Kairosを生きる人々

(95) 命の水の川 본문

講解説教/ヨハネの黙示録

(95) 命の水の川

cocoa 2026. 3. 4. 23:53

 

 

アーメン、主イエスよ、おいでください。

 

(黙示録22:6-21)

 

22:6 さらに御使いが私に言った。「この言葉は真実で、確かなものです。預言者たちに御霊を授けられる主なる神が、御自分の僕たちに、まもなく起こることを示すために、御使いを遣わされたのです。

22:7 『見よ、わたしはすぐに来る』という主の言葉を覚えていなさい。」この書に記された預言の言葉を守る者たちは、幸いである。

22:8 これらのことすべてを聞き、見たのは、わたしヨハネである。わたしがこれらのことすべてを聞き、見たとき、わたしにそれらを見せた天使の足もとにひれ伏して礼拝しようとした。

22:9 すると、彼はわたしに言った。「そんなことをしてはならない。わたしも、あなたや、あなたの1)仲間の預言者たち、またこの書の言葉を守る者たちと同じしもべである。礼拝は神にささげなさい。」 彼、「兄弟たち」

22:10 また彼は私に言った。「時は近づいた。この書に記された預言の言葉を封印してはならない。

22:11 今、不義を行う者はなお不義を行い、汚れた者はなお汚れたままでいよ。正しい者はなお正しいことを行い、聖なる者はなお聖なるままでいよ。」

22:12 見よ、わたしはすぐに来る。わたしは各人にその行いに応じて報いるために、報いの杯を持って来る。

22:13 わたしはアルファでありオメガ、初めであり終わり、始まりであり終りである。

22:14 いのちの木に至る権利を得、また門を通って都に入るために、自分の衣を洗って清く保つ者は幸いである。

22:15 犬ども、魔術師ども、姦淫を行う者ども、殺人者ども、偶像礼拝者ども、偽りを愛し行う者どもは、みな外に置かれるであろう。

22:16 わたしイエスは、わたしの天使を遣わして、これらの証しのすべてを諸教会に告げ知らせた。わたしはダビデの根、またその子孫、輝く明けの明星である。」

22:17 聖霊と花嫁が「来なさい」と言っておられる。この言葉を聞く者もまた「来なさい」と叫べ。渇いている者も来なさい。いのちの水を望む者は、ただで受けなさい。

22:18 この書に記された預言の言葉を聞くすべての人に、私は証言します。もし誰かがこれに何かを加えるなら、神はこの書に記された災いをその者に加えられます。

22:19 また、もし誰かがこの預言の書に記された言葉から何かを削り取るなら、神はこの書に記されたいのちの木の恵みと、聖なる都におけるその者の分け前を、その者から取り去られます。

22:20 このすべての啓示を証しする方がこう言われました。「まことに、わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください。

22:21 主イエスの恵みがすべての人にあるように。アーメン。

他の古代写本には「聖徒に」とあり、他の古代写本には節末に「アーメン」がない

 

さて、私たちはヨハネの黙示録の結末部分に到達しました。過去2年間、毎週ほぼ1時間ずつ学んできたので、非常に膨大な分量を学んだことになります。放送や説教テープを聞かれた方々は、ほぼ半分以上がカットされた説教を聞かれたことになるので、その方々はさておき、皆さんは現場でライブで一節一節、一語一語をすべて学ばれました。

 

おそらく、皆さんがヨハネの黙示録を再読する際に理解できない単語や節が出てきたら、その節が含まれている説教テープを探して聴けば、90%以上は解決されるでしょう。それほどまでに私はこのヨハネの黙示録講解に心血を注いできました。

 

もし皆さんがこれまで学んだこの黙示録の内容を正しく理解し、身につけておられるなら、皆さんは今日の結論部分を学び終えた後、ヨハネの告白のように「アーメン。主イエスよ、おいでください。」という告白をなさるべきです。

 

「アーメン。主イエスよ、おいでください。」 私が聖書を読むたびに、聖書のすべての節の中で最も感動して読む箇所です。この言葉は別の言葉で言えば、「主よ、今日であっても主が私を召されるなら喜んで行きます」という言葉になります。主が来られるということは再臨を意味することもありますが、私が主のもとに行くその日が主が私のところに来られる日となるからです。

 

皆様、いかがでしょうか?皆様はこの告白をする準備ができていますか?「アーメン、主イエスよ、おいでください。」もしかして「主よ、もう少し待って来てくれませんか?」という思いで今日を過ごしていませんか?

 

今日の本文6節を見ると、私たちが学んだこのヨハネの黙示録の内容が「まことに、速やかに起こる」‘Δάι γἱνέσται Ἐν τᾷ ἱμέρει’と記されています。

そして7節でも主は「わたしはすぐに来る」エルゴマイ・タクウとおっしゃっています。

ある人々はこうした箇所を引用して聖書を攻撃します。

「すぐに来るというのに、なぜ今まで実現しないのか?」「あなたがたが信じるイエスはすぐに来るというのに、なぜ今まで来ないのか?」と嘲笑するのです。

ペトロの手紙二3:3節を見ると、終わりの日に嘲る者たちが現れて、そうやって私たちを嘲るだろうと書かれていますよね?

聖書は実に恐ろしいほど正確です。

皆さんはどうお考えですか?この黙示録が記されたのはAD95年頃ですから、それから1900年が経ちました。

しかし今もなお、世界は神を嘲り、神に敵意を抱きながら、このように健在です。

主は来られるおつもりもないように見えます。

ここで「決して速やかに起こることはない」「デイ・ゲネスタイ・エン・タケイ」は時間的な意識として解釈してはなりません。

時間的な意識とは、歴史世界を生きる人間が持つ意識であり概念であって、神の意識や概念ではないということを忘れてはなりません。

神には時間というものがありません。

時間の概念がない場所を、私たちが黙示世界と呼ぶのです。

私たちは今、黙示の中でこの黙示録を見ているのです。

ここで「速やかに」と訳された「タケイ」や「タク」は、「タキス」という形容詞から派生した言葉です。

ギリシャ語の「タキス」は「突然」「即座に」「必ず」という意味がより強い言葉です。

ですから本文で述べられている「速やかに」は、時間的な意味である「すぐに」という意味ではなく、「覆されたり取り消されたりすることなく必ず成し遂げられること」という意味を強調している言葉なのです。

それゆえ本文13節で再び「わたしはアルファでありオメガである。初めであり終わりである。始まりであり終りである」

と繰り返し記されているのです。

主が初めであり終わりであるということは、主が必ず語られたことを成し遂げてみせるとの意志の宣言でもあります。

今日の本文10節もまさにその内容を伝えているのです。

 

(黙22:10)

10 また、私にこう言った。「この書の預言の言葉を封印してはならない。時は近いからである。」

 

ダニエル書8章26節では、神がダニエルに「このことは多くの日の後のことだから、この書を封印してはならない」と告げられます。しかしヨハネの黙示録では、まったく逆に「時は近い。封印してはならない」と命じられています。

それゆえ私たちがこの書を見ることができるようになったのです。

ダニエル書とこのヨハネの黙示録の間に、いったい何が起きたのでしょうか。それはまさにイエス・キリストが来られ、十字架を担われた出来事です。イエスが約束通りこの地に人間として来られ、十字架を担われたので、今や神の言葉は必ず成就せざるを得ないのです。

その十字架の出来事以降の期間を私たちが「末世」と呼ぶのも、そのような意味でそう呼ぶのです。

今やその終わりは必ず来るほかなく、その時期がいつであるかは誰も知らないという意味で「末世」なのです。

その言葉は、今や毎日が最後であるかのように生きなければならないということです。

 

聖書はこうしてまだ来ていないものを来たものとして生きる人々を「クリスチャン」「聖徒」「信者」「信仰を持つ者」と表現します。

彼らが「アーメン、主イエスよ、おいでください」と告白できる人々なのです。彼らは「主が今日来られても、私は喜んで主をお迎えします」と告白できるようになるのです。

 

どうしてそれが可能でしょうか?彼らには「信仰」というものがあるため、その「信仰」にふさわしい生活を今日生き抜くからです。

信仰を持つ人々は必ずその信仰にふさわしい生活を送ります。なぜなら、主が約束されたことは「決して、必ず、速やかに、突然に、急に」成就すると信じるため、彼らは今日を準備しながら生きるのです。それゆえ、今日の本文7節はこう記しているのです。

 

(黙22:7)

7 見よ、わたしは速やかに来る。この書の預言の言葉を守る者は幸いである。

 

聖徒たちは「神の預言の言葉を守りながら生きる」のです。これは「私たちが祝福を受けるためには神の言葉を守らなければならない」という教えではなく、「祝福を受けた者たち、信仰を所有した者たちは、この書の預言の言葉を守りながら生きていた」という教えなのです。

9節にも同じ内容が出てきます。

 

(黙22:9)

9 彼は私に言った。「わたしは、あなたとあなたの兄弟たちである預言者たち、またこの書の言葉を守る者たちと同じ僕である。だから、そうせず、ただ神を礼拝しなさい。」

天使が聖徒を指して「この書の言葉を守る者たち」と表現していますね?

11節を見ると、信仰を持つ者たちがこの地でどのように生きるかがより明確に示されています。

 

(黙22:11)

11 不義を行う者はなお不義を行い、汚れた者はなお汚れたままであり、義を行う者はなお義を行い、聖なる者はなお聖なる者となるようにせよ。

 

この言葉は、神に選ばれて信仰を持つ者たちを除いたすべての罪人は、不義で汚れたまま生き続けるが、神に選ばれた者たちは義を行い、聖く生きるようになるということを示しています。

ですから、信仰を持つ私たち聖徒は、この地で義を行い、聖く生きることに努め、訓練し、練習し、成熟した信徒として築き上げられていくことだけに専念すればよいのです。他のことをする必要はありません。

ですから本文12節を見ると、主が私たちの働いた分に応じて報いてくださるとの内容が出てきます。

 

(黙22:12)

12 見よ、わたしはすぐに来る。わたしが各人にその働いた分に応じて報いるための報いの杯を、わたしのために用意している。

 

この御言葉は、献金を多くし、奉仕を多くし、宣教を多くすれば、神がその分に応じて差別のある報いをくださるという意味ではありません。「報い」とは、以前私たちが詳しく学んだように、「永遠の命」「救い」を指すものです。今日の本文の御言葉によれば、その「報い」のために私たち聖徒はこの地でどのような行いをすべきか、その行いとは何でしょうか?

 

(ヨハネ6:28-29)

28 彼らは尋ねた。「私たちはどうすれば神の業を行うことができますか。」

29 イエスは答えて言われた。「神が遣わした者を信じるのが、神の業である。」

皆様がこの地でなすべき唯一の「業」は、神が遣わした者、イエスを信じることです。それが神の業です。

そしてその信仰という「業」の結果として、私たちの生活の中で聖さへの奮闘が起こるのです。

 

(黙22:14)

14 その巻物を洗う者たちは幸いである。彼らはいのちの木に近づき、門を通って都に入る権能を得るからである。

 

聖なる都、新しいエルサレムに入る権能を得た者たちは、この地でどのように生きるのでしょうか?

その衣を洗う生活を送ると書かれています。衣を洗うとは、自らを清めるという意味です。

私たちが7章14節を学ぶ時、聖徒たちは小羊の血によって既に衣を白く洗って着た者たちであることを学びました。

聖書は、小羊の血で衣を洗って着た者たちが、この地で自らの衣を洗う生活、聖なる生活を送ることになることを改めて確認させています。それゆえ本文15節で「なおも暗闇の中に住んでいる者たちは、決して神の国に入ることができない」と再び釘を刺すのです。

 

(黙22:15)

15 犬たち(ここで犬たちとは偽りの教えを行う者たち、ピリピ書)と魔術師たちと姦淫を行う者たちと殺人者たちと偶像礼拝者たちと、また偽りを好み、偽りを造り出す者たちは、みな町の外にいるであろう。

 

このように救われた聖徒たちは、この地を信仰によって生きていきます。世の力を力とせず、ただイエス・キリストを力としてこの地を生き抜きます。聖徒たちは他のものに心を留めず、信仰を堅く保ち、衣を洗うことに専念するのです。そしてその救いの賜物があまりにも尊いことを知るゆえに、世に向かって「あなたたちも急いでそこから出て、こちらへ来なさい」と叫ぶ人生を生きるのです。続けて本文17節を見ると、聖徒たちの生活が「祝福の伝達者」としての生活でなければならないことが明確に記されています。

 

(黙22:17)

17 聖霊と花嫁が言われる。「来なさい。」聞く者も来なさいと言うべきであり、渇く者も来るべきであり、また望む者は、代価なしに命の水を受けなさい。

 

聖霊と花嫁、すなわち教会が「来なさい」と叫びます。

そしてその言葉を聞く者たちも「来なさい」と叫ぶように言います。

ですから私たち信者は、この地で信者らしい生活、聖なる生活を通して、世の人々に「来なさい」と叫ぶ人生を歩まなければならないのです。これが聖徒の人生です。

皆さん、これまでヨハネの黙示録を学ばれて、聖書に「聖徒はイエスを信じた瞬間、万事順調、病気癒し、順風満帆になる」という内容を、一節でもご覧になりましたか?むしろ「聖徒はこの地で苦難を通過する。

しかしその苦難は、あなたがたを養っておられる神の御手である。

だからよく耐え忍びなさい。勝ちなさい。」でした。では、いったい「イエスを信じれば豊かに暮らせる」という繁栄神学や成功神学、祈願信仰、神秘主義といったものは、いったいどこから出てきたのでしょうか?

それらは依然として力を求め、自分の利益のために神さえも奴隷として使おうとする悪しき罪人たちの頭から出てきたものです。

神は明らかに、そのような者たちに大きな災いで報いると宣言されました。

本文18節19節をご覧ください。

 

(黙示録22:18-19)

18 この書の預言の言葉を聞く者すべてに、わたしは証しする。もし、だれでも、これらのことに加えるなら、神はこの書に記されている災いをその者に加えられるであろう。

19 また、この書の預言の言葉から何かを引いて去る者があれば、神はこの書に記されているいのちの木と聖なる都への参加を、その者から引き去られるであろう。

 

神は、偽者が現れて真理の福音に不純物を混ぜ、でたらめな福音を作り出すであろうことを、このようにすでに私たちに警告しておられました。私は説教の原稿を書く前に、いつもこの箇所を大声で読み上げてから原稿を書き始めます。

説教の原稿を書きながらも、「聖書にある言葉に付け加えたり、取り除いたりする者は呪われる」という神の御声を常に確認しながら御言葉を準備します。

時には説教の原稿をほぼ書き終えた後でも、再び破り捨てて書き直すこともあります。

それを本当に何度も繰り返しました。なぜなら説教とは、神が天下よりも尊いとおっしゃった人間の生と死に関する内容だからです。

ところが説教の内容に私の私見や、私が言いたいこと、私の欲望が加わって、御言葉とは全く異なる内容になってしまうことが時々あるのです。

皆さん、私の説教の一次対象はまさに私自身です。

私は説教の原稿を全て書き終えた後、まず自分自身に説教します。

その時に、その説教によって私の魂が神様をより深く知り、聖なる生活を慕うようになるのではなく、私の野心や欲望が煽られる時、その時は容赦なく全て破り捨てます。

他のことはともかく、神様の御言葉だけは不純物が混ざってはなりません。

しかし、真に神が遣わされたしもべたちは、でたらめなことはできません。

なぜなら、その人の中に聖霊がいて、聖霊が伝えられる御言葉にも介入されるからです。

ですから、人々が聞きたいことだけを言うことはできません。

それで、本文6節を見ると、神を「預言者たちの霊の神」と描写しているのです。

 

(黙22:6)

6 また、彼は私に言った。「この言葉は真実で確かなものである。主、すなわち預言者たちの霊の神が、そのしもべたちに、まもなく起こることを示すために、御使いを遣わされたのだ。」

 

この言葉は、神の言葉を伝える者たちと、彼らが伝える教えが神の統制下にあることを宣言しています。しかし聖書は、神が遣わした霊ではなく、悪魔に属する霊もあることを明らかにしています。

 

(ヨハネの手紙第一4:1)

1 愛する者たちよ、すべての霊を信じるのではなく、その霊が神から出たものであるかどうかを確かめなさい。多くの偽預言者が世に出て来ているからです。

 

このように、悪魔が遣わした者たち、偽預言者たちが、言葉を伝える教師として、牧師として、宣教師としてこの地に来ています。

そして、福音に不純物を混ぜ込み、世を惑わし、神の子らまでも惑わしているのです。

ですから、皆さんはしっかり目を覚まして信仰生活を送らなければなりません。

先週、東部にお住まいのとある勧士様が相談の電話をくださいました。

あなたが通っている教会の牧師様が、全く福音とは関係のない「献金を多くすれば祝福を受ける、奉仕し献身しなければ良く生きられない」といった祈願的な説教ばかりなさるそうです。

そして、ご自身の気に入らない人は、どんな口実をつけてでも追い出されるそうです。

我慢に我慢を重ね、もはや耐えられなくなったので牧師に抗議しようとしたところ、人々が「それでも油注がれた牧師に逆らえば呪われるだろう」と言って、なかなか踏み切れないというのです。

皆さん、牧師の中にも悪魔の霊を受けて人を惑わすために来た偽預言者がいることを、なぜ知らないのですか?

あなたがたが教会を選び、牧師を選ぶことは、ある意味ではあなたがたの魂を託す重大なことです。

それなのに、噂や憶測で信仰生活を送ることができましょうか?

 

(エペソ2:10)

10 私たちは神によって造られた者です。キリスト・イエスにあって、良いわざを行うために造られたのです。

神はあらかじめ備えてくださったそのわざを、私たちがその中を行えるようにされたのです。

 

私たちは神の御業です。

良い行いをするために、神がキリスト・イエスにおいて私たちを造られました。

神がこのように備えられたのは、私たちが良い行いをしながら生きるためです。これを見てください。

私たち聖徒はこの地で「良い行い」のために造られたのです。

良い行いとはどんなことだと言いましたか?

覚えていますか?「トブ」「見よ、それは良かった」。神の創造の目的に立ち返り、神の栄光を効果的に反映し、神を愛し、隣人を自分の体のように愛することが、まさに善い行いなのです。

それがまさに神が遣わされた方、イエスを信じることです。

そしてそれを「神の仕事」と呼ぶのです。ですから「善い行い、神の仕事、信仰」はすべて同じ言葉なのです。

私たちはこの地でそれを成し遂げて行くのです。

決して力を追求する世の原理で生きて行ってはなりません。

ルカによる福音書12章には愚かな金持ちのたとえが出てきます。

ある金持ちが収穫が非常に増えたので、倉を大きく作り、収穫をそこに積み上げて、「これから何年も使う物を蓄えたのだから、安心して休んで、食べて飲んで楽しもう」と言いました。

しかし神は彼を「愚かな者」「アプロン・タウテ」と呼びます。

「アプロン」という言葉は「愚かである、自己中心的である」という意味です。

皆さん、考えてみてください。あの金持ちは一体何をしたというのでしょうか?

自分が懸命に働いて得たものです。それで人を騙したわけでもなく、ただ倉にきちんと積み上げて幸せに楽しもうとしただけなのに、なぜ神は彼を「愚かな者、自己中心的な者」「アプフロン・タウテ」と呼ぶのでしょうか?

この金持ちの人生は、私たち全ての人間が普遍的かつ共通して望んでいるものではないでしょうか?

世の愚かさは、目に見えるものが全てだと錯覚することです。

目に見える自分の収穫が増えたからといって、それが自分に幸福をもたらすと思う者たちは皆「愚かな者たちだ」と、この愚かな金持ちのたとえ話が語っているのです。

彼らは決して神の招きに応じません。

マタイの福音書にこんなたとえ話が出てきますよね?

ある主人が宴会を開き、人を招きました。しかし人々は来ません。「新しく買った畑を見に行かねばならない、新しく買った牛を試さねばならない、嫁がねばならない、婿に出さねばならない」と。

彼らは皆、この世の物に関心を置いて生きる人々を指しています。

彼らは宴会を催した主人の心や、その宴会の本質には関心がありません。

ただ自分たちの所有する畑や牛の方が重要なのです。

主人は僕たちを遣わして貧しい者や病人を招かせます。彼らはこの地で自分の所有物や収穫を全く期待できない人々を象徴しています。

この地の産物や収穫から遠く離れた人々だけが神の招きに応じられるのです。

だから私は皆さんに「あまり忙しくならないでください」とお伝えするのです。

たとえ皆さんの事業がうまくいっているとしても、皆さんの信仰生活に害が及ぶなら、それを売り払ってください。私たちの教会員の中には、商売が最も繁盛する日曜日に店の扉を閉める方が何人かおられます。

日曜日に店を開けると、礼拝堂に来て座っていても、頭の中は売上のことばかりだったそうです。

これは信仰生活をしているわけでも、していないわけでもなく、あまりに教会生活がおろそかになっていたということです。だから容赦なく扉を閉めてしまったのです。

世俗的に考えれば、それは大きな損失です。

しかし信仰生活に妨げとなるなら、どんな損失でも甘受するという決断が聖徒には必要なのです。

つまり、皆さんはこの地で、罪によって堕落した自分の肉体を絶えず死に追いやらなければならないのです。

皆さんは力を養うのではなく、力を抜かなければならないのです。

 

(コリント人への手紙第一 15:35-38)

35 死んだ者がどうしてよみがえるのか。また、どのような体で来るのか、と問う者がいるでしょう。

36 愚かな者よ、あなたが蒔く種は、死ななければ生かされないのです。

37 また、あなたが蒔くものは、将来の姿を蒔くのではなく、ただ麦か他の穀物の粒を蒔くのです。

38 神はその御心によって、それぞれにふさわしい姿を与えてくださる。

 

よく見ると、聖書はこの世の私たちの肉体を「種」と呼んでいます。

その「種」が死ななければ、私たちは栄光ある復活の体を受けることができないのです。

私たちが「肉の欲望と貪欲、世への愛」を地に蒔いて死なせなければ、決して新しい体で復活することはできないのです。

例えば、菜の花の種を地に蒔いた時、その種が地に入り死ななければ美しい菜の花が咲くように、私たち聖徒はこの地でこの罪ある肉体のものを死に渡し、放棄し、手放していくのです。

 

(コリント人への手紙第一 15:42-44)

42 死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれて、朽ちないもので生き返り、

43 卑しいもので蒔かれて、栄光あるもので生き返り、弱いもので蒔かれて、強いもので生き返り、

44 肉の体で蒔かれて、霊の体で生き返るのです。肉の体があるように、霊の体もあるのです。

 

この朽ちる肉体、卑しい肉体を地に植え、死なせてしまわなければ、私たちは新しい体で生きるようになるのです。

だから荒野でイスラエルの昔の民60万人が皆死に、新しい民60万人がカナンの地に入ったのです。改めて確認します。

この地で私の肉体が死ぬことを何と呼びますか?

従順と呼びます。その従順を聖書は「聖さ」と呼びます。

そしてその「聖さ」を「神の栄光」とも呼び、「神の栄光」を現すことを聖書は「善い行い」と言います。

そしてその行いを「神の仕事」と言います。

そしてそれらのことを私たちが理解しやすいように一文で表現すると「主なるあなたの神を愛し、あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」です。これが聖徒がこの地ですべきことなのです。

ここに銀の歯を金の歯に替えることがなぜ必要でしょうか?

ここに高地論がなぜ必要でしょうか?ここに「請負論」がなぜ必要でしょうか?ここに「奇跡」がなぜ必要でしょうか?それらはすべて呪われるでしょう。

復活された主の御手と脇腹に、なぜ釘の跡と槍の傷が残っていたかご存知ですか?

その絵は、私たち聖徒が後に復活する時、この地で残った傷をそのまま抱えて生きるという意味ではありません。

イエス様のように栄光ある復活の体をまとむためには、聖徒が必ずその十字架の生涯を通らなければならないという象徴なのです。

皆さんはこの地で十字架を通らなければならない人々であって、威張って「イエスを信じればこのように万事が順調です」を証明する人々ではないのです。

マタイによる福音書17章を見ると、主の変容山の出来事が登場します。

主は変容山に弟子三人をお連れになりました。ペテロ、ヨハネ、ヤコブです。

主はその場所で、栄光ある復活の体へと変貌した姿を弟子たちにお示しになりました。

ではなぜ12人全員ではなく、三人のみをお連れになったのでしょうか。

それは変容の山で主の栄光を見た者と見なかった者の違いが何であるかを知らせるためでした。

主は変容の山で、やがて太陽のように輝く栄光をもってこの地に来られることを示されたのです。

しかし、その主の栄光は十字架の死なしにはあり得ないものでした。

だから主は弟子たちに「私が死んで復活するまでは、あなたがたが見たことを誰にも話してはならない」と命じられたのです。

世の人々は栄光は好むが、十字架は絶対に通ろうとしません。

あの変容の山でペテロが変容されたイエス様を見るやいなや、何と言いましたか?「ここは良い所です。

ここに三つの小屋を建てて住みましょう」と言いました。

十字架を通らず、すぐに栄光に入りたいと願う人間の愚かさを示しているのです。

しかし旧約を見ると、死を経ず、言い換えれば十字架を経ずに栄光の中に天に昇ったように見える人物がいましたね?

その人物は誰でしょうか?エリヤです。

それゆえエリヤは十字架を拒み、神の栄光だけを受け享受しようとするユダヤ人たちの憧れの対象でした。

ところが主は変容の山から降りてこられながら、そのエリヤがすでに来たと語られました。

すると弟子たちの目が丸くなりました。

『エリヤが来たのですか?私たちがそれほど憧れていたエリヤが本当に来たのですか?』主は『エリヤはすでに来たが、人々は彼を勝手に扱った』という謎めいたお言葉を述べられました。

しかし聖書は『あの三人の弟子たちは、そのエリヤが洗礼者ヨハネであることを知った』と記しています。

世の人々の考え方では、火の戦車に乗って死を見ずに天に昇ったエリヤが、ヘロデに捕らえられて斬首された洗礼者ヨハネを意味するとは到底認められませんでした。

しかし、変容の山で主の栄光を見た三人の弟子は、世俗的な信仰のあり方から脱却したのです。

エリヤの栄光は、洗礼者ヨハネの生涯、すなわち十字架を通過しなければ得られないことを悟ったのです。

そしてすぐ続く話が悪霊に取りつかれた少年の話です。

イエスと三人の弟子が変容の山から降りてくると、その下では残りの弟子たちが悪霊に取りつかれた少年を癒そうと必死になっていました。その少年の父親がイエスのもとに来て「主よ、どうか私たちの子供を癒してください。

弟子たちに頼んだのですが、彼らは癒せませんでした」と訴えました。

その時、主は嘆きながらこう言われました。

「信仰のない、背信の世代よ」と。そして、その子から悪霊を追い出されました。

弟子たちが主に尋ねました。「なぜ私たちは追い出せなかったのですか?」主は彼らに答えられました。

『あなたがたの信仰が小さいからである』ここで信仰が小さいという言葉は『信仰がない』という言葉と同義です。

皆さんがこの内容を読みながら『信仰が小さければ悪霊を追い出せない、だから早く信仰を育てて悪霊も追い出し、力も発揮する真の信者になろう』と決意されたなら、皆さんは聖書を完全に逆さまに見ているのです。

今この話は、変容の山と繋がっているのです。

変容の山で主の栄光を見て、神から「あなたがたは彼の言うことを聞きなさい」という言葉を聞いて降りてきた三人の弟子は、洗礼者ヨハネの生涯、十字架の生涯がエリヤの栄光であることを悟りましたが、主の栄光を見なかった者たちは、依然として力を働かせ、力を示すことが信仰であると誤解していたことを対比させているのです。

おそらく主が弟子たちに「もしあなたがたに芥子の種ほどの信仰さえあれば、この山に向かって『あそこに移れ』と言えば、移るであろう」と言われたことを、多くの人々が曲解しているようです。

皆さん、本当に芥子の種ほどの信仰さえあれば山を動かすことができるでしょうか?

山はおろか、この鉛筆を一度動かしてみてください。

なぜできないのですか?聖書は確かに私たち聖徒に信仰が与えられたと述べています。

しかし、その信仰がからし種ほどの信仰なのでしょうか?信仰は救いに必要なものであって、山を動かすために使うものではないからです。皆さんにとって信仰が必要な理由は、救いを得るためです。皆さんが神の子としての存在として成熟していくために必要なのが信仰であって、山を動かすために必要なのが信仰ではありません。

主はこう言われます。

「あなたがたが自分を否定し、自分の力を捨てて、ただ神のみに頼り、その方に従順な人生を歩むなら、その方は山を移すことも海を干上がらせることもできる方だから、自分の力を蓄えて自分を証明したり誇ったりしようとせず、ただ神のみに頼り従いなさい」それが信仰です。皆さんにはその信仰がありますか?

ではなぜ山は動かないのでしょうか?私たちの救いに、山が動いたり海が干上がる必要がないから、神はなさらないのです。

このように信仰とは、悪霊を追い出したり奇跡を起こしたり力を発揮することではなく、自分を捨てて主のみに頼り、主が歩まれた十字架の道を従って行くことこそが信仰であることを示すのが、マタイによる福音書17章の物語なのです。

皆さん、皆さんは信仰を所有している方々です。

信仰を所有する人々は、信仰によって来るべき天国の原理で今日を生きなければならないのです。

彼らがまさに今、天国を体験している人々なのです。

その天国の生活の原理は、繰り返し申し上げた通り、自分を空しくし、自分を死に渡し、神と隣人の益を求める生活、言い換えれば十字架の生活なのです。

皆さん、皆さんは本当に「アーメン、主イエスよ、おいでください」という告白ができる方たちでしょうか?

そのような信仰をお持ちの方たちならば、今、皆さんのところに来られている主イエスと共に、あらかじめその天の生活を練習しなければなりません。

皆さん、イエス様が再び来られるその日を、今日とあまりにも差別化して考えてはいけません。

イエス様はすでに皆さんの内に来られています。

そして今は見えませんが、いつの日かあなたがたが実感できるお方として現れるでしょう。

その時がイエスの再臨です。

聖書における再臨は「パラウシア」であり、その言葉の意味は「現れる」です。

イエスが復活された後、弟子たちに現れたり消えたりされたことを覚えていますか?

そのように私たちと共におられる主が、ただ現れることが再臨なのです。

ですから、皆さんはまさに今、そのイエスが再臨された時と全く同じように生きなければならないのです。

彼らが本当に「アーメン、主イエスよ、おいでください」という告白を心から捧げられる人々なのです。

さて、2006年という一年が過ぎ去りました。

2006年の新年礼拝を捧げたのがつい昨日のことのように思えますが、もう一年が過ぎましたね。

私たちの人生は、そのように矢のように駆け抜けていくものです。

ある日、あなたの人生という矢が的(的)に到達する時、あなたがどんな的(的)に向かって走ってきたかが決まるのです。

もしあなたが間違った的(的)に向かって一生を走ってきたなら、あなたのその最期は悲惨な苦痛へとつながることになるでしょう。

「的を外れること」=「ハムアルティア」とは何と言いましたか?

「罪」です。どうか新年には正しい的を確認し、その正しい的に向かって真っ直ぐに邁進する皆様となりますよう、

心より願っております。ありがとうございました。