですか?全部私たちの罪のせいなんです。
私たちの中から出てきたものじゃないですか?全て!病気ですか?皆さんが何でもむやみに食べ、節制せず、怠惰だからです。
運動しない!戦争!強盗!殺人!全て私たちの欲望のせいで、私たちは今、その罪によって罰を受けているのです。
その苦しみは!全て!その不便さ!不安さ!
「なぜ神様!なぜ世界をこんな風にお作りになったのですか?」そう問う資格はありません。
それは自分がどれほど大きな罪人であるかをまだ知らないということです。
私たちがどれほど大きな罪人であるかを知らないということは、まだキリスト教徒としての出発ができていないということです。
そこからキリスト教は始まるのです。
そうして初めて恵みとは何かを知り、それが贈り物であるか、私たちが知るようになるのではありませんか?
アウシュビッツ収容所で、「神様!あなたは今何をしているのですか?なぜこんな苦痛と苦難を私たちに許すのですか?」と語るべきではありません。そこで見るのは自分です。
自分!私たちが作り出した状況であり、立場なのです。それを改めて確認しましょう。
私たちクリスチャンの人生の目的は何だと言いましたか?聖なる者となり、神の御性質を学び、その神が住まわれる聖なる国に参与することこそ、私たちの人生の目的なのです。
では、この不安定な、私たちが苦難もなく、痛みもなく、試練もない楽園に住むと想像してみてください。
今この地がそんな楽園だと考えてみてください。
そこに貧しい者への憐れみの心が、あり得るでしょうか?楽園に?そこに苦しむ者への慈しみが、存在し得るでしょうか?
そこに私たちが耐え忍ぶべき忍耐は必要でしょうか?互いのために励ましや慰めは必要でしょうか?
いや、勇気のようなものは必要でしょうか?
不正に立ち向かうために?柔和さは必要でしょうか?そこで私たちはそこで何を学べるでしょうか?何も学べないというのです。
どこであなたがたは赦しを学び、どこであなたがたは憐れみを学び、どこであなたがたは忍耐を学び、 どこであなたがたは柔和さを学ぶのでしょうか?
もしあなたがたがこの体を持ったまま楽園で暮らすなら、そのように生きながら、死へと落ちていくのです。
私たちは何も学べないのです。苦しみと苦難と試練と挫折を通して、私たちはキリストの聖霊の実を、私たちの人生に結んでいくのです。それが神の賜物だということを、なぜわからないのですか?皆さん!
この地上の楽園を望まれるのですか?あなたがたは?この仮の、一時的なこの仮設の建物の中の平安を望まれるのですか?いいえ、永遠のあの地における、あなたがた!神の子となるために、この地には、楽園は実現してはならないのです。
私たちは学ぶべきことがあるからです!だからクリスチャンの人生には、必ずそのような苦しみがあるのです。
苦難があるのです。そこで学べというのです。
神は、苦痛を感じないために、火鉢に手を焼いてしまい、苦痛を感じないために、視力を失い、苦痛を感じないために、この骨を折ってしまう、そのような霊的なハンセン病から私たちを救い出すために、私たちの生活に、適度な苦難と緊張(テンション)をかけておられるのです。
そういう方もいらっしゃるでしょう?「ああ、それでもこれは酷すぎます。
これは少しやりすぎではありませんか?」いいえ。誰もがそれだけの苦しみを経験しているということを、皆さん理解してください。
耐えられる試練!誰もがよく経験する試練という意味だと言いましたよね?皆、それだけの痛みと苦難があるのです。
私たちは適度な苦しみを通して、適度な試練を通して、私たちの霊的な状態を確認し、さらに腐り込まないように注意し、立ち返り、
成長していくのです。
皆さん!1963年にアメリカの棒高跳びチャンピオンがいました。
ブライアン・スターンバーグという人物です。高校生でした。翌年がオリンピックだったそうです。
誰もが!ジョン・F・ケネディでさえ、この人物が当然オリンピック金メダルを取るだろうと確信していたそうです。
ところがオリンピック練習中、トランポリンでジャンプした際に落下しました。首の骨が折れたのです。
そして彼は全身麻痺患者となってしまいました。今や全ての富と栄華は消え去りました。
名声も全て失われました。その状態で3ヶ月後、彼はイエスに出会ったのです。
この二つを一度比較してみましょう。
もし彼が無事故でオリンピック金メダリストとなり、富と栄華を享受し、全ての人の拍手を受け、この世の物に深く埋もれて、
そんな風に生きて、やむなく逝く、そんなブライアンと、こうして19歳で首の骨を折って、下半身不随になり、もはや自分が享受できるものなど何もない状態で、イエス・キリストに出会った、あのブライアンと、皆さんはどちらをより祝福された者だと思いますか?どこに目を向けているかによって、評価は変わるでしょう。そうですね?
このブライアンがどんな話をしたかと言えば、『私には未来への希望があります。
聖書は私に、栄光に輝く私たちの体について語っています。
高校時代!それはいつもかすかで遠い概念でした。しかし今、私は自分が完全に癒されることを知っています。
私は完全な人間になる機会を奪われたのではありません。私は今、40年ほど遅れた人生を生きているだけです。
栄光に輝くその日!その日がどんな日か、私はその意味をあまりにもよく知っています。
そして待ち望んでいます。その日!私は自分の両足で立ち、イエス様と共に踊っていることでしょう。」
彼はすでに下半身不随となっていたにもかかわらず、イエス様と共に永遠に踊るあの宴を、あの人生を生きているのでした。
イエス・キリストとの出会いによって!その人生において、首の骨が折れたことは贈り物だった。
神の贈り物だったと言うなら、皆さんは反論されますか?何が本当に大切なものかを知っている人は、それに対して「異議あり」と手を挙げることができないのです。
ロシアの文豪ドストエフスキー!彼は28歳で進歩的な団体に加入したという理由で死刑判決を受けました。
そして8ヶ月後、死刑が執行されたのです。絞首台に縛り付けられた時、「遺言を一言残せ!」その瞬間、28歳の青年になにを遺言できましょうか?天を見上げたと言います。
向かい側に、ロシア正教会の尖塔の上にある十字架が見えたそうです。
その時ふと、こんな考えが浮かんだというのです。「もしかしてあの十字架と私に何か関係があるのでは?本当にあの十字架と私は何の関係もないのだろうか?」
その時、皇帝の特使が、まるで小説のように、ちょうど到着したのです。
到着して死刑は免れさせましたが、シベリアへ流刑に送られたそうです。
何年も!その流刑の道中で、ドストエフスキーは聖書を一本手に入れました。
自分が死ぬ瞬間に、自分の心に響いたあの十字架は、いったい何なのか?そしてシベリア流刑期間中ずっと、その聖書を読みました。
そして彼は神に出会ったのです。そして何と言ったかご存知ですか?
もし誰かが、本当に卓越した人物がこの地上に現れて、「聖書は全て嘘だ!」と、誰も否定できないような証明をしたとしても、
私は、彼が嘘だと証明したその聖書!神の言葉だけを信じるだろう。
そして『罪と罰』『カラマーゾフの兄弟』のような小説を書いたのです。
福音が込められた小説を書いたのです。ドストエフスキーのあの死刑宣告と、あの流刑地での生活が、彼にとっては贈り物だったのです。
皆さん!クリスチャンの人生には必ず、このように苦難と痛みと試練が、必然的に与えられます。
皆さん!痛みを感じられないために、地獄のような人生を生き、やがて地獄に落ちてしまう、霊的なハンセン病患者!その霊的なハンセン病患者になりたいですか?それとも、苦しみを通して、試練を通して、神の民であることを悟りながら、神の民として造り変えられていく、そんなクリスチャンの人生を望みますか?皆さん、苦難に対して感謝してください。
次回は、「では私たちはその試練と苦しみと苦難から抜け出せるのか?」と題します。
確かにコリントの信徒への手紙では、逃れる道が与えられるとありますが、逃れられるのでしょうか?
そうすると聖書自体が矛盾を抱えることになります。
それではその話は一体何の話なのかについて、一緒に学んでいきたいと思います。
期待が湧いてきますか?そんな無表情でそうやって行かれると、私の心はとても重くなります。
私はこんなに興奮しているのに、皆さんがただじっと座っていらっしゃると、それを信仰の差だと言う人もいますが、そうしてはいけません。私がそれでも少し力を得られるように、「ああ、楽しみだ」という表情で行ってください。祈ります。
27 - 그리스도인의 고난 1 (고통 없는 지옥) (빌1:29)
(빌립보서 1:29)
29그리스도를 위하여 너희에게 은혜를 주신 것은 다만 그를 믿을 뿐 아니라 또한 그를 위하여 고난도 받게 하심이라 아멘!
지금 여러분들에게 나눠 드리는, 핸드아웃(handout)은, 제가 신약성경 안에 있는, ‘왜 그리스도인들에게는 고난(苦難)이 있으며, 왜 그것은 필연적인가?’에 대한 성경 구절을, 하나도 빠짐없이 다 찾아 놓은 거예요. 그러니까 집에 가서 꼭 읽어보세요.
오늘 우리가 읽었던 말씀처럼 고난에 대해서, 한번 살펴보려고 그래요. 한 3주간에 걸쳐서, ‘그리스도인에게는 왜 고난이 필연적이며, 그것이 필연적일진대, 그러면 우리에게 오는 ‘상처’라는 것은 무엇이고, 그럼 그 상처를 치유하겠다는, 치유집회라든지, 또 그곳에서 이야기되는 ‘가계에 흐르는 저주!’ 같은 그런 말도 안 되는 이야기들은 도대체 뭔가? 까지 갈 거예요. 3주 동안!
유명한 독일의 신학자인. 그 ‘헬무트 틸리케’라는 목사님이, 미국을 두루 여행하시면서 설교를 하신 후에, 미국에 대해 느낀 점을 이야기해 달라는 그런 질문에, 이런 대답을 하셨습니다. ‘그들은 고난에 대해 부적합한 견해를 가지고 있다. 이것은 비단 미국의 문제만이 아니라, 전 세계 그리스도인들의 문제다.’라고 이야기하고 있습니다.
오늘 읽었던 본문에 보면, 분명히 ‘고난(苦難)은 은혜(恩惠)!’라고 이야기하고 있어요. 그런데 많은 사람들이, 그 고난에 대해서 잘못된 견해를 갖고 있어요. 여러분들은 그 고난에 대해서, 어떤 견해를 갖고 계십니까? 일단 예수를 믿게 되면, 하나님의 도움으로, 모든 고난과 역경은, 다 사라지고, 행복과 평화가 내 삶에 올 것이라고 다들 착각을 하죠? 그래서 신이 존재한다면, 우리의 삶의 이 고난은 당연히, 그 신께서 모두 막아주셔야 한다고 생각을 합니다.
실제로 버트란트 러셀 같은 사람이나, 볼테르 같은 그런 엔타이(anti) 크리스천들! 그들은 인간이 겪는 전쟁과 기아! 범죄! 질병을 막아주지 않는 신은, 믿을 필요가 없다고 하면서, 기독교를 거부했습니다. 그리고 어떤 목사님은, 이 땅에서의 가난과 질병도 해결해주지 못하는, 그러한 하나님이 어디 있느냐? 그래서 3박자 축복이다! 이런 것을 가지고 사람들을 미혹하여, 많은 사람들을 모으는데 성공을 한 그런 목사님도 계시죠?
그러면 정말 예수 믿으면, 고통과 고난이 다 사라지는 것일까? 거기에 대한 대답은, 여러분이 여태까지 살아온 경험상 미루어 봐도, 그렇지 않다는 것을, 너무나 쉽게 알 수 있을 것입니다. 여러분! 고통을 좋아하는 사람은 없을 것입니다. 고난을 즐겨 당하는 사람도 없을 것입니다. 그리고 시험이 닥쳤을 때, 그 시험에 쾌감을 느끼는 사람은, 더더욱 없습니다. 누구나 다 고난과 고통과 시험이 없는 삶을, 추구하죠. 고통을 즐기는 사람! 고통을 당하면서 쾌감을 느끼는 사람을, 우리가 ‘마조키스트’라고 그럽니다. 그것은 정신질환이에요.
그런데 여러분! 그거 아십니까? 어느 곳에 고통을 못 느껴서, 안달인 사람들이 있다는 거! 그 고통을 느낄 수 있기를 간절히 소망하는, 기도하는 사람들이 있다는 것을 아십니까? 바로 한센병 환자들입니다. 우리가 ‘나병’이라고도 하고, ‘문둥병’이라고도 하는, 그 한센병 환자들! 한센병이라는 것은, 온몸의 이 통점(痛點)들! 고통을 느끼는 그런 신경들이 감염이 되어서, 고통을 못 느끼는 게, 바로 문둥병! 한센병이라고 하는 거예요.
우리 몸은 알게 모르게, 그 통증에 의해서 보호를 받고 있다는 것을, 여러분 아십니까? 눈을 오래 부릅뜨고 있으면, 눈이 고통스러워서, 우리는 눈을 깜빡이게 되고, 눈물이 나며, 시력을 보호할 수 있게 되는 것이죠. 그리고 뜨거운 난로 곁에 가면, 손이 뜨거우니까, 얼른 우리는 손을 불러들일 수 있게 되는 것입니다. 더 큰 화상을 입지 않게 되는 것이죠.
그리고 우리가 새 구두를 신으면요, 뒤꿈치가 까진다고요. 그러면 우리는 걸음걸이를 조심하죠? 그리고 집에 가서 약도 바르고 밴디지를 붙이기도 하고 그렇게 한다고요. 뼈가 어긋나면, 이것을 감아서 목에다 걸쳐야 돼요. 왜요? 아프기 때문에요. 이게 아프지 않으면, 뼈가 어긋나고도 계속 무리해서 손을 쓰게 된다고요. 그러면 영영 손을 못 쓰게 될 수도 있다는 것이죠. 우리는 그 통증으로 인해서, 고통으로 인해서, 뼈를 보호할 수 있는 것이죠.
이렇게 고통은, 때로 우리를 더 큰 피해로부터 보호하는, 그런 역할을 합니다. 그런데 한센병 환자들은 고통을 모르기 때문에, 시력을 거의 잃는다고 해요. 왜냐면? 눈을 깜빡이지 않으니깐요. 눈이 시리지가 않으니까요. 그리고 그들은요, 손이 난로 가까이 가도 뜨거운 걸 모르기 때문에, 손이 익어도 모른다고 그래요. 어디서 고기 굽는 냄새가 난다. 이 정도!
세수를 하는데도, 우리는 너무 뜨거우면, 뜨거워서 손을 얼른 빼는데, 그분들은 모르니까, 세수를 그 뜨거운 물로 하면서, 살이 익는 거를 모른다고요. 빗자루 질을 하면서, 너무 쓸리지 않는 그런 강한 것을 쓸 때, 우리는 안 되면 포기를 하는데, 그분들은 고통을 모르니까, 계속 쓸다가 손가락이 부러져 나가는데도, 모른다는 것이죠.
그렇게 그분들은 마취제 없이도, 수술을 할 수가 있고, 그리고 친구들 앞에서, 손가락에 핀을 꽂아가며, 그 나오는 피를 자랑을 하는 아이들도 있다고 그래요. 그렇지만 통증이 없는 그것으로, 그분들은 생명의 위협을 느끼면서 살고 있습니다. 그래서 그분들의 유일한 소원은, 고통을 느껴야 할 때, 고통을 느끼고 싶다는 거예요. 그것이 바로 그분들의 유일한 소원입니다. 그분들은 소멸돼가는 그 고통! 그 고통의 상실을 막기 위해서, 치료를 한다고요. 고통을 붙들기 위해서 치료를 한다고요. 고통은 이렇게, 우리 몸뚱어리를 보호하기 위해서, 꼭 필요한 것입니다.
그러면 우리 그리스도인의 삶에 일어나는 고난과 고통과 시험은, 어떻게 바라보아야 하는가? 하나님은 그분의 백성들을, 우리가 상상할 수 없을 만큼 사랑하십니다. 우리 같은 사람들의 이 생명을 구원해 내기 위해서, 자기 아들의 목숨을 끊으시면서까지 사랑하셨다고요. 아들보다 우리를 더욱 더 사랑하신 거예요.
그런데 왜, 그렇게 사랑하는 하나님이, 우리 하나님의 백성들의, 그 자녀들의 삶에 찾아오는, 고통과 고난을 막아주지 않을까? 분명 예수님은, ‘내가 세상 끝날까지 너와 함께 있으리라!’라고 약속하셨고, 우리 안에 내주해 계신다고요. 그리고 우리의 삶을 간섭해 나가고 계시는데, 왜 우리가 고통스러울 때, 이렇게 고난을 당할 때, 막아주지 않느냐? 말입니다.
아우슈비츠 수용소에서, 간신히 살아나온, ‘엘리위젤’이라는 사람이, ‘더 나이트’라는 글을 썼죠? 거기에서 그는 이렇게 이야기합니다. ‘하나님! 지금까지 내가 믿었던 나의 하나님은, 죽었습니다. 하나님 당신이 살아있다면, 어떻게 지금 아무 일도 안 하며, 이 살인을 바라보고만 있겠습니까? 아이들을 갈고리에 꿰어, 저들은 죽이고 있고, 사람을 삶아 죽이고, 가스실에 넣어서 죽이고 있습니다. 당신은 어떻게 그것을 막지 않고 있습니까? 당신을 부르는 저들을, 왜 외면하십니까? 그들은 사람을 죽여, 건빵을 만들어 먹고 있습니다. 그런데 당신은 지금 무엇하고 있습니까? 그리고 하나님은 떠났다.’라고 이렇게 얘기합니다.
수용소에서뿐만이 아니라, 삶의 현장에서, 많은 기독교인이라고 자처하는 사람들이, ‘하나님! 왜 당신은 나의 고통을 외면하십니까?’라고 소리 지르면서, 교회를 떠나가고 있는데, 왜 하나님은 그 고통들을 방치하고 계시느냐? 말입니다. 여러분! 이 고통의 이유에 대해서 한번, 우리가 성경에서 찾아서, 고민을 해보도록 하겠습니다.
성경에서는, 우리가 시험을 당하고, 고난을 당하며, 고통을 겪는 이유를, 세 가지로 설명을 하고 있습니다. 먼저 우리는 그리스도인으로서, 세상과 등을 지고, 또 이제 세상과 원수인, 하나님의 뜻을 따라 살기로 한 자들이기 때문에, 당연히 세상이, 사탄이, 우리를 공격을 한다. 그렇기 때문에 오는 고난이 닥치고, 고통이 우리의 삶에 닥치게 될 것이라고 성경은 이야기하고 있습니다. 마태복음 5장 10절로 갑니다.
(마태복음 5:10-12)
10 의를 위하여 핍박을 받은 자는 복이 있나니 천국이 저희 것임이라
11 나를 인하여 너희를 욕하고 핍박하고 거짓으로 너희를 거스려 모든 악한 말을 할 때에는 너희에게 복이 있나니
12 기뻐하고 즐거워하라 하늘에서 너희의 상이 큼이라 너희 전에 있던 선지자들을 이같이 핍박하였느니라
마태복음 24장 9절로 갑니다.
(마태복음 24:9)
9 그 때에 사람들이 너희를 환난에 넘겨주겠으며 너희를 죽이리니 너희가 내 이름을 위하여 모든 민족에게 미움을 받으리라
베드로전서 5장 9절로 갑니다.
(베드로전서 5:9-10)
9 믿음에 굳게 서서 악마를 대적하십시오. 여러분이 아는 대로, 세상에 있는 여러분의 형제자매들도 다 같은 고난을 겪고 있습니다.
10 모든 은혜의 하나님이시며 그리스도 안에서 여러분을 그분의 영원한 영광으로 불러들이신 분께서, 잠시 동안 고난을 받은 여러분을 친히 온전하게 하시고, 굳게 세워주시고, 강하게 하시고, 기초를 든든하게 해주실 것입니다.
여기 10절에서, 우리에게 참 소망을 주는 단어가 있습니다. ‘잠시 동안’ 그 우리의 인생! 고난과 고통으로 점철되는 우리의 인생은, ‘잠시’라는 것이죠. 요한복음 16장 33절 보시면,
(요한복음 16:33)
33 이것을 너희에게 이름은 너희로 내 안에서 평안을 누리게 하려함이라 세상에서는 너희가 환난을 당하나 담대하라 내가 세상을 이기었노라 하시니라
히브리서 11장 35절로 갑니다.
(히브리서 11:35-38)
35 … 또 어떤 이들은 고문을 당하면서도 더 좋은 부활의 삶을 얻고자 하여, 구태여 놓여나기를 바라지 않았습니다.
36 또 어떤 이들은 조롱을 받기도 하고, 채찍으로 맞기도 하고, 심지어는 결박을 당하기도 하고, 감옥에 갇히기까지 하면서 시련을 겪었습니다.
37 또 그들은 돌로 맞기도 하고, 톱질을 켜히기도 하고, 칼에 맞아 죽기도 하였습니다. 그들은 궁핍을 당하며, 고난을 겪으며, 학대를 받으면서, 양과 염소의 가죽을 입고 떠돌았습니다.
38 세상은 이런 사람들을 받아들일 만한 곳이 못 되었습니다. 그래서 그들은 광야와 산과 동굴과 땅굴을 헤매며 다녔습니다.
우린 이렇게 하나님의 편에 서게 되므로, 세상으로부터 배척을 받게 되어 있습니다. 여러분! 어떤 강도들이 모의를 하고 있었어요. 한탕 하기로! 열심히 계획을 짜고 있는데, 그 중에 한 사람이 갑자기 마음을 고쳐먹었습니다. ‘나는 못하겠소. 나는 더 이상 이런 강도짓 못하겠소. 나는 정직하게 살 거야!’ 그 순간! 그는 그 무리로부터 따돌림을 받게 되어 있습니다. 세상에서 우리가, ‘나는 하나님의 뜻에 맞게 살 거야!’라고 결단하는 순간! 우리는 세상으로부터 공격을 받게 된 것입니다. 여러분!
여러분! 아프리카에 있는, 그 수단의 우덕족에 대해서 제가 한번 말씀해 드렸죠? 그 우덕족은, 만 삼천 명의 부족이 전부 탈출을 해서, 에티오피아 난민촌으로 몇 년 전에 이동을 한 그런 부족이에요. 그 부족이 왜 수단에서 탈출을 했냐면, 그들은 예수를 믿기 때문이었습니다.
이 수단에 이슬람 정부가 들어서면서, 그들이 기독교 말살정책을 썼어요. 그래서 50명씩 사막에 데리고 나가서, 물과 먹을 것을 하나도 주지 않고, 이틀에 한 번씩 이슬람 정부의 차가, 그곳에 갔다 그럽니다. 방문을 해서 개종을 하는 사람은 데려오고, 그렇지 않은 사람들은 그대로 그곳에서 목말라, 배고파 죽게 만들었다는 것이죠. 그러한 이제 핍박을 피해서, 그들이 에티오피아로 만 삼천 명이, 도망을 친 것이죠.
그들은 지금으로부터 50년 전에, 어떤 두 여자 선교사에 의해서, 복음을 들었습니다. 그 씨가 무럭무럭 자라서, 이제 만 삼천 명의 부족이 전부 예수께로 돌아왔는데, 너무나 핍박이 심한 거예요. 에티오피아 난민촌으로 도망을 했습니다. 한 줌의 양곡이 하루의 양식이었다고요. 그것을 가지고 그들은 하루를 연명해야 됐습니다. 아이의 배가 영양실조로 복수가 차서, 이렇게 불러, 개구리처럼 불러지고, 머리가 다 벗겨지고, 그리고 상처를 치료할 수가 없어서, 그 상처가 난 곳에 구더기가 살고, 그러한 곳에서도, 그들은 예수를 섬길 수 있다는 그 사실 하나만으로 기쁘게 살았죠.
그 복음의 씨앗을 뿌렸던 그 두 선교사 할머니가, 다시 그곳을 찾았을 때, 그들이 참 귀한 선물을 할머니 선교사들에게 선물을 했다. 그러죠? 다름 아닌 계란 한 박스! 그들이 하루에 먹을 수 있는, 배급을 받았던 그 양곡을 먹지 않고, 닭에게 모이를 주어서, 난민촌에서 가장 귀중하다고 하는, 금보다 더 귀한, 계란을 만들어 낸 거예요. 그래서 그것을 선교사님들한테 주면서, 그들을 부둥켜안고, ‘날 사랑하심, 날 사랑하심’이라는 찬송가를 불렀다고 그러죠? 날 사랑하심! 아니, 그 상황에서 날 사랑하심! 그 50년 전에, 그 두 선교사가 유일하게 아프리카 말로 가르쳐주었던, ‘예수 사랑하심은 거룩하신 말일세’ 그 찬송을 함께 불렀다는 거예요.
여러분! 예수를 믿으면서, 오늘날 지금 우리가 사는 이 시간에, 그러한 핍박을 받고 있는 사람들이 있다는 것을, 여러분 상상이나 해 보셨습니까? 예수를 믿는, 그래서 하나님의 편에 서는 자들을, 세상과 사탄 마귀는, 가만히 두지 않는다는 것입니다. 설교자에게도 마찬가지예요. 사람들은, 설교자들에게 이런 조언을 합니다. ‘확실한 이런 금을 긋지 마라! 확실한 금을 그어 버리면, 그 금 밖에 있는 사람은, 당연히 떠나게 되어 있다.’는 거예요. ‘그렇기 때문에 확실한 금은 긋지 마라! 바르게 가르쳐주되, 확실한 금을 긋지 말아라!’ 바르게 가르쳐 주면서, 어떻게 확실한 금을 안 그을 수가 있어요?
‘여러분! 그리로 가면, 여러분! 죽습니다! 여러분 교회 다닌다고 하면서, 여러분! 그렇게 그길로 가면, 여러분은 죽습니다!’라고 금을 그어주어야 되잖아요? 그런데 사람들이 이야기 한다고요. ‘그러면 사람들이 다 떠난다. 더 이상 들을 사람 안 남는다. 그러니까 금 긋지 마라! 회개에 대해서, 죄에 대해서, 예수 그리스도의 그 피에 대해서, 십자가에 대해서는, 될 수 있으면, 설교하지 마라!’ 사람들이 부담 느낀다는 것이죠.
그럼에도 불구하고, 금을 그어가며, 당신들 그리로 가면 큰일 난다고 하는, 훌륭한 목사님들이, LA에 세 분이 있다고 들었는데, 한 사람은 아담스 길에 있는 서머나교회에 있다고 들었고, 나머지 두 사람은 어디에 있는지 모르겠어요. 하여튼 그런 사람을 가리켜 사람들이 이야기한다고요. ‘외골수다! 고집불통이다!’ 그렇습니까? 여러분! 영원한 생명이 걸린 문젠데, 그냥 흐리멍덩하게 금을 안 긋는 게, 과연 옳은 것입니까? 그렇게 가는 사람들은 항상 욕을 먹어요.
아! 두 번째로, 우리의 범죄 하므로 우리에게 오는, 하나님의 징계(懲戒)가 있습니다. 그것은 징벌(懲罰)이 아닌 징계라고요. 징계는, 사랑의 회초리 같은 것입니다. 하나님이 인간을 이 세상에 던져놓으신 유일한 목적이 뭐라 그랬어요? 우리를 거룩하게, 하나님의 자녀답게 만들어서, 천국에 데려가고 싶으신 거예요. 자식답게 만들어서, 천국에 넣고 싶으셔서, 이 인생을 허락하셨다고 했습니다.
그래서 이 땅은요, 이 우주는, 그 목적을 달성하기 위해서, 우리에게 주어진 잠정적이며, 임시적인 가건물에 불과한 거라고요. 하나님은 온통 하나님의 백성들의 거룩에만 관심을 갖고 계십니다. 그 거룩을 향해 가는 길에, 우리가 순종하지 않고 따라가지 않을 때, 하나님이 우리를 향해서, 징계를 하신다 말이에요. 이제는 우리가 거의 외웠을 법한 히브리서 12장 5절로 가보겠습니다.
(히브리서 12:5-11)
5 또 아들들에게 권하는것 같이 너희에게 권면하신 말씀을 잊었도다 일렀으되 내 아들아 주의 징계하심을 경히 여기지 말며 그에게 꾸지람을 받을 때에 낙심하지 말라
6 주께서 그 사랑하시는 자를 징계하시고 그의 받으시는 아들마다 채찍질하심이니라 하였으니
7 너희가 참음은 징계를 받기 위함이라 하나님이 아들과 같이 너희를 대우하시나니 어찌 아비가 징계하지 않는 아들이 있으리요
8 징계는 다 받는 것이거늘 너희에게 없으면 사생자요 참 아들이 아니니라
9 또 우리 육체의 아버지가 우리를 징계하여도 공경하였거든 하물며 모든 영의 아버지께 더욱 복종하여 살려 하지 않겠느냐
10 저희는 잠시 자기의 뜻대로 우리를 징계하였거니와 오직 하나님은 우리의 유익을 위하여 그의 거룩하심에 참예케 하시느니라
11 무릇 징계가 당시에는 즐거워 보이지 않고 슬퍼 보이나 후에 그로 말미암아 연달한 자에게는 의의 평강한 열매를 맺나니
징계의 원어가 뭐라 그랬습니까? 파이데이아! ‘파이디온’이 뭐죠? 어린아이들! ‘파이데이아, 징계’라는 말은, 부모가, 내 자식을, 이 어린아이를, 사람답게 키우기 위해서 행하는 교육! 훈련을, 우리가 ‘파이데이아’라고 한다고요. 하나님은 그것을 징계다! 이렇게 이야기한다고요.
그래서 징계라고 하는 것은, 하나님의 사랑의 근거에서, 우리에게 주어지는 것입니다. 이 징계는, 현재와 미래에 있을, 세상의 박해에 대해서, 우리를 대비하게 만들어 줘요. 강하게 만들어 준다고요. 그리고 아직 남아있는 그 죄의 성향을, 뿌리 뽑게 해주는 거예요. 그리고 우리를 더욱 크게 사용하시기 위해서, 우리에게 주시는 것이라고요.
우리 둘째 아이가, 가끔 부모가 안 보는 틈을 타서, 우리 셋째 아이를 가격을 한다고요. 그거는 나쁜 거죠? 그럼 제가 우리 둘째 아이를 부릅니다. 방으로 살짝! 그런 다음에, 패죠. 왜 패겠어요 제가? 나쁜 버릇을 고치기 위해서예요. 그럼 잠언 13장 24절에 보면요,
(잠언 13:24)
24 매를 아끼는 것은 자식을 사랑하지 않는 것이다. 자식을 사랑하는 사람은 훈계를 게을리하지 않는다.
성경에 많은 부분에, ‘자식은 패서 길러라!’라는 말이 있다고요. 하나님이 바로 그런 마음으로 우리에게 징계를 하시는 거예요.
브라이언 채플 목사님의 그 친구 분이, 고등학교 다니는 아들인가, 중학교에 다니는 아들이 있었어요. 그 아들이 머리가 좋은데, 충분히 능력이 있는데, 공부를 안 하는 거예요. 그래서 경고를 했다고 그러죠? ‘너 다음번에도 이렇게 성적 맞으면, 아빠한테 혼나!’ 그런데 다음번에도 그렇게 공부를 안 해왔더래요. 그래서 화장실에 데리고 들어가서, 엉덩이를 때렸다는 것이죠. 이 미국에서! 그랬더니 이 아이가 다 맞고 나서, 돌아서서 아빠를 꽉 껴안더라는 거예요. 그리고는 아빠한테, ‘아빠! 사랑해요.’ 그러더래요.
그래서 이 분이 놀라서, 물어봤답니다. ‘아빠! 죄송해요.’도 아니고 ‘아빠! 용서해주세요!’도 아니고, ‘아빠! 사랑해요!’ 왜 그 아이가 그런 말을 했는가? 물어봤더니, 자기가 맞으면서 거울로, 화장실에서 거울로, 자기를 때리는 아빠의 얼굴을 보게 됐다는 거예요. 그랬더니, 그 아빠는 자기보다 더 고통스러워하시면서, 자기를 때리더라는 것이죠. ‘우리 아빠는 나보다 더 고통스러워하시면서, 내가 잘 되게 하기 위해서, 그 사랑하는 마음으로 나를 때렸구나!’라는 것을, 그 아이가 그 매 맞는 장소에서 알아버린 거예요. 그래서 다 맞고 나서, 이 아픔을 추스르기도 전에 돌아서서, 아빠를 꽉 껴안은 거죠. ‘아빠! 사랑한다.’고!
여러분 성경에는, 하나님이 우리를 얼마나 사랑하시는지, 너무나 자세히 설명이 되어 있잖아요? 우리는 징계를 받을 때, 돌아서서, 그 하나님 아버지를 껴안은 거예요. 아빠! 사랑한다고!
제가 존경하는 선배 목사님이 아이가, 2층에서 떨어졌어요. 그래서 온몸이 다 찢어졌다는 거예요. 생명은 건졌는데! 그래서 아이를 갑자기 마취를 할 수가 없어서, 홑이불로 똘똘 말아서 꽉 어른들이 잡고, 생살을 꿰맸다는 거예요. 그러니까 이 아이가, 생살에 바늘이 들어오니까, 고통스러워서 참지를 못하고, 자기를 붙들고 있는 아버지에게 사정을 하더라는 거예요. 울면서, ‘아빠! 나 좀 꺼내달라!’고,‘ 아빠! 나 좀 꺼내달라!’고, 그러나 거기에서 꺼내주면 어떻게 되는 거예요? 꿰매지를 못하는 거예요. 상처를!
그러니까 이 아빠가 그 아이를 꼭 붙들고 있으면서, 그렇게 하나님께 기도를 했다고 그래요. ‘하나님! 내 온 사지를 찢어내는 능지처참이, 이 고통보다 고통스럽겠습니까?’ 내 사지를 찢어내는 그 능지처참보다, 지금 이 순간이 자기는 더 고통스럽다는 것이죠. 그게 아버지의 마음이라는 것입니다. 하나님은 우리의 징계를 통해서, 그런 고통을 체휼하고 계시다고요.
하나님이 전지전능하신 분인데, 그 완전한 하나님이 어떻게 고통을 당합니까? 여러분! 신론을 배우신 분은, 이런 질문을 분명히 하실 수 있어야 되죠? 그분은 고통과 관계가 없는 분이란 말이에요. 그런데 2,000년 전에, 그 하나님이 이 땅에 내려오셨다니까요. 그리고는 그 하나님의 백성들의 고통을 체휼하기 위해서, 인간이 되어서, 나면서부터 돌아가실 때까지, 우리가 겪어야 할 온갖 고통과, 고난과, 모욕과 멸시와 천대와, 억울함과, 죽음까지를, 다 경험하고 가셨다고요. 그리고 친히 우리의 머리가 되어주셨다고요.
맞습니다! 그분은 여전히 하나님이십니다. 그러나 여러분! 그거 아세요? 우리의 이 뇌는, 고통을 못 느낀다는 거 아십니까? 어떻게든 뚜껑만 열면, 우리의 뇌는 고통을 못 느낀다면서요? 그러나 우리 몸 안에 있는 모든 고통은, 그 뇌를 통과하게끔 돼있다고요. 거기에서 감지가 되게 돼있단 말이에요. 발가락의 고통! 손톱 밑의 고통! 입안이 허는 것! 배가 아픈 것! 다 뇌를 통해 감지한단 말이에요.
그 예수 그리스도는 우리의 머리가 되셔서, 자기가 친히 체휼해 내신 그 교회의 고통을, 지금 시간에 겪고 계시다 말이에요. 하나님이신 그분이요! 징계를 받을 때, 여러분 삶이 고통스러울 때, 그것을 생각하셔야 돼요.
세 번째로, 우리에게 고난과 고통과 시험이 오는 이유는, 우리의 잘잘못을 떠나서, 하나님께서 우리를 하나님의 강한 백성으로 연단하기 위해, 우리에게 고통스러운 시험을 허락하신다는 것입니다. 그것은, 우리의 신앙 여정의, 여러 가지 많은 유익을 주죠. 첫 번째로, 하나님의 그 시험은, 우리의 믿음을 순화시킵니다. 베드로전서 1장 5절로 갑니다.
(베드로전서 1:5-7)
5 너희가 말세에 나타내기로 예비하신 구원을 얻기 위하여 믿음으로 말미암아 하나님의 능력으로 보호하심을 입었나니
6 그러므로 너희가 이제 여러 가지 시험을 인하여 잠간 근심하게 되지 않을 수 없었으나 (여기 또 ‘잠깐’이 나오죠?) 오히려 크게 기뻐하도다
7 너희 믿음의 시련이 불로 연단하여도 없어질 금보다 더 귀하여 예수 그리스도의 나타나실 때에 칭찬과 영광과 존귀를 얻게 하려 함이라
예, 그러한 시험! 그러한 고난! 그러한 고통은, 우리를 정금보다 더 단단하고 순결하게 만들어준다는 거예요. 여러분! 그 우덕족 같은, 그러한 강한 신앙! 그러한 신앙은, 이 풍요의 나라 미국에서 여러분 찾아볼 수 있나요? 한번 주위를 둘러보십시오. 여러분! 그게 가능한 것 같아요? 믿음의 시련! 그 믿음의 시련은요, 곧 이제 에이즈로, 굶주림으로, 영양실조로 죽어갈 수밖에 없는 난민촌에서, ‘날 사랑하심’이라는 찬송을 부를 수 있게 만들어 주는 거예요. 날 사랑하심! 우리가 볼 때 그게 뭐가 사랑하는 거예요? 날 사랑하심! 그러나 날 사랑하심! 그렇게 고백할 수 있는 정금 같은 신앙! 그 신앙을 우리에게 선물해 준다는 것입니다.
그리고 그 하나님의 시험은, 우리를 성숙시킨다고요. 야고보서 1장 2절로 갑니다.
(야고보서 1:2-4)
2 내 형제들아 너희가 여러 가지 시험을 만나거든 온전히 기쁘게 여기라
3 이는 너희 믿음의 시련이 인내를 만들어 내는 줄 너희가 앎이라
4 인내를 온전히 이루라 이는 너희로 온전하고 구비하여 조금도 부족함이 없게 하려 함이라
로마서 5장 3절로 갑니다.
(로마서 5:3-4)
3 다만 이뿐 아니라 우리가 환난 중에도 즐거워하나니 이는 환난은 인내를,
4 인내는 연단을, 연단은 소망을 이루는 줄 앎이로다
군대에 가면요, 반드시 군인이면 받아야 할 훈련이 있는데, 그것이 바로 유격훈련이에요. 제대할 때까지 세 번, 네 번 ,다섯 차례까지 받는 사람들도 있는데, 군대에 간 사람이 가장 두려워하는 훈련이기도 하죠. 왜냐하면 너무 고통스러우니까요! 괜히 하지도 않아도 될 그런 기합도 주기도 하고, 흙탕물에 갔다가 처박아 놓고, 그 물을 마시게도 하고, 가장 무시무시한 공포의 높이에다 올려놓고, 사람들 밀어서 떨어뜨려 놓기도 하고 말이죠?
‘11번 올빼미! 애인 있습니까?’ 물론 저는 없었어요. 그렇게 얘기해야 되겠죠? 지금 애인 있습니다. ‘그러면 이름이 뭡니까?’ ‘영잡니다!’ ‘그러면 이름 부르면서 하강!’ 그러면, ‘영자야!’까지 하는 사람 못 봤어요. 저는! 영자 그러다가 ‘으악!’이에요. 다 무서워서! 그런데 그렇게 이제 유격훈련을 몇 차례 받고, 말년쯤 되다 보면요, 그냥 뭐 가볍게 뛰어내리는 거예요. 가볍게! 그리고 실제 남자가 되는 거예요. 거기서! 그러한 고통과 고난 힘들죠? 그러나 그것이 통과 된 자들은, 용사가 된다니까요. 군인이 된다고요.
세 번째로, 하나님께서는 하나님의 시험을 통해서, 하나님의 역사를 나타내 보일 기회로 쓰십니다. 요한복음 9장 1절에 보면,
(요한복음 9:1-3)
1 예수께서 길 가실 때에 날 때부터 소경된 사람을 보신지라 (이건 분명히 인간에게 시험이죠? 고난입니다.)
2 제자들이 물어 가로되 랍비여 이 사람이 소경으로 난 것이 뉘 죄로 인함이오니이까 자기오니이까 그 부모니이까
3 예수께서 대답하시되 이 사람이나 그 부모가 죄를 범한 것이 아니라 그에게서 하나님의 하시는 일을 나타내고자 하심이니라
‘아니, 하나님이, 하나님이 하시는 일을 나타내고자 하기 위해서, 그냥 엄한 사람들 소경으로 막 만들어도 되는 거예요?’ 그런 질문 안 드세요? 우리의 처지나 상황은 그만큼, 여러분! 우리가 거기에 목숨 걸 상황이 아니라는 거예요. 이것은 ‘잠깐’이라니까요. 잠깐! 그리고 그 모든 질병과, 그런 죄악들은, 다 우리의 죄 때문에 온 것이라고요. 하나님 그렇게 만드신 것이 아니라!
그리고 그 시험은, 우리를 그리스도의 형상으로 변화시킵니다. 로마서 8장 28절로 가면,
(로마서 8:28-29)
28 우리가 알거니와 하나님을 사랑하는 자 곧 그 뜻대로 부르심을 입은 자들에게는 모든 것이(시험과 고난과 고통과 기쁨 다 포함된 것이죠? 그 모든 것이) 합력하여 선을 이루느니라
29 하나님이 미리 아신 자들로 또한 그 아들의 형상을 본받게 하기 위하여 미리 정하셨으니 이는 그로 많은 형제 중에서 맏아들이 되게 하려 하심이니라
그 아들의 형상을 본받게 하기 위해서! 예수 그리스도는, 우리 인간의 그 고통과, 그러한 고난을 체휼하기 위해서, 이해하기 위해서, 우리 인간의 몸을 입고 이 땅에 내려오셨죠? 우리는 어떻게 되겠습니까? 우리가 진정으로, 참 예수 그리스도를 알기 위해선, 예수 그리스도의 그 고난을 알지 못하고는, 그 고난을 이해하지 못하고는, 그 예수를 우리가 제대로 알 수 없다는 거예요.
예수님은 가난했고, 고통당했고, 모욕당했으며, 수치스러웠고, 죽었습니다. 그런데 그 고난이, 그 고통이, 그 시험이, 무엇 때문이었습니까? 스스로 당한 고난이 아니라, 타인에 의해서 당한 고난이었다고요.
여러분! 우리가 때로 이 땅을 살아가면서, 억울한 고난을 당할 때가 있어요. 진짜 억울해요. 난 아무 잘못이 없어요. 그런데 억울합니다. ‘그런데 내가 왜 하나님! 이것을 감내해야 됩니까?’ 그때에 여러분! 예수를 생각하라는 거예요. 예수가 바로 그 고난을 당했다는 거예요. 그 억울함과, 그 모욕감과, 그 수치심과, 그 배신을 바로 예수가 당했다는 것을, 너희들이 좀 알아먹으라는 거예요. 그러면서 그리스도의 형상으로 좀 변해가라는 거예요. 우리가 예수의 고난을 이해하지 못하고, 예수를 알 수 없다는 것입니다.
그리고 그 시험은, 우리의 마음을 하나님께로만 향하게 해주시죠. 고린도후서 7장 8절로 갑니다.
(고린도후서 7:8-11)
8 내가 그 편지로 여러분을 슬프게 했더라도 나는 그것을 후회하지 않습니다. 그 편지가 잠시나마 여러분을 슬프게 했다는 것을 알고서, 내가 곧 후회하기는 했지만,
9 지금은 오히려 기뻐합니다. 그것은 여러분이 슬픔을 당했기 때문이 아니라, 슬픔을 당함으로써 회개를 하게 되었기 때문입니다. 여러분이 하나님의 뜻에 맞게 슬퍼했으니, 결국 여러분은 우리 때문에 손해 본 것이 없습니다.
10 하나님의 뜻에 맞는 슬픔은 회개하여 구원에 이르게 함으로 후회할 것이 없습니다. 그러나 세상의 슬픔은 죽음을 가져옵니다.
11 보십시오. 하나님의 뜻에 맞는 슬픔으로 얼마나 많은 변화가 여러분에게 일어났습니까? 여러분이 나타낸 그 열성, 그 변호, 그 의분, 그 두려워하는 마음, 그 그리워하는 마음, 그 열정, 그 징계하는 정신을 보십시오. 여러분은 그 모든 일에 잘못이 없음을 보여 주었습니다.
아무런 잘못 없이 당하는 여러분의 그 슬픔이, 여러분을 이렇게 하나님만을 바라보게끔, 만들어준다는 것입니다. 여러분! 이러한 시험을 통해서, 하나님은 세상의 모든 것이 덧없고, 일시적인 것임을 깨닫게 되고, 세상 것을 위해 살려는 마음이, 사라지게 하시며, 천국과 하나님만 소망하게 우리를 만들어 주신다는 거예요.
여러분! 자식이 여러분의 원대로 안 되죠? 남편이 여러분의 원대로 잘 안 되시죠? 아내가 여러분의 원대로 잘 따라주지 않죠? 그럴 때, 성령이 함께 계신 자들은, 어떤 마음이 들게 됩니까? ‘크 목매달아 죽어 버릴까?’ 이리로 갑니까? 손에 힘이 쫙 빠지면서, ‘역시 이 땅에 것에, 눈 두고 살 것은 아무것도 없어!’로 가게 된다니까요.
여러분! 여러분 남편에게, 자식에게, 아내에게, 많이 실망하셔야 돼요. 많이 실망하셔야 돼요. 그게 세상을 향해서, 세상을 바라보는 우리 그리스도인의 가치관이며, 세계관이 되어야 되는 것입니다. 그래서 자꾸 그 세상에서 눈을 떼게 만들어 주는 거예요.
그 씨에스 루이스(C S Lewis)가 2차 대전 때 쓴, ‘스크루 테이프의 편지’라는 책이 있어요. 스크루 테이프의 편지! 스크루 테이프라는 고참 마귀가, 웜 우드라는 조카 마귀에게 쓰는 편지에요. 우화 같은 거죠. 정확하게 마귀가 우리를 어떻게 미혹하는지를 설명해놨어요 사서 읽어보세요.
거기 첫 번째 편지에 뭐라 그랬냐면요, ‘웜우드야, 나의 사랑하는 조카야! 네가 지금 데리고 있는 그 환자들! (그리스도인들을 이야기하는 거예요.) 그들에게 다른 것을 다 허락해줘도, 절대 세상으로부터 눈을 돌리지 못하게 해라! 그들이 혹시 세상으로부터 눈을 돌리려고 하면, 그 세상이 주는 그 멋진 쾌락과, 그 달콤함을 경험하게 해줘! 사업이 잘 되게 해줘라! 그래서 돈의 위력이 무엇인지를 알게 해줘! 성적 쾌락이 무엇인지 알게 해줘라! 그래서 거기서 빠져 나오지 못하게 해줘! 로또라도 맞게 해주고, 도박장에서 걔 한 번 터지게 해줘라! 그러면 그들은 절대 그 세상에서 눈을 못 돌린다. 그 쾌락은 너무 너무나 달콤한 유혹이기 때문에!’
사단은, 마귀는 그러한 달콤함으로, 그런 호기심으로, 우리를 미혹한다고요. 우리가 가지지 못한 것 그것들을 향한, 막연한 호기심을 우리에게 불러일으킨다니까요. 남녀가 서로에 대해서 관심을 갖고 보는 게 뭐예요? 자기가 안 가지고 있는 것에 대해서 호기심을 갖고 있잖아요? 가난한 사람이 돈 많은 것에 대해서! 자기가 가져보지 않기 때문에 호기심 갖게 만들어준다고요. 명예에 대해서 호기심 갖게 만들어준다고요. 하지만 가보면, 정작 아무것도 아니에요. 그래서 말을 빨리 달리게 하기 위해서, 여기다 당근을 요렇게 걸어두죠. 말은 그걸 먹으려고 열심히 달리지만, 죽을 때까지 달려도, 그 당근은 입으로 들어오지 않아요. 우리 인간이 만족할 만큼의 그런 쾌락은, 우리에게 주어지지 않는다고요. 그러면서 지옥으로 가게 만들어 놓은 거예요. 그런 호기심으로!
우리에게 이 적당한 고난과 고통은, 바로 거기에서 벗어나게 해준다니까요. 정신을 차리게 해준다고요. 솔로몬이 전도서에서, ‘베네티 오브 더 베네티 올 이즈 베네티(vanity of the vanity! all is vanity! 모든 것이 다 헛되도다!’ 그 사람들이 그러죠. ‘너는 다 해보고 헛되다고 그러는데, 나는 못해 보고 헛되다고 어떻게 고백을 하냐? 너무 억울해서 안 되겠다. 나도 해보고 헛되다는 거 한번 알아보겠다.’ 그거 얼마나 무서운 일인지 아세요? 여러분!
죄라는 건요, 한번 빠져 들어가면 거기에서 돌아오는 데는, 리버스 엔지니어링(reverse engineering), 그만큼의 시간이 더 걸리는 거예요. 십 년 동안 담배를 피우고 술을 먹었던 사람이, 그걸 끊으려면, 십 년을 고통스럽게 참아야 돼요. 그래야 겨우 벗어날 수 있는 거예요. 십오 년 담배를 피웠으면, 십오 년간을 꾹 참아야 된다니까요. 간만큼 손해예요. 다시 돌아와야 되기 때문에! 여러분! 그걸 경험 안 해도 돼요. 가보니까 아무것도 아니더라고요. 제 말을 믿으세요. 베네티 오브 더 베네티!
그것을 알게 해주기 위해서 우리에게, 하나님은 시험을 허락하신 거예요. 고난을 허락하신 거예요. 자식 속 썩이게 만든 거예요. 그래서 성경은, ‘하나님께서 허락하신 시험이 닥쳐오면, 오히려 기뻐하라!’’라고 이야기한다고요. 기뻐하라! 참 무리한 요구지만, 성경이 이렇게 요구하고 있어요. 베드로전서 4장 12절 보시면,
(베드로전서 4:12-13)
12 사랑하는 여러분, 여러분을 시험하려고 시련의 불길이 여러분 가운데 일어나더라도, 무슨 이상한 일이나 생긴 것처럼 놀라지 마십시오.
13 그만큼 여러분은 그리스도의 고난에 동참하는 것이니, 기뻐하십시오. 그러면 그의 영광이 나타날 때에 여러분은 또한 기뻐 뛰며 즐거워하게 될 것입니다.
기뻐하라는 거예요. 그리고 오늘 본문은 뭐였어요? ‘고난은 은혜다!’라고 정의를 내려버린다니까요. 고난은 은혜다!
예레미야 29장 11절에 보면요, 그 바벨론에 포로로 잡혀가있는 이스라엘을 향해서, 하나님이 이렇게 이야기하세요. ‘너희를 두고 계획하고 있는 일들은, 재앙이 아니다.’ 아니, 지금 끌려가서 죽도록 고생하고 있는데, 하나님이 이렇게 말씀하시는 거예요. ‘내가 분명히 너희들을 이렇게 만들었는데, 너희들 두고 계획하고 있는 일들은 재앙이 아니다. 번영이다! 너희에게 미래에 대한 희망을 주려는 것이다.’ 하나님의 뜻은 바로 이거라고요.
실제로 그들이 바벨론에 포로로 끌려가기 전에는, 그들이 제사 지낼 때, 하나님께 제사 지낼 때, 우상에게 지내는 제사! 하나님께 드리는 제단! 그 제단이 같이 있었어요. 고고학적으로도 증명이 된다고요. 그런데 바벨론 포로 이후에, 그들이 드리던 제단은, 하나님께 드리던 제단밖에 없어졌다고요. 정신을 차리게 되는 거예요. 혼나야 되는 거예요. 그 바벨론 포로의 생활! 그 기간이 없었으면. 그들은 계속해서 우상과 하나님을 동시에 섬겼을 거라고요.
이렇게 우리에게 닥치는 시험과, 환란과, 고통과, 고난은, 우리가 그리스도인이라는 것만 확인이 되면, 그것은 여러분에게 복(福)입니다. 선물입니다. 그게 확인이 안 되기 때문에 괴로운 거예요. 그런 의미에서, 그 레마의 이명범씨나, 뵈레아의 김기동씨나, 그런 사람들이 이야기하는 것처럼, 예수 믿으면, 모든 병이 나아야 되고, 귀신만 쫓아 내주면, 그럼 병이 다 물러간다는 것은, 얼토당토않은 사기죠.
여러분! 존 켈빈하고 마틴 루터는, 별명이 종합병원이었어요. 죽을 때까지! 마틴 로이드 존스 목사님은 신경쇠약으로, 수면제가 없으면 잠을 못 잤던 분이에요. 돌아가시는 날까지! 존 웨슬리도 마찬가지고요. 찰스 스펄전은, 죽는 날까지 몸에 통증 때문에, 괴로워했던 분이에요. 이런 분들은 그럼 뭡니까? 하나님의 저주를 받은 분입니까?
살롬 장애인 센터의 그 박모세 목사님의 사모님! 그분의 유일한 기도제목이 뭔지 아세요? ‘하나님! 단 5분만 통증 없이 살게 해주세요. 단 5분만!’ 그분은 저주받은 분입니까? 여러분? 그럼 예수님은 뭐예요? 사도바울은 뭡니까? 멀리 갈 거 없어요. 저는 목회하기 전에, 어디 아픈 적이 없었던 사람이에요. 목회하고 나니까, 안 아픈 데가 없어요. 이거는 어떻게 된 거예요? 반드시 그것은, 우리 그리스도인의 삶에 필요하기 때문에, 하나님이 놔두시는 거예요. 놔두시는 거예요. 우리의 신앙의 여정에 꼭 필요한 것이기 때문에!
그러면 여러분! 이 명제를 한번 풀어보고 가자고요. ‘그 고통과 고난과 시험의 원인은, 하나님이다.’ 맞습니까? 하나님이 그 고통과, 고난과, 그 시험을 창조해서, 우리에게 보내주시는 것입니까? 그것은 모두, 우리의 죄 때문에 일어나는 일들이라고요.
여러분! LA에서 밤에 아무 거리나 마음대로 활보하고 다닐 수 있습니까? 왜 그렇게 됐죠? 여러분! 공항에서 비행기 한번 타는데, 왜 이렇게 힘들어졌어요? 왜 집집마다 방범창이다, 쇠창살이다, 방범 알람이다, 이런 것이 설치되어야 되죠? 지금 왜 오늘도 지구 곳곳에서 신무기는 개발되어야 하며, 곳곳에서 전쟁이 끊이지 않습니까? 그거 하나님이 다 만들어 놓으신 건가요?
왜 경제는 이렇게 ‘주저 않았다 일어났다’를 반복하면서, 우리를 불안하게 만듭니까? 왜 이렇게 질병은 점점 우리를 더 괴롭힙니까? 다 우리의 죄 때문에 그런 거예요. 우리 안에서 나온 것들이잖아요? 다! 질병이요? 여러분이 아무거나 막 먹고, 절제하지 않고, 나태해서 그런 거예요. 운동 안 하고! 전쟁! 강도! 살인! 다 우리의 욕심 때문에, 우리는 지금 우리의 그 죄로 인해서 당하는 거예요. 그 고통은! 다! 그 불편함! 불안함!
‘왜 하나님! 왜 세상을 이렇게 만들어 놓으셨습니까?’ 그렇게 질문할 자격이 없어요. 그것은 자기가 얼마만큼 큰 죄인이라는 것을 아직 모르고 있다는 거예요. 우리가 얼마만큼 큰 죄인이라는 걸 모른다는 것은, 아직 기독교인으로서 출발이 안 되어 있다는 거예요. 거기서부터 기독교는 출발하는 거거든요. 그래야 은혜가 뭔지 알고, 그것이 선물인지, 우리가 알게 되는 거 아닙니까?
아우슈비츠 수용소에서, ‘하나님! 당신은 지금 뭐하고 있는 겁니까? 왜 이렇게 고통과 고난을 우리에게 허락하는 겁니까?’ 그렇게 이야기해서는 안 되는 거예요. 거기에서 나를 보는 거죠. 나를! 우리가 만들어 놓은 상황이며, 처지라고요. 그것은 다시 한 번 확인하자고요.
우리 그리스도인의 인생의 목적이 뭐라고 그랬습니까? 거룩한 자가 되어서, 하나님의 성품을 배워서, 그 하나님이 사시는 거룩한 나라에 참여하게 되는 게, 우리 인생의 목적이란 말이에요. 그러면 이 불안전한, 우리가 고난도 없고, 고통도 없고, 시험도 없는 낙원에 산다고 생각해 보세요. 지금 이 땅이 그런 낙원이라고 생각해보세요. 거기에 가난한 자들을 위한 긍휼의 마음이, 있을 수 있어요? 낙원에서요? 거기에 고통당하는 자들을 위한 자비가, 존재할 수 있습니까? 거기에 우리가 감내해야 할 인내가 필요할까요? 서로를 위해 격려나 위로가 필요할까요? 아니, 용기 같은 게 필요할까요? 불의를 향해서 맞서는? 온유함이 필요할까요? 거기서 우리는 거기서 뭘 배울 수 있을까요? 아무것도 배울 수 없단 말이에요. 어디에서 여러분이 용서를 배울 것이며, 어디서 여러분이 긍휼을 배울 것이며, 어디서 여러분이 인내를 배울 것이며, 어디서 여러분이 온유를 배울 것입니까?
여러분이 만약에 이 몸을 가지고, 그대로 낙원에 살게 된다면, 여러분은 그렇게 살다가, 죽음으로 떨어지게 되는 거예요. 우리는 아무것도 배울 수 없는 것이죠. 고통과 고난과 시험과 좌절을 통해서, 우리는 그리스도의 그 성령의 열매들을, 우리 삶에 맺어가는 거예요. 그것이 하나님의 선물이라는 것을 왜 모르십니까? 여러분!
이 땅의 낙원을 원하시는 거예요? 여러분이요? 이 잠정적인, 임시적인 이 가건물 안에서의 평안을 원하시는 거예요? 아니요, 영원한 그 땅에서의, 여러분! 하나님의 자녀 됨을 만들기 위해서, 이 땅에, 낙원은 이루어지면 안 되는 거예요. 우리는 배워가야 할 것이 있기 때문에! 그래서 그리스도인의 삶에는, 반드시 그러한 고통이 있는 거예요. 고난이 있는 거예요. 그곳에서 배우라는 것이죠.
하나님은, 고통을 느끼지 못해서, 난로에 손을 익혀 버리고, 고통을 느끼지 못해서, 시력을 잃어버리고, 고통을 느끼지 못해서, 이 뼈를 부러뜨려 버리는, 그러한 영적 한센 병에서 우리를 건져내주기 위해서, 우리의 삶에, 적당한 고난과 텐션(tension)을 걸어놓으시는 거예요.
그런 분 계시겠죠? ‘아이, 그래도 이거는 너무합니다. 이거는 좀 너무하지 않습니까?’ 아뇨. 누구나 다 그만큼의 고통을 겪고 있다는 걸, 여러분 아십시오. 감당할 수 있을 만한 시험! 누구나 흔히 겪는 시험이라는 뜻이라고 그랬잖아요? 다 그만큼의 아픔과 고난이 있다고요. 우리는 적당한 고통을 통해서, 적당한 고난을 통해서, 우리의 영적 상태를 확인하고, 더 썩어 들어가지 않도록 주의하며, 돌이키며, 자라가는 것입니다.
여러분! 1963년에 미국 장대높이뛰기 챔피언이 있어요. 브라이언 스턴버그라는 사람이에요. 고등학생이었어요. 그 다음 해가 올림픽이었다고요. 누구나 다! 죤 에프 케네디까지, 이 사람이 당연히 올림픽 금메달을 딸 거라고 확신했다고요. 그런데 올림픽 연습을 하다가, 트램플린에서 점프를 하다가 떨어졌어요. 목뼈가 부러졌어요. 그리고 그는 전신마비 환자가 되어 버렸습니다. 이제 모든 부귀영화는 다 날아갔어요. 명성도 다 날아가 버렸어요. 그 상태에서 3개월 만에, 그가 예수를 만났습니다.
이 두 가지를 한번 비교해보자고요. 그가 아무 사고 없이, 올림픽 금메달리스트가 되고, 부귀와 영화를 누리며, 모든 사람들의 박수를 받으며, 이 세상 것에 푹 파묻혀서, 그렇게 살다가 하릴없이 가는, 그런 브라이언과, 이렇게 19살에 목뼈가 부러져서, 이제 하반신 마비가 되어서, 아무 것도 자기가 누릴 수 있는 것이 없는 상태에서, 예수 그리스도를 만난, 그 브라이언과, 여러분은 누구를 더 복된 자라고 여기겠습니까? 어디에 눈을 두고 있는가에 따라서, 평가는 달라질 거예요. 그렇죠?
이 브라이언이 어떤 이야기를 해놨느냐 하면, ‘나는 미래에 대한 소망이 있습니다. 성경은 나에게 영화롭게 될 우리의 몸에 대해서 말해주고 있습니다. 고등학교 시절! 그것은 항상 아련하고 낯선 개념이었습니다. 그러나 지금 나는 내가 완전히 나을 것을 알고 있습니다. 나는 완전한 사람이 될 기회를 빼앗긴 것이 아닙니다. 나는 지금 40년쯤 지연된 삶을 살고 있을 뿐입니다. 영화롭게 되는 그날! 그날이 어떤 날인지, 나는 그 의미를 너무나 잘 알고 있습니다. 그리고 기다립니다. 그날! 나는 나의 두발로 서서 예수님과 함께 춤을 추고 있을 것입니다.’
그는 이미 이 하반신 마비가 되었음에도 불구하고, 예수님과 함께 영원히 춤을 출 그 잔치를, 그 삶을 살고 있었던 것예요. 예수 그리스도를 만남으로 말미암아! 그 삶에 있어서, 그 목뼈가 부러진 것은 선물이었다. 하나님의 선물이었다고 이야기하면, 여러분은 반론을 제기하시겠습니까? 무엇이 정말 소중한 것인지 아는 사람은, 거기에 대해 ‘이의 있습니다.’라고 손을 들 수가 없다고요.
러시아의 대문호인 도스토예프스키! 그 사람은, 28살에 진보적인 단체에 가입했다는 그 이유로 사형선고를 받았어요. 그리고 8개월 만에, 사형이 집행이 됐다고요. 사형대에 딱 묶여있는데, ‘유언을 한마디 남겨라!’ 그 순간에, 28살 먹은 청년이 무슨 유언을 할 게 있었겠습니까? 하늘을 쳐다봤다 그러죠. 맞은편에, 러시아 정교회의 첨탑 위에 있는 십자가가 보였대요. 그 시간에 문득 이런 생각이 들었다는 것이죠. ‘혹시 저 십자가와 나와 무슨 연관이 있는 건 아닐까? 정말 저 십자가와 나는 아무런 상관이 없는 것일까?’
그때에 황제의 특사가, 정말 소설처럼 그때에, 도착을 한 거예요. 도착을 해서 사형은 면하게 해줬지만, 시베리아로 유배를 떠나게 만들었다고요. 수년 동안! 그 유배를 떠나는 그 길에서, 도스토예프스키가, 성경을 하나 구했어요. 자기가 죽는 순간에, 자기의 마음에 와 닿았던 그 십자가는, 도대체 그 무언가? 그리고 시베리아 유배 기간 내내, 그 성경을 읽었습니다. 그리고 그가 하나님을 만났어요. 그리고는 뭐라고 이야기했는지 아십니까?
만일 어떤 사람이, 정말 탁월한 사람이, 이 땅에 나타나서, ‘성경은 전부 거짓이다!’ 그렇게 누구도 부인할 수 없는, 그러한 증명을 해내었다 할지라도, 나는, 그가 거짓말이라고 증명해낸 그 성경! 하나님의 말씀만을 믿을 것이다. 그리고는 ‘죄와 벌’ ‘카라마조프의 형제들’ 같은 소설을 쓴 거예요. 복음이 담겨있는 소설을 쓴 거라고요. 도스토예프스키의 그 사형 언도와, 그 유배지의 삶이, 그에게는 선물이었던 것입니다.
여러분! 그리스도인의 삶에는 반드시, 이렇게 고난과 고통과 시험이, 필연적으로 주어지게 됩니다. 여러분! 고통을 느끼지 못해서, 지옥 같은 인생을 살아가는, 그러다가 지옥으로 떨어져 버리는, 영적 한센병자! 그 영적 한센병자가 되기를 원하십니까? 아니면, 고통을 통해서, 고난을 통해서, 하나님의 백성임을 깨달아가며, 하나님의 백성으로 만들어져 가는, 그런 그리스도인의 삶을 원하십니까? 여러분 고난에 대해서 감사하십시오.
다음 시간에는, ‘그러면 우리는 그 시험과 고통과 고난에서 빠져나올 수 있는가?’ 분명 고린도서에서, 피할 길을 주신다고 하는데, 피할 수 있는가? 그러면 성경은 자체 내에 모순을 갖게 되죠. 그러면 그 이야기는 도대체 무슨 이야기인가에 대해서, 함께 공부를 해보도록 하겠습니다. 기대가 가시죠? 그런 무표정한 얼굴로 그렇게 가시면, 제가 마음이 굉장히 무겁다고요. 저는 이렇게 흥분하는데, 여러분은 그렇게 그냥 가만히 앉아 계시면, 그걸 혹자는, 신앙의 차이라고 이야기들 하지만, 그러시면 안 돼요. 제가 그래도 힘이 좀 나게, ‘그래, 아! 기대된다.’ 이런 표정으로 가주셔야죠. 기도하겠습니다.
'教会論' 카테고리의 다른 글
| (24) - キリスト者の結婚観(マタイ19:3-11)그리스도인의 결혼관 (0) | 2026.03.11 |
|---|---|
| (25) 神は世をこのように愛された(ヨハネ3:16) (0) | 2026.03.10 |
| 26 - 偽善者 (マルコ7:6-9) (0) | 2026.03.08 |
| 28 - クリスチャンの苦難 2 (避ける道はあるのか?) (コリント人への手紙第一 10:12-14) (0) | 2026.03.08 |
| 29 .クリスチャンの苦難 3 (傷と家系に流れる呪い) (ローマ8:1-2) (0) | 2026.03.08 |