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罪の代価

cocoa 2026. 2. 13. 16:41

 

 

<質問>

  1. イエス様を信じて救い主として告白した場合、

イエス様の血によって私たちのすべての罪は赦されたと信じています。

しかし、私たちが犯した罪には当然、代価を払う必要があると言う方が多いです。

代価を払うということは、赦されていないということではないのでしょうか?

  1. 旧約聖書を現代にどのように適用し、理解すべきでしょうか?
    ある部分は廃止され、なくなったと理解されますが、
    ある部分はそのまま受け入れ、順守すべきとも言われます。

イエス様が来られた後、この恵みの時代に、
旧約聖書をどのように理解し、適用すべきか教えてください。


<回答>

ローマ人への手紙 8章1-2節には次のようにあります。
「だから、キリスト・イエスにある者には、決して咎めはありません。
なぜなら、キリスト・イエスにある命の御霊の律が、罪と死の律からあなたを解放したからです。」

パウロの宣言のとおり、信者はキリスト・イエスにあって、罪と死から解放された存在です。
したがって、決して咎められることはなく、罪の代価を払う必要はありません。

罪に対して代価を払う必要があるとする考えは、おそらく罪を原罪と自分の犯した罪(自罪)に分け、
原罪はイエスの血によって赦されたが、自罪については代価を払わなければならない、という意味であるように思われます。

しかし、罪は原罪と自罪に区分されるものではありません。
自罪と言われるものは、人間を支配している罪の本性が、状況や環境に応じて現れる実体に過ぎません。

したがって、キリスト・イエスにある者に咎めがないということは、
人間のすべての罪に対する赦しが宣言されていることを意味し、信者が支払うべき罪の代価は存在しないのです。

このことについて、「赦されているなら自由に罪を犯せるのか」と言う人もいます。
そのため、罪に対して代価を払う必要があるという話が出ることもあります。

人間は自分の力で罪を制御することはできません。
「自由に罪を犯せる」ということは、心次第で罪を犯さないこともできるという意味になりますが、人間はそうできないのです。

したがって、「咎めなし」との御言葉で信者が理解すべきことは、
キリストの赦しの恵みであり、その恵みを尊び、感謝することです。
私たちが生きるのは自分の力ではなく、赦しの恵みによることを告白すること、
これが赦しの恵みの下にある信者に求められる神の御心です。

また、旧約聖書については、一部が廃止され、一部が今も適用されるという区分はありません。

マタイの福音書 5章17-19節には次のようにあります。
「わたしが律法や預言者を廃するために来たと思ってはいけません。
廃するためではなく、成就するために来たのです。
まことに、天地が滅びるまでは、律法の一点一画もなくなることはなく、すべて成就するのです。
だから、これらの戒めのうち、最も小さいものでも破り、そう教える者は天国で最も小さい者と呼ばれます。
しかし、それを行い、教える者は天国で大いに称えられるでしょう。」

律法や預言者を廃するために来られたのではなく、成就するために来られたとは、
イエス様が来られたことで律法が完成したことを意味します。
言い換えれば、律法が指し示す中心はキリストであり、
キリストの来臨によって律法の役割が完成したということです。

したがって、旧約の律法について、あるものは廃止され、あるものは廃止されず今も適用される、
という考え方は、旧約聖書から教会運営に役立つものだけを利用するという意図に過ぎません。

例えば、旧約で言われる過越祭やヨベルの年は廃止されたと言うでしょう。
律法どおりに過越祭やヨベルの年を守ることはできないからです。
しかし、十分の一や麦の収穫祭、果物の収穫祭、つまり感謝祭は今も守るべきだと言うでしょう。
なぜなら、すべて捧げることに関わっているからです。

旧約はすべてキリストとつながっています。
旧約の中心は、キリストを送られることを計画し、契約された神の御約束であり、
その約束がキリストの来臨によって成就されるべきものです。
つまり、十字架が中心であるべきなのです。

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