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Kairosを生きる人々
(23)聖餐<ヨハネ6:1-15> 본문
(23)聖餐
<ヨハネ6:1-15>
1その後、イエスはガリラヤの海、すなわちテベレの海の向こう岸へ行かれた。
2すると、大勢の群衆が従った。彼らは病人に施されるしるしを見たからである。
3イエスは山に登り、弟子たちと共にそこに座られた。
4ちょうどユダヤ人の祭日である過越の祭りが近づいていた。
5イエスは目を上げて、大勢の群衆が自分の方へ来るのを見て、フィリポに言われた。「この人々にパンをどこで与えようか。買って、この人々に食べさせようか。」
6こう言われたのは、ご自身がどうなさるかを知っておられ、ピリポを試そうとされたからである。
7ピリポは答えた。「一人ひとりに少しずつ与えても、二百デナリ銀貨分のパンがあっても足りないでしょう。」
8弟子の一人、シモン・ペテロの兄弟アンデレがイエスに言った。
9ここに一人の少年がいて、麦のパン五つと魚二匹を持っています。しかし、これではこの大勢の人々にはどれほどの量でしょうか。
10イエスは言われた。「この人たちに座らせなさい。」そこには草がたくさん生えていたので、人々は座った。その数は五千ほどであった。11イエスはパンを取り、感謝の祈りをささげてから、座っている人々に分け与えられた。魚も同様に、彼らの望むままに与えられた。
12 彼らが満腹した後、イエスは弟子たちに言われた。「残ったパンを集めて、捨てないようにしなさい。」
13そこで集めると、五つの麦のパンを食べた後の残りが十二の籠にいっぱいになった。
14人々はイエスのなされたこのしるしを見て言った。「まことに、この方は世に来られるべき預言者である。」
15そこでイエスは、彼らが来て無理に自分を引き立てようとしていることを ことを知っておられたので、また一人で山へ去って行かれた。
私は毎朝、早朝の祈りのために家を出る前に、子供たちの部屋に入ります。そして布団を蹴飛ばしている子がいたら、布団をしっかりかけ直し、その眠る顔をしばらく見つめた後、一人ずつにキスをしてから家を出ます。ただ見ているだけでも、あまりに愛おしくて、あまりに嬉しいからです。ところが先週、ある集会でゼパニヤ書を読み進める中、第3章の内容に本当に胸が熱くなりました。「ああ、神様も私をそんなに愛しておられるのか」と、思わず涙がこぼれそうになりました。皆さんもよくご存知の箇所です。一緒に読みましょう。
<ゼパニヤ書3:17-20>
17主、あなたの神はあなたと共にいます。救いをなされる全能の神です。主はあなたを見て喜び、あなたを迎え、愛をもってあなたを新たにしてくださいます。主はあなたを見て歌い、喜びます。
18祭りの時のように喜びます。「わたしはあなたから恐れと悲しみを取り除き、二度と侮られることがないようにする。
19時が来れば、あなたを圧迫する者たちをすべて罰する。失われた者を連れ戻し、散らされた者を集める。散らされて住むすべての地で、恥を受けていたわたしの民を称賛と栄光で満たす。
20その時には、わたしがあなたがたを集める。その時に、わたしはあなたがたを故郷へ導く。捕らえられて行った者たちを、あなたがたの目の前で連れ戻し、この地のすべての民の中で、あなたがたに栄誉と称賛が与えられるようにする。わたし、主が言う。」
いかがでしょうか?神様は、私たちという御子たちをあまりにも愛しておられるので、ただ私たちの名を呼ぶだけで、それほどまでに感動しておられるのです。
本章では聖餐について共に学ぶが、まさにこの聖餐にそのような神の愛がたっぷりと込められている。
私たちの教会は毎月聖餐式を執り行い、今日の説教を終えた後にも聖餐をいただくが、皆さんは本当にその聖餐の意味をよく理解していただいているか、確認してほしい。
皆さん、神学において恵みの手段(means of grace)として何が挙げられますか?御言葉、祈り、聖礼典です。
その恵みの手段である聖礼典の中には、洗礼と聖餐が含まれています。しかし厳密に言えば、聖餐と洗礼も御言葉の中に含まれるものです。なぜなら聖餐と洗礼は、目に見え触れることのできる福音として私たちに与えられたものだからです。
このように聖餐は福音そのものを内容としているため、私たちはその聖餐を通して神の恵みを味わうことができるのです。
ただし、誤解してはいけないのは、ローマ・カトリックのようにミサ中に司祭がパンとぶどう酒を掲げて祝聖の祈りを唱えると、そのパンとぶどう酒が文字通り、超自然的にイエス・キリストの肉と血に実際に変えられると考えているから聖餐を重視するのではないということです。
カトリック教理問答書第2編には「トリエント公会議は次のようにカトリック信仰を要約して宣言する。私たちは救い主キリストがパンの形で与えられるものはまことに御自身の体であると語られたため、教会は常にこの確信を持ち続けてきた。公会議はこれを改めて宣言する。ぶどう酒の実体全体がキリストの血の実体へと変化する。カトリック教会はこのような変化を適切かつ正確に実体変化と呼んできた。」と記されています。
また第2編1333項には「聖餐式執行の中心であるパンとぶどう酒は、キリストの言葉と聖霊の請願祈りを通じて、キリストの体と血へと変化される。」と記されています。
では、司祭が祝聖の祈りを捧げた後、パンを受け取って地面に落としてしまったらどうすればよいのでしょうか?
イエスの肉を落としたのですから、大変なことになるのではないでしょうか?ぶどう酒を飲んでいる最中に喉に詰まって咳き込み、
ぶどう酒を吐き出してしまったらどうなるのでしょうか?イエスの血を吐き出してしまったのですから、大変なことになるのではないでしょうか?考えてみてください。そのパンはいつの時点でイエスの肉に変わるのでしょうか?口に入れた時でしょうか?ならば肉を噛む味がするはずではありませんか?ぶどう酒を口に入れた時、イエスの血の匂いがするはずですが、そうではないでしょう?
私たちが何の人食い族でもないのに、イエスの本当の肉を噛んで食べるというのは、一見考えてもそれは無理があるように思えます。
ではなぜ聖餐はそれほど重要視されるのでしょうか?申し上げた通り、聖餐はまさにゴルゴダの十字架におけるイエス・キリストの血によって私たちに新しい命が与えられたことを記念する、すなわち胸が熱くなる福音を確かめる儀式であるからこそ、このように重要視されるのです。
<コリント人への第一の手紙11:23-25>
23わたしがあなたがたに伝えたのは、主から受けたことです。すなわち、主イエスが捕らえられる夜、パンを取って、
24祝福し、裂いて言われた、「これはあなたがたのためのわたしのからだである。これをなして、わたしを記念しなさい」。
25また、食後にも、同じように杯を取って言われた、「この杯は、わたしの血によって結ばれた新しい契約である。これをなして、飲むたびに、わたしを記念しなさい」。
<ルカ22:19>
19またパンを取って感謝をささげ、裂いて彼らに与えながら言われた。「これはあなたがたのために与えるわたしのからだである。これをなしてわたしを記念しなさい。」
このように聖餐は、ゴルゴタで神の教会に注がれたその賜物を覚えるためのものであり、聖餐をいただくたびにイエスの血と肉が私たちの中に積み重なって救いを得るようなものではありません。
私たちは聖餐を食べ飲みながら、イエスがご自身のすべてを捧げて私たちを救い出してくださったあの出来事を再び思い起こし、
それによって私たちに与えられた私たちの身分を確認し、感謝し、感動する時こそが聖餐式を執り行う時なのです。したがって、救いを受けていない人は聖餐式に参加することはできません。何の感動や感激もないため、つい忘れていた酒のことが頭に浮かんだり、ご飯のことが頭に浮かんだりして、何の意味もないのです。
また聖餐式は、天国における小羊の婚礼の宴でイエス様と教会が一つの食卓を囲んで晩餐を分かち合うことを象徴するものであり、私たちの教会にとって尊いものです。イエス様は最後の晩餐で弟子たちにぶどう酒を注がれ、天国での晩餐について語られました。
<マタイ26:28-29>
28これは、罪の赦しを得るために、多くの人のために流されるわたしの血、すなわち契約の血である。
29しかし、あなたがたに言っておく。ぶどうの木から出たこの杯を、父の国で新しくあなたがたと共に飲むその日まで、わたしは決して飲むことはない。
私たちは聖餐式を通して「ああ、私は必ずあの天国でイエス様と同じ食卓で晩餐をいただくのだ」と確認し、確信し、今イエス様と共に天国の晩餐をいただくのです。
ここで五つのパンと二匹の魚の奇跡を通して、聖餐の真の意味をしっかりと学び、進んでいきましょう。
本文を見ると、イエス様が麦のパン五つと魚二匹で、男だけで五千人をもてなされた事件が出てきます。この五つのパンと二匹の魚の事件を指して、「神様に小さなものでも真心込めて捧げれば、言葉にできないほど大きな祝福が来る」とか、「神様は霊的なものだけでなく、このように肉的な糧も私たちに供給してくださる方である」とこの御言葉を解くのは誤った解釈です。もちろん神様は私たちの生活における肉的な部分を満たしてくださいます。しかしこの五つのパンと二匹の魚の出来事は、その話をしているわけではありません。この出来事は、イエス・キリストの死を通して私たちに与えられる豊かな天の国の豊かさを説明するための出来事なのです。五つのパンと二匹の魚という小道具は、それだけでは到底不可能なことを示す、ごく取るに足らない小さなものの象徴に過ぎません。したがって、救いとはあなたがたが何かを補えるものではなく、到底不可能なことをイエスがご自身の肉と血を裂くことによって、私たちにその天国の豊かさを贈り物としてくださることを説明してくださる出来事なのです。
だからこそ、この五つのパンと二匹の魚の出来事を始める際、4節でまず過越の祭りを登場させるのです。
<ヨハネ6:4>
4ちょうどユダヤ人の祭日である過越の祭りが近づいていた。
過越の祭りにはどんな出来事がありましたか?子羊の肉と血が救われるべき者たちのために注がれた日です。エジプトの長子たちと共に死なねばならなかったイスラエルの長子たちが、子羊の血によって生かされる日、それが過越の祭りです。ですから五つのパンと二匹の魚の出来事において、イエスがパンを分け与えられた時も、イエスが捕らえられる前の晩に行われた過越祭の最後の聖餐式の時と同じ形でお分けになったのです。11節を見てみましょう。
<ヨハネ6:11>
11イエスはパンを取って祝福し、座っている人々に分け与えられた。また魚も、彼らの望むままに与えられた。
同じ内容のマタイによる福音書14章19節にもこのように記されています。
<マタイ14:19>
19群衆を草の上に座らせ、五つのパンと二匹の魚を取って天を仰いで祝福し、パンを裂いて弟子たちに与えた。弟子たちはそれを群衆に配った。
では、最後の晩餐の時、どのようにパンを裂いて与えられたか見てみましょうか?
<マタイ26:26>
26彼らが食べているとき、イエスはパンを取って祝福し、裂いて弟子たちに与え、こう言われた。「取って食べなさい。これはわたしのからだである。」
まったく同じように、パンを取って祝福し、分かち与えられたのです。このように五つのパンと二匹の魚の奇跡は、イエス・キリストの死によって天の豊かな祝福が聖徒たちに下される真のパンであるイエス・キリストを主題としている物語なのです。イエス様ご自身も直接、この五つのパンと二匹の魚の奇跡が何を意味するのかを説明してくださいました。奇跡の翌日、カペナウムでイエス様に従ってきた群衆に、主はこう語られました。
<ヨハネ6:26-27>
26イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたがわたしを探しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。
27朽ちる食物のために働くのではなく、永遠のいのちのために働くがよい。この食物は、人の子があなたがたに与えるものです。人の子は、父なる神が印を押された方です。」
<ヨハネ6:32-35>
32イエスは言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。天から降ってきたパンは、モーセが与えたのではありません。ただ、わたしの父が天から降らせてくださるまことのパンを、あなたがたに与えるのです。
33神のパンは、天から降ってきて、世にいのちを与えるものです。」
34人々は言った。「主よ、そのパンをいつも私たちに与えてください。」
35イエスは言われた。「わたしはいのちのパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、 またわたしを信じる者は、永遠に渇くことがない。
これで明らかになりましたね? 五つのパンと二匹の魚の奇跡は、まさに命のパンであるイエス・キリストを説明するための象徴的な出来事であり、決してこの地上で私たちに必要な糧を供給してくださる神や、小さなものを捧げれば大きく増やしてくださる神を説明するためのものではなかったということを、イエスご自身が直接説明してくださっているのです。
では、この五つのパンと二匹の魚の出来事が指し示すものが聖餐であるならば、今日の本文を見ながら、私たちはどのような姿勢で聖餐に臨むべきかを学ぶことができるでしょう。本文1節を見てみましょう。
<ヨハネ6:1>
1その後、イエスはガリラヤの海、すなわちテベレの海の向こう岸へ行かれた。
聖書は主がわざわざ海の向こう岸へ行かれ、あの五つのパンと二匹の魚の奇跡が起こったことを記録しています。聖書において海は何を象徴するとありましたか?闇、裁き、罪、罪深い世界を象徴するとありました。それゆえヨハネの黙示録では、新しい天と新しい地には「もはや海がない」と記されています。主はその海を渡って五つのパンと二匹の魚の奇跡を起こされたのです。なぜガリラヤ湖をわざわざティベリア湖と表記したのかを研究してみると、なぜ五つのパンと二匹の魚の出来事が湖の向こう岸で起こったと聖書が記録しているのかを、より明確に理解することができます。デベラ湖は当時のローマ皇帝ティベリウスの名に因んで名付けられたガリラヤ湖の別名です。すなわち世の権勢者の象徴としてガリラヤ湖をデベラ(ティベリウス)湖と呼んだのです。このデベラ湖という表現はこことヨハネ福音書21章で二度用いられています。聖書は、弟子たちがイエスの復活を目撃した後も、魚を捕るためにガリラヤ湖へ行った時、すなわち世の中へ再び戻った時にも、その場所をティベリア湖と表記しています。したがって、イエスが五つのパンと二匹の魚で群衆を養う前に、テベリア湖を渡って山に登り、その群衆を養われたことは、聖餐を受ける資格のある、救われた者たちが世を渡り、世とは無関係となった者たちが聖餐を受けることを象徴しています。さらにイエスはテベリア湖を渡って山に登り、弟子たちと共にそこに座られました。聖書において山は何を象徴するでしょうか。シナイ山、ホレブ山、シオン山、モリヤ山など、山は主に神の栄光を表すために用いられます。その栄光の神の御座の右に座しておられるイエスが備えられるものが、まさに聖餐なのです。したがって聖餐とは、この世を越え、栄光ある神との関係が回復され、天の国の市民となった者だけが享受できる、計り知れない特権を指すのです。それがまさに聖餐です。
そして本文10節を見ると、その場所に草が多くあったと記述されています。
同じ内容であるマルコによる福音書6章39節をご覧ください。
<マルコ6:39>
39そして、弟子たちに命じて、すべての人々を群れごとに分けて、緑の草の上に座らせた。
なぜ聖書は、五つのパンと二匹の魚の奇跡が起こった場所を、わざわざ「草地」や「草」という言葉を使って描写するのでしょうか。
草地や草と聞くと、何を思い浮かべますか。羊飼いと羊です。
イエス様はご自身を表現される時、「わたしは良い羊飼いである」とおっしゃいませんでしたか。
そして詩篇78篇52節を見ると、出エジプトの荒野での生活をこう表現しています。
<詩78:52>
52その民を羊のように導き出し、荒野で群れのように牧された。
したがって、この五つのパンと二匹の魚の出来事は、過越祭が過ぎ、そこから救い出された民を、神がご自身の肉と血であるマナを食べさせながら、羊飼いとしてその群れを導いて行かれる姿を絵で表現しているのです。したがって五つのパンと二匹の魚の奇跡は、聖徒の救いの方法としてのイエス・キリストを描写しているだけでなく、救いの現在性までも同時に描写しているのです。
イエス・キリストという真のパンを食べて救いを得た者たちを、主はただ放り出しておかれるのではなく、彼らが神の国に到達するまで、牧者として自らの肉と血を与え続けながら養ってくださるという救いの現在性を、五つのパンと二匹の魚の奇跡は内包しているのです。
したがって聖餐は、聖徒がイエス・キリストの十字架の死によって、すなわちイエス・キリストの肉と血を食べ飲みして救いを得た後も、神が決して他者としての天におられるのではなく、私たちの内に住まわれ、私たちの牧者となられ、やはりその方の肉と血を与え続けながら、この荒野のような世の中で私たちを導いておられることを確認するものである。私たちは聖餐を通して、その良き羊飼いが導く道はどんな道であっても不足のない道であることを確認し、私たちの信仰を堅く固めるのです。
<黙示録7:17>
17御座の中におられる小羊が彼らの羊飼いとなり、命の水の泉へ導き、神が彼らの目からすべての涙をぬぐい去ってくださるからである。
<詩篇23:1-5>
1主は私の羊飼い。私は、欠けることがありません。
2主は私を緑の牧場に伏させ、水のほとりに導いてくださいます。
3主は私の魂を生き返らせ、御名のゆえに、義の道に導いてくださいます。
4たとえ死の陰の谷を歩くことがあっても、私は災いを恐れません。主が私と共におられるからです。主の杖、主の鞭が私を慰めてくださいます。
5主は私の敵の前で私に食卓を設け、私の頭に油を注がれる。私の杯はあふれんばかりである。
このように聖餐式に参加する者たちは、自分たちが羊飼いであるイエス・キリストの羊であることを知る者たちであり、たとえそこが死の陰の谷のような場所であっても、その羊飼いと共にいるなら不足なく満たされる者たちなのです。
聖餐は、このように福音を説明するだけでなく、私たち信者のこの地での生き方がどうあるべきかを示すものであり、そのような聖徒の生活を福音によって耐え抜くという聖徒の決意と告白が共にある天の宴なのです。
皆さん、聖餐の食卓の上にあるものを一度思い起こしてみてください。小さな杯と酸っぱいぶどう酒と味気ないパンです。
酵母も入っていない、本当に味気ないパンです。皆さんは本当にこの宴の席の上にあるものに満足していますか?
それともここにカルビや酢豚、フグの鍋料理といったものがないのが残念ですか?どちらか一つを選ぶなら、皆さんはどちらを選びますか?福音とは何の関係もないごちそうを選びますか?福音を知る者たちが力の原理で動くこの世で、神の国のかの十字架の原理で生きるために、世の珍味を拒み、食べ飲みすべきイエスの血と肉を選ぶでしょうか?
その二つのうち後者を選んだ人々が、私の選択が正しかったことを確認し、また確認する時こそが聖餐の時なのです。
そうしてただイエス・キリストのその福音だけで満足し生きる者たちを教会と呼ぶのです。
私たちはそのイエスの肉と血だけで十分にこの地を生きる者です。荒野で飢え死にしかねない民を救われるイエスを象徴するものでした。しかし、そのマナを見た人々の目には、それほど満足できるものではありませんでした。
「これは何だ?何もない!」それがマナです。私たち聖徒がこの世で力とし取るべきものは、世の人々の目にはそう見えるのです。
私たちはただ、生き延びるのに十分な分だけを主に求めればよいのです。なぜなら私たちの目的地はこの地ではないからです。
私たちはこの地で神の国の子らとして訓練され、学び、養われ、よく成熟して神の国へ行くだけでよいからです。
だから真の福音を知る者たちは、自分に与えられるものが世の人々には取るに足らないマナだけだとしても、恥ずかしく思ったり不足を感じたりしないのです。世の人々は命のように大切にする自分の所有物を空にして他の人々を助けることができます。
しかし、依然としてこの地に目を向けて生きる人々は、聖餐のテーブルの上のぶどう酒と酵母のないパンが非常に気に入らないのです。
何か別のものをくれと言うのです。韮とニンニクと肉をくれと言うのです。私がついて行くのだから、私が望む豊かな食卓を用意してほしいというのです。荒野のイスラエルもそのような不平を言いませんでしたか?いいえ。私たちは聖餐を食べながら、たとえこの世の目には不足し小さく足りないように見えても、この聖餐の食卓は天国でイエス・キリストと私たちが共に分かち合う天国の晩餐を約束するものであり、それゆえ私は今、不足なく満足した者であることを確認するのです。
それとは対照的に、教会に来て奇跡を求め、病の癒しを願い、自分の願望成就を望む者たち、ルッコラとニンニクと肉だけを求める人々を、聖書は「イエス様を捕らえて王にしようとする者」と言います。
本文15節をご覧ください。
<ヨハネ6:15>15そこで、イエスは、彼らが来て、無理に自分をつかまえて王にしようとしていることを知っておられたので、また一人で山へ退かれた。
イエス様を無理やり王にしようとした者たちは、何のためにそうしたのでしょうか。
自分たちに十分な食べ物を与えてくれる人を望んでいたのです。
主が「私はそのようなことをするために来たのではない」と言われたので、彼らはどうしましたか。
十字架に釘付けにして殺したのです。十字架に釘付けにしてイエスを殺した者たちや、その方をこの世の王として立てようとする者たちは、同じような者たちです。
イエス様はそうした者たちから逃れるため山へ逃げられました。
そうした者たちはイエス様とは全く無関係な者たちだという意味です。
ですから今も教会の中でなおイエス様を釘付けにして殺す者たちがいると言うのです。
そうです。今も礼拝堂の中でイエスを世の物や供給してくれる世の王にしようとしている者たちは、
イエスが今再び来られたなら即座に十字架に釘付けにして殺す者たちなのです。
主が五つのパンと二匹の魚の奇跡が起こったテペレヤ湖という背景で弟子たちになさったことを見てください。
テペレヤの湖畔でイエス様が弟子たちに現れ、パンと魚を焼いて彼らに与えられましたね?
五つのパンと二匹の魚の現場と全く同じ場面です。そして彼らに何をお願いなさいますか?
ペテロに「わたしの羊を養いなさい、わたしの羊を牧しなさい」とお願いなさいます。
「わたしの羊を養いなさい」とは、腹いっぱい魚とパンを食べさせよという意味でしょうか?
イエスは今、そのまことのいのちのパンであるイエスを、その民に伝えよと頼んでおられるのです。
そして主が与えられるその聖餐を食べる者たちである弟子たちに、頼み事をするのです。
今まではお前が行きたいところへ行っていましたが、これからは聖霊がお前を導くままにお前が行くようになる、と語られるのです。
<ヨハネ21:18>
18まことに、まことに、あなたに告げます。あなたは若い時には、自分で帯を締めて、行きたい所へ行っていました。
しかし、年を取ると、あなたは自分の腰を開き、他人があなたに帯を締めて、行きたくない所へ連れて行くのです。
このように聖餐を受ける者は、両腕を広げる十字架の生涯を生きなければならないのです。
私たちが望むように生きるのではなく、神が望まれる通りに生き抜くことこそが、聖餐を受けるクリスチャンの生涯なのです。
すなわち、自分を否定し十字架を負う生涯を生き抜くことこそが、私たちクリスチャンであるということです。
そしてこの地では、たとえ他人に認められない死の陰の谷を歩むような人生を送ろうとも、
いや青き牧場を歩むような豊かな人生を送ろうとも、いかなる状況においても私に不足のない満足な人生であることを確固として胸に抱いて生きる人であり、今はこのように見えなくともあの天国でイエス・キリストとの晩餐を必ず食べることを確信する人です。
また聖餐を受ける人々は皆、平等の中において他者を自分より優れた者と見なす人生を生きる人々です。
この世で見える階級や地位や財産や知識の程度は全て異なっていても、聖徒は一つの食卓で同じ食物を食べる同じ神の子どもなのです。
したがって聖餐を受ける人々は、貧富の差や地位の高低で相手を評価する者たちではないのです。
このように聖餐の中には教会論と救済論と神論と人間論がすべて含まれているのです。
それゆえ聖餐を目に見える福音と呼ぶのです。これが聖餐の真の意味です。
성찬
<요6:1-15>
1그 후에 예수께서 갈릴리 바다 곧 디베랴 바다 건너편으로 가시매
2큰 무리가 따르니 이는 병인들에게 행하시는 표적을 봄이러라
3예수께서 산에 오르사 제자들과 함께 거기 앉으시니
4마침 유대인의 명절인 유월절이 가까운지라
5예수께서 눈을 들어 큰 무리가 자기에게로 오는 것을 보시고 빌립에게 이르시되 우리가 어디서 떡을 사서 이 사람들로 먹게 하겠느냐 하시니
6이렇게 말씀하심은 친히 어떻게 하실 것을 아시고 빌립을 시험코자 하심이라
7빌립이 대답하되 각 사람으로 조금씩 받게 할지라도 이백 데나리온의 떡이 부족하리이다
8제자 중 하나 곧 시몬 베드로의 형제 안드레가 예수께 여짜오되
9여기 한 아이가 있어 보리떡 다섯 개와 물고기 두 마리를 가졌나이다 그러나 그것이 이 많은 사람에게 얼마나 되겠삽나이까
10예수께서 가라사대 이 사람들로 앉게 하라 하신대 그 곳에 잔디가 많은지라 사람들이 앉으니 수효가 오천쯤 되더라
11예수께서 떡을 가져 축사하신 후에 앉은 자들에게 나눠 주시고 고기도 그렇게 저희의 원대로 주시다
12저희가 배부른 후에 예수께서 제자들에게 이르시되 남은 조각을 거두고 버리는 것이 없게 하라 하시므로
13이에 거두니 보리떡 다섯 개로 먹고 남은 조각이 열 두 바구니에 찼더라
14그 사람들이 예수의 행하신 이 표적을 보고 말하되 이는 참으로 세상에 오실 그 선지자라 하더라
15그러므로 예수께서 저희가 와서 자기를 억지로 잡아 임금 삼으려는 줄을 아시고 다시 혼자 산으로 떠나가시니라
저는 매일 새벽 새벽기도를 위해 집을 나서기 전에 아이들의 방에 들어갑니다.
그리고 이불을 차내 버린 녀석이 있으면 이불을 잘 덮어주고 그 잠자는 얼굴을 한참 들여다보다가 한 녀석씩 뽀뽀를 해주고 집을 나섭니다. 그냥 보고만 있어도 너무 좋아서, 너무 기뻐서 그렇습니다.
그런데 지난주 어떤 모임에서 스바냐를 함께 읽던 도중에 3장의 내용을 읽는데 정말 가슴이 뭉클했습니다.
“아, 하나님께서도 나를 그렇게 예뻐하시는구나.” 하고 하마터면 눈물이 쏟아질 뻔했습니다.
여러분도 너무 잘 아시는 구절입니다. 함께 읽어 보겠습니다.
<습3:17-20>
17주 너의 하나님이 너와 함께 계신다. 구원을 베푸실 전능하신 하나님이시다. 너를 보고서 기뻐하고 반기시고, 너를 사랑으로 새롭게 해주시고 너를 보고서 노래하며 기뻐하실 것이다.
18축제 때에 즐거워하듯 하실 것이다. "내가 너에게서 두려움과 슬픔을 없애고, 네가 다시는 모욕을 받지 않게 하겠다.
19때가 되면, 너를 억누르는 자들을 내가 모두 벌하겠다. 없어진 이들을 찾아오고, 흩어진 이들을 불러 모으겠다. 흩어져서 사는 그 모든 땅에서, 부끄러움을 겪던 나의 백성이 칭송과 영예를 받게 하겠다.
20그 때가 되면, 내가 너희를 모으겠다. 그 때에 내가 너희를 고향으로 인도하겠다. 사로잡혀 갔던 이들을 너희가 보는 앞에서 데려오고, 이 땅의 모든 민족 가운데서, 너희가 영예와 칭송을 받게 하겠다. 나 주가 말한다."
어떠세요? 하나님은 당신의 자녀들인 우리가 너무나 좋으셔서 우리의 이름만 부르시는 것으로도 그토록 감격하신다는 것입니다.
본장에서는 성찬에 관해서 함께 공부할 텐데 바로 이 성찬에 그러한 하나님의 사랑이 듬뿍 담겨 있습니다. 우리교회는 매달 성찬식을 거행하고 있고 오늘 설교를 마친 후에도 성찬을 들 텐데 여러분은 정말 그 성찬의 의미를 잘 알고 드시는 것인지 확인하시기 바랍니다.
여러분 신학에서 은혜의 수단(means of grace)으로 어떤 것이 있다고 했습니까? 말씀, 기도, 성례입니다. 그 은혜의 수단인 성례 안에 세례와 성찬이 들어 있습니다. 그런데 엄밀히 말하면 성찬과 세례도 말씀 속에 들어가는 것입니다. 왜냐하면 성찬과 세례는 눈에 보이고 만질 수 있는 복음으로 우리에게 주신 것이기 때문입니다.
그렇게 성찬은 복음을 그 내용으로 하고 있는 것이기에 우리는 그 성찬을 통해 하나님의 은혜를 맛 볼 수 있는 것입니다. 그렇다고 여러분이 오해를 하시면 안 되는 것이 로만 카톨릭에서처럼 미사 중에 사제가 빵과 포도주를 들고 축성기도를 하면 그 빵과 포도주가 실제적이며 문자적으로 예수 그리스도의 살과 피로 초자연적으로 바뀐다고 생각하기 때문에 우리가 성찬을 중요시 하는 것이 아닙니다.
카톨릭 교리문답서 제 2편에 보면 “트리엔트 공의회는 다음과 같이 카톨릭 신앙을 요약하여 선포한다. 우리는 구세주 그리스도께서 빵의 형상으로 내어주시는 것은 참으로 당신의 몸이라고 말씀하셨기 때문에 교회는 항상 이러한 확신을 지녀왔으며 공의회는 이를 다시금 선포하는 바이다. 포도주의 실체 전체가 그리스도의 피의 실체로 변화한다. 카톨릭 교회는 이러한 변화를 적절하고도 정확하게 실체변화라고 불러왔다.”라고 기록이 되어 있습니다.
역시 2편 1333항에 보면 “성찬례 거행의 중심인 빵과 포도주는 그리스도의 말씀과 성령 청원기도를 통해 그리스도의 몸과 피로 변화된다.”라고 기록이 되어 있습니다.
그럼 사제가 축성기도를 한 다음 떡을 받았다가 땅에 떨어뜨렸으면 어떻게 해야 하나요? 예수님의 살을 떨어뜨렸으니 큰일 나는 것 아닌가요? 포도주를 마시다가 사래가 들려서 기침이 나서 포도주를 뱉었다면 어떻게 되는 것입니까? 예수님의 피를 뱉어 버렸으니 큰일 나는 것 아닙니까? 생각해 보십시오. 그 빵은 어느 시점에 예수님의 살로 변하는 거예요? 입에 넣었을 때인가요? 그럼 살 씹는 맛이 나야 하지 않나요? 포도주를 입에 넣었을 때 예수님의 피 냄새가 나야 하는데 그렇지는 않지 않습니까? 우리가 무슨 식인종도 아니고 예수님의 진짜 살을 씹어 먹는 다는 게 언뜻 생각해도 그것은 억지 같아 보입니다.
그러면 왜 성찬은 그렇게 중요하게 취급됩니까? 말씀드린 대로 성찬은 바로 골고다 십자가에서의 예수 그리스도의 피로 말미암아 우리에게 새 생명이 주어진 것을 기념하는 것, 즉 가슴 벅찬 복음을 확인하는 의식이기에 이렇게 중요하게 취급하는 것입니다.
<고전11:23-25>
23내가 너희에게 전한 것은 주께 받은 것이니 곧 주 예수께서 잡히시던 밤에 떡을 가지사
24축사하시고 떼어 가라사대 이것은 너희를 위하는 내 몸이니 이것을 행하여 나를 기념하라 하시고
25식후에 또한 이와 같이 잔을 가지시고 가라사대 이 잔은 내 피로 세운 새 언약이니 이것을 행하여 마실 때마다 나를 기념하라 하셨으니
<눅22:19>
19또 떡을 가져 사례하시고 떼어 저희에게 주시며 가라사대 이것은 너희를 위하여 주는 내 몸이라 너희가 이를 행하여 나를 기념하라 하시고
이렇게 성찬은 갈보리에서 하나님의 교회에 부어진 그 선물을 기억하라는 것이지 성찬을 먹을 때마다 예수님의 피와 살이 우리 안에 차곡차곡 쌓여서 우리가 구원을 받게 되는 그런 것은 아닙니다.
우리는 성찬을 먹고 마시면서 예수께서 자신의 모든 것을 내어주셔서 우리를 구원해 내신 그 사건을 다시금 떠올리며 그로 말미암아 우리에게 주어진 우리의 신분을 확인하고 감사하며 감격하는 시간이 바로 성찬식을 거행하는 시간인 것입니다. 그러므로 구원을 받지 못한 사람은 성찬식에 참여할 수가 없습니다. 아무런 감동이나 감격이 없기 때문에 괜히 잊었던 술 생각이나 나고 밥 생각이나 나지 아무런 의미가 없는 것입니다.
그리고 아울러 성찬식은 천국에서의 어린양의 혼인잔치에서 예수님과 교회가 한 상에서 만찬을 나누는 것을 상징하는 것이기에 우리 교회에게 소중한 것입니다. 예수께서 최후의 만찬에서 포도주를 제자들에게 따라주시고 천국에서의 만찬을 이야기하십니다.
<마26:28-29>
28이것은 죄 사함을 얻게 하려고 많은 사람을 위하여 흘리는바 나의 피 곧 언약의 피니라
29그러나 너희에게 이르노니 내가 포도나무에서 난 것을 이제부터 내 아버지의 나라에서 새것으로 너희와 함께 마시는 날까지 마시지 아니하리라 하시니라
우리는 성찬식을 통해서 “아! 나는 반드시 그 천국에서 예수님과 한상에서 만찬을 들겠구나.” 하는 것을 확인하며 확신하며 지금 예수님과 함께 천국 만찬을 드는 것입니다.
여기서 오병이어의 사건을 통해서 성찬의 참 의미를 확실히 공부하고 넘어가도록 하겠습니다.
본문을 보면 예수님께서 보리떡 다섯 개와 물고기 두 마리로 남자만 5천명을 먹이시는 사건이 나옵니다. 이 오병이어의 사건을 가리켜 “하나님께 작은 것이라도 정성껏 바치면 말도 못하게 큰 축복이 온다.”라든가 “하나님은 영적인 것뿐만 아니라 이렇게 육적인 양식도 우리에게 공급해 주시는 분이시다.” 라고 이 말씀을 푸는 것은 잘못된 해석입니다. 물론 하나님께서는 우리의 삶에 육적인 부분을 채우십니다. 그러나 이 오병이어의 사건은 그 이야기를 하는 것이 아닙니다. 이 오병이어의 사건은 예수그리스도의 죽음을 통해 우리에게 주어질 그 풍성한 하늘나라의 풍요를 설명하는 사건인 것입니다. 오병이어라는 소품은 그것으로는 도저히 불가능한 것이라는 것을 나타내는 아주 보잘 것 없고 작은 것의 상징일 뿐입니다. 그래서 구원이라는 것은 너희들이 무엇을 보탤 수 있는 것이 아니라 도저히 불가능한 것을 예수께서 자기의 살과 피를 찢으심으로 우리에게 그 천국의 풍요를 선물해 주시는 것임을 설명해 주시는 사건인 것입니다. 그래서 이 오병이어의 사건을 시작할 때 4절에서 유월절을 먼저 등장시키는 것입니다.
<요6:4>
4마침 유대인의 명절인 유월절이 가까운지라
유월절에는 어떤 일이 있었지요? 어린양의 살과 피가 구원받을 자들을 위해 쏟아진 날입니다. 애굽의 장자들과 함께 죽어야 할 이스라엘의 장자들이 어린양의 피로 말미암아 살아나게 되는 날이 유월절입니다. 그래서 오병이어의 사건에서 예수께서 떡을 나누어주실 때도 예수께서 잡히시던 날 밤에 행하셨던 유월절 마지막 성찬식 때 하셨던 그 모양 그대로 나누어주시는 것입니다. 11절을 보겠습니다.
<요6:11>
11예수께서 떡을 가져 축사하신 후에 앉은 자들에게 나눠주시고 고기도 그렇게 저희의 원대로 주시다
같은 내용인 마태복음 14장 19절에도 이렇게 기술이 되어있습니다.
<마14:19>
19무리를 명하여 잔디 위에 앉히시고 떡 다섯 개와 물고기 두 마리를 가지사 하늘을 우러러 축사하시고 떡을 떼어 제자들에게 주시매 제자들이 무리에게 주니
그러면 최후의 만찬 때는 어떻게 떡을 떼어 주셨는지 볼까요?
<마26:26>
26저희가 먹을 때에 예수께서 떡을 가지사 축복하시고 떼어 제자들을 주시며 가라사대 받아 먹으라 이것이 내 몸이니라 하시고
꼭 같은 모습으로 떡을 가지시고 축사하시고 나누어주셨습니다. 이렇게 오병이어의 사건은 예수 그리스도의 죽으심으로 말미암아 하늘의 풍성한 복이 성도들에게 내려지게 되는 참 떡이신 예수 그리스도를 그 주제로 하고 있는 이야기인 것입니다. 예수님께서도 직접 그 오병이어의 사건이 무엇을 의미하는 지를 설명을 해 주십니다. 오병이어의 기적 다음날 가버나움에서 예수님을 따라왔던 무리들에게 주님께서 이렇게 말씀하십니다.
<요6:26-27>
26예수께서 대답하여 가라사대 내가 진실로 진실로 너희에게 이르노니 너희가 나를 찾는 것은 표적을 본 까닭이 아니요 떡을 먹고 배부른 까닭이로다
27썩는 양식을 위하여 일하지 말고 영생하도록 있는 양식을 위하여 하라 이 양식은 인자가 너희에게 주리니 인자는 아버지 하나님의 인 치신 자니라
<요6:32-35>
32예수께서 이르시되 내가 진실로 진실로 너희에게 이르노니 하늘에서 내린 떡은 모세가 준 것이 아니라 오직 내 아버지가 하늘에서 내린 참 떡을 너희에게 주시나니
33하나님의 떡은 하늘에서 내려 세상에게 생명을 주는 것이니라
34저희가 가로되 주여 이 떡을 항상 우리에게 주소서
35예수께서 가라사대 내가 곧 생명의 떡이니 내게 오는 자는 결코 주리지 아니할 터이요 나를 믿는 자는 영원히 목마르지 아니하리라
이제 분명해 졌지요? 오병이어의 사건은 바로 생명의 떡이신 예수 그리스도를 설명하시기 위한 상징적인 사건이었던 것이지 결코 이 땅에서 우리가 필요한 양식을 공급해 주시는 하나님이나, 작은 것을 바치면 크게 불려 주시는 하나님을 설명하기 위함이 아니었다는 것을 예수님께서 직접 설명을 해 주시는 것입니다.
그럼 이 오병이어의 사건이 가리키는 것이 성만찬이라면 오늘 본문을 보며 우리는 어떤 자세로 성찬을 대해야 하는지를 배울 수 있을 것입니다. 본문 1절을 보겠습니다.
<요6:1>
1그 후에 예수께서 갈릴리 바다 곧 디베랴 바다 건너편으로 가시매
성경이 주님께서 굳이 바다 건너편으로 가셔서 그 오병이어의 기적이 일어났다는 것을 기록하고 있습니다. 성경에서 바다는 무엇을 상징한다고 했습니까? 어둠, 심판, 죄, 죄 된 세상을 상징한다고 했습니다. 그래서 요한 계시록에서 새 하늘과 새 땅에는 “다시 바다가 없겠고”라는 말을 쓴다고 했습니다. 주님은 그 바다를 건너서 오병이어의 기적을 일으키시는 것입니다. 왜 갈릴리 바다를 굳이 디베랴 바다라고 표기를 해 놓았을까를 연구해 보면 왜 오병이어의 사건이 바다 건너편에서 일어났다는 것을 성경이 기록하고 있는지를 좀 더 확실하게 알 수 있습니다.
디베랴 바다는 당시 로마 황제인 티베리우스의 이름을 따서 만든 갈릴리 바다의 다른 이름입니다. 즉 세상 권세 잡은 자의 상징으로 갈리리 바다를 디베랴(티베리우스) 바다라 부른 것입니다. 이 디베랴 호수라는 말이 여기와 요한복음 21장에 두 번 쓰입니다. 성경은 제자들이 예수님의 부활을 보고도 고기 잡으러 갈릴리 바다로 갔을 때, 즉 세상으로 다시 돌아갔을 때에도 그 곳을 디베랴 바다라고 표기합니다. 그러므로 예수님께서 오병이어로 군중을 먹이시기 전에 디베랴 바다를 건너서 산으로 올라가셔서 그 군중을 먹이시는 것은 성찬을 먹을 자격이 있는, 구원받은 자들은 세상을 건너, 세상과는 상관없이 된 자들이 성찬을 먹는 다는 것을 상징하는 것입니다. 게다가 예수님은 디베랴 바다를 건너서 산에 오르셔서 제자들과 함께 그 곳에 앉으셨습니다. 성경에서 산은 무엇을 상징하지요? 시내 산, 호렙 산, 시온 산, 모리아 산 등등 산은 주로 하나님의 영광을 나타내는 것으로 쓰여 집니다. 그 영광의 하나님 보좌 우편에 앉으신 예수께서 베푸시는 것이 바로 성찬인 것입니다. 그러므로 성찬은 세상을 건너 영광스러운 하나님과의 관계가 회복되어 하늘나라의 시민이 된 자들만이 누릴 수 있는 엄청난 특권을 말하는 것입니다. 그것이 바로 성찬입니다.
그리고 본문 10절에 보면 그 곳에 잔디가 많았다고 기술이 되어 있습니다.
같은 내용인 마가복음 6장 39절을 보시지요.
<막6:39>
39제자들을 명하사 그 모든 사람으로 떼를 지어 푸른 잔디 위에 앉게 하시니
왜 굳이 그 오병이어의 기적이 일어난 곳을 성경이 잔디와 풀이라는 단어를 동원하여 묘사를 할까요?
잔디와 풀하면 생각나는 것이 무엇입니까? 목자와 양이지요. 예수님께서 자신을 표현하실 때 “나는 선한 목자”라고 말씀하시지 않습니까? 그리고 시편 78편 52절에 보면 그 출애굽 광야의 생활을 이렇게 표현하기도 합니다.
<시78:52>
52자기 백성을 양 같이 인도하여 내시고 광야에서 양떼같이 지도하셨도다
그러므로 이 오병이어의 사건은 유월절이 지나고 거기서 건짐을 받은 백성들을 하나님께서 자기의 살과 피인 만나를 먹여 가며 그 양떼들을 목자로서 이끌고 가시는 모습을 그림으로 표현하고 있는 것입니다. 그러므로 오병이어의 사건은 성도의 구원의 방법으로서의 예수 그리스도를 기술하고 있을 뿐 아니라 구원의 현재성까지도 함께 기술하고 있는 것입니다.
예수 그리스도라는 참 떡을 먹고 구원을 얻은 자들을 주님은 그냥 내 팽개쳐 두시는 것이 아니라 그들이 하나님 나라에 도달할 때까지 계속해서 목자로서 자신의 살과 피를 먹여가며 양육하신다는 구원의 현재성을 오병이어의 기적은 담지하고 있는 것입니다.
그러므로 성찬은 성도가 예수 그리스도의 십자가의 죽음으로, 즉 예수 그리스도의 살과 피를 먹고 마심으로 구원을 받고 난 후에도 하나님은 절대 타자로 저 하늘에 계신 것이 아니라 우리 안에 거하시며 우리의 목자가 되셔서 역시 그분의 살과 피를 먹여 가며 우리를 이 광야 같은 세상에서 이끌어 가고 계시다는 것을 확인하는 것이 바로 성찬인 것입니다. 우리는 성찬을 통해 그 선한 목자가 이끄시는 길은 어떤 길이라도 부족함이 없는 길이라는 것을 확인하고 우리의 신앙을 공고히 다지는 것입니다.
<계7:17>
17이는 보좌 가운데 계신 어린 양이 저희의 목자가 되사 생명수 샘으로 인도하시고 하나님께서 저희 눈에서 모든 눈물을 씻어 주실 것임이러라
<시23:1-5>
1여호와는 나의 목자시니 내가 부족함이 없으리로다
2그가 나를 푸른 초장에 누이시며 쉴만한 물 가으로 인도하시는도다
3내 영혼을 소생시키시고 자기 이름을 위하여 의의 길로 인도하시는도다
4내가 사망의 음침한 골짜기로 다닐지라도 해를 두려워하지 않을 것은 주께서 나와 함께 하심이라 주의 지팡이와 막대기가 나를 안위하시나이다
5주께서 내 원수의 목전에서 내게 상을 베푸시고 기름으로 내 머리에 바르셨으니 내 잔이 넘치나이다
이렇게 성찬에 참여하는 자들은 자기들이 목자이신 예수 그리스도의 양임을 아는 자들이며 거기가 비록 사망의 음침한 골짜기 같은 곳이라 할지라도 그 목자와 함께 있으면 부족함 없이 만족하는 자들인 것입니다. 성찬은 그렇게 복음을 설명할 뿐 아니라 우리 신자들의 이 땅에서의 삶의 모습이 어떠해야 함도 보여주는 것이며 그러한 성도의 삶을 복음으로 잘 견뎌내겠다는 성도의 다짐과 고백이 함께 하는 천국의 잔치인 것입니다. 여러분 성찬 상위의 것들을 한 번 떠 올려 보세요. 작은 잔과 시금털털한 포도주와 맛없는 떡입니다. 누룩도 들지 않은 정말 맛없는 떡입니다. 여러분은 정말 이 잔치 상 위의 것들에 만족하십니까? 아니면 여기에 갈비나 탕수육, 복 매운탕 이런 것들이 없는 것이 아쉽습니까? 둘 중에 하나를 택하라면 여러분은 어떤 것을 택하겠습니까? 복음과 아무 상관없는 진수성찬을 택하겠습니까? 복음을 아는 자들이 힘의 원리로 움직이는 이 세상에서 하나님 나라의 십자가의 원리로 살기 위해 세상의 진미를 마다하고 먹고 마셔야 하는 예수의 피와 살을 택하시겠습니까? 그 둘 중에 후자를 택한 사람들이 나의 선택이 잘 된 것이라는 것을 확인하고 또 확인하는 시간이 바로 성찬의 시간인 것입니다. 그렇게 오직 예수 그리스도의 그 복음으로만 만족하며 살아가는 자들을 교회라고 하는 것입니다.
우리는 그 예수의 살과 피만으로 넉넉히 이 땅을 살아가는 자들입니다. 만나는 광야에서 굶어 죽을 수밖에 없는 그의 백성을 구원하시는 예수님을 상징하는 것이었습니다. 그러나 그 만나는 사람들의 눈에는 그렇게 흡족치 못한 것입니다.
“What is this? nothing!” 그게 만나입니다.
우리 성도가 이 세상에서 힘으로 삼고 취해야 할 것들은 세상 사람들의 눈에는 그렇게 보이는 것입니다.
우리는 그저 생존할 수 있을 만큼만 주님께 구하면 되는 것입니다.
왜냐하면 우리의 목적지는 이 땅이 아니기 때문입니다.
우리는 이 땅에서 하나님 나라의 백성으로 훈련하고 학습하고 양육 받아 잘 성숙하여 하나님 나라로 가면 되는 것이기 때문입니다.
그래서 참 복음을 아는 자들은 자기들에게 주어지는 것이 세상 사람들에게 보잘 것 없이 보이는 만나뿐이라도 창피해 하거나 부족해 하지 않을 수 있는 것입니다. 세상 사람들은 목숨처럼 여기는 자기의 소유를 비워 다른 이들을 도울 수 있는 것입니다. 그러나 여전히 이 땅에 눈을 두고 사는 사람들은 성찬 상 위의 포도주와 누룩 없는 떡이 아주 못 마땅합니다. 뭐 좀 다른 것 좀 달라는 것이지요.
부추와 마늘과 고기 좀 달라는 것입니다. 내가 따라가 줄 테니까 내가 원하는 풍성한 식탁을 좀 차려 달라는 것이지요.
광야의 이스라엘이 그런 불평을 하지 않았습니까? 아닙니다. 우리는 성찬을 먹으면서 비록 이 세상 시각으로는 부족하고 작고 모자라는 것 같지만 이 성찬 상은 천국에서 예수 그리스도와 우리가 함께 나눌 천국 만찬을 약속하는 것이며 그렇기 때문에 난 지금 부족함 없이 만족한 사람이라는 것을 확인하는 것입니다.
그와는 반대로 교회에 와서 기적이나 바라고 병이나 낫기를 바라며, 자기의 소원 성취나 바라는 자들, 부추와 마늘과 고기만을 찾는 사람들을 성경이 “예수님을 잡아 왕을 삼으려는 자”라고 말합니다.
본문 15절을 보세요.
<요6:15>
15그러므로 예수께서 저희가 와서 자기를 억지로 잡아 임금 삼으려는 줄을 아시고 다시 혼자 산으로 떠나가시니라
예수님을 억지로 왕을 삼으려는 자들은 무엇을 위해서 그렇게 한 것입니까?
자기들에게 먹을 것을 충분히 대 줄 수 있는 사람을 원했던 것입니다.
주님께서 당신은 그런 것을 해주러 온 게 아니라고 하니까 어떻게 했습니까?
십자가에 못 박아 죽였습니다. 십자가에 못 박아 예수를 죽인 자들이나, 그 분을 세상 것이나 주는 왕으로 삼으려는 자가 똑같은 자들입니다. 예수님은 그런 자들을 피해 산으로 도망가셨습니다.
그런 자들은 예수님과 아무 상관없는 자들이라는 뜻입니다.
그래서 지금도 교회 안에서 여전히 예수님을 못 박아 죽이는 자들이 있다고 말하는 것입니다.
그렇습니다. 여전히 예배당 안에서 예수를 세상 것이나 공급해 주는 세상 왕으로 삼으려 하는 자들은 예수가 지금 다시 오신다면 당장 십자가에 못 박아 죽일 자들인 것입니다.
주님께서 오병이어의 기적이 일어난 디베랴 호수라는 배경에서 제자들에게 행하신 일을 보세요.
디베랴 바닷가에서 예수님께서 제자들에게 나타나셔서 떡과 고기를 구워 그들에게 주시지요?
오병이어의 현장과 동일한 장면입니다.
그리고 그들에게 무엇을 부탁하십니까?
베드로에게 “내 양을 먹이라, 내 양을 치라”고 부탁하십니다.
내 양을 먹이라는 것이 배 터지게 고기와 떡을 먹여 주라는 이야기입니까?
예수님은 지금 그 참 생명의 떡인 예수를 그 백성들에게 전하라고 부탁하시는 것입니다.
그리고 주님이 주시는 그 성찬을 먹는 자들인 제자들에게 부탁을 하십니다.
지금까지는 네가 가고 싶은 곳으로 다녔지만 이제부터는 성령이 너를 이끄시는 대로 너는 가게 될 것이라고 말씀하십니다.
<요21:18>
18내가 진실로 진실로 네게 이르노니 젊어서는 네가 스스로 띠 띠고 원하는 곳으로 다녔거니와 늙어서는 네팔을 벌리리니 남이 네게 띠 띠우고 원치 아니하는 곳으로 데려가리라
이렇게 성찬을 먹는 자들은 두 팔을 벌리는 십자가의 삶을 살아야 하는 것입니다.
우리가 원하는 대로 사는 것이 아니라, 하나님께서 원하시는 대로 살아내야 하는 것이 바로 성찬을 드는 그리스도인의 삶인 것입니다.
즉 자기를 부인하고 십자가를 지는 삶을 살아내야 하는 것이 바로 우리 그리스도인들인 것이지요.
그리고 이 땅에서는 비록 남들에게 인정받지 못하는 사망의 음침한 골짜기를 다니는 듯한 삶을 산다 해도, 아니 푸른 초장을 거니는 듯한 풍성한 삶을 산다 해도, 어느 상황에서도 내게 부족함이 없는 만족한 삶이라는 것을 확고하게 가슴속에 품고 사는 사람이며 지금은 이렇게 보이지 않지만 저 천국에서 예수 그리스도와의 만찬을 반드시 먹게 될 것이라는 것을 확신하는 사람입니다.
아울러 성찬을 받아먹는 사람들은 모두 평등함 속에서 다른 이들을 나보다 낫게 여기는 삶을 사는 사람들입니다.
이 세상 속에서 보이는 계급과 위치와 재산과 지식 정도는 다 다를 지라도 성도는 한 상에서 동일한 음식을 먹는 동일한 하나님의 자녀인 것입니다.
따라서 성찬을 먹는 사람들은 빈부의 격차나 지위의 고하로 상대방을 평가하는 자들이 아닌 것입니다.
이렇게 성찬 안에는 교회론과 구원론과 신론과 인간론이 모두 들어 있는 것입니다.
그래서 성찬을 눈에 보이는 복음이라 하는 것입니다. 이것이 성찬의 참 의미입니다.
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