Kairosを生きる人々

(95) 命の水の川 본문

講解説教/ヨハネの黙示録

(95) 命の水の川

cocoa 2026. 3. 5. 13:44

 

 

(95) 命の水の川

 

 

(黙示録22:1-5)

22:1 すると、御使いはまた、水晶のように輝く命の水の川を私に見せてくれました。

その川は、神の御座と小羊の御座から流れ出て、

22:2 町の広い通りの中央を流れていました。

川の両岸には、十二種類の果実を実らせるいのちの木があり、月ごとに実を結び、その葉は諸国民を癒すために用いられます。

 

22:3 その都には、もはやのろわれるべきものは何一つありません。

神と小羊の御座がその都の中にあり、その僕たちは神を礼拝し、

22:4 神の御顔を仰ぎ見るのです。

彼らの額には御名が記されており、

22:5 もう夜はなく、ともしびも太陽の光も要らない。

主なる神が彼らを照らされるからである。

彼らは永遠に治めるであろう。

 

 

 

先週、天から下って来る聖なる都、新しいエルサレムこそが小羊の花嫁、神の民、教会であることを確認しました。

私たちは先週の本文であるヨハネの黙示録21章後半を通して、やがて来るその国で神の民が輝かしく美しい宝石のように栄光に満ちた人生を送ることを学びました。

また、その神の民は、この地においても神の栄光を現す宝石のような人生を生きなければならないことも学びました。

 

さて、今日の本文を見ると、その聖なる都、新しいエルサレムに命の水の川が流れていることがわかります。

聖なる都、新しいエルサレムとは誰のことでしょうか?まさに私たち自身です。

では、その新しいエルサレムに命の水の川が流れているということは、どのような意味でしょうか?ヨハネは今日の本文の描写を通して、「教会、すなわち神の民の命こそが命の水の川である」というメッセージを投げかけているのです。

聖徒たちの命の源は別に存在するのです。

この場面を旧約のどこかで見たことがありませんか?園の中央から川が湧き出て園を潤していた場所はどこでしょうか?エデンの園、そしてもう一箇所あります。

 

エゼキエル書47章を見ると、神の栄光が戻った新しい神殿から水が流れる場面が出てきますよね?

 

(エゼキエル47:1)

1 彼はわたしを連れて神殿の門に至らせた。神殿の正面は東を向いていた。その敷居の下から水が出て、東へ流れて行き、神殿の右側、祭壇の南側を流れ下った。

2

つまり、本来の創造の目的に戻り回復されたエデンと、神の栄光が戻った新しい聖殿が聖徒の中に実現されるということです。

言い換えれば、聖徒は単に救われた個人であるだけでなく、回復された神の国をその内に抱いているということです。

 

この場面こそが、今日の本文の内容を影として象徴しているのです。

 

ところでエゼキエル書では、神殿から水が流れます。

今日の本文1節では、その命の水の川が神と小羊の御座から流れているでしょう?私たちが先週の本文で、神殿とは誰のことでしたか?

 

(黙21:22)

22 私は都の中に神殿を見なかった。主なる神、全能者、また小羊が、その都の神殿であるからである。

 

神殿とは誰でしょうか?神と小羊です。

ですからエゼキエル書47章1節が今日の本文をそのまま象徴していることは明らかですね?

 

皆さんがこれまで学んだことを頭の中でよく思い起こしてみてください。

新しく創造された神の民に、神が再び満ちあふれるように注いでくださる生命力を、私は何と呼んだでしょうか?人間が堕落したことで本来遮断されていたものを、救われた民に神が再び注いでくださる生命力を、聖書は「バラク」「祝福」と呼んでいます。

私たち聖徒は今、その永遠の国で神から供給される「バラク」「祝福」を受け、永遠に幸せに生きるようになるでしょう。

それがまさに命の水の川です。

 

しかし聖書は、私たち聖徒がすでにこの地でその「祝福」を受けていると語っています。

 

マタイの福音書5章には、山上の垂訓である八福が登場します。

その八福は全てどのように始まりますか?

「マカリオイ」「幸いなる者よ」と始まります。

この山上の垂訓の八福は、この地上で既に天国を生きている神の民の生活が、この目に見える歴史の中でどのように現れるかを説明している箇所です。

つまり、今この地上に既に霊的にその新しい天と新しい地を生きている人々がいるということです。

既に命の水の川がその中に流れ、月ごとに十二種の果実を結ぶ人々が存在しているのです。

それがまさに聖徒です。

ですから、今日の本文は、やがて来る新しい天と新しい地における聖徒の姿であると同時に、すでにこの地で生きている聖徒の姿でもあるのです。

 

では、この地に存在する私たち聖徒たち、聖なる都、新しいエルサレムの中にすでに命の水の川が流れているというのですが、その命の水とは一体何でしょうか?そして、その命の水はどのようにして再び私たち聖徒たちに注がれるようになったのでしょうか?答えは「イエス」です。

 

 

(ヨハネ4:10-15)

10 イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神からの賜物と、あなたに水を飲ませてほしいと言うこの方がどなたであるかを知っていたなら、あなたがその方に願い求めたでしょう。そうすれば、その方があなたに生ける水をくださったでしょう。」

11 女は言った。「主よ、水を汲む器もなく、この井戸は深いのに、どこでその生ける水を得ればよいのでしょうか。」

13 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇く。

14 わたしが与える水を飲む者は、決して渇くことがない。わたしが与える水は、その人のうちで永遠のいのちを与える泉となって、湧き出ているからである。」

15 女は言った。「主よ、その水をください。そうすれば、渇くこともなく、また、ここに水を汲みに来る必要もなくなりますように。」

 

皆さんよくご存知のサマリヤの女の物語です。

イエスはサマリヤの女に、永遠の命を得る湧き出る泉の水を与えるとおっしゃいました。

するとその女は、その泉の水をくださいと求めます。

ここでもよく見ると、世の人々が求める命の水と、イエスが与えると約束される命の水が全く異なるものであることがわかります。

 

イエスが語られる永遠の命の泉とは、イエスご自身なのです。

しかし、その女が求めた泉の水は、二度と渇くことのない井戸から湧き出る、奇跡のようなこの世の水でした。

 

 

今日の教会の姿は、まさにこのサマリヤの女そのものではありませんか?イエス様はご自身が命の水だとおっしゃっているのに、今日の教会は、そのイエス様に、自分の肉体の喉を潤す奇跡のような水だけを求め続けているのです。

15節を見ると、あのサマリヤの女が主に「主よ、どうか『このような水』を私にください。そうすれば、もう喉が渇くこともなく、またここに水を汲みに来る必要もありませんように。

」と言っていますね?このように世の人々はイエスを信じながら、的外れなものを期待しているのです。

 

しかし主の恵みによって、その女はイエス・キリストこそがまさにその命の水であることを知りました。

するとこの女は喜びのあまりどうしたらよいかわからず、その知らせを伝えるために、この地で自分の喉を潤すのに欠かせない水瓶を捨てて、村へ駆け出します。

これこそが命の水の川がその内に流れる聖徒の姿なのです。

聖徒とは、イエス様の前に水瓶を持って「この水瓶に永遠に渇くことのない奇跡のような水を満たしてください」とぐずぐず言う人々ではなく、この世の力である水瓶を捨て、イエスという真の命の水を世に紹介し伝える人生を生きる人々なのです。

言い換えれば、世のものを自分の命として生きる者ではなく、イエス・キリストを自分の命として生きる者たちを聖徒と呼ぶのです。

彼らこそが永遠の命 (神的な命)を所有した人々なのです。

 

 

(ヨハネの手紙一5:11-12)

11 また、この証しは、神が私たちに永遠の命を与えてくださったこと、そしてこの命が御子の中にあるということです。

12 御子を持つ者には命があり、神の子を持たない者には命がありません。

(ヨハネ1:3-4)

3 万物は彼によって造られたのであり、造られたもので、彼によらないものは一つもありません。

4 そのうちには命があった。この命は人の光である。

 

命はイエスの中にのみあります。

ですから、このようにその中に命の水の川が流れている聖徒たちは、世ではなく、ただイエスに命を賭けて生きるのです。

聖徒たちは、自分たちの生活の中で、どうすれば毎月十二種類の実を結んで生きられるかに関心を持つ人々であって、そのイエスを利用して自分の肉の喉を潤そうとする愚かな生き方をしないのです。

その実は当然、聖霊の実です。

(愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実。

.

.

)

その命の水は、どのようにして私たちに再び与えられたのでしょうか?十字架によって与えられたのです。

 

 

では、その命の水であるイエス・キリストを受け入れ、この地上で既に天の国の生活に参加している人々の姿は、この歴史の中でどのような姿として現れるでしょうか?

私が少し前に、それがまさに八福の内容だと言いましたね?

この山上の垂訓に出てくる八福を誤解されている方が多いのですが、八福は「こう生きれば祝福を受ける」ではありません。

この八福は「祝福を受けた者たちはこう生きるようになる」

ということを示すものが八福なのです。

 

つまりこういうことです。

大韓民国の男性は皆、軍隊に行きます。

男性であるゆえに義務服務をするのです。

軍隊に行けば「大韓民国の健康な男性ならこう生きるものだ」と教え、「お前たちは今軍隊に来たのだから一生懸命努力して男になれ」とは言いません。

八福はまさにそういうものです。

「祝福を受けた者、命の水を飲んだ人々はこう生きるようになる」

それが八福なのです。

 

よく見てください。

その神の御座から流れ出て私たちに注がれた命の水を持つ人々の生活が、この地で世の人々にどのように現れるのか、簡単に考察してみましょう。

 

 

(マタイ5:3-12)

3 心貧しい者は幸いである。天の国は彼らのものだから。

4 悲しむ者は幸いである。彼らは慰められるから。

5 柔和な者は幸いである。彼らは地を相続するから。

6 義に飢え渇く者は幸いである。彼らは満たされるから。

7 憐れみ深い者は幸いである。彼らは憐れみを受けるからである。

8 心の清い者は幸いである。彼らは神を見るからである。

9 平和をつくる者は幸いである。彼らは神の子と呼ばれるからである。

10 義のために迫害される者は幸いである。天の国は彼らのものだからである。

11 わたしのために、あなたがたをののしり、迫害し、偽ってあらゆる悪口で中傷するとき、あなたがたは幸いである。

12 喜びなさい。楽しみなさい。天において、あなたがたの報いは大きいからである。あなたがたより前にいた預言者たちも、同じように迫害されたのである。

 

一見して、これは私たちの期待とはあまりにも異なりますね?

まず3節を見ると、主は「幸いなのは(いのちの水を持つ者は)心の貧しい者である」

と語られています。

心の貧しさとは、イエス様が私の内に住まわれるように、私の心にある世の欲望や野心を捨てることです。

世のものが空しくなり、主で満たされることこそが心の貧しさであり、これこそがこの地で天国を生きる者の姿なのです。

世の人々が彼らの世界観で『心の貧しい者』たちを見ると、何と言うでしょうか?『愚か者』と言うでしょう。

しかし主は『彼らが真に祝福された者である』と語っておられるのです。

 

第二に「悲しむ者は幸いである」「幸いな者は悲しむ者である」と語られます。

この「悲しみ」「ペンデオ」という言葉は、不当な扱いに対する悲しみを指します。

祝福を受け救いを得た神の民は、神の子らしい生き方を実践しながら、この地で不当な扱いを受け、理不尽な処遇に耐え忍ぶ姿として現れるのです。

当然です。

私たちが主の子としての生き方を実践するためには、自ら損をし、自ら譲り、自ら負わなければならないため、この地上で「ペンデオ」「悲しむ」ことになるのです。

 

三つ目に「柔和な者は幸いである」とあります。

ここで「柔和」と訳された「プラウス」という言葉は、単に「性格が温和である」という意味ではありません。

この「プラウス」という言葉は、「プロシュケ」すなわち「神に祈る」という言葉から派生したものです。

つまり、この言葉が内包する意味は、「今この世の状況や境遇を見ず、神のみに頼ること」を指すのです。

エジプトから脱出したイスラエルの民は、カナンの地を均等に分け与えられます。

では、いつその地を分けたのでしょうか?カナンを征服した後に分けたのでしょうか?カナン征服を始める前から、あらかじめ分け与えられたのです。

そのカナンの地には敵がうごめいており、その敵はすでに鉄の戦車を持つ鉄器文明を営む者たちでした。

そしてその地に住む者たちは巨人たちでした。

それなのに、まだ青銅器文明を営む寄せ集めのイスラエルが、どうして攻撃もせずにその地をあらかじめ分け持つことができたのでしょうか?自分たちの弱くみすぼらしい姿を見ず、神に頼ったからです。

皆さんはこの地で弱くみすぼらしい姿に見えるかもしれません。

しかし、あなたがたが神のみを頼みとし、自分の命をその方に委ねているなら、あなたはすでに神が約束された勝利の主人公なのです。

それゆえ、主は「心柔和な者は地を相続する」

と語られたのです。

 

第四に、義に飢え渇く者は満たされるとあります。

義に飢え渇くとは、人間の本能的な欲求を超えたものを指します。

人間の本能的な欲求は、食べること、飲むこと、着ることです。

しかし、祝福を受け天国を生きる人々は、彼らの欲求が「義」に向けられています。

「義」とは、関係が求めることを熱心に喜んで行うことを「義」「ツァダク」と言うとしましたね?聖徒が神の恵みによって神との関係を回復し、祝福を受けるようになると、その義に対する欲求、言い換えれば「神を喜ばせる生き方とは何か?」が彼の欲求となるのです。

当然、彼らは金、名誉、権力といった世俗的な欲求を捨てるようになるのです。

 

五つ目に「祝福を受けた者は憐れみ深い」

と言います。

 

 

憐れみとは神の慈しみと愛を指します。

罪を犯し敵となった私たちのために御子を死なせたその慈しみと愛を「エレエモン(憐れみ)」と呼ぶのです。

ですから、その中に命の水が流れている聖徒は、その神の慈しみと愛をもって隣人に接するようになるのです。

やはり世の人々は、そうした人々を指さして「愚か者」と非難するでしょう。

 

六番目に「心の清い者は幸いである」とあります。

心が清いとは、世の汚れたものを空にした状態を指します。

罪の汚れ、堕落性といったものを空にして生きるということです。

彼らは罪を殺すことを熱心に実践しながら生きるのです。

 

七番目に「幸いな人々は隣人を平和にする」

とあります。

神の子イエスがこの地に来られた理由は、まさに平和をもたらすためでした。

私たちがまさにそのイエスの立場に召されているのです。

だからこそ「平和をもたらす者は幸いである。彼らは神の子と呼ばれるからである。

」と言われるのです。

自分だけのために生きる人々は、決して平和をもたらす者にはなれません。

むしろ分裂させ、争わせる者となるのです。

平和をもたらす者たちは、相手が下にあるところに自ら進んで入る人々です。

だからこそ彼らはこの地で苦労するのです。

 

八番目に「義のために迫害される者は幸いである」

とあります。

この地で祝福を受け天国を生きている人々は、世の力の原理とは正反対の生き方をすることになるため、世から迫害を受けるのです。

 

これが「祝福された者、命の水の川がその内に流れている人々」の生き方です。

 

この八つの福をすべて合わせて一言で要約すると「十字架」です。

つまり、祝福を受け天国を生きる人々は、この地で「十字架」を背負う人生を歩むことになるのです。

 

皆さんの中に、今この八つの福を聞いて「それが何の天国だ。

そんなことなら天国には住まない」とお考えの方はいませんか?今、この聖書が語ろうとしているのは、天国でも皆さんが迫害を受け、常に他人に虐げられて生きるということではありません。

ここは罪が支配する世界であるため、天国の生活の原理で生きることは罪人たちに迫害される姿として現れますが、その生活の中で罪人たちが皆消え去った時、そこがまさに天国となるのです。

このように自らを否定し、神と隣人のために自分を空しくする人々だけが集まって住む場所が天国です。

それゆえ、あなたがたはこの地でその生活を訓練し、通らなければならないのだと、それゆえ祝福を受けた人々は、この地でその十字架を通らなければならないのだと、主は私たちに語られたのです。

 

 

皆さん、天国は十字架を通らなければ決して入ることのできない場所です。

ですから、皆さんはこの地上で理性を持ってイエス・キリストの十字架を体で生き抜かなければならないのです。

 

皆さん、私たち一度よく考えてみましょう。

私たちがこの世で他の人より多く持ち、より有名な人になりたい理由は何か?こんなこと考えたことありますか?もし私たちが一人でこの世を生きるなら、それでも私たちはもっと持ちたい、もっと有名になりたいと思うでしょうか?その時は私が何を所有していようと有名であろうとなかろうと全く問題になりません。

なぜなら私が持っているものが少なく、私があまり有名ではないという基準を下す相手がいないからです。

人が自分の所有物について「少ない、多い」と判断する基準は、すべて隣人と比較して下される決定です。

つまり、私たちがこの世でもっと多く持ち、もっと有名になろうとするその欲求の根源を掘り下げてみると、結局は自分以外の他人を打ち負かして自尊心を守り、自分を誇示しようとする「罪」なのです。

私はそれを世の「力の原理」と呼んでいます。

ですから、祝福を受けた新しい人々は、世のものを次々と放棄し、譲り、負けてあげることで、その「力の原理」から脱出しなければならないのです。

そして、その力の原理から脱し、私ではなく神と私の隣人の益のために生きる人々が集まる場所が天国なのです。

 

ですから私たちは、その天国の生活の原理である「力の原理」とは正反対の「十字架」という生活を、この地で訓練するのです。

ですから、祝福を受けた者たちの生活は苦しいものです。

 

皆さん、なぜイエス様はわざわざこの地上に降りてきて十字架を負われたのでしょうか?神様に力がないからでしょうか?他の方法では救いを成し遂げられなかったのでしょうか?神様は私たち聖徒たちに、天国に入るためにはどのような生活を通らなければならないかを絵で示そうと、イエス・キリストに十字架を負わせたのです。

 

私たちはその十字架を必ず通らなければならないのです。

 

 

世は私たちを絶えず試すでしょう。

「力が最高だ、イエスを良く信じればその力を与えてくださる、だから十分の一税を横取りせず熱心にやれ、奉仕を熱心にし、家を売ってでも建築献金してみろ。

そうすれば神様が君に何倍にもその力を増やしてくださるだろう」

皆さん、それは悪魔のささやきです。

絶対に渡ってはいけません。

 

イエス様が荒野で悪魔から受けた試練がまさにそれではありませんか?皆さん、そのイエス様の荒野の試練をよく見ると、聖霊様がイエス様を悪魔のもとに連れて行かれます。

それはイエス・キリストの功績を通して命の水を飲むことになる神の民たちに、「祝福された者たちを悪魔がどのように惑わすか」をあらかじめ示しておられるのです。

 

悪魔がイエス様に石でパンを作って食べさせようと試みませんか?これは世の人々の関心はただ「パン」にあることを示すものです。

聖徒と自称する人々も礼拝堂に来て、ひたすらイエスを利用し、この地のパンの問題を解決しようとします。

それは聖徒ではありません。

私たちはそれを不信者と呼びます。

ある力強い超越者の力を借りて、自分に奇跡のようにこの世の「パン」が与えられることを願うことが、世の人々の願いではありませんか?イエス様は、そう試みる悪魔に何と答えられましたか?「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出るすべての言葉によって生きる」と言われたのです。

イエス様の答えをよく見てください。

「私はパンだけで生きるのではない」ではありません。

「人はパンだけで生きるのではない」です。

それは、イエス様が今、すべての聖徒たちを「代表して」そして「代わりに」試みを受けておられることを示しておられるのです。

 

その言葉は、イエス様が申命記8章3節を引用して答えられたものです。

その申命記8章3節は、神がイスラエルにマナを与えられた理由を説明する箇所です。

その言葉によれば、神がイスラエルにマナを与えられたのは、単に彼らの腹を満たす食物として与えられたのではなく、彼らをカナンの地へ導く糧として与えられたと語っています。

 

 

皆さん、食物と糧の違いをご存知ですか?食物とは、その場その場で腹を満たすために食べる食べ物のことです。

(ご飯、キムチチゲ、スープなどですね)しかし「糧」とは、「人がそれを基盤として、ある目標地点へ到達できるようにする力」を指します。

かつて韓国に大麦の峠があった時代、倉に米を数俵積み上げれば、家族全員が冬を越す力を得られました。

それを「糧」と呼ぶのです。

ギリシャ語では前者を「プロペ」、後者を「ブロマ」と言います。

ところが韓国語の改訳聖書では、この二つの語を混用して翻訳しています。

 

つまりこういうことです。

神は御自身の民にマナを与えながら、彼らが荒野に降り注ぐマナを見て「このような神ならば、必ず約束の地へ導いてくださる」という力を与えるために、彼らにマナを与えられたのです。

そのマナはイエス・キリストを象徴するものでした。

神は神の民に糧を与えてくださる方であって、食物を与えるために存在する方ではないのです。

もちろん食べ物も神が与えてくださいます。

しかし食べ物は、私たちが神の民として造られていく道のりにおいて、私たちの生存のために与えられるものであり、それが人生の目的になることはありえないのです。

ところがイスラエルはそのマナを「食べ物」として見ていたのです。

神は私たちが望む食べ物を供給してくださる方だと誤解していたのです。

イスラエルの民がマナを単なる食物としか見なかったからこそ、不平が生まれたのです。

「私たちはエジプトではニラやニンニク、肉も食べていたのに、なぜここでは毎日マナばかり食べなければならないのか?」そこで申命記8章で「マナを与えられたのは、人がパンだけで生きるのではなく、神の口から出るみ言葉によって生きるためである」と教えられているのです。

このように世は「パン」のために生き、ただ「パン」を目的として生きていますが、私たちは神の御言葉に従い、その御言葉に順応することを目的としてこの地を生きなければならないのです。

その道を歩むにあたり、私たちが生存しなければならないため、「パン」が少し必要なのです。

しかし今日の教会は、神の前に籠を持って行き「パン」だけをねだっているのです。

イエス・キリストは、あなたがたに世のパンを与えるために来られた方ではありません。

 

あなたがたにイエスによる「信仰」を与え、その信仰の内容である「イエス」を力として「天国」へ導くために、イエスをこの地へ遣わされたのです。

 

 

(ヨハネ6:27)

27 朽ちる食物のために働くのではなく、永遠のいのちにある食物のために働け。この食物は、人の子があなたがたに与えるものである。人の子は、父なる神に印を押された方である。

 

二つ目の試練も同様です。

悪魔が主を神殿の頂上に連れて行き、「飛び降りなさい」と言います。

「自分の力で自分を証明してみせろ」という試練です。

それが悪魔の勢力がこの世を生きる方法なのです。

イエス様は十分にそのような力をお持ちの方ですが、お断りになります。

聖徒はこの地で自分が目立つ生き方をする者ではないからです。

 

 

三度目に悪魔は世の栄光を見せながら、自分にひれ伏せばこの世の栄光を与えると言います。

イエス様は拒まれます。

それではよく考えてみてください。

イエスを信じるという名目で礼拝堂に来て世の栄光を求める人々は、いったいどんな人々でしょうか?悪魔に礼拝している人々なのです。

皆さん、私たちは世のものがないために悲しみ、挫折する人々ではありません。

私たちは世のものがないことを恐れる人々ではなく、神の言葉への関心よりも世の他のものに更なる関心を持つ、私たちの罪深い姿を恐れるべきなのです。

皆さんはすでに命の水を飲んだ方々です。

彼らはこの世で必ず十字架を通らなければなりません。

 

 

明日はクリスマスです。

皆さん、イエス様がなぜこの地にそれほど卑しい姿で飼い葉桶に来られたのかご存知ですか?なぜそれほど醜い姿で生涯貧しく生き、去って行かれたのかご存知ですか?イエス様は、イエス様の外見を見て「私はあなたの民です」と従う者たちがいないようにするために、そのように来られたのです。

真の神の民を見分けるために、そのような姿で来られたのです。

 

もしイエス様がローマ皇帝として来られたなら、この世全体がその方を追いかけたでしょう。

しかし彼らは皆、イエス様が持たれた力と富を追いかけるのであって、永遠の命の水である救い主に従うのではないのです。

皆さん、ご存知ですか?ただ神の民だけが、そのイエスのみすぼらしい姿の中に命の水を見出すのです。

 

多くの人々は、イエスを信じれば彼らの人生に奇跡が起こり、目に見える繁栄と幸福が訪れるという錯覚を抱いています。

もし神がこの世でそのような働きをなさるなら、誰もがイエスを信じようと名乗り出るでしょう。

神は真の神の民を選別するために、天国への道筋に十字架というつまずきの石を置かれたのです。

この世の力と権力を追い求める者たちは皆、その十字架というつまずきの石につまずいて倒れてしまいます。

偽物は十字架の前ですぐに諦めます。

「これが何の祝福だ?俺は行かない」

ただ神が選ばれた神の民だけが、その十字架を黙々と通り抜けるのです。

 

 

皆さん、なぜ神の星が東方の博士たちをヘロデの宮殿へ導いたのでしょうか?神はあの東方の博士たちを通して、この世に何か語ろうとしておられたのです。

単に神が東方の博士たちに幼子イエスを礼拝させるためだけに彼らを導かれたのなら、その星は真っ直ぐベツレヘムへ向かうべきでした。

ところが神はその星をヘロデの宮殿へと引き寄せられたのです。

 

東方の博士たちは、ユダヤ人の王ヘロデの宮殿に行き、別の王を探します。

それは、神が東方の博士たちを通して、この世の王、この世の力を否定される場面なのです。

 

この世の力が真の力ではなく、たとえ飼い葉桶に置かれていても神の言葉に忠実に従順し、死ぬまで従順するその生き方こそが真の力であり真の王の生き方であることを、鮮明に対比させているのです。

イエス様は力の原理によって利己的に動くこの世が完全に誤った世であることを明らかにするために来られたのです。

それゆえイエスが来られるやいなや、世の力の象徴であるヘロデ王の正体が残酷に暴かれるのです。

自らの力を維持するため、子供たちまでも躊躇なく殺してしまう、そのような世の正体がイエスの前で暴かれるのです。

また天の王としての役割を果たす者たちが、このようにこの世で世の王たちから迫害され、追われ続ける姿として現れることを暗示しているのが、イエスの誕生物語なのです。

 

 

(ミカ5:1-2)

1 娘たちよ、軍勢を集めよ。彼らは我々を取り囲んだ。杖でイスラエルの裁判官の頬を打つであろう。

2 ベツレヘム・エフラダよ、あなたはユダの氏族の中で小さいが、イスラエルを治める者があなたから私に現れる。その根源は太古、初めに遡る。

 

この言葉を意訳すると、イスラエルの裁判官の頬を打つ方がベツレヘムから出るとの御言葉です。

 

神はイスラエルの背きを治めるため、異邦の民を用いてイスラエルを裁かれます。

しかしミカは今、ベツレヘムから再びイスラエルがそのような裁きに遭わないようにする王が現れると預言しているのです。

つまりこの節は、イエス・キリストが、世の裁判者たちが世の力の原理でイスラエルを治めた結果神の裁きを受けたこととは対照的に登場し、この世の支配原理とは正反対の原理で世を治め、イスラエルを神の裁きから救われるという意味を含んでいるのです。

その意味で、イエスはイスラエルの裁判者の頬を打つために来られたと申し上げたのです。

 

イスラエルの裁判官とは誰でしょうか。宗教指導者たちのことです。

ところでミカが3章で、そのイスラエルの宗教指導者たちをどのように表現しているか見てください。

 

 

(ミカ3:9-11)

9 ヤコブの首長たち、イスラエルの統治者たちよ、正義を憎み、正しいことを曲げる者たちよ、どうかこの言葉を聞け。

10 血でシオンを、罪でエルサレムを築く者たちよ。

11 その指導者たちは賄賂のために裁き、その祭司たちは報酬のために教え、その預言者たちは金のために占いながら、なおも主を頼って言う。「主は私たちのうちにおられるではないか。災いは私たちに及ばない。」と。

 

宗教指導者たちが金を受け取って裁きをし、祭司たちは報酬のために教え、 預言者は金のために占いをしながら、主が私たちと共におられるから、決して災いが私たちに及ぶことはないと言い張ったのです。

現代風に言えば、教会指導者が金を見て祝福し、金のために預言をし、献金を多くすれば幸せに生きられると教え、奉仕を熱心に行えば神が祝福を与えてこの世でうまくやっていけるように教えたということです。

神はまさにその者たちの頬を打つために、イエスをベツレヘムの飼い葉桶に遣わされたのです。

そして十字架で殺してしまわれました。

 

世の人々が見たとき、それが本当に勝利の姿に見えますか? それが本当に世の頬を打つ姿に見えますか? しかし主はこう言われます。

「あの十字架こそが勝利であり、あの十字架の生涯こそが世の頬を打つ姿である」と。

皆さん、イエスが誕生され、ヘロデがベツレヘム周辺の二歳以下の子供たちを皆殺しにするよう命じたでしょう?そこでヨセフとマリアは主と共にエジプトへ逃れます。

 

ところが聖書は「わが子をエジプトから呼び出した」と表現します。

本来なら「わが子をエジプトへ呼び入れた」が正しいのではないでしょうか?福音書に登場するエジプトは地理的な意味のエジプトではありません。

イエスがおられない場所、言い換えれば世の王が支配する場所を「エジプト」と呼ぶのです。

 

神は命の水であるイエス・キリストの十字架の命の原理が支配しないすべての場所を「エジプト」と呼びます。

そしてその「エジプト」から神の民を脱出させる方です。

 

ですから今日でも絶えずその出エジプトは起こっているのです。

 

そうして世から出エジプトした人々は絶えず世の人々から誹謗と嘲りの的となります。

 

 

(ルカ2:34-35)

34 シメオンは彼らを祝福し、その母マリアに言った。「見よ、この子は、イスラエルの多くの人々の倒れるものと立つものとなり、また、異論の的となるために立てられた。

35 また、剣があなたの心を刺し通すであろう。それは、多くの人の心の思いが明らかにされるためである。」

 

イエス様は世の人々から非難の的となるために立てられたのです。

イエス様が歩まれるところには闇が露わにされたため、主は常に世の闇から非難を受けられました。

主の生涯がしるしであるということは、まさに私たち聖徒の生涯もそのようなものとなるべきだという意味です。

あなたがたが行くところごとに闇が露わになり、彼らが裁きを受けてあなたがたを憎む、その十字架の命があなたがたから出ていますか?

 

(コリント人への手紙第一 4:9-13)

9 私は思う。神は、使徒である私たちを、死に定められた者のように、末席においた。私たちは、世界、すなわち天使や人々に、見せ物となったのである。

10 私たちはキリストのために愚かであるが、あなたがたはキリストにあって賢い。私たちは弱いのに、あなたがたは強い。あなたがたは尊いのに、私たちは卑しい。

11 今この時まで、私たちは飢え、渇き、裸で、殴られ、住む場所もなく、

12 また労苦し、自分の手で働き、ののしられても祝福し、迫害されても耐え、

13 侮辱されても勧め、今に至るまで世の汚れたもの、万物の屑のようになったのである。

(ヘブライ10:32-35)

32 かつてあなたがたが光を受けた後、大いなる苦難の戦いに耐えたことを思い起こせ。

33 あるいは、ののしりと苦難によって、人々の見世物となり、あるいは、このような境遇にある者たちと交わる者となった。

34 あなたがたは、囚われている者を思いやり、あなたがたの財産を奪われることも喜んで受け入れた。それは、より良くて永遠の財産があることを知っていたからである。

35 だから、あなたがたの勇気を捨ててはならない。それは大きな報いを得るのである。

 

皆さん、このように私たちの命の水の川を所有する者たちの生活は、この理不尽な世の中で神の性質とその方の栄光を私たちの生活の中で現さなければならない、今日の本文の表現で言えば、月ごとに命の木の実を結ばなければならない生活です。

だからこの地で天国を生きている人々は、力が必要なのです。

十字架です。

 

しかし、力を出してください。

その十字架の向こうに、私たちの神が両腕を広げて私たちを待っておられます。

たとえ今はその十字架の向こうの世界が私たちの目に見えなくとも、絶望したり落胆したり挫折したりせず、熱心にその道を進んでください。

彼らが真に彼らの内に命の水の川を所有する者たちであり、彼らが結局、永遠の国を相続として受け継ぐのです。

 

最後に、今日の本文3、4、5節を結論として読み、締めくくりたいと思います。

 

 

(黙示録22:3-5)

3 もうのろいはなく、神とその小羊の御座がその中にあり、そのしもべたちは神に仕え、

4 その顔を拝み、その名が彼らの額にある。

5 夜は再びなく、ともしびも太陽も要らない。主なる神が彼らを照らされるからである。彼らは永遠に王として治める。

 

こここそが、あなたがたが進むべき場所です。

この世に目を留めるのではなく、この場所を見つめてください。