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(93) すでに到来した新しい天と新しい地 본문

講解説教/ヨハネの黙示録

(93) すでに到来した新しい天と新しい地

cocoa 2026. 3. 5. 13:52

 

 

(93) すでに到来した新しい天と新しい地

(黙示録21:1-8)

21:1 私は新しい天と新しい地を見た。

以前の天と以前の地は消え去り、海もなくなった。

 

21:2 また、聖なる都、新しいエルサレムが、花嫁が夫のために飾られるように飾られて、神のもとから天から下って来るのを見た。

 

21:3 そのとき、私は玉座から大きな声が響き渡るの聞いた。

「見よ、神の1)住まいが人々のうちにある。

神は彼らと共におられ、彼らは神の民となる。

神ご自身が彼らと共におられ、2) 彼、『幕屋』、他の古代写本には節末に『彼らの神となられる』が追加されている

21:4 彼らの目からすべての涙をぬぐい去られる。もはや死もなく、悲しみも叫びも痛みもない。

以前のものであったものは、すべて過ぎ去ったからである。

」

21:5 そのとき、玉座に座っておられる方が言われた。

「見よ、わたしはすべてを新しくする。

」また言われた。

「書き記せ。

この言葉は真実で確かなものである。

」

21:6 また、私に言われた。

「見よ、私はすべてを新しくする。

私はアルファでありオメガ、すなわち初めであり終わりである。

渇く者には、いのちの水の泉をただで飲ませよう。

 

21:7 勝利を得る者は、これらのものを相続する。

私はその者の神となり、その者は私の子となる。

 

21:8 しかし、臆病な者、不忠実な者、忌むべき者、殺し屋、姦淫する者、魔術を行う者、偶像を拝む者、あらゆる偽り者たちの分は、燃える硫黄の火の池である。

これが第二の死である。

"

先週、ヨハネの黙示録21章冒頭の新しい天と新しい地について、現代神学がどのような解釈をしているかを二つの立場に分けて考察しました。

現代神学は新しい天と新しい地を

「完全消滅説」と「更新説」で説明していますが、現在では多くの人々が「更新説」に回帰していることをお伝えしました。

「更新説」とは、神が私たち聖徒たちに相続として与えられる新しい天と新しい地は、現在の宇宙とは全く異なる次元の新しいものではなく、連続性を持つものであるという主張が「更新説」です。

しかし「更新説」であれ「完全消滅説」であれ、そのようなことが重要なのではなく、その新しい天と新しい地は神が私たちと永遠に共に住まわれる場所であり、罪のない場所であり、その場所の生活の原理は「力の原理」に代表されるこの地上の生活の原理とは正反対のもので生きる場所であることが重要だと述べました。

 

今日はその新しい天と新しい地が持つ霊的な意味について学びます。

なぜなら、黙示録21章の新天新地は、実は空間的・場所的な側面よりも、救われた聖徒の状態に焦点を当てているからです。

 

確かにその新天新地は、未来のある日に私たち聖徒に与えられる空間的・場所的な場所です。

しかし聖書は「今この見える歴史と、この最初の地、最初の天の下にも、すでに新天新地が来ている」と語っています。

(マタイ4:17)

17 このときから、イエスは宣教を始め、こう言い広められた。「悔い改めよ。天の国は近づいた。」

以前にも一度説明しましたが、この箇所で「近づいた」と訳されている「エンギケン」は、「エンギゾ」という動詞の直説法完了形です。

ですから、より正確に訳すと「悔い改めよ、天の国が来ている」という意味になります。

イエス・キリストが来られたことを「天の国が来た」と表現しています。

 

(ルカ17:20-21)

20 パリサイ人たちが「神の国はいつ来るのですか」と尋ねると、イエスは答えて言われた。「神の国は見えるように来るのではなく、

21 また、ここにあるとも、あそこにあるとも言えない。神の国はあなたがたの中にあるのだ。

ここでも主は「神の国はあなたがたの中に来ている」と表現されています。

 

さらに聖書は、その新しい天と新しい地で生きる新しい人々が、すでにこの歴史の中に存在していると述べています。

 

(Ⅱコリント5:17)

17 だから、キリストにある者は、新しい創造物です。古いものは過ぎ去りました。見よ、すべてが新しくなりました。

「太陽の下に新しいものはない」という状態から、「太陽の下に新しいものがある」状態へと変わったのです。

このように、神の国、すなわち新しい天と新しい地は、すでに霊的に私たちの間に来ており、私たち新しい人々は、この古い天と古い地の中でその神の国を体験することができるのです。

 

では、どうしてそれが可能なのでしょうか。今読んだコリント人への第二の手紙5章17節にその答えが出ています。

「キリストにあるなら」私たち聖徒はキリストの中で新しい人となり、キリストの中で死もなく、嘆きもなく、泣き叫ぶこともなく、涙もなく、痛みもない新しい天と新しい地を体験できるのです。

聖書は、私たち聖徒が救いを受ける瞬間、すでに天の国に座っているのだと語っています。

(エペソ2:5-6)

5 罪によって死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました(あなたがたは恵みによって救われたのです)。

6 また、キリスト・イエスにあって、私たちを天に共に座らせてくださいました。

このように、私たち聖徒はすでに霊的に天に座している存在となったのです。

 

そして私たちが前回探して読んだイザヤ書65章の新しい天と新しい地の物語も、実はメシアの到来によって実現する世界を象徴的に表現したものです。

(イザヤ65:17-18)

17 見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。以前のことは心に留められず、思い起こされることもない。

18 あなたがたは、わたしが創造するものを永遠に喜び楽しみ、

見よ、わたしはエルサレムに喜びを創造し、その民を楽しみとする。

イザヤは来るべきメシアを待ち望んでいた時代に生きていた人です。

イザヤは、メシアが来られると、今とは全く異なる世界が訪れることを叫んでいるのです。

つまり、このイザヤの預言は、将来来る、場所的・空間的な新しい天と新しい地を象徴的に表現すると同時に、メシアによって救われた聖徒たちの生活の中で実現される、この地における新しい天と新しい地の生活を同時に象徴しているのです。

 

ですから、新しい天と新しい地は、すでに霊的にこの古い天と古い地の中で始まっているのです。

 

(コロサイ1:13-14)

13 彼は私たちを、暗やみの力から救い出し、愛する御子の国に移してくださいました。

14 その御子によって、私たちは贖い、すなわち罪の赦しを得たのです。

これを見てください。

私たち聖徒はすでに神の国に移されました。

そのような抽象的な概念を経験的かつ実際に説明し理解することは本当に難しいことです。

ですから私が「神の国」を統治の概念として説明したのです。

 

人がある国に属しているということは、その国の法と秩序に従って生きることを意味します。

あなたがたが世の国に属していた時には、世の法と秩序である「私の利益と力の原理」に従って生きていました。

しかし、御子の国に移された後は、その御子の国の法と秩序である「私の犠牲と隣人の益、そして神への栄光」という新しい法と秩序の中で生きるようになるのです。

その生活こそが、新しい天と新しい地、神の国での生活なのです。

もしあなたが今、そのような神の国秩序の中でよく生きているなら、あなたはその生活の中で神だけが与えられる平安と喜びと幸福を享受しながら生きていることでしょう。

私たちの周りにも、常に犠牲を払い、損をし、仕えながらもいつも幸せな方々がいますよね。

まさにその生活こそがこの地で始まった新しい天と新しい地の生活なのです。

その新しい天と新しい地の生活の原理である「私の犠牲と隣人の益、神への栄光」という原理で生きる人々の間には、争いや嘆きや悲しみが消え去るのです。

なぜなら、そのような生活の原理で生きる人々には、もはや相対的な貧困や相対的な恥、あるいは自分の利益のために他人を踏みつけなければならないような重荷がないからです。

 

私たち人間がなぜ悲しみ、嘆き、苦しむのでしょうか?その生活の中心が「私」だからです。

徹底した利己心がむしろ「私」を苦しめるのです。

他の人より自分が損をしているように感じ、他人と比べてその人たちより自分が幸せでないように感じ、他の人たちより自分がより犠牲を払っているように感じるからではないでしょうか?しかし「私の犠牲と隣人の益、神への栄光」という神の国における生活の原理が次第に身についてくると、そのようなことは私を嘆かせることはできません。

そのようなことは私を悲しませることができないのです。

それがまさに新しい天と新しい地なのです。

 

そうして愛と犠牲と奉仕がある場所に、なぜ葛藤と憎しみと争いと競争があるでしょうか?

ところが現実はそうではありませんよね?それは私たちが今は罪に汚染されたこの弱き古い肉体をまとっているためです。

私たちの内に依然として罪に対する汚染と腐敗性が残っているため、私たちはまだ苦しみと悲しみと涙と嘆きの中で生きていますが、ふとふと、新しい天と新しい地の生活の原理とその国の秩序の中で経験される言い表せない平安と幸福と感動が私たちにあるではありませんか?まさにそれが、新しい天と新しい地がこの地上で既に始まっているという意味であり、今まさにその国が完成されようとしていることが、今日の本文が私たちに与える慰めであり励ましなのです。

 

このように、新しい天と新しい地は「いつか来る場所的・空間的な良い国」だけを象徴するのではなく、今、新しい国の原理と秩序で生きている私たち教会の中に既に始まっている国を同時に象徴しているのです。

繰り返し強調しますが、皆さんは天国を空間的・物質的な概念として描いてはいけません。

それはギリシャの空間的二元論です。

私たちキリスト教は時間的二元論であることを決して忘れないでください。

だからこそ、私たちの主が私たちに教えてくださった祈りの中で「御国が来ますように」という箇所が出てくるのです。

その祈りは「一日も早く、その神の統治を喜び、その国の秩序に従順な者にしてください」という祈りなのです。

 

私がなぜこの新しい天と新しい地を、今この地にすでに臨んだ霊的な意味の神の国に重点を置いて説明するかというと、申し上げた通り、黙示録21章がその新しい天と新しい地を場所的・空間的なものに焦点を当てて説明していないからです。

(黙21:1-2)

1 また、わたしは新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は消え去り、海ももうなかった。

2 また、わたしは見た。聖なる都、新しいエルサレムが、神のもとから天から下って来る。それは、花嫁が夫のために飾ったように、神によって飾られていた。

この本文の1節と2節を絵に描いてみると、新しい天と新しい地があり、その上に聖なる都、新しいエルサレムが天から降りてきて、その都の中で私たち聖徒たちが住むようになるような印象を受けませんか?それは誤った推測です。

もし聖書が本当にそのような絵を描いているのなら、聖なる新しい天と新しい地に聖なる新しいエルサレムが降りてくることによって、その聖なる新しい天と新しい地が、聖なる新しいエルサレムの都の内側と外側に再び聖さで区別されるという矛盾が生じざるを得ません。

ですから、聖なる都、新しいエルサレムは新しい世界の中に降りてきたのではなく、新しい世界そのものが聖なる都、新しいエルサレムを意味しているのです。

 

言い換えれば、新しい天と新しい地、そして聖なる都新しいエルサレムは同じものを表現しているということです。

ところで、黙示録21章9節と10節を見ると、その聖なる都新しいエルサレムが

「小羊の花嫁」とされています。

では、その聖なる都、新しいエルサレム、新しい天と新しい地とは何でしょうか。場所的・空間的な華やかな場所を指すのではなく、まさに教会を象徴しているのです。

つまり、新しい天と新しい地は、教会が住む場所に焦点があるのではなく、新しい国の秩序と原理によって生きる民自身に焦点があるのです。

(黙21:9-10)

9 七つの鉢を持って、最後の七つの災いを担う七人の天使の一人が進み出て、私に言った。「さあ、来なさい。私はあなたにご覧させましょう。花嫁、すなわち小羊の妻を。」

10 聖霊が私を連れて、高く大きい山に登らせ、神から天から下って来る聖なる都エルサレムを見せてくださった。

では、イエス・キリストの花嫁である聖なる都、新しいエルサレムが天から下って来るというのはどういう意味でしょうか。新しい天の秩序と天の原理によって生きることができる教会は、自らの力や努力によって造られるのではなく、天から神によって造られるという意味です。

 

ではなぜ教会を「新しいエルサレム」という言葉で表現するのでしょうか?

エルサレムは「平和の基盤」という意味です。

なぜエルサレムが平和の基盤となったのでしょうか?ああ、エルサレムが他の都市と区別されていたのは、そのエルサレムの中に神の臨在を象徴する聖なる神殿があったからです。

とはいえ、神殿そのものがエルサレムをエルサレムたらしめるわけではありません。

神殿の中には契約の箱がありますよね?まさにその契約の箱が、神殿を神殿たらしめているのです。

その契約の箱が、神が共におられるという意味を持っているからこそ、神殿は聖なる場所となり、その神殿があるエルサレムが平和の基盤となるのです。

 

神の共におられるという意味が、なぜ契約の箱を通して現れるのかは、皆さんご存知でしょう?

人間が罪を犯した後、罪人たちは決して神と共にいることはできませんでした。

言い換えれば、神との平和な関係が壊れてしまったのです。

ところが、人間の失敗と過ちを象徴する 『アロンの芽生えた杖と、モーセの十戒の石板と、マナの壺』を包み込むある存在の死によって、その人間の罪悪がその存在の血の下に隠され、神がその罪人たちとの平和の関係を回復されるイエス・キリストの十字架の死が、まさに契約の箱の中に象徴として収められているため、その契約の箱の中に神の共におられることと神との平和が現れるのです。

それゆえ契約の箱が収められている場所が聖殿となり、その聖殿がある場所が「エルサレム」「平和の礎」となるのです。

 

なぜ小羊の花嫁である教会を「聖なる都、新しいエルサレム」と呼ぶのか、お分かりでしょう?

教会こそが、まさにイエス・キリストの尊い血によって神と和解した人々を指すものであり、彼らは神と平和な者となったのです。そして今や彼らと共に神が永遠に共に住まわれるようになったため、教会を「天から下る聖なる都、新しいエルサレム」と呼ぶのです。

その聖なる都、新しいエルサレムが場所的・空間的なものよりも、教会、すなわち神の民を象徴しているという証拠が21章22節に出ています。

そこには『その新しいエルサレムの中には神殿がなかった。神とイエスこそが神殿であった。

』という節が出ていますね?しかし11章19節を見ると、明らかに天に聖所があり、その聖所の中に契約の箱が見えたとあります。

ですから、ここ21章の新しい天と新しい地、そして新しいエルサレムは、主に共にある神の民であるという点に焦点を当てて説明しているのです。

そのようにイエス・キリストの尊い血の功績によって神と和解し、神と共に住むようになった人々が、この地上にいますか?いませんか?いますか?このように、新しい天と新しい地、新しいエルサレムは確かにこの地上に存在するというのです。

 

ですから、今日の本文に登場する新しい天と新しい地、聖なる都新しいエルサレムは、いつか私たちに相続として与えられる場所的・空間的な場所であることに重点があるのではなく、もちろんその国はあまりにも素晴らしいでしょう。

しかし今日の本文は、そのような外的な環境や条件の華やかさで私たちの期待を煽り励まそうとしているのではなく、その新しい天と新しい地、新しいエルサレムは、神の恵みによって神と和解した小羊の花嫁たちが、自分の利益のために自分の力を蓄えるその生活から離れ、ただ神にのみ従い、神のみを頼る、そのような真の幸福が溢れる場所であることをより強調しているのです。

そして私が併せて強調したいのは、まさにその新しい天と新しい地の生活を、私たちがこの地上で始めなければならないということです。

 

皆さん、一度考えてみてください。

新しい天と新しい地の概念が場所的・空間的な華やかさや有益さよりも、その新しい国の秩序と原理に順服する人々の状態に焦点が当てられているのであれば、私たちは確かにこの地上でその新しい国を少しでも経験できるということではないでしょうか?そして、その新しい世界が与える幸福と感動を少しでも味わった者だけが、その国を望み求めることができるのです。

 

私たちがこの地で、あの天の秩序と原理に従順な生活を少しでも味わうことなく、どうしてあの新しい天と新しい地を切に望み求めることができるでしょうか?食べたこともないものを頭に思い浮かべて、よだれを垂らすことができるでしょうか?人は絶対に、事前に経験したり味わったりしたことのないものを切に望むことはできません。

だからこそ私が皆さんに「神の言葉をよく学び、身につけて、その言葉に従って生きてみよう」と叫んでいるのです。

私たちが昔は全く夢にも思わなかったような人生、私が譲り、私が犠牲になり、私が損をして他の人々が利益を得るような人生を一度生きてみようということです。

それゆえ、新しい天と新しい地の生活がどれほど幸福なものかを、あらかじめ少しずつ知っていこうというのです。

それがまさにキリスト教なのです。

 

神を利用して皆さんの願いを叶え、皆さんの問題を解決してもらうことがキリスト教ではなく、神の恵みによって救いを得た者たちが、この地で神の国における生活の原理とその国の秩序の中に入り、神の統治を喜んで受ける訓練をすることが、まさに信仰生活なのです。

最後に、創世記から始まり、この新しい天と新しい地に至る結論がどのように導き出されるかを簡単に説明して締めくくりたいと思います。

 

まず、神が「なぜこの天地を創造されたのか」という点から出発しなければなりません。

 

神はなぜこの天地を造られたのでしょうか?なぜ人間を造られたのでしょうか?

皆さんを豊かに食べさせ、豊かに生きさせるためでしょうか?それとも皆さんを救うためでしょうか?

それを理解するためには、哲学の存在論を理解しなければなりません。

 

皆さん、存在というものを一度考えてみてください。

存在の中でも特に生きている存在を考えてみてください。

その生きている存在というのは、固定されたものですか?それとも流れる様態ですか?例えば花という存在があります。

10分前の花と10分後の花は同じ花ですか?それとも別の花ですか?本質的な面では同じ花ですが、その花は絶えず変化していますよね?

つぼみができ、花が咲き、実がなり、実が落ち、葉が落ち、また新芽が芽吹く。花はこのように、自らの存在の特徴を絶えず外へ発散し続けているのです。

 

鳥も同様であり、魚も同様です。

この地に住む生きている存在は、すべてが自ら持つ固有の特徴を外へ発散しています。

ですから存在というものは本質的な側面では固定されたものですが、厳密に言えば流れているのです。

 

神は神性で満ちた存在です。

神という存在もまた、神固有の特徴であるその満ちた神性を外へ発散されます。

それがまさに神の栄光です。

 

その神の神性、言い換えれば神の栄光が外へ発散されて作り出されたものが、まさに天地創造です。

つまり花が花の特徴を外に発散するように、神の神であることが発散され表現されたものがまさに「天地万物」なのです。

 

(ローマ1:20)

20 創造の時から、神の目に見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性とは、被造物を通して明らかに知られ、理解されるのです。それゆえ、彼らは弁解の余地がありません。

つまり天地創造とは、神の神性が外に発散され、神の神性、神の力、性質、知恵が万物に覆われ、その神の栄光を帯びた万物そのものが、神の力と性質と知恵を万物を通して反射するように意図されたものです。

それを別の言葉で「賛美」と言います。

つまり賛美とは、神の力と性質と知恵が万物の中に現れることです。

それをまた別の言葉で「神に栄光を帰する」

とも表現するのです。

ですから、皆さんが神に賛美を捧げ栄光を帰するということは、神の性質と知恵が皆さんの人生の中に現れることを意味します。

このように天地創造の主人公は「神」です。

それゆえ聖書は天地万物が「神のために造られた」と語るのです。

かくして天地万物は神の神性の発散によって創造され、その神性の栄光を受け、神性の中で一つに結ばれました。そしてその一つに結ばれた天地万物が、その神の栄光を反射すること、言い換えれば賛美することが、まさに天地創造の目的なのです。

 

少し分かりやすく説明しましょう。

 

ここに太陽があります。

その太陽という本体が存在し、その太陽からは光が発散されます。

その太陽から発散される光によって天地万物の色が現れるのです。

ある物体が持つ「色」とは、その物体が太陽の光を受けた時、太陽の光が持つ無数の色の中からその物体が反射する色が外に表出されることを指します。

つまり「色」とは、すなわち太陽の存在を証しするものです。

 

頭の中でよく絵を描いてみてください。

太陽という本体があり、その本体から発散される光があり、その光を反射する物体があります。

 

その絵の中に天地創造を組み込んでみてください。

 

神性で満ち溢れた神という栄光の本体から神性が発散されます。

その神性は万物を一つに結びます。

神が聖霊を通してその万物の中に満ちあふれる神性を現されることを、私たちは聖霊の中で一つの体になると言うのです。

聖霊の影響下にあるということは、聖霊によって結びつけられているという意味ですから。

「そのように聖霊によって一つに結びつけられた万物に、神の神性が満ちあふれるように覆われ、万物は自らに現れたその満ちあふれる神性を現すようになること、言い換えれば神の栄光を賛美すること」これがまさに天地創造の目的なのです。

 

だから創造の目的を時に「私たちの聖さ」とも言うのです。

私たちの聖さこそが神の御性質を現すものだからです。

 

だから聖書に言及される神の栄光は三つに分かれて語られるのです。

 

まず神ご自身の中に満ちている栄光があります。

それを神学では「本体的栄光」と呼びます。

そしてその本体的栄光の中から外へ流れ出る神の栄光を「放射的栄光」と呼びます。

そしてその放射的栄光を認識した被造物たちの反応を「効果的栄光」と呼びます。

この部分については、今週の水曜聖書勉強会、ヨハネの福音書講解の時、「光として来られたイエス・キリスト」を説明しながら詳しく扱わせていただきます。

今はただよく聞いておいてください。

その中で人間が果たす役割は、その放たれた神の神性、言い換えれば神の放射的栄光に反応する被造物たちから生じる効果的栄光を、より輝かしく豊かにする万物の頭として立てられたことです。

それゆえ創世記1章で神が人間に「生めよ、増えよ、地を満たせ、地を治めよ」と命じられたのです。

増えよ、満ちよ、神を賛美し、その方に栄光を帰する者たちが多くなるように、ということです。

電球が一つである時よりも、いくつも集まればその光がより強くなるように、神の栄光を現す存在たちが増え、満ちて地を満たすようになれば、神の栄光がより豊かに現されるからです。

 

そしてすべての被造物を治め、征服し、神の創造の目的から逸脱しないようにと、人間に命じられたのです。

ですから人間もまた、神の栄光のために存在するのです。

このように人間は、本来、自分のために生きる存在ではありません。

人間がこのように利己的な存在となったのは、まさに堕落の結果なのです。

それゆえ新たに回復され、新たに創造された新しい人々は、自己のために生きていた人生から、隣人と神の栄光のために生きるようになるのです。

このように人間が万物の頭となって彼らを治め、神の栄光をより豊かに現す役割を委ねられていたため、すべての万物は人間に従うことになっていたのです。

 

アダムが獣たちの名をつける時、獣たちに「さあ、名をつけてやろう。二匹ずつ出て来い」と言うと、すべての獣がそれに従ったでしょう?

ところが人間は堕落しました。

それゆえ、神の神性の中で統一された連合の関係を維持し、神の栄光を賛美し誇りとするべき万物の統一性が壊れてしまったのです。

 

そこで神は地を呪われます。

地とは、すべての万物の存在の基盤なのです。

 

すべての万物が土で造られたため、地が呪われたということは、すべての万物が人間とともに呪われたということなのです。

こうして今、人間に支配されるべき獣たちを含む自然が、人間を攻撃し始めたのです。

神の栄光によって統一されていたその秩序が壊れてしまったのです。

それゆえ、ある学者は「人類の初期の歴史は自然との闘争の歴史である」とまで語ったのです。

人間が堕落した後、神の呪いが地に降りかかると、世界は「力の原理」で動く「弱肉強食」の世界となってしまいました。

強い者が弱い者を食い物にするのです。

韓国の放送で『楽しい動物の王国』という番組がありますね?皆さん、本当にその番組を見ていて楽しいですか?チーターがトナカイを追いかけ、首を噛みちぎり内臓まで食い荒らすあの場面が本当に楽しいですか?サルがリスを捕まえてグチャグチャと噛み砕いて食べるあの場面が本当に楽しいですか?ヒキガエルがヘビを捕食するあの場面が本当に楽しいですか?全く楽しくありません。

この世はただ自分自身のための闘争と争いで満ちた、まさに悪魔の世となってしまったのです。

 

この天地万物は神の栄光の輝きによって創造され、その天地万物はその中で神の御性質と神の力と神の知恵を現し、その神の栄光の前に従順に服し、その神の栄光を誇り賛美していた状態から、全てが神の栄光ではなく「自分自身」のために力を蓄え、他の存在を踏み潰すような状態へと堕ちてしまったのです。

 

それが今私たちが生きている古い天と古い地なのです。

 

では、新しい天と新しい地とはどのような地でしょうか。その天地万物が一つに再統一され、再び神の放つ栄光を満ち満ちて現し、その方に従順し、その方を誇り、その方を賛美する状態に回復されることが、新しい天と新しい地なのでしょう。それゆえイザヤ書では、その回復された地の調和を、幼子が毒蛇の穴に手を入れても傷つかず、獅子と子羊が共に住む場所として表現したのです。

再び本来の創造の目的に戻った状態を言っているのです。

 

しかし、万物が人間の堕落によって再び呪いを受けるべきではないでしょうか?

だからこそ、その新しい天と新しい地には、永遠に堕落することのない新しい人々が必要となったのです。

その新しい天と新しい地に必要な新しい人々を創造するために、神はイエス・キリストをこの地にお遣わしになったのです。

ですから、あなたがたは今や決して堕落することのない新しい被造物として再創造されたのです。神はこの堕落した世界の中に「教会」という神の国を建て、その中で再び一つに回復され再統一された被造物たちが、自己を否定し神のみを賛美しながら生きる姿を象徴として示し、経験させておられるのです。

それゆえエペソ書では教会を「キリストを頭とする一つのからだ」と表現しているのです。

そして彼らを救われた目的が、神の栄光を賛美させるためであると明確に記しているのです。

太初に万物がそのように創造されていたのです。

その回復される新しい天と新しい地の姿を、教会を通して示してくださるのです。

それゆえ、新しい被造物となった聖徒たちは、もはや神ではなく自らの栄光のために生きる堕落した古い天と古い地の秩序と原理から離れ、自らを低くし、自らを空しくし、ただ神の御言葉に完全に従順して神の栄光が現れる神の国における秩序と原理の中で生きるようになるのです。

そして、初めから意図されていた通り、神の栄光を現す存在たちを産み増やし、繁栄させて、神の栄光をより豊かに現す役割を果たしながら生きるようになるのです。

そこがまさに新しい天と新しい地なのです。

その人々がまさに「聖なる都、新しいエルサレム」なのです。

(イザヤ43:7)

7 わたしの名によって呼ばれる者、すなわち、わたしの栄光のために創造した者を、みな連れて来なさい。わたしは彼らを造り、彼らを立てたのだ。

ご覧なさい。

このように私たちは、その神の栄光のために創造された者たちなのです。

しかし、この人間たちは、言われることをせず、神の御性質と力と知恵に感嘆し、感激し、誇り、賛美するように造られた者たちであり、すべての被造物がそのように神の栄光を賛美するようになる、その場所こそが新しい天と新しい地なのです。

ですから、私は、この地上にすでに新しい天と新しい地が来ており、その新しい天と新しい地をすでに享受している人々がいると申し上げているのです。

(エペソ1:11-12)

11 すべてのことを御心のままに働かせられる方の御旨に従って、私たちはあらかじめ定められて、御子の中にあって嗣業を受けました。

12 これは、御子の中にあって、あらかじめ望まれていた私たちを、御子の栄光の賛美とするためです。

(エペソ1:14)

14 これは私たちの相続の保証となり、彼が得たものを贖い、彼の栄光を賛美させるためです。

ご覧ください。

これこそが私たちが救いを得る目的です。

確かに将来、あまりにも眩しい場所・空間・概念としての新しい天と新しい地が私たちに与えられるでしょう。

そこは本当に素晴らしいでしょう。

しかし、その場所は環境的にも条件的にもあまりに素晴らしい場所だから私たちの望みとなるのではなく、私たちの賛美を受けるにふさわしい私たちの神がおられる場所であるからこそ、あまりに素晴らしい場所なのです。

あなたがたがその良き栄光の神を今知っているなら、私たちは今この地でその新しい天と新しい地の市民のように生きることができます。

 

いや、生きるべきです。

すでにその国が来ているというのに、なぜその国を享受せず、依然として古い天と古い地の習慣に従って自らを虐げ、虹のような虚しい夢を追って疲れた人生を送るのですか?キリストにあって自由になりなさい。

その新しい天と新しい地の自由を味わいなさい。

 

ただ神のみを頼み、神のみに従い、神を誇り、神のみを賛美するその人生が、どれほど心安らかで爽快な人生であるか、あなたがたは知るべきです。

私たちがどんなに暴れても、神のその定めと予定の中から一歩も外れることはできないということを心に刻んでください。

 

今日の本文6節を見ると、神が「すべては成し遂げられた。

私はアルファでありオメガ、初めであり終わりである」とおっしゃっていますね?神が始められ、神が終えられます。

そしてその方はすでにすべてを成し遂げられました。

この歴史そのものが、アルファでありオメガである神によって導かれているのです。

 

ですから、その歴史の中で、悪魔の惑わしに従って燃え尽きてしまうものに従わず、ただ神のみを礼拝し、神に従順であり、神を誇り、神を賛美する人生を歩んでください。

 

ある人が路地で草餅を売っていました。

商売がそこそこよくて、嬉しそうでした。

ところがしばらくすると、向こうの脇で誰かが全く同じ草餅を売り始めました。

ところがその人は自分より安く売り、草餅の味もより良かったため、すぐに客が皆その人に流れて行ってしまいました。

二人はすぐに襟首をつかんで喧嘩になりました。

「路地がここ一つしかないのか?なぜ他人の店の脇に来て同じ商売をして騒ぎを起こすんだ?」相手が言い返しました。

「この路地はお前のものか?」結局決着はつかず、二人は互いに善意の競争をしようと決め、値段も下げ、品質の良い草餅を売りました。

ところがその路地に、また別の草餅屋が現れました。

その人は看板を一つ書いて手押し車に貼り付けて来たのですが、その看板には『当店の草餅はあの二人の草餅とは質が違います。

私たちはアメリカ製バターに国産小麦粉のみを使用し、あんこもあの人たちより二倍もたっぷり入れています。

」と書かれていました。

すると客たちが皆、その店に殺到しました。

 

さて、何が起こったでしょうか?三人がもみ合いになって喧嘩しました。

 

ところが路地の向こうから黒い乗用車がやってきて、その草餅屋に『青瓦台から来ました。

大統領があなたを国務総理に任命されました。

あなたは来月から大韓民国の国務総理です』

と言いました。

その男は、まだあの草餅屋の場所のことで他の人たちと襟首を掴み合って争っていたでしょうか?その男は今や社会的体面を考慮しなければならない人物になったのです。

 

その人は他の二人を呼び寄せました。

「お前たち、そんな些細なことで争うな。この手押し車は君が持て、この練炭ストーブは君が持て。

そして争わず仲良くやれ」正常な理性を備えた人なら、誰もがこのような反応を示すでしょう。

 

皆さんは信仰を持つ人々です。

信仰とは見えないものを見る人々のことです。

 

皆さんは今日、信仰によって新しい天と新しい地の存在と、その地の市民としての皆さんを見ました。

皆さんはその新しい天と新しい地で永遠に王として治められる方々であり、今もその新しい天と新しい地を生きている方々です。

それなのに、まだ草やパンを売る場所のために争うような幼稚な人生を、本当に送っているのですか? 皆さんは、ご自身が創造の目的へと立ち返り、この天地万物が創造の目的へと立ち返ることができるように生きるべき、新しい被造物なのです。

 

新しい天と新しい地に入りたいですか? 今からその人生を生きなさい。

 

 

 

 (93) 이미 와 있는 새 하늘과 새 땅

 

 

(계21:1-8)

21:1 나는 새 하늘과 새 땅을 보았습니다. 이전의 하늘과 이전의 땅이 사라지고, 바다도 없어졌습니다.

21:2 나는 또 거룩한 도성 새 예루살렘이, 남편을 위하여 단장한 신부와 같이 차리고, 하나님께로부터 하늘에서 내려오는 것을 보았습니다.

21:3 그 때에 나는 보좌에서 큰 음성이 울려 나오는 것을 들었습니다. "보아라, 하나님의 1)집이 사람들 가운데 있다. 하나님이 그들과 함께 계실 것이요, 그들은 하나님의 백성이 될 것이다. 하나님이 친히 그들과 함께 계시고,2) 그, '장막',다른 고대 사본들은 절 끝에 '그들의 하나님이 되실 것이다'가 첨가되어 있음

21:4 그들의 눈에서 모든 눈물을 닦아 주실 것이니, 다시는 죽음이 없고, 슬픔도 울부짖음도 고통도 없을 것이다. 이전 것들이 다 사라져 버렸기 때문이다."

21:5 그 때에 보좌에 앉으신 분이 말씀하셨습니다. "보아라, 내가 모든 것을 새롭게 한다." 또 말씀하셨습니다. "기록하여라. 이 말은 신실하고 참되다."

21:6 또 나에게 말씀하셨습니다. "다 이루었다. 나는 알파며 오메가, 곧 처음이며 마지막이다. 목마른 사람에게는 내가 생명수 샘물을 거저 마시게 하겠다.

21:7 이기는 사람은 이것들을 상속받을 것이다. 나는 그의 하나님이 되고, 그는 내 자녀가 될 것이다.

21:8 그러나 비겁한 자들과 신실하지 못한 자들과 가증한 자들과 살인자들과 음행하는 자들과 마술쟁이들과 우상 숭배자들과 모든 거짓말쟁이들이 차지할 몫은, 불과 유황이 타오르는 바다뿐이다. 이것이 둘째 사망이다."

 

 

우리는 지난주에 요한 계시록 21장 서두의 새 하늘과 새 땅에 관해 현대 신학이 어떤 해석을 하고 있는가를 두 가지로 나누어서 살펴보았습니다. 현대 신학은 새 하늘과 새 땅을

‘완전 소멸 설’과 ‘갱신 설’로 설명을 하고 있는데 지금은 많은 분들이 ‘갱신 설’로 돌아섰다는 것을 말씀드렸습니다. ‘갱신 설’이란 하나님께서 우리 성도들에게 유업으로 주실 새 하늘과 새 땅은 지금의 우주와 전혀 다른 차원의 새로운 것이 아니라 연속성을 가지고 있는 것이라는 주장이 ‘갱신 설’입니다. 그러나 ‘갱신 설’이든 ‘완전 소멸 설’이든 그런 것이 중요한 것이 아니라 그 새 하늘과 새 땅은 하나님이 우리와 영원히 함께 거하시는 곳이며, 죄가 없는 곳이며, 그 곳의 삶의 원리는 ‘힘의 원리’로 대표되는 이 땅의 삶의 원리와 정 반대의 것으로 사는 곳이라는 것이 중요한 것이라고 했습니다.

오늘은 그 새 하늘과 새 땅이 가지고 있는 영적 의미에 대해 공부를 하겠습니다. 왜냐하면 계시록 21장의 새 하늘과 새 땅은 사실 공간적이며 장소 적인 면 보다는 구원받은 성도의 상태에 더 초점을 두고 있기 때문입니다.

분명 그 새 하늘과 새 땅은 미래의 어느 날 우리 성도들에게 주어질 공간 적이며 장소 적인 곳입니다. 그러나 성경은 ‘지금 이 가시적인 역사와 이 처음 땅, 처음 하늘 아래에도 새 하늘과 새 땅이 와 있다‘라고 이야기하고 있습니다.

 

(마4:17)

17 이때부터 예수께서 비로소 전파하여 가라사대 회개하라 천국이 가까왔느니라 하시더라

 

예전에도 한 번 설명해 드렸지만 이 구절에서 ‘가까이 왔다‘라고 번역이 된 ’엥기켄‘은 ’엥기조‘라는 동사의 직설법 완료형입니다. 그러니까 좀 더 정확하게 번역을 하면 ’회개하라 천국이 와 있다‘라는 뜻이 되는 것입니다. 예수 그리스도가 오신 것을 ’천국이 왔다’라고 표현을 합니다.

 

(눅17:20-21)

20 바리새인들이 하나님의 나라가 어느 때에 임하나이까 묻거늘 예수께서 대답하여 가라사대 하나님의 나라는 볼 수 있게 임하는 것이 아니요

21 또 여기 있다 저기 있다고도 못하리니 하나님의 나라는 너희 안에 있느니라

 

여기도 보면 주님께서 ‘하나님 나라는 너희 안에 와 있다‘라고 표현을 하십니다.

게다가 성경은 그 새 하늘과 새 땅에서 살 새 사람들이 이미 이 역사 속에 존재하고 있다고 합니다.

 

(고후5:17)

17 그런즉 누구든지 그리스도 안에 있으면 새로운 피조물이라 이전 것은 지나갔으니 보라 새것이 되었도다

 

'there is nothing new under the sun'의 상태에서 ‘there is something new under the sun' 이 된 것입니다. 이렇게 하나님 나라, 즉 새 하늘과 새 땅은 이미 영적으로 우리 가운데 와 있으며 우리 새 사람들은 그 하나님 나라를 이 옛 하늘과 옛 땅에서 경험 할 수 있다는 것입니다.

그러면 어떻게 그게 가능하지요? 지금 읽었던 고후5:17 절에 그 답이 나옵니다. ‘그리스도 안에 있으면’ 우리 성도들은 그리스도 안에서 새 사람이 되는 것이고, 그리스도 안에서 사망도 없고 애통함도 없고 곡하는 것도 없고 눈물도 없고 아픔도 없는 새 하늘과 새 땅을 경험할 수 있다는 것입니다. 성경은 우리 성도들이 구원을 받는 순간 이미 하늘나라에 앉아 있는 것이라고 이야기합니다.

 

(엡2:5-6)

5 허물로 죽은 우리를 그리스도와 함께 살리셨고 (너희가 은혜로 구원을 얻은 것이라)

6 또 함께 일으키사 그리스도 예수 안에서 함께 하늘에 앉히시니

 

이렇게 우리 성도들은 이미 영적으로 하늘에 앉아 있는 존재가 되었습니다.

그리고 우리가 지난 시간에 찾아 읽었던 이사야서65장의 새 하늘과 새 땅의 이야기도 사실은 메시아가 오심으로 이루어질 세상을 상징적으로 표현한 것입니다.

 

(사65:17-18)

17 보라 내가 새 하늘과 새 땅을 창조하나니 이전 것은 기억되거나 마음에 생각나지 아니할 것이라

18 너희는 나의 창조하는 것을 인하여 영원히 기뻐하며 즐거워 할 지니라 보라 내가 예루살렘으로 즐거움을 창조하며 그 백성으로 기쁨을 삼고

 

이사야는 오실 메시아를 소망하던 시대를 살았던 사람입니다. 이사야는 메시아가 오시면 지금과는 완전히 다른 세상이 임할 것이라는 것을 외치고 있는 것입니다. 그러니까 이 이사야의 예언은 장차 올, 장소 적이며 공간적인 새 하늘과 새 땅을 상징적으로 표현하는 동시에 메시아로 말미암아 구원받은 성도들의 삶 속에서 구현되게 될 이 땅에서의 새 하늘과 새 땅의 삶을 동시에 상징하고 있는 것입니다.

그러니까 새 하늘과 새 땅은 이미 영적으로 이 옛 하늘과 옛 땅 안에서 시작이 된 것입니다.

 

(골1:13-14)

13 그가 우리를 흑암의 권세에서 건져내사 그의 사랑의 아들의 나라로 옮기셨으니

14 그 아들 안에서 우리가 구속 곧 죄 사함을 얻었도다

 

이거 보세요. 우리 성도들은 이미 하나님 나라로 옮겨졌습니다. 그러한 추상적인 개념을 경험적이며 실제적으로 설명하고 이해한다는 것이 참 힘듭니다. 그래서 제가 ‘하나님 나라’를 통치의 개념으로 설명을 해 드린 것입니다.

사람이 어떤 나라에 속해 있다는 것은 그 나라의 법과 질서를 좇아 사는 것을 의미합니다. 여러분이 세상 나라에 속해 있을 때에는 세상의 법과 질서인 ‘나의 이익과 힘의 원리’를 좇아 사셨습니다. 그런데 아들의 나라로 옮겨진 다음에는 그 아들의 나라의 법과 질서인 ‘나의 희생과 내 이웃의 유익, 그리고 하나님께 영광’이라는 새로운 법과 질서 속에서 살게 되지요. 그 삶이 바로 새 하늘과 새 땅, 하나님 나라의 삶인 것입니다. 여러분이 지금 그러한 하나님 나라의 질서 속에서 잘 살아내고 있다면 여러분은 그 삶 속에서 하나님만이 주실 수 있는 평안과 기쁨과 행복을 누리며 살고 계실 것입니다. 우리 주위에도 늘 희생하시고 손해 보시고 섬기 시면서도 항상 행복하신 분들이 계시잖아요. 바로 그 삶이 이 땅에 시작된 새 하늘과 새 땅의 삶인 것입니다. 그 새 하늘과 새 땅의 삶의 원리인 ‘나의 희생과 내 이웃의 유익, 하나님께 영광’이라는 원리로 살아가는 사람들 속에 다툼과 애통함과 슬픔이 사라지게 되는 것입니다. 왜냐하면 그러한 삶의 원리로 사는 사람들에게는 더 이상 상대적인 빈곤이나 상대적인 부끄러움이나 나의 유익을 위해 다른 이들을 밟아야 하는 그런 부담이 없기 때문입니다.

우리 인간들이 왜 슬프고 애통하고 고통스러워합니까? 그 삶의 중심이 ‘나’이기 때문입니다. 철저한 이기심이 오히려 ‘나’를 고통스럽게 만드는 것입니다. 다른 사람보다 내가 더 손해 보는 것 같고 다른 사람과 비교해서 그 사람들 보다 내가 덜 행복한 것 같고, 다른 사람들 보다 내가 더 희생하는 것 같아서 생기는 것 아닌가요? 그러나 ‘나의 희생과 내 이웃의 유익, 하나님께 영광’이라는 하나님 나라의 삶의 원리가 점차 익숙해지게 되면 그런 것이 나를 애통하게 하지 못합니다. 그런 것이 나를 슬프게 하지 못하는 것입니다. 그게 바로 새 하늘과 새 땅인 것입니다.

그렇게 사랑과 희생과 섬김이 있는 곳에 왜 갈등과 미움과 다툼과 경쟁이 있겠습니까?

그런데 현실은 그렇지 못하지요? 그 것은 우리가 지금은 죄에 오염된 이 연약한 옛 육신을 입고 있기 때문에 그런 것입니다. 우리 안에 여전히 죄에 대한 오염과 부패성이 남아 있기 때문에 우리는 아직도 고통과 슬픔과 눈물과 애통 속에서 살아가고 있지만 문득 문득 새 하늘과 새 땅의 삶의 원리와 그 나라의 질서 속에서 경험되는 말할 수 없는 평안과 행복과 감격이 우리에게 있지 않습니까? 바로 그 것이 새 하늘과 새 땅이 이 땅에 이미 시작되었다는 의미이고 이제 곧 그 나라가 완성이 될 것이라는 것이 오늘 본문이 우리에게 주는 위로요 격려인 것입니다.

 

이렇게 새 하늘과 새 땅은 ‘언젠가 오게 될 장소 적이며 공간 적인 좋은 나라‘만을 상징하는 것이 아니라 지금 새 나라의 원리와 질서로 살고 있는 우리 교회 안에 이미 시작된 나라를 동시에 상징하는 것입니다. 누누이 강조하지만 여러분은 천국을 공간적, 물질적 개념으로 그리고 계시면 안 됩니다. 그 것은 헬라의 공간적 이원론입니다. 우리 기독교는 시간 적 이원론이라는 것을 절대 잊지 마세요. 그래서 우리 주님께서 우리에게 가르쳐 주신 기도에서 ’나라이 임하옵시며‘라는 대목이 나오는 것입니다. 그 기도는 ’하루 속히 그 하나님의 통치를 기뻐하며 그 나라의 질서에 순종하는 자로 만들어 주소서’라는 기도인 것입니다.

제가 왜 이 새 하늘과 새 땅을 지금 이 땅에 이미 임한 영적인 의미의 하나님 나라에 더 강조점을 두고 설명을 하는가 하면 말씀드린 대로 계시록 21장이 그 새 하늘과 새 땅을 장소 적이며 공간적인 것에 초점을 두고 설명하고 있지 않기 때문입니다.

 

(계21:1-2)

1 또 내가 새 하늘과 새 땅을 보니 처음 하늘과 처음 땅이 없어졌고 바다도 다시 있지 않더라

2 또 내가 보매 거룩한 성 새 예루살렘이 하나님께로부터 하늘에서 내려오니 그 예비한 것이 신부가 남편을 위하여 단장한 것 같더라

 

이 본문 1절과 2절을 그림으로 그려보면, 새 하늘과 새 땅이 있고 그 위에 거룩한 성 새 예루살렘이 하늘에서 내려와서 그 성안에서 우리 성도들이 살게 되는 듯한 인상을 받게 되지요? 그건 잘 못된 추측입니다. 정말 성경이 그런 그림을 보여주고 있는 것이라면 거룩한 새 하늘과 새 땅에 거룩한 새 예루살렘이 내려옴으로 해서 그 거룩한 새 하늘과 새 땅이 거룩한 새 예루살렘 성의 안과 밖으로 또 다시 거룩이 구분되는 모순이 있을 수밖에 없습니다. 그러니까 거룩한 성 새 예루살렘은 새로운 세계 안에 내려온 것이 아니라 새로운 세계 자체가 거룩한 성 새 예루살렘을 의미하는 것입니다.

다른 말로 새 하늘과 새 땅, 그리고 거룩한 성 새 예루살렘은 같은 것을 표현하고 있는 것이라는 말입니다. 그런데 계시록 21장9절과 10절을 보시면 그 거룩한 성 새 예루살렘이

‘어린양의 신부‘ 라고 합니다. 그러니까 그 거룩한 성 새 예루살렘, 새 하늘과 새 땅이 무엇이라는 말입니까? 장소 적이며 공간적인 화려한 어떤 곳을 말하는 것이 아니라 바로 교회를 상징하고 있는 것입니다. 그러니까 새 하늘과 새 땅은 교회가 살게 될 곳에 초점이 있는 게 아니라 새로운 나라의 질서와 원리로 살게 될 백성들 자신에게 초점이 있는 것입니다.

 

(계21:9-10)

9 일곱 대접을 가지고 마지막 일곱 재앙을 담은 일곱 천사중 하나가 나아와서 내게 말하여 가로되 이리 오라 내가 신부 곧 어린양의 아내를 네게 보이리라 하고

10 성령으로 나를 데리고 크고 높은 산으로 올라가 하나님께로부터 하늘에서 내려오는 거룩한 성 예루살렘을 보이니

 

그러면 그 예수 그리스도의 신부인 거룩한 성 새 예루살렘이 하늘로부터 내려온다는 것은 무슨 말인가? 새로운 하늘의 질서와 하늘의 원리로 살아갈 수 있는 교회는 스스로의 능력이나 스스로의 노력으로 만들어지는 것이 아니라 하늘에서 하나님께서 만들어 내시는 거라는 의미입니다.

그렇다면 왜 교회를 ‘새 예루살렘’이라는 단어로 표현을 할까요?

예루살렘은 ‘평화의 터전‘이라는 뜻입니다. 왜 예루살렘이 평화의 터전이 되었습니까? 오 예루살렘이 다른 도시들과 구별이 되었던 것이지요? 그 예루살렘 안에 하나님의 임재를 상징하는 거룩한 성전이 있기 때문입니다. 그렇다고 성전 자체가 예루살렘을 예루살렘으로 만들 수는 없는 것입니다. 성전 안에는 언약궤가 있지요? 바로 그 언약궤가 성전을 성전답게 만드는 것입니다. 그 언약궤가 하나님이 함께 하심의 의미를 갖고 있는 것이기 때문에 성전이 성스러운 곳이 되는 것이고 그 성전이 있는 예루살렘이 평화의 터전이 되는 것입니다.

하나님의 함께 하심의 의미가 왜 언약궤를 통해서 나타나는 것인지는 다 아시지요?

인간이 죄를 짓고 난 후 죄인들은 절대 하나님과 함께 할 수가 없었습니다. 다른 말로 하나님과의 평화의 관계가 깨어져 버린 것입니다. 그런데 인간의 실패와 실수를 상징하는 ‘아론의 싹 난 지팡이와, 모세의 십계명 돌 판과, 만나 항아리’를 감싸고 있는 어떤 존재의 죽음으로 말미암아 그 인간의 죄악들이 그 존재의 피 아래로 감추어지고 하나님이 그 죄인들과의 평화의 관계를 회복하시는 예수 그리스도의 십자가의 죽음이 바로 언약 궤 안에 상징으로 들어 있기 때문에 그 언약 궤 안에 하나님의 함께 하심과 하나님과의 평화가 나타나는 것입니다. 그래서 언약궤가 들어 있는 곳이 성전이 되는 것이고 그 성전이 있는 곳이 ‘예루살렘‘ ‘평화의 터전’이 되는 것입니다.

왜 어린양의 신부인 교회를 ‘거룩한 성 새 예루살렘’이라고 부르는지 아시겠지요?

교회가 바로 그 예수 그리스도의 보혈로 말미암아 하나님과 화평케 된 사람들을 말하는 것이기 때문에 그들은 하나님과 화평한 자들이 된 것이고 이제 그들과 함께 하나님께서 영원히 함께 거하실 수 있게 되었기 때문에 교회를 ‘하늘에서 내려오는 거룩한 성 새 예루살렘’이라고 부르는 것입니다. 그 거룩한 성 새 예루살렘이 장소 적이며 공간적인 것 보다 교회, 즉 하나님의 백성들을 상징하고 있다는 증거가 21장22절에 나옵니다. 거기에 보면 ‘그 새 예루살렘 안에는 성전이 없더라, 하나님과 예수님이 성전이더라.’는 구절이 나오지요? 그런데 11장19절에 보면 분명 하늘에 성전이 있고 그 성전 안에 언약궤가 보였다고요. 그러니까 여기 21장의 새 하늘과 새 땅 그리고 새 예루살렘은 주님과 함께 거하는 하나님의 백성들이라는 것에 더 초점을 두고 설명을 하고 있는 것입니다. 그렇게 예수 그리스도의 보혈의 공로로 하나님과 화평하게 되고 하나님과 함께 거하게 된 사람들이 이 땅에 있습니까? 없습니까? 있지요? 이렇게 새 하늘과 새 땅은, 새 예루살렘은 분명 이 땅에 존재한다는 것입니다.

 

그러니까 오늘 본문에 등장하는 새 하늘과 새 땅, 거룩한 성 새 예루살렘은 언젠가 우리에게 유업으로 주어질 장소 적이며 공간적인 곳이라는 것에 강조점이 있는 것이 아니라, 물론 그 나라는 너무나 좋을 거예요. 그러나 오늘 본문은 그러한 외적인 환경이나 조건의 화려함으로 우리에게 기대를 격발 시키고 격려하려는 것이 아니라, 그 새 하늘과 새 땅, 새 예루살렘은 하나님의 은혜로 말미암아 하나님과 화평케 된 어린양의 신부들이 자기의 유익을 위해 자신의 힘을 축적하는 그 삶 속에서 벗어나 오직 하나님께만 순종하고 하나님만 의지하는 그러한 참 행복이 넘치는 곳이라는 것을 더 강조하고 있는 것입니다.

 

그리고 제가 아울러 강조하고 싶은 것은 바로 그 새 하늘과 새 땅의 삶을 우리가 이 땅에서 시작해야 한다는 것입니다.

여러분 한번 생각해 보세요. 새 하늘과 새 땅의 개념이 장소 적이며 공간 적인 화려함과 유익함보다 그 새 나라의 질서와 원리에 순복 하는 사람들의 상태에 더 초점이 있는 것이라면 우리는 분명 이 땅에서 그 새 나라를 조금이나마 경험할 수 있다는 거라는 말이지요? 그리고 그 새 세상이 주는 행복과 감격을 조금이라도 맛본 사람만이 그 나라를 소망할 수 있게 되는 것입니다.

우리가 이 땅에서 그 하늘의 질서와 원리에 순복 하는 삶을 조금이라도 맛보지 못하고 어떻게 그 새 하늘과 새 땅을 간절히 소망할 수 가 있겠습니까? 먹어보지도 못한 것을 머리에 떠올리며 침을 흘릴 수가 있나요? 사람은 절대 미리 경험하거나 맛보지 않은 것을 간절히 소망할 수 없습니다. 그래서 제가 여러분에게 ‘하나님의 말씀을 잘 배우고 익혀서 그 말씀에 순종하며 살아보자‘라고 외치는 것입니다. 우리가 옛 날에는 전혀 꿈도 못 꾸던 그런 삶, 내가 져 주고, 내가 희생하고, 내가 손해 보아 다른 이들이 이익을 보는 그런 삶을 한번 살아 보자는 것입니다. 그래서 새 하늘과 새 땅의 삶이 얼마나 행복한 것인지를 미리 조금씩 알아가자는 것입니다. 그 것이 바로 기독교인 것입니다.

하나님을 이용해서 여러분의 소원 성취를 하고 여러분의 문제 해결을 받는 것이 기독교가 아니라 하나님의 은혜로 구원을 얻은 자들이 이 땅에서 하나님 나라의 삶의 원리와 그 나라의 질서 속으로 들어가서 하나님의 통치를 기꺼이 받는 훈련을 하는 것이 바로 신앙생활인 것입니다.

 

마지막으로 창세기부터 시작해서 이 새 하늘과 새 땅까지의 결론이 어떻게 도출이 되는지를 간단하게 설명해 드리고 마치도록 하겠습니다.

먼저 하나님께서 ‘왜 이 천지를 창조하셨는지’ 에서부터 출발을 해야 합니다.

하나님께서 왜 이 천지를 지으셨습니까? 왜 인간을 지으셨지요?

여러분을 잘 먹고 잘 살게 해 주시기 위해서 입니까? 아니면 여러분을 구원하시려고?

그 것을 이해하기 위해서는 철학의 존재론을 이해하셔야 합니다.

여러분, 존재라는 것을 한번 생각해 보세요. 존재 중에 특히 살아 있는 존재를 생각해 보십시오. 그 살아있는 존재라는 것은 고정된 것입니까? 아니면 흐르는 양태입니까? 예를 들어 꽃이라는 존재가 있습니다. 10분 전의 꽃과 10 분 후의 꽃은 같은 꽃입니까? 아니면 다른 꽃입니까? 본질의 면에서는 같은 꽃이지만 그 꽃은 끊임없이 변하고 있지요?

꽃봉오리가 생기고 꽃이 피고 열매가 맺히고 열매가 떨어지고 낙엽이 지고 다시 새순이 돋고 꽃은 이렇게 계속해서 자기 존재의 특징을 밖으로 발산을 하고 있습니다.

새도 마찬가지이고 물고기도 마찬가지입니다. 이 땅에 살아있는 존재는 모두 다 자기가 가진 고유의 특징을 밖으로 발산을 하고 있습니다. 그러니까 존재라는 것은 본질의 측면에서는 고정된 것이지만 엄밀히 말해 흐르고 있는 것입니다.

하나님은 신성으로 충만하신 존재이십니다. 하나님이라는 존재 역시 하나님 고유의 특징인 그 충만한 신성을 밖으로 발산을 하십니다. 그게 바로 하나님의 영광입니다.

그 하나님의 신성이, 다른 말로 하나님의 영광이 밖으로 발산이 되어 만들어 진 것이 바로 천지 창조입니다. 그러니까 꽃이 꽃의 특징을 밖으로 발산하는 것처럼 하나님의 하나님 되심이 발산되어 표현되어진 것이 바로 ‘천지 만물’인 것입니다.

 

(롬1:20)

20 창세로부터 그의 보이지 아니하는 것들 곧 그의 영원하신 능력과 신성이 그 만드신 만물에 분명히 보여 알게 되나니 그러므로 저희가 핑계치 못할지니라

 

그러니까 천지 창조라는 것은 하나님의 신성이 밖으로 발산이 되어 하나님의 하나님 되심과 하나님의 능력과 성품과 지혜가 만물에 입혀지고 그 하나님의 영광을 입은 만물 자체가 하나님의 능력과 성품과 지혜를 그 만물을 통하여 반사하도록 의도되어진 것입니다. 그 것을 다른 말로 ‘찬양’이라고 합니다. 그러니까 찬양이라는 것은 하나님의 능력과 성품과 지혜가 만물 속에 나타나는 것입니다. 그 것을 또 다른 말로는 ‘하나님께 영광을 돌린다.’라고도 표현을 하는 것입니다. 그러니까 여러분이 하나님께 찬양을 하고 영광을 돌린다는 것은 하나님의 성품과 지혜가 여러분의 삶 속에서 나타나는 것을 말하는 것입니다. 이렇게 천지 창조의 주인공은 ‘하나님’이십니다. 그래서 성경은 천지 만물이 ‘하나님을 위해서 지어졌다‘라고 이야기하는 것입니다. 그렇게 천지 만물은 하나님의 신성의 발산으로 창조되었고 그 신성의 영광을 받아 신성 안에서 하나로 묶여졌으며 그 하나로 묶여진 천지 만물은 그 하나님의 영광을 반사하는 것, 다른 말로 찬양하는 것이 바로 천지 창조의 목적인 것입니다.

 

조금 이해하기 쉽게 설명을 해 드리겠습니다.

여기 태양이 있습니다. 그 태양이라는 본체가 존재하고 그 태양에서는 빛이 발산됩니다. 그 태양에서 발산되는 빛에 의해 천지 만물의 색깔이 나타나는 것입니다. 어떤 물체가 갖고 있는 ‘색’이라는 것은 그 물체가 태양 빛을 받았을 때 태양 빛이 갖고 있는 수많은 색 중에 그 물체가 반사하는 색이 밖으로 표출되는 것을 말하는 것입니다. 그러니까 ‘색‘이라는 것은 곧 태양의 존재를 증거 하는 것입니다.

머릿속으로 그림을 잘 그려보세요. 태양이라는 본체가 있고 그 본체에서 발산되는 빛이 있고 그 빛을 반사하는 물체가 있습니다.

그 그림 안에 천지 창조를 가져다 넣어 보십시오.

신성으로 충만하신 하나님이라는 영광의 본체에서 신성이 발산이 됩니다. 그 신성은 만물을 하나로 묶으십니다. 하나님께서 성령을 통해 그 만물 안에 충만한 신성을 나타내시는 것을 우리는 성령 안에서 한 몸이 된다고 말하는 것입니다. 성령의 영향 아래에 있다는 것이 성령으로 묶여 있다는 의미이니까요. ‘그렇게 성령에 의해 하나로 묶여진 만물에 하나님의 신성이 충만하게 입혀지고 만물은 자기들에게 나타난 그 충만한 신성을 드러내게 되는 것, 다른 말로 하나님의 영광을 찬양하는 것‘ 이것이 바로 천지 창조의 목적인 것입니다.

그래서 창조의 목적을 때로는 ‘우리의 거룩’이라고도 말하는 것입니다. 우리의 거룩이 바로 하나님의 성품을 드러내는 것이니까요.

그래서 성경에 언급되는 하나님의 영광은 세 가지로 나뉘어서 언급이 되는 것입니다.

먼저 하나님 자신 안에 충만히 들어있는 영광이 있지요. 그 것을 신학에서는 ‘본체 적 영광’이라고 부릅니다. 그리고 그 본체 적 영광 안에서 밖으로 흘러나오는 하나님의 영광을 ‘발산적 영광‘이라고 부릅니다. 그리고 그 발산적 영광을 인식한 피조물들의 반응을 ’효과적 영광’ 이라고 부릅니다. 제가 이 부분에 대해서는 이번 주 수요 성경 공부, 요한복음 강해 때 ‘빛으로 오신 예수 그리스도’를 설명하면서 자세하게 다루어 드리도록 하겠습니다. 지금은 그냥 잘 들어두세요.

 

그 속에서 인간이 하는 역할은 그 발산된 하나님의 신성, 다른 말로 하나님의 발산적 영광에 반응하는 피조물들에게서 나오는 효과적 영광을 더욱 빛나게 하고 풍성하게 하는 만물의 머리로 세워진 것입니다. 그래서 창세기 1장에서 하나님께서 인간들에게 ‘생육하고 번성해서 땅에 충만 하라, 땅을 정복하라‘ 고 명령하신 것입니다. 생육하고 번성해서 하나님을 찬양하고 그 분께 영광을 돌리는 자들이 많아지게 하라는 것입니다. 전등이 하나일 때 보다 여러 개가 모이면 그 빛이 더 하듯이 하나님의 영광을 드러내는 존재들이 생육하고 번성해서 땅에 충만해 지게 되면 하나님의 영광이 더욱 더 풍성하게 드러나게 되니까요.

그리고 모든 피조물들을 다스리고 정복해서 그 하나님의 창조의 목적 안에서 이탈하지 못하도록 인간에게 명령하신 것입니다. 그러니까 인간도 하나님의 영광을 위해 존재하는 것입니다. 이렇게 인간은 원래 자기를 위해서 사는 존재가 아닙니다. 인간이 이렇게 이기적인 존재가 된 것은 바로 타락의 결과인 것입니다. 그래서 새롭게 회복이 되고 새롭게 창조된 새 사람들은 자기를 위해 살던 삶에서 내 이웃과 하나님의 영광을 위해 살게 되는 것입니다. 그렇게 인간이 만물의 머리가 되어서 그들을 다스리며 하나님의 영광을 더욱 풍성하게 드러내는 역할이 맡겨져 있었기 때문에 모든 만물은 인간에게 복종하게 되어 있었습니다.

아담이 짐승들의 이름을 지을 때 짐승들한테 ‘자 이름을 지어 줄 테니 둘 씩 둘 씩 나와라’하니까 모든 짐승들이 거기에 순종했지요?

그런데 인간이 타락을 했습니다. 그래서 하나님의 신성 안에서 통일된 연합의 관계를 유지하며 하나님의 영광을 찬양하고 자랑해야 할 만물의 통일됨이 깨져 버린 것입니다.

그래서 하나님은 땅을 저주하십니다. 땅이라는 것은 모든 만물의 존재의 기반인 것입니다.

모든 만물이 흙으로 지어졌기 때문에 땅이 저주를 받았다는 것은 모든 만물이 인간과 함께 저주를 받았다는 것이지요. 그래서 이제 인간에게 다스림을 받아야 할 짐승들을 비롯한 자연이 인간을 공격하기 시작한 것입니다. 하나님의 영광으로 통일이 되었던 그 질서가 깨져 버린 것입니다. 그래서 어떤 학자는 ‘인간의 초기 역사는 자연과의 투쟁의 역사다‘ 라고까지 이야기를 한 것입니다. 인간이 타락을 한 후 하나님의 저주가 땅에 떨어지자 세상은 ’힘의 원리’로 움직여지는 ‘약육강식’의 세상이 되어 버렸습니다. 강한 자가 약한 자를 잡아먹는 것입니다.

 

한국 방송 중에 ‘즐거운 동물의 왕국‘이라는 프로가 있지요? 여러분 정말 그 프로를 보고 있으면 즐거우세요? 치이타가 순록을 쫓아가서 목을 물어뜯고 내장까지 파먹는 그 장면이 정말 즐거우십니까? 원숭이가 다람쥐를 잡아서 어적어적 씹어 먹는 그런 장면이 정말 즐거우세요? 두꺼비가 뱀을 잡아먹는 그런 장면이 정말 즐거우세요? 하나도 즐겁지 않습니다. 이 세상은 오직 자기 자신만을 위한 투쟁과 다툼으로 가득 찬 그런 마귀의 세상이 된 것입니다.

이 천지 만물은 하나님의 영광의 발산으로 창조되었고 그 천지 만물은 그 안에서 하나님의 성품과 하나님의 능력과 하나님의 지혜를 나타내고 있었으며 그 하나님의 영광 앞에 순복 하며 그 하나님의 영광을 자랑하고 찬양하던 상태에서 모두가 하나님의 영광이 아닌 ‘자기 자신‘을 위해 힘을 쌓아 다른 존재들을 밟아버리는 그런 상태로 떨어져 버린 것입니다.

그게 지금 우리가 살고 있는 옛 하늘과 옛 땅인 것입니다.

그럼 새 하늘과 새 땅은 어떤 땅이겠습니까? 그 천지 만물이 하나로 재통일되어서 다시 하나님의 발산적 영광을 충만히 드러내고 그 분께 순종하며 그 분을 자랑하며 그 분을 찬양하는 상태로 회복되는 것이 새 하늘과 새 땅이겠지요? 그래서 이사야서에서 그 회복된 땅의 하모니를 어린아이가 독사 굴에 손을 넣어도 다치지 않고 사자와 어린양이 함께 거하는 곳이라고 표현을 한 것입니다. 다시 원래의 창조의 목적으로 돌아간 상태를 말하는 것이지요.

그런데 그 만물이 인간의 타락으로 또 저주를 받으면 안 되지 않습니까?

그래서 이제 그 새 하늘과 새 땅에는 영원히 타락하지 않을 수 있는 새로운 사람들이 필요하게 된 것입니다. 그 새 하늘과 새 땅에 필요한 새 사람들을 창조해 내시기 위해 하나님께서 예수 그리스도를 이 땅에 보내신 것입니다. 그래서 여러분이 이제 절대 타락할 수 없는 새로운 피조물로 재창조 된 것이고 하나님은 이 타락한 세상 속에서 ‘교회’라는 하나님 나라를 세우시고 그 안에서 다시 하나로 회복되고 재통일된 피조물들이 자기를 부인하고 하나님만을 찬양하며 사는 모습을 상징으로 보여주시고 경험하게 하시는 것입니다. 그래서 에베소서에서 교회를 ‘그리스도를 머리로 한 한 몸‘이라고 표현을 하는 것입니다. 그리고 그들을 구원하신 목적이 하나님의 영광을 찬양하게 하려 함이라고 명확하게 기술하는 것입니다. 태초에 만물이 그렇게 창조되었던 것입니다. 그 회복될 새 하늘과 새 땅의 모습을 교회를 통해 보여주시는 것입니다.

 

그래서 새로운 피조물이 된 성도들은 이제 하나님이 아닌 자신의 영광을 위해서만 살아가는 타락한 옛 하늘과 옛 땅의 질서와 원리에서 벗어나 자신이 낮추어 지고 자신이 비워지며 오직 하나님의 말씀에 전적으로 순종하여 하나님의 영광이 드러나는 하나님 나라의 질서와 원리 안에서 살게 되는 것입니다. 그리고 애초에 의도된 대로 하나님의 영광을 드러내는 존재들을 생육시키고 번성케 해서 하나님의 영광을 더욱 풍성히 드러내게 하는 역할을 하며 살게 되는 것입니다. 거기가 바로 새 하늘과 새 땅인 것입니다. 그 사람들이 바로 ‘거룩한 성 새 예루살렘’인 것입니다.

 

(사43:7)

7 무릇 내 이름으로 일컫는 자 곧 내가 내 영광을 위하여 창조한자를 오게 하라 그들을 내가 지었고 만들었느니라

 

보세요. 이렇게 우리는 그 하나님의 영광을 위해 창조된 자들인 것입니다. 그런데 이 인간들이 말라는 것을 하지 않으며 그 하나님의 성품과 능력과 지혜에 감탄하며 감격하며 자랑하고 찬양하게 지어진 자들이고 모든 만물이 그렇게 하나님의 영광을 찬양하게 되는 그 곳이 바로 새 하늘과 새 땅인 것입니다. 그래서 저는 이 땅에 이미 새 하늘과 새 땅이 와 있으며 그 새 하늘과 새 땅을 벌써 누리고 있는 사람들이 있다고 말씀을 드리는 것입니다.

 

(엡1:11-12)

11 모든 일을 그 마음의 원대로 역사하시는 자의 뜻을 따라 우리가 예정을 입어 그 안에서 기업이 되었으니

12 이는 그리스도 안에서 전부터 바라던 우리로 그의 영광의 찬송이 되게 하려 하심이라

(엡1:14)

14 이는 우리의 기업에 보증이 되사 그 얻으신 것을 구속하시고 그의 영광을 찬미하게 하려 하심이라

 

보세요. 이게 바로 우리가 구원을 얻게 된 목적입니다. 분명 장래에 너무나도 눈부신 장소 적 공간 적 개념의 새 하늘과 새 땅이 우리에게 주어질 것입니다. 거긴 너무나 좋을 거예요. 그러나 그 곳은 환경 적으로 조건적으로 너무나 좋은 곳이어서 우리의 소망이 되는 곳이 아니라 우리의 찬양을 받으시기에 합당하신 우리 하나님이 계신 곳이기 때문에 너무나 좋은 곳인 것입니다. 여러분이 그 좋으신 영광의 하나님을 지금 알고 계시다면 우리는 지금 이 땅에서 그 새 하늘과 새 땅의 시민처럼 살 수 있습니다.

아니 살아야 합니다. 이미 그 나라가 와 있다고 하는데 왜 그 나라를 못 누리시고 여전히 옛 하늘과 옛 땅의 습관을 좇아 자신을 학대하고 무지개 같은 헛된 꿈을 좇아 고단한 삶을 사십니까? 그리스도 안에서 자유로워지십시오. 그 새 하늘과 새 땅의 자유를 맛보십시오.

오직 하나님만 의뢰하고 하나님께만 순종하며 하나님을 자랑하고 하나님만 찬양하는 그 삶이 얼마나 속편하고 짜릿한 삶인지 여러분은 아셔야 합니다. 우리가 아무리 발버둥 쳐 봐도 하나님의 그 작정과 예정 속에서 한 발짝도 벗어날 수 없다는 것을 명심하십시오.

오늘 본문 6절을 보시면 하나님께서 ‘다 이루었다. 나는 알파와 오메가요 처음과 나중이라’고 하시지요? 하나님이 시작하시고 하나님께서 끝내실 것입니다. 그리고 그 분이 이미 다 이루어 놓으셨습니다. 이 역사 자체가 알파와 오메가이신 하나님에 의해 끌려가고 있는 것입니다.

그러니까 그 역사 안에서 마귀의 미혹을 좇아 불타버릴 것들 좇지 마시고 오직 하나님만을 섬기며 하나님께 순종하며 하나님을 자랑하며 하나님을 찬양하는 삶을 살아내십시오.

 

어떤 사람이 골목에서 풀빵을 팔고 있었습니다. 장사가 그런 대로 잘 되어서 신이 났습니다. 그런데 얼마 있다가 저 쪽 옆에서 어떤 사람이 똑같은 풀빵을 팔기 시작했습니다. 그런데 그 사람은 자기보다 더 싸게 팔고 풀 빵 맛도 더 좋아서 금방 손님들이 그 사람에게 다 몰려 가 버렸습니다. 두 사람은 곧 멱살을 잡고 싸우게 되었습니다. ‘골목이 여기 하나냐? 왜 남의 가게 옆에 와서 똑같은 장사를 하고 난리야?’ 상대방이 대꾸했습니다. ‘이 골목이 네 거야?’ 결국 결판은 나지 않았고 두 사람은 서로 열심히 선의의 경쟁을 하기로 하고 값도 내리고 품질도 좋은 풀빵을 팔았습니다. 그런데 그 골목에 또 다른 풀 빵 장사가 나타났습니다. 그 사람은 간판을 하나 써서 손수레에 붙이고 왔는데 그 간판에는 ‘우리 집 풀빵은 저 두 사람의 풀빵과는 질이 다릅니다. 우리는 미제 버터에 국산 밀가루만을 쓰고 앙꼬도 저 사람들보다 두 배나 많이 넣습니다.’이렇게 쓰여 있었습니다. 이제 손님들이 전부 그 가게로 몰려들었습니다.

어떤 일이 일어났겠습니까? 세 사람이 멱 살 잡고 싸웠습니다.

그런데 골목 저 쪽에서 검은 승용차가 오더니 그 풀 빵 장사에게 ‘청와대에서 왔습니다. 대통령께서 당신을 국무총리로 임명하셨습니다. 당신은 다음 달부터 대한민국의 국무총리입니다’

라고 말했습니다. 그 사람이 여전히 그 풀 빵 가게 자리 때문에 다른 사람들하고 멱살 잡고 싸웠을까요? 그 사람은 이제 사회적 체면을 고려해야 하는 사람이 되었습니다.

그 사람은 다른 두 사람을 불러 세웠습니다. ‘이 사람들아 뭘 그런 사소한 걸 가지고 싸우고 그래, 여기 이 손수레는 네가 갖고 여기 이 연탄난로는 네가 가져. 그리고 싸우지 말고 사이좋게들 지내’ 정상적인 이성을 소유한 사람이면 모두 다 이러한 반응을 보일 것입니다.

여러분은 믿음이 있는 사람들입니다. 믿음이라는 것은 보이지 않는 것을 보는 사람들입니다.

여러분은 오늘 믿음으로 새 하늘과 새 땅의 존재와 그 땅의 시민으로서의 여러분을 보셨습니다. 여러분은 그 새 하늘과 새 땅에서 영원히 왕 노릇하실 분들이고 지금도 그 새 하늘과 새 땅을 살고 계신 분들입니다. 그런데 여전히 풀 빵 파는 자리 때문에 다투는 그런 유치한 삶을 사실 겁니까? 여러분은 여러분 자신이 창조의 목적으로 돌아가서 이 천지 만물이 창조의 목적으로 돌아 올 수 있게끔 사셔야 하는 새로운 피조물들입니다.

새 하늘과 새 땅에 들어가고 싶으십니까? 지금부터 그 삶을 사십시오.