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講解説教/主の祈り

3.主の祈り (マタイ 6:9-13)

cocoa 2026. 3. 14. 18:53

3.主の祈り (マタイ 6:9-13)

御言葉を分かち合いたいと思います。本日はマタイによる福音書6章9節から13節までの御言葉です。「主の祈り」の第3回目。見つけられましたら、共にお読みしましょう。

 

(マタイによる福音書 6:9-13)

9 ですから、あなたがたは、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。

10 御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように。

11 私たちの今日の日ごとの糧をお与えください。

12 私たちの負い目をお赦しください。私たちも、自分に負い目のある人たちを赦しました。

13 私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください。』〔国と力と栄光は、とこしえにあなたのものだからです。

 

先週は「御名があがめられますように(神の御名が聖とされますように)」について御言葉を分かち合いました。神の御名が聖とされる唯一の方法は、神の民の救いを通してのみ可能であることを共に確認しました。今週は、「御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように」という、残りの「あなたへの願い(thou petition)」について学んでいきましょう。

 

「御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように」は、同じ文脈から辿ることができます。「御国が来ますように(ナライ・イマオプシミョ)」という言葉は、「国が臨むようにしてください」という意味です。これは(韓国では)朝鮮時代に翻訳されたものなので、助詞も非常に独特なものが付いていますね。「国が(ナライ)」という風に付いています。

 

ところで、その国とはどのような国でしょうか。ギリシャ語の原典を見ると、「エルテト・ヘ・バシレイア・ス(ἐλθέτω ἡ βασιλεία σου)」となっています。「バシレイア(βασιλεία)」、王国です。「ス(σου)」、所有代名詞が付いていますね。「Thy kingdom come(御国が来ますように)」です。ですから、その国は私たちが作る国ではなく、「神の国」なのです。「キングダム(kingdom)」だということです。「リパブリック(republic:共和国)」ではなく、「キングダム」なのです。

 

王である神が治め、その民が統治に従う国だということです。その神の統治に従う心がない者は、入ることができません。ですから、その神の国は、民衆が主人となり、民主主義が通用するような場所ではなく、王が治め、民はその王の統治に従う、その国を指しているのです。ゆえに、神の統治に従う心がない者は、絶対に入ることのできない国こそが、神の国なのです。

 

皆さん、李舜臣(イ・スンシン)将軍の『乱中日記』を読まれたことはありますか。文禄・慶長の役(壬辰倭乱)当時、李舜臣将軍が書いた日記をまとめた本です。そこに、皆さんもよくご存知の次のような詩があります。「閑山島の月明かりの夜、守楼に独り座り、大きな刀を腰に差し、深い憂いに沈んでいる時、どこからか聞こえる一筋の笛の音が、私の断腸の思いを誘う」という詩がありますね。

 

今でも慶尚南道の統営(トンヨン)に行けば、李舜臣将軍がその詩を詠んだ制勝堂(チェスンダン)の跡があります。月が煌々と明るい夜、南海の海を見下ろす守楼で、深い憂いに沈んでいる李舜臣将軍を想像してみてください。さらに、その夜に、どこからか一筋の笛の音が聞こえてくると考えてみてください。そこで李舜臣将軍は、はらわたがちぎれるような(断腸の)思いを感じたと言いますが、将軍の心をそれほどまでに苦しめたものは何だったのでしょうか。一般に知られているように、戦争による心配だったのでしょうか。彼の心を抉ったその悩みは何だったのか。それはまさに、人生に対する問いでした。「私は一体どこから来てどこへ行くのか。なぜこの地を、このように選択の余地なく生きていかなければならないのか」という問いでした。『乱中日記』をよく見ると、李舜臣将軍は戦争をむしろ感謝すべきことと考えていました。絶えず人生に対する問いが湧き上がってくるのですが、李舜臣将軍はその問いを忘れさせてくれる戦争を、ある意味で楽しんでいた人なのです。

 

朝鮮最高の天才と言われる梅月堂(メウォルタン)・金時習(キム・シスプ)をご存知ですか。3歳で既に字をすべて覚え、小學をマスターし、韓国最初の小説『金鰲新話(クモシナ)』を書いた生六臣の一人です。おそらく朝鮮最高の天才と称された人物でしょう。その人が晩年にこのような詩を書きました。「狂ったように古人に問う。私は一体どこから来てどこへ行くのか。なぜ誰も私に答えてくれないのか。狂ったように古人に問う。私は小學を読み、大学を読み、論語を読み、孔子を読み、孟子を読み、老子・荘子を読み、仏経を読んだが、そこではなぜ誰もこの人生に対する問いに答えてくれないのか」という内容です。そして彼は、そのように苦しみながら死んでいきました。

 

このように真理を求めて去っていった先祖たちがたくさんいます。このようなケースを見ながら、血気盛んで疑い深い人々が、こんな質問をします。「そういう人たちにイエスがもう少し早く伝わっていれば、彼らもすぐに真理を悟って、天国に行けただろうに……!」アンフェア(unfair)だと言うのです。本当にアンフェアなのでしょうか。イエス様が再び彼らの生きた時代に来られたとしたら、彼らは果たしてイエスを信じることができたでしょうか。彼らがそれほど努力して真理を探し、熱心に求めたからといって、彼らは真理を発見できたでしょうか。

 

皆さん、ルソーのような人はですね、真理を求めて彷徨いながら、聖書を100回通読した人です。そのような偉大な思想家が、元々はキリスト教徒だったのです。彼は聖書を創世記から黙示録まで100回読んだ人です。この場にいらっしゃる方の中で、聖書を最初から最後まで一度でもまともに読んだ方が何人いらっしゃいますか。彼は100回読みました。そうして100回読み、彼が下した結論は、『社会契約論』や『Why I am not a Christian(なぜ私はキリスト教徒ではないのか)』といった著書の中で、キリスト者と、キリスト教と、イエス・キリストを痛烈に批判して死んでいったのです。

 

ベンジャミン・フランクリンという人は、アメリカの偉大な思想家であり、避雷針を発見した科学者です。彼もまた真理を求めて彷徨いました。そして当時「黄金の口」と広く知られていたジョージ・ホウィットフィールドの集会に参加しました。そして彼は真理についてジョージ・ホウィットフィールドと議論し始めました。ジョージ・ホウィットフィールドは、そのように真理を求めて彷徨うベンジャミン・フランクリンと、何日も共に過ごし、寝食を共にして、イエスを語り聖書を語りました。あの偉大なリバイバリストであり説教家であったジョージ・ホウィットフィールドが、イエスを説明し聖書を説明したにもかかわらず、ベンジャミン・フランクリンはイエスに出会うことなく、死んでいったのです。

 

私の大学の先輩に金芝河(キム・ジハ)という詩人がいます。その大学の先輩は以前、「五賊(オジョク)」「燃える喉の渇きで」といった詩を書いて、人生の半分をほぼ監獄で過ごしたような先輩です。人々がその先輩を思い浮かべる時、民衆抗争、民主化闘争、といったイメージを抱くのですが、その方がいざ酒の席で打ち明けた悩みは、人生に対する、真理に対する問題でした。「一体、真理とは何なのか。一体、私はなぜこの地をこのように生きていかなければならないのか」という問いでした。彼はカトリック教徒で、洗礼(領洗)を受けた人でした。ですから監獄にいた時間の大部分を、理念的な書籍を読むのではなく、聖書、仏経、そういった宗教書を読むことに多くの時間を費やしたそうです。

 

そのように真理を求めて彷徨った先輩が、最近『仏教評論』という雑誌で、編集主幹である高麗大の趙聖澤(チョ・ソンテク)教授と対談を行いました。「私は東学党だ。そして私のルーツは仏教である」と言っています。そして「律呂(ユルリョ)思想・生命運動・ヨギサール」という概念に傾倒しています。「ヨギサール」という概念は、内面に平和を維持しながら、外へと社会的変化を追求するような運動です。そうした概念で頭がいっぱいなのです。

 

このように、真理を熱心に探し求めたからといって、彼ら全員が真理を発見できるわけではないのです。重要なのは、そのような当代の天才たちが、あれほど熱心に真理を求めて彷徨ったにもかかわらず、イエスを知ることができないのに、私にはそのイエスが今信じられているということです。皆さんはこの場にどのようにして座っておられますか。皆さんは彼らよりも熱心に真理を求めて彷徨いましたか。皆さんは彼らよりも努力して、人生について悩みましたか。皆さんが何か、彼らより優れたことをしたことがありますか。それなのに、皆さんはどうやってこの場に来て、イエスを信じているのですか。

 

誰がイエスを受け入れることができますか。創世の前に神がその名を呼んだ者たち以外には、絶対にイエスを知ることもできず、イエスを理解することもできないのです。李舜臣将軍の時代に、金時習の時代に、姜増山(カン・ジュンサン)の時代に、イエス・キリストが再び降臨されたとしても、創世の前に選ばれなかった人間たちは、イエスを知ることはできないのです。

 

私たちは、地獄に行く人々について、彼らは地獄に行きたくないのに、私たちが怠慢で福音を伝えなかったから、彼らが福音を聞けなかったせいで地獄に行くのだと考えがちです。違います、皆さん。罪人は、地獄に行きたくて行くのです。「そんな馬鹿な。地獄に行きたい人なんてどこにいるのか」と、心の中で問いかけている方もいらっしゃるでしょう。

 

皆さん、罪とは何ですか。罪とは、神の統治を嫌って、神を神の座から引きずり下ろし、自分がその神の座に座って、「自分の人生は自分で責任を持つ!」とすることから始まるのではありませんか。ですから罪人たちは、あの天国で神の統治を受け、神が正しいと言うことを正しいと認め、神が誤っていると言うことを誤っていると認める、そんな天国で暮らすのが嫌なのです。いっそ地獄に行って、たとえ苦痛を受けたとしても、自分の思い通りに、自分の意のままに生きたいと願うのが罪人なのです。神が私たちの目を開かせ、私たちを新しい人として再創造してくださらなければ、私たちは絶対にその神の統治に順従することができない者たちなのです。ですから、私たちは皆、その地獄に行きたくて行くのです。

 

ところが私たちは、恵みによって、このようにこの場に座って、イエスを信じているのです。神の統治がある場所。神が治められる場所。神が王である場所。そこを私たちは「神の国」と呼び、「天国」と呼ぶのです。

 

皆さん、誤解されているのは、天国といえば、ただあまりにも美しくて、片腕を上げれば500年、片足を上げれば200年(というほど素晴らしい時間が流れる)、といった場所だとばかり思っていますが、そうではありません。そこで皆さんは賛美をしなければならず、祈りをしなければならず、そこでは労働をしなければならないかもしれません。天国とは、まさに神の統治がある場所です。神が治められる場所。その恵みの神、その愛の神と共にいる場所を、私たちは天国と呼ぶのです。民主主義共和国ではない場所です。民衆が主人となり、民主主義によって動かされる国ではないのです。神が治め、神が統治される場所。そこを私たちは「天国」と言うのです。ですから、私たちが「御国が来ますように」と祈ることは、その神の統治が私たちの間に臨むことを祈ることなのです。

 

しかし皆さん、礼拝堂の中で自分の願いだけを、自分の思いだけを、固執する人々がいますよね。皆さんはどうですか。「神様、私のポケットはなぜこんなに空っぽなのですか。神様、私の体はなぜこんなに病んでいるのですか。神様、なぜ私の家庭に、このような不幸があるのですか」と問う前に、「神様、一体正気なのですか、どうなのですか。私のポケットはこんなに空です。私はこんなに熱心に信仰生活をしているのに、神様、今何をしているのですか。私のポケットを早く満たしてください! 私の病気を早く治してください! 私たちの家庭を早く回復させてください!」そのように自分の思いと自分の願いだけを主張する人々。

神の国で生きることができる神の民とは、どのような人だと言いましたか。神の統治に順従し、神の支配に順従する者です。では、自分の思いだけを固執する者とは、誰ですか。地獄に行きたくて努力している者たちです。

 

皆さん、もしそのような方がいらっしゃったら、この地上でもただよく食べてよく暮らし、ただ善良によく暮らし、この地上でただお金をたくさん稼いでよく食べてよく暮らし、やりたいことを全部やってから、そのように去ってください。そのような方は絶対に天国に行けません。この地上でもやりたいことができず、地獄まで行ったら、どれほど不幸ですか、皆さん。

 

キリスト者。神の民。あの神の国に住むことができる神の民は、神のみこころと神の統治に順従する者たちだということです。その神の国は、全面的に神によって作られた国を指します。天から降ってくる、神によって建設された国を指すのです。神から生まれた者たちだけが、その国の民になることができます。ヨハネの福音書1章12節にいきます。

 

(ヨハネの福音書 1:12-13)

12 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。

13 この人々は、血によってではなく、肉の望むところでもなく、人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。

 

どこから生まれたと? 「神によって生まれた者」です。ただ神によって生まれた者たちだということです。私たちが真理を探そうと努力し、力を尽くしたからといって、見つかるものではないのです。神が創世の前に選んだ者たち以外には、その真理を悟ることはできず、神から生まれた者でなければ、彼らは神の民にはなれないのです。

 

皆さん、マタイの福音書には最後の系図が出てきます。アブラハムからダビデまで14代。ダビデからバビロン捕囚まで14代。バビロン捕囚からイエス様まで14代と記されています。14は7が二つですね。7・7、7・7、7・7。7が六つあります。

 

神の完全な安息の数字である7。それが満たされるためには、もう一つの世代が来なければなりません。さて、このイエス・キリストが、人間の肉の系図の最後の人となられました。イエス様はまさに、この人間の系図、肉の系図の終わりなのです。そしてイエス様がターニングポイント(turning point)となられ、最後のあの安息の世代、七番目の世代の始まりとなられますが、その方はどのようにお生まれになりましたか。聖霊によってお生まれになったのです!

 

残りのその七番目の世代の人々は、皆、聖霊によって生まれなければ、その世代に属することはできないということです。最後のその七番目の世代は、天から生まれた者たちだけが、その七番目の世代になれるのです。「アノーテン(ἄνωθεν)」、上から新しく生まれなければ、絶対に彼らは神の民にはなれません。ですから、その国は私たちが発展させて作れるものではなく、天から臨まなければならない国なのです。

 

皆さんと私は新しく生まれた者として、あの天から臨んだ天国の民です。ですから、私たちはこの地上を旅人として、寄留者としてしか生きることができません。私たちは天の民であるため、この地の原理で生きることができる者たちではないのです。その天国に属する天国の民が、願うべきことはどのようなものであるべきでしょうか。天に属する人々が、世俗的なものにばかり執着しているとしたら、これほど滑稽な話があるでしょうか、皆さん。

 

私たちはそのように天国の人々であるため、この地上のものをどれほど享受しているかによって、私たちの真価を示すことはできないのです。私たちがどれほど神の真実な民であるかは、私たちがどれほど成功裏にこの地上を生きているかによって、評価されてはなりません。私たちは神の国の民ですから、どれほどイエス・キリストの形に似ていっているかによって評価されるべきなのです。

 

それにもかかわらず、礼拝堂の中でも、そのような世俗的なものでキリスト者の真価を測定し、評価する人々がいかに多いことでしょうか。私たちが、もし家庭が不幸になったり、ビジネスが苦しくなったりすると、どうしてその人々に向かって指を指すのですか。「あの人は神様の前で何か、解決されていないことがあるのかもしれない。あの人の信仰には何か、足りないところがあるのかもしれない。信仰が幼いから苦難に遭っているのだろう」と考える人々が意外と多いのです。

 

いいえ。キリスト者はですね、彼らがどれほど成功裏にかっこよく、他人の前で立派に生きているかによって、彼らの真価が現れるのではありません。彼が神の真実な民であるかないかは、彼がいかにイエス・キリストの形に似ていっているかによって評価されなければならないのです。私たちが属する王国が、この世にあれば、私たちの真価は当然、この世のもので現れるのが正解です。しかし、私たちが属する王国は、天にある天国です。ですから、私たちの実(結実)は、天国のものとして現れなければならないのです。

 

それなのに、どうして私たちは、あともう少しすればすべて置いていき、壊して上がらなければならない、この地上の自分の業績や自分の財産にばかり、それほど関心を持つことができるのでしょうか。そのような人は、まだ天国が何であるか、自分が天の王国の民であることを正確に認識できていない人々です。私たちは神の王国の民として、その国が来るように祈らなければならない者たちです。しかし、聖書はその国が「既に臨んだ」と言っています。マルコの福音書1章15節にいきます。

 

(マルコの福音書 1:15)

15 「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」

 

ここで「近くなった」というギリシャ語原典の「エンギゾー(ἐγγίζω)」はですね、マタイの福音書26章にそのまま使われています。「立ちなさい。さあ、行くのだ。見なさい。わたしを裏切る者が近くに来ている(エンギゾー)。」ここで「近くに来ている」とは、ユダが来たということです。ですから、この「エンギゾー」、神の国は既にこの地上に来ているのです。

 

しかし、どのように、いつ、どこに来ていますか。皆さん、見えますか、今。神の国はどこにありますか、今。ルカの福音書17章20節にいきます。

 

(ルカの福音書 17:20)

20 さて、神の国はいつ来るのかとパリサイ人たちに問われたとき、イエスは答えて言われた。「神の国は、人の目で捉えられるような形で来るものではありません。

21 『見よ、ここだ』とか、『あそこだ』とか言えるようなものでもありません。神の国は、あなたがたのただ中(内)にあるのです。」

 

神の国はどこにありますか。「あなたがたのただ中(内)にある」というのです。皆さん、国家の三要素は何ですか。国民、主権、領土ではありませんか。国民は? 神の民、皆さんがいます。主権は? 神の統治です。皆さんは神によって再創造されたので、今は神の統治に従わざるを得ない者たちになっていますね。ですから、神の統治が皆さんの中にあります。その統治があり、神の民がいて、神がいらっしゃる場所が、神の領土ではないでしょうか。ですから、まさに皆さん自身が「神の国」なのです。皆さんの中にその神の国は、既にきているのです。

 

私は、この「主の祈り」をギリシャ語で読んでいて、ふと面白いものを一つ発見しました。主の祈りの中に使われている動さが、すべて過去時制(アオリスト)なのです。「天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように」も過去ですし、「御国が来ますように」も過去、「みこころが天で行われるように地でも行われますように」も過去、「今日の日ごとの糧をお与えください」も過去です。全部過去なのです。

 

ギリシャ語には、「アオリスト」という不定過去の時制があります。その不定過去は、過去の特定の、例外的な出来事を指す時によく使われます。ところが、この「アオリスト」が命令形(imperative)で使われる時には、非常に重要な意味があることがわかりました。

 

そこで、私はこの面白い発見をして、私の心の同志たち、数少ない、熱心に勉強されている牧師仲間たちに電話をしました。そして「非常に面白いことを発見した。主の祈りをギリシャ語で読んでみたか? そこに使われている動詞がすべて過去だ」と言いました。すると向こうで「お、本当だ。実に面白い」と言うのです。これはどういう意味だろうか。私たちは一日中調べました。モルトンの文法書(Grammar)まで全部ひっくり返しながら!

 

一体これがどういう意味なのか。なぜここで過去の時制が使われているのかを探しました。そうしながら、私たちはこんな話をしました。冗談まじりに「なあ、私たちが単語一つを持ってこうして一日中悩んでいることを、信徒たちは知っているかな?」皆さん、ご存知ですか。皆さんも。私たちがそのようにアオリスト命令法で使われた動詞を聖書からずっと探してみたところ、そのアオリスト命令法の動詞はすべて、過去の意味と、現在の意味と、エスカトロジカル・ミーニング(eschatological meaning)、つまり未来の意味までの、三つの意味をすべて内包しているというのです。

 

ですから、私たちが今「御国が来ますように」と祈るその単語一つには、過去にその国は既に臨み、今私の人生の中でその国は成し遂げられていっており、未来にその国は必ず来るだろうという、「Already, not yet(既に、いまだ)」の教理が、その単語一つにすべて入っているのです。

 

私たちは、その国が来るように祈りながら、自分たちの身分を確認するのです。「そうだ。私たちはその国の民だ。そしてその国は既に臨んでおり、必ず来るものであり、今私の人生の中で成し遂げられていっている」と。あの神の統治を心底嫌っていた私の人生の中に、その統治に従う者として、少しずつ、少しずつ自分が変えられていっていることを確認するのです。

 

皆さん、私たちはこの地上で天国を生きなければならない、天の原理で生きなければならない者たちであるため、患難や苦難が当然私たちに訪れます。なぜ患難や苦難が来るのでしょうか。この世の原理は、右の頬を叩かれたら、その屈辱感が消えるまで、相手を殴り倒すのが、この世の原理です。この世の原理は力(パワー)ですよね? 財力、学歴、外見、名誉。その力以外には、この世で誰が優秀な者であるかを判別することはできません。それを力で相手を制圧しなければなりません。

 

しかし、天の原理はですね、右の頬を叩かれたら、左の頬も向け差し出すのが天の原理です。このように、私たちは霊的な面で、世の中は肉的な面で、異なる次元、異なる原理で生きなければならない者たちであるため、世の中とぶつかるしかないのです。自分のすべての望みがこの世での面目にあれば、どうして頬を叩かれて黙っていられますか。その面目を保つためにでも、行って殴り倒してやらなければならないでしょう。自分が臆病者ではないことを見せなければならないのです。そのように認められてこそ満足できます。

 

しかし、自分のすべての望みが、あの天国にあるならば、「そんな面目くらい、少し潰れても大丈夫だ」と言って行くのです。私たちはあの天国のもので満足できる者であり、それゆえその国に与った者ですから、私たちはこの地上で患難や、迫害や、苦難に遭っても大丈夫だ! そんな実力者にならなければならないのです。皆さん、私たちの天国の民は、天のもので満足して生きなければならない者たちです。

 

なぜ人々はお酒、タバコ、ギャンブル、麻薬をするのでしょうか。その心の中に満たされない、満足できない空虚を埋めるためではありませんか。その寂しさを埋めるためなのです。その心の中にぽっかりと開いた空虚を何を持ってしても埋めることができないため、人々は何かを熱心にします。恋愛をしたり、勉強をしたり、熱心にお金を稼いだりします。それでも埋められないのです。

 

私たちキリスト者は、金曜日に確認したじゃないですか。あのファミリー・ナイト・パーティーで、私たちはお酒を飲まず、タバコを吸わず、他の世俗的なものを動員しなくても、いくらでも楽しく生きていけるということを如実に示してきたではありませんか。

 

皆さん、恵みに酔えば、この世の他のものに酔うのとは比較できない喜び(喜悦)があります。恵みに酔っているのに、なぜギャンブルの場に行くでしょうか。恵みに酔っているのに、なぜ酒の席に行って寂しさを紛らわすでしょうか。ですから、私たちに患難や窮乏、苦難や迫害が来ても、大丈夫だということです。私たちはまもなくあの天国に行くのですから、「その程度なら大丈夫だ。私は耐えられる」として行くのです。ですから、聖書にこのように記録されています。黙示録1章9節。

 

(ヨハネの黙示録 1:9)

9 私ヨハネは、あなたがたの兄弟であり、イエスにある患難と御国と忍耐とに、あなたがたとともにあずかっている者であって……。

 

「イエスの患難と御国と忍耐とにあずかっている者だ」と記録されています。患難と御国と忍耐は「イコール(等式)」です。皆さん。イエスの患難とイエスの御国とその忍耐は、同時に私たちに訪れるということです。神の国にあずかった神の民は、あの天の原理で生きなければならないため、この地上で患難に遭うようになっているのです。このジレンマを解決できるのが、忍耐です。耐えること。

 

ですから、イエスの御国と、忍耐と、患難は、同時に私たちに来るのです。「あなたがたは今、患難に遭っているが、あなたがたはその神の国を信仰によって見たのだから、耐えなさい!」 神は私たちにそう仰っているのです。「しかし、必ず来る。世界のすべての民族と国語と国々が、いやサタンまでもが、神の御名を聖なるものと認める日は必ず来る。だから、もう少しだけ耐えなさい!」 そのために、私たちは「御国が来ますように」という祈りをしながら、確認し、確信し、力を得るのです。その国は必ず来る。そして既に私に臨んでいる! それを確認するのです。

 

併せて、それと同じ脈絡で、「みこころが天で行われるように、地でも行われますように」と祈ります。神のみこころとは何でしょうか。神が、神の民と永遠に共に住む神の国を成し遂げることが、まさに神のみこころではありませんか。そのみこころは、既に私たちが確認したように、成し遂げられています。そして成し遂げられるでしょう。

 

では、神のそのみこころは、どうせ神が成し遂げられるというのに、私たちがその神のみこころが成し遂げられるように祈らなければならない理由は何ですか。C.S.ルイスは、この世には二種類の人々がいると言います。一種類の人々は、神に「あなたのみこころが行われますように(Thy will be done)」と祈る人々であり、もう一種類の人々は、神が彼らに「おまえのみこころが行われるように(Your will be done)」と放置しておく人々だというのです。「Your will be done。おまえの好きに生きろ。そう、おまえの思い通りに生きろ。よし、サタンよ、あいつの望む通りに行って手助けしてやれ。自分の思い通り、自分の気の済むように生きさせてやれ」と。

 

神が人間を最も残酷に呪う方法が何かご存知ですか。その思い通りに、その願い通りに生きるように放置しておくこと。それこそが、神が人間を最も残酷に呪う方法です。ローマ人への手紙1章24節にいきます。

 

(ローマ人への手紙 1:24, 28-32) 24 それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡されました。そのために、彼らは互いに自分のからだをはずかしめるようになりました。(心の欲望のままに汚れに放置されたので、自ら自分の体を恥ずかしめるようになったのです。28節にいきます。) 28 また、彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを、良くないことをするような、不適当な心に引き渡されました。 29 彼らは、あらゆる不義、悪徳、むさぼり、悪意に満ち、ねたみ、殺意、争い、欺き、悪だくみにあふれ、陰口を叩く者、 30 誹謗する者、神を忌み嫌う者、不遜な者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事を企てる者、親に逆らう者、 31 分別のない者、約束を破る者、情のない者、慈悲のない者です。 32 彼らは、そのようなことを行っている者たちが死に値するという神の定めを知っていながら、自らそれを行っているだけでなく、それを行う者たちを是認しているのです。

 

神が、その欲望のままに引き渡されたので、放置されたので、彼らの思い通りに生きるように放っておかれたので、まさにこのように死を受けて当然の人間たちになったというのです。皆さん。親がですね、子供を育てながら、ある瞬間諦める時があります。朝、学校にも行かず、毎日ゲームセンターに行き、10時になっても11時になっても寝てばかりいるような子供を、皆さん、黙って見ていられますか。水を浴びせかけてでも、叩き直すでしょう。

 

しかし、何度やっても、やっても、やってもダメな時、最後はどうしますか。「わかった、お前の好きなように生きなさい。お前の人生、お前が生きるものであって、私が生きるものか。そう、お前の思い通りに生きなさい。眠りたいだけ好きなだけ眠り、学校に行きたくなければ行かなくていい」 これは、本当にその親がその子供をあまりにも愛しているから、その子供の望む通りにしてあげているのでしょうか。それはその親が、その子供を諦めることなのです、皆さん。

 

私が演壇(講壇)で声を張り上げるからといって、後ろでこそこそ言わないでください。「うちの牧師さんは、なぜあんなに声を張り上げるのか」と。皆さん、正しく生きられていないではないですか。キリスト者として、まともに生きておられますか。生きておられないから! 私も同じです。私もまともに生きられていないからこそ、神の言葉が宣言される時に、声を張り上げるしかないのです。「正しく生きましょう! 神のみこころ通りに生きましょう! 聖書が語る通りに生きましょう!」と。

 

ある日私が、声を潜めて、魅力的な低音で、「皆さん、生きるなんてそんなものですよ。まあ、お金をたくさん稼いで、よく食べてよく暮らし、善良に生きて、そうして去っていきましょう。それから、月給は遅れずにしっかりくださいね」 いつか私が、この上でそのように説教をし始めたら、この教会は終わりです。

 

私は、演壇の上でボソボソと(上品に)説教する人は、皆偽物だと思っている人間です。どうして自分が愛する人々が、あの崖っぷちへ、暗闇へと向かっているのに、声を上げないでいられますか。どうして、いたたまれない思いがないことがあり得ましょうか、皆さん。

 

神様が、私たちがやりたい放題にするのを放置しておかれたら、私たちにできる唯一のことは、罪だけです。罪人ができる唯一のことは何でしょうか。罪しかないのです。ですから私たちは、神様が放置されたら、私たちはそのまま底知れぬ所(無底坑)へ落ちるしかない者たちなのです。ですから神は、ホセア書で語られているように、自分が愛する神の民の行く手には、垣をめぐらし、茨で塞いで、彼らが良からぬ道へ行くのを神様が防がれるのです。

 

ですから皆さん、もし夫のビジネスが苦しくなり、行く手が塞がれているように思えたら、「どうして私はあんな能力のない疫病神に出会って、こんな苦労をするのか」と言うのではなく、「あ、神様が私たちの家庭に、とても細やかに、精密に介入しておられるのだな!」 そのように理解することはできませんか。

 

私たちは神の民です。ですから、私たちの思いが成し遂げられるように祈るのではなく、神のみこころが成し遂げられるように、祈る者たちです。Thy will be done! Thy will be done! 「神様、あなたのみこころが行われますように!」

 

イエス様がゲッセマネでどのような祈りをなさいましたか。「父よ、私はこの杯が嫌です。この杯が私に来ないでほしいのです。しかし、わたしの願いどおりではなく、あなたのみこころ(御意)のとおりにしてください」 父のみこころは何でしたか。十字架を背負って死に、神の民を救い出すこと! そうして神の王国を、神の国を成し遂げること! それではありませんでしたか。イエス・キリストは、「神様、私の思い通りではなく、あなたのみこころ通りにしてください!」と祈られました。

 

皆さん。私たちはどのように救われましたか。イエス・キリストが私たちを胸に抱き、生まれて八日目に割礼を受けられたことを皮切りに、全生涯を通して律法を完璧に守り、神に喜ばれる人生を全うされ、それを私たちに転嫁(転嫁)してくださったのです。そして、私たちのこのボロ雑巾のような、デタラメな人生をイエス様が受け取ってくださり、その人生を背負って十字架で死んでしまわれたのです。だから私たちが救われたのではないですか。ユニオン・クライスト(Union Christ)、イエス・キリストとの連合(連合)! そのイエス・キリストの人生が私の人生となり、私の人生はイエス・キリストの人生となったため、私たちはこのようにデタラメな人生を送っているにもかかわらず、救われた者なのです。

 

では皆さん。イエス様が十字架にかかられた時、皆さんはどこにおられましたか。十字架におられたのです。イエス様が復活された時、皆さんはどこにおられましたか。そのイエス・キリストと共に復活したのではないですか。では、イエス・キリストがゲッセマネで祈られた時、皆さんはどこにおられましたか。皆さんはそのイエス・キリストの内におられた方々なのです。

 

私たちがイエス・キリストの死と、イエス・キリストの復活に連合して、救いを受けたのだと言うのなら、それゆえ私たちも、そのイエス・キリストが背負っていかれた、あの十字架の人生に似ていこうと努力すべきであるなら、イエス・キリストがゲッセマネでなさったこの祈りにも、私たちは連合されるべきではないですか! 「父よ、わたしの思いではなく、あなたのみこころを行わせてください」 その人生を、その祈りを、私たちは今や追っていくべきではないですか。

 

イエス様は私たちの身代わりに、そのように神が喜ばれる完璧な人生を全うされました。その人生が私たちのものとなりました。ですから、私たちはその人生を追う者とならなければならない。それこそが、キリスト者なのです。では、私たちはどのような祈りをすべきでしょうか。

 

「神様、あなたのみこころが成し遂げられますように。神様、私の願い通りではなく、私の思い通りではなく、私が望むのはこれですが、私はこれがとてもとても好きですが、神様、あなたのみこころ通りにしてください! 私のポケットが空っぽなのがあなたのみこころなら、それによって、神様、私の人生で壊すべきものがあり、私の人生で作り上げるべきものがあるのなら、そのようになさってください! 神様、この病を通して私の人生で打ち砕くべきものがあるなら、そのようになさってください! あなたのみこころが私の人生において成し遂げられますように!」 そのように祈る者にならなければならないのではありませんか、皆さん。

 

私たちは、この世で自分が望むものを放棄しなければならないとしても、それが神のみこころなら、果敢に放棄できる信仰人にならなければなりません。そして、この地上での生に執着せず、神のみこころのためなら、十字架さえ厭わないことこそが、「みこころが行われますように」という祈りなのです。神のみこころが成し遂げられるなら、この世での富貴も命までも投げ出して、喜んでそのみこころに従おうと立ち上がる者が、キリスト者なのです。

 

なんとかしてあの神を利用して、自分の分を確保するのがキリスト教ではなく、十字架の前に絶えず自分のものを手放し、神の元へ行くこと! 神お一人を握るために、自分のすべてを手放し、すべてを捨て、自分の命までも投げ出すこと! それこそが聖徒の死、ではありませんか。

 

皆さん。私がしきりに「あ、神様に会いに行きたい」と語るのも、このような意味で申し上げているのです。「神様、私は今、自分の欲望と自分の欲のせいで、毎日毎日頭がズキズキと痛みます。神様、私はいつになったら、神様が要求される水準に到達できるでしょうか。神様、一日も早く神様が望まれる、神様が喜ばれる、そのような神の民として作り替えてください!」

 

皆さん、その時が来なければ、私たちは神様に会いに行くことはできません。そのような存在にならなければ、神様にお会いできません。ですから皆さん、心配しないでください。この中で、すぐに死んで神様に会いに行ける人なんて、一人もいません。皆さん。皆さんは卒業単位をまだ取得できていない方々です。だから心配しないでください。私も行けません。こんな姿でどこに行けるでしょうか、皆さん。

 

ですから私たちは、毎日毎日「神様、神の国が来ますように、神のみこころが行われますように! 私の中で神の統治をそのように素直に、喜んで受け入れられる、そのような神の国が臨み、神のみこころが成し遂げられる、そのような神の民にならせてください!」と祈ること。それが、「御国が来ますように。みこころが天で行われるように、地でも行われますように」と祈ることなのです。

 

神のみこころが成し遂げられるなら、この世での富貴も命までも投げ出して、喜んでそのみこころに従おうと立ち上がるのがキリスト者です。神のみこころは、私たちが天のものを享受し享受することにあり、この世のものを掴んで哀願することにはありません。

 

キリスト者の死は、私たちの信仰の勝利の時なのです。キリスト者の死は、神お一人を握るために、この地上のすべてを置くこと。それこそがキリスト者の死なのです。自分が愛する家族、自分が愛したこの世のすべてを、神に似るためにすべて手放すことを「信者の死」と言います。ですから、神様が「聖徒の死を尊いと見なされる」と仰っているのです。

 

私たちはこの地上でそのように毎日毎日、世に対して死ななければなりません。そして最後には、自分の命を置かなければならない時、惜しみなく、喜んで旅立つ準備をしなければならないのです。ですから、毎日毎日私たちはその十字架の前に、自分が持っているもの、自分が望んでいるもの、自分が喜んでいるもの、すべてを下ろさなければならないのです。詩篇116篇15節にいきます。

 

(詩篇 116:15) 15 主の聖徒たちの死は、主の目に尊い。

 

皆さん。本当に天国を慕っていますか。本当にそこに行きたいですか。それとも、ここの方が良いですか。ここで享受していた多くのものをすべて置いて、喜んで行けるほどに、あの神の国を知っていますか、皆さん。神の国は既に臨んでおり、必ず臨むものであり、神のみこころも既に成し遂げられており、必ず成し遂げられるでしょう。私たちは患難と窮乏の中でも、その国を、そのみこころを、信仰によって十分に打ち勝って生きる者であり、死までも厭わず神のみこころに従うべきキリスト者なのです。


 

 

3.주기도문강해  (마6:9-13)

 

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말씀을 같이 나누도록 하겠습니다. 오늘은 마태복음 6장 9절에서 13절까지의 말씀입니다. 주기도문 세 번째 시간. 찾으셨으면 함께 읽겠습니다.

 

(마태복음 6:9-13)

9 그러므로 너희는 이렇게 기도하라 하늘에 계신 우리 아버지여 이름이 거룩히 여김을 받으시오며

10 나라이 임하옵시며 뜻이 하늘에서 이룬 것 같이 땅에서도 이루어지이다

11 오늘날 우리에게 일용할 양식을 주옵시고

12 우리가 우리에게 죄 지은 자를 사하여 준 것 같이 우리 죄를 사하여 주옵시고

13 우리를 시험에 들게 하지 마옵시고 다만 악에서 구하옵소서 (나라와 권세와 영광이 아버지께 영원히 있사옵나이다 아멘)

 

지난주에는 ‘하나님의 이름이 거룩히 여김을 받으시오며’에 관해서 우리가 말씀을 나누었습니다. 하나님의 이름이 거룩하게 되는 유일한 방법은, 하나님의 백성들의 구원으로만, 말미암는다는 것을 함께 확인했습니다. 이번 주에는, ‘나라이 임하옵시며, 뜻이 하늘에서 이룬 것 같이 땅에서도 이루어지이다.’ 이 나머지 다우 피티션(thou petition)에 대해서 공부하도록 하겠습니다.

 

‘나라이 임하옵시며, 뜻이 하늘에서 이룬 것 같이 땅에서도 이루어지이다,’는 같은 맥락에서 추적을 해볼 수가 있습니다. ‘나라이 임하옵시며’라는 말은, ‘나라가 임하게 하시오며’의 뜻입니다. 이것이 조선시대 때 번역이 된 거라서, 조사(助詞)도 굉장히 엉뚱한 게 붙어 있죠. ‘나라이 임하옵시며’ 이렇게 붙어 있습니다.

 

그런데 그 나라는 어떤 나라입니까? 헬라어 원어에 보면, ‘에셋토 헤 바실레이아 수’라고 되어 있습니다. 에셋토 헤 바실레이아 왕국! 수 소유대명사가 붙어 있죠? 다이 킹덤 컴(thy kingdom come)!입니다. 그래서 그 나라는 우리가 만드는 나라가 아니라, ‘하나님나라’라는 것입니다. 킹덤(kingdom)이라는 것이죠. 리퍼블릭(republic)이 아니라, 킹덤(kingdom)이라는 것입니다.

 

왕이신 하나님이 다스리고, 그 백성들이 통치에 순종하는 나라라는 것입니다. 그 하나님의 통치에 순종할 마음이 없는 자들은, 못 들어갑니다. 그래서 그 하나님의 나라는, 민중이 주인이 되고, 민주주의가 통용이 되는, 그런 곳이 아니라, 왕이 다스리고, 백성은 그 왕의 통치에 순종하는, 그 나라를 가리키는 것입니다. 그래서 하나님의 통치에 순종할 마음이 없는 자들은, 절대 못 들어가는 그런 나라가 바로, 하나님나랍니다.

 

여러분! 이순신 장군의 ‘난중일기’를 읽어보신 적 있으십니까? 임진왜란 당시 이순신 장군이 쓴 일기를 모아놓은 책입니다. 거기에 여러분이 잘 아는 이런 시가 있습니다. ‘한산섬 달 밝은 밤에, 수루에 홀로 앉아, 큰칼 옆에 차고 깊은 시름 하는 차에, 어디서 일성호가는 남의 애를 끊나니’ 이런 시가 있죠?

 

지금도 통영에 가면, 아직 이순신 장군이 그 시를 읽던, 제승당 자리가 있습니다. 달이 휘영청 밝은 밤에, 남해 앞바다가 내려다보이는 수루에서, 깊은 시름을 하고 있는 이순신 장군을, 한번 생각해 보십시오. 거기다가 그 밤에, 어디서 한 줄기 피리소리가 들려온다고 생각해 보십시오. 거기서 이순신 장군은, 애가 끊어지는 듯한 느낌을 받았다고 하는데, 그 장군의 애를 끊게 한 것이 무엇이겠습니까? 알려진 바대로 전쟁으로 인한 근심이었겠습니까? 그의 애를 끊게 했던 그 고민은, 무엇이었을까요? 바로 삶에 대한 질문이었습니다. ‘나는 도대체 어디서 왔다가 어디로 가는 것이며, 왜 이 땅을, 이렇게 선택 없이 살아가야 하는가?’에 대한 질문이었습니다. 난중일기를 잘 보면, 이순신 장군은 전쟁을 오히려 감사하게 생각했습니다. 끊임없이 인생에 대한 질문이 끓어오르고 있는데, 이순신 장군은 그 질문을 잊게 해주는, 그 전쟁을 즐겼던 사람입니다.

 

조선 최고의 천재라는 매월당 김시습을 아십니까? 세살 때 이미 글을 다 깨우쳤고, 소학을 통달하고, 최초의 소설인 금오신화를 썼던 생육신의 한 사람입니다. 아마 조선 최고의 천재라고 일컬음을 받던 그런 사람입니다. 그 사람이 말년에 이런 시를 썼습니다. ‘미친 듯이 옛 사람에게 물어본다. 나는 도대체 어디서 와서 어디로 가는 것인가? 왜 아무도 나에게 대답하지 않는가? 미친 듯이 옛 사람에게 물어본다. 나는 소학을 읽고, 대학을 읽고, 논어를 읽고, 공자를 읽고, 맹자를 읽고, 노자 장자를 읽고, 불경을 읽었는데, 그곳에서는 왜 아무도 이 인생에 대한 질문을 대답해주지 않는가?’라는 이야기입니다. 그리고 그는, 그렇게 괴로워하다가 죽어가고 말았습니다.

 

이렇게 진리를 찾다 간 우리 조상들이 많이 있습니다. 이런 경우를 보면서, 혈기 왕성하고, 의심 많은 사람들이, 이런 질문을 합니다. ‘그런 사람들에게 예수가 조금 일찍 전해졌으면, 그들도 곧 진리를 깨닫고, 천국에 갔을 텐데…!’ 언페어(unfair)하다는 것입니다. 정말 언페어한 걸까요? 예수님이 다시 그들의 살던 시대에 오셨다면, 그들이 과연 예수를 믿을 수 있었을까요? 그들이 그렇게 애써서 진리를 찾고, 열심히 진리를 찾았기 때문에, 그들은 진리를 발견할 수 있었을까요?

 

여러분! 루소 같은 사람은요, 진리를 찾아 헤매면서 성경을 100독을 한 사람입니다. 그런 위대한 사상가가, 원래 기독교인이었던 사람이에요. 그는 성경을 창세기부터 계시록가지 100번을 읽었던 사람입니다. 이 자리에 계신 분 중에, 성경을 처음부터 끝까지 한 번이라도 제대로 읽은 분들이 몇 분이나 계십니까? 그는 100번을 읽었습니다. 그렇게 100번을 읽고, 그가 내린 결론은, ‘사회계약론’이라든지, ‘와이 엠 아이 낫 어 크리스찬(Why am I not a Christian)?’이라는 책에서, 그리스도인과, 그리스도교와, 예수 그리스도를 신랄하고 비판하고 죽었습니다.

 

벤자민 프랭클린이라는 사람은요, 미국의 위대한 사상가이며, 그는 피뢰침을 발견한 과학자입니다. 그도 역시 진리를 찾아 헤맸습니다. 그래서 당시에 ‘황금의 입’이라고, 널리 알려져 있던, 조지 휘필드의 집회에 참석했습니다. 그리고 그는 진리에 대해서 조지 휘필드와 논의하기 시작했습니다. 조지 휘필드는, 그렇게 진리를 찾아 헤매는 벤자민 프랭클린과, 여러 날을 함께 보내며, 먹고 자며, 예수를 이야기하고 성경을 이야기했었습니다. 그 위대한 부흥사요, 설교가였던 조지 휘필드가, 예수를 설명하고 성경을 설명했는데도 불구하고, 벤자민 플랭클린은 예수를 만나지 못하고, 죽었던 것입니다.

 

저희 대학 선배 중에 김지하라는 시인이 있습니다. 그 대학 선배가 예전에, ‘오적(五賊), 타는 목마름으로’ 이런 시를 써서, 인생의 반은 거의 감옥에서 보낸 그런 선뱁니다. 사람들이 그 선배를 생각할 때에 떠오르는 이미지가, 민중항쟁! 민주화투쟁! 이런 것을 떠올리는데, 그분이 정작 술자리에서 털어놓은 그분의 고민은, 인생에 대한, 진리에 대한 문제였습니다. ‘도대체 진리가 무엇이냐? 도대체 나는 왜 이 땅을 이렇게 살아가야 하는가?’에 대한 질문이었습니다. 그는 천주교인이었고, 영세를 받았던 사람이었습니다. 그래서 감옥에서 있던 시간의 대부분을, 이념서적을 읽은 것이 아니라, 그는 성경! 불경! 그런 종교서적을 읽는 데, 많은 시간을 보냈다고 합니다.

 

그렇게 진리를 찾아 헤매던 선배가, 최근에 ‘불교평론’이라는 그러한 잡지에, 불교평론 주간인 고려대 조성택교수와 이런 대담을 했습니다. ‘나는 동학당이다. 그리고 나의 뿌리는, 불교이다. 장구벌 이하와 중생! 이렇게 ’율려사상 생명운동 요기싸르‘라는 개념에 심취해 있습니다. ’요기싸르‘라는 개념은, 내면에 평화를 유지하면서, 밖으로 사회적 변화를 추구하는 그런 운동이에요. 그런 개념에 아주 꽉 차있다구요.

 

이렇게 진리를 열심히 찾아 헤맨다고 해서, 그들이 모두 진리를 발견할 수 있는 것은 아닌 것입니다. 중요한 것은, 그러한 당대의 천재들이, 그렇게 열심히 진리를 찾아 헤맸음에도 불구하고, 예수를 알지 못하는데, 나에겐 그 예수가 지금 믿겨진다는 것입니다. 여러분이 이 자리에 어떻게 앉아계십니까? 여러분이 그들보다 더 열심히 진리를 찾아 헤매셨나요? 여러분이 그들보다 더 애쓰면서, 인생에 대해서 고민을 하셨나요? 여러분이 뭘 그들보다 더 많이 한 것이 있습니까? 그런데 여러분은 어떻게 이 자리에 와서 예수를 믿고 계시는 것입니까?

 

누가 예수를 받아들일 수 있습니까? 창세전에 하나님께서 그 이름을 부른 자들 이외에는, 절대 예수를 알 수도 없고, 예수를 이해할 수도 없는 것입니다. 이순신 장군의 시대에, 김시습의 시대에, 강증산의 시대에, 예수 그리스도께서 다시 내려오셨다 할지라도, 창세전에 택함을 받지 못한 인간들은, 예수를 알지 못하는 것입니다.

 

우리는 자꾸, 지옥에 가는 사람들이, 그들은 지옥에 가기 싫은데, 우리가 게을러서, 복음을 안전했기 때문에, 그들이 복음을 못 들어서 지옥에 간 것이라고 생각하고 있습니다. 아닙니다! 여러분! 죄인들은 지옥에 가고 싶어서 가는 것입니다. ‘그런 말이 어디 있습니까? 지옥에 가고 싶은 사람이 어디 있습니까?’ 이렇게 혹시 마음속에 질문하는 분들 계시죠?

 

여러분! 죄가 뭡니까? 죄는요, 하나님의 통치가 싫어서, 하나님을 하나님의 자리에서 끌어내려 놓고, 내가 그 하나님의 자리에 앉아서, ‘내 인생은 내가 책임지겠다!’라고 하는 데서, 죄가 출발하는 거 아닙니까? 그래서 죄인들은요, 그 천국에서 하나님의 통치를 받고, 하나님이 옳다고 하는 것은 옳다고 인정하며, 하나님이 그르다고 하는 것을 그르다고 인정하는, 그 천국에서 살기가 싫은 것입니다. 차라리 지옥에 가서, 그렇게 고통을 당한다 할지라도, 내 마음대로, 내 뜻대로, 살고 싶어 하는 게, 죄인들인 것입니다. 하나님이 우리의 눈을 뜨게 해주셔서, 우리를 새 사람으로 재창조 해놓지 않으면, 우리는 절대 그 하나님의 통치에 순종할 수 없는 자들인 것입니다. 그래서 우리는 모두가 다 그 지옥으로 가고 싶어서 가는 것입니다.

 

그런데 우리는 은혜로 말미암아, 이렇게 이 자리에 앉아서, 예수를 믿고 있는 것입니다. 하나님의 통치가 있는 곳! 하나님이 다스리시는 곳! 하나님이 왕이신 곳! 그곳을 우리는 ‘하나님나라’라고 하고, ‘천국(天國)’이라고 하는 것입니다.

 

여러분! 잘못 생각하고 있는 것이, 천국 그러면, 그냥 너무나 아름답고 팔 한 짝 올리면, 500년! 다리 한 짝 올리고 200년! 그런 곳으로만 알고 계신데, 아니에요. 거기서 여러분은 찬양을 해야 하, 기도를 해야 하며, 여러분은 거기서 노동을 해야 할지도 모릅니다. 천국이라는 것은, 바로 하나님의 통치가 있는 곳입니다. 하나님이 다스리시는 곳! 그 은혜의 하나님, 그 사랑의 하나님과 함께 있는 곳을, 우리는 천국이라고 하는 것입니다. 민주주의 공화국이 아닌 곳입니다. 민중이 주인이 되고, 민주주의에 의해서 움직여지는 나라가, 아니라는 것입니다. 하나님이 다스리시고, 하나님이 통치하시는 곳! 그곳을 우리는, ‘천국(天國)’이라고 하는 것입니다. 그래서 우리가, ‘나라이 임하옵시며’라고 기도하는 것은, 그 하나님의 통치가 우리 가운데 임하기를 기도하는 것입니다.

 

그런데 여러분! 예배당 안에서 자기의 소원만을, 자기의 뜻만을, 고집하는 자들이 있죠? 여러분은 어떠십니까? ‘하나님! 내 주머니가 왜 이렇게 지금 비어 있습니까? 하나님! 내 몸에 왜 이렇게 병이 있는 것입니까? 하나님! 왜 우리 가정에, 이런 불행이 있습니까? 하나님! 도대체 하나님의 뜻이 무엇입니까?’라고 물어보기 전에, ‘하나님! 도대체 정신이 있는 거냐? 없는 거냐? 말이죠. 내 주머니가 이렇게 비었다. 내가 이렇게 열심히 신앙생활을 하고 있는데, 하나님 지금 뭐하고 있는 거냐? 내 주머니를 빨리 채워라! 내 병을 빨리 낫게 해달라! 우리 가정을 빨리 회복시켜 달라!’ 그렇게 자기의 뜻과 자기의 소원만을 주장하는 사람들!

 

하나님나라에서 살 수 있는, 하나님의 백성은 어떤 사람들이라 그랬죠? 하나님의 통치에 순종하며, 하나님의 다스림에 순종하는 자! 그러면요 자기의 뜻만을 고집하는 자들은, 누구입니까? 지옥에 가고 싶어서 애쓰는 자들입니다.

 

여러분! 혹시 그런 분들 계시다면, 이 땅에서도 그냥 잘 먹고 잘 살다가, 그냥 착하게 잘 살다가, 이 땅에서 그냥 돈 많이 벌고 잘 먹고 잘 살다가, 하고 싶은 것 다 하시다가, 그렇게 가십시오. 그런 분들은 절대 천국 못갑니다. 이 땅에서도 해볼 것 못해보고, 지옥까지 가면, 얼마나 불행합니까? 여러분!

 

그리스도인! 하나님의 백성! 그 하나님의 나라에 살 수 있는 하나님의 백성들은, 하나님의 뜻과, 하나님의 통치에 순종하는 자들이라는 것입니다. 그 하나님나라는, 전적으로 하나님에 의해서 만들어진 나라를 말합니다. 하늘로부터 내려오는, 하나님에 의해서 건설된, 나라를 말하는 것이죠. 하나님께로서 난 자들만이, 그 나라의 백성이 될 수 있습니다. 요한복음 1장 12절로 갑니다.

 

(요한복음 1:12-13)

12 영접하는 자 곧 그 이름을 믿는 자들에게는 하나님의 자녀가 되는 권세를 주셨으니

13 이는 혈통으로나 육정으로나 사람의 뜻으로 나지 아니하고 오직 하나님께로서 난 자들이니라

 

어디로부터 났다고요? 하나님께로서 난 자들! 오직 하나님께로서 난 자들이라는 것입니다. 우리가 진리를 찾으려고 노력하고 애쓴다고 해서, 찾아지는 게 아니라는 것입니다. 하나님께서 창세전에 택한 자들 이외에는, 그 진리를 깨달을 수 없고, 하나님께로서 난 자들 아니면, 그들은 하나님의 백성이 될 수 없다는 것이죠.

 

여러분! 마태복음에는 마지막 족보가 나옵니다. 아브라함에서 다윗까지 14대요. 다윗에서 바벨론 유수까지 14대요. 바벨론 유수에서 예수님까지 14대라고 적혀 있습니다. 14는 7이 두 개죠? 7 7! 7 7! 7 7! 칠이 여섯 갭니다.

 

하나님의 완전한 안식의 숫자인, 7! 그것이 채워지려면, 한 세대가 더 와야 하죠? 자, 이 예수 그리스도께서, 인간의 육신의 족보의 마지막 사람이 되셨습니다. 예수님께서는 바로 이 인간의 족보! 육신의 족보에 마지막이십니다. 그리고 예수님이 터닝 포인트(turning point)가 되셔서, 마지막 그 안식의 세대! 일곱 번째 세대의 시작이 되시는데, 그분이 어떻게 나셨습니까? 성령으로 태어나셨다고요!

 

나머지 그 일곱 번째 세대들은, 모두 성령으로 태어나야만, 그 세대에 속할 수 있다는 것입니다. 마지막 그 일곱 번째 세대는, 하늘로부터 태어난 자들만이, 그 일곱 번째 세대가 될 수 있다는 것입니다. 아노덴! 위로부터 거듭나지 않으면, 절대 그들은 하나님의 백성이 될 수 없다는 것입니다. 그래서 그 나라는, 우리가 발전시켜서 만들 수 있는 것이 아니고, 하늘로부터 임해야 하는 나라입니다.

 

여러분과 저는 거듭난 자로서, 그 하늘로부터 임한 하늘나라의 백성입니다. 그래서 우리는 이 땅을 나그네로, 이방인으로 밖에 살 수 없습니다. 우리는 하늘의 백성이기 때문에, 이 땅의 원리로 살 수 있는 자들이 아닌 것입니다. 그 하늘나라에 속한 하늘나라 사람들이, 소원하는 것이 어떤 것이어야 되겠어요? 하늘에 속한 사람들이, 속된 것에만 목을 매고 있다면, 그 같은 코미디가 어디 있습니까? 여러분!

 

우리는 그렇게 하늘나라 사람들이기 때문에, 이 땅의 것들을 얼마나 누리고 있는가로, 우리의 진가를 나타낼 수 없는 것입니다. 우리가 얼마나 하나님의 신실한 백성인가는, 우리가 얼마나 성공적으로 이 땅에서 살아가느냐로, 평가 되어서는 안 되는 것입니다. 우리는 하나님나라 백성이므로, 얼마나 예수 그리스도의 형상을 닮아가고 있는가로 평가되어져야 하는 것입니다.

 

그럼에도 불구하고 예배당 안에서도, 그런 세상의 것으로, 그리스도인의 진가를 측정하고, 평가하는 사람들이 얼마나 많이 있습니까? 우리가, 가정이 혹시 불행해지고, 비즈니스가 어려워지고 하면은 ,어떻게 그 사람들을 향해서 손가락질을 합니까? ‘저 사람은 하나님 앞에서 뭔가, 해결되어지지 못한 것이 있을지 몰라! 저 사람의 신앙은 뭔가, 부족한 것이 있을지 몰라! 신앙이 어리기 때문에 어려움을 당하는 걸 거야!’라고 생각하는 사람들이 의외로 많다는 것이죠.

 

아니에요! 그리스도인들은요, 그들이 얼마만큼 성공적으로 폼 잡고, 남들 앞에서 훌륭하게 살아가는가로 그들의 진가가 나타나지 않는다는 것입니다. 그가 하나님의 신실한 백성인가 아닌가는, 그가 얼마만큼 예수 그리스도의 형상을 닮아가고 있는 가로 평가되어져야 하는 것입니다. 우리가 속한 왕국이, 이 세상에 있으면, 우리의 진가는 당연히 이 세상 것들로 나타나는 게 맞습니다. 그러나 우리가 속한 왕국은, 하늘에 있는 하늘나라입니다. 그렇기 때문에, 우리의 열매는, 하늘나라의 것으로 나타나야 하는 것이죠.

 

그런데 어떻게 우리는 이제 얼마 있다가 다 내려놓고, 부수고 올라가야할, 이 땅의 나의 업적과, 나의 재물에만, 그렇게 관심이 있을 수 있는 것입니까? 그런 사람은 아직 하늘나라가 뭔지, 자기가 하늘 왕국의 백성인지, 정확히 인식하지 못하고 있는 사람들입니다. 우리는 하나님 왕국의 백성으로서, 그 나라가 임하기를 기도해야 하는 자들입니다. 그런데요 성경은, 그 나라가 ‘이미 임했다’라고 말씀하고 있습니다. 마가복음 1장 15절로 가겠습니다.

 

(마가복음 1:15)

15 가라사대 때가 찼고 하나님 나라가 가까웠으니 회개하고 복음을 믿으로 하시더라

 

여기서 ‘가까이 왔다’의 ‘엥기조’라는 헬라어 원어는요, 마태복음 26장에 그대로 쓰여 있습니다. ‘일어나라 함께 가자! 보라 나를 파는 자가 가까이 왔느니라.’ 여기서 ‘가까이 왔느니라.’ 유다가 왔다는 것입니다. 그래서 이 ‘엥기죠!’ 하나님나라는 이미 이 땅에 와 있다는 것입니다.

 

그런데 어떻게, 언제, 어디에 와 있습니까? 여러분 보입니까? 지금? 하나님나라 어디 있어요? 지금! 누가복음 17장 20절로 가겠습니다.

 

(누가복음 17:20)

20 바리새인들이 하나님의 나라가 어느 때에 임하나이까 묻거늘 예수께서 대답하여 가라사대 하나님의 나라는 볼 수 있게 임하는 것이 아니요

21 또 여기 있다 저기 있다고도 못하리니 하나님의 나라는 너희 안에 있느니라

 

하나님나라가 어디 있습니까? ‘여러분 안에 있다’는 것입니다. 여러분 국가의 3대 요소가 뭡니까? 국민! 주권! 영토! 아닙니까? 국민? 하나님의 백성! 여러분들이 있고요. 주권? 하나님의 통치! 여러분은 하나님에 의해서 재창조되었기 때문에, 이제 하나님의 통치에 순종할 수밖에 없는 자들이 되어 있죠. 그래서 하나님의 통치가 여러분 안에 있습니다. 그 통치가 있고, 하나님의 백성이 있고, 하나님이 계신 곳이, 하나님의 영토이지 않습니까? 그래서 바로 여러분 자체가, ‘하나님의 나라’라는 것입니다. 여러분 안에 그 하나님나라는, 이미 와 있다는 것이죠.

 

제가요 이 주기도문을 헬라어로 읽다가, 문득 재미있는 것을 하나 발견했습니다. 주기도문 안에 쓰여진 동사가 전부 과거시제예요. ‘하늘에 계신 우리아버지여! 이름이 거룩히 여김을 받으시오며’도 과거고요. ‘나라이 임하옵시며’도 과거고요. ‘뜻이 하늘에서 이룬 것 같이 땅에서도 이루어지이다’도 과거고요. ‘오늘날 우리에게 일용할 양식을 주옵시고’도 과거고요. 다 과거예요.

 

헬라어에는, ‘에오리스트’라는 ‘부정과거’라는 과거시제가 있어요. 그 부정과거는, 과거에 스페시픽(specific)한 이례적인 사건 가리킬 때 많이 쓰이거든요. 그런데 이 ‘에오리스트’가 임페러티브(imperitive)가 사역동사 명령형으로 쓰일 때는, 아주 중요한 의미가 있더라고요.

 

그래서 제가 이 재미있는 것을 발견해서, 제 마음의 동지들! 그 몇 안 되는, 공부 열심히 하시는 우리 목사님들에게 전화를 했어요. 그래서 ‘참 재미있는 것을 발견했다. 주기도문을 헬라어로 읽어 봤냐? 거기에 쓰인 동사가 전부 과거다.’ 그러니까 그쪽에서, ‘어? 그러네. 정말 재미있다.’ 이게 의미가 뭘까? 우리가 하루 종일 찾아봤습니다. 몰튼의 그래머(grammar)까지 다 뒤져가면서!

 

도대체 이게 무슨 뜻일까? 왜 여기에서 과거의 시제가 쓰여 있는 것일까를 찾아 봤어요 .그러면서 저희들이 그런 얘기했습니다. 우스개소리로, ‘야! 우리가 단어 하나 가지고 이렇게 하루 종일 고민하는 거를, 우리 교인들이 알까?’ 여러분! 아십니까? 여러분! 저희들이 그렇게 에오리스트 임페러티브로 쓰여진 그 동사들을 쭉 성경에서 찾아보니까요. 그 에오리스트 임페러티브로 쓰여진 그 동사들은 전부, 과거의 의미와, 현재의 의미와, 에스커털러지컬 미닝(eschatological meaning)이 있는, 미래의 의미까지, 세 의미를 다 내포하고 있더라는 거예요.

 

그래서 우리가 지금, ‘나라이 임하옵시며’라고 기도하는 그 단어 하나에는, 과거에, 그 나라는 이미 임했고, 지금 내 삶속에서, 그 나라는 이루어져가고 있고, 미래에, 그 나라는 반드시 올 것이라는, 올레디 낫엣(already not yet)의 교리가, 그 단어 하나에 다 들어가 있는 거예요.

 

우리가, 그 나라가 임하기를 기도하면서, 우리는 우리의 신분을 확인하는 것입니다. ‘맞다! 우리는 그 나라 백성이다. 그리고 그 나라는 이미 임했으며, 반드시 올 것이며, 지금 내 삶속에서 이루어져가고 있다.’ 그 하나님의 통치를 지긋지긋하게 싫어하는 내 삶속에, 그 통치에 순종하는 자로, 조금씩, 조금씩 내가, 변화되어져 가고 있다는 것을 확인하는 거라고요.

 

여러분! 우리는 이 땅에서 하늘나라를 살아야 하는, 하늘의 원리로 살아야 하는 자들이기 때문에, 환란과 고난이, 우리에게 당연히 오게 됩니다. 왜 환란과 고난이 옵니까? 이 세상의 원리는, 오른 뺨을 한대 맞으면, 그 모욕감이 없어질 때까지, 상대방을 패주는 게, 이 땅의 원리입니다. 이 땅의 원리는 힘이죠? 재력! 학력! 외모! 명예! 그 힘 이외에는 이 땅에서 누가 우수한 자인지를, 가려낼 수 없습니다. 그것을 힘으로 상대를 제압해야 합니다.

 

그렇지만, 하늘의 원리는요, 오른 뺨을 맞으면, 왼 뺨을 돌려 대주는 것이, 하늘의 원리입니다. 이렇게 우리는 영적인 면으로, 세상은 육적인 면으로, 다른 차원 다른 원리로 살아야 하는 자들이기 때문에, 세상과 부딪칠 수밖에 없는 거예요. 자기의 모든 소망이 이 세상에서의 체면에 있으면, 어떻게 뺨을 맞고 가만히 있습니까? 그 체면을 유지하기 위해서라도, 가서 두들겨 패줘야죠? 자기가 겁쟁이가 아니라는 것을 보여줘야 하는 것입니다. 그렇게 인정을 받아야 만족할 수 있어요.

 

그러나 자기의 모든 소망이, 저 하늘나라에 있다면, 그까짓 체면쯤 조금 구겨져도 괜찮다. 그러고 가는 것입니다. 우리는 저 천국의 것으로 만족을 할 수 있는 자이기 때문에, 그래서 그 나라에 동참한 자이기 때문에, 우리는 이 땅에서 환란과, 핍박과, 고난을 당해도 괜찮다! 그런 실력자가 되어야 하는 것입니다. 여러분! 우리 하늘나라 백성들은, 하늘의 것으로 만족하며 살아야 하는 자들입니다.

 

왜 사람들이 술, 담배, 도박, 마약을 합니까? 그 마음속에 채워지지 않는, 만족할 수 없는, 그 공허를 채우기 위해서 그러는 거 아닙니까? 그 심심함을 채우기 위해서 그런 거라고요. 그 마음속에 뻥 뚫려 있는 그 공허를 무엇으로도 메울 수 없기 때문에, 사람들은 뭔가 열심히 합니다. 사랑을 하기도 하고, 공부를 하기도 하고, 열심히 돈을 벌기도 합니다. 그럼에도 불구하고 메워지지 않는다고요.

 

우리 그리스도인들은요, 우리 금요일 날 확인했잖아요? 그 페밀리 나잇 파티에서, 우리는 술 안 먹고, 담배 안 피고, 다른 것 세상 것들 동원하지 않아도, 얼마든지 즐겁게 살아갈 수 있다는 것을 여실히 보여주고 오지 않았습니까?

 

여러분! 은혜에 취하면요, 세상 다른 것에 취하는 것과는 비교할 수 없는, 희열(喜悅)이 있습니다. 은혜에 취해서 왜 도박하는 자리에 가겠습니까? 은혜에 취해서 왜 술자리에 가서, 심심함을 달래겠습니까? 그래서 우리에게 환란과 궁핍과, 고난과 핍박이 와도, 괜찮다는 것입니다. 우리는 곧 저 하늘나라 갈 것이기 때문에, ‘그 정도 괜찮다. 나는 참을 수 있다.’로 가는 거예요. 그래서 성경에 이렇게 기록되어 있습니다. 계시록 1장 9절에,

 

(요한계시록 1:9)

9 나 요한은 너희 형제요 예수의 환란과 나라와 참음에 동참하는 자라 …

 

‘예수의 환란과 나라와 참음에 동참하는 자다!’ 이렇게 기록되어 있습니다. 환란과 나라와 참음은, ‘이퀘이젼’입니다. 여러분! 예수의 환란과 예수의 나라와 그 참음은, 동시에 우리에게 온다는 것입니다. 하나님의 나라에 동참한 하나님의 백성들은, 그 하늘의 원리로 살아야 하기 때문에, 이 땅에서 환란을 당하게 되어 있다는 것입니다. 이 딜레마를 해결할 수 있는 것이, 인내(忍耐)라는 거예요. 참음!

 

그래서 예수의 나라와, 참음과, 환란은, 동시에 우리에게 온다는 것입니다. ‘너희들은 지금 환란을 당하지만, 너희는 그 하나님나라를 믿음으로 보았음으로, 참아라!’ 하나님은 우리에게 그렇게 말씀하시는 것입니다. ‘그러나 반드시 온다! 세상 모든 민족과 방언과 나라가, 아니 사탄까지도, 하나님의 이름을 거룩하게 인정하게 되는 날은, 반드시 온다! 그러니까 조금만 참아라!’ 그러기에 우리는 ‘하나님의 나라가 임하게 하옵소서’라는 기도를 하면서, 확인하고, 확신하고, 힘을 얻는 것입니다. 그 나라는 반드시 온다! 그리고 이미 나에게 임해있다! 그것을 확인하는 것입니다.

 

 

아울러 그와 맥락을 같이 해서, ‘뜻이 하늘에서 이룬 것 같이, 땅에서도 이루어 지이다’라고 기도를 합니다. 하나님의 뜻이 무엇입니까? 하나님께서, 하나님의 백성들과 영원히 함께 사는, 하나님나라를 이루는 것이, 바로 하나님의 뜻 아닙니까? 그 뜻은, 이미 우리가 살펴본 것처럼, 이뤄져 있습니다. 그리고 이뤄질 겁니다.

 

그러면 하나님의 그 뜻은 어차피 하나님께서 이루실 텐데, 우리가 그 하나님의 뜻이 이루어지기를 기도해야 하는 이유가 뭡니까? 씨 에스 루이스(C. S. Lewis)는, 이 세상에는 두 종류의 사람들이 있다고 합니다. 그 한 종류의 사람은, 하나님에게, ‘당신의 뜻이 이루어지이다! 다이 윌 비 던(thy will be done)!’이라고 기도하는 사람들이고, 다른 한 종류의 사람은, 하나님이 그들에게, 유어 윌 비 던(your will be done)이라고 방치해두는 사람들이 있다는 거예요. ‘유어 윌 비 던(your will be done), 네 마음대로 살아라! 그래, 네 뜻대로 살아라! 그래, 사탄아! 쟤가 원하는 대로 그냥 가서 좀 도와줘라! 자기 뜻대로, 자기 마음대로 살게!’

 

하나님이 인간을 가장 잔인하게 저주하는 방법이 뭔지 아십니까? 그 뜻대로, 그 소원대로, 살게끔 방치해 두는 것! 그것이 바로, 하나님이 인간을 가장 잔인하게 저주하는 방법입니다. 로마서 1장 24절로 가겠습니다.

 

(로마서 1:24, 28-32)

24 그러므로 하나님께서 저희를 마음의 정욕대로 더러움에 내어 버려두사 저희 몸을 서로 욕되게 하셨으니 (마음의 정욕대로, 더러움에 내 버려두니까, 스스로 저희 몸을 욕되게 하더라는 거예요. 28절로 가겠습니다.)

28 또한 저희가 마음에 하나님 두기를 싫어하매 하나님께서 저희를 그 상실한 마음대로 내어 버려두사 합당치 못한 일을 하게 하셨으니

29 곧 모든 불의, 추악, 탐욕, 악의가 가득한 자요 시기, 살인, 분쟁, 사기, 악독이 가득한 자요 수근수근 하는 자요

30 비방하는 자요 하나님의 미워하시는 자요 능욕하는 자요 교만한 자요 자랑하는 자요 악을 도모하는 자요 부모를 거역하는 자요

31 우매한 자요 배약하는 자요 무정한 자요 무자비한 자라

32 저희가 이 같은 일을 행하는 자는 사형에 해당하다고 하나님의 정하심을 알고도 자기들만 행할 뿐 아니라 또한 그 일을 행하는 자를 옳다 하느니라

 

하나님이, 그 정욕대로 그대로 내어 버려두시니까, 방치해 두시니까, 그들의 뜻대로 살게 놔두시니까, 바로 이렇게 사형을 받아 마땅한 인간들이 되더라는 거예요. 여러분! 부모가요, 자식을 키우면서, 어느 순간 포기를 할 때가 있습니다. 아침에 학교도 안가고, 맨날 오락실에 가구요. 10시가 되도, 11시가 되도 잠만 자는 그런 자식을, 여러분! 가만 놔두시겠습니까? 물을 갖다가 확 뿌리는 한이 있더라도, 벌써 고쳐놓죠.

 

그러나 해도, 해도, 해도 안 될 때, 나중에 어떻게 하십니까? ‘그래, 네 마음대로 살아라! 네 인생 네가 사는 거지 뭐, 내가 사는 거냐? 그래, 네 마음대로 살아라! 네 원하는 대로 잠자고 싶은 대로 실컷 자고, 학교 가기 싫으면 가지 마라!’ 이게 정말 그 부모가 그 자식을 너무 너무나 사랑해서, 그 자식이 원하는 대로 해주는 걸까요? 그것은 그 부모가, 그 자식을 포기하는 것입니다. 여러분!

 

제가 강대상에서 소리 지른다고, 자꾸 뒤에서 소근 거리지 마세요. ‘우리 목사님! 왜 이렇게 소리를 지르는가?’ 여러분! 잘 못 사시잖아요? 그리스도인으로서 제대로 살고 계십니까? 못 사시기 때문에! 저도 마찬가지예요. 저도 제대로 잘 못살고 있기 때문에, 하나님의 말씀이 선포되어질 때에, 소리를 지를 수밖에 없는 것입니다. ‘잘 삽시다! 하나님의 뜻대로 사십시다! 성경이 말하는 대로 사십시다!’

 

어느 날 제가, 목소리를 쫙 깔고, 매력적인 저음으로, ‘여러분! 사는 게 다 그건 거지요. 뭐, 돈 많이 버시고, 잘 먹고 잘 살다가, 착하게 잘 살다가, 그렇게 가십시다! 그리고 월급이나 밀리지 말고 꼬박꼬박 주세요.’ 언젠가 제가, 이 위에서 그렇게 설교를 하기 시작하면, 이 교회는 끝난 것입니다.

 

저는 강대상 위에서 조용조용 설교하는 사람은, 다 가짜라고 생각하는 사람이에요. 어떻게 자기 사랑하는 사람들이, 저 낭떠러지로, 어둠으로 가고 있는데, 어떻게 소리를 안 지릅니까? 어떻게 안타까운 마음이 없겠습니까? 여러분!

 

하나님께서 우리가 하고 싶은 대로 우리를 방치해 놓으시면, 우리가 할 수 있는 유일한 것은, 죄밖에 없습니다. 죄인이 할 수 있는 유일한 게 뭐겠어요? 죄밖에 없다고요. 그렇기 때문에 우리는, 하나님께서 방치해 놓으시면, 우리는 그대로 무저갱으로 떨어질 수밖에 없는 자들인 것입니다. 그래서 하나님은 호세아서에서 말씀하신 것처럼, 자기가 사랑하는 하나님의 백성들 앞길에는, 담으로 막고, 가시로 막고, 그들이 엉뚱한 길로 가는 것을, 하나님께서 막으시는 것입니다.

 

그래서 여러분! 혹시 남편의 비즈니스기 어려워지고, 앞길이 자꾸 막히는 것 같다고 생각하면, ‘어떻게 내가 저렇게 능력 없는 웬수를 만나서, 이 고생을 하나?’라고 이야기하지 마시고, ‘아! 하나님이 우리 가정에, 아주 세심하게, 세밀하게 간섭을 하고 계시는구나!’ 그렇게 이해를 좀 하실 수는 없나요?

 

우리는 하나님의 백성입니다. 그래서 우리의 뜻이 이루어지기를 기도하는 것이 아니라, 하나님의 뜻이 이루어지기를, 기도하는 자들입니다. 다이 윌 비 던(thy will be done)! 다이 윌 비 던(thy will be done)! ‘하나님! 당신의 뜻이 이루어지게 하옵소서!’

 

예수님이 겟세마네에서 어떤 기도를 하고 가셨습니까? ‘하나님! 나는 이 잔이 싫습니다. 나는 이 잔이 내게 오지 않았으면 좋겠습니다. 그러나 내 뜻대로 마옵시고, 아버지의 뜻대로 하옵소서.’ 아버지의 뜻은 뭐였습니까? 십자가를 지고 죽어서, 하나님의 백성들을 살려 내라는 것! 그래서 하나님의 왕국을, 하나님의 나라를 이루어 내라는 것! 그것 아니었습니까? 예수 그리스도는, ‘하나님! 나의 뜻대로 마옵시고, 당신의 뜻대로 하옵소서!’라고 기도하고 가셨습니다.

 

여러분! 우리가 어떻게 구원을 받았습니까? 예수 그리스도께서 우리를 품에 안고, 난지 팔 일만에 할례를 받으신 것을 시작으로, 온 생애동안 율법을 완벽하게 지키셔서, 하나님께 흡족한 삶을 살아내셔서, 그것을 우리에게 전가(轉嫁)시켜 주셨다고요. 그리고 우리의 이 걸레 같고, 엉터리 같은 삶을 예수께서 가져가셔서, 그 삶을 가지고 십자가에서 죽어 버리신 거예요. 그래서 우리가 구원 받은 것 아닙니까? 유니온 크라이스트(Union Christ)! 예수 그리스도와의 연합(聯合)! 그 예수 그리스도의 삶이 나의 삶이 되었고, 나의 삶은 예수 그리스도의 삶이 되었기 때문에, 우리는 이렇게 엉터리 삶을 살고 있음에도 불구하고, 구원을 받은 자입니다.

 

그러면 여러분! 우리가, 십자가에서 예수님이 달리셨을 때, 여러분 어디 계셨습니까? 십자가에 계신 거예요. 예수님이 부활하셨을 때에, 여러분이 어디 계셨습니까? 그 예수 그리스도와 함께 부활하신 거 아닙니까? 그러면 예수 그리스도께서, 겟세마네에서 기도하실 때에 여러분은 어디 계셨습니까? 여러분은 그 예수 그리스도 안에 계셨던 분들이에요.

 

우리가 예수 그리스도의 죽음과, 예수 그리스도의 부활에 연합되어서, 구원을 받은 것이라고 한다면, 그래서 우리도, 그 예수 그리스도가 지고 가신, 그 십자가의 삶을 닮아 가려고 노력해야 하는 것이라면, 예수 그리스도께서 겟세마네에서 해 놓으신 이 기도에도, 우리는 연합되어져야 되는 것 아닙니까! ‘아버지! 내 뜻대로 마옵시고, 당신의 뜻대로 하옵소서!’ 그 삶을, 그 기도를, 우리는 이제 좇아가야 하는 것 아닙니까?

 

예수님은 우리를 대신해서, 그렇게 하나님이 기뻐하시는 완벽한 삶을 살아내고 가셨습니다. 그 삶이 우리 것이 되었습니다. 그래서 우리는 그 삶을 좇아가는 자들이 되어야 하는 것이 바로, 그리스도 인들인 것입니다. 그러면 우리는 어떤 기도를 해야 하는 것입니까?

 

‘하나님! 당신의 뜻이 이루어지게 하옵소서. 하나님! 내 소원대로 말고, 내 뜻대로 말고, 내가 원하는 것은 이것이지만, 나는 이게 너무 너무나 좋지만, 하나님! 당신의 뜻대로 하옵소서! 내 주머니가 빈 것이 당신의 뜻이라면, 그 것으로 인해서, 하나님! 내 삶에 깰 것이 계시고, 내 삶에 만들어갈 것이 계시다면, 그렇게 하옵소서! 하나님! 이 병을 통해서 내 삶에 부셔버릴 것이 있다면, 그렇게 하옵소서! 당신의 뜻이 내 삶에 이루어지게 하옵소서!’라고 기도하는 자들이 되어야 하는 것 아닙니까? 여러분!

 

우리는요, 이 세상에서 내가 원하는 것들을 포기해야 한다고 할지라도, 그것이 하나님의 뜻이라면, 과감히 포기할 수 있는, 신앙인이 되어야 하는 것입니다. 그리고 이 땅에서의 삶에 연연하지 않으면서, 하나님의 뜻을 위해서는, 십자가라도 마다하지 않는 것이 바로, ‘하나님의 뜻이 이루어지게 하옵소서!’라는 기도인 것입니다. 하나님의 뜻이 이루어진다면, 이 세상에서의 부귀와 생명까지도 내려놓고, 기쁘게 그 뜻에 따르겠다고 나서는 자들이, 그리스도인들인 것입니다.

 

어떻게 해서든지 그 하나님을 이용해서, 내 것을 챙기는 것이 기독교가 아니라, 십자가 앞에 자꾸 내 것을 내려놓고, 하나님 앞으로 가는 것! 하나님 한분을 붙들기 위해서, 내 모든 것을 다 내려놓고, 다 버리고, 내 생명까지도 내려놓는 것! 그것이 바로 성도의 죽음! 아니겠습니까?

 

여러분! 제가 자꾸 ‘아! 하나님 만나러 가고 싶다.’라고 이야기하는 것이, 이런 의미에서 말씀드리는 거예요. ‘하나님! 저는 지금 제 욕망과 제 욕심 때문에, 매일 매일 머리가 지끈 지끈 아픕니다. 하나님! 저는 언제나 하나님이 요구하시는 수준에 도달할 수 있을까요? 하나님! 하루 속히 하나님이 원하시는, 하나님이 기뻐하시는, 그러한 하나님의 백성으로 만들어 주옵소서!’

 

여러분! 그 때가 되지 않으면, 우리는 하나님 만나러 가지 못합니다. 그러한 존재가 되지 않으면, 하나님 만나지 못해요. 그래서 여러분! 걱정하지 마세요. 이 중에 곧 죽어서 하나님 만나러 갈 수 있을 사람? 아무도 없어요. 여러분! 그 졸업학점 아직 채우지 못하신 분 들입니다. 그러니까 걱정하지 마세요. 저도 못갑니다. 이 꼴로 어딜 가겠습니까? 여러분!

 

그래서 우리는, 매일 매일 ‘하나님! 하나님의 나라가 임하게 하옵시며, 하나님의 뜻이 이루어지게 하옵소서! 내 안에서 하나님의 통치를 그렇게 순순히, 기쁘게 받아들일 수 있는, 그러한 하나님의 나라가 임하고, 하나님의 뜻이 이루어지는, 그러한 하나님의 백성이 되게 해 주옵소서!’라고 기도하는 것이, ‘하나님의 나라가 임하옵시며, 뜻이 하늘에서 이룬 것 같이, 땅에서도 이루어지이다.’라고 기도하는 것입니다.

 

하나님의 뜻이 이루어진다면, 이 세상에서의 부귀와 생명까지도 내려놓고, 기쁘게 그 뜻에 따르겠다고 나서는 자들이, 그리스도인들이에요. 하나님의 뜻은, 우리가 하늘의 것을 영위하고 누리는 데 있지, 이 세상의 것들을 붙들고 애걸하는 데 있지 않습니다.

 

그리스도인의 죽음은, 우리 믿음의 승리의 시간인 것입니다. 그리스도인의 죽음은, 하나님 한 분만을 붙들기 위해, 이 땅의 모든 것을 놓는 것이 바로, 그리스도인의 죽음인 것입니다. 내가 사랑하는 가족! 내가 사랑했던 이 세상의 모든 것을, 하나님을 닮기 위해 모두 놓는 것을, ‘신자의 죽음’이라고 이야기 합니다. 그래서 하나님께서 ‘성도의 죽음을 귀하게 여긴다.’고 말씀하고 계신 것입니다.

 

우리는 이 땅에서 그렇게 매일 매일 세상에 대해서 죽어야 합니다. 그리고 결국에 우리의 목숨을 놓아야 할 때, 아쉬움 없이, 기쁘게 떠날 준비를 해야 하는 것입니다. 그래서 매일 매일 우리는 그 십자가 앞에, 우리가 갖고 있고, 우리가 원하는 것들! 우리가 기뻐하는 것들! 다 내려놓아야 하는 것입니다. 시편 116편 15절로 가겠습니다.

 

(시편 116:15)

15 성도의 죽는 것을 여호와께서 귀중히 보시는도다 (성도의 죽는 것을, 여호와께서 귀중히 보시는도다!)

 

여러분! 정말 천국을 사모하십니까? 정말 그 곳에 가고 싶으십니까? 아니면 이곳이 더 좋으십니까? 이곳에서 누리던 많은 것들을 다 놓고, 기쁘게 갈 수 있을 만큼, 그 하나님나라를 아십니까, 여러분? 하나님나라는 이미 임했고, 반드시 임할 것이며, 하나님의 뜻도 이미 이루어져 있고, 반드시 이루어 질 것입니다. 우리는 환란과 궁핍 속에서도, 그 나라를, 그 뜻을, 믿음으로 넉넉히 이기며 사는 자들이고, 죽음까지도 불사하며, 하나님의 뜻을 좇아야 하는, 그리스도인인 것입니다.