Kairosを生きる人々

(94) 聖なる都、新しいエルサレム 본문

講解説教/ヨハネの黙示録

(94) 聖なる都、新しいエルサレム

cocoa 2026. 3. 5. 13:48

 

 

94) 聖なる都、新しいエルサレム

 

<黙示録21:9-27>

21:9 ○七つの鉢を持って、最後の七つの災いを担う七人の天使の一人が進み出て、私に言った。「さあ、来なさい。花嫁、すなわち小羊の妻をあなたに見せてあげましょう。」

21:10 聖霊が私を連れて、高く大きい山に登らせ、神から天から下って来る聖なる都エルサレムを見せてくださった。

21:11 神の栄光が宿っており、その都の輝きは、非常に貴重な宝石のようで、碧玉や水晶のように澄んでいた。

21:12 そこには大きく高い城壁があり、十二の門があった。門には十二の御使いがいて、門の上には、イスラエルの子らの十二部族の名が記されていた。

21:13 東に三つの門、北に三つの門、南に三つの門、西に三つの門があった。

21:14 その都の城壁には十二の礎石があり、その上に小羊の十二使徒の十二の名が記されていた。

21:15 私に語りかけた方が、その都とその門と城壁を測るために金の葦を持っておられた。

21:16 その都は正方形で、長さと幅が同じであった。その葦で都を測ると、一万二千スタディオンであり、長さと幅と高さが同じであった。

21:17 その城壁を測ると、百四十四キュビトであった。これは人の測り、すなわち天使の測りである。

21: 18 その城壁は碧玉で築かれ、その城は純金で、澄んだガラスのようであった。

21:19 その城の城壁の礎石は、さまざまな宝石で飾られていた。第一の礎石は碧玉、第二はルビー、第三は翡翠、第四は緑玉、

21:20 第五は赤瑪瑙、第六は紅玉、第七は黄玉、 八番目はエメラルド、九番目は黄玉、十番目は翡翠、十一番目はサファイア、十二番目は紫水晶であった。

21:21 その十二の門は十二の真珠で、各門が一つずつ真珠であった。また、都の通りは、澄んだガラスのような純金であった。

21:22 私は都の中に神殿を見なかった。主なる神、全能者、また小羊が、その神殿であるからである。

21:23 その都には、太陽や月の光が必要ない。神の栄光が輝き、小羊がその光となるからである。

21:24 諸国民はその光の中を歩み、地の王たちはその栄光をもってそこに入り込む。

21:25 門は昼の間、決して閉じられることがない。そこには夜がないからである。

21:26 人々は、諸国の栄光と尊厳をもってそこに入り、

21:27 汚れたもの、忌むべきもの、偽りを行う者は、決してそこに入ることはできず、小羊のいのちの書に記されている者だけが入るのである。

 

少々長い本文ですが、

今日は最後まで終わらせます。

 

私は昨夜、ほとんど眠らずに徹夜しました。

昨日の夕方、私たちのジュバラギ青年集会に行って、そこでゲームをしたんです。

犬の喧嘩。

その「犬の喧嘩」というゲームをしている時、私はチョン・グォンサ先生にとても深い傷を負わされ、その傷を癒そうとしてコーヒーを一杯ご馳走になったのですが、そのコーヒーのせいで私は眠れなくなってしまいました。

もし「犬の喧嘩」というゲームをする機会があれば、絶対にチョン・グォンサ先生の隣には座らないでください。

(笑)

 

私は一度眠れなくなると、考えが次から次へと頭の中で湧き上がってきて、ほぼ一晩中起きてしまいます。

どんなことを考えたかというと、「どうして私を含む私たち聖徒たちの生活は、こんなに変わらないのだろう?」というところから始まったんです。

共感されますよね?皆さん。

皆さんが私を見る時、私はとても高貴な鶴のように立派に生きられるように見えますよね?第1部では、ある人が激しく首を左右に振って、私はとても傷ついたのですが、皆さんはそれでも礼儀正しくて。

 

私は聖人のように立派に生きているように見えませんか?第2部でも表情があまり良くないですよね。

違いますよ皆さん、私も自分自身と血みどろの戦いをしています。

それもよく負けます。

よく失敗します。

だからとても苦しいのです。

 

牧師としてこの前で立派に説教をしているけれど、私の人生の中では私だけが知っているのです。

そうやって何度も崩れていく自分の姿を見て、実はとても苦しんでいます。

私だけでなく、多くの方が「自分はイエスを信じているのに、変わらない人生に悩む」ということを私は知っています。

私がカウンセリングをしているからです。

 

 

スパルジョン牧師のような方は、その方の最高の全盛期にこう日記に書きました。

 

神様、もしかして私をこのように説教者として用いるだけで、地獄に送られるのではないですか?このような日記を書きました。

なぜなら、自身が導く集会で数百、数千、数万の人々が神様に帰ってくるという奇跡を毎日毎日見ているのに、自分の内側では絶えず罪への欲求、貪欲、そういったものが湧き上がってくるからです。

その方が何か大変な罪を犯したでしょうか?

 

皆さん。

しかし御言葉を深く悟っていくほど、その御言葉の前に自分がますます明らかにさらされるため、苦痛なのです。

だからもしかしたら自分はこうして用いられるだけで地獄に行くのではないか、そんな悩みをしたというわけです。

マルティン・ルターは死ぬ3ヶ月前までそんな悩みを抱えていたそうです。

皆さんならなおさらでしょう。

私もそこまで考えが及んだんです。

おい牧師、こんな生き方でいいのか。

そして、ソンチョル和尚が後に遺言して逝ったように、私は生きている間に数多くの善男善女を騙してきたから、生きながら無限地獄に落ちている気分だった、と遺言したんです。

つまり、自分が生きている間に言った言葉は全て嘘だったと遺言して死んだのです。

自分は真理が何なのか正確に悟らずに生きて語りながら、人々が「あれが真理だろう」と信じてしまったというわけです。

だからその方は「私は嘘をついた」と語ったのです。

それほど苦しかったというのです。

その人ですよ。

 

私はそんな考えが浮かぶと、創世記からヨハネの黙示録まで福音を頭の中でずっと整理します。

だから目を閉じて創世記からずっと整理したんです。

なぜ人間は罪人になったのか?神様はどなたか?そして神様はどんな計画と目的を持って私たち人間を救い出されたのか?だから申命記まで整理したら12時半でした。

時計を見たら。

完全に逃しましたね。

黙示録まで何時まで終わっていたと思いますか?明け方5時。

だから起きて、その時からまた説教の原稿を整理しました。

そうして夜明け頃になると、福音を明確に頭の中で改めて整理したから、私に再びその希望の光がぱっと差し込んでくる感覚を私は受けました。

そしてその夜明けに、今日の本文を私がずっと読みました。

ああ、まさにこれだ。

 

 

牧師である私も、一日で本当に16時間、17時間も聖書だけを見ているんです。

それにまつわる本だけを読んでいます。

でも私ですらそうですから、皆さんならなおさらでしょう?それで朝、決意しました。

私たちの教会員をもっと厳しく鍛えなければいけないと。

こんな状態で出てきては絶対にいけないと考えたんです。

 

私のような者でさえ、その福音の前にひれ伏して伏していなければ、いつでもそのような試練に陥るのです。

なぜなら、私たちには敵がいるからです。

私たちの敵は、私たちが少しでも気を抜けば、その隙に侵入してきて、私たちを絶望させ、落胆させようとするからです。だから私たちは常にその福音の前に伏していなければなりません。

目を覚ましていなければならないのです。

 

 

ですから皆さん、今日私が夜明け前に経験したあの輝かしい希望の光、その希望の光を今日分かち合いたいと思います。

今日は21章を全て終わらせるつもりです。

21章を全て終え、22章だけやれば、これでヨハネの黙示録が終わるのです。

早く終わらせて、これから創世記に入ります。

 

 

今日私たちが学ぶ内容は、多くの人々が誤解している内容です。

特に天国を直接見てきたと主張し、その天国についての本を書いてベストセラーを作ったパール・シコールのような人物をはじめ、多くの人々が数多くの証言と著作を加えて、さらにその誤解を助長してきました。

本当に天国はあらゆる宝石で造られた華やかな場所だということが、今や教会の通念となってしまったようです。

もちろん、それは良いことでしょう。

しかし、今日のヨハネの黙示録が語っているこの絵は、場所的・空間的な天国の姿ではありません。

結論から申し上げますと、この姿こそがまさに皆さんの姿なのです。

天国で輝かしい体を得て、あの永遠の場所で栄光に満ちた人生を送ることになる皆さんの姿、それをこのように宝石で表現したのです。決してペルシコレのような人が語るように、天国がこのように宝石でできているということを語っているのではありません。

 

 

神様は今日の聖書箇所を通して、私たち聖徒たちに、あなたがたの終局がどれほど美しく完成されるかを確認させ、その希望を握りしめて今日を良く乗り越えるよう励ましておられるのです。

 

皆さん、大きな甕に水を半分ほど満たし、そこにネズミを入れたことはありませんか?そして蓋を閉めて開けず、音を完全に遮断すると、ネズミは正確に3分で死んでしまいます。

絶望に陥るからです。

ところが全く同じ壺にネズミを入れ、時々蓋を開けて光を当ててやると、このネズミに希望というものが生まれ、36時間も泳ぎ続けるのです。

その中を。

このように希望というものは、苦難や逆境を乗り越えることができる非常に強力な力なのです。

 

 

ましてや希望ですらない願望を持っているという人々は、どうでしょうか?願望とは、確認された希望を願望と呼ぶのです。

希望は起こるかもしれないし、起こらないかもしれないことを願うことが希望だと言いますが、願望というものは必ず起こることを願うことを私たちが願望と言うのです。皆さんは望みを持っていると言いますよね。

それが信仰を持つ人々なのです。

望みを持つ皆さんは、どう生きるべきでしょうか?当然、皆さんの置かれた立場や状況や現実を乗り越えなければなりません。

今日を乗り越えられなければなりません。

そうでしょう?だからこそ、ヨハネの黙示録には数多くの希望の場面が、神が絵のように描いて私たちに与えてくださるのです。

ほら、ここにあるでしょう。

また見て、もう一度確かめてごらん。

このように希望の場面を私たちに示してくださるのです。

今日の本文もまさにその希望の場面を、神が絵のようにずらりと示してくださるものです。

 

 

C.

S.

ルイスはこのヨハネの黙示録21章を、歴史の最終章ではなく、新しい世界の最初の章だと語りました。

英文学者がとても見事に描写しましたね?新しい世界の最初の章です。

そうです。

今日の本文に出てくるこの場面通りに、新しい世界は始まり、永遠に続くでしょう。

 

その栄光に満ちた輝かしい世界が永遠に始まるのです。

だからこそ、新しい世界の最初の章なのです。

このように語っているのです。

皆さんはその希望を持っているのです。

しっかりと握りしめていますか?そうすれば、勝利できるのです。

 

 

コロサイ人への手紙1章3節を見てください。

 

1:3「私たちは、あなたがたのために祈るたびに、神、すなわち私たちの主イエス・キリストの父に感謝しています」

1:4「それは、キリスト・イエスにあるあなたがたの信仰と、すべての聖徒に対する愛について聞いたからです」

 

使徒パウロが今、コロサイ教会の信徒たちに「あなたがたは信仰があり、愛のある者たちだと私は聞きました」と言っているのです。

本当に嬉しい、そう言っているのです。

しかし、その信仰と愛はどこから来たのか、その根拠が5節に出ています。

 

 

1:5 「あなたがたのために天に備えられた希望によるのです。それは、あなたがたが以前、福音の真理の言葉を聞いたことによるのです」

そうです。

この希望がなければ、信仰も、愛も、皆さんの中で発揮されることはできないのです。

ですから、皆さんはこの希望を毎日毎日確認していなければならないのです。

希望、その天に積んでおく希望が信仰と愛を孕むのです。

したがって私たちは、みことばと祈りを通して、その天に向けた希望を堅く固めなければならないのです。

その希望を固めなければ、皆さんは決して隣人を愛することもできず、信仰を発揮する人生を生きることもできません。

だから毎日負けるのです。

毎日負けるのです。

毎日私は弱い者だ。

毎日泣くことになるのです。

いいえ、今日こそその望みを必ず握りしめて進んでください、皆さん。

 

 

まず9節と10節をご覧になると。

その聖なる都、新しいエルサレムが場所的・空間的な天の国を意味するのではなく、まさに小羊の花嫁である教会を指していることが明確に記されています。

見てみましょう。

 

 

「さあ、来なさい。私はあなたにご覧にならせよう。花嫁、すなわち小羊の妻を」(:9)。

花嫁、小羊の妻とは誰でしょうか?私たちが知っているように、教会、神の民です。

 

「聖霊が私を連れて、高く大きな山に登らせ、神から天から下って来る聖なる都エルサレムを見せてくださった。(:10)」花嫁を見せるというのに、何を見せたというのですか?聖なる都、新しいエルサレムを見せたというのです。

つまり、花嫁とは誰か?聖なる都、新しいエルサレムです。

つまり、あなたがたこそが聖なる都、新しいエルサレムなのです。

 

しかし私たちが前回学んだ21章2節を見ると、その花嫁は花婿のために常に飾り立てられていなければならないのです。

見てみましょう。

「また、わたしが見ると、聖なる都、新しいエルサレムが、神のもとから天から下って来る。その備えは、花嫁が夫のために飾り立てるように備えられていた」。

飾り立てて下りてきたのです。

ここで「装う」と訳されたギリシャ語「コスメーオ」から英語のCosmeticsが派生したのです。

化粧する、装う、飾る。

さらにこの語は能動態です。

つまり小羊の花嫁である教会が、花婿であるイエス・キリストのために、この地で能動的かつ躍動的に必ず装う行為をしなければならないという意味なのです。

 

 

皆様の周囲で結婚する人々を見ると、花嫁が結婚式の日に新郎に良く見せるために、結婚式当日まで自分を整える姿は、実に涙が出るほどです。

スキンケア、体重管理、さらには教養教育まで受けます。

本当に花嫁たちは、結婚式の日に新郎に良く見せるために、そんな準備をするのです。

私たちの○○姉妹を見てください。

あんなに美しくなったじゃないですか。

私の友人の妻の中に、結婚式の6ヶ月前に結婚式の日取りを決めて、結婚式当日までの6ヶ月間で25キロも痩せた人がいます。

最初はその人、本当に白いドレスの中で似合うのは聖歌隊のガウンだけでした。

あれを着ればやっと隠せるくらいでした。

少し間違えたら聖歌隊のガウンを着て結婚するところでした。

ところが6ヶ月で25キロも減量したんです。

どんな花嫁にも引けを取らないような体型と体格で結婚式を挙げました。

私たちは全員立ち上がってスタンディングオベーションを送りました。

その苦労を私たちは間近で見ていたからです。

もちろん3ヶ月で元に戻ってしまいましたが。

 

それまでの努力と苦労は本当に涙が出るほどでした。

 

 

皆さん、私たちがイエス・キリストの花嫁であることが本当に確認されたなら、信仰によって私たちは確認するのです。

それが希望だからです。

そうであるなら、私たちはその花嫁以上の何らかの装い、飾り付けに努力しなければならないのです。

それが私たち花嫁らしい生活、聖なる生活なのです。

それが現れないなら、あなたたちはもしかしたら花嫁ではないかもしれない、と聖書が繰り返し私たちに警告しているのです、皆さん。

 

 

続けて11節を見てください。

「神の栄光が輝いており、その都の輝きは、非常に貴重な宝石のようで、碧玉や水晶のように澄んでいた」。

ここを見ると、その聖なる都、新しいエルサレムの輝きが、非常に貴重な宝石のようで、碧玉や水晶のようだと、このように描写されています。

碧玉という宝石は、神の栄光、そして神の本質、本体を描写するのに主に用いられる宝石なのです。

それが今、教会に用いられているというのです。

一箇所だけ見てみましょう。

4章3節をご覧ください。

「座しておられる方の姿は碧玉と紅玉のようで、また虹があって玉座を囲んでいた。その姿はエメラルドのようであった」。

 

さあ、その神の光を象徴する宝石の輝きが、私たち聖徒から燦然と輝いているのです。

これは何を意味するのでしょうか。これは今や聖徒たちが、私たちが幾度も学んだ創造の目的に立ち返り、神のその発想的な栄光を満ち満ちて受け、神の栄光、栄光の光を効果的かつ反射的に完全に照らし出している姿を示しているのです。

しかしそれは遠い未来のあの天でのみ成し遂げられることではなく、今、神の民となる新しい天と新しい地を生きているあなた方の内から、ふとふと現れ出ているべきだということです。

そうして新しい天と新しい地とは、すべての被造物が神の栄光を受け、その神の栄光を効果的に反応し現す、創造の目的への回帰が完成された場所を指すのです。

 

 

さあ、私たちからその神の属性であり本質である光が発せられているという事実、これがどれほど栄光に満ちたことか、皆さんご存知ですか。

しかしこの世で、私たちの生活の中で、そうしたものがふとした瞬間に現れなければならないのです。

 

 

続いて12節から14節では、その聖なる都、新しいエルサレムの大門と礎について非常に詳細に記述されています。

その部分だけを正しく解釈しても、この新しいエルサレムが場所的・空間的な場所ではなく、神の民である教会を象徴していることを確かに知ることができます。

 

 

黙示録21章12節をご覧ください。

「 大きく高い城壁があり、十二の門がある。門には十二の御使いがいて、門の上には名がかかれていた。それはイスラエルの子らの十二部族の名である。東に三つの門、北に三つの門、南に三つの門、西に三つの門がある。その城には十二の礎石があり、その上には小羊の十二使徒の十二の名がかかれていた」。

頭の中でよくイメージしてみてください。

新しいエルサレムには十二の門があると言います。

そしてその門の上には名前が記されていて、イスラエルの子孫である十二部族の名前です。

東、西、南、北、このように四方位に三つずつ門があるのです。

十二(12)という数字は、そうして作られたものなのです、皆さん。

三位一体の神の数に、四(4)方位、この地を象徴する四方位の四 (4)を掛けて十二(12)という数字になったのです。

つまり十二(12)とは、四方位によって象徴されるこの地上で、三位一体の神によって選ばれ、新たに創造された人々を指すのです。

それが十二(12)なのです。

だから旧約の教会を象徴するイスラエルの部族が必ず十二部族であるように、新約の教会の基礎を象徴する使徒たちが必ず十二使徒でなければならないのです。

だからユダが抜けた時に、マタイをわざわざ引き入れて埋めたのです。

十二(12)を合わせるためです。

それが教会の数なのです。

皆さんの数だということです。

 

しかし注意深く見ると、教会を象徴するあの聖なる都、新エルサレムの礎石の上に十二使徒の名前が刻まれています。つまり十二使徒こそが礎石なのです。

そしてその礎石の上に建てられた城壁にある十二の門には、旧約の十二部族の名前が刻まれています。

よく描いてみてください。

それは、旧約の十二部族で構成されていたイスラエルが、十二使徒という礎の上に建てられた新約の教会を象徴していたということを示しているのです。

よく描いてみてください。

 

 

十二使徒という礎の上に十二部族が今乗っているでしょう?十二部族というものは、旧約の十二部族が十二使徒という礎の上に建てられた教会こそが十二部族であったことを象徴しているのです。

この聖なる都、新エルサレムの幻は、旧約のエゼキエル書に既に登場していたものです。

皆さんが今日学んでみればお分かりになるでしょうが、ゼカリヤ、エゼキエル、イザヤを全く知らずに新約のヨハネの黙示録を解釈するというのは言語道断なのです。

その内容を全く知らずにこのヨハネの黙示録だけを見て解釈しようとすると、ついそこに歴史を持ち込んでしまうのです。

世代主義者たちの誤りはそこにあるのです。

彼らの主張を読むと、この人たちは本当に旧約聖書をきちんと読んだ人たちなのか、と時々思うことがあるのです。

決してそうではありません。

皆さん、よく見てください。

 

 

エゼキエル書48章30節をご覧ください。

 

「その町の門は次のとおりである。北側の門は四千五百キュビト(:30) / その町の門はイスラエルの部族の名によるもので、北には三つの門がある。一つはルベン門、一つはユダ門、一つはレビ門である(:31) / 東側の幅は四千五百キュビトで、そこにも三つの門がある。一つはヨセフ門、一つはベニヤミン門、一つはダン門である(:32) / 南の辺りの長さは四千五百キュビトで、そこにも門が三つあった。一つはシメオンの門、一つはイッサカルの門、一つはゼブルンの門である。(:33) / 西の辺りも四千五百キュビトで、そこにも門が三つあった。一つはガドの門、一つはアセルの門、一つはナフタリの門である。(:34) / その四辺の合計は一万八千キュビトである。その日から後、その町の名は『主のサマ』と呼ばれるであろう(:35)」 この箇所をお読みになりながら、先週水曜日に来られた方は、もう一つの箇所を思い出されますか?私がイエス・キリストが幕屋であられたと説明しながら、ヨハネの福音書の講解でいくつかの箇所をお読みしたのです。

そうですね。

旧約の『出エジプト記』に出てくるあの幕屋が中央にあり、レビ族がその幕屋を取り囲み、東西南北から各部族がその幕屋を取り囲んでいたでしょう?それが「教会」を象徴していたんですよね。

そうでしょう?それと今皆さんが読んだエゼキエル書48章の最後の部分と、今日私たちが本文で読んだ内容と、このように繋がってみてください。

エゼキエル書をよく読まれた方はご存知でしょうが、エゼキエル書10章18節で「主の栄光が神殿の敷居を離れてケルビムの上に留まった」とあります。主の栄光が神殿を離れてしまったのです。そしてエゼキエル書43章で主の栄光が再び戻ってくると言います。

そしてエゼキエル書40章から42章にかけて、ある人物が神殿を測量する場面が出てくるのです。

ですから、それを知らなければ今日の本文は全く理解できないのです。

さて、その主の栄光が戻った神殿でどんな音がしたか、その音がどんな音か見てみましょうか?

 

エゼキエル書43章7節

「主は私に言われた。『人の子よ、これはわたしの御座の場所、わたしの足を置く場所、わたしがイスラエルの民の中に永遠に住む場所である。イスラエルの民、すなわち彼らとその王たちは、もはや淫行を行わず、彼らの死んだ王たちの死体によって、わたしの聖なる名を汚すことはない。』」

 

その新しい主の聖殿は、主が再び離れることのない永遠の主の住まいとなることを宣言しています。

主の住まいと言えば、思い当たる場所がありますね。

私が、イエス様が弟子たちに「あなたがたの住む場所を準備しに行く」と言われた時、その場所が誰だと言われたでしょう?教会だと言われたじゃないですか。

私たちだと言われたじゃないですか。

そうでしょう?その場所、エゼキエル書で語られているその場所、その神殿、主の栄光が再び戻ったその神殿は、まさに私たちだということです、私たち。

主が永遠に住まわれる場所、それはヘブライ語で 「エホバ・サマ」と言うのです。

ですから、エゼキエル書の最後に出てきた東の門、北の門、南の門、西の門があり、その神殿がエホバ・サマであったというあの存在は誰だと言うのですか?聖徒、私たちだと言うのです。

つながりますか?皆さん、これくらい理解できなければいけません。

 

 

つまり罪によってその住まいを離れられた主が、再び新しい創造を通して、今やその住まいを永遠に離れず共におられる、その贖いの歴史全体がエゼキエル書に黙示的に込められているというのです。

ですから今日の本文にある聖なる都、新しいエルサレムとは主の臨在(ヨハウェ・サマ)、 神が永遠に御自身の生命力を注ぎながら共に住まわれる、主の住まいである神の民を指すのです。

ですから旧約を知らなければ、この内容を見てペルシコレのように解釈せざるを得ないのです。

そこでは柱が黄金で、紅玉で、緑玉で、道がダイヤモンドで、そんな風にしか語れないのです。

違います。

そうではありません。

 

エペソ人への手紙2章20節を見ると、今皆さんが読んだエゼキエル書48章、43章、ヨハネの黙示録21章の話が非常に簡潔にまとめられています。一度読んでみませんか?

 

エペソ人への手紙 2:20

「あなたがたは、使徒たちと預言者たちという土台の上に築かれた者です。キリスト・イエスご自身が礎石となられたのです」

 

誰が?私たちです!神の民が。

こういう意味です。

「あなたがたは、使徒たちと預言者たちという土台の上に築かれた者です」。

言葉まで全く同じですね?「キリスト・イエスご自身が礎石となられた。その方において、建物全体が互いに結び合わされ、神の神殿として建て上げられていく」誰が神殿ですか?私たちです、そうでしょう?

「あなたがたもまた、聖霊によって神の住まいとなるために、キリストにあって共に建て上げられているのです」住まいとは誰ですか?皆さんです。

つながりがずっと続きますね?エゼキエル書、ヨハネの黙示録、エペソ書、そうでしょう?このように十二使徒の礎石の上に建てられているあの聖なる都、新しいエルサレムは、神が永遠にお住まいになる住まいである私たち教会そのものを象徴しているのです、そうでしょう?

 

続けて15節から17節まで、その都の大きさについて出ています。

一度見てみましょうか?

ヨハネの黙示録21:15-17

「あなたに語る者は、その都とその門と城壁を測ろうとして、金の葦を持っていた(:15)」 その都は正方形で、長さと幅が同じであった。彼はその都を測ると、一万二千スタディオンであった。長さと幅と高さは同じであった(:16)」「城壁を測ると、百四十四キュビトであった。これは人の測り、すなわち天使の測りである(:17)」

 

難しい内容のように思えますが、全く難しくありません。

よく見てください。

まず測量するということは、その測量対象が完成した時に測量するのです。

測量とは計測することです。

完成もしていないものを計測する必要はありませんよね?あるいは完全に破壊しようとする時、何かを完全に破壊しようとする時に測量するのです。

ですからここで聖殿測量の幻が登場するのは、神の民が永遠に住むその都の聖さと、小羊の花嫁のための神の計画の完全な成就を示唆しているのです。

それが今や完全に成就されたことを示しているのです。

それが測量という言葉が持つ意味なのです。

 

そしてその測量という行為は、保存の意志を内包しているのです。

これをよく測量するということは、私がこれを今こそよく保存しようという意志が込められているということです。

 

 

ですからここで聖なる都を測量するということは、その測量の対象である誰を測量しているのでしょうか?聖なる都です。

聖なる都とは誰でしょうか?皆さん、神の民なのです。

この神の民を測っているということは、彼らを神が測りの対象である神の民を聖く安全に守られるという意志をそこに表明しておられるということです。

それが測りなのです。

ところで、その聖なる都を測るのに、その測り棒として使われたのが金の葦です。

これは少し難しいですか?全く難しくありません皆さん。

当時、葦を物差しとして使っていたからです。

だから葦が出てくるのです。

しかし、それが金の葦だと言います。

金の葦。

それは、その都の規模が、神の計画と目的にぴったり合っていることを指しているのです。

当時の古代において、金の葦で測るという言葉は、測る対象が元々意図された計画通りに満足に完成した時に使う言葉です。

 

 

ですから、このような節は、古代文学の文体や、あるいは古代時代の慣習といったものを学ばなければ解釈が不可能なのです。

ですから、このような一節を解釈するには、本当に何冊もの本を読まなければなりません。

 

皆さん、私が皆さんに話した内容は、ほんの数秒に過ぎませんが、私はこのようなことを一つ学ぶのに二日もかかるのです。

ですから聖書を読むことが、どれほど注意を払って見るべきものかということです。

ただやみくもに見るものではありません。

ただ読むだけで聖霊が私に直接啓示を与えてくださるでしょうか? こんな風に学ぶのではありません。

それを聖霊を私的に抱くと言うのです。

やみくもに見られるものではないのです、皆さん。

勉強せずに聖書を正しく理解することはできないのです。

 

 

ところで、その聖都の長さ、幅、高さが一万二千スタディオンで全く同じだと言っています。

ここにも十二(12)という数字が出てきますね?十二は何の数字だと言いましたか?神の民を象徴する数、三(3)に四(4)を掛けたものだと言いました。

そこにさらに、無数に多い大群衆を象徴する千を掛けて、一万二千という数字が出たというわけです。

 

ですから、あの聖なる都、新しいエルサレムは、神に救われた大群衆の神の民を象徴しているということが、そこでまた改めて確認されるわけです。

 

 

長さと幅と高さ、長さ、幅、高さが一万二千スタディオンだと、わざわざスタディオンを使ったんです。

一万二千だと。

わざと。

でも、その都の長さと幅と高さ、長さと幅と高さが同じだということは、その聖なる都、新しいエルサレムが立方体だという意味ですよね?

立方体と言えば、もう一つ思い浮かぶものがありますよね?至聖所!至聖所は立方体でしたよね?そこは神が臨在される場所でした。

神の恵みが施される場所でしたよね。

神が住まわれる場所は、少しも不足がなく、補うものがないという意味で立方体なのです。

 

では、聖なる都、新しいエルサレムが至聖所の形をしていることには、どんな意味があるのでしょうか?これについては、列王記上6章19節を見て説明しましょう。

 

 

[列王記上 6:19-20]

「主の契約の箱を置くために、宮の中に聖所を設け」

この聖所が至聖所です。

 

「その聖所の内側は、長さが二十キュビト、幅が二十キュビト、高さが二十キュビトであった。純金で覆い、香柏の木で造った祭壇も覆った」

ご覧の通り、至聖所も立方体ですよね?

 

聖なる都、新しいエルサレムがこの至聖所のように立方体で造られたということは、まさに私たち自身が、私たち聖徒たちが年に一度の大贖罪日に大祭司だけが入り得たあの至聖所となったということです。

私たちが。

その聖なる都、新しいエルサレムこそが神の民ですから、そうでしょう?大祭司が年に一度しか入ることができなかったあの場所、それも清くない状態で入れば即死したあの場所、その場所を私たちは目を閉じるだけでいつでも入ります。

それが祈りですよね?

 

祈りとは、神の御前で私が願い事を申し上げ、神が私に与えてくださった恵みを賛美し、讃えることだからです。

目を閉じれば私たちは至聖所に入るのです。

いやそれだけではなく、私の内に神がすでに住んでおられるのです。

それが至聖所とは何でしょう。

それがあの天国、新しい天と新しい地でははっきりと現れるのです。

まさに神が私たちと共に住みながら守り、保護してくださるその栄光に満ちた生活が私たちに訪れるということです。

これが目に見える形で、それが私たちの希望なのです。

 

 

このように、新エルサレム聖城の長さと幅と高さが一万二千スタディオン、私たちが使う度量衡では1,500マイルです。

つまり2,400kmくらいになるわけですね?

ある人がこれを一度計算してみたところ、新エルサレムがアメリカの土地の四分の一(3/4)くらいになるそうです。

そんなことは気にしないでください。

全く知らなくても構いません。

象徴だからです。

そんな大きさを計算する必要はありません。

 

 

ところで、その新しいエルサレム城の高さが既に一万二千スタディオン、1,500マイルだと言いましたが、その下の行を見ると、城壁を測ったところ144キュビットだという言葉がまた付いています。

144キュビットは65メートルです。

そのエルサレム城の高さが2,400kmもあるのに、城壁が65メートルだとどうなるんですか?これはなぜ建てるんですか、それなら。

だから城壁が144キュビットだというこの箇所は、高さではなく厚さだ、と学者たちはそう言います。

しかし、これが高さであれ厚さであれ、全く問題ありません。

いずれにせよ象徴的なものだからです。

どうしても高さか厚さかを選ぶなら、私は厚さを選びます。

なぜなら、2,400kmもの高さの城を、たった65mのものが守れるでしょうか?厚さならこう理解できます。

 

 

144とは何でしょうか?12×12(十二乗十二)です。

神の民の数という意味です。

そうでしょう?つまり144という数字は、あの聖なる都、新しいエルサレムに入ることができる者たちが、三位一体の神によって選ばれ、新しく創造された者たちだけがその囲いの中に入れることを象徴しているのです。

144という数字が12×12だからです。

 

そして彼らは完全であり安全であるということを象徴的に示しているのです。

なぜ?これが厚さ144キュビット、65mというのは古代時代の城壁はそれほど厚かったからです。

通常、馬車2台から4台、6台までが城壁の上を走れたのですから。

どれほど厚かったでしょうか?つまり、その中にいる者たちが今や安全であり、完全な者であることを示すのが144キュビットなのです。

ここまでご理解いただけましたか?

 

そして17節後半に「人の測り、すなわち天使の測り」という句があります。

この句もエゼキエル書40章から42章までを知らなければ絶対に理解できない句です。

無理に象徴的に解釈したり推測して解くしかない句です。

皆さん、エゼキエル書40章から42章までを見ると、ある青銅のように輝く人物が現れて神殿を測量するのです。

エゼキエルを連れ歩きながら、その人物こそが天使だというのです。

つまりそれは、単に人がむやみに神殿を測量したのではなく、霊的な何らかの意味があったことを示しているのです。

 

 

エゼキエル書40章1節をご覧ください。

 

「わたしたちが捕らわれてから二十五年、都が陥落してから十四年目の正月十一日、その日に主の御力がわたしに臨み、わたしをイスラエルの地へ連れて行かれた(:1)」

「神は幻の中でわたしをその地に連れて行き、極めて高い山の頂に立たせた。そこから見ると、南の方角に都のようなものが見えた。(:2)」

都が現れました。

 

「神はわたしを連れてそこに行かれた。すると、青銅のように輝く一人の人が、手に測り縄と測り棒を持って門に立っていた。(:3) ”

「その人が私に言った。『人の子よ、あなたが目にし、耳で聞き、心で考えることを、よく見よ。私はこれをあなたに見せるためにここに連れて来た。あなたが見たことをすべてイスラエルの民に告げよ。』と(:4)」

 

そしてなんと4章にわたって測量をするというのです。

そしてエゼキエル書43章で、神殿に神の栄光が再び戻るというのです。

 

 

そして18節から21節の間では、その都の建築材料が出てきます。

つまり、その都の建築材料とは何でしょうか? 都とは誰のことですか? 私たちです。

では、その建築材料とは何でしょうか? 私たちがどれほど栄光ある存在であるかを示すものなのです。それが何でしょう? ご覧ください。

18節。

 

ヨハネの黙示録 21:18-21

「その城の城壁は碧玉で築かれ、その城は純金のような透明なガラスのようであった(:18)」

「その城の城壁の礎石は、さまざまな宝石で飾られていた。第一の礎石は碧玉、第二はルビー、第三は翡翠、第四は緑玉(:19)」

「 第五はルビー、第六はサファイア、第七はエメラルド、第八は緑玉、第九は黄玉、第十は碧玉、第十一は水晶、第十二は黒玉である(:20)」

「その十二の門は十二の真珠であって、門ごとに一つの真珠であった。また、都の道は、澄んだガラスのような純金であった(:21)」

 

真珠というのは古代において最も高価な宝石でした。

ところが門が一つで真珠です。真珠がどれほど大きければ門が一つになるのか、それが。

「門は一つ一つが真珠であり、都の通りは澄んだガラスのような純金であった」ここに登場する宝石は真珠を含め、当時の古代社会で最も高価で華やかな宝石たちなのです。

ヨハネはそれらの宝石を総動員して、聖徒の美しさと栄光を表現しているのです。

描写しているのです。

私たちがまさにそのような存在だというのです。

私たちはそのような栄光ある存在へと変えられるのだということです。

 

皆さん、この場面を見ると、変容の山で現れたイエス・キリストとモーセとエリヤが思い浮かびませんか?目が眩んで見ることができなかったあの燦然たる光、それが私たちなのです。

それをこの宝石でヨハネが説明したのです。

 

 

そしてこれらの宝石は、当時の大祭司たちの胸当てに付けられていた宝石だったのです。

一度見てみましょうか? 出エジプト記28章17節。

 

出エジプト記28:17-21

「それに四列の宝石を嵌めよ。第一列はルビー、黄玉、緑玉(:17)」

「第二列は石榴石、サファイア、赤瑪瑙(:18)」

「第三列は琥珀、白瑪瑙、水晶(:19)」

「第四の列は、エメラルド、カーネリアン、ヒスイで、すべて金の枠に嵌め込むこと(:20)」

「これらの宝石は、イスラエルの子らの名による十二個で、それぞれの宝石に十二部族の一つの名ずつを刻印するように刻むこと(:21)」

 

その宝石は誰のことですか?その宝石に誰の名前が刻まれているのですか?十二部族の名前です。

神の民たちの名前が刻まれているのです。

つまりその宝石は誰か?神の民たちなのです。

あなたがたが行って住む場所ではなく、まさにあなたがた自身が宝石なのです。

輝かしく栄光に満ちた宝石なのです。

あなたがたです。

 

 

皆さんの身分は、まさに想像を絶するほど輝かしく栄光に満ちた存在なのです。

さらに、あの区域の大祭司に与えられていた権威が、まさに私たちにすべて与えられたということを示すのが、今日の聖書箇所なのです。

 

だから大祭司たちが身につけていた胸当てに付けられていた宝石たちで私たちを描写しているのです。

あなたは王のような何者か?祭司ですから、天の国でも永遠にそう生きるのですから。

当時は祭司がこれ(最上位)でしたよね。

 

 

ヨハネの黙示録の最初の受取人は誰ですか?初代教会の信徒たちなのです。

「あなたがたはそれほど栄光ある存在だ」と示しておられるのです。

 

さあ、あなたがたこそがまさにその希望を持つ者。

私たちは今やあの天国で、栄光に満ちた輝かしい体へと変えられるのです。

その希望を抱いて生きる者たちは、この地で肉体が置かれた状況や、この地で肉体が持つ姿や形をあまり気にしません。

裂けた目、背の低さ、短い足、太った体、こうしたことで落胆しないのです。

 

これは私たちがあの国で新しい体をまとえるまで、一時的に生き延びるためにまとっている殻に過ぎません。

だから彼らは決してこの肉体にとらわれません。

人の体とはいえ、この肉体というものはこの世のものを象徴しているのです。

代表しているのです。

 

彼らは新しい天と新しい地を真に望む者たち、その新しい体を真に確信している者たちは、決してこの肉体にとらわれません。

彼らが置かれた状況や境遇にとらわれません。

そこに一喜一憂しません。

それで萎縮することもなければ、それで傲慢になることもないのです。

それが希望を持つ者たちなのです。

皆さんの立場や状況も、皆さんがその新しい天と新しい地に入るために、神の方法と手段によって与えられるものだから、ただその場所で享受し、満足すればよいのです。

それが希望を持つ者たちの生き方なのです、皆さん。

 

 

さらに、その新しいエルサレムでは、イエス・キリストご自身が神殿だと言います。

旧約時代の神殿は何でしたか?神が臨在され、神が神の民と交わりの場だったでしょう?しかしそこには神殿がなく、イエスと神が神殿なのです。

何ですか?今やそのような目に見える神殿は必要なくなった、なぜ?私たちはいつも共にあるからです。

神が。

イエスがいつも共におられるからです。

 

だからその方が神殿だと言うのです。

全く難しくありませんよね?

 

黙示録21章22節を見てください。

 

「都の中に神殿は見当たらなかった。主なる神、全能者、また小羊こそが神殿であるからである(:22)」

「その都は太陽や月の光を必要としない。神の栄光が輝き、小羊が都の光であるからである(:23)」

 

私たち聖徒は、この限られた時間と空間の中に生きていますが、私たちは今この場所でも、新しい天と新しい地を生きなければなりません。

私たちは今も、みことばと祈りを通して、神と交わりを分かち合っています。

そして、まだ新しい復活の体には着ていませんが、信仰と希望によって、その新しい天と新しい地の生活を少しずつ経験しているのです。

ですから、私たち聖徒の生活は、世の人々の生活とは全く違うのです。

 

 

私たちは今、この地の唯一の光の放射体である太陽と月の下に生きていますが、私たちはその太陽と月、その光に左右される人々ではないのです。なぜなら、太陽の下に新しいものはないからです! There is nothing new under the sun.

それゆえに。

皆さんは新しいものだから、この太陽の下での生活の原理で生きるべきではないのです。

 

ですから太陽の上の命の原理で生きるべきなのです。その命とは何でしょうか?神の栄光の光を受け、その栄光を反射して現し、賛美すること。それは何でしょうか?神の御性質を私の命の中で現すことです。

 

 

自分の力を蓄えて自らを守ろうとする利己的な生き方から離れ、隣人を自分の体のように愛せよという神の御言葉に応える生き方、それがまさに天の上の生き方、太陽の上の生き方なのです。

私たちにその生き方が求められているのです。

 

 

そして神は私たち聖徒を、神の国における共同相続人として召されました。

それは私たちを神の国における王として扱ってくださるという意味です。

皆さんの身分はそれなのです。

だからこそ、皆さんが今まとっているこの殻や、皆さんの殻に愛着している状況や立場や環境、これで絶望したり挫折したり、傲慢に陥ってはならないのです。

皆さん、体が痛みますか?大丈夫です。

それで神様が今、皆さんを作り上げているのです。

貧しいですか?離婚されましたか、もしかして?大丈夫です、皆さん。

その状況こそが、あなたを造り上げておられる神の御手なのです。

私たちはあの天を見ているのですから。

新しい体を待ち望むのであり、新しい天と新しい地を待ち望むのですから。

ですから私たちは堂々とできるのです。

胸を張って歩むのです。

 

 

だからこそ今日の本文にこんな節があるのです。

24節を見てください。

 

「諸国はその光の中を歩み、地の王たちはその栄光を携えてそこに入り込むであろう(:24)」

これが皆さんなのです。

地の王たちはその栄光を携えてそこに入り込むであろう。

この王が何であるか、ご存知でしたか、一体。

 

 

ヨハネの黙示録 21:25-26

「その門は昼も決して閉じられない。そこには夜がないからである(:25)」

「人々は、諸国の栄光と尊厳を携えてそこに入るであろう(:26)」

 

栄光と尊厳を持って入る姿を描いているのです。

この場面もイザヤ書で既に預言されていたものです。

一度ご覧になりませんか。

 

イザヤ書60:1-3

「起きよ、輝け。あなたの光が来た。主の栄光があなたの上に現れたからである(:1)」

「見よ、闇があなたを包むが、あなたの光は現れる(:2)」

「諸国はあなたの光に、王たちは輝くあなたの光に導かれて来る(:3)」

 

皆さん、私たちがどのように栄光と尊厳をもってあの新しい天と新しい地に入っていく姿を想像すると、胸が高鳴りませんか?今、私はこのように醜く、汚れていて、暗い面を持った人間ですが、このような肉体を持った者ですが、今や私は輝かしく栄光に満ちた新しい体に変わって、そこに入っていくのです。

この私の仲間たちと手を取り合って、その場所に入っていくのです。

今から永遠に住む場所に入っていくのです。

それを思うと、興奮しないわけがないでしょう。

 

 

私がバルセロナオリンピックマラソンで金メダルを獲得したファン・ヨンジョ選手が韓国に入国した時、空港にいたんです。

本当に数百人の記者たちが待っていました。

あの人を。

それに、いつ会ったというのに数千人のファンがすでにできていて、空港は大騒ぎでした。

ところが、ファン・ヨンジョ選手が空港のドアを開けてパッと出てきた時、こんなに小さかったんですよ。

黒々とした人で、本当に見るものもなかったです。

もしこのテープを聞いたら、お許しください。

 

でも、あの方がどれほど苦労したかご存知ですか?金メダルを取るために。

本人の言葉によれば、練習するたびに毎日毎日、この心臓と肺が口から吐き出されるかと思ったそうです。

 

毎日毎日、その練習と訓練を耐え抜いた後、モンジュイックで金メダルをぴたりと獲得したのです。金メダル獲得の凱旋、国全体が彼を待っていました。

国全体が彼が入国する時、全員が立ち上がって拍手したのです。

 

 

私たちがこの地で労苦と苦労を全て終え、涙と悲しみを全て拭い、今や花嫁として装いを整えた後、あの新しい天と新しい地、聖なる都新しいエルサレムに入城する時の栄光が、あのモンジュイックの英雄ファン・ヨンジョに及ばないでしょうか?あの時、本当にあの興奮したファン・ヨンジョ選手の顔が今も忘れられません。

あまりにも素晴らしいのです。

あまりにも素晴らしい。

この世全体がこれほど自分を歓迎してくれるとは知らなかったそうです。

自分を。

 

 

皆さんが天国に入るときは、天国の天使たちと神、イエス・キリストが列をなして拍手してくれるでしょう。

「よくやった。

わが子よ」「よくやったわが娘よ」「もう終わった」「今や永遠に君の世界だ」これが希望なのです。

この希望があれば、今日を皆さんが乗り越えられるのです、皆さん。

 

 

皆さんは今日の聖書箇所を見ながら、本当にイエスを知らず、ただ自分自身のためだけに生きて地獄に落ちてしまった多くの他の人々の前で、輝かしく栄光に満ちた義の白い衣をまとい、新しい天と新しい地に入っていく皆さんの姿を見なければならないのです。

もう二度と夜はなく、闇もなく、罪もなく、また他の悪しき者たちの攻撃によって門を再び閉ざす必要のない、今や完全に安全な その場所へ、あなた方は入っていくのです。

だからこそ今日の本文にこんな一節があるのです。

「そこにはもはや夜がなく、門は閉ざされることもなく、常に開かれている」というのです。

門が開かれているということは、地獄にいる者たちが時々上って来て、戻ってくることができるという意味ではなく、今や悪しき者たちが決して攻撃することはないため、その門を閉める必要がないということです。

安全である。

今やあなたがたが堕落する理由もなく、堕落することさえできないその場所、その場所もイザヤ書に予め預言されているのです、見てみましょうか?

 

イザヤ60:11

「あなたの門は常に開かれ、昼も夜も閉じられることはない。人々が諸国の富を携えてあなたのもとに来るからである。その王たちを捕虜として連れて来るからである」

イザヤ60:19-20

「もはや昼に太陽があなたの光とならず、月もあなたに光を照らさない。ただ主があなたの永遠の光となり、あなたの神があなたの栄光となるからである(:19)」

「もはやあなたの太陽は沈まず、あなたの月は欠けることがない。主があなたの永遠の光となり、あなたの悲しみの日が終わるからである(:20)」

 

ですから黙示録は旧約を知らなければ絶対に解釈できないのです。

「神が、イエス・キリストがあなたの光であり、灯台である。

」ということです。

ですから皆さんはこの太陽、この月、その光によって左右されてはいけません。

つまりこの世のものによって左右されてはいけないということです。

なぜなら、あなた方の光、あなた方を照らす発光体は神であり、イエスだからです。決してそのようなものに萎縮したり、傲慢になったりしてはいけません。

絶望したり、失望したりしてはいけません。

それは一時的なものです。

一時的に身に着けているに過ぎません。

一時的に留まっているだけなのです、皆さん。

 

 

こうして私たちは旧約から預言されているあの輝かしい地へ必ず入るのです。

そのためには必ずあなたがたが花嫁としてこの地で何をしておかなければならないか?飾り立てをしておかなければならないのです。

それをしているかということです。

それをせず、あなたがたは今、あの花婿の財産がいくらか?どうその財産を横取りするか?そんなことを考えているのです。

そうではありませんか?

今日の教会がこの身繕いに気を配らず、自分の身繕いもせずに、神様にどうごねて、その方を自分の力で使って病を治し、金持ちになり、自分の願いを叶えようか?ここに興味があるというのです。

 

こんな悪しき人間たち、そんな花嫁たちはすぐに花婿に見捨てられるのです。

皆さん、身だしなみも整えず、準備もせずに、どこへ花婿の前に出かけるのですか?結婚式の日に花婿が花嫁をじっと見たら、目やにがこのくらいついていて、歯も磨かず、口から臭いがして、頭に鳥の巣がこのくらいついている。

.

。

それ、どうするんですか?それを。

ところが今、私たちがそうしているんですよ。

そうじゃないですか?皆さんの聖さを準備しているのかと。

その国で皆さんは小羊の花嫁として生きなければならないのに、その装いをしているのかということです。

それをしないんです。

皆さん、今日の本文の最後の節を見ると、そこに入れない人たちがいます、見てください。

 

 

<ヨハネの黙示録21:27>

「汚れたもの、忌むべきもの、偽りを行う者は、決してそこに入ることはできず、ただ小羊のいのちの書に記されている者だけが入るのである」

 

ここで汚れたもの、「コイノン」とは偶像崇拝者を指すのです。

つまり、神やイエスではなく、この世の力を追い求める人々、それが「コイノン」なのです。

 

そして忌むべきもの、「ブデリグマ」とは、偶像崇拝者や背教者を指す言葉です。

キリスト教が持つ真理以外のものを追い求めている彼ら、そして偽りを言う者たちは偽預言者なのです。

偽預言者を暗示しているのです。

 

 

つまり偽りの教理でキリスト教を教える者たち、彼らはどこにいる者たちでしょうか?礼拝堂の中に入っている者たちだと言っているのです。

礼拝堂の中に入って身だしなみを整えず、花婿の財産を食い物にしようとする人間たち、彼らについて語っているのです。

これが偶像崇拝者、「コイノン」、「ブデリグマ」、偽り者たちなのです。

 

これこそ、クリスチャンがこの地で何をして生きるべきかお分かりでしょう?どう備えるべきかお分かりでしょう?

 

皆さん、今日の教会を見ると、韓国の教会を見ると、ため息が自然と出てきます。

身近な例で言えば、あと数日で年越し礼拝を捧げなければなりませんが、皆さん、年越し礼拝がなぜ韓国教会にだけあるかご存知ですか?他の国にはありません。

韓国の巫俗信仰から出たものです。

あれですよ、韓国の巫俗信仰では、旧暦12月30日に寝るべきか、寝るべきでないか?寝るべきでないとしますよね?眉が細くなるから。

眉毛がなぜ立つのか?韓国の民間信仰では、新年を迎える前の大晦日の夜、真夜中になる前に、家々へ鬼神が訪れると信じられています。

神々が来ると、だからその時に寝ていてはいけません。

目を覚まして、鬼神が来た時に素早く願い事をすれば、新年には福が訪れると信じられているのです。

ところが、その時に寝ていると眉が上がるというのは、厄運が入ってくるという意味です。

だから眠らせないようにするのです。

ところが、イエスを信じるようになってから、そんなものは迷信だと言われました。

だからしませんでした。

でも、気がかりです。

だから合法的に「送旧迎新礼拝」という名前をつけて、それをそのまま持ち込んだのです。

教会の中に。

 

 

皆さん、こう話して私たちの教会で送旧迎新礼拝をしなければ、きっとここにいる人の中に気になって他の教会の送旧迎新礼拝に行く人がいるでしょう? それどころか、ある教会では教会員の数だけ聖書の句を一つずつ書いて筒に入れ、一つずつ引かせると言います。

それで「これが来年、神様が皆さんに与える御言葉だから、この御言葉をしっかり握って生きなさい」と言うんです。

世の中に、聖徒が一年間その一節だけで生きなければならないでしょうか?これは全部、巫女の真似事です。

だから私たちの教会は送旧迎新礼拝をしません。

他の教会に行く人は、その人たちの名前を書いておいて、後で問いただしますよ(笑)。

 

 

毎日毎日、皆さんは決断し、毎日毎日悔い改めなければなりません。

その日一日を「ああ、一年間の失敗を全部くしゃくしゃにして、新しい白紙をもらおう」なんて思うこと。

 

これは正しいクリスチャンの生き方ではありません。

 

 

毎日毎日、いや毎瞬間、私たちは悔い改め決断し、悔い改め決断しながら生きていくのです。

これはどうしても神様を利用して、ただ自分の利益だけを得ようとするからです。

教会の中にすっかりそんな巫俗信仰が入ってきて、雑教になってしまいました、これが。

 

それさえしなければ、私たちの教会は大きなチャンスを逃すことになります。

なぜなら、その時人々は祝福を受けようと献金をたくさんするからです。

(笑い)

 

キリスト教とは何ですか? 装うことです。

花嫁として装うことです。

皆さん、その装いをせずに夫の前に立ったままでは、後で大きな失敗をすることになります。

今日から皆さんが必ずすべきそのことをしてください。

装いをしてください。

聖なる生活を追求してください。

 

祈ります。