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(21) 聖霊 (04) 聖霊の賜物 (コリント人への手紙一 12:1-11) 본문

教会論

(21) 聖霊 (04) 聖霊の賜物 (コリント人への手紙一 12:1-11)

cocoa 2026. 3. 12. 23:18

 

 

 

(21)  聖霊   (04) 聖霊の賜物 (コリント人への手紙一 12:1-11)

 

さて、今日の御言葉は、コリント人への手紙一 12章1節から11節までの御言葉です。

 

(コリント人への手紙一 12:1-11)
1 兄弟たちよ、霊的なことについて、あなたがたが知らないことがないようにしたい。
2 あなたがたも知っているように、あなたがたが異邦人であった時、話すことのできない偶像に引き寄せられていた通りに、引き寄せられていた。
3 それゆえ、あなたがたに知らせます。神の霊によって話す者は、誰もイエスを呪うとは言わず、また聖霊なしには誰も「イエスは主です」と言うことができません。
4 賜物はさまざまですが、霊は同じです。
5 役務はさまざまですが、主は同じです。
6 働きもさまざまですが、すべてのことをすべての人の間で働かせる神は同じです。
7 各人に霊の現れが与えられるのは、益となるためです。
8 ある人には、霊によって知恵の言葉が、ある人には同じ霊に従って知識の言葉が、
9 別の人には同じ霊によって信仰が、ある人には一つの霊によって病をいやす賜物が、
10 ある人には力行為が、ある人には預言が、ある人には霊を識別する力が、別の人にはさまざまな言語を話す力が、ある人には言語を通訳する力が与えられます。
11 これらすべてのことは、同じ一つの霊が行い、その意志に従って各人に分け与えるのです。

 

今日、皆さんが本文を読まれたように、私は聖霊の賜物について共に分かち合いたいと思います。

この聖霊の賜物!実は、この部分のために、多くの宗派が分かれ、異端が横行する結果となった部分でもあります。

ですから、皆さんはよく聞かなければなりません。私は急いで、一、二編、三編ほどに分けて説教する予定のところを、一つにまとめました。

ですから、皆さんはよく聞いて、区別を明確にしてください。聖書にある話だけをします。

私が体験した話やそういう話は完全に排除し、聖書が何と言っているかだけを皆さんにお伝えします。

 

皆さん、心理学にはこんな実験があります。学生10人が、教授と共に教室に入り、質問と回答をするという実験です。

しかし、9人の学生は皆、教授とグルで、残りの1人だけが、ただ愚かに入った学生です。

 

そして教授が質問をします。「アメリカの首都はどこですか? 1番 ワシントンD.C、2番 ロサンゼルス。」1番は一人だけです。

とても簡単なので!しかし、残りの9人は、誰も挙手せず、2番 ロサンゼルスと答えます。9人全員が挙手するのです。

2番に、続けて問題を出しても、とても簡単な問題です。1番、2番と挙手させると、残りの9人がすべて間違った答えを出し続けます。

すると、この一人は、答えが間違っていると分かっていても、9番目、10番目の質問からは、9人の答えに合わせて挙手し始めるのです。

100人中100人、誰もがそうなる、という心理学の非常に有名な実験の一つです。

 

今日、多くの大多数は、まるで談合したかのように別の道を歩んでいます。

しかし、極少数である私たちは、その彼らとは反対の道を歩んでいます。それでもなお、皆さんがこうして残っているだけで奇跡です。

いつか、この中の誰かも、2番に手を挙げて去っていくことを、私は確かに知っています。

しかしそのときでも、私は決して慌てることはできません。聖書が明確にそう言っているからです。

終末には、裏切る者が確実に多く現れるだろうと聖書は言っています。昨日、私は夢を見ました。

久しぶりに夢を見たのですが、雨が降り注いでいました。雨が降り注ぐ中、私が知っている若者たちが教会に向かっていました。

とても立派で華やかな服を着て、教会へ向かっていたのです。「どこへ行くの?」と聞くと、「教会に行きます」と答えました。

 

しかし、雨が降り続き、洪水が起こり、この山の頂上まで水が満ちました。小さないかだがあり、私たちはそのいかだに乗っていました。

そこにはジェームスと、ボルム、エドガがいました。思い出せる顔はその3人です!夢があまりにも鮮明で、ちょうどそのとき乗っていましたが、少し前に教会に行ったと言っていた学生たちが、その水に流されていくのです。

 

そして、水に沈んでは浮かび、沈んでは浮かぶという状態が続き、私は胸が痛くて手を伸ばしましたが、手が届きません。

だから、「手を伸ばせ!」と叫びました。すると突然、水の中から誰かがスッと現れ、大きな目を見開いて、「そのとき、なぜ早く教えてくれなかったのか?」と言いました。そして少しして、別の誰かがまたスッと浮かび上がり、髪をすべてほどき、「そのとき、なぜきちんと話してくれなかったのか?」と言いました。私は夢から飛び起きました。「いや、私は言った!しかしそのとき、君たちが聞き取れず、今になって、なぜそのとき話してくれなかったのかと言うのか?」と。夢から覚めて、今日も正しくきちんと伝えなければと心に決めました。

私は先週の木曜日、早朝の祈祷会に行く途中で事故に遭いました。大きなコンテナが、その小さな車を覆ったのです。その中に人が乗っていましたが、私はすぐに降りました。しかし、どう手を出しても助けることができません。コンテナをどう持ち上げられるでしょうか?どうしようもありません。その中で、人が叫んでいましたが、このコンテナはどんどんどんどん押しつぶして、その人は亡くなったのです。

私は、その中で、その人が死に際に、どんなことを考えたか、一瞬考えてみました。皆さんがもしそんな状況になったら、最初に何が思い浮かぶでしょうか?「私は今死にかけている。コンテナがどんどん降りてくる。もう私は生き延びられない」と思ったとき、そんな危機の中で、皆さんは何を考えるでしょうか?

 

そのときに皆さんの頭に浮かぶものが、皆さんの偶像です。そのとき、集めた財産が思い浮かぶか、妻や夫、子どもが思い浮かぶなら、皆さんは天国に入れません。そのために惜しむのです!私たちはそのとき、この世を去るとき、惜しまずすべてを置いて行ける練習を、この地上で行うのです。この地上で!この地上で神を用いて、むしろこの世を去るときに、惜しいものを作り出すのがキリスト教ではないのです。皆さん!天国に行かなければなりませんね?

 

私がこれから聖霊についての説教を、「聖霊冒涜罪」というものが何かについて、一度説教し、聖霊についてはこれで六回で終わろうと思います。その聖霊冒涜が果たして「牧師がすることを妨害するのが聖霊冒涜だ」というふうに騙している人たちがいますよね。

「牧師のすることを妨害すれば、それは聖霊冒涜であり、それは赦されない」と教えている人たちがいますよね?悪い人たちです!果たしてそれが本当にその話なのかを最後に、皆さんと一緒に聖霊講解を終えるつもりです。

 

しかし、もっと知りたい方々には、私がその本を紹介します。私が読んだのはほぼ6,000ページです。一か月以上かけて!この『改革派救済論』!ここで私は三位一体について、多くの洞察(insight)を得ました。J.I.パッカーが書いた『聖霊を知る知識』は、本当に素晴らしい神学書です。『聖霊を知る知識』!彼らは正確で一貫性のある話をしています。しかし、一体あの人たちは、どこで何の本を読んで、今ああやって教えているのでしょうか?救済と成聖!

 

ファーガソン教授が書いた『聖霊!』 R.C.スプルールが書いた『The Mystery of the Holy Spirit(聖霊の神秘)』も聖霊に関するものです。そして私よりも何倍も強く説教をされた、ジャン・マッカーサー牧師の『賜物!カリスマティック・カオス』というのは、予言者なのか、狂信者なのか、それとも異端なのか!何を言おうとしているかは十分にお分かりでしょう?非常に強く書かれています。

 

さらにウォーフィールド教授が書いた『キリスト教奇跡論』、キリスト教に起こる「賜物(恩寵)」と呼ばれる奇跡のようなものが、なぜ起こるのかについて、非常に詳しく述べています。私は青年たちに一冊ずつ配りました。これは!ジャン・オーウェン!ウェストミンスター信仰告白に関わった、非常に素晴らしい神学書です。『聖霊論、The Holy Spirit(聖霊)』、「果たして聖霊とは何か?」について!そしてバビンク教授が書いた『改革派神論』にも、三位一体について非常に詳しく説明されています。

 

もっと知りたい方は、これらの本を参考にして読んでください。そして、本を読むのがあまり好きでない方は、この聖霊に関する説教テープを持って、皆さん聴いてください。私が6,000ページを、六つの説教に分けてありますから!要約してあります。「それも嫌だ、これも嫌だ」という人は、ダルマサへ行ってください。あそこはアーリントン通りにあります!そんな人たちは、イエスを信じる資格もありません。

 

先週まで、私たちは三位一体!そして聖霊のバプテスマ、そして聖霊の働き、さらに聖霊充満について見てきました。だから三位一体について勉強しながら、聖霊なる神は、単なる能力や力ではなく、完全で全知全能の神であることを確認しました。

 

そして聖霊のバプテスマを学びながら、父なる神が、聖霊なる神を私たちに送ってくださり、私たちの目が開かれ、罪から解放されることを「聖霊バプテスマ」と言うと説明しました。だから、自由と解放の象徴であるペンテコステの日!聖霊が臨んだのだということを確認しました。

 

聖霊の働き、聖霊が来て、イエスについて、救いについて、罪について、義について、裁きについて、私たちに気づかせてくださるその働きこそ、まさに聖霊であることを確認しました。そして聖霊充満とは、突然電気が上がって手を触れれば全てが倒れる、といったものではなく、私たちの口や生活を通して、イエス・キリストを証しする生活!それこそが聖霊に満たされた生活であることを、聖書から確認しました。

 

今日はこの聖霊の賜物!「聖霊の賜物」について見ていきたいと思います。おそらくこの説教が終わると、また数人が教会を去るかもしれません。しかし大丈夫です!聖書が語ることだけを語りますし、最後まで残る者だけ、私たちは共に行きます。

 

神はすべての人間に、その造られた被造物を通して、自らを啓示されます。ローマ人への手紙1章20節をご覧ください。「この世界の創造以来、神の見えない属性、すなわちその永遠の力と神性は、人がその造られたものを見て認識することができる。ゆえに、人は言い訳ができない」とあります。ですから、人は誰でも、潜在的に来世について考えたり、あるいは何らかの絶対者に対する漠然とした恐れや依存心のようなものを持つのです。誰もが!

 

だから人は夢の中でも、自分が行きたい、ある漠然とした良い場所を夢見ることがあります。皆さんも、そのような夢を見たことがあるでしょう。どこかはわからないけれど、そこに行けばとても安らげる夢を一、二度見たり、そして誰かに会っても解決できない、理想の姿というものが人にはあります。それは誰に会っても満たされないのです。キリスト教心理学者は、それを「私たちの心に残っているエデンと、神の形に対する憧れ」だと言います。

 

だからこの世のどんな部族にも宗教はあります。どこへ行ってもあります。アマゾンの密林に行っても宗教があります。漠然としたある神に自分の必要を求め、その神が自分たちの行うことに害を及ぼさないようにお願いする、そういう宗教があります。だからその神は、自分たちより能力がなければなりません。だからすべての宗教は、その宗教を宗教たらしめるものは、まさに「超越」です。超越的で神秘的なものを、人々はその宗教の根拠とするのです。

 

だからどの宗教にも超越というものがあります。巫女も予言しますし、巫女は鋭い足場の上に立って踊ります。他の人が上がれば、すぐに足が折れそうな、そのような鋭い足場の上で踊り、また巫女が米をまけば、そこに突然鳥の足跡がつく、こういう超越現象が、私たちの周りにもあるのです。

 

風水地理や、未来の吉凶や災福を占う思想、それがまさに「道占思想」というものです。この道占思想によれば、『正感録』など、いろいろありますよね?道占思想によれば、気(氣)が非常に高い場所として有名なのが、鶏龍山(ケリョンサン)です。そこに行くと、多くの新興宗教!類似宗教が雨後の筍のように乱立していた時代がありました。今も同じです。今も多くあります。しかし1984年には、あまりにも多くの新興カルト宗教があったため、政府が出てきてすべて取り壊してしまったほどです!それでも今も多くあります。

 

私は鶏龍山にしばしば行きました。私もそういう関心があったので。出会った人の中に、特異な人が何人かいます。ある人は、行く途中で、かぼちゃ、丸いかぼちゃですよね?黄色いのを、ただひたすら投げるんです。非常に高く投げます。そしてかぼちゃが地面に落ちる間に祈ります。ひたすら祈るのです!しかし、このかぼちゃは地面に落ちても壊れません。かぼちゃが落ちたら、また持ち上げて投げます。

 

そこで少し話を聞いたのですが、このかぼちゃが天から地に落ちる瞬間にする祈りは、すべて叶うというのです。しかしなぜずっと投げ続けているのか分かりません。もうすべて叶ったはずなのに……。人格が磨かれ、修養されるのだと言います。そうして自分の宗教の名前を教えてくれるのですが、忘れてしまいました。でも私はただ「かぼちゃ教」と呼んでいます。

 

そこにも不思議なことがあります。ある人は、針を108本束ねて、額に打ち続けています。数十年間そうしていたそうです。ここは金日よりも硬いです、額が!しかしその人の住む家に行ってみると、クレーンでも持ち上げられないほどの、とてつもない、その巨石のような岩があります。その岩で家を建てていました。「これをどうやって建てたのか?この山の頂上に、この岩で家をどうやって建てたのか?」と聞いたら、自分で持ち上げて建てたと言うのです。人が数十人かかっても持ち上げられない岩です!しかし家を建てたのです。その巨石のような岩で!だから下山する時に、友人たちと一緒に話していると、その友人たちはこう言います。「何かあるみたいだ。」何かあるみたいだと言うのです。

 

人々は、このように超越や奇跡の前で、非常に弱くなります。「何かあるみたいだ」「ああ!そんな奇跡がある場所に、果たしてそれは偽物だろうか?」といった畏敬の念を抱くのです。だからキリスト教を除くすべての宗教は、まさにその超越を根拠として、その宗教の正当性を主張するのです。

そして、自分が言う神について正確に知らないため、とても呪術的です。何を言っているのか分からず、ただぶつぶつおまじないを唱えたり、経典を唱えたり、意味のない祈り文のようなもの、たとえば証山道(チョンサンド)で行うものですね、意味のない祈り文のようなものをひたすらつぶやく、朝昼晩に!そうして、自分の信じる神を感動させ、自分の望むものを手に入れるのです。それがまさに宗教ではないですか?だから「東天之感鬼神(동천지 감귀신)」という言葉があるほどです。誠意があれば天も動く!ということです。どんな鬼神でも、自分が祈ってそれが感動すれば、自分の願いは叶うのです。人々はそのような超越に命をかけます。

 

イスラムにはどれほど多くの超越的、神秘的な出来事が起きるか知っていますか?彼らはそれに命をかけるのです。飛行機に乗って、確かにあのビルに突っ込めば死ぬと分かっていても、行って突っ込むのです。人々は超越の前で、そのようにあっけなく崩れます。人間を無力にし、見当違いの期待を抱かせる力が、まさにその超越や神秘的な奇跡なのです。

 

しかし、キリスト教は、キリスト教を説明するとき、超越で説明しません。キリスト教は啓示を、キリスト教の正当性の根拠とします。だから唯一、キリスト教だけが、神が絶えず自らを知らせ、説得し、人格的に関係を結ぶ宗教です。他の宗教は、自分の信じる神を正確に知らず、自分の願いや祈りのための宗教ですが、キリスト教は絶えず神が人間を訪れ、自らを啓示し、知らせてくださるのです。キリスト教は、キリスト教の正当性をこの啓示に置いているのです。

だから神が人間を訪れ、説得し、感動させるのがまさにキリスト教です。そのように超越や神秘を動員せずとも、人格的に神を知ることができるよう、人間が理解できる範囲で、完全に自らを啓示されているのです。それがまさにキリスト教です。だからキリスト教は、歴史的で、事実に基づき、客観的なものを信じるのであって、超越的で神秘的なものの助けを借りなければならないほど貧しいものではないのです。

 

なぜキリスト教の中でも、超越的で神秘的なものを追い求めるのかというと、自分が知っている神についての知識が、あまりにも貧しいからです。あまり知らないので、せめてそれで自分の心を慰めたいのです。その中で少しでも安心を確認したいのです。だからパウロは、ガラテヤ人たちにこう語ります。ガラテヤ人への手紙3章1節に、

 

(ガラテヤ人への手紙 3:1)
1愚かな者たちよ、ガラテヤの人々よ、イエス・キリストが十字架にかけられたことがあなたがたの目の前にはっきりと見えているのに、誰があなたがたを惑わせたのか。

 

奇跡やしるしを求めていたガラテヤの人々に対して、「あなたがたの目の前に十字架がこうしてはっきりと見えているのに、まだ何を求めるのか?」と言うのです。まだ何を求めるのか?「キリスト教はこの十字架!これだけで完全に成し遂げられるものであるのに、あなたがたはまだ何を求めるのか?」と言っているのです。

 

私たちは2000年前のゴルゴダで十字架を信じるのです。その十字架を背負われたイエスの働きによって、救いを受けたことを信じる信仰によって、天国に行くのです。私たちはその客観的な事実を信じるのです。だからこの客観的な事実は変わらないのです。歴史的なその事実は変わらないので、私たちの救いは確かなものなのです。もしこれが歴史的で客観的な事実でなければ、私たちは絶えず揺れ動くことになるでしょう。しかし、それは事実であり、2000年前に正確にゴルゴダの頂上でこの十字架が立ったのです。だから私たちの救いは確かです!私たちはそう主張することができます。

しかし、人間はどれほどその救いを理解できないかというと、イエスが来られたのに、なお奇跡を見せてほしいと言ったのです。コリント人への手紙一 1章22節を見ると、パウロはこう語っています。

 

(コリント人への手紙一 1:22-24)
22 ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を求めるが、
23 私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝える。それはユダヤ人にはつまずきであり、異邦人には愚かなことに見える。
24 しかし、召された者たちにとっては、ユダヤ人であれギリシア人であれ、キリストは神の力であり、神の知恵である。

 

他の人々にとって、その十字架は非常に愚かで愚かなものに見えるのです。しかし、神の民にとっては、「ああ!これだけが、この道だけが、神の知恵なのだ!」とわかるのです。その信仰に、超越や神秘が加わらなくても、彼らは信じられるのです。その十字架だけで!

 

今日、誤った道を歩む人々は、大きく分けてどうなるかというと、自由主義と神秘です。自由主義とは何でしょうか?自分の理性で理解できる範囲でのみ、神を認めて信じることです。だから自分の理性で理解できないもの、イエス・キリストの神性!処女降誕!復活!イエスの奇跡!これらは一切信じません。では何を信じているのか分かりません。全く!自分が理解できることだけを信じるのです。

 

そして神秘!祈福とは何か?自分たちが知っていることがほとんどないので、そうした超越的で神秘的なこと、これらを自分たちの信仰の根拠にするのです。使徒パウロが正確に指摘した、「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を求める。しかし私たちは十字架以外に誇るものはない」と言っているのです。私たちはまさにその十字架だけを語るということです。

 

神秘的なことで、例えば私がここから30センチ浮くとして、皆さんが「神は生きておられる!」と言うかもしれません。しかしそれではイエス・キリストを主と認めることはできません。十字架を信じる信仰によってのみ、私たちは天国に行くことができるのです。その意味で、今日の一部の教会が、聖霊の賜物を、何か神秘的で超越的な面だけに引っ張っていくのは、どうしても聖書とずれているように見えます。

 

今日の本文を見ると、聖霊の賜物を九種類に列挙しています。その中には、私たちが自分たちの偏見を基準にすると、賜物らしいものがあります。そうでしょう?私たちの偏見を基準にすると、その中には賜物らしいものがあります。予言!方言!癒し!霊を分別すること!これらがあるのです。コリント人への手紙一12章には!

 

しかし、聖書には他の多くの箇所でも、賜物を別の形で説明する部分があります。ローマ人への手紙1章11節に進みます。

 

(ローマ人への手紙 1:11)
11 私があなたがたに会うことを切に望むのは、何らかの霊的な賜物をあなたがたに分け与えて、あなたがたを堅固にするためである。

 

パウロがローマ書を書いたのは、ローマ教会に伝えたいメッセージは、救いに関するメッセージでした。パウロが今、「何らかの霊的な賜物をあなたがたに分け与えて、あなたがたを堅固にするためである」と言っているのは、「救いに関する喜ばしい知らせをあなたがたに伝えて、あなたがたが持っているその信仰がいかに貴重であるか、あなたがたの信仰を堅固にするために、私はあなたがたに霊的な賜物を分け与えたい」と言っているのです。

 

ここで言う霊的な賜物とは、救いに関する喜ばしい知らせ、まさにその救いそのものを「賜物(恩恵)」だと聖書は語っています。少しもっと確かめてみましょう。ローマ書5章15節です。

 

(ローマ人への手紙 5:15-16)
15 しかし、この賜物はその罪とは異なる。すなわち、一人の人の罪によって多くの人が死んだように、むしろ神の恵み、あるいは一人の人イエス・キリストの恵みによってもたらされた贈り物は、多くの人にあふれたのである。
16 さらにこの贈り物は、一人の人の罪によるものとは異なる。裁きは一人の人によって罪に至ったが、賜物は多くの罪によって義とされるためである。

 

「神のその賜物は、イエス・キリストの恵みによって、義とされることに至らせるものである」と述べています。救いのことです。賜物です!もっと正確に確認する箇所があります。ローマ書6章23節です。

 

(ローマ人への手紙 6:23)
23 罪の報いは死である。しかし、神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠の命である。

 

わかりますか?聖書は、「救いそのものも賜物である」と語っているのです。さらに、ローマ書12章では、私たちが賜物らしいと思わないものも、賜物として語られています。ローマ書12章6節をご覧ください。

 

(ローマ人への手紙 12:6-8)
6 私たちに与えられた恵みに応じて、賜物もまた異なる。予言であれば、信仰に応じて行い、
7 奉仕であれば奉仕に従い、教える者であれば教えることに従い、
8 勧める者は励ましに従い、施す者は誠実さをもって、統べる者は勤勉さをもって、憐れみを与える者は喜びをもって行うのである。

 

奉仕すること!教えること!権威を行使すること、励ますこと!勧めること!施すこと!統べること!憐れみを与えること!これは誰でもできることではありませんか?それらを聖書では、「賜物である!」と言っているのです。このように平凡で一般的なことも、賜物のリストに含まれているのです。

 

つまり、あまりにも平凡で一般的であるため、私たちの心をあまり引きつけないだけで、賜物は決して私たちが考える特別なものだけを語っているのではないのです。さらにパウロは、コリント人への手紙一7章で、結婚することも賜物、結婚しないことも賜物だと言っています。コリント人への手紙一7章7節をご覧ください。

 

(コリント人への手紙 7:7)
7 私はすべての人が私と同じであってほしいと思う。しかし、各々に神から与えられた賜物がある。一つはこうであり、もう一つはああである。

 

結婚することも賜物、結婚しないことも賜物だと言っているのです。

 

整理してみましょう。聖書が語る賜物は、私たちが賜物らしいと思う、方言!予言!病を癒すこと!方言を通訳すること!霊を分別すること!それらもあります。聖書には!しかし救いそのものも賜物であり、結婚することも賜物、結婚しないことも賜物、奉仕することも賜物、教えることも賜物、施すことも賜物、憐れみを与えることも賜物なのです!目立つものもあれば、目立たないものもあるということです。

 

しかし、ここで私たちが確認できるのは、すべてのキリスト者は一つ以上の賜物を必ず持っているということです。なぜでしょうか?救いそのものが賜物だからです!それは聖書が語る最も美しい賜物ではありませんか?それにもかかわらず、人々は目に見えるいくつかの賜物を持つ人々を羨ましがるのです。それがどれほど間違っているか、今日皆さんがそれだけ理解していれば十分です。

 

皆さん!神は私たちの考えとは全く違う方法で働かれます。聖書の勉強や説教の時間に、何度も確認しましたね?神は私たちの考えとは異なる方法で働かれるのです。神は本当に大切で重要なものは、すべての人に与えられるのです。一般的で平凡に与えられるのです。太陽!水!空気!どれか一つでも欠ければ私たちは死んでしまいます。しかしそうした、非常に重要なものは、すべての人に与えられるのです。あってもよく、なくてもよいものは、人間に与えられるのです。本当に重要なものは、すべての人に平凡に与えられるのです。

 

私たちの若者の平均身長は、約170センチだと言います。168!168です。すると、165センチから175センチの人が最も多いのです。一般的で平凡なのです。そうでしょう?しかし、身長120センチの小人が来て、「お前たちはどうしてそんなに平凡なのか?僕みたいに120センチじゃなくて羨ましくないのか?」なんて言う人はいませんよね。

私たちが育つとき、指が六本ある人が時々いました。そういう友人たちが来て、笑いながら、「お前たちはどうして指が五本なんだ?すごく面白い」と言うことはありましたか?私はそんな経験は一度もありません。しかし、この賜物の問題に関してだけは、平凡で一般的なことに対して、「どうしてお前たちは僕が持っているこれを持っていないんだ?どうしてこんなに平凡なんだ?」と言うのです。

 

皆さん!私たちキリスト者が持っている賜物には、大きい小さいの区別はありません。後ほど聖書で確認すれば、皆さんは明確にわかるでしょうが、キリスト者として与えられるすべてのものは、それが状況であれ、あなたのどんな苦痛や痛みであれ、キリスト者であることが確認されたその人に与えられるすべてのものは、賜物です。

 

皆さん、その神の恵みなしには、どうしてこの場に存在できるでしょうか?神は、神の子を神の子として生かすために、私たちに状況や環境、物質など、さまざまなものを許してくださるのです。それを作るために!その善を作るために、私たちに与えられるすべてのものは、神の贈り物なのです。それを私たちは「賜物だ!」と言うのです。だから使徒パウロは、「結婚する者も、結婚しない者も、それはすべて神の賜物だ!」と言っているのです。

 

私たちは神の恵み深い憐れみと、豊かな愛に関心を持たず、私たちがたった一瞬でも存在することはできません。聖書は、賜物を高級な階層の、特別な人だけが享受する独特なものだとは考えるな、と言っているのです。皆さん!私たちが考える特別なものだけを賜物と言い、それを受けた者だけが信仰の一段階上に進んだ者だと考える者は、神を冒涜するのです。

 

だから私は賜物運動に反対するのです。賜物集会のようなものには、行くなと言うのです。彼らは、特別な数種類を賜物として規定し、それを受けた者だけが信仰の一段階進んだ者だと教えているのです。そうではありません!皆さん!それができなくても問題ありません。神の豊かさ、神の豊かな慈しみ!憐れみをまったく知らない者たちです。彼らは、神の広大な恵みをあまりにも小さく、制限してしまうのです。

私たちは賜物のリストを見ることから目をそらし、その賜物が目指している目的と方向性を、まず見るべきです。その賜物を与えたとき、何か理由があるはずです。

 

さあ、神はなぜ私たちに賜物を与えるのか?今日の本文1節から3節までを一緒に読んでみましょう。

 

(ローマ人への手紙 12:1-3)
1 ですから、兄弟たちよ、神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる生けるささげ物として、ささげなさい。これはあなたがたの霊的な礼拝です。
2 この世と同じように歩まず、心を新たにすることによって、自分を変えなさい。そうすれば、神の御心が何であるか、すなわち善いことで喜ばれることで完全なことを見分けることができます。
3 私は、恵みによってあなたがたに言います。あなたがたそれぞれが、自分のことを思い上がってはいけません。神が各人に分け与えられた信仰に応じて、慎み深く考えなさい。

 

使徒パウロは今、霊的な賜物について、あなたがたに語ろうとして話を切り出すとき、何を言うかというと、「この霊的な賜物なしには、あなたがたはイエスを主として告白できなかった」ということです。「この霊的な賜物がないとき、あなたがたは偶像の引くままに引きずられていた。しかし、この霊的な賜物によって、あなたがたはイエスを主として告白することができるようになった」ということです。

 

ですから、使徒パウロははっきりと、神の霊的な賜物の目的は、まさに救いであると語っているのです。救いとは、私たちが救われ、神の子として完成されていく過程に必要なものであり、それがこの賜物であるのです。

 

旧約で最初に聖霊の賜物を受けた人たちは誰でしょうか?出エジプト記35章に出てきますね。ベツァレルとオホリアブ!彼らは聖霊の賜物を受け、聖霊に満たされて、何をしますか?すぐれた技術を受けて、何を作るのですか?聖所を作るのです。聖所とは何ですか?神の国を象徴するのです。神の国!神殿!古い神殿を壊し、新しい神殿を建てる、その教会を完成させるために、この賜物は与えられたのです。

 

ですから、賜物というのは、自分を誇示するために与えられたものではなく、自分や他の人々がイエス・キリストを知るのにさらに役立つため、教会が徳を築き、一つになるために与えられたものが、まさに賜物なのです。

ですから、もしもここで予言をしたり、癒やしの賜物を行ったり、あるいは他の特別な賜物、ある人はちょっとしたことですぐ震える人がいますね?それを賜物だと言う人がいます。そのような人々が、自分や周りの人々がイエス・キリストを知るのに役立たず、むしろ「この人たちは特別な人!私たちは低い者!」などという違和感や分裂を生むなら、それは100%偽物です。

 

予言をしても、その人の信仰に助けを与えず、むしろこの地上での吉凶や幸不幸を繰り返し尋ねさせる者たちは、100%偽物です。それは聖書が目指す賜物の方向とは逆であり、今読んだ通り、互いに益となり、教会を完成させ、教会に徳を築くことこそ、賜物の目標なのです。今日の本文、7節を見てください。

 

(コリント人への第一の手紙 12:7)
7 各人に霊の現れが与えられるのは、益となるためである(益となるために与えられるのです!)

 

しかし、その賜物によって、現代の教会の中でどれほど多くの分裂が起きているか、分かりますか?

 

もう一度整理します。賜物というのは、私たちに、神をさらに深く知ることを可能にし、神の人として私たちが前進すること、そして信徒の益のため、啓示をより明確にし、教会を完成させることに焦点があるのです。

ですから、特別な賜物を持った人が優越感を持ち、平凡な賜物を持った人、例えば台所で食事を作るような賜物を持つ人が非常に劣った人として扱われるのは、神を冒涜することです。絶対にその必要はありません。今日の本文4節を見てください。

 

(コリント人への第一の手紙 12:4)
4 賜物はさまざまでも、霊は同じであり、
5 職務はさまざまでも、主は同じであり、
6 働きはさまざまでも、すべての人のうちで働かれる神は同じである

 

なぜ「賜物は同じ、職務も同じ、働きも同じ、すべては一人の神から出る」とパウロはわざわざ言うのでしょうか?全部同じだと言いたいのです。礼拝が終わった後、私が行って食器を洗いご飯を作り、ある人は座って祈りに賜物があるといいながらずっと祈っても、「なぜ私はあのような偉大な信仰を持てないのか」と悩む必要はないのです。

 

教会という群れに与えられた目的は何ですか?救われ、神の子として完成され、天国に入ることが、教会の目的ではありませんか?その目的を達成するために、イエスという頭に、各器官として私たちはつながれています。聖霊が!各器官としてつながれ、イエスという頭の命令を受け、それに従いながら、この神の国を完成させていくことが、まさに教会の目的なのです。

 

ですから、私たちにはそれぞれの役割があります。目に見える腕、脚、鼻、目といったものがある一方で、重要なものは、上、心臓、肝臓など、見えないところにあるのです。だからといって、この見えないものが重要でないわけではありません。しかし私たちは、つい目に見えるものにばかり関心を向けてしまいます。

 

皆さん!船員、船長、乗客の中で、誰が一番重要ですか?船は何のために存在するのですか?乗客を運ぶために存在するのです。船員や船長は、たとえ立派な制服を着て帽子をかぶっていても、この乗客を安全に運ぶために神が立てたのです。仕える者たちです。特別な者ではありません。

 

私が皆さんの前でこうして話すからといって、私がより特別な恵みを受けたり、賜物を受けた人間であるわけではありません。本当に神が愛するのは乗客です。本当に神が愛するのは神の民であって、牧師ではありません。皆さんをよく教えて、本当に水に落ちて死なずに、後で「その時ちゃんと教えてくれればよかったのに」と恨まれず、一緒に手を取り天国に入れるように仕える者として、家庭教師として送るのが牧師なのです。

 

自分の子を大事に思うように、どうして家庭教師を大事にするでしょうか?牧師は消耗されて死ぬのです。ただ皆さんに6,000ページを読み、6編の説教を作るのです。それ以外は無駄なものです。ですから、私は自分を消耗して皆さんを明るいところへ導くのが、私の使命なのです。賜物とは、そのようなものです。それぞれ役割があるのです。

 

映画『ベン・ハー』で、皇帝の役を演じた人は、役は皇帝ですが、日当は2,000ウォンでした。チャールトン・ヘストンは必死に苦労しますが、70万ドルのギャラをもらっています。私たちがこの地上でどの役割を担うかが重要なのではなく、どれがより重要かは、神だけが知ることです。

 

一昨日、私たちの伝道師が宣教に行って、「私にお金を預けないで」と言ったのはなぜでしょう?自分のお金ではないからです。人の金を預かっていても、それは不便なだけです。例えば、30人が行くとして、1,000ドルずつ出して、3万ドルを自分が持っていたとします。他の人は外に出て泳いだり遊んだりしますが、そのお金を持っている人は?不便で遊べません。忘れないように!どこに入れて持ち歩けますか?

 

皆さん、あなた方は神の家の管理者ですよね?それなら、あなた方のものでなければ、預かった分だけ不便ではありませんか?それがまるで自分のものだと思って、神を圧迫しながら要求するのではありませんか?貧しいのですか?その役割を神が与えたのです。現場監督?そうです。お金を預かる人は経理ですが、現場監督の方が重要です。しかし現場監督は、現場で働く人々と同じ服を着て、同じように働きます。灼熱の太陽の下で!

 

どちらがより重要ですか?お金を預かって不安がることですか?もちろんどちらも重要です。しかしそれによって信仰の重さを判断してはいけません。

貧しいという役割が与えられたら、その役割を果たせば、神の国が完成していくのだと思えばよいのです。その役割に忠実であればよいのです。お金を少し稼いだとして、「お前は信仰がないからだ。私は信仰があるから、こうして祝福してもらえる」などという人がいます。世の中にはそういう人がいるのです。役割に応じて神が賜物を与えるのです。

さて、使徒パウロがコリント教会に手紙を送った理由は何ですか?コリント教会の分裂を鎮めるためです。コリント人への第一の手紙1章10節をご覧ください。

 

(コリント人への第一の手紙 1:10-13)
10 兄弟たちよ、私は私たちの主イエス・キリストの名において、あなたがたにお願いする。皆が同じ言葉を語り、分裂がなく、同じ心、同じ思いで完全に一致せよ。
11 兄弟たちよ、クロエの家からの手紙によって、あなたがたの間に分裂があるということが私に聞こえてきた。
12 それは、あなたがたそれぞれが言うからである。「私はパウロに属す者だ。」「私はアポロに属す者だ。」「私はケパに属す者だ。」「私はキリストに属す者だ。」
13 キリストは分かれたのか?パウロのために十字架にかけられたのか?あなたがたはパウロの名によって洗礼を受けたのか?

 

違うのです。彼らが争っていたのは何でしょうか?「私はアポロ派だ!私はペトロ派だ!私はパウロ派だ!私はイエス派だ!」誰がより優れた教師を持っているか、誰がより優れているか、そんなことで争っていたのです。パウロはコリント人への第一の手紙で何と言っているのでしょうか?「誰がより優れた教師の弟子かなどと自慢せず、それで争うな!どの賜物もすべて神から与えられ、あなたがたの共同体の益のために与えられたものだ」と知らせることで、彼らを一つにまとめることに焦点を当てているのです。

 

賜物とは、このように「これこれがある」と列挙することではなく、「あなたがたは一つである!」ということを知らせるために、聖書はそれを語っているのです。しかしその者たちは、勝手なことばかり!自分が聞きたいことだけを取捨選択して聞いているのです。

 

賜物とは、教会が一つになり、教会に益を与え、教会を構成する信者の信者としての成長に益を与え、それによってイエス・キリストがより明確に現れるために、神が許してくださったのです。しかし、方言!予言!幻!震え!癒やし!などを挙げて、まるで賜物に優劣があるかのように話し、それを持たない人を軽んじ、違和感を生むようなことは、すべて偽物です。コリント人への第一の手紙 4章6節を見てください。

 

(コリント人への第一の手紙 4:6-7)
6 兄弟姉妹たちよ、私はこのすべてのことを自分自身とアポロに当てはめて説明しました。それは、あなたがたが「記された言葉の範囲を逸脱しないように」と学び、一方を支持し他方を軽んじて自慢することができないようにするためです。
7 誰があなたがた一人一人を特別に見てくれるでしょうか?あなたがたが持っているものの中で、神から受けていないものは何ですか?すべてが与えられたのに、なぜ受けていないかのように自慢するのですか?

 

すべての賜物は、神からある目的に向かって私たちに与えられたものです。しかし、まるで自分が優れているからその賜物を受けたかのように高慢になるのは、聖書から大きく逸れています。

 

神がある目的と計画のために与えたのに、あなたがたが優れているから、大きな賜物を与え、少し未熟な者には少しだけ与えたのではありません。すべて神の目的と方向のために与えられたのです。なのに自慢するのはなぜですか?「自分の祈りを受けなければ、病気は治らない」「自分の祈りを受けなければ仕事はうまくいかない」などと、人のビジネスに行って「私の祈りを受けなさい!そうすればうまくいく!」などというのは、悪魔の行為です。これはイエスを信じる者ではありません。

 

聖書では、イエスが誰かもわからない者たちが交互に祈っているのを見て、私は本当に呆れました。何を祈るというのですか?死が迫り、コンテナに押し潰されそうな時に、皆さんが思い浮かべるのは何か、毎日考えて生きるべきです。喜んで天国に行けるか、毎日確認しなさい。これがキリスト教信者の終末論的信仰ではありませんか?私は言いました。後で「その時教えてくれれば…」などと言わないように。

賜物を「私はあなたと違う」と証明するために使う者は、悪い人です。

 

なぜ聖書が12章の終わりに賜物の一覧を挙げ、「さらに大きな賜物を切望せよ」と言ったか分かりますか?大きな賜物はないと書かれています。すべての賜物は同じだと言っています。しかし「さらに大きな賜物を切望せよ」と言います。12章の終わりに!その次に来るのは?13章です。

13章は何ですか?「愛」の章です。この賜物は、愛を根拠としない賜物は、すべて無価値であると示しています。私が貧しい者のために、民族のために、身を燃やして尽くしたとしても、愛がなければ、イエスを根拠としないなら、無価値です。見てみましょう。コリント人への第一の手紙 12:27-31です。

 

(コリント人への第一の手紙 12:27-31)
27 あなたがたはキリストの体であり、各部分である。
28 神は教会において、第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、その次に力を行う者、その次に病を癒やす者、互いに助け合う者、統治する者、各種の方言を話す者を設けられた。
29 すべてが使徒でしょうか?すべてが預言者でしょうか?すべてが教師でしょうか?すべてが力を行う者でしょうか?
30 すべてが病を癒やす者でしょうか?すべてが方言を話す者でしょうか?すべてが通訳する者でしょうか?
31 あなたがたはさらに大きな賜物を切望せよ。私はまた、最も良い道をあなたがたに示そう。

 

そして「愛の章」が来ます。「Now I will show you the most excellent way」とあります。I will show you the way!それが愛です。愛!わかりますか?大きな賜物はありません。しかし、本当に賜物の本質は、愛を根拠とすることにあります。そうでなければ何もありません。

 

 

ある祈祷院に行くと、故人が罵ることがありました。「ここで方言を話せない者は立て!」そして「犬以下だ」と罵りました。そこでは犬も方言を話すと言ったそうです。そこにいた人々は「私はなぜこうなのか?」となります。これは神の賜物の目的と方向ではありません。

 

皆さん!私たちが賜物と主張する奇跡や超自然的現象は、イエスを信じない者でも行うことができると聖書は言っています。前回見たように、マタイ7章で「私は主の名によって悪霊を追い出し、主の名によって力を行い、奇跡を行い、主の名によって牧師の役割も果たしました」とあります。しかしイエスは言われます。「不法を行う者よ、私から去れ!」信じない者でもできるのです。それです!

 

それを行う者がすべて本物で、できない者は偽物だ、という論理はどこから来るのですか?そんな現象は重要ではなく、それが愛の心に基づくかどうかが重要なのです。コリント人への第一の手紙 13章1節へ行きます。

 

(コリント人への第一の手紙 13:1-3)
1 たとえ人の方言や天使の言葉を話しても、愛がなければ鳴る銅鑼や響く鐘にすぎない。
2 予言の能力があり、すべての秘密と知識を知り、山を移すほどの信仰があっても、愛がなければ、私は何者でもない。
3 自分の持っているすべてで施し、また自分の体を燃やして与えても、愛がなければ、私には何の益もない。

 

I am nothing! 無価値です!ここで、祈って山を動かしても、愛がなければ、ここで「愛」の代わりに「イエス」という言葉を入れてみてください。「イエス」です。イエス!イエスを根拠としない賜物、神秘的で超自然的なものは、無価値です。

 

賜物がそのようなものであるなら、使徒行伝に記録された初代教会の賜物や奇跡は一体何でしょうか?使徒行伝は、ルカがルカによる福音書とともに、一冊の書として記録したものです。ルカ福音書と使徒行伝は別々ではなく、一冊の書です。テーマは一つでしょう。使徒行伝のテーマも、ルカ福音書1章に出ています。

 

ルカ福音書は何について記録されていますか?イエス・キリストとイエス・キリストの行いについて記録されています。イエス・キリストのこの地上での働きです。使徒行伝の記録の目的は、使徒が行った奇跡や力ではなく、神の国が拡張されることではなく、イエスがこの地上に来て行ったこと、弟子たちを通して教会をどのように建て、完成させるかを示す書です。

 

福音書では、イエスは地上に来て、エルサレムで聖所を清め、福音を宣べ伝えます。ユダヤの役人ニコデモに福音を伝え、サマリアの女に福音を伝えます。異邦の役人の息子を癒やします。エルサレム、全ユダヤ、サマリア、地の果てまでイエスは行き、福音を伝えます。

 

使徒行伝では、彼らがエルサレムで聖霊を受け、福音を伝えます。ステパノが死ぬと散らされます。エルサレムで福音を伝え、散らされます。使徒行伝8章1節には何と書いてありますか?「全ユダヤとサマリアに散らされる」と。イエスが聖霊をこの地に送り、弟子たちを通してその働きを行い、全ユダヤとサマリアに散らしておられるのです。

 

さらに、そうして散らされながら、女王カンダケの宦官を救い、エルサレムと全ユダヤ、サマリア、地の果てまでイエスが上り、聖霊が来て、そのイエスの働きを地上で行っているのが使徒行伝です。

 

つまり、ルカ福音書は地上でイエスが行ったこと、使徒行伝は天から聖霊を通してイエスが行うこと、すべてイエスに関する話です。したがって、使徒行伝は、救いとイエス・キリストの働き、この教会の設立と完成について記録したものです。

使徒行伝に現れる奇跡や賜物は、今何を語ろうとしているのでしょうか?その救いの働きを完成させ、教会を建てる過程を示すために記録されたのです。

この使徒行伝の諸奇跡や賜物は、教会が建てられるために必要なものでした。エペソ人への手紙 2章20節を見てください。

 

(エペソ人への手紙 2:20-22)
20 あなたがたは、使徒と預言者の土台の上に建てられた者であり、キリスト・イエスご自身が隅の石となられた。
21 彼のうちで、すべての建物は互いにつながり、主のうちで聖所となっていく。
22 あなたがたも、聖霊において、神が宿る住まいとなるために、イエスにあって共に建てられていく。

 

イエスにおいて共に、神の聖所として共に築かれていくために、必要なものがそのような奇跡や賜物であったのです。皆さん!教会は、使徒と預言者を通して語られたその啓示の上に築かれるのです。

 

当時のイスラエルには、偽預言者!そのような偽使徒がたくさんいました。偽物が多かったのです。そしてユダヤ人も、それぞれ自分なりにユダヤ教を信じ、信仰を持っていました。しかし、どれが本物なのか、当時はまだ聖書が完成していませんでしたよね?だから、どれが本物であるかを彼らに知らせるためには、この奇跡と超自然的な現象しかなかったのです。

 

しかし今は、その啓示の期間を通して、聖書が完成したのです。救いというものは、皆さんがしっかりと理解しておくべきことですが、個人的な救いというものは聖書では語られていません。神は、創世以前にこの「教会」という群れを生命の書に記しておき、この教会という群れに対して、どのような働きをしているのかを示しているのです。この啓示の期間の間に、イエスがこの地での働きを終え、その働きが一体何を意味していたのかを、当時の初代教会に対して、今の奇跡や様々な異能を通して知らせたのです。そしてその教会を築かれたのです。そこに!

 

それは単に初代教会だけに語られたのではなく、今の使徒行伝に記されている初代教会に対して、ある特定の暫定的な期間に、神が教会全体に何を啓示したいのかということです。「これが本物であり、これは偽物だ!」そしてそれを聖書に記録させることによって、「見よ!これで完全な言葉を基礎として、根拠として、皆さんの信仰生活を行いなさい!教会よ!この時代の私の愛する教会よ!私が今、使徒行伝で説明したことこそ本物だ!」ということを、啓示の期間中に示されたのです。

その啓示の時間、つまり特定の暫定的な期間は、すでに終了し、聖書が完成したのです。だから今は、奇跡や賜物や神秘的なものは必要なくなったのです。これを理解していないから、皆が不安になり、そのような神秘や超自然の方へ行ってしまうのです。

 

「私の未来はどうなるのか!」未来は?皆さんの未来は?ここにすべて記されているではありませんか?天国に行くといっていますよね?それが皆さんの未来です。それ以外に知りたいことは、皆さんがこの地でうまく生きるためのことではありませんか?過去を当てることが何でそんなに不思議なのですか?未来を少し早く知ることが、何でそんなに不思議なのですか?

 

皆さん!皆さんの未来は、私たちキリスト者の未来は、聖書に明確に啓示されています。ローマ人への手紙15章18節を一緒に読みましょう。

 

(ローマ人への手紙15:18-19)
18 私は、キリストが異邦人たちを従わせるために、私を通して、言葉と行いとしるしと奇跡の力、そして聖霊の力によって働かれたことのほかに、自分からは語らない。
19 このことによって、私はエルサレムからイルリゴンまで、キリストの福音を広く宣べ伝えたのです。

 

見てください。このしるしと奇跡の力と聖霊の力によって、何が可能になったのですか?この奇跡はなぜ与えられたのですか?異邦人を従わせ、キリストの福音を広く宣べ伝えるためです。そして私は、福音を完全に宣べ伝えたのです!奇跡の目的と方向はこれです。使徒行伝14章3節を見てください。パウロとバルナバに奇跡が起こり、賜物が与えられたことがどのように説明されているでしょうか?

 

(使徒行伝14:3)
3 その二人の使徒は長く滞在し、主に依り頼んで大胆に語り、主がその手によってしるしと奇跡を行わせて、彼らの恵みの言葉を証しされた。

 

しるしと奇跡を通して、イエス・キリストの恵みの言葉を証したのです。ヘブル人への手紙2章3節を見てください。

 

(ヘブル人への手紙2:3-4)
3 もしこのような大きな救いを軽んじたなら、どうして免れられましょうか。この救いは初めに主によって語られ、聞いた者たちが私たちに確証したのです。
4 また神も、しるしと奇跡とさまざまな力と、その御心に従って聖霊を分け与え、共に証されたのです。

 

しるしと奇跡、さまざまな力、そして御心に従って聖霊が分け与えられ、福音を共に証されたのです。神が!必要なものがまさに奇跡や賜物や超自然的なものだったのです。初代教会の時代に。

 

初代教会の時代、聖霊が目に見える形で、火の舌のように臨み、異言が起こる場面がいくつあったでしょうか?四か所です。
いつですか?ユダヤ人たちに、上階で、聖霊が火の舌のように臨み、彼らが聖霊で満たされたとき!そして?ゴルニオの家で、ゴルニオとそこにいた人々に、ペンテコステの日に臨んだ聖霊と同じ姿で臨み、彼らが異言を話したとあります。そしてエフェソ教会で、彼らが聖霊を受け、キリスト者になりました。そして?フィリポが福音を伝えた後、ヨハネとペテロが行って祈ると、彼らが聖霊を受ける場面!この四場面だけです。

 

なぜその場面だけ特別に、そのようなことが起こったのか記録されているのか分かりますか?当時のイスラエルの神の教会には、四つのグループがあったのです。ユダヤ人!異邦人!サマリア人!そして「神を畏れる者」と呼ばれた異邦人、ユダヤ教に改宗した者です。キリスト教に改宗したのではなく、ユダヤ教に改宗した者です。ゴルニオのような人ですね。

 

見てください。神の教会は、ユダヤ人であろうと、ギリシャ人であろうと、異邦人であろうと、サマリア人であろうと、異邦人であったが改宗した者であろうと、平等に神の教会の一員になれることを宣言する場面なのです。他のことではありません。

 

当時、使徒たちさえも、異邦人やサマリア人を軽んじていました。だからペテロがゴルニオに福音を伝えに行くとき、なんと言ったでしょう?「いや、神よ!どうして私が異邦人に行かなければならないのですか?」しかし行ってみると、ペンテコステの日に臨んだ聖霊と同じ形で臨み、異言が起こったのです。だから「おお、これで異邦人にも福音が伝えられるのだ!異邦人にも福音が適用されるのだ!」とペテロは理解したのです。

 

だから弟子たちに説明するのです。弟子たちは騒いでいました。「お前、どうして異邦人に福音を伝えたのか?」と。すると「違う、あの時、ペンテコステの日に私たちに臨んだ聖霊と同じ姿で、その場所でも臨んだのです。」だから弟子たちは、「ああ、これで異邦人にも福音が適用されるのだ」と理解したのです。ゴルニオの家で、異邦人であったがユダヤ教に改宗した者も、「あれ?この人にも聖霊が臨み、異言が起こるのか!なるほど!これでこの人たちにも福音が伝わるのだ!」

 

サマリア人は?エフェソの人々は?ペンテコステの日に聖霊が臨みました。それは教会全体に臨んだ出来事です。しかし、その後、なぜそのように目に見える聖霊の姿が現れるのかというと、それを教会全体に知らせ、宣言するためなのです。その後は何もありません。

 

どれほどのことか、パウロは、次第にその働きの後期に行くにつれて、死者を蘇らせたパウロでも、愛する同労者の弟子たちの病を癒せなくなります。なぜでしょう?ペテロは、祈ってアナニアとサッピラを一度に死なせた者です。そうですよね?では、後に彼を捕らえに来る兵士たちがいても、手首がポキンと折れるはずではありませんか?しかし捕らえられ、散々殴られて出てくるのです。なぜでしょう?なぜ奇跡が起こらないのか?次第に、目的と計画が完成されるにつれ、神はもうそれを必要としなくなったのです。聖書が完成されつつあるのです。だから、弟子たちにそのようなものがなくなったのです。

 

どれほどでしょう、パウロは、人々が「嘘だ!」「作り話だ!」と言ったとき、ああ、「この人々は本当に神なのだろう」と思わせるために、衣を引き裂きます。「この奇跡を見て信じるな!お願いだから、これは私たちから出たものではなく、神が私を通して皆に知らせたいことなのに、なぜ奇跡の前でだけひざまずくのか?」衣を引き裂くのです。

 

しかし、私たちの信仰の先輩たちは、そのような姿勢で賜物に接したのに、今日ではどうでしょう?「私に祈らなければ、あなたたちはみんな滅びる!」これは一体どこから来たのか?テモテへの手紙第二4章20節を見てください。

 

(テモテへの手紙第二4:20)
20 エラスドはコリントに滞在し、ドロビモは病のためミレトに置いてきた。

 

ドロビモは、使徒パウロと共に、献金を集めて回っていた同労者でした。あまりにも病気なので、ミレトに置いてきたのです。パウロが!なぜ抱えて癒さなかったのか?しかも癒すことはできたのです。パウロは!そのような力ある人です。フィリピ人への手紙2章26節を見てください。エバブロディドが病にかかったとき、パウロは心を痛めました。治せずにです。

 

(フィリピ人への手紙2:26)
26 彼は皆を切望し、自分の病気をあなたがたが知っていることを知り、非常に心を痛めた。
27 彼は病にかかり死にそうになったが、神は彼を憐れみ、また私をも憐れんで、私の悲しみに重なる悲しみを免らせてくださった。

心を痛めます。テモテへの手紙第一5章23節を見てください。テモテは非常に体が弱く病気が多いため、パウロはその働きの後期に、こう言います。

 

(テモテへの手紙第一5:23)
23 今後は水だけを飲まず、あなたの胃のためと頻繁に起こる病のために、ぶどう酒を少しずつ飲みなさい。

 

「お前!そんなに苦しまないように、少しぶどう酒を飲んで苦痛を和らげなさい!」と言います。ああ、「パッ!」と癒してやればいいのに、なぜぶどう酒まで飲めと言うのか?治せないのです。賜物や奇跡のようなものは、聖書が完成されるにつれ、消え始めたのです。教会は築かれ、啓示は完成されたのです。

 

皆さん!教会の設立と啓示の完成のために、超自然的なものが動員され、それが完成した後は、その超自然的な賜物は終わったと、聖書は語っています。コリント人への手紙第一13章8節を見てください。

 

(コリント人への手紙第一13:8-10)
8 愛はいつまでも失われないが、預言は廃り、異言はやみ、知識も廃る。
9 私たちは部分的に知り、部分的に預言する。
10 完全なものが来るとき、部分的に行っていたものは廃るのです。

 

今、教会は完全に築かれ、啓示は完成しました。初代教会という特別な状況で使われた超自然的な賜物は、もはや断絶されたのです。そして、教会の持続的な福利と成長に関する賜物は、今も継続されています。奉仕の賜物、教える賜物、施す賜物、教会の維持に必要な賜物は、私たちの中にあるのです。

 

私たちはキリスト者です。キリスト者はすべて、賜物を持っている者です。私たちが得た救いこそがそれであり、私たちが神の子として作られていくために与えられるすべての状況!すべてが神の賜物なのです。自分が少し特別なものを持っているからといって自慢することもなく、他人の賜物を羨むこともありません。その賜物はすべて、私たち神の子供たちの、子供としての目的のために与えられたものであり、私たちは皆必ずその完成の場所に立つのです。

 

皆さん!奇跡の前で圧倒されないでください。超自然の前で、神秘の前で、圧倒されないでください。巫女が高い板の上で踊るような、そういうものと同様、いや、それよりも劣るかもしれない、予言であれ、病を癒すことであれ、そのようなものに没頭しないでください。それは偽物も行うことができるではありませんか?

 

偽物もできて、本物もできるもの、何かを見分けられないものに執着せず、本物だけが理解できるものに執着しなさい。

それが私たちの教会が進む方向です。私たちは聖書の言葉以外、何も認めません。

ここで語られることだけを説教し、ここで語られることだけを論じ、受け入れます。

 

 


 

(21) - 성령(04) 성령의 은사 (고전12:1-11)

 

 

자, 오늘 말씀은, 고린도전서 12장 1절에서 11절까지의 말씀입니다.

 

(고린도전서 12:1-11)

1 형제들아 신령한 것에 대하여는 내가 너희의 알지 못하기를 원치 아니하노니

2 너희도 알거니와 너희가 이방인으로 있을 때에 말 못하는 우상에게로 끄는 그대로 끌려 갔느니라

3 그러므로 내가 너희에게 알게 하노니 하나님의 영으로 말하는 자는 누구든지 예수를 저주할 자라 하지 않고 또 성령으로 아니하고는 누구든지 예수를 주시라 할 수 없느니라

4 은사는 여러 가지나 성령은 같고

5 직임은 여러 가지나 주는 같으며

6 또 역사는 여러 가지나 모든 것을 모든 사람 가운데서 역사하시는 하나님은 같으니

7 각 사람에게 성령의 나타남을 주심은 유익하게 하려 하심이라

8 어떤 이에게는 성령으로 말미암아 지혜의 말씀을, 어떤 이에게는 같은 성령을 따라 지식의 말씀을,

9 다른 이에게는 같은 성령으로 믿음을, 어떤 이에게는 한 성령으로 병 고치는 은사를,

10 어떤 이에게는 능력 행함을, 어떤 이에게는 예언함을, 어떤 이에게는 영들 분별함을, 다른 이에게는 각종 방언 말함을, 어떤 이에게는 방언들 통역함을 주시나니

11 이 모든 일은 같은 한 성령이 행하사 그 뜻대로 각 사람에게 나누어 주시느니라 아멘.

 

오늘은 여러분들이 본문에서 읽어 보셨듯이, 제가 성령의 은사에 관해서 함께 나눠 볼 겁니다. 이 성령의 은사! 사실은 이 부분 때문에, 많은 교파들이 갈리고, 이단(異端)들이 횡횡하는 그런 결과를 낳은 부분이기도 합니다. 그러니까 여러분이 잘 들으셔야 돼요. 제가 급한 마음에, 한, 두 편이나, 세 편 정도에 나누어서 할 설교를, 하나에다가 모았습니다. 그러니까 여러분이 잘 들으시고, 구별을 명확하게 하세요. 성경에 있는 이야기만 하겠습니다. 제가 체험한 이야기나 이런 이야기는 완전히 배제하고, 성경이 뭐라고 이야기 하는가만, 여러분들에게 찾아서, 말씀을 전해 드리도록 하겠습니다.

 

여러분 심리학에는, 이런 실험이 있습니다. 학생 열 명이, 교수와 함께 교실에 들어가서, 질문과 대답을 하는 그런 실험이 있어요. 그런데 아홉 명의 학생은, 다 교수와 짠 사람들이고, 나머지 한 명만, 그냥 바보같이 들어가 있는 거예요.

 

그리고 교수가 질문을 합니다. 미국의 수도는 어딥니까? 1번 워싱턴 디씨, 2번 로스엔젤레스. 1번 혼자 들죠? 너무 쉬운 거니까! 그런데 나머지 아홉 명이 아무도 안 듭니다, 2번 로스엔젤레스 그럼 아홉 명이 다 드는 거예요. 두 번째 문제 해서, 계속해서 문제를 내가는데 ,너무 쉬운 문제예요. 그리고 1번, 2번 해서 손을 들라고 한다고요. 나머지 아홉 학생들이 교수와 짠 학생들이, 틀린 답! 2번에, 계속해서 손을 들면요, 이 사람이 그 답이 틀린 것을 알면서도, 아홉 번째, 열 번째 질문부터는 ,이 아홉 명의 대답에, 같이 따라들기 시작한대요. 백이면 백 누구나 다! 그게 심리학의 굉장히 유명한 실험의 하나라고요.

 

오늘날 많은 다수가, 마치 담합을 한 듯이 다른 길을 가고 있는데, 극소수인 우리가, 이렇게 그들과는 반대의 길을 가고 있습니다. 그럼에도 불구하고, 여러분들이 이렇게 남아 있는 거 자체가 기적이에요. 언젠가 이 중에, 어떤 사람들도, 2번에 손을 번쩍 들고 떠나갈 것이라는 것을, 제가 분명히 알고 있습니다. 그렇지만 그럴 때, 저는 결코 당황하지 않을 수가 있습니다. 성경이 분명히 그렇게 이야기 하고 있기 때문에 그렇죠.

 

마지막 때는, 배도하는 자들이 분명히 많이 생길 것이라고 이야기하고 있다고요. 어저께, 제가 꿈을 꿨어요. 오랜만에 꿈을 꿨는데, 비가 막 내리고 있더라고요. 비가 막 내리는데, 제가 아는 청년들이 막 교회를 가고 있어요. 굉장히 멋있는 화려한 옷들을 입고, 교회를 막 가고 있더라구요. 그래서, ‘어디 가니?’ 그랬더니, ‘교회 가요.’ 그러더라고요.

 

그런데 계속해서 비가 내려서, 홍수가 나고 이 산꼭대기 까지 물이 찼어요. 그런데 조그만 뗏목이 있었는데, 저희들은 그 뗏목에 타고 있었어요. 거기에 제임스하고, 보름이하고, 에드가 있었어요. 생각나는 얼굴은 그 세 개! 얼마나 꿈이 생생한지 딱 타고 있었는데, 조금 전에 교회 간다고 했던 그 학생들이 그 물에 떠내려가는 거예요.

 

그러면서 물에 빠졌다가 나왔다가, 빠졌다 나왔다가 막 그러면서, 그래서 제가 안타까워서 손을 뻗었는데, 손이 닿지를 않아요. 그래서 막 손을 뻗으라고 소리 지르는데, 갑자기 물속에서 어떤 애가 쑥 나오더니, 눈을 똥그랗게 뜨고, ‘그때 왜 진작 이야기 해주지 않았냐?’고 그러더니, 조금 있다가 어떤 애가 또 쑥 올라오더니, 머리를 다 풀어 헤치고요. ‘그때 왜 똑바로 얘기해주지 않았냐?’고! 그래서 제가 혼비백산해서 깼잖아요. ‘아니, 나는 얘기 했다! 그런데 그때 너희들이 못 알아듣고, 이제 와서, 왜 그때 얘기 안해주냐고, 그렇게 얘기 하냐?’ 꿈에서 깨서, 오늘도 바르게 제대로 전해야 되겠다. 그러고 왔어요.

 

제가 지난주 목요일 날, 새벽기도를 오는데 사고가 났어요. 커다란 컨테이너가, 그 쪼그만 차를 덮쳤어요. 그 안에 인제 사람이 타고 있었는데, 제가 바로 내렸는데도, 어떻게 손을 쓸 수가 없어요. 그 컨테이너를 뭐 어떻게 들 수가 있습니까? 어떡합니까? 그런데 그 안에서 소리를 막 지르는데, 이 컨테이너가 점점점점 눌러서 죽었어요. 그 사람은!

 

제가, 그 안에서, 그 사람이 죽어가면서, 어떤 생각을 했을까? 한번 잠깐 생각을 해봤습니다. 여러분이 만약에 그런 상황이 되면, 여러분들에게는, 가장 먼저 무엇이 떠오르겠어요? 내가 지금 죽어가고 있어요. 컨테이너가 점점점점 내려오고 있어요. ‘이제는 내가 살아날 수 없구나!’라는 그러한 생각이 들었을 때, 그런 위기에서 여러분은, 무슨 생각을 하시겠냐는 거예요.

 

그때에 여러분들에게 생각나는 것들이, 여러분의 우상(偶像)입니다. 그때에 여러분의 모아놓은 재산이 생각난다든가, 여러분의 아내나, 남편이나, 여러분의 자녀가 생각난다면, 여러분은 천국에 못 들어가요. 그거 아까워서! 우리는 그 때에, 내가 이 세상을 떠날 때에, 미련 없이 다 두고 갈 수 있는 연습을 하는 거예요. 이 땅에서! 이 땅에서 하나님을 이용해서 오히려, 내가 이 세상을 떠날 때에, 아까운 것들을 만들어내는 것이, 기독교가 아니라는 것이죠. 여러분! 천국가야 되지 않겠습니까?

제가 이제 성령에 대한 설교를, ‘성령훼방죄’라는 게 무엇인지에 대해서, 제가 한번 설교를 하고, 성령에 대한 건 이제 여섯 번으로, 마치려고 그래요. 그 성령훼방이 과연 ‘목사가 하는 일을 방해하는 게 성령훼방이다.’ 이렇게 사기 치는 그런 사람들이 있잖아요? ‘목사가 하는 일 방해하면, 그건 성령훼방이다. 그것은 용서받지 못한다.’ 그렇게 가르치는 사람들이 있잖아요? 나쁜 사람들이! 과연 그게 그 이야기인가를 마지막으로, 여러분과 성령강해는 마치도록 할 거예요.

 

그렇지만 더 알고 싶은 분들에게, 제가 그 책을 소개해 드릴게요. 제가 본 게 거의 한 6,000페이지를 읽었어요. 한 달 넘게! 이 ‘개혁주의 구원론!’ 여기에서 제가 삼위일체에 관한, 많은 인사이트(insight)를 얻었어요. 제이 아이 패커가 쓴 ‘성령을 아는 지식’ 정말 아주 훌륭한 신학잡니다. 성령을 아는 지식! 이들은 정확하게 일관성 있는 이야기를 하고 있어요. 그런데 도대체 그 인간들은, 어디서 무슨 책을 읽고 지금 그렇게 가르치고 있는지? 구원과 성화!

 

퍼거슨 교수가 쓴 ‘성령!’ R C Sproul이 쓴, ‘더 미스터리오브더 홀리 스피릿(The Mystery of the Holy Spirit)!’ 성령에 관한 것입니다. 그리고 저보다 오만 배 더 스트롱하게 설교를 하신, 잔 맥아더 목사님의, ‘은사! 캐이즈메틱 카오스’라는 예언자인가! 광신자인가! 아니면 이단인가! 뭘 얘기 하려고 하는지 충분히 아시겠죠? 무지하게 스트롱하게 써 놨어요.

 

그리고 워필드 교수님이 쓴, ‘기독교 기적론!’ 도대체 기독교에 일어나는 그런 ‘은사(恩賜)’라고 하는 기적 같은 것들은, 왜 일어나는가에 대해서, 아주 자세히 이야기하고 있다고요. 제가 청년들에게 다 한권씩 나눠드렸죠? 이거는! 잔 오웬! 웨스트민스터 신앙고백에 참여했던, 아주 어머어마한 그러한 신학잡니다. ‘성령론, 더 홀리 스피릿(The Holy Spirit)!’ ‘과연 성령이란 무엇인가?’에 대해서! 그리고 이 바빙크 교수가 쓴, ‘개혁주의 신론’ 여기에도 삼위일체에 대해서 아주 자세히 설명이 되어 있어요.

 

더 알고 싶으신 분들은, 이 책들을 참고로 하셔서, 읽으시고요. 그리고 책을 읽는 것들을 별로 안 좋아하시는 분들은, 이 성령에 관한 설교 테이프를 가져다가, 여러분 들으세요. 제가 6,000페이지를, 여섯 개의 설교로 나눠놓은 거니까! 요약을 해 놓은 거예요. ‘그도 저도 싫다!’ 그런 사람들은, 달마사로 가세요. 저기 알링턴 길에! 그런 사람들은, 예수 믿을 자격도 없어요.

 

지난주까지 우리가 삼위일체! 그리고 성령의 세례 그리고 성령의 사역! 그리고 성령충만에 대해서 살펴 봤습니다. 그래서 삼위일체에 대해서 공부하면서, 성령 하나님은, 무슨 능력이나 힘 정도가 아니라, 바로 완전하신 전지전능하신 하나님이라는 것을 살펴봤고요.

 

그리고 성령세례를 공부하면서, 성부 하나님께서, 성령 하나님을 우리에게 보내주셔서, 우리의 눈이 뜨이게 되고, 죄에서 자유를 얻게 된 것을, ‘성령세례’라 한다 그랬습니다. 그래서 자유와 놓임의 상징인, 오순절 날! 성령이 임하신 거라는 것을 살펴봤죠?

 

성령의 사역을, 성령께서 오셔서, 예수에 대해서, 구원에 대해서, 죄에 대해서, 의에 대하여, 심판에 대하여, 우리에게 깨닫게 해주시는 그 일을 하시는 게, 바로 성령님이시라는 것을 살펴보았고, 성령충만은, 갑자기 전기가 올라서 손만 대면 다 넘어가고, 이런 것이 성령충만이 아니라, 우리의 입으로, 삶으로, 그 예수 그리스도를 증거하는 삶! 그것이 바로 성령충만한 삶이라는 것을, 성경에서 찾아봤습니다.

 

오늘은 이 성령의 은사! ‘성령의 은사’에 대해서 한번 살펴보도록 하겠습니다. 아마 이 설교가 끝나면, 또 몇 분이 교회를 나갈 수도 있어요. 하지만 괜찮습니다! 성경이 이야기하는 바만 이야기 할 거고, 끝까지 남는 자만 우리는 같이 갈 거예요.

 

하나님은 모든 인간에게, 그 지으신 만물을 통해서, 자신을 계시(啓示)하십니다. 로마서 1장 20절을 보시면, ‘이 세상 창조 때로부터 하나님의 보이지 않는 속성! 곧 그분의 영원하신 능력과 신성은, 사람이 그 지으신 만물을 보고서, 깨닫게 되어 있습니다. 그러므로 사람들은 핑계를 댈 수가 없습니다.’ 그렇기 때문에 사람은 누구나, 은연중에 내세를 생각하고, 또 어떤 절대자에 관한 막연한 두려움이나, 의타심 같은 것들이 있게 마련입니다. 누구나!

 

그래서 사람들은 꿈속에서도, 자기가 가고 싶은 어떤 막연한 좋은 것을 꿈꾸기도 합니다. 여러분도, 그러한 꿈을 꾸어본 적이 있을 거예요. 어딘 지는 모르겠는데, 거기만 가면, 너무나 편안한 그런 꿈을 한두 번씩 꾸기도 하고, 그리고 어떤 사람을 만나도 해결되지 않는, 이상형이라는 것이 사람들에게 있다고요. 그거는 누구를 만나도 채워지지가 않아요. 기독교 심리학자는 그런 것을, 바로 ‘우리 마음속에 남아있는 에덴과, 하나님의 형상에 대한 그런 그리움’이라고 이야기를 합니다.

 

그래서 이 세상 어떤 부족에게라도 종교라는 것이 있어요. 어디엘 가도 있어요. 아마존 밀림 속에 가도 종교가 있습니다. 막연한 어떤 신에게 자기의 필요를 구하고, 자기들의 일에 해코지를 하지 말게끔 부탁을 하는, 그러한 종교들이 있다고요. 그러니까 그 신은, 자신들보다 능력이 있어야 됩니다. 그래서 모든 종교는, 그 종교를 종교답게 만드는 것이, 바로 ‘초월(超越)’이라고요. 초월적이고 신비적인 것들을, 사람들은 그 종교의 근거를 삼는단 말이죠.

 

그러니까 어떠한 종교에도 초월이라는 것이 있어요. 무당도 예언하고, 무당도 시퍼런 작두 위에 올라가서 춤을 춘다고요. 다른 사람이 올라가면, 금방 발이 두 동강이 날 법한, 그런 작두에 올라가서 춤을 추고, 또 무당이 쌀을 뿌려 놓으면, 거기에 갑자기 새 발자국이 찍히기도 하는, 이런 초월들이, 우리 주변에는 있다는 말이죠.

 

풍수지리나, 미래의 길흉화복을 점치던 사상이, 바로 ‘도참사상’이라는 거예요. 이 도참사상에 따르면, 뭐 정감록이라든지, 여러 가지 많죠? 그 도참사상에 따르면, 기(氣)가 아주 높은 곳으로 유명한 곳이, 계룡산입니다. 거기에 가면 많은 신흥종교들! 유사종교들이 우후죽순처럼 난립하던 그런 시대가 있었어요. 지금도 마찬가지예요. 지금도 많이 있습니다. 그러나 1984년에, 얼마나 그런 신흥 사이비 종교들이 많았으면, 정부에서 나서서 다 철거를 해버렸을 정도로! 그런데 지금도 많이 있어요.

 

저는 계룡산에 인제 자주 갔죠. 저도 그런 관심이 많았으니깐요. 만나는 사람 중에 특이한 사람 몇 명이 있는데, 어떤 사람은, 가다보니까, 호박을, 둥그런 호박 있잖아요? 누런 거 그걸 그냥 계속 해서 던져요. 굉장히 높이 던져요. 그리고 호박이 땅에 떨어지는 동안 빌어요. 막 빌고! 그런데 이 호박이 땅에 떨어지는데도, 안 깨져요. 호박이 떨어지면 또 들어서 던져요.

 

그래 제가 이야기를 좀 나눠 봤는데, 이 호박이 하늘에서 땅에 떨어지는 고 순간에 하는 기도가 다 들어진다는 거예요. 그런데 왜 계속해서 그걸 던지고 있는지 모르겠어요. 다 들어졌을 텐데…. 여태! 인격이 연마되고 수양이 된다는 거예요. 그러면서 자기 종교이름을 뭐라고 이야기 해주는데, 잊어버렸어요. 그런데 제가 그냥 ‘호박교’다. 이렇게 이야기하고 있습니다.

 

거기에도 신비로운 게 있어요. 어떤 사람은 바늘을 108개를 묶어서, 이마를 계속 찍고 있어요. 몇 십 년 동안 그랬대요. 그래 여기가 김일보다 더 딱딱해요. 이마가! 그런데 그 사람이 사는 집을 가봤는데, 기중기로도 들 수 없는 어마어마한, 그 고인돌 같은 바위 있죠? 그런 바위로 집을 지어 놨어요. ‘이거를 어떻게 지었냐? 이 산꼭대기에다 이 바위로 이 집을 어떻게 지었냐?’ 그랬더니, 자기가 들어서 지었대요. 사람이 수십 명 달라붙어도 못 들어요. 그 바위는! 그런데 집을 지었더라니깐요. 그걸로! 고인돌 같은 큰 바위로! 그러니까 내려오면서, 제 친구들과 같이 이야기 하는데, 그 친구들이 그래요. ‘뭔가 있는 거 같아요.’ 뭔가 있는 거 같다는 거예요.

 

사람들은 이렇게 초월이나 기적 앞에서, 굉장히 약해집니다. 뭔가 있는 거 같고, ‘아! 그런 기적이 있는 곳에, 과연 그것이 가짜일까?’ 뭐 이런 경외심이 들게 마련이에요. 그래서 기독교를 제외한 모든 종교는 바로, 그런 초월을 근거로, 그 종교에 정당성을 내세운다고요.

 

그리고 정확하게 자기가 말하는 신에 대해서 알지 못하기 때문에, 아주 주술적이에요. 무슨 말인지 알지 못하면서, 그냥 주절주절 주문을 외운다든지, 불경을 외운다든지, 그리고 의미 없는 기도문 같은 거, 증산도 가에서 하는 거 있죠? 의미 없는 기도문 같은 것들을 막 읊조린다든지, 아침 점심 저녁으로! 하면서, 자기가 믿는 신을 감동시켜서, 자기가 원하는 것을 얻어내는 것! 그것이 바로 종교 아니에요? 그래서 오죽하면은 ‘동천지 감귀신’이라는 말이 있어요. 지성이면 감천이다! 이런 거죠. 어떤 귀신이든, 내가 빌어서 그게 감동만 하면, 내 소원은 들어줄 거라는 거예요. 사람들은 그러한 초월에 목숨까지 건다고요.

 

이슬람에 얼마나 많은 초월들이, 신비적인 사건들이, 일어나는지 아십니까? 그들은 그런 것에 목숨을 건다니깐요. 비행기를 타고 가다가, 분명히 이 빌딩을 들이받으면, 내가 죽을 걸 알면서도, 가서 받는다고요. 사람들은 초월 앞에서, 그렇게 맥없이 무너진다고요. 인간을 그렇게 무력하게 만들고 엉뚱한 기대를 갖게 만드는 힘이 있는 것이 바로, 그러한 초월이나 신비 기적 같은 거란 말입니다.

 

그러나 기독교는, 기독교를 설명할 때, 초월로 설명하지 않습니다. 기독교는 계시를, 기독교의 정당성에 근거로 삼는다고요. 그러니까 오직 기독교만이, 하나님이 끊임없이 자신을 알리시고, 설득하시고, 인격적으로 관계를 맺는 종교예요. 다른 종교는, 자기가 믿는 신에 대해서 정확히 알지 못하고, 자기의 소원이나 비는 그런 종교지만, 기독교는 끊임없이 하나님이 인간을 찾아오셔서, 자기를 계시하시고, 자기를 알리신다고요. 기독교는, 기독교의 정당성을 이런 계시에 두고 있다는 것입니다.

 

그래서 하나님께서 인간을 찾아오셔서, 인간을 설득하고, 감동을 시키는 게, 바로 기독교입니다. 그렇게 초월과 신비를 동원하지 않고도, 인격적으로 하나님을 알 수 있게끔, 우리 인간이 이해할 수 있는 범위 안에서, 완전하게 자신을 계시해 놓으신 것! 그것이 바로 기독교예요. 그래서 기독교는, 역사적이며, 사실적이며, 객관적인 것을 믿는 것이지, 초월적이며, 신비적인 것의 도움을 받아야 할 만큼, 그렇게 가난하지 않다는 거예요.

 

왜 자꾸 기독교 안에서도, 초월적이고 신비적인 것들을 쫓아다니느냐면, 자기가 알고 있는 그러한 하나님에 대한 그 지식이, 너무 가난하기 때문에 그래요. 너무 알지 못하니까, 그런 것으로나마 자기의 마음을 어떻게라도 위로하고도 싶은 거예요. 거기에서나마 안전함을 확인하고 싶은 거라고요. 그래서 바울은, 갈라디아 사람들에게 이렇게 이야기 합니다. 갈라디아서 3장 1절에 보면,

 

(갈라디아서 3:1)

1 어리석도다 갈라디아 사람들아 예수 그리스도께서 십자가에 못 박히신 것이 너희 눈앞에 밝히 보이거늘 누가 너희를 꾀더냐

 

기적과 이사와 표적을 구하던 갈라디아 사람들에게, ‘너희들 앞에 십자가가 이렇게 밝히 보이는데, 또 무얼 더 원하느냐?’ 그러는 거예요. 또 무얼 원하느냐? ‘기독교는 이 십자가! 이것만으로 완전하게 완성되어지는 것인데, 또 너희들은 무얼 원하느냐?’라고 하는 거예요.

 

우리는 2000년 전 골고다에선 십자가를 믿는 거예요. 그 십자가를 지신 예수의 사역으로, 구원을 받게 되었음을, 믿는 믿음으로, 천국에 가는 것입니다. 우리는 그 객관적인 사실을 믿는 거예요. 그렇기 때문에, 이 객관적인 사실은 변하지 않잖아요? 역사적인 그 사실은 변하지 않기 때문에, 우리의 구원은 확실한 것이라고요. 이게 역사적이고 객관적인 사실이 아니라면, 우리는 계속해서 흔들릴 거란 말이에요. 그러나 그것은 사실이고, 2000년 전에 정확하게 골고다 꼭대기에, 이 십자가로 섰기 때문에, 우리의 구원은 확실하다! 우리는 주장할 수 있는 것입니다.

 

그런데 인간들이 얼마나 그 구원을 못 알아먹느냐 하면, 예수님이 오셨는데도 계속 기적을 보여달라고 그랬어요. 고린도전서 1장 22절 보면, 바울이 이렇게 이야기 합니다.

 

(고린도전서 1:22-24)

22 유대인은 표적을 구하고 헬라인은 지혜를 찾으나

23 우리는 십자가에 못 박힌 그리스도를 전하니 유대인에게는 거리끼는 것이요 이방인에게는 미련한 것이로되

24 오직 부르심을 입은 자들에게는 유대인이나 헬라인이나 그리스도는 하나님의 능력이요 하나님의 지혜니라

 

다른 사람들이 생각할 때는, 그 십자가는 굉장히 어리석고 미련한 것으로 보인단 말이에요. 그런데 하나님의 백성들에게는, ‘아! 이것만이, 이 길만이, 하나님의 지혜구나!’라는 것을 안다는 것이죠. 거기에, 그들의 그 믿음에, 초월이나 신비가 보태지지 않아도, 그들은 믿어진다고요. 그 십자가만으로!

 

오늘날 잘못 가고 있는 사람들이, 크게 어떻게 갈립니까? 자유주의와 신비예요. 자유주의는 뭐죠? 자기 이성으로 이해되어지는 만큼만, 하느님을 인정하고 믿는 거예요. 그러니까 자기 이성으로 이해되지 않는 것! 예수 그리스도의 하나님 되심! 동정녀의 탄생! 부활! 뭐 예수님의 기적! 이런 거는 하나도 안 믿어요. 그럼 뭘 믿는 건지 모르겠어요. 도대체! 자기가 이해되는 것만 믿어요.

 

그리고 신비(神祕)! 기복(祈福)은 뭐예요? 자기들이 알고 있는 게 별로 없으니까, 그러한 초월적이고, 신비적인 거 이런 것들! 자기들의 신앙을 근거로 삼는다고요. 사도바울이 정확하게 지적한, ‘유대인은 표적을 구하고, 헬라인은 지혜를 찾는다. 그러나 우리는 십자가 밖에 자랑할 게 없다.’라고 이야기하는 거예요. 우리는 바로 그 십자가만 이야기한다는 것입니다.

 

신비적인 거 가지고, 제가 한 30센티 여기서 붕 뜨면, 여러분들이, ‘하나님은 살아계셔!’ 그럴 사람이 있을 지도 모르겠어요. 그럼 그것으로는 예수 그리스도를 주라 시인할 수 없다는 것입니다. 오직 예수 그리스도의 그 십자가를 믿는 믿음으로만, 우리는 천국에 갈 수 있는 거예요. 그런 의미에서, 성령의 은사를, 어떤 신비적이고, 초월적인 면으로만 몰고 가는, 오늘날 일부 교회들은, 아무래도 성경과 많이 빗나가 있는 것처럼 보입니다.

 

오늘 본문에서 보면, 성령의 은사를 아홉 가지로 나열해 놓고 있어요. 그 중에는 분명히 우리가, 우리의 편견을 기준으로 했을 때, 은사다운 것들 것 있어요. 그죠? 우리의 편견을 기준으로 했을 때, 그 중에는 은사다운 것들이 있어요. 예언! 방언! 신유! 영분별! 이런 것들이 있다고요. 고린도전서 12장에는!

 

그런데 성경에는 또 다른 여러 곳에, 은사를, 다르게 또 설명하는 부분들이 있어요. 로마서 1장 11절로 갑니다.

 

(로마서 1:11)

11 내가 너희 보기를 심히 원하는 것은 무슨 신령한 은사를 너희에게 나눠주어 너희를 견고케 하려 함이니 (합니다.)

 

바울이 로마서를 쓴 것은, 로마 교회에게 전하고자 하는 메시지는, 구원에 관한 메시지였어요. 바울이 지금, ‘무슨 신령한 은사를 너희에게 나누어 주어서, 너희를 견고케 하려고 하는 것이다.’라는 것은, ‘구원에 관한 복된 소식을 너희들에게 전해 주어서, 그래서 너희들이 가지고 있는 그 믿음이, 얼마나 소중한 것인지, 너희들의 믿음을 견고케 하기 위해, 내가 너희들에게 신령한 은사를 나누어 주기를 원한다.’ 그런단 말이에요.

 

그래서 여기에서 말하는 신령한 은사는, 구원에 관한 복된 소식! 바로 그 구원 자체를, ‘은사(恩賜)다.’라고 이야기해요. 성경에서는! 조금 더 확실히 확인해 보자고요. 로마서 5장 15절.

 

(로마서 5:15-16)

15 그러나 이 은사는 그 범죄와 같지 아니하니 곧 한 사람의 범죄로 인하여 많은 사람이 죽었은즉 더욱 하나님의 은혜와 또는 한 사람의 예수 그리스도의 은혜로 말미암은 선물이 많은 사람에게 넘쳤으니라

16 또 이 선물은 범죄한 한 사람으로 말미암은 것과 같지 아니하니 심판은 한 사람으로 인하여 정죄에 이르렀으나 은사는 많은 범죄로 인하여 의롭다 하심에 이름이니라

 

‘하나님의 그 은사는, 예수 그리스도의 은혜로 말미암아, 의롭다 하심에 이르게 하는 것이다.’라고 이야기하고 있어요. 구원이란 말이에요. 은사는! 더 정확하게 확인도장을 찍는 곳이 있죠? 로마서 6장 23절을 보면,

 

(로마서 6:23)

23 죄의 삯은 사망이요 하나님의 은사는 그리스도 예수 우리 주 안에 있는 영생이니라

 

이해하죠? 성경은, ‘구원 자체도 은사다!’라고 이야기하고 있단 말이에요. 뿐만 아니라, 로마서 12장에는 우리가 은사답게 생각지 않는 것들을 가리켜서, 은사라고 이야기하고 있어요. 로마서 12장 6절 보십쇼.

 

(로마서 12:6-8)

6 우리에게 주신 은혜대로 받은 은사가 다 각각 다르니 혹 예언이면 믿음의 분수대로,

7 혹 섬기는 일이면 섬기는 일로 혹 가르치는 자면 가르치는 일로,

8 혹 권위하는 자면 권위하는 일로, 구제하는 자는 성실함으로, 다스리는 자는 부지런함으로, 긍휼을 베푸는 자는 즐거움으로 할 것이니라

 

섬기는 일! 가르치는 일! 권위하는 것, 인커리지(encourage)하는 거예요. 권면하는 것! 구제하는 것! 다스리는 것! 긍휼을 베푸는 것! 이건 다 누구나 할 수 있는 일 아니에요? 그것들을 성경에서는, ‘은사다!’ 이야기한다 말이에요. 이렇게 평범하고 보편적인 것들이, 은사의 목록에 있단 말이에요.

 

그러니까 너무나 평범하고 보편적이니까, 별로 우리의 마음을 끌지 못하는 것이지, 은사는 분명히 우리가 생각하는 어떤 특별한 몇 가지만을 이야기하고 있지 않단 말이에요. 더더군다나 바울은, 고린도전서 7장에서, 결혼한 것도 은사요, 결혼하지 않은 것도 은사라고 이야기한단 말이에요. 고린도전서 7장 7절로 가보시면요,

 

(고린도전서 7:7)

7 나는 모든 사람이 나와 같기를 원하노라 그러나 각각 하나님께 받은 자기의 은사가 있으니 하나는 이러하고 하나는 저러하니라

 

결혼을 한 것도 은사요, 결혼을 하지 않은 것도 은사다. 이렇게 이야기한단 말이에요.

 

정리를 해보자고요. 성경이 말하는 은사는, 우리가 은사답다고 생각하는, 방언! 예언! 병 고치는 것! 방언 통역하는 것! 영 분별하는 것! 그런 것도 있어요. 성경 안에! 그런데 구원 자체도 은사고, 결혼 한 것도 은사고, 결혼 안한 것도 은사고, 섬기는 것도 은사고, 가르치는 것도 은사고, 구제하는 것도 은사고, 긍휼을 베푸는 것도 은사다! 이렇게 한단 말이에요. 눈에 띠는 것 있지만, 눈에 잘 띠지 않는 것도 있다는 것이죠.

 

그러나 여기에서 우리가 확인할 수 있는 건, 모든 그리스도인들은 한 가지 이상의 은사를 반드시 갖고 있는 거예요. 왜냐면? 구원 자체가 은사니까! 그거는 성경이 말하는 가장 아름다운 은사지 않습니까? 그런데도 사람들은 이 눈에 뜨이는 몇 가지 은사들! 그걸 가진 사람들을 부러워한다고요. 그것이 얼마나 잘못된 것인지, 오늘 여러분이 그것만 알고 가셔도 되는 거예요.

 

여러분! 하나님은 우리의 생각과는 아주 다르게 일을 하신다고요. 성경공부 시간이나 설교시간에, 누누이 살펴봤잖아요? 하나님은 우리의 생각과 다르게 일을 하신다고요. 하나님은 정말 소중하고 중요한 것은, 모두에게 주세요. 보편적이고 평범하게 주신다고요. 햇빛! 물! 공기! 아무거나 하나만 없어도 죽어요. 우리는! 하지만 그런 것들은, 그렇게 소중한 것들은, 모두에게 주신다고요. 있어도 좋고 없어도 좋은 거는, 있어도 되고 없어도 되는, 인간들한테 준다니깐요. 정말 중요한 건, 모든 사람들에게 보편적으로 평범하게 주세요.

 

우리 청년들의 평균키가, 170정도 된다 그래요. 168! 168이라고요. 그러면 165에서 175센티 사이의 사람들이 가장 많다는 거예요. 보편적이고 평범하다는 거예요. 그죠? 그런데 120센티짜리 난쟁이가 와서 ‘야! 너희들은 어떻게 그렇게 평범하냐? 나처럼 이렇게 키 120 부럽지 않아?’ 그렇게 말하는 사람 없잖아요?

 

우리가 자랄 때는 손가락 여섯 개인 사람이 간혹 있었어요. 그런 친구들이, 걔네들이 와서, 막 웃으면서, ‘야! 너희들은 어떻게 손가락이 다섯 개니? 되게 웃긴다.’ 저는 그런 적 한 번도 못 봤거든요. 그런데 유독 이 은사의 문제에서 만큼은, 이 보편적이고 평범한 것들에 대해서, ‘어떻게 너희들은 내가 갖고 있는 이걸 못 갖고 있고, 이렇게 평범하니?’ 이렇게 이야기 한다니깐요.

 

여러분! 우리 그리스도인들이 갖고 있는 은사는, 크고 작은 구분이 없어요. 조금 있다 우리 성경에서 찾아보면, 여러분들이 명확히 아시겠지만, 그리스도인들에게 주어지는 모든 것은, 그것이 상황이든, 그것이 여러분의 어떤 고통과 아픔이든 간에, 그리스도인이라는 것이 확인된, 그 사람들에게 주어지는 모든 것은, 은사입니다.

 

여러분이 그 하나님의 은혜가 아니면, 여러분이 어떻게 이 자리에 존재할 수 있냐고요? 하나님이, 하나님의 자녀를, 하나님 자녀답게 만들기 위해서, 우리에게 상황과 환경과 물질과 뭐 여러 가지를 허락하신단 말이에요. 이걸 만들기 위해서! 이걸 만들기 이 선한 것을 만들기 위해서, 우리에게 주어지는 모든 것은, 하나님의 선물이란 말이에요. 그걸 우리는 ‘은사다!’라고 이야기 하는 거예요. 그래서 사도바울이, ‘결혼하는 자나, 결혼하지 않은 자나 다 그게 하나님의 은사다!’라고 이야기하는 거예요.

 

우리가 하나님의 은혜로우신 그 긍휼과, 풍성하신 사랑에 관심 없이, 우리가 단 한순간이라도 어떻게 존재할 수 있어요? 성경은, 은사를 어떤 고급한 계층의, 특수한 사람들만 누리는, 독특한 것이라고, 그렇게 생각하지 말라고 하는 거예요. 여러분! 우리가 어떠한, 우리가 생각하는 독특한 것들만을, 은사라고 이야기하고, 그것을 받은 자들만, 신앙의 한 단계 더 위에 올라선, 진일보한 자들이라고 이야기하는 그러한 자들은, 하나님을 모독하는 거예요.

 

그래서 제가 은사운동을 반대하는 거예요. 은사집회 같은 것을, 제가 가지 말라고 하는 것입니다. 그들은 어떠한 특별한 몇 가지를 가지고 은사라고 규정해 놓고, 그것을 받은 자들은 어떤 신앙의 한 단계 더 진보한 자들이라고, 그렇게 가르치고 있단 말이에요. 안 그래요! 여러분! 그런 거 못해도 상관없습니다. 하나님의 풍요로움과, 하나님의 풍성한 자비로우심! 긍휼하심을 전혀 모르는 자들이에요. 그 자들은! 하나님의 그 넓으신 은혜를 너무 작게, 제한시켜 버리는 거죠.

 

우리는 은사의 목록을 살피는 것에서 눈을 돌려서, 그 은사가 바라는 지향하고 있는 목표와 방향을, 먼저 살펴야 하는 거예요. 이 은사를 주었을 때, 무슨 이유가 있을 거 아닙니까?

 

자, 하나님은 왜 우리에게 은사를 주시는가? 오늘 본문 1절에서 3절까지를 한번 읽어 보겠습니다.

 

(고린도전서 12:1-3)

1 형제자매 여러분, 신령한 은사들에 대하여 나는 여러분이 모르고 지내기를 바라지 않습니다.

2 여러분이 아는 대로 여러분은 이방사람으로 있을 때에는 이리 저리 끄는 대로 말 못하는 우상 앞으로 끌려 다녔습니다.

3 그러므로 나는 여러분에게 알려 드립니다. 하나님의 영으로 말하는 사람은 아무도 예수를 ‘저주를 받아라!’ 하고 말할 수 없고, 또 성령으로 감동하지 않고서는 아무도 ‘예수님은 주님이시다.’ 하고 말할 수 없습니다.

 

사도바울이 지금, 신령한 은사에 대해서, 너희들에게 이야기 해 주겠다고 이야기하면서, 뭐라고 이야기를 꺼내느냐고요? ‘이 신령한 은사가 아니면, 너희들이 예수를 주라 시인할 수 없다’라는 거예요. ‘이 신령한 은사가 없을 때는 너희들은, 그 우상이 끄는 대로 끌려 다녔는데, 이 신령한 은사로 말미암아, 너희들은 예수를 주로 시인할 수 있게 되었다.’라는 거라고요.

 

그러니까 사도바울은 분명하게, 하나님의 신령한 은사의 목적은, 바로 구원이라는 것을 이야기하고 있는 거예요. 구원(救援)이라는 것은, 우리가 구원을 받고, 하나님의 자녀로 완성되어져가는 그 과정에 필요한 것이, 바로 이 은사라는 거예요.

 

구약에서 제일 처음 성령의 은사를 받은 자들이 누구죠? 출애굽기 35장에 나오잖아요? 브살렐과 오홀리압! 그들이 성령의 은사를 받고, 성령충만을 받고 뭘 합니까? 좋은, 훌륭한 기술을 받아서, 뭘 지어요? 성막을 짓잖아요? 성막은 뭡니까? 하나님나라를 상징하는 거예요. 하나님나라! 성전! 옛 성전을 헐어버리고, 새로운 새 성전을 짓게 되는, 그 교회를 완성하기 위해서, 이 은사는 주어진 거예요.

 

그러면 은사라는 것은, 이렇게 자기를 증명하기 위해서, 자랑을 하라고 주어진 게 아니라, 자신에게, 또는 다른 이들이 예수 그리스도를 아는 데, 더욱 유익케 하며, 교회가 덕을 세우고 하나 되게 하기 위해서, 주어진 게 바로 은사예요.

 

그러니까 만에 하나, 여기에 예언을 하거나, 신유의 은사를 하거나, 또 다른 어떤 특별한 은사를, 어떤 사람은 그냥 틈만 나면 떠는 사람 있죠? 그걸 은사라고 하는 사람이 있어요. 그런 사람들! 그걸로 하여금 본인이나 옆에 사람들이, 예수 그리스도를 아는 데 도움이 되지 않고, 오히려 ‘저 사람들은 특별한 사람! 우리는 낮은 자!’ 뭐 이런 위화감이나 조성하고 분열을 조성한다면, 그건 100% 가짭니다.

 

예언을 한다고 하면서, 그 사람의 어떤 신앙에 도움을 주지 못하고, 오히려 어떤, 이 땅에서의 길흉화복이나, 자꾸 묻게 만들고 하는 그 자들은, 100% 가짭니다. 그건 거짓 생수를 약속하는, 신기루와 같은 거예요. 성경이 방향하고 있고 목표하고 있는 그 은사의 방향은, 바로 지금 우리가 읽었던, 서로에 대해서 유익하게 하며, 교회를 완성해 가며, 교회에 덕을 세우는 게, 바로 은사의 목표란 말이에요. 오늘 본문 7절 보세요.

 

(고린도전서 12:7)

7 각 사람에게 성령의 나타내심을 주심은 유익하게 하려 함이니라 (예요. 유익하게 하려 하심이라! )

 

그런데 그 은사들로 말미암아, 이 시대의 교회 안에서, 얼마나 많은 분열이 일어나고 있냐 말이에요?

 

다시 한 번 정리합니다. 은사라는 것은, 우리에게, 하나님을 더욱 더 깊이 알게 하고, 하나님의 사람으로 우리가 더 전진하게 되는 것! 그리고 성도의 유익을 위한 것! 그리고 계시를 더 분명히 하게 해서, 교회를 완성하는 데, 초점이 있는 거예요.

 

그러니까 어떤 특별한 은사를 가진 사람이, 우월감을 갖고 있고, 평범한 은사를 가진 사람! 뭐 부엌에서 밥이나 하고, 이런 은사를 가진 사람이 굉장히 열등한 사람으로 취급되어지는 것! 하나님을 모독하는 거예요. 절대 그럴 필요 없는 것입니다.

자, 4절 보시면요, 오늘 본문!

 

(고린도전서 12:4)

4 은사는 여러 가지나 성령은 같고

5 직임은 여러 가지나 주는 같으며

6 또 역사는 여러 가지나 모든 것을 모든 사람 가운데서 역사하시는 하나님은 같으니

 

왜 ‘은사는 같고, 직임도 같고, 역사는 같은데, 모든 것은 다 한 하나님으로부터 나오는 것이다.’라고 바울이 굳이 이야기 하냐 말이에요? 다 똑 같은 거다! 말이에요. 나는 예배 끝나면 가서, 설거지 하고 밥하고, 어떤 사람은 앉아서, 뭐 기도에 은사 있다고 하면서, 계속 뭐 기도하고! ‘야! 나는 왜 저런 사람들처럼, 저런 위대한 신앙을 못 가질까?’ 그거 아니란 말이에요.

 

교회라는 무리에게 주어진 목적이 뭐예요? 구원을 받고 하나님의 자녀로, 완성되어져서 천국 들어가는 게, 교회의 목적 아닙니까? 그 목적을 달성하기 위해서, 예수라는 머리에, 각 지체로 우리를 붙여 놨다잖아요? 성령이! 그 각 지체로 우리는 붙어서, 예수라는 머리의 명령을 받고, 거기에 순종하면서, 이 하나님나라를 완성시켜 가는 게 바로, 이 교회의 목적이란 말이에요.

 

그래서 우리는 각자의 역할이 있단 말이에요. 눈에 보이는 팔, 다리, 코, 눈 이런 것들이 있는 반면에, 정작 중요한 것들은, 위, 심장, 간 이런 거는 보이지 않는, 안에 들어가 있다고요. 그렇다고 해서 이 보이지 않는 것이, 중요하지 않은 게 아니란 말입니다. 그런데도 불구하고, 우리는 눈에 띄는 것에만, 자꾸 관심을 둔다니깐요.

 

여러분! 선원과, 선장과, 승객 중에, 누가 가장 중요한 거예요? 그 배는 뭘 위해 존재하는 거예요? 승객을 나르려고 배는 존재하는 거예요. 선원하고 그 선장은, 비록 멋진 제복을 입고, 모자를 쓰고 있지만, 이 승객을 안전하게 실어 나르기 위해서, 하나님이 몇 명을 세워 놓으시는 거라고요. 섬기는 자들이에요. 그들은! 뭐 특별한 자들이 아니라고요.

 

제가 여러분 앞에서 이렇게 말씀을 전한다고 해서, 제가 더 특별한 은혜를 받고, 은사를 받은 사람 아니라는 거예요. 정말 하나님이 사랑하는 자는, 승객들이란 말이에요. 정말 하나님이 사랑하는 자는, 하나님의 백성들이지, 목사가 아니란 말입니다. 여러분! 여러분들을 잘 가르쳐서, 정말 물에 빠져 죽지 않고, 나중에 쑥 나와서, ‘그때 제대로 얘기해주지 그랬어?’ 그런 원망 듣지 않고 잘 가르쳐서, 함께 손잡고 천국에 들어가게 하는, 섬기는 자로, 가정교사로 보내준 게, 목사라고요.

 

자기 자식을 중요하게 여기지, 어떻게 가정교사를 중요하게 여기겠습니까? 목사는, 소모되어져 가서 죽는 거예요. 그냥! 그 여러분들에게 6,000페이지 읽고, 여섯 편 설교를 만들어내는 거예요. 그 나머지는 다 쓸데없는 것들이거든요. 그러니까 저는 계속 저를 소모해서, 여러분들을 밝은 그곳을 모시고 가는 게, 저의 임무라고요. 은사라는 것은, 그런 것입니다. 각자의 역할이 있는 거예요.

 

벤허에서, 그 황제의 역할을 맡은 사람은, 역할은 황제지만, 일당 2,000원 짜리였다니깐요. 찰톤 헤스턴은 죽어라고 고생하지만, 70만 불 개런티 받는 사람이에요. 우리가 이 땅에서 어떤 역할을 맡고 있느냐가 중요한 게 아니라, 어떤 게 더 중요한지는, 그건 하나님만이 아는 거라고요.

 

어저께 우리 전도사님이 선교 가서, ‘나한테 돈 맡기지 말라!’고, 왜요? 자기돈 아니니깐요. 남의 돈 맡아가지고 있어봐야, 그거 불편하기만 하죠. 예를 들어, 30명이 가는데, 1,000불씩 내어서, 3만 불을 자기가 갖고 있었다고 해봐요. 남들은 다 나가서 뭐 수영도 하고 놀지만, 그거 갖고 있는 사람은? 불편해서 못 놀아요. 잊어 버릴까봐! 그거 어디 사리마다에 넣고 다닐 수 도 없고, 어떻게?

 

아니, 여러분은 하나님의 청지기라면서요? 그러면 여러분 거 아니면, 맡은 만큼 불편할거 아닙니까? 그게 마치 자기 꺼라고 생각하니까, 막 하나님 목 조르면서 달라 그러는 거 아닙니까? 가난한 거요? 그 역할 하나님이 맡겨주신 거예요. 현장감독? 그래요. 돈 맡은 사람은 경리부장이지만, 현장감독이 더 중요해요. 하지만 현장감독은, 현장에서 일하는 인부들과 똑 같은 옷 입고, 똑 같이 일한다고요. 그 뙤약볕 아래서!

 

어떤 게 더 중요하냐 말이에요? 돈 맡아서 전전 긍긍하는 게, 중요한 거예요? 물론 다 중요해요. 다 중요하지만, 그것 가지고 여러분들이 신앙의 경중이나, 이런 것들을 판단하면 안 된다는 거예요. 여러분!

 

가난이라는 역할이 맡겨져 있으면, 내가 그 역할을 해내야, 하나님의 나라가 완성이 되어져 가나보다. 그 역할에 충실하면 되는 거예요. 무슨 뭐 돈 좀 벌었다고 말이죠? ‘야! 넌 믿음이 없어서 그래. 봐! 나 믿음이 있으니까, 이렇게 막 축복해 주시잖아?’ 그런 개나리들이 있어요. 세상에! (하하하)그 역할에 따라 하나님이 은사를 주신다니깐요.

 

자, 사도바울이 고린도교회에 서신을 보낸 이유가 뭡니까? 고린도교회에 분열을 진정시키기 위해서, 쓴 거예요. 고린도전서 1장 10절 보시면,

 

(고린도전서 1:10-13)

10 형제들아 내가 우리 주 예수 그리스도의 이름으로 너희를 권하노니 다 같은 말을 하고 너희 가운데 분쟁이 없이 같은 마음과 같은 뜻으로 온전히 합하라

11 내 형제들아 글로에의 집 편으로서 너희에게 대한 말이 내게 들리니 곧 너희 가운데 분쟁이 있다는 것이라

12 이는 다름 아니라 너희가 각각 이르되 나는 바울에게, 나는 아볼로에게, 나는 게바에게, 나는 그리스도에게 속한 자라 하는 것이니

13 그리스도께서 어찌 나뉘었느뇨 바울이 너희를 위하여 십자가에 못 박혔으며 바울의 이름으로 너희가 세례를 받았느뇨

 

아니라는 거예요. 이들이 싸운 게 뭐예요? ‘나는 아볼로파다! 나는 베드로파다! 나는 바울파다! 나는 예수파다!’ 누가 더 훌륭한 스승을 갖고 있고, 누가 더 월등한가를, 그런 걸 가지고 싸우고 있었단 말이에요. 바울이 고린도전서에서 뭐라고 그러는 거예요? 그러니까 ‘누가 더 훌륭한 스승의 제자인가? 이딴 거 자랑하지 말고, 그걸로 분쟁하지 말라! 어떤 은사든지 다 하나님이 주신 것이고, 너희 공동체의 유익을 위해 주신 것이다.’라는 것을 알림으로 해서, 그들을 하나로 묶는 데 지금 초점을 맞추고 있는 거예요.

 

은사라는 게 이런, 이런 것이 있다는 것을 열거하는 게 아니라, ‘너희들은 하나다!’라는 것을 알려주기 위해서, 지금 성경은 그 이야기하고 있는데, 이 웬수들은 무슨 딴 얘기만! 어떻게 자기가 듣고 싶은 거만 뽑아서 듣고 있단 말이에요.

 

은사라는 것은, 교회가 하나 되고, 교회에 덕이 되며, 교회를 이루고 있는 신자들의 신자 됨에 유익을 주며, 그로 말미암아 예수 그리스도가 더욱 분명히 드러나게 하기 위해, 하나님께서 허락해 주신 거예요. 그런데 방언! 예언! 환상! 진동! 신유! 이런 것들만 열거하면서, 마치 은사의 우열이 있는 것처럼 이야기하면서, 그런 것을 받지 못한 사람들을 업신여기고, 위화감을 조장한다든가 하는 것들은, 다 가짜에요. 고린도전서 4장 6절 보세요.

 

(고린도전서 4:6-7)

6 형제자매 여러분, 나는 여러분을 위하여 이 모든 일을 나 스스로와 아볼로에게 적용하여 설명하였습니다. 그것은 여러분으로 하여금, ‘기록된 말씀에 범위를 벗어나지 말아라’ 한 격언의 뜻을 우리에게서 배우게 하여 어느 한쪽 편을 들고 다른 쪽을 얕보면서 뽐내지 못하게 하려는 것입니다

7 누가 여러분 한 사람 한 사람을 별다르게 보아줍니까? 여러분 각자가 가지고 있는 것 가운데서 하나님께로부터 받지 않는 것이 무엇이 있습니까? 모두가 받은 것인데, 왜 받지 않은 것처럼 자랑합니까?

 

모든 은사는, 하나님으로부터 어떤 목적을 향해, 우리에게 주어진 거예요. 그런데 마치 자기가 잘나서 그런 은사를 받은 것처럼, 거들먹거리는 것은, 성경에서 한참 빗나간 사람들이죠.

 

하나님이 어떤 목적과 계획을 위해서 주신 것인데, 너희들이 잘나서, 신앙이 좋은 사람은 이만큼 큰 은사를 주고, 좀 못한 사람은 요만큼 한 거 주고, 그게 아니라, 다 하나님의 어떤 목적과 방향을 위해서 주신 것인데, 너희들이 왜 자랑하냐 말이에요? 그런데 마치, 자기 기도 받아야, 그래야 병 나을 것 같고, 자기 기도 받아야 일 잘된다고 이야기 하고, 그래서 남의 비즈니스에 가서, ‘내 기도 받아! 그래야 잘 돼!’ 그건 마귀예요. 여러분! 그건 예수 믿는 자 아닙니다.

 

성경은, 예수는 누군지 개뿔도 모르는 것들이, 돌아가면서 기도해주고 다니는데, 나 환장하겠더라고요. 뭘 기도한다는 거예요? 도대체 뭘? 여러분! 여러분이 죽음에 닥쳤을 때, 컨테이너가 나를 누르고 있을 때, 여러분들에게 생각나는 게 무엇인지, 매일 매일 생각하면서 사시란 말이에요. 나는 기쁘게 갈 수 있는지? 매일 매일 생각하시면서, 확인하시란 말이에요. 그게 기독교인들의 종말론적 신앙 아닙니까? 저는 얘기 했어요. 분명히 나중에 가서, ‘그때 좀 얘기 해주지….’ 이렇게 얘기하지 말라고요. 저한테! 은사를 그처럼, ‘나는 너와 다르다.’ 그런 것을 증명하는 데 쓰는 사람은, 나쁜 사람이에요.

 

왜 성경이 12장 말미에, 은사의 목록을 쭉 열거해놓고, ‘더 큰 은사를 사모하라!’ 이렇게 이야기해 놓은 줄 아십니까? 더 큰 은사는 없다면서요? 은사는 다 똑 같다면서요? 그런데 ‘더 큰 은사를 사모하라!’ 그래요. 12장 말미에! 그렇게 적어 놓고, 그 다음에 나오는 게 뭐예요? 12장 다음에 나오는 게? 13장이지 뭐예요?

 

13장은 뭐죠? ‘사랑’장이란 말이에요. 이 은사는, 사랑을 근거로 하지 않은 은사는, 다 꽝이라는 거예요. 낫띵(nothing)이라고 써 있다고요. Nothing! 내가 가난한 자들을 위해서, 민족을 위해서, 내 몸을 불태운다 할지라도, 분신자살을 한다 할지라도, 사랑이 없으면, 예수를 근거로 하지 않는 것이면, 낫띵(nothing)이라는 거예요. 한번 읽어 볼까요? 고린도전서 12장 27절 보시면,

 

(고린도전서 12:27-31)

27 너희는 그리스도의 몸이요 지체의 각 부분이라

28 하나님이 교회 중에 몇을 세우셨으니 첫째는 사도요 둘째는 선지자요 셋째는 교사요 그 다음은 능력이요 그 다음은 병 고치는 은사와 서로 돕는 것과 다스리는 것과 각종 방언을 하는 것이라

29 다 사도겠느냐 다 선지자겠느냐 다 교사겠느냐 다 능력을 행하는 자겠느냐

30 다 병 고치는 은사를 가진 자겠느냐 다 방언을 말하는 자겠느냐 다 통역하는 자겠느냐

31 너희는 더욱 큰 은사를 사모하라 내가 또한 제일 좋은 길을 너희에게 보이리라

 

그리고 사랑장이 나오는데, ‘And now I will show you the most excellent way’가 있다는 거예요. I will show you the way! 그게 사랑인 거예요. 사랑! 아시겠습니까? 더 큰 은사라는 것은 없어요. 하지만 더 큰 은사! 정말 은사의 은사다움은, 바로 이 사랑을 근거로 하는 거! 아니면 아무것도 아니라는 거예요.

 

어떤 기도원에 가면, 돌아가셨지만, 막 욕하는 분 있었죠? ‘여기에서 방언 못하는 이들은 일어나!’ 그래서, ‘개만도 못하다.’고 욕을 막 했어요. 그 기도원에선 개도 방언한다고 그랬다고요. 그래서 거기 있는 사람들이, ‘하! 나는 왜 이럴까?’ 그런 식으로 되는 것은, 하나님의 은사의 목표와 방향이 아니라는 거예요.

 

여러분! 우리가 은사라고 주장하는, 그런 기적들이나, 이러한 우리가 초월적인 어떤 현상들은, 예수님을 믿지 않는 자들도 행할 수 있다고 이야기하잖아요? 우리가 지난주에 살펴본 것처럼! 마태복음 7장에, ‘내가 주의 이름으로, 귀신을 쫓아냈고, 주의 이름으로, 능력 행했고, 기적을 행했고, 주의 이름으로, 목사노릇도 했습니다.’ 그런데 예수님이, ‘불법을 행하는 자야! 내게서 떠나가라!’ 그러잖아요? 예수 믿지 않는 자들도 할 수 있다는 거예요. 그거는!

 

그런데 그것을 하는 자들은 다 진짜고, 못하는 사람은 가짜라고, 그 논리는 어디서 나온 거냔 말이에요? 도대체! 그런 현상이 중요한 것이 아니라, 그것이 바로 사랑의 마음을 근거로 나오는 거가 중요한 거라는 거! 고린도전서 13장 1절로 갑니다.

 

(고린도전서 13:1-3)

1 내가 사람의 방언과 천사의 말을 할지라도 사랑이 없으면 소리나는 구리와 울리는 꽹과리가 되고 2 내가 예언하는 능력이 있어 모든 비밀과 모든 지식을 알고 또 산을 옮길 만한 모든 믿음이 있을 지라도 사랑이 없으면 내가 아무 것도 아니요

3 내가 내게 있는 모든 것으로 구제하고 또 내 몸을 불사르게 내어줄 지라도 사랑이 없으면 내게 아무 유익이 없느니라

 

아이엠 낫띵(I am nothing.)! 그러죠? 낫띵(nothing)! 아무것도 아니라는 거예요. 그거는! 여기에서 내가 기도해서 산을 저쪽으로 옮겼어도, 사랑이 없으면, 여기에서 이 ‘사랑’ 대신에, ‘예수’라는 단어들을 넣어보세요. ‘예수’란 말이에요. 그 예수! 예수를 근거로 하지 않은, 그러한 은사! 신비적이고 초월적인 것은, 낫띵(nothing)이라는 거예요. 아무것도 아니라는 거예요.

 

은사가 그런 것이라면, 사도행전에 기록된 것처럼, 초대교회 때 일어났던 은사들과, 기적들은, 그럼 도대체 뭔가? 사도행전은, 누가가, 누가복음과 함께 한 번에 기록한 한 권의 책이에요. 누가복음과 사도행전이 따로 떨어져 있는 것이 아니라, 한권의 책이란 말이에요. 그러니까 주제는 한 가지겠죠? 그러니까 사도행전의 주제도, 누가복음 1장에 나와 있는 거예요.

 

누가복음은 뭐에 대해서 기록되어 있는 것입니까? 예수 그리스도와, 예수 그리스도의 행적에 대해서, 기록되어있는 것 아닙니까? 예수 그리스도의 이 땅에서의 사역! 사도행전의 기록 목적은, 사도들이 일으킨 기적! 뭐 이런 것들을 통해서, 하나님나라가 확장되어지는 게 사도행전이 아니라, 예수가 이 땅에 오셔서, 행하신 일이 무엇이며, 그 분이 어떻게 이 교회를 세워 가시고 완성시켜 가시는가를 보여주는, 그 책이 바로, 사도행전이라고요.

 

4복음서에서는, 예수님이 이 땅에 오셔서, 예루살렘에 가서 성전을 청소하시며, 복음을 전하시죠? 유대 관원 니고데모에게 복음을 전하시죠? 사마라이 여인에게 복음을 전하시죠? 이방 신하의 아들을 고치신다고요. 예루살렘과, 온 유대와, 사마리아와, 땅 끝까지 예수님이 가시면서, 복음을 전한다고요.

 

사도행전은요? 그들이 예루살렘에서 성령을 받고 복음을 전하다가, 스데반이 죽으니까 흩어지죠. 예루살렘에서 복음을 전하다가 흩어지는데, 사도행전 8장 1절에 뭐라고 쓰여 있죠? ‘온 유대와 사마리아로 흩어지니라.’ 예수님께서 성령을 이 땅에 보내셔서, 그 예수님의 사역을, 지금 제자들을 통해서 하고 계신데, 온 유대와 사마리아로 흩으시고 계시다고요.

 

그리고 심지어는 그렇게 흩어지다가, 여왕 간다개의 내시를 구원하시고, 예루살렘과 온 유대와 사마리아 땅 끝까지, 예수께서 올라가시고, 성령이 오셔서, 그 예수의 일을 이 땅에서 행하고 계신 게 바로, 사도행전이라 말이에요.

 

그러니까 누가복음은, 이 땅에서 예수가 하신 일! 사도행전은, 하늘에서 지금 성령을 통해서, 예수가 하시는 일! 전부 다 예수에 관한 이야기란 말이에요. 그러면 이 사도행전은, 그 구원과, 예수 그리스도의 사역과, 이 교회에 설립과 완성에 대해서 기록해 놓은 것이, 바로 사도행전이란 말이에요.

 

그러니까 이 사도행전에 나온 그 기적들과 은사들은, 뭘 지금 이야기하려고 하는 거예요? 그 구속사역을 완성하시고, 지금 교회를 세우시는 과정을 기록한 게 사도행전이라면, 이 사도행전에 나타나는 기적과 이사와 은사들은, 이 교회가 어떻게 세워지며, 어떻게 완성되어져 가는 것을, 우리에게 설명해주시기 위해서 기록되어진 거예요.

 

이 사도행전의 여러 기적들과 은사들은, 그 교회가 세워지는 데 필요한 것들이었단 말이에요. 에베소서 2장 20절 보세요.

 

(에베소서 2장 20-22)

20 너희는 사도들과 선지자들의 터 위에 세우심을 입은 자라 그리스도 예수께서 친히 모퉁이 돌이 되셨느니라

21 그의 안에서 건물마다 서로 연결하여 주 안에서 성전이 되어가고

22 너희도 성령 안에서 하나님이 거하실 처소가 되기 위하여 예수 안에서 함께 지어져 가느니라

 

예수 안에서 함께, 하나님의 성전으로 이렇게 지어져 가는 데, 필요한 것들이 그런 기적과 은사들이었단 말이에요. 여러분! 교회는 사도와 선지자들을 통해 말씀하신 그 계시 위에 지어지는 거예요.

 

당시 이스라엘에는, 거짓선지자! 그런 거짓사도들이 많았어요. 가짜들이 많았다고요. 그리고 유대인들도, 나름대로 그 유대교를 믿으면서, 신앙이 있었어요. 그런데 어떤 것이 진짜인지, 그 당시엔 아직 성경이 완성되어지지 않았잖아요? 그렇기 때문에 어떤 것이 진짜인지를, 그들에게 알리기 위해서는, 이 기적과 초월밖에 없었다고요.

 

그런데 이제, 그 계시의 기간을 통해서, 성경이 완성이 되어졌단 말이에요. 구원이라는 것은, 여러분이 확실히 알아두셔야 되는 게, 개인적인 구원이라는 것은 성경에서 이야기 한 적이 없어요. 하나님은, 창세전에 이 ‘교회’라는 무리를 생명책에다 기록해 놓으시고, 이 교회라는 무리를 향해서, 어떤 일을 하고 계시단 말이에요. 이 계시의 기간 동안에, 예수께서 이 땅에서 사역을 마치시고, 그 일이 도대체 어떤 것을 의미했던 것인지, 그 당시의 초대 교회에게 ,지금 기적과 여러 가지 이사들을 통해서, 그 일이 무엇인가 그걸 알리셨다고요. 그리고 그 교회를 세우셨단 말이에요. 거기에!

 

그거는 단지 초대 교회에게만 이야기 해 놓으신 것이 아니라, 지금 사도행전에 이 초대교회에, 어떤 이 특정한, 이 잠정적인 시기 동안에, 하나님이 교회 전체에게, 지금 무슨 계시를 하고 싶은 거예요. ‘이것이 진짜고, 이것은 가짜다!’ 그리고 그것을 성경에 기록하게 함으로써, ‘봐라! 이제는 이 완성된 말씀을 기초삼아, 근거삼아, 너희들 신앙생활 해라! 교회야! 이 시대의 내 사랑하는 교회야! 내가 지금 사도행전에서 이 설명해 놓은 바로 이것이 참이다!’ 그 계시의 기간 동안에!

 

그 성경을 완성시켜 나가는 고 기간이란 말이에요. 그런데 그 계시의 시간! 그 잠정적인 그 특정한 시간은, 이미 이제 종결이 되었고, 성경이 완성이 되었단 말이에요. 그래서 이젠 기적과 은사나 신비가 필요 없게 되었단 말입니다. 이거를 알지 못하니까, 자꾸 자기들이 불안하니까, 그런 신비나 초월 쪽으로 가게 되는 거예요.

 

‘내 앞일은 어떻게 될까!’ 앞일은? 여러분의 앞일은? 여기 다 기록되어 있잖아요? 천국에 간다면서요? 그게 여러분의 미래죠. 그거 말고 뭘 더 알고 싶으신 거예요? 그것 말고 알고 싶은 예언적인 것들은, 다 여러분이 이 땅에서 잘 먹고 잘살기 위한 것 아닙니까? 뭐가 그렇게 신기해요? 여러분의 과거를 알아맞추는 게 뭐가 그렇게 신기해요? 여러분의 미래를 조금 일찍 알아맞추는 게, 뭐가 그렇게 신기합니까?

 

여러분! 여러분의 미래는, 우리 그리스도인의 미래는, 성경에 명확하게 계시되어져 있습니다. 로마서 15장 18절을 한번 같이 읽어 보겠습니다.

 

(로마서 15:18-19)

18 그리스께서 이방인들을 순종케 하기 위하여 나로 말미암아 말과 일이며 표적과 기사의 능력이며 성령의 능력으로 역사하신 것 외에는 내가 감히 말하지 아니하노라

19 이 일로 인하여 내가 예루살렘으로부터 두루 행하여 일루리곤까지 그리스도의 복음을 편만하게 전하였노라

 

보세요. 이 표적과 기사의 능력과 성령의 능력으로, 뭐가 가능해졌다고요? 그 기적은 왜 주어졌다는 거예요? 이방인들을 순종케 하기 위하여! 그리고 그리스도의 복음을, 편만하게 전달하게 하기 위하여! I have fully proclaim the gospel of Christ! 기적의 목적과 방향은 그거란 말이에요. 사도행전 14장 3절 보세요. 바울과 바나바에게 기적이 임하고, 은사가 임한 것이, 어떻게 설명되어져 있는지?

 

(사도행전 14:3)

3 두 사도가 오래 있어 주를 힘입어 담대히 말하니 주께서 저희 손으로 표적과 기사를 행하게 하여 주사 자기 은혜의 말씀을 증거하시니

 

표적과 기사를 통해서, 예수 그리스도의 은혜의 말씀을 증거한 거예요. 히브리서 2장 3절 보세요.

 

(히브리서 2:3-4)

3 우리가 이같이 큰 구원을 등한히 여기면 어찌 피하리오 이 구원은 처음에 주로 말씀하신 바요 들은 자들이 우리에게 확증한 바니

4 하나님도 표적들과 기사들과 여러 가지 능력과 및 자기 뜻을 따라 성령의 나눠주신 것으로써 저희와 함께 증거하셨느니라

 

표적과 기사와 여러 가지 능력과 자기의 뜻을 따라, 성령의 나눠주신 은사들로, 저희와 함께 복음을 증거하셨다는 거예요. 하나님이! 그거에 필요한 것들이 바로 기적과 은사와 초월적인 것들이었단 말이에요. 초대교회 때!

 

초대교회 때, 성령이 우리의 눈에 보이는 그러한 모습으로, 불의 혀처럼 임하고, 방언이 터지고 한 곳이, 몇 군데 있습니까? 네 군데예요. 딱 네 군데! 언제죠? 유대인들에게, 다락방에서, 성령이 불의 혀처럼 임하고, 그들이 성령 충만을 받은 것! 그리고요? 고넬뇨의 집에서, 고넬뇨와 거기 있던 사람들이, 성령이 오순절 날 임했던 그 모습으로 그대로 임하고, 그들이 방언을 했다고 그러죠? 그리고 에베소교회에서, 에베소교회에서 그들이 성령을 받고, 그리스도인이 됩니다. 그리고요? 빌립이 가서 복음을 전했는데, 나중에 요한과 베드로가 가서 기도하니까, 그들이 성령을 받는 장면! 그 네 장면 밖에 없어요.

 

왜 거기에서만 특별하게, 이러한 일들이 일어났다는 것을 기록했는지 아십니까? 당시 이스라엘의 하나님의 교회에는, 이 네 부류가 있었다고요. 유대인들! 이방인들! 사마리아인들! 그리고 ‘하나님을 경외하는 자!’라고 이름 불리어졌던 이방인이었다가, 유대교로 개종한 자들! 기독교로 개종한 자가 아니라, 유대교로 개종했던 자들! 고넬뇨와 같은 사람이죠?

 

보세요. 하나님의 교회는, 유대인이나, 헬라인이나, 이방인이나, 사마리아인이나, 뭐 이방인이었다가 개종한 자들이나, 동등하게 하나님의 교회의 일원이 될 수 있다는 것을, 선포하는 장면이라고요. 다른 거 아니에요.

 

그 당시에는 사도들조차도, 이방인들, 사마리아인들을 개취급도 안했다고요. 그러니까 베드로가 고넬뇨에게 복음 전하러 가면서, 뭐라고 그럽니까? ‘아니, 하나님! 내가 어떻게 이방인들에게 갑니까?’ 그런데 갔더니, 성령이, 오순절 날 임했던 그 성령이, 똑같은 모습으로 임한 거예요. 그리고 방언이 펑 터진 거예요. 그러니까 ‘아! 이제는 이방인들에게도, 복음이 전해지는구나! 이제 이방인들에게도 복음이 적용이 되는 거구나!’라고 베드로가 알았단 말이에요.

 

그래서 제자들에게 가서 설명해 준다고요. 제자들이 막 싸우잖아요? ‘너, 어떻게 이방인에게 가서 복음을 전했냐?’ 그랬더니, ‘아니야, 그때, 오순절 날 우리에게 임했던 성령과 동일한 모습으로, 거기 성령이 임하더라.’ 그러니까 제자들이, ‘아! 그러면 이제, 이방인들에게도 복음이 적용이 되는구나.’ 안 거예요. 고넬뇨의 집에 가서, 이방인이었다가 유대교로 개종한 사람도, ‘어? 이 사람에게도 성령이 임하고 방언이 터지네! 맞구나! 이들에게도 복음이 전해지는구나!’

 

사마리아인들? 에베소인들? 오순절 날 성령이 임했다고요. 그건 교회 전체에게 임한 사건이라고요. 그런데도 불구하고, 왜 그 이후에, 그렇게 눈에 보이는 성령의 모습이 나타나느냐면, 바로 이것을 이 전체 교회에게 알리기 위한, 선포하기 위한 거라구요. 그 이후론 아무것도 없어요.

 

오죽하면, 여러분! 바울이, 점점점점 그 사역의 말기 쪽으로 가면서, 죽은 자를 살렸던 바울이, 자기의 사랑하는 동역자! 제자들의 병을, 못 고쳐요. 왜 못 고칠까요? 베드로는 기도해서, 아나니아와 삽비라를 한 번에 죽인 자예요. 그죠? 그런데 나중에 그를 감옥으로 끌고 가려는 군사들! 아니, 그 정도 능력이 있으면, 베드로를 잡으려고 하면, 손모가지가 뚝 부러져야 될 것 아니에요? 그런데 잡혀가서 뒤지게 맞고 나온다고요. 왜 그럴까요? 왜 그런 기적이 안 일어나나요? 점점?

 

아! 죽은 자가 살아났고, 그냥 한 마디로, 사람을 그냥 죽여 버리는, 그러한 능력의 사람들이, 왜 사역의 말기로 가면서, 그렇게 두들겨 맞고 다니고, 왜 그러냐 말이에요? 목적과 그 계획이 완성되어져 감에 따라, 이제 하나님이, 그게 필요 없어진 거라 말이에요. 이제 성경이 완성 되어져 간다 말이에요. 그러니까 필요 없기 때문에, 그 제자들에게 그런 게 없다고요.

 

오죽하면은 바울이, 사람들이 ‘허매다! 수수다!’ 해서, 야! ‘이 사람들이 정말 신인가 보다.’ 그러니까 옷을 찢잖아요? ‘이 기적을 보고 믿지 말아라! 제발 이건 우리에게서 나온 게 아니라, 하나님이 지금 나를 통해서 너희에게 뭔가 알리고 싶은 건데, 왜 기적 앞에서만 이렇게 무릎을 꿇느냐?’ 옷을 다 찢어 버리지 않습니까?

 

그런데 그렇게 우리의 신앙의 선배들은, 그런 자세로 은사를 대했는데, 오늘 날에는 어떻게? ‘나한테 기도 안 받으면, 너희들 다 망해!’ 이게 도대체 어디서 나온 거냐 말이에요? 디모데후서 4장 20절 보세요.

 

(디모데후서 4:20)

20 에라스도는 고린도에 머물렀고 드로비모는 병듦으로 밀레도에 두었노니 (그래요.)

 

드로비모는, 사도바울과 함께, 계속해서 연보 돈을 걷어서 다녔던 동역자였어요. 너무 아프니까, 병이 들어서 밀레도에 두고 왔어요. 사도바울이! 왜 안고치고 그냥 두고 오냐고요? 거기다가! 살릴 수 있었잖아요? 사도바울은! 그런 능력 있는 사람 아닙니까? 빌립보서 2장 26절 보십시오. 에바브로디도가 병에 걸렸을 때, 사도바울이 근심합니다. 못 고치고요.

 

(빌립보서 2:26)

26 그가 너희 무리를 간절히 사모하고 자기 병든 것을 너희가 들은 줄을 알고 심히 근심한지라

27 저가 병들어 죽게 되었으나 하나님이 저를 긍휼히 여기셨고 저뿐 아니라 또 나를 긍휼히 여기사 내 근심 위에 근심을 면하게 하셨느니라

 

근심해요. 디모데전서 5장 23절 보세요. 디모데가 너무 너무나 몸이 약하고 아프니까, 사도바울이 그 사역의 말기에, 뭐라고 이야기 하는지?

 

(디모데전서 5:23)

23 이제부터는 물만 마시지 말고 네 비위와 자주 나는 병을 인하여 포도주를 조금씩 써라

 

‘너! 그렇게 아프지 말고, 포도주를 조금씩 써서, 그 고통을 좀 면해봐라!’ 그런다고요. 아! ‘뽕!’하고 고쳐주면 되지, 뭐 포도주까지 먹으라 그래요? 못 고치는 거예요. 은사라든지 기적 같은 거는, 성경이 완성되어지면서, 소멸되어지기 시작했단 말이에요. 이제 교회는 세워졌고, 계시는 완성이 된 것입니다.

 

여러분! 교회의 설립과 계시의 완성을 위해서, 초자연적인 것들이 동원되었고, 그것이 완성된 후에는, 그 초자연적인 은사들은, 종결되었다고, 성경은 이야기 합니다. 고린도전서 13장 8절 보세요.

 

(고린도전서 13:8-10)

8 사랑은 언제까지든지 떨어지지 아니하나 예언도 폐하고 방언도 그치고 지식도 폐하리라

9 우리가 부분적으로 알고 부분적으로 예언하니

10 온전한 것이 올 때에는 부분적으로 하던 것이 폐하리라

 

이제 교회는 완전하게 세워졌고, 계시는 완성되었어요. 이제 잠정적으로, 초대교회라는 특수한 상황에서 쓰여졌던 초월적 은사들은 이제, 끊어진 것입니다. 그리고 교회의 지속적인 복리와, 성장에 관한 은사들은, 지속되어지고 있는 거예요. 섬김의 은사! 가르침의 은사! 구제의 은사! 교회가 유지되어져가는 데 필요한 은사들은, 우리 안에 있단 말이에요.

 

우리가 그리스도인들입니다. 그리스도인들은 모두 다, 은사를 가지고 있는 자들이에요. 우리가 얻은 구원이 바로 그것이고, 우리가 하나님의 자녀로 만들어져가는 데 주어지는 모든 상황! 모든 것이 바로, 하나님의 은사인 것입니다. 자기가 조금 더 특별한 것을 가지고 있다고 자랑할 것도 없고, 남이 가진 은사를 부러워 할 것도 없어요. 그 은사는 모두, 우리 하나님의 자녀들의, 자녀 됨을 위한 목적으로 주어진 것이고, 우리 모두는 반드시 그 완성의 자리에, 설 것이기 때문에, 그렇습니다.

 

여러분! 기적 앞에 맥없이 무너지지 마십시오. 초월 앞에, 신비 앞에, 무너지지 마십시오. 무당이 작두위에 올라가서 덩실덩실 춤추는 거, 그런 거와 방불한, 아니, 어떻게 보면 그런 거보다도 못한, 그러한 예언이라든지, 병 고치는 것이라든지, 그런 것에 몰두하지 마시고, 그런 것들은 가짜들도 행할 수 있다 그러지 않습니까?

 

그러면 가짜도 할 수 있고, 진짜도 할 수 있는 거, 뭐 그런 거에 그렇게? 구별할 수 없는 거에 목매달지 마시고, 진짜들만 이해할 수 있는 것에, 목매달으란 말이에요. 그게 우리 교회가 가는 방향인 것입니다. 우리는 성경말씀 이외에 어떤 것도, 인정하지 않습니다. 여기에서 이야기하는 바만 설교할 것이고, 여기에서 이야기하는 바만 논의할 것이고, 받아들일 것입니다.