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(90) 白い玉座の審判 본문

講解説教/ヨハネの黙示録

(90) 白い玉座の審判

cocoa 2026. 3. 6. 12:43

 

 

(90) 白い玉座の審判

 

(黙示録20:7-15)

20:7 千年が終わると、サタンは牢から解き放たれ、

20:8 地の四方の国々、すなわちゴグとマゴグを惑わそうと出て行く。

そして彼らを戦いに集めるが、その数は海の砂のようだ。

20:9 彼らは地上に上って来て、聖徒たちの陣営と神が愛しておられる都を包囲しました。

しかし、3)天から火が降りて来て、彼らを焼き尽くしました。

他の古代写本には「天から神によって」

20:10 彼らを惑わしていた悪魔も、火と硫黄の池に投げ込まれました。そこは、獣と偽預言者たちがいる所です。

そこで彼らは、昼も夜も、永遠に苦しむのです。

20:11 私は、大きくて白い御座と、その上に座っておられる方を見ました。

地も天も、その御座の前から消え去り、その場所さえ見つけられなくなりました。

20:12 また、死んだ者たちが、大小を問わず、皆、その御座の前に立っているのを見ました。

そして、いくつかの書物が開かれ、また別の書物、すなわちいのちの書が開かれた。

死者たちは、その書物に記されているとおり、それぞれの行いに応じて裁かれた。

20:13 海はその中にいる死者たちを吐き出し、死と4)陰府もその中にいる死者たちを吐き出した。

彼らはそれぞれ自分の行いに応じて裁かれました。

あの『ハデス』

20:14 そして死と5)陰府は火の池に投げ込まれました。

この火の池が第二の死です。

あの『ハデス』

20:15 このいのちの書に記されていない者は、だれもこの火の池に投げ込まれました。

 

 

先週は6節まで全て終わりました。

皆さんが勉強してご存知のように、ヨハネの黙示録20章1節から6節までの内容をよく解釈しなければ、ヨハネの黙示録全体の一貫性を保つことができません。

もう一度簡単に整理しておき、今日の本文に移りましょう。

1節から6節までの内容さえしっかり整理しておけば、今日勉強する残りの部分は非常に簡単です。

その内容は次の通りです。

私たち聖徒は、イエス・キリストの十字架の功績を通して、罪と過ちによって死んでいた状態から、新しい命を得て生き返りました。

聖書はそれを「最初の復活」と呼んでいます。

しかし、この最初の復活に参加した者たちは、生き返った直ちにイエス・キリストと共に王としての務めを果たすようになります。

ただし、その王としての務めは、祭司としての王の務めです。

それは、自分を空しくし、自分を低くし、自分の損を甘受して神に従順になることで神の御心を成し遂げ、隣人の益のために仕える生活を送る、天の国の生活の原理で生きることであり、それがまさに祭司としての王としての務めだと述べられています。

ですから、4節を見ると、天の聖徒たちが天の国でもそのように御座に着き、王であり祭司として永遠に生き続けているのです。

それが天の国の生活の原理だからです。

そのような天の国の生活の原理、言い換えれば十字架の生活は、世の生活の原理である力の原理を公然と否定するものではありませんか?だからこそ、あの聖徒たちの生活が「世を裁く」と表現されるのであり、そのような天の国の王としての務めと祭司としての務めがこの地上でどのように可視的に現れるかというと 『イエスの証しと神の言葉のために首を切られる苦痛を受ける姿として現れ、獣とその像に拝むこともせず、額と手にその刻印を受けることもせず、世の中で不利益を受けながら生きるような姿として現れるのです』

それがまさにこの歴史の中で天の王としての務めを果たしている聖徒の姿なのです。

そのように救われた聖徒たちは、聖霊を受けた直後からその天の民の生活に参加することになり、悪魔はもはやその聖徒たちの天の王としての働きと祭司としての働きを絶対に妨げられないという意味で、彼が千年もの間、底知れぬ穴に閉じ込められていると聖書は語っているのです。

しかし、神の選びから除外された聖徒以外の残りの人々は、その千年が終わるまで生き返ることができません。

それは、神に選ばれなかった人々は、絶対に他のいかなる方法でも救いを受けることができないという意味だと述べました。

これが黙示録20章1節から6節までの内容です。

 

また加えて、千年というものを時間の概念として理解せず、「状態」の概念として理解しようとお話ししましたね?人間の限られた寿命と対照される、イエス・キリストの十字架によって私たち聖徒に与えられた「永遠の命」という「状態」を「千年」と理解しようというのです。

なぜなら時間というものは人間の意識の中にある概念であって、天上の黙示世界には時間の概念がないからです。

では、黙示の世界を描く場面で、時間としての千年が登場し得るでしょうか?時間とは、神が行われる自然の現象を人間が論理的に区分したものを指します。

つまり「時間が流れる」というのは、神が造られた自然の変化を人間が感じるに過ぎないのです。

ですから私は、千年を「時間」として見ないというのです。

 

この千年というものを時間として見ると、解けないことがいくつかあります。

その中でも代表的なのは、その千年という期間が満ちるとサタンが一時的に解き放たれるとありますが、それが一体どういう意味なのかということです。

大部分の改革主義神学者たちが、サタンが一時的に解き放たれることを「サタンの攻撃が非常に激しくなる状態」と解釈されるため、私も「サタンが一時的に解き放たれる」という句の意味を説明せよと言われた時、「サタンの攻撃が非常に激しくなる状態」とごまかしてやり過ごしてきましたが、どう考えてもそれは少し貧弱な解釈のようです。

しかし「千年」というものを期間ではなく「状態」として理解すれば、その問題は簡単に解決します。

そしてある箇所では「サタンが縛られた」と語り、ある箇所では「サタンが活発に活動し聖徒たちを打ち負かしている」と語っているのも、サタンがどれほど攻撃しても私たちの救いは揺るがないため 「サタンが縛られた」と語るのであり、サタンが依然として攻撃を続けているという側面から「サタンが私たちに打ち勝っている」とも表現するのだと説明しましたが、その解釈も私の心に満足のいくものではありません。

ところが、その「千年」というものを「期間」ではなく「状態」として理解するようになると、そうした問題が解決されるのです。

よく聞いてください。

皆さん、十字架はいつ立てられたのでしょうか?歴史という時間の中では明らかに2000年前に立てられました。

では、イエスが来られる2000年前の時代の人であるアブラハムは、どのように救われたのでしょうか?十字架によって救われたのです。

創世以前に選ばれたすべての人間の救いは、ただイエス・キリストの十字架によってのみ成し遂げられます。

 

(ペテロ第一1:20)

20 彼は創世の初めからあらかじめ知られていた方ですが、この終わりの時に、あなたがたのために現されました。

 

イエス様は創世の初めからあらかじめ備えられていた方だということです。

ですから、創世の初めから選ばれたすべての人間は、そのイエス・キリストによってのみ救われるのです。

 

(ヨハネ8:56)

56 あなたがたの先祖アブラハムは、わたしの時を見ることを喜び求めたが、それを見て喜んだ。

 

アブラハムもイエス・キリストによって救いを受けました。

ですから、イエス・キリストの十字架というものは、黙示の中で創世以前にはすでに定まっていたのです。

 

このように理解してください。

2000年前に歴史の中に現れた十字架という救いの出来事は、黙示における神の働きが人間のレベルに合わせて出来事として説明されたものであり、その時を起点に聖徒に向けた神の働きが初めて始まったのではありません。

十字架はすでに創世前に神の計画の中で時間の上に立てられていたのです。

『beyond history』 そしてその十字架の効力は創世記から現れている神の選ばれた民すべてに有効なものです。

神は創世記3章15節から、罪人は自らの努力ではなく『女の子孫』によってのみ恵みによって救われるという福音を、絶えず人間たちに投げかけておられます。

聖霊によってその福音を理解した者は救われ、そうでない者は見捨てられるのです。

では十字架の効力はいつから現れたのでしょうか。アダムの時からです。

 

ではサタンが縛られた時点をいつと見なすべきでしょうか。私たちがその問題を人間の意識内に存在する「時間」の中で解決しようとすると、迷い悩むことになるのです。

一つ質問をさせてください。

アブラハムはイエス・キリストの十字架によって救いを受けました。

そうですね?では、サタンはアブラハムを訴えることができますか?できませんか?できませんよね?

アベル、セト、エノク、ノア、ヤコブ、イサク、モーセ、ラハブ、ダビデ、皆イエス・キリストの十字架を信じる信仰によって救いを受けました。

では、サタンは彼らを訴えることができますか?できませんか?できません。

では、サタンはいつ縛られたのでしょうか?神の民がこの地に現れたその時、縛られたのです。

私たちがサタンの縛りというものを「告発権の剥奪」と見るなら、サタンが告発権を剥奪されたその時点は、最初の神の民が現れたその時ではないでしょうか。

ですから、実は「千年」というものは、神の民がこの地に存在することになったその時点で既に始まっていたのです。

私たちが「時間」というものと経験というものにあまりに縛られているため、イエスの十字架が可視的にゴルゴタに立てられた2000年前からイエスが再び来られる時までを「千年」と説明してきましたが、厳密に言えば「千年」とは神の民がこの地に生まれ始めたその時に既に始まっていたのです。

ですから、サタンはこの地に神の民が生まれたその時点で既に縛られていたのです。

2000年前に縛られたのではないのです。

 

では今、「千年が満ちた」という言葉の意味を考えてみましょう。

「千年」というものを「期間」ではなく「救いが与えられた状態」と見なすならば、「千年が満ちた」という言葉は「誰かの犠牲によって救い、永遠の命が完成された」という意味になるのではないでしょうか?

今日の本文をギリシャ語で見ると、「千年が満ちた」という箇所で「満ちた」と訳された「テレオ」というギリシャ語は、ある計画を「完成させる、成し遂げる、結論づける」という意味の単語です。

つまり「千年が完成した」という意味です。

言い換えれば、神の偉大な御計画と予定の中で、その救いが完成した状態を「千年が満ちた」と表現しているのです。

この歴史の中で、目に見える形で「千年が満ちた時点」はゴルゴタの十字架の出来事ですが、黙示録の中では既に創世以前においてその千年が満ちていたのです。

それでは、千年が満ちた後に「サタンがしばらくの間、牢から解き放たれる」という言葉が何を意味するのか考えてみましょう。

神は神の民がこの地に生まれ始めたその時から、神の民を守り、保護されました。

それゆえ彼らは神の計画通りに救いを受けました。

サタンは彼らを神に訴えることができませんでした。

彼らも皆、イエスの十字架によって救われたからです。

こうしてサタンは縛られたまま神の民を訴えることのできない状態になりましたが、神はその縛られた状態のサタンを用いて義人たちを攻撃させます。

ヨブ記を見ると、イエス・キリストの十字架の功績によって救われたヨブがサタンから激しい攻撃を受けます。

ところがそのサタンを誰が送るかというと、神が送られるのです。

そうですね?

神はなぜ義人であるヨブにサタンを送られたのでしょうか?ヨブはサタンの攻撃を通して何を学ぶのでしょうか?信仰とは何かを学びます。

そして真の「義」とは何かを学びます。

ヨブ記全体の内容を一言で要約すれば「義人は信仰によって生きる」です。

ヨブはサタンの攻撃によってその真理を学ぶことになったのです。

ですから、サタンの攻撃は、イエス・キリストの十字架の功績によって義人となった人々が「神の神であることを学び、信仰とは何かを学び、自分たちが得た救いがどれほど尊いものであるかを学び、悪というものがどれほど恐ろしいものであるかを学ぶために」用いられる道具であり方法なのです。

ですから聖書を見ると、アダム、アベル、ノア、アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフのような、イエス・キリストの十字架の功績によって救いを受ける義人たちが現れ始めた頃から、サタンは活発に活動を始めます。

肉体的苦痛を与え、兄弟たちによって売られ、敵対者たちの攻撃を受けることもあります。

神はサタンを用いて、義人の信仰を堅くし、悪人の悪人たる姿を白日のもとに晒すため、そしてサタンの正体を暴き裁きの根拠を準備するために用いておられるのです。

ですから主が行かれる所や福音が届く所には必ず悪が露わになるのです。

健全なユダヤの地で幼子イエスが生まれた時、世の王の正体が発覚したでしょう?

偽りと偽善で巧みに覆い隠されていたパリサイ人たちの正体が暴露されることもあります。

それがまさに「サタンが解き放たれた」という意味なのです。

「義人たちの成熟と悪の実体の暴露」を目的として許されるサタンの活動、それがまさにサタンの解き放たれなのです。

 

これらの内容をよく繋げてみてください。

「千年」は「永遠の命」あるいは「救い」という状態を表すと述べましたね? ならばその千年とは、人類の歴史が始まり神の民がこの地に現れた時点で既に始まっているのです。

しかし私たちが時間と経験というものに慣れた人々に理解しやすく説明するために

2000年前にイエス・キリストが来られ十字架を担がれることで可視的な贖いの働きが完成されたあの時から、イエスが再び来られるその時までの期間を「千年」と説明することもできると述べました。

しかし厳密に言えば、この地に神の民が生まれたその時こそがまさに「千年」の始まりなのです。

そうしてイエス・キリストの十字架の功績によって救われた神の民は、もはや何ものにも訴えられることはありません。

彼らはイエス・キリストの生涯と死をすべて引き継いでいるからです。

その意味で、サタンは縛られたのです。

しかし神は、そうして生まれた義人たちにサタンを送り、信仰とは何か、救いとは何か、神はどなたか、悪とはどのようなものかを、時間の中で経験を通して確認させておられます。

そして悪の正体を完全に暴き出すのです。

聖書はそれを「サタンが一時的に解き放たれた」と表現しています。

一時的という表現は、永遠と対比されるこの地上の時間を指すものです。

つまり、神の民が存在した全ての時代にサタンは縛られていたのであり、神の民が存在する全ての時代にサタンは一時的に解き放たれているのです。

 

皆さんは、一時的に解き放たれたサタンが皆さんを攻撃する時、皆さんの内に見出される「悪」のために、自分自身に身震いするほど恐ろしく思うでしょう。

皆さんの内に見出される「卑劣さ、汚さ、激怒、偽善」

といったものに向き合う中で、神を離れた人間たちが実を結んだものがどれほど汚く恐ろしいものであるかを悟ることになり、それにもかかわらず私に恵みを与えてくださった神に感謝と賛美を捧げることができるようになり、その汚れた人間たちが吐き出した「この世」そしてその汚れた世の足跡である「歴史」そのものを糞土のように思うようになるのです。

だからサタンは縛られた瞬間、解き放たれるとも言われているのです。

このように聖書の黙示は、時間から離れて読む練習を多くしなければなりません。

黙示を時間の中で解こうとすると、しばしば曲解が生じるからです。

このようにサタンが一時的に解き放たれ、自らの正体を明らかにさせられ、聖徒たちの成熟のために聖徒たちを攻撃することを霊的戦いと呼ぶのです。

その戦いがヨハネの黙示録に様々な形で描かれているのです。

続けて8節を見ると、その解き放たれたサタンが地の四方の民を惑わし、ゴグとマゴグの戦争を引き起こします。

これについてはエゼキエル書38章39章を見ながら私たちが詳しく学んだので、ここでは省略します。

ただし一つ忘れてはならないのは、その戦争が遠い未来のものではないという事実です。

この戦争は確かに最後の終末時に起こる戦争に間違いありません。

しかし、その終わりの時に起こる戦争は、人類の歴史が始まった時から続いてきた霊的戦争の内容を、最後に一つの場面として示す戦争なのです。

今、私たちとは全く関係のないような戦争ではないのです。

ヨハネの黙示録に登場するすべての戦争がそうです。

終わりの時に最も激しく戦われる戦争を予示すると同時に、その戦争の延長線上において、今、聖徒たちが彼らの生活の中で戦っている小さな戦いも共に象徴しているのです。

 

しかし、サタンは霊的存在であるため、必ず道具を必要とします。

サタンは神の選びから除外された世の人々を惑わして聖徒たちを攻撃します。

そして、依然として世の人々と変わらない生活を吐き出す私たちの中の汚れと腐敗性を掻き立てて、私たちを攻撃します。

しかし、そのすべての攻撃は、私たちが神の子として成熟し、神の国についてよく学ぶために用いられるでしょう。

だから3節には「千年が満ちるまで、サタンが諸国を惑わさない」という言葉があるのです。

そこで「諸国」と訳された「エトノス」という言葉は、「ユダヤ人以外の異邦人」という意味です。

ですから、その節を今日に適用すると「神の民以外の世の人々」という意味になるでしょう?神の民が現れていなかった時は、悪魔が世の人々を惑わす必要はありませんよね?どうせ皆地獄に行くのですから、何の惑わしが必要でしょうか?しかし神の民が現れると、別の言い方をすれば「千年が満ちる時」「永遠の命を得た者たちが現れる時」、悪魔は世の勢力を結集して聖徒たちを攻撃するのです。

それが7節と8節です。

 

そして8節には、悪魔が救いを得た聖徒たちをどのように攻撃するのか、その戦いの内容を推測できる言葉が出てきます。

8節を見ると、そうして悪魔に惑わされたゴグとマゴグの数が「海の砂のように多い」と表現されています。

「海の砂」と聞くと、思い浮かぶ聖句がありますね?

 

(創世記22:17)

17 わたしはあなたに大いなる祝福を与え、あなたの子孫を大いに繁栄させて、天の星のように、海辺の砂のように多くする。あなたの子孫は敵の門を征服するであろう。

 

ご覧ください。

悪魔はまさに神の契約に対して敵対するのです。

サタンは神の民に、神の契約は成就しないという不信を植え付けます。

信仰とは「神の契約、神の約束」を信じることです。

目に見える世を否定し、目に見えない新しい天と新しい地を望むことが信仰です。

その信仰は神の約束に対する信仰です。

しかし悪魔は、その神の約束が絶対に成就しないという不信で聖徒たちを攻撃するのです。

それゆえ聖徒たちに、目に見える地上のものを絶えず見させ、この世のものを追い求めるように仕向けてしまうのです。

神は確かに神の民が海の砂のように多くなるとおっしゃったのに、悪魔は神の敵を海の砂のように多く集めました。

そして彼らはあたかも真に祝福された人々であるかのように欺くのです。

皆さんはいかがですか?皆さんは神の契約を信じていますか?それともその契約に敵対してこの世にしがみついていますか?どちらの側の海の砂なのでしょうか?

私が大学部時代、日曜学校の教師をしていた時、当時中学1年生の生徒たちを教えていました。

その時、子供たちに順番にどんな夢を持っているのか尋ねました。

ある子は記者になりたいと言い、ある子は大きな家を買うと言い、ある子は外交官になると言いました。

ところが、その中の一人に「君の夢は何?」と尋ねると、「先生、イエス様が再び来られるなら、どうせ全てが燃え尽きるこの世で、夢を持って何になるんですか?」と答えました。

誰から学んだのか、本当に良く学んだものですね?私のクラスだったんですよ。

私がそう言ったからといって、子供たちに極端な歴史虚無主義者になれと教えたわけではありません。

生徒は生徒の身分にふさわしく、誠実に神が託された務めを果たせと教えました。

だから私は子供たちの成績表も毎月確認しました。

しかし、それが人生の目的になってはいけないと教えたのです。

私たちはイエスを信じるなら、そのような告白ができるべきなのです。

「私は神の約束を信じ、その約束だけを望みとして生きています。」しかし、サタンはそれを妨げるのです。

続けて9節を見ると、その戦争が未来にある特定の戦争を意味するものではないことがわかります。

 

(黙20:9)

9 彼らが地の上に広がって、聖徒たちの陣営と愛する都を包み込むと、天から火が降りてきて彼らを焼き尽くし、

 

私たちはこのゴグとマゴグの戦いとハルマゲドンの戦い、そして淫婦と獣たちが滅ぼされる戦い、そしてバビロンが滅ぼされる戦いなどが全て同じ戦いを意味すると言いましたね?しかしその戦いはどこで起こりますか?メギドの谷で中国軍2億とイスラエル軍が戦う戦いですか?

「地の上に広がって」です。

聖徒がいるすべての場所でその戦争が起こるのです。

彼らの結末はどうなると書かれていますか?火が降りてきて彼らを飲み込んでしまいます。

つまり、悪魔とその勢力は神の民の成熟のために一時的に用いられた後、ついに永遠の滅びへと投げ込まれるのです。

この場面は旧約のダニエル書で既に図として見たことがあります。

ダニエル書には、ダニエルがネブカドネザル王の夢を解き明かす場面が出てきます。

ネブカドネザル王は夢の中で幻を見ました。巨大な像を見たのです。

その像は頭が純金、胸と腕が銀、腹と太ももが青銅、ふくらはぎが鉄、足は一部が鉄で一部が粘土でできた像でした。

ところが、切り出された一つの石がその像を打ち砕き、その石が大きな山となって全世界を満たすという夢でした。

その夢をダニエルが解き明かすのです。

その像は世の王国を象徴するものでした。

バビロン、メディア、ペルシャ、ギリシャ、ローマといった神に敵対する世の力を象徴するのがまさにその像でした。

しかし、その像を打ち砕いた石、すなわちイエス・キリストが完全に粉々に砕き、世界に満ちてイエス・キリストの国を建てられることが、その夢の内容でした。

バビロン、メディア、ペルシャ、ギリシャ、ローマは、今私たちが生きているこの世へとつながっているのです。

神を知らない人々が追い求め、熱望するものが、まさにそのような世の力ではありませんか?

だから、その像の姿が人の形をしているのです。

諸国を滅ぼされる場面を演じられる時、単にボウリングのピンのように並べて打ち砕かれてもよいのに、なぜあのように人の姿の神像として描かれたのかお分かりでしょう?神を知らないすべての世の人々が悪魔の惑わしに陥って作り出す歴史全体が、まさにそのように打ち砕かれるということを示すのが、神像の幻なのです。

その絵が今日のヨハネの黙示録に具体的に現れているのです。

サタンと偽預言者と獣たちと彼らに従った者たちは、その役割を終え、火と硫黄の池に入り、世々限りなく苦しむことになるのです。

では、どうして私たちがこのように救われることになったのでしょうか?本当に無条件の選択です。

だから、その途方もない贈り物の前に、言葉も失うのです。

ただ感謝するのみであり、永遠の火の池から救い出してくださったその力ある神を賛美するのみです。

 

今日の本文の御言葉を見ると、明らかに裁かれる神の御手には、人間の行いが記された書が掲げられており、その書に記された行いによって裁きを受けます。

しかし、私たちの名前の後ろには、私の行いはすべて消え去り、イエス・キリストの行いが記されているのです。

それゆえ、私たちはその裁きから除外されたのです。

本文13節を見ると、死んだ者たちが裁きを受けるために、皆が復活する場面が出てきます。

 

(黙20:13)

13 海はその中にいる死者を渡し、また死と陰府もその中にいる死者を渡した。そして、各人は自分の行いに応じて裁きを受け、

 

すべての死者が完全に生き返ります。

海で溺死した者、車に轢かれて死んだ者、戦争で死亡した者、火事で焼死した者、すべての死者が皆生き返ります。

そして彼らは、その行いに応じて裁きを受け、この地で死を迎えたあの瞬間よりも億万倍も恐ろしい刑罰の中へと入っていくのです。

私たちはどうしてその裁きから逃れることができたのでしょうか?イエス・キリストの功績によって、恵みによって、賜物によって、私たちはその裁きから救い出されたのです。

しかし聖書は、そのように恵みによって救われた者たちが「この地でどのような善い行いをするか」と語っています。

その場面がヨハネの福音書に出てきます。

 

(ヨハ5:29)

29 善を行った者は命の復活へ、悪を行った者は裁きの復活へと出て来るであろう。

 

そうですね? 皆さん、自信がありますか? 悪を行った者は裁きの復活へ、善を行った者は命の復活へと出て来ると、イエス様は語られました。

ここに見られるように、いのちの復活から出る者たち、すなわち救いを得た人々は、イエス・キリストの行いによって救いを得るのですが、この地での彼らの生活が善い行いを行うことで現れていたということを語っています。

では、イエス・キリストの生涯と死を転嫁されたクリスチャンたちがこの地で行うべき善い行いとは、いったいどのようなものでしょうか?単に愛し、赦し、忍耐し、救済することでしょうか?それならば、神は決してパリサイ人たちを裁くことはできません。

聖書が聖徒たちに求めている善い行いは、パリサイ人たちもできたような道徳的・倫理的な生活ではありません。

もちろん、聖書が語る善い行いが道徳的・倫理的な生活と全く無関係というわけではありません。

しかし、単にそのような善良な行いだけを言っているわけではないのです。

では、聖徒たちに現れるべき善い行いとはどのようなものでしょうか?

 

(使徒10:38)

38 神はナザレのイエスに聖霊と力を油を注ぐように注がれた。イエスはあちこちを巡り歩き、善い行いをなさって、悪魔に苦しめられている人々をみな癒された。これは神がイエスと共におられたからである。

 

ここを見ると、イエス様が善い行いをなさったとありますね。

これが善い行いとまったく同じ言葉です。

よく見ると、その善い行いがどのようにして現れたかがその前に記されています。

何でしょうか?神が聖霊と力を注がれたからこそ、善い行いが現れるのです。

ですから、聖書が語る善い行いとは、聖霊を受けた者たちが聖霊に導かれて生きる生活を指すのです。

聖霊は私たちに来られて、どのようなことをなさいますか?

 

(ヨハネ15:26)

26 わたしが父のもとからあなたがたに遣わす助け主、すなわち父のもとから来られる真理の御霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるのです。

(ヨハネ16:7-8)

7 しかし、私はあなたがたに真実を言います。私が去って行くことが、あなたがたにとって益となるのです。もし私が去って行かなければ、助け主はあなたがたのところに来られません。しかし、去って行けば、私はその方をあなたがたのところへ送ります。

8 その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世を責められます。

(ヨハネ16:13)

13 しかし、真理の御霊が来られるとき、その方があなたがたをすべての真理に導いてくださる。その方は自分から語らず、聞いたことを語り、将来の事をあなたがたに知らせてくださる。

 

聖霊は私たちに来られ、真理とは何か、イエス・キリストが誰であるかを悟らせ、罪と義と裁きとは何かを知らせ、将来この世がどのように終わるかを知らせてくださるのです。

ですから聖書が語る善い行い、良い行いとは、道徳的・倫理的な行為に先立ち、神を正しく知り、イエス・キリストを正しく知ること、そして私たち人間の未来がどのように結末を迎えるかを悟り、燃え尽きるこの世から目を離し、天に望みを置き、私たちにその計り知れない恵みの賜物を与えてくださった神のみに頼り、その方に従順に生きる生活、 言い換えれば、人生の原理を「私が死んで神と隣人が益を得る」という十字架の生き方に変えて生きることを、善い行いと呼ぶのです。

しかし、その善い行いは、してもしてもいなくてもよいことではなく、クリスチャンの生活の中で必ず現れなければならないと語られています。

なぜなら、その善い行いは、私たちが自らの意志で始めることではなく、神が私たちをその善い行いへと導かれるからです。ゆえに私たちは必ず、自分を否定し、世を否定し、神に従う者として造られていくのです。

 

(ピリピ1:6)

6 あなたがたのうちに良いわざを始められた方が、キリスト・イエスの日までにそれを完成させてくださると、私たちは確信しています。

 

ご覧ください。

ここにも同じ言葉が出てきます。

私たちのうちに良いわざを誰が始められたと言っていますか?神です。

神が私たちのうちに良いわざを始められたからこそ、私たちの生活の中で聖霊に従って生きる良いわざが必ず現れなければならないのです。

このように神が私たちの内で行われる善き業を、私たちは「新しい創造の進行」「救いの現在形」とも呼ぶのです。

こうして聖霊に導かれて生きる人々の生活の中で、目に見える実として結ばれるものが、愛、喜び、平和、寛容、自制、忍耐といったものなのです。

私たちは聖霊の来臨によって神を知り、罪について、義について、裁きについて、そして将来のことについて、救いについて次第に深く知るようになることで、「私にそれほど担いきれない恵みを許してくださった神の喜びとなる人生を自発的に追い求めるようになり、この世から次第にあの天へと目を向けるようになるのです。

その神がおられる場所が天国です。

だから私たちはその神がおられる場所を待ち焦がれているのです。

天国があまりにも良い場所だから待つのではありません。

神があまりにも良いため、その方を切に待ち望むのです。

そして時に、私の中にいる神を感じ取りながら、この地でもその天国を少しずつ味わいながら生きるのです。

その人々は善い行いをする人々であり、その人々は裁きを免れる人々なのです。

天国は、ある人々が考えるような煌びやかな宝で造られたような場所ではありません。

以前、汝矣島におられたある牧師様が翻訳され推薦されたことでベストセラーになった本があります。

『私が行った天国』という本です。

そこには、天国に行ってみると、この世で献金もせず、奉仕もせず、伝道もほとんどしなかった人々は家もなく集団収容所で生活し、この地で多くの働きをした人や多くの献金をした人々はマンションアパートに住んでいたという一節があります。

ところがそのマンションのトイレの便器は金でできていたそうです。

皆さん、トイレの便器が金だと冷たくて痔になりますよ。

フセイン・イラク大統領の大統領官邸も元々便器が金だったそうですが、どう温める方法もなくて金メッキに変えたそうです。

天国がフセインでも作れるような場所でしょうか?この地でもいくらでも作れるようなものを、なぜ私たちがわざわざ望まなければならないのでしょうか?

ところが当時、神癒の御業で韓国を席巻していた現某執事さんが「天国に行ったら、あの汝矣島にいらっしゃる牧師さんは天国にいなかった」と言ったせいで、お二人の間が非常に険悪になったのです。

これは一体何というコメディでしょうか?真に三層の天に行ったパウロは、その場所は人の言葉では到底表現できないと言いました。

この地上のものの中で、あの天国と比較して説明できるものがないため、到底人の言葉では説明できないと述べたのです。

ところが今日、天国に行って来たという人々は、なぜそんなに多くのことを語るのか分かりません。

全て嘘です。

 

天国とは、あの恐ろしい白い御座の裁きから私を救い出してくださった神がおられる場所です。

だからこそ私たちは、その場所を心待ちにし、切に望んでいるのです。

どうかその神を知りなさい。

そして神の民が必ず行わねばならない善き行いが、皆さんの中から現れているか確かめてください。

 

 


 

 

(90) 백 보좌 심판

 






(계20:7-15)
20:7 천 년이 끝나면, 사탄은 옥에서 풀려나서,
20:8 땅의 사방에 있는 민족들, 곧 곡과 마곡을 미혹하려고 나아갈 것입니다.
그리고 전쟁을 하려고 그들을 모을 것인데, 그들의 수는 바다의 모래와 같을 것입니다.
20:9 그들은 지면으로 올라와서, 성도들의 진과 하나님께서 사랑하시는 도시를 둘러쌌습니다.
그러나 3)하늘에서 불이 내려와서, 그들을 삼켜 버렸습니다.
다른 고대 사본들에는 '하늘에서 하나님으로부터'
20:10 그들을 미혹하던 악마도 불과 유황의 바다로 던져졌는데, 그 곳은 그 짐승과 거짓 예언자들이 있는 곳입니다.
거기에서 그들은 영원히, 밤낮으로 고통을 당할 것입니다.
20:11 나는 크고 흰 보좌와 거기에 앉으신 분을 보았습니다.
땅과 하늘이 그 앞에서 사라지고, 그 자리마저 찾아볼 수 없었습니다.
20:12 나는 또 죽은 사람들이, 큰 자나 작은 자나 할 것 없이, 다 그 보좌 앞에 서 있는 것을 보았습니다.
그리고 책들을 펴놓고, 또 다른 책 하나를 펴놓았는데, 그것은 생명의 책이었습니다.
죽은 사람들은, 그 책에 기록되어 있는 대로, 자기들의 행위대로 심판을 받았습니다.
20:13 바다가 그 속에 있는 죽은 사람들을 내놓고, 사망과 4)지옥도 그 속에 있는 죽은 사람들을 내놓았습니다.
그들은 각각 자기들의 행위대로 심판을 받았습니다.
그, '하데스'
20:14 그리고 사망과 5)지옥이 불바다에 던져졌습니다.
이 불바다가 둘째 사망입니다.
그, '하데스'
20:15 이 생명책에 기록되어 있지 않은 사람은 누구나 다 이 불바다에 던져졌습니다.




지난주에 6절까지 다 마쳤습니다.
여러분이 공부해 보셔서 아시겠지만 요한계시록20장 1절에서 6절까지의 내용을 잘 해석을 해야 요한 계시록 전체의 일관성을 붙들 수가 있습니다.
다시 한 번 간단하게 정리를 해 드리고 오늘 본문으로 넘어가도록 하겠습니다.
1절부터 6절까지의 내용만 잘 정리하고 계시면 오늘 공부할 나머지 부분은 아주 쉽습니다.
그 내용이 이러합니다.
우리 성도들은 예수 그리스도의 십자가의 공로를 통해 죄와 허물로 죽었던 자리에서 새 생명을 얻고 살아났습니다.
성경은 그 것을 첫째 부활이라고 합니다.
그런데 그 첫째 부활에 참여한 자들은 살아나는 즉시 예수 그리스도와 함께 왕 노릇을 하게 됩니다.
그런데 그 왕 노릇은 제사장으로서의 왕 노릇입니다.
그 것은 자신을 비우고 자신을 낮추고 자기의 손해를 감수하여 하나님께 순종함으로 하나님의 뜻을 이루고, 이웃들의 유익을 위해 섬김의 삶을 사는 하늘나라의 삶의 원리로 사는 것, 그 것이 바로 제사장으로서의 왕 노릇이라고 했습니다.
그래서 4절에 보면 천상의 성도들이 하늘나라에서도 그렇게 보좌에 앉아 계속해서 왕이요 제사장으로 영원히 살고 있는 것입니다.
그게 하늘나라 삶의 원리이기 때문입니다.
그러한 하늘나라의 삶의 원리, 다른 말로 십자가의 삶은 세상의 삶의 원리인 힘의 원리를 공박하게 되어 있지요? 그래서 그 성도들의 삶이 ‘세상을 심판 한다‘라고 표현을 하는 것이고, 그러한 하늘나라의 왕 노릇과 제사장 노릇이 이 땅에서 어떻게 가시적으로 나타나는가 하면 ‘예수의 증거와 하나님의 말씀을 인하여 목 베임을 받는 고통을 당하는 모습으로 나타나게 되며 짐승과 그의 우상에게 경배하지도 아니하고 이마와 손에 그의 표를 받지도 않아서 세상에서 불이익을 당하면서 살게 되는 그런 모습으로 나타나게 된다는 것입니다’
그게 바로 이 역사 속에서 하늘의 왕 노릇을 하고 있는 성도의 모습인 것입니다.
그렇게 구원받은 성도들은 성령을 받은 직후부터 그 하늘 백성의 삶에 동참하게 되는 것이며 마귀는 이제 그 성도들의 하늘의 왕 노릇과 제사장 노릇을 절대 막을 수 없다는 의미에서 그가 천년 동안 무저갱에 갇혀있는 것이라고 성경이 말하고 있는 것입니다.
그러나 하나님의 택함에서 제외 된 성도 이외의 나머지 사람들은 그 천년이 끝날 때까지 살아나지 못합니다.
그 말은 하나님께 택함을 받지 못한 사람들은 절대 다른 어떠한 방법으로도 구원을 받을 수 없다는 의미라고 했습니다.
이게 계시록 20장 1절에서 6절까지의 내용입니다.


그리고 아울러 천년이라는 것은 시간의 개념으로 이해하지 말고 ‘상태’의 개념으로 이해를 하자고 말씀드렸지요? 인간의 제한된 수명과 대조되는, 예수 그리스도의 십자가로 말미암아 우리 성도들에게 주어진 ‘영생’이라는 ‘상태’를 ‘천년’이라고 이해를 하자는 것이지요.
왜냐하면 시간이라는 것은 인간의 의식 속에 있는 개념이지 천상의 묵시 세계에는 시간의 개념이 없기 때문입니다.
그런데 묵시세계를 그리는 장면에서 시간으로서의 천년이 등장할 수 있겠습니까? 시간이라는 것은 하나님께서 행하시는 자연의 현상들을 인간이 논리적으로 구분한 것을 말하는 것입니다.
그러니까 ‘시간이 흐른다.‘라고 하는 것은 하나님이 지으신 자연의 변화를 인간이 느끼는 것일 뿐입니다.
그래서 저는 천년을 ’시간‘으로 보지 않겠다는 것입니다.


이 천년이라는 것을 시간으로 보게 되면 풀리지 않는 것이 여러 가지가 있습니다.
그 중에 대표적인 것이 그 천년이라는 기간이 차면 사단이 잠시 풀려난다고 했는데 그게 도대체 무슨 의미인가 하는 것이지요?
대 부분의 개혁주의 신학자들이 사단이 잠시 풀려난다는 것을 사단의 공격이 아주 거세어진 상태라고 해석을 하시기 때문에 저도 ‘사단이 잠시 풀려난다.’는 구절의 의미를 설명하라 때 ‘사단의 공격이 아주 거세어진 상태‘라고 대충 얼버무리고 넘어갔었는데 아무리 생각해도 그건 조금 가난한 해석 같아요.
그런데 ’천년‘이라는 것을 기간으로 보지 않고 ’상태‘로 이해를 하면 그 문제가 쉽게 풀립니다.
그리고 어떤 곳에서는 ‘사단이 결박당했다‘라고 이야기를 하고 어떤 곳에서는 ’사단이 왕성하게 활동하며 성도들을 이기고 있다’라고 이야기를 하는 것도 사단이 우리를 아무리 공격을 해도 우리의 구원은 흔들릴 수 없는 것이기에 ‘사단이 결박당했다‘라고 이야기를 하는 것이고 사단이 여전히 공격을 하고 있다는 측면에서 ’사단이 우리를 이기고 있다’라고도 표현을 하는 것이라고 말씀을 드렸는데, 그 해석도 제 마음에 흡족하지가 않아요.
그런데 그 ‘천년’이라는 것을 ‘기간‘이 아닌 ‘상태’로 이해를 하게 되면 그런 문제들이 해결이 됩니다.
잘 들어보세요.
여러분 십자가는 언제 선 것입니까? 분명 역사라는 시간 속에서는 2,000년 전에 섰습니다.
그러면 예수님이 오시기 2,000년 전 사람인 아브라함은 어떻게 구원을 받았습니까? 십자가로 구원을 받았습니다.
창세전에 택해진 모든 인간의 구원은 오직 예수 그리스도의 십자가로만 이루어집니다.


(벧전1:20)
20 그는 창세전부터 미리 알리신바 된 자나 이 말세에 너희를 위하여 나타내신 바 되었으니


예수님은 창세전에 미리 준비되신 분이라는 말입니다.
그러니까 창세전에 택함을 받은 모든 인간은 그 예수 그리스도에 의해서만 구원을 받는 것입니다.


(요8:56)
56 너희 조상 아브라함은 나의 때 볼 것을 즐거워하다가 보고 기뻐하였느니라


아브라함도 예수 그리스도로 말미암아 구원을 받았습니다.
그러니까 예수 그리스도의 십자가라는 것은 묵시 속에서 창세전에 이미 선 것입니다.


이렇게 이해하시면 됩니다.
2,000년 전에 역사 속에 나타난 십자가라는 구원의 사건은 묵시 속에서의 하나님의 일하심이 인간들의 수준에 맞게 사건화 되어 설명되어진 것이지 그 때를 기점으로 성도를 향한 하나님의 일하심이 비로소 시작된 것이 아닌 것입니다.
십자가는 이미 창세전에 하나님의 계획 속에서 시간 위에 선 것입니다.
'beyond history' 그리고 그 십자가의 효력은 창세기부터 나타나고 있는 하나님의 택한 백성들 모두에게 유효한 것입니다.
하나님은 창세기 3장 15절부터 죄인은 자기의 노력이 아닌 ‘여인의 후손’에 의해 은혜로만 구원을 받게 될 것이라는 복음을 계속해서 인간들에게 던지십니다.
성령에 의해 그 복음을 이해하게 된 자들은 구원을 받고 그렇지 못한 자들은 유기 되는 것입니다.
그러니까 십자가의 효력은 언제부터 나타난 것입니까? 아담 때부터 나타난 것입니다.


그렇다면 사단이 결박당한 시점을 언제로 봐야 합니까? 우리가 자꾸 그 문제를 이 인간의 의식 안에 들어 있는 ‘시간’ 속에서 해결을 하려고 하니까 갈팡질팡하게 되는 것입니다.
제가 질문을 하나 하겠습니다.
아브라함은 예수 그리스도의 십자가로 말미암아 구원 을 받았습니다.
맞지요? 그러면 사단이 아브라함을 참소 할 수 있습니까? 없습니까? 없지요?
아벨, 셋, 에녹, 노아, 야곱, 이삭, 모세, 라합, 다윗 모두 다 예수 그리스도의 십자가를 믿는 믿음으로 구원을 받았습니다.
그렇다면 사단이 그들을 참소 할 수 있습니까? 없습니까? 없지요.
그럼 사단은 언제 결박당한 것입니까? 하나님의 백성들이 이 땅에 생기던 그 때 결박당한 것입니다.
우리가 사단의 결박이라는 것을 ‘참소권의 박탈’로 본다면 사단이 참소 권을 박탈당한 그 시점은 최초의 하나님의 백성이 나타난 그 때 아닙니까.
그러니까 사실 ‘천년’이라는 것은 하나님의 백성들이 이 땅에 존재하게 된 그 시점에 이미 시작된 것입니다.
우리가 '시간‘이라는 것과 경험이라는 것에 너무 얽매어 있기 때문에 예수님의 십자가가 가시적으로 골고다에 선 2,000년 전부터 예수께서 다시 오실 때까지를 ‘천년’이라고 설명을 해 드렸지만 엄밀히 따지면 ‘천년‘이라는 것은 하나님의 백성들이 이 땅에 생기기 시작한 그 때에 이미 시작된 것입니다.
그러니까 사단은 이 땅에 하나님의 백성들이 생겨난 그 시점에 이미 묶여버린 것입니다.
2,000년 전에 묶인 것이 아니라는 것입니다.


그러면 이제 ‘천년이 찼다’라는 말을 풀어보자고요.
‘천년’이라는 것을 ‘기간‘이 아닌 ’구원이 주어진 상태’로 보게 되면 ‘천년이 찼다‘라는 말은 ’누군가의 희생으로 구원이, 영생이 완성되었다‘라는 뜻이 되지요?
오늘 본문을 헬라어로 보면 ’천년이 찼다‘라는 구절에서 ’찼다‘라고 번역이 된 ’텔레오‘라는 헬라어 단어는 어떠한 계획을 ’완성하다, 완수하다, 결론짓다‘라는 의미의 단어입니다.
그러니까 ’천년이 완성되다‘라는 뜻입니다.
다른 말로 하나님의 원대하신 작정과 예정 속에서 그 구원이 완성된 상태를 ’천년이 찼다‘라고 말하는 것입니다.
이 역사 속에서 가시적으로 ’천년이 차게 된 시점‘은 골고다의 십자가 사건이지만 묵시 속에서는 이미 창세전에 그 천년이 찬 것이지요.
그러면 이제 천년이 찬 후에 ‘사단이 잠시 옥에서 풀려난다.‘라는 말이 무엇을 의미하는지 생각해 보자고요.
하나님은 하나님의 백성들이 이 땅에 생겨나기 시작한 그 때부터 하나님의 백성들을 지키시고 보호하셨습니다.
그래서 그들은 하나님의 계획대로 구원을 받았습니다.
사단은 그들을 하나님께 참소 할 수 없었습니다.
그들도 모두 예수님의 십자가로 말미암아 구원을 받았기 때문입니다.
그렇게 사단은 결박당한 채 하나님의 백성들을 참소 할 수 없는 상태가 되었는데 하나님은 그 결박당한 상태인 사단을 시켜 의인들을 공격하게 만드십니다.
욥기를 보면 예수 그리스도의 십자가 공로로 구원을 받은 욥이 사단으로부터 심한 공격을 받습니다.
그런데 그 사단을 누가 보내는가 하면 하나님께서 보내십니다.
그렇지요?
하나님께서 왜 의인인 욥에게 사단을 보내셨지요? 욥이 사단의 공격으로 무엇을 배웁니까? 믿음이 무엇인지를 배웁니다.
그리고 진정한 ‘의‘가 무엇인지를 배웁니다.
욥기 전체의 내용도 한 마디로 요약하면 ’의인은 믿음으로 산다.‘입니다.
욥이 사단의 공격으로 그 진리를 배우게 된 것입니다.
그러니까 사단의 공격은 예수 그리스도의 십자가의 공로로 의인이 된 사람들이 ’하나님의 하나님 되심을 배우고, 믿음이 무엇인지를 배우고, 자신들이 얻은 구원이 얼마나 값진 것인가를 배우며, 악이라는 것이 얼마나 무서운 것인지를 배우는 데‘ 사용되어지는 도구요 방법인 것입니다.
그래서 성경에 보면 아담, 아벨, 노아, 아브라함, 이삭, 야곱, 요셉 같은 예수 그리스도의 십자가의 공로로 구원을 받게 되는 의인들이 생기기 시작하면서부터 사단은 활동을 왕성하게 시작합니다.
육체적 고통을 가하기도 하고 형제들에 의해 팔리게도 하고, 대적들의 공격을 당하게도 합니다.
하나님은 사단을 시켜 의인들의 믿음을 굳게 하고 악인들의 악인 됨을 백일하에 드러내는 데에, 그리고 사단의 정체를 폭로시켜 심판의 근거를 준비하시는 데에 사용하고 계신 것입니다.
그래서 주님이 가시는 곳이나 복음이 떨어지는 곳마다 악이 드러나는 것입니다.
멀쩡한 유대 땅에 아기 예수가 태어나자 세상 왕의 정체가 발각이 되지요?
거짓과 위선으로 잘 포장되어 있던 바리새인들의 정체가 폭로되기도 합니다.
그게 바로 ‘사단이 놓였다, 사단이 풀려났다’의 의미인 것입니다.
‘의인들의 성숙과 악의 실체의 폭로‘를 목적으로 허락되는 사단의 활동, 그것이 바로 사단의 놓임인 것입니다.


이 내용들을 잘 연결해 보세요.
‘천년’은 ‘영생‘혹은 ’구원‘이라는 상태를 나타낸다고 했지요? 그러면 그 천년은 인류의 역사가 시작되고 하나님의 백성이 이 땅에 나타났을 때 이미 시작이 되는 것입니다.
그런데 우리가 시간과 경험이라는 것에 익숙한 사람들에게 이해하기 쉽게 설명하기 위해
2,000년 전 예수 그리스도가 오셔서 십자가를 지심으로 가시적인 구속사역이 완성되었던 그 때부터 예수께서 다시 오실 그 때까지를 ‘천년’으로 설명할 수도 있다고 했습니다.
그러나 엄밀히 따지면 이 땅에 하나님의 백성들이 생겨난 그 때가 바로 ‘천년’의 시작인 것입니다.
그렇게 예수 그리스도의 십자가의 공로로 구원을 받은 하나님의 백성들은 이제 어떤 것으로도 참소 할 수 없습니다.
그들은 예수 그리스도의 삶과 죽음을 몽땅 전가 받았기 때문입니다.
그런 의미에서 사단은 결박당한 것입니다.
그런데 하나님은 그렇게 탄생한 의인들에게 사단을 보내셔서 믿음이 무엇인지, 구원이 무엇인지, 하나님은 누구시며, 악이라는 것은 어떤 것인지를 시간 속에서 경험을 통해 확인시키십니다.
그리고 악의 정체를 완전히 드러내 버리시는 것입니다.
성경은 그 것을 ‘사단이 잠시 놓였다‘라고 표현을 하는 것입니다.
잠시라는 표현은 영원과 대조되는 이 땅의 시간을 말하는 것입니다.
그러니까 하나님의 백성들이 존재하던 모든 시대에 사단은 결박당해 있는 것이고 하나님의 백성들이 존재하는 모든 시대에 사단은 잠시 풀려나 있는 것입니다.


여러분은 잠시 놓여난 사단이 여러분을 공격할 때 여러분 안에서 발견되는 ‘악’ 때문에 여러분 자신에 대해 치를 떨게 될 것입니다.
여러분 안에서 발견되는 ‘치사함, 더러움, 격분, 위선’
이러한 것들을 대하면서 하나님을 떠난 인간들이 열매로 맺어놓은 것들이 얼마나 더럽고 무서운 것인지를 깨닫게 되는 것이고, 그럼에도 불구하고 나에게 은혜를 베풀어주신 하나님께 감사와 찬양을 드릴 수 있게 되는 것이고, 그 더러운 인간들이 토해 놓은 ‘이 세상‘ 그리고 그 더러운 세상의 발자취인 ’역사‘ 자체를 분토처럼 여기게 되는 것입니다.
그래서 사단은 결박당한 순간, 놓임도 함께 받는다고 한 것입니다.
이렇게 성경의 묵시는 시간을 벗어나서 읽는 연습을 많이 해야 합니다.
묵시를 시간 속에서 풀려고 하면 종종 곡해가 생기기 때문입니다.
이렇게 사단이 잠시 놓여 자신의 정체를 확실하게 드러내게 만드시고 성도들의 성숙을 위해 성도들을 공격하는 것을 영적 전쟁이라고 하는 것입니다.
그 전쟁이 요한 계시록에 여러 모양으로 그려지고 있는 것입니다.
계속해서 8절을 보시면 그 놓여난 사단이 땅의 사방 백성들을 미혹해서 곡과 마곡의 전쟁을 일으킵니다.
여기에 대해서는 에스겔서 38장 39장을 보면서 우리가 자세하게 공부를 했으니까 넘어가겠습니다.
다만 한 가지 잊지 말아야 할 것은 그 전쟁이 먼 미래의 것이 아니라는 사실입니다.
이 전쟁은 분명 마지막 종말 때 일어 날 전쟁이 맞습니다.
그러나 그 마지막 때 일어날 전쟁은 인류의 역사가 시작되었을 때부터 계속 일어나고 있는 영적 전쟁의 내용을 마지막에 한 장면으로 보여주는 전쟁인 것입니다.
지금 우리와는 아무 상관없는 그런 전쟁이 아닌 것입니다.
요한 계시록에 등장하는 모든 전쟁이 다 그렇습니다.
마지막 때에 가장 치열하게 치러 질 전쟁을 예시함과 동시에 그 전쟁의 연장선상에서 지금 성도들이 그들의 삶 속에서 치르고 있는 작은 전쟁들도 함께 상징하고 있는 것입니다.


그런데 사단은 영적 존재이기 때문에 반드시 도구를 필요로 합니다.
사단은 하나님의 택함에서 제외된 세상 사람들을 미혹해서 성도들을 공격합니다.
그리고 여전히 세상 사람들과 방불한 삶을 토해내는 우리 안의 오염과 부패성을 격동시켜 우리를 공격합니다.
그러나 그 모든 공격은 우리가 하나님의 자녀로 성숙하게 자라나고 하나님 나라에 대해 잘 배우는 데에 사용되어 질 것입니다.
그래서 3절에 보면 ‘천년이 차기까지 사단이 만국을 미혹하지 않는다.’라는 말이 있는 것입니다.
거기서 ‘만국’이라고 번역이 된 ‘에뜨노스’라는 단어는 ‘유대인 이외의 이방인’이라는 뜻입니다.
그러니까 그 구절을 오늘날에 적용을 시키면 ‘하나님의 백성들 이외의 세상 사람들’이라는 뜻이 되겠지요? 하나님의 백성들이 나타나지 않았을 때는 마귀가 세상 사람들을 미혹할 필요가 없지요? 어차피 다 지옥 갈 건데 무슨 미혹이 필요합니까? 그런데 하나님의 백성들이 나타나자 다른 말로 ‘천년이 차자’ ‘영생을 얻은 자들이 생기자’ 마귀가 세상 세력을 규합해서 성도들을 공격하는 것입니다.
그게 7절과 8절입니다.


그리고 8절에는 마귀가 구원을 얻은 성도들을 어떻게 공격할 것인지, 그 전쟁의 내용을 추론할 수 있는 단어가 나옵니다.
8절을 보시면 그렇게 마귀에게 미혹 당한 곡과 마곡의 수가 ‘바다 모래 같이 많다‘라고 표현을 합니다.
’바다 모래‘하면 생각나는 구절이 있지요?


(창22:17)
17 내가 네게 큰 복을 주고 네 씨로 크게 성하여 하늘의 별과 같고 바닷가의 모래와 같게 하리니 네 씨가 그 대적의 문을 얻으리라


보세요.
마귀는 정확하게 하나님의 언약에 대해 대적을 하는 것입니다.
사단은 하나님의 백성들에게 하나님의 언약은 이루어지지 않을 것이라는 불신을 심습니다.
믿음이라는 것은 ‘하나님의 언약, 하나님의 약속’을 믿는 것입니다.
눈에 보이는 세상을 부정하고 눈에 보이지 않는 새 하늘과 새 땅을 소망하는 것이 믿음입니다.
그 믿음은 하나님의 약속에 대한 믿음입니다.
그런데 마귀는 그 하나님의 약속이 절대 이루어지지 않을 것이라는 불신으로 성도들을 공격하는 것입니다.
그래서 성도들로 하여금 자꾸 눈에 보이는 땅의 것들을 바라보게 하고, 이 땅의 것들을 추구하게 만들어 버립니다.
하나님은 분명 하나님의 백성들이 바다 모래 같이 많아질 것이라고 하셨는데 마귀는 하나님의 대적들을 바다 모래처럼 많이 모았습니다.
그러고는 그들이 진짜 복 받은 사람들인 양 속이는 것입니다.
여러분은 어떠세요? 여러분은 하나님의 언약을 믿고 계십니까? 아니면 그 언약을 대적해서 이 세상을 붙들고 계십니까? 어느 쪽 편의 바다 모래입니까?
제가 대학 부 때 주일학교 교사를 했었는데 당시 중학교 1학년 학생들을 가르치고 있었습니다.
그 때 아이들에게 돌아가면서 어떤 꿈을 갖고 있는지를 물었습니다.
어떤 아이는 기자가 되고 싶다고 하고 어떤 아이는 커다란 집을 살 거라고 하고, 어떤 아이는 외교관이 되겠다고 했습니다.
그런데 그 중 한 아이에게 ‘너는 꿈이 뭐야?’하고 물었더니 ‘선생님 예수 님 다시 오시면 어차피 다 불 타버릴 세상에서 꿈은 가져서 뭐하겠습니까?’ 하고 대답을 했습니다.
누구한테 배웠는지 참 잘 배웠지요? 우리 반이었다니까요.
제가 그렇다고 아이들에게 극단적 역사 허무주의자가 되라고 가르친 것은 아닙니다.
학생은 학생 신분에 맞게 성실하게 하나님의 맡기 신일을 수행하라고 가르쳤습니다.
그래서 저는 아이들 성적표도 매달 확인 했습니다.
그러나 그 것이 인생의 목적이 되면 안 된다는 것을 가르쳤던 것이지요.
우리는 예수를 믿게 되면 그러한 고백을 할 수 있어야 하는 것입니다.
‘난 하나님의 약속을 믿고 그 약속만을 소망하며 삽니다.’ 그런데 사단은 그걸 막는 것입니다.
계속해서 9절을 보시면 그 전쟁이 미래에 있을 어떤 한 전쟁을 의미하는 것이 아니라는 것을 알 수 있습니다.


(계20:9)
9 저희가 지면에 널리 퍼져 성도들의 진과 사랑하시는 성을 두르매 하늘에서 불이 내려와 저희를 소멸하고


우리는 이 곡과 마곡의 전쟁과 아마겟돈 전쟁, 그리고 음녀와 짐승들이 멸망하는 전쟁, 그리고 바벨론이 멸망하는 전쟁 등이 모두 같은 전쟁을 의미하는 것이라고 했지요? 그런데 그 전쟁이 어디에서 일어납니까? 므깃도 골짜기에서 중공군 2억과 이스라엘 군대가 싸우는 전쟁입니까?
‘지면에 널리 퍼져’입니다.
성도가 있는 모든 곳에서 그 전쟁이 일어나는 것입니다.
그들의 결국이 어떻게 된다고 나옵니까? 불이 내려와서 그들을 삼켜 버립니다.
그러니까 마귀와 그의 세력은 하나님의 백성들의 성숙을 위해 잠시 동안 사용되다가 결국 영원한 멸망으로 던져지게 되는 것이지요.
이 장면은 구약의 다니엘서에서 이미 그림으로 본 적이 있습니다.
다니엘서에 보면 다니엘이 느부갓네살 왕의 꿈을 해몽하는 장면이 나옵니다.
느부갓네살 왕이 꿈에 환상을 보았는데 커다란 신상을 보았습니다.
그 신상은 머리는 정금이고 가슴과 팔은 은이고 배와 넓적다리는 놋이고 종아리는 철이고 발은 얼마는 철이고 얼마는 진흙인 신상이었습니다.
그런데 뜨인 돌 하나가 그 신상을 박살내고 그 돌이 태산이 되어 온 세상에 가득한 그런 꿈이었습니다.
그 꿈을 다니엘이 해석을 하지요.
그 신상은 세상 나라를 상징하는 것이었습니다.
바벨론, 메대, 바사, 헬라, 로마와 같은 하나님을 대적하는 세상의 힘을 상징하는 것이 바로 신상이었습니다.
그런데 그 신상을 뜨인 돌, 즉 예수 그리스도께서 완전히 박살을 내 버리시고 세상에 가득 차 예수 그리스도의 나라를 세우시는 것이 그 꿈의 내용이었습니다.
바벨론, 메대, 바사, 헬라, 로마는 지금 우리가 살고 있는 이 세상으로 이어지고 있는 것입니다.
하나님을 알지 못하는 사람들이 추구하고 열망하는 것들이 바로 그러한 세상의 힘 아닙니까?
그래서 그 신상의 모습이 사람 모양인 것입니다.
그 열국을 멸하시는 장면을 연출하실 때 그냥 볼링 핀처럼 죽 세워놓고 박살을 내셔도 되는데 왜 그렇게 사람모양의 신상으로 그려 놓으셨는지 아시겠지요? 하나님을 알지 못하는 모든 세상 사람들이 마귀의 미혹에 빠져 만들어 내는 역사 전체가 바로 그렇게 박살이 날 것이라는 것을 보여주는 것이 신상의 환상인 것입니다.
그 그림이 오늘 요한 계시록에서 구체적으로 나타나고 있는 것입니다.
사단과 거짓 선지자와 짐승들과 그들을 추종하던 자들이 그들의 역할을 다 마치고 불과 유황 못에 들어가 세세토록 괴로움을 받게 되는 것입니다.
그런데 어떻게 우리가 이렇게 구원을 받게 된 것입니까? 정말 무조건적인 선택입니다.
그래서 감히 그 엄청난 선물 앞에서 할 말을 잃는 것입니다.
그저 감사할 뿐이고 영원한 불 못에서 건지신 그 능력의 하나님을 찬양 할 뿐입니다.


오늘 본문의 말씀을 보면 분명 심판하시는 하나님의 손에 인간의 행위가 적혀 있는 책들이 들려 있어 그 책에 적혀 있는 행위대로 심판을 받습니다.
그런데 우리의 이름 뒤에는 나의 행위는 전부 없어지고 예수 그리스도의 행위가 적혀 있는 것입니다.
그래서 우리는 그 심판에서 제외된 것입니다.
본문 13절을 보시면 죽은 자들이 심판을 받기 위해 모두 다 부활을 하는 장면이 나옵니다.


(계20:13)
13 바다가 그 가운데서 죽은 자들을 내어주고 또 사망과 음부도 그 가운데서 죽은 자들을 내어주매 각 사람이 자기의 행위대로 심판을 받고


모든 죽은 자들이 전부 살아납니다.
바다에 빠져 죽은 자, 차에 치어 죽은 자, 전쟁에서 사망한 자, 불에 타 죽은 자 모든 죽은 자들이 다 살아납니다.
그리고는 그들의 행위대로 심판을 받고 그들이 이 땅에서 죽음을 맞이했던 그 순간보다 억만 배 더 무서운 형벌 속으로 들어가게 되는 것입니다.
어떻게 우리는 그 심판에서 벗어나게 되었습니까? 예수 그리스도의 공로로, 은혜로, 선물로 우리는 그 심판에서 건져진 것입니다.
그런데 성경은 그렇게 은혜로 구원을 얻은 자들이 ‘이 땅에서 어떤 선한 일을 행한다.‘라고 말씀을 하십니다.
그 장면이 요한복음에 나옵니다.


(요5:29)
29 선한 일을 행한 자는 생명의 부활로, 악한 일을 행한 자는 심판의 부활로 나오리라


그렇지요? 여러분 자신 있으세요? 악한 일을 행한 자는 심판의 부활로 선한 일을 행한 자는 생명의 부활로 나오게 된다고 예수님께서 말씀하셨습니다.
여기에 보면 생명의 부활로 나오게 되는 자들, 즉 구원을 얻은 사람들은 예수 그리스도의 행위를 힘입어 구원을 얻게 되는데 이 땅에서의 그들의 삶이 선한 일을 행하는 것으로 나타나더라는 것을 말하고 있습니다.
그렇다면 예수 그리스도의 삶과 죽음을 전가 받은 그리스도인들이 이 땅에서 행해야 하는 선한 일은 어떤 일일까요? 단순히 사랑하고 용서하고 인내하고 구제하는 일일까요? 그렇다면 하나님은 절대 바리새인들을 정죄 하실 수 없으십니다.
성경이 성도들에게 요구하고 있는 선한 일은 바리새인들도 할 수 있었던 그런 도덕적이며 윤리적인 삶은 아닙니다.
물론 성경이 말하는 선한 일이 도덕적이며 윤리적인 삶과 전혀 무관한 것은 아닙니다.
그러나 단순히 그런 착한 일만을 말하는 것은 아닌 것입니다.
그럼 성도들에게 나타나야 하는 선한 일은 어떤 일일까요?


(행10:38)
38 하나님이 나사렛 예수에게 성령과 능력을 기름 붓듯 하셨으매 저가 두루 다니시며 착한 일을 행하시고 마귀에게 눌린 모든 자를 고치셨으니 이는 하나님이 함께 하셨음이라


여기 보면 예수님께서 착한 일을 행하셨다고 나오지요.
이게 선한 일과 정확히 같은 단어입니다.
잘 보시면 그 착한 일이 어떻게 나오게 되었는지가 그 앞에 적혀 있습니다.
뭡니까? 하나님께서 성령과 능력을 부으시니까 착한 일이 나오는 것입니다.
그러니까 성경이 말하는 착한 일은 성령을 받은 자들이 성령에 의해 이끌려 사는 삶을 말하는 것입니다.
성령은 우리에게 오셔서 무슨 일을 하시지요?


(요15:26)
26 내가 아버지께로서 너희에게 보낼 보혜사 곧 아버지께로서 나오시는 진리의 성령이 오실 때에 그가 나를 증거하실 것이요
(요16:7-8)
7 그러하나 내가 너희에게 실상을 말하노니 내가 떠나가는 것이 너희에게 유익이라 내가 떠나가지 아니하면 보혜사가 너희에게로 오시지 아니할 것이요 가면 내가 그를 너희에게로 보내리니
8 그가 와서 죄에 대하여, 의에 대하여, 심판에 대하여 세상을 책망하시리라
(요16:13)
13 그러하나 진리의 성령이 오시면 그가 너희를 모든 진리 가운데로 인도하시리니 그가 자의로 말하지 않고 오직 듣는 것을 말하시며 장래 일을 너희에게 알리시리라


성령은 우리에게 오셔서 진리가 무엇인지 그리고 예수 그리스도가 누구 신지를 깨닫게 하시고 죄와 의와 심판이 무엇인지를 알게 하시며 장래에 이 세상이 어떻게 끝이 날 것인지를 알게 하신다는 것입니다.
그러니까 성경이 말하는 선한 일, 착한 일은 도덕적이며 윤리적인 행위에 앞서 하나님을 바로 알고 예수 그리스도를 바로 알아가며, 우리 인간의 장래가 어떻게 결론지어질 것인지를 깨달아 불 타 버릴 이 세상에서 눈을 돌려 저 하늘에 소망을 두고, 우리에게 그 엄청난 은혜의 선물을 안겨주신 하나님만을 의지하고 그 분께 순종하는 삶을 사는 것, 다른 말로 삶의 원리를 내가 죽어 하나님과 이웃이 덕을 보는 십자가의 삶으로 바꾸어 사는 것을 착한 일이라고 하는 것입니다.
그런데 그 착한 일은 해도 되고 안 해도 되는 일이 아니라 그리스도인의 삶 속에서 반드시 나와야 한다고 말씀하십니다.
왜냐하면 그 착한 일은 우리가 우리의 의지로 시작하는 일이 아니라 하나님께서 우리가 그 착한 일을 하게 만들어 버리시기 때문에 우리는 반드시 자신을 부인하고 세상을 부인하며 하나님께 순종하는 사람들로 지어져 가게 되어 있는 것입니다.


(빌1:6)
6 너희 속에 착한 일을 시작하신 이가 그리스도 예수의 날까지 이루실 줄을 우리가 확신하노라


보세요.
여기도 똑같은 단어가 나옵니다.
우리 속에 착한 일을 누가 시작하셨다고 합니까? 하나님이십니다.
하나님께서 우리 안에 착한 일을 시작하셨기에 우리의 삶 속에서 성령을 좇아 사는 착한 일이 반드시 나와야 하는 것입니다.
그렇게 하나님께서 우리 안에서 행하시는 착한 일을 우리는 ‘새 창조의 진행’‘구원의 현재시제’ 이렇게 부르기도 하는 것입니다.
그렇게 성령에 의해 이끌려 사는 사람들의 삶 속에서 가시적인 열매로 맺히는 것이 사랑, 희락, 화평, 온유, 절제, 오래 참음 같은 것들인 것입니다.
우리는 성령의 오심으로 인해 하나님을 알게 되고 죄에 대해 의에 대해 심판에 대해, 그리고 장래 일에 대해, 구원에 대해 점차 깊이 알게 됨으로 ‘나에게 그렇게 감당할 수 없는 은혜를 허락하신 하나님의 기쁨이 되는 삶을 자발적으로 추구하게 되는 것이고, 이 세상에서 점차적으로 저 하늘로 눈을 돌리게 되는 것입니다.
그 하나님이 계신 곳이 천국입니다.
그래서 우리는 그 하나님이 계신 곳을 오매불망 기대하고 있는 것입니다.
천국이 너무 좋은 곳이라고 기다리는 것이 아닙니다.
하나님이 너무 좋아 그 분을 오매불망 기대하고 있는 것입니다.
그리고 때때로 내 안에 계신 하나님을 감지하며 이곳에서도 그 천국을 조금 씩 맛보며 사는 것입니다.
그 사람들이 선한 행위를 하는 사람들이고 그 사람들이 심판을 면할 사람들인 것입니다.
천국은 혹자들이 생각하는 것처럼 휘황찬란한 보배로 지어져 있는 그런 곳이 아닙니다.
예전에 여의도에 계신 어떤 목사님께서 번역을 하시고 추천을 하셔서 베스트셀러가 된 책이 있습니다.
내가 가본 천국이라는 책입니다.
거기에 보면 천국에 갔더니 이 세상에서 헌금도 안 하고, 봉사도 안 하고, 전도도 별로 하지 않은 사람들은 집도 없이 집단 수용소에서 생활을 하고 이 땅에서 많은 일을 한 사람들과 많은 헌금을 한 사람들은 맨션아파트에 살더라는 대목이 있습니다.
그런데 그 맨션은 화장실 변기가 금으로 되어 있더랍니다.
여러분, 화장실 변기가 금으로 되어 있으면 차가워서 치질에 걸립니다.
후세인 이라크 대통령의 대통령 궁도 원래 변기가 금이었는데 어떻게 데울 방법이 없어서 금도금으로 바꾸었답니다.
천국이 후세인도 만들 수 있는 그런 곳이겠습니까? 이 땅에서도 얼마든지 만들 수 있는 그런 것을 우리가 왜 굳이 소망해야만 합니까?
그런데 그 당시 신유은사로 한국을 주름잡던 현 모 권사님이 ‘천국에 갔더니 그 여의도에 계신 목사님은 천국에 없더라.‘ 그러는 바람에 두 분 사이가 아주 험악해 졌었지요.
이게 무슨 코미디입니까? 진짜 삼층 천에 다녀온 바울은 그 곳은 사람의 말로는 도저히 표현을 할 수 없다고 했습니다.
이 땅의 것들 중에 그 천국과 비교해서 설명할 수 있는 것들이 없기 때문에 도저히 사람의 말로 설명이 안 된다고 했습니다.
그런데 오늘날 천국에 갔다 왔다는 사람들은 웬 말들이 그렇게 많은지 모르겠습니다.
다 거짓말입니다.


천국은 나를 그 무시무시한 백 보좌 심판에서 건져주신 하나님이 계신 곳입니다.
그래서 우리는 그 곳을 오매불망 기대하고 바라는 것입니다.
그 하나님을 알아 가십시오.
그리고 하나님의 백성들이 반드시 행해야 하는 선한 일이 여러분에게서 나오고 있는지 확인하십시오.