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4. 主の祈り講海(マタイ6:9-13) 본문

講解説教/主の祈り

4. 主の祈り講海(マタイ6:9-13)

cocoa 2026. 3. 14. 18:31

4. 主の祈り講海(マタイ6:9-13)

マタイによる福音書6章9節から13節までを共に奉読しましょう。

 

(マタイによる福音書 6:9-13) 

9 だから、あなたがたはこう祈りなさい。天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。

10 御国が来ますように。御心が行われるように、天にあるように地の上にも。

11 わたしたちに必要な糧を今日与えてください。 12 わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。

13 わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。(国と力と栄光は、永遠にあなたのものです。

 

人類の歴史上、最も大きな実験は、おそらく共産主義のイデオロギーでしょう。共産主義!マルクスとエンゲルスがですね、「共産党宣言」で、「すべての人が能力に応じて働き、すべての人が必要に応じて使う、プロレタリアのユートピアが、必ずこの地にやってくる。そして、私たちが必ずそのプロレタリア・ユートピアをこの地に作るのだ」と豪語しました。

 

しかし、その70〜80年の間、共産主義がこの地に残したものは、彼らが実験して残したものは、大惨事だけです。彼らが見落としたのは、人間がいかなる存在であるかということでした。人間は「トータル・デプラビティ(total depravity)」、すなわち完全な、全的な堕落をした罪人であるにもかかわらず、彼らは人間がいかなる存在であるかを知らなかったため、この地にユートピアを作ることができると考えたのです。それで、私たちの中にあるこの内在された力で、この地に平和と、幸福と、安寧を成し遂げることができると、彼らは誤解し、錯覚していたのです。

 

皆さん!私たちの力で地上楽園を、キリストの青い季節を、成し遂げることはできません。ですから、私たちはこの地のものではない、天のもの、その神の国を求めながら、この地のユートピアではない、あの天のユートピア、あの天国を望みながら生きるしかない、そのような存在なのです。ですから、私たちが先に見てきた主の祈りの多くの祈りが、すべて天の国のもの、天国的な内容だったのではないでしょうか。

 

ところが、今日の祈りの内容を見ると、「わたしたちに必要な糧を今日与えてください……」となっているわけです。あたかも「この地のものを求めなさい」と言っているかのように、私たちが誤解する余地のある一節です。この一節を見て、「よし、これだ!まさにこれを待っていたんだ!今日わたしたちに日用の糧を与えてください!神様がいよいよ、この地のものを求めよという箇所を出された!うちの牧師がずっと叫び続けている主張とは違う内容が出てきたが、これをどう解決するのか」と思うかもしれません。

 

皆さん!もしこの内容が、私たちが理解するように、この地で私たちが必要なものを求める内容であるならば、聖書は聖書自体の中に矛盾を抱えていることになります。すぐその下、下の節を見ますと、マタイによる福音書6章25節にはこうあります。

 

(マタイによる福音書 6:25) 

25 だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。(と言うのです。)

まさに同じ章で、このような矛盾した話をしています。しかし、聖書が矛盾を語るはずがないではありませんか。ならば、この一節には何か深遠な意味があるということです。ですから、今日はその深遠な意味を一緒に明かしてみようと思います。私たちは毎週深遠ですよね。でしょう?

 

さて、皆さん!その聖書をよく見てください。マタイ6章を見ると、「日用の糧を与えてください」の横に、数字や記号がついているはずです。そしてその下に、もしや「明日の糧」と書かれているかもしれません。

 

なぜこのような注釈がその言葉についているのかというと、「日用の糧」というこの「日用の」にあたるギリシャ語「エピウシオン」という意味が、いくつかの意味を持っているからです。そして、この「エピウシオン」という単語は、ギリシャ語のいかなる文献にも使われていません。この単語は!そして聖書にも、まさにここ一箇所だけです。そしてルカによる福音書にもう一度使われますが、そのルカにある主の祈りに、たった一度だけ使われた単語なのです。

 

ですから、この時代の言語学者や聖書学者たちは、その単語がどのように使われているのかを、推論できずにいるのです。それで、三つの見解がありますが……。

 

第一の見解が、「エピウシオン」という単語が「エピ」と「ウシア」の合成語だと見るものです。それで、生活に必要な糧、日用の糧を「生活に必要な糧」と見る見解があります。第二に、「その日のための、当日のための糧」、日用の糧を当日のための糧と見る見解があります。そして第三が、まさに最も多くの支持を受けている、「来るべき日、翌日」と見る見解です。来るべき日、翌日、明日!来るべき日の糧、翌日の糧、明日の糧。そう見るのです。

 

なぜこのような見解を多くの人が支持し、私もなぜこの見解を支持するのかというと、イエス・キリストが宣教当時使っていた言語は何ですか?アラム語です。「パッション(Passion of the Christ)」に出てくるあの言語、アラム語です。このアラム語はバビロンの言語です。

 

紀元前586年に、南ユダがバビロンに滅ぼされ、70年間、紀元前516年に神殿が再建されるまで、彼らはバビロンの捕囚としていたではないですか。その間、彼らは自分たちの言語をすべて忘れてしまいました。そしてアラム語を使い始めました。アラム語とギリシャ語が彼らの公用語だったのです。

 

むしろヘブライ語は、聖書を研究するような人々以外には、よく知られていませんでした。読み書きができなかったのです。ですから、当時使われていたそのアラム語、そのアラム語の主の祈りには、「明日の糧、マヘルという明日の糧」とそう書かれているのです。そして「明日の糧」という見解を聖書が支持しています。私たちの改革派神学、リフォームド神学の基本は、「聖書は聖書によって解くべきだ」というものです。聖書は聖書で解く。この言葉はどういう意味かというと、例えば、善いサマリア人の話がありますよね?

 

ある人がエルサレムからサマリアへ行く途中で、強盗に遭い、死ぬほど打ち叩かれます。誰もが通り過ぎていくだけなのに、善いサマリア人が通りかかり、彼を見て傷口にぶどう酒と油を注ぎ、包帯をして、宿屋へ連れて行きます。そしてそこで、宿屋の主人に任せながらコイン二枚を渡します。そして「私がまた戻ってくる」と言って去ります。

 

この話を、ある人はこのように解釈する人々がいます。非常にそれらしいのです。「通りすがりの人、強盗に遭った人はまさに私たちのことであり、エルサレムは天国、サマリアは世の中だ。強盗はサタンだ。強盗に散々叩かれて私たちが倒れているところに、善いサマリア人であるイエスが来られて、ぶどう酒と油を注ぐ。ぶどう酒は宝血、油は聖霊!油を注いで、彼を宿屋へ連れて行く。宿屋は教会。教会に預けるのだ。宿屋の主人は牧師。ああ、いいですね。牧師に預け、コイン二枚を渡すが、それは旧約と新約だ」と。そして「私がまた戻ってくる」と言ったのは「イエスの再臨」を語っているのだと。

 

それらしいでしょう?しかし、聖書のどこにもその話を裏付けるものはありません。この話の真意は、律法の専門家がイエスに尋ねるところにあります。「どうすれば永遠の命を得られますか?」すると「律法には何と書いてあるか」。「心を尽くし、命を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛し、隣人を自分のように愛せよ。そう書いてあります」。「では、あなたも行ってそのようにしなさい。そうすれば命を得られる」。

 

すると律法の専門家は「では、私の隣人とは誰ですか。誰を愛すべきなのですか」と聞きます。そこでこの例えを挙げられ、どのような結論を結ばれたのかというと、「あなたの隣人が誰なのか、あなたが隣人を選ぼうとするのではなく、あなたが先に隣人になってあげなさい」ということなのです。ですから、全く違う話なのです。いくら良い意味であっても、聖書が語るその真意を把握できなければ、それは非常に危険です。聖書を勝手に解釈する者は呪われるべし!

 

では、聖書がどのようにその「明日の糧」を支持しているのか、一度探してみましょう。旧約聖書で、神様がその明日の糧を今日与えられたことがありました。いつですか?マナです!六日目に、七日目の糧を与えられました。なぜ七日目の糧を六日目に与えたのですか。七日目は安息日だからです。

 

安息日は何をする日ですか。神様のあの完全な創造、あの完全な創造を楽しみ、記念し、享受する日です。そしてその安息日を守ることによって、終末に私たちに訪れるあの永遠の安息を待ち望む日が安息日なのです。ですから、六日目にその七日目の糧をしっかり所有していることで、どうなりますか。安息日に食べる糧が目の前にあります。すると、その安息日は必ず来るということを確認するわけです。

 

そしてその糧を持ちながら、七日目にすでに参与するのです。あたかも私たちが子供の頃、遠足の前日、お母さんがリュックサックに七星サイダーとチョコレートを全部入れてくれてですね、海苔巻きの材料を台所に積んでおいた時、私たちは遠足が明日であるにもかかわらず、今日すでに胸がドキドキし始めるのと同じです。その明日を、今日すでにときめく心で生きるのです。一日に十二回も窓を開けて見るでしょう?雨が降るか降らないか。その期待!それこそが、六日目に七日目の糧を与えた理由なのです。

ところで、このアラム語の主の祈りを見ると、その「マヘル」という単語は、明日の糧の「明日」という意味は、24時間後の明日ではなく、「今日とは違う日」を意味するものなのです。つまり、今日とは違う、来たるべき明日を意味するのです。終末的な意味があるのです。

 

ですから、私たちが「明日の糧を与えてください」と今祈るということは、その来たるべき終末、新しい天と新しい地、あの天国は必ず来る!そして私たちはその国の糧で生きるべき者たちだ!そして私たちは今、この終末を生きている。まさに、もうすぐその国は来るのだが、この六日目を私たちは生きているのです。ですから、その国の糧を求めることで、私たちはその国を今享受するのです。その国を楽しむのです。つまり、終末的な信仰を告白しているのです。

 

終末的な信仰とは何でしょうか。私が大学生の時、軍隊を除隊して復学し、教養体育の時間にゴルフをしました。ゴルフクラスを受けたのですが、私には勝負根性がありましてね。私の友人、今は法官として活躍している友人が同期にいたのですが、彼と一緒にその教養体育を聞いたのですが、彼も非常に勝負根性のある友人でした。それで、果川の競馬場の、一番安い練習場に行って、毎日練習したのです。

 

ところが、二箱くらい打つと限界です。当時、始めたばかりの学生ですから。しかし、打ってから翌日に試験を受けなければならないのに、彼は帰りました。彼を送り出して、「私も帰るよ」と車に乗るふりをして、また戻って二箱もっと打ちました。ところが、そこで肋骨にヒビが入ったのです。二本も!あまりに激しく運動しすぎて、非常に苦しくて病院へ行ったのですが、レントゲンを撮ったらヒビが入っていました。

 

ところが、そのヒビが入った肋骨の間に、こんなに大きな塊が三つ見えるのです。レントゲンに!そしてその藪医者が、あろうことか「ガンかもしれない」と言うのです、これが!そして、これほど大きなガンなら、非常に危篤だと言うのです、私に。なんてことだ!まるで全身の力が抜けてですね。組織検査をして、結果が出るその日まで待つのですが、何も手につきませんでした。「もうすぐ死ぬんだな」という考えが私を支配したからです。

 

私は当時、大学歌謡祭の大賞を受けて、それほど経っていない時でした。だから、どれほど夢が多かったことでしょう。ところが、あんなことこんなこと何も思い出せず、ただ私の周りの人々、その方々にこれまでよくできなかったこと、そんなことが思い出されました。心の中で恩義のある方々に恩返ししたい、周りの人に親切にしたい、そうなったのです。他の欲心は何ひとつありません。「明日行って試験をどう受けるか」なんて考え、微塵も浮かびませんでした。

 

後で結果が出たのですが、ただ筋肉が固まっただけだと言われて)、私はその人の手を握って、30分間「ありがとうございます!」と言いました。その人が何かしてくれたわけでもないのに。ただ誤診しただけなのに、「先生、ありがとうございます!」。その人が白いガウンを着ていることさえ、感謝したくなったのです。それが終末的な信仰です。「明日この地に終末が来るなら、今日私たちはどう生きるか」ということです。

 

私たちは明日の糧、明日の糧を今求めることで、「神様、その通りです。あの日(終末の日)は必ず来るでしょう。私はあの日を準備しながら生きる人間です」という告白をするのが、「今日、私たちに明日の糧を与えてください」と祈ることなのです。

では、その天の糧とは何ですか。何で食べて生きるのですか。ヨハネによる福音書6章27節へ行きましょう。

 

(ヨハネによる福音書 6:27-35)

 27 朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。

28 そこで彼らが、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と言うと、

29 イエスは答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」

30 そこで彼らは言った。「わたしたちが見てあなたを信じるために、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。

31 わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです。」

32 イエスは言われた。「はっきり言っておく。天からのパンをあなたがたに与えたのはモーセではない。わたしたちの父が天からのまことのパンをあなたがたに与えてくださるのである。

33 神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」 34 そこで、彼らが「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、

35 イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」

 

そのパンは何ですか。イエス様だということです。あの天の糧、明日の糧は、イエス様だということです。どのようなイエスですか。そのイエスは天の王ではないですか。天の王なのに、この地の王ではないために、この地に降りてきて、あらゆる艱難と、迫害と、苦難を受けたあのイエス!そのパンを私は今、求めているのです。私もその人生に参与したいということです。「神様、今日、明日の糧、そのイエスを私に与えてください」と祈ることは、「私はそのイエス・キリストの人生に参与して生きます」という信仰告白なのです。「今日必要な私のパンをください」という話ではなく!

では、この苦難を甘受し、この迫害を甘受して、「神様、明日の糧、そのイエスを私に与えてください」と祈れる人は、どのような人ですか。その栄光を見た人々以外には祈れません。その迫害をどうやって甘受して行けますか。行けません。その栄光を見た者たちだけが、その祈りを捧げることができます。「今日、私たちに明日の糧を与えてください」と祈れるのです。コリントの信徒への手紙二、4章17節を見てみましょう。

 

(コリントの信徒への手紙二 4:17-18)

 17 わたしたちの一時の軽い苦難は、比べものにならないほど重くて永遠の栄光をもたらしてくれます。

18 わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは一時的ですが、見えないものは永遠に続くからです。

 

その艱難を、「軽いもの」だと語っているのです。しかし、本当に軽いですか。皆さん、私たちがこの地を生きながら、私たちに艱難が訪れるではないですか。皆さん、誰もが一度や二度は経験したことがあるでしょう。それが本当に軽かったですか。そうではありません。ある時は本当に涙が出ないほど、その艱難が苦しい時があります。ある時は外へ出て自ら首を吊って死にたいと思うほど、その艱難が苦しく、苦痛なのです。艱難はそれほど甘いものではありません。

 

しかし、使徒パウロはここで「軽いもの」だと言います。そして、その苦痛は「一時的」だと言います。何と比較して?その苦痛がそれほど大きいのに、それを軽いものだと言える理由は、あれほど大きな苦痛も、あの天の栄光を見た後では、何でもなかったというのです。

 

ですから、その栄光を見た者たちは、このように祈れるというのです。私は遭うべきことは全部遭ってきた!四十に一つ足りない鞭で死ぬほど打たれたこともあるし、ことあるごとに牢獄に入れられてあのように侮辱され、苦しく生活をしたにもかかわらず、私があの天の栄光を見た後では、この艱難は軽いものだというのです。何でもなかった!

 

ですから、皆さんはその天の栄光を味わい、天の栄光を悟った者たちなのです。神様によって!だからこそ、私たちはこのような祈りを捧げることができるのです。「神様、私がそのイエス・キリストの人生に参与させてください。あの明日の糧を今日、私に与えてください。私はこの地を、その糧イエス・キリストだけで生きます」と告白するのがまさに、この主の祈りの内容なのです。それがキリスト教です。

 

誰かが言うような、三拍子の救い!三拍子の祝福!そんなものはキリスト教にはありません。ヨハネの手紙三にある、「愛する者よ、あなたの魂が幸いを得ているように、すべての点でも幸いを得、また健やかであるようにと祈ります」という話が、何か「あなたのすることが全部うまくいけばいい」という話だと思われますか。とんでもない。「すべての点(凡事)」とは何ですか。聖書が語る凡事!コリントの信徒への手紙に出てくるではないですか。「絶えず喜び、絶えず祈り、すべてのことに感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」と言うでしょう?

 

私たちクリスチャンの凡事とは何ですか。神様が私たちの目を開かせてくださり、この地に私たちを放置せず、私たちの人生に介入して、私たちを導いていかれるその旅路で生じるすべての出来事を「凡事」と言うのです。その凡事がうまくいくとはどういうことですか。神様が私たちを叩いてでも、ここへ引き連れていくその働きのことです。それがうまくいくということです。それを「亨通(こうつう:物事が思い通りに運ぶこと)」と言うのです。

 

ヨセフは牢獄に閉じ込められていますが、神様が彼を造り上げようとするその道にヨセフがいるため、「彼の人生は亨通であった」と聖書が語るのです。ですから、あなたの魂が幸いを得ているように、あなたの魂が幸いを得たように、あなたの凡事が幸いであるようにと祈る言葉は何ですか。私たちの魂が幸いを得たとは何ですか。死んでいた魂が、神の統治、その主権の中に入ってきたということではありませんか。それが私たちの魂が幸いを得たということではありませんか。

 

それと同じように、あなたの凡事、あなたの人生も、神の主権、その統治の中に入るようになりますようにと祈っているのです。神の約束でもなく、ただ使徒パウロが祈ったのです。それを神の約束だとして、三拍子の祝福だと言えるのでしょうか。

 

一体、神の統治の中に入るとはどういうことですか。自分の思い通りに一つもならなくても神の御心が、自分の願いが一つも叶わなくても神の御心が成し遂げられることを、「凡事において幸いである」と言うのです。それが非常に大きく大切なものであるため、私が理解できない出来事がそれほどたくさん起きても、私は感謝するしかないのです。その出来事は、あの永遠の新しい天と新しい地のために、私に起きていることだからです。だから凡事に感謝しなさいということなのです。それがキリスト教なのです。

 

そのように天の糧、明日の糧、イエス・キリストを、迫害を甘受しながら求められる者だけが、隣人を愛することができます。なぜ私たちは隣人を赦せないのでしょうか。なぜ隣人を愛せないのでしょうか。神様はアダムにどのような呪いを与えられましたか。彼が罪を犯した時!「お前は自分の力で地を耕し、畑を耕し、そこから出る実りでお前の命を維持しなければならない」とそう呪われました。汗を流さなければ、お前は食べられない、と言われました。

 

ですから、その呪いの下にいる人々は、自分が汗を流して食べていかなければならないため、村中の人が皆、自分の競争相手なのです。だから、隣の家の子が勉強がよくできると、お腹が痛くなるのです。うちの子の競争相手だから!私が全く同じビジネスをしているのに、隣の店が自分より儲かっていると、気分が悪いのです。呪いの下にいる者は皆そうです。

 

しかし、神様の恵みを知り、あの天のものが何であるかを知り、その栄光を味わった人々は?天に志を置いて生きる人々は?無駄に彼らと競争しません。そうして右の頬を打たれた時、「いいよ、左の頬ももう一回打てよ。お前の気が済むなら、左の頬ももう一発打て」と言いながら、その相手を赦せる境地まで行くということです。そのように成長していけるのです。その栄光を見た者だけが、打った者に「もう一回打て」と赦しながら、「神様、私たちが自分に負い目のある人を赦しましたように、わたしたちの負い目を赦してください」と祈れるのです、その人が!

ところで内容をよく見ると、「私たちが自分に負い目のある人を赦したように、神様、あなたも、私がしたことを見て、そのように赦してください」と聞こえますよね。「わたしたちが自分に負い目のある人を赦しましたように、わたしたちの負い目を赦してください」と言うでしょう?あたかも私たちが神様の見本に先になるように聞こえますよね。ところが「わたしたちの負い目を赦してください」の箇所は、完了形で書かれているのです。

 

「アフェーカメン」という単語を使いましたが、このセム族の言語を最もよく研究したのが、ヨアキム・エレミアスです。そのヨアキム・エレミアスが一体この意味は何だろうかと研究しているうちに、この時制をそのままアラム語に移しました。それで「アラム語でイエス様がこの話をされた時は、どのような意味があったのか」とアラム語に移してみると、そのアラム語のこの完了形時制には、同時的な意味があるのです。同時的な意味!再びそのアラム語に訳してみると、「神様、私たちの罪を赦してください!それと同時に」同時多発的に起きるのです。「同時に私たちも、私たちに罪を犯した者を赦します」という内容なのです。

 

では、よく聞いてください。「神様、私たちの罪を赦してください!私たちも私たちに罪を犯した者を赦します」。同時に起きるのです。あなたが私を赦してくれたら赦す、ということではなく!ならば「神様、私の罪を赦してください」と言いながら、「あの人間だけはどうしても赦せない」と誰かを赦せていないとしたら、その祈りをどうやって捧げられますか。「神様、私の罪をすべて赦してください。ただ、この人間に対してだけは赦せません。だから、この罪だけ除いて、他の罪は赦してください」ということになります。神様にでたらめな祈りをすることになるのです。

 

「神様、私の罪を赦してください、ただしこれは少し目をつぶってください。これは私が最後まであいつの、とにかくあいつが破滅する姿を見てから、その後に神様の前によく行きますから、これはちょっと見逃して、残りは全部赦してください」という意味になるではありませんか。神様に「私の罪を赦してください」と言うためには、すべて神様の前に降ろして、それから祈らなければならないにもかかわらず!

 

できませんよね。だから聖書では、「あなたが隣人を赦さずに来るなら、神もあなたを赦さない」と言うのです。大変なことです。ならば私たちは神様に祈ることができません。そうでしょう?皆さんの心の中に、赦せていない人がたくさんいるでしょう。ならば私たちはこの祈りができない者たちです。マタイによる福音書6章14節を見ましょう。

 

(マタイによる福音書 6:14-15)

 14 もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。 15 もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。(と言うのです。)

 

大変ですね。マタイによる福音書18章35節に同じ話が書かれています。

 

(マタイによる福音書 18:35)

 35 あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。

 

赦さないというのです。どのような話の結論として与えられたものですか、これは。私たちがよく知る、一万タラントの借金がある家来の例えですよね。王が自分に一万タラントの借金がある家来を連れてきて「返せ」と言ったら、「返す能力がありません」と言いました。一万タラントは、当時として凄まじい大金です。当時、ペレアとガリラヤの人々がローマに納めていた一年分の税金が200タラントでしたから、一万タラントは個人にとってはとてつもない大金です。ですから、到底返せないことを象徴しているのです、一万タラントは!

 

一万タラントの借金がある家来を王は赦してあげました。ところが、外へ出ると自分に借金がある一人の仲間に出会ったのですが、100デナリオンの借金がある者です。胸ぐらを掴んで「なぜ返さない、この野郎!」と言って、牢屋にぶち込んでしまいました。すると王がその知らせを聞いて、彼を呼び戻し、「私はお前にあんなに大きな借金を赦してやったのに、お前はあいつ一人赦せないのか。こいつがこれを全部返すまで」一万タラントは人間には返せない金だと言いましたよね。「これを全部返すまで牢に入れろ」と言ったのです。

 

その話は何ですか。永遠の牢屋に入れたということです。地獄に行ったということです。だから、赦しを受けた者が誰かを赦せなかったとしたら、それは地獄に行くということです。神様は到底その人を赦さないということなのです。大変なことになりました。ますます。ね?雪上加霜です。ならば私たちは一体どうなるのですか。

 

今、ここで「ユニオン・クライスト(Union Christ)」、キリストとの連合がまた動員されるのです。皆さんはイエスの死に参与した者であり、イエスのあの復活に参与した者であり、イエスの33年の人生が皆さんの人生になった人々です。そうでしょう?ですから私たちは、その復活と、死と、あのゲッセマネの祈りにまで、参与した者となりました。ですから私たちは「御心が天で行われるように、地でも行われますように」という祈りを、「神様、あなたの御心のままになさってください。私の思いではなく、あなたの御心のままに」という、イエス・キリストのあの祈りに連合することによって、私たちはそのような祈りを捧げられる者になったと語ったではありませんか。

 

ならば、十字架の上でイエス様が、「父よ、彼らを赦してください。彼らは自分が何をしているのか知らないのです。彼らを赦してください」と祈られた時、皆さんはどこにおられたのですか。そのイエス・キリストの内におられる方々です、皆さんは。皆さんは赦した者たちなのです。これが筋が通る話ですか。一体。私たちのような人間が、あのイエス・キリストの人生に参与して、あの十字架で世を赦してしまったあの赦しに参与した者になったということが、あり得ますか。ところが、神様が私たちをそのように扱ってくださるというのです。だから、赦した者となったのです。

 

ですから私たちは神様の前に堂々と赦しを乞える者になったのです。「神様、私が世を赦したように、あなたも私を赦してください」と堂々と祈れる者になったということなのです。この事実の前に、皆さんは他にまた何を求めようというのですか。このとてつもない奇跡の前に。私たちは赦した者になってしまいました。そして、堂々と赦しを求められる者になってしまいました。

だからこそ、私たちがそのイエス・キリストの人生に参与しながら、隣人を実際にこの人生の中で赦しながら生きるのです。赦さなければならなくなったのです。キリストの人生が私の人生になったからです。お分かりですか。私が赦したから神様が私を可愛がってくださるのではなく、私を「称義(ディカィオスネー:義と認めること)、ノット・ギルティ(not guilty)、お前は正しい」としてくださったから、「すでにお前は赦した者だ」と言ってくださったから、私たちは赦しながら行くのです。似たような言葉に聞こえますが、全く違うのです。いいですか。私たちは赦した者になったのです。そのように!だから神様の前に、主の祈りを捧げられる者になったのです。

 

神様はこのようにはっきりと、「あなたの兄弟を赦せなければ、お前は天国に行けない」と語られましたが、私たちは赦したのです。これが理解できる人は、本当に新しく生まれた人です。皆さん。それが「キリストとの連合」なのです。ですから私たちの人生の中で、そのような赦しをしながら私たちは生きるべきなのですが、その赦しを一度二度してみるとですね、その赦しがいかに私たちを自由にしてくれるか、皆さんは知ることができます。

 

「パピヨン」という映画をご覧になると、最後の方にどのようなシーンが出てきますか。スティーブ・マックイーン!ボート代わりの浮き袋のようなものを投げて、ダスティン・ホフマンと二人で立ちますよね。「一緒に行こう」見下ろすと怖いです。「お前一人で行け」。スティーブ・マックイーンの九度目の挑戦です。それが九度目の挑戦。お盆カラオケ(※韓国のバラエティ番組ネタ)ではなく、九度目の挑戦で、スティーブ・マックイーンがあの絶壁の下へ飛び込みますよね。飛び込んで潮流を利用して、脱出に成功します。そうして「わあ!」と勝利の歓喜のポーズをします。手を振ります。ダスティン・ホフマンに。

 

するとダスティン・ホフマンが言いますよね。見下ろしながら、「お前がいくらこの悪魔の島を脱出したとしても、お前が自分の心の中にあるお前の牢獄から脱出できないなら、お前は永遠に牢獄の中にいるんだぞ」という名言を残すのです。ご覧になっていないのですか、この名画を。教養必須なのに!そうして「パピヨン」は終わります。

 

これは実話です。パピヨンの!このパピヨンは、アンリ・シャリエールというフランス人ですが、1930年の20歳の時ですか、彼が!とにかくパリ市内で酒を飲んでいたところ、殺人事件が起きたのですが、ある検事が自分の有能さを示すために、この人をただハメたのです。それでパリ中が、フランス中がこの検事に焦点を合わせました。「おお、有能な検事だ」と。

 

ところが、この検事はアンリ・シャリエールが犯人ではないことを知っています。それにもかかわらず、自分が有能な検事であることを立証するために、他の不良たちを証人として動員し、彼を殺人犯に仕立て上げ、1941年に死刑宣告を下してしまいます。そしてあの悪魔の島へ送ってしまったのです。だからスティーブ・マックイーンがあのように死にそうになり、ボコボコにされながらも脱出しようとするのです。悔しいからです!

 

アンリ・シャリエールが脱出した後、「バンコ」という小説を書きました。自伝的小説、自分の自叙伝ですね。そこでそのように語っているのです。そこから脱出して、この人は南米に行きました。アルゼンチンをはじめとして、とにかく南米を転々としながら、お金をものすごく稼ぎました。それで60歳か61歳にフランスへ戻ります。時効が終わったからです。なぜ戻るか分かりますか。その人たちを捕まえて殺すために行きます。復讐の刃を研いで。あの検事と、偽証をして自分を死刑宣告に追い込んだあの不良を、全員殺しに行くのです。

 

行ったのですが、8日間、自分の子供の頃の街を歩いてみたり、愛する人たちのところへ行って遠くから彼らの生活を見たりしながら、彼はその復讐を諦めます。彼らを赦します。そして何と「バンコ」という本に書き記したか分かりますか。「私は神様にこのように祈った。私が復讐を諦めた代償として、二度とこのような悲劇が起きないようにしてほしいと神様に祈った。そして自分自身にささやいた。お前の勝ちだ、友よ。お前は自由で、愛される未来の主人公としてここにいる。この件に関わったすべての人のうち、お前が最も自由で、最も幸せな人間だ。友よ」と自分に語るのです。

 

そして、自分は自由を得たというのです。それまではお金もたくさん稼ぎ、一生懸命生きましたが、唯一の目的は復讐でした。しかし、彼らを赦した後、彼はついにパピヨンになったのです。パピヨンは蝶という意味ですから。いよいよひらひらと、ようやく飛べるようになったのです。赦した後に!赦しは私たちに利益になるのです。だから神様は「赦しなさい」とおっしゃるのです。

皆さん!私たちが主の祈りを学びながら忘れてはならないこと。私たちが神様に請願する祈りの内容です。「神の国が来ますように。その御心が成し遂げられますように。赦してください」。請願する内容ですが、この主の祈りの内容は同時に誓約なのです。

神様、神の国が来ますように。その意味は何ですか。「私はその国が来れば、その御心に従います」という誓約です。あなたの御心が行われますように。「私はその御心に身を任せます」という誓約です。赦してください。「私も隣人を赦します」という誓約なのです。そうです、皆さんは主の祈りを唱えながら、絶えず皆さんはそのような神様の前での誓約を捧げているのです。

 

皆さん。アダムの罪によって、私たちは自分の命を、自ら維持しながら生きるようになりました。農業を営み、汗を流し、その汗の実りである糧で生きるようになっています。しかし、イエスによって、その呪いから解かれた者たちは、神様がくださる天の糧で今日を生きられるようになりました。そして、そのように生きなければならないのです。

 

私たちは終末を生きる、明日を待つクリスチャンなのです。あの新しい天と新しい地を待つクリスチャンです。ですから私たちはこの地の糧で生きるのではなく、あの新しい天と新しい地、あの明日の糧をくださいと、あのイエス・キリストだけで生きさせてくださいと、神様の前で祈りをするのです。

 

ですから私たちはそれで満足して生きられる者たちなので、隣人を赦すのです。妬まないのです。嫉妬しないのです。彼らを愛することができるのです。それがクリスチャンの人生です。だから、「私もこのように赦す者となったので、私の罪も確かに赦されたことを私は確信します、神様」と神様の前に信仰告白をするのが、まさにこの主の祈りなのです。

 

ですから、「今日、わたしたちに必要な糧を今日与えてください。わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように」と祈りながら、私たちは自分たちの身分をもう一度確認するのです。そして「明日の糧であるイエスがこのように私の内にいるため、あの日(終わりの日)は速やかに来る。必ず来る。そして私は、その明日を生きる者だ。私はこの地の寄留者だ。この地を生きる者ではなく、天国を生きる者だ」と確信し、確認しながら、そのように天国を楽しみ、享受しながら生きていくのです。それが主の祈りを捧げる真意なのです。

 

非常に難しい話のようでしたが、何とか引っ張られてきたら、結論がここまで来ました。でしょう?先週、ある学生が私に、「非常に難しい内容のようですが、牧師の説教を聞いていると、最後までついて行ってみれば、そこまで来ている。しっかり腑に落ちたようだ」と言われました。私にただ「分かりやすくうまく説明しますね」と言えばいいのに、何をあんなに難しく言うのか。それですよ。

 

「今日、わたしたちに必要な糧を今日与えてください。わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように」。この真意はまさにそれです。

 

 

 


4.주기도문강해  (마6:9-13) 

 

 

마태복음 6장 9절에서 13절까지를 함께 봉독하도록 하겠습니다.  

 

(마태복음 6:9-13)  

9 그러므로 너희는 이렇게 기도하라 하늘에 계신 우리 아버지여 이름이 거룩히 여김을 받으시오며 

10 나라이 임하옵시며 뜻이 하늘에서 이룬 것 같이 땅에서도 이루어지이다 

11 오늘날 우리에게 일용할 양식을 주옵시고 

12 우리가 우리에게 죄 지은 자를 사하여 준 것 같이 우리 죄를 사하여 주옵시고 

13 우리를 시험에 들게 하지 마옵시고 다만 악에서 구하옵소서 (나라와 권세와 영광이 아버지께 영원히 있사옵나이다 아멘) 

 

인류의 역사상 가장 큰 실험은, 아마 공산주의 이데올로기일 것입니다. 공산주의! 마르크스와 엥겔스가요, ‘공산당선언’에서, ‘모든 사람들이 능력껏 일하고, 모든 사람들이 필요껏 쓰는, 프롤레타리아 유토피아가, 반드시 이 땅에 온다. 그리고 우리가 반드시 그 프롤레타리아 유토피아를 이 땅에 만들 것이다.’라고 호언장담을 했습니다.  

 

그런데 그 7-80년 동안, 공산주의가 이 땅에 남긴 것은, 그들이 실험하여 남긴 것은, 대재앙뿐입니다. 그들이 놓친 것은, 인간이 어떤 존재인가를 놓친 거예요. 인간은 토럴 디프로버티(total depravity)! 완전한, 전적인 타락을 한 죄인임에도 불구하고 그들은, 인간이 어떠한 존재인지를 알지 못했기 때문에, 그들은 이 땅에 유토피아를 만들 수 있다고 생각했어요. 그래서 우리 안에 있는 이 내재된 힘으로, 이 땅에 평화와, 행복과, 안녕을 이룰 수 있다고 그들은 오해하고, 착각했던 것입니다.  

 

여러분! 우리의 힘으로 지상낙원을, 그리스도의 푸른 계절을, 이루어 낼 수 없습니다. 그래서 우리는 이 땅의 것이 아닌, 하늘의 것! 그 하늘나라를 구하면서, 이 땅의 유토피아가 아닌, 그 하늘의 유토피아! 그 천국을 바라면서, 살 수밖에 없는 그러한 존재들이라는 거예요. 그래서 우리가 앞서 살펴본 주기도문의 많은 기도들이, 다 하늘나라의 것! 천국적인 내용 아니었습니까? 

 

그런데 오늘 기도의 내용을 보면은, ‘오늘날 우리에게 일용할 양식을 주옵시고…’ 이렇게 되어 있다고요. 마치 ‘이 땅의 것을 구하라!’라고 이야기 하는 것처럼, 우리가 오해할 소지가 있는 구절입니다. 이 구절을 보면서, ‘야 좋다! 바로 이거야 기다렸어! 내가! 오늘날 우리에게 일용할 양식을 주옵시고! 하나님께서 이제 드디어, 이 땅의 것을 구하라고 하는 그 대목이 나왔다! 우리 목사가 계속 외치는 주장하는 그 내용이 아닌, 다른 내용이 나왔는데, 이걸 어떻게 해결할 것인가?’ 

 

여러분! 만약에 이 내용이 우리가 이해하는 것처럼 ,이 땅에서 우리가 필요한 것을 구하는 내용이라면, 성경은 성경 자체에서 모순을 갖고 있는 거예요. 바로 고 밑에, 밑의 구절을 보면요, 마태복음 6장 25절을 보면,  

 

(마태복음 6:25)  

25 그러므로 내가 너희에게 이르노니 목숨을 위하여 무엇을 먹을까 무엇을 마실까 몸을 위하여 무엇을 입을까 염려하지 말라 (그런다고요.)  

 

바로 같은 장에서, 이런 모순된 이야기를 하고 있다고요. 그런데 성경이 모순을 이야기할 일은 없지 않습니까? 그렇다면, 이 구절에는 뭔가 심오한 뜻이 있다는 거예요. 그러니까 오늘 그 심오한 뜻을 한번 같이 밝혀 보는 것입니다. 저희는 매주 심오해요. 그죠? 

 

자, 여러분! 그 성경을 한 번 잘 보세요. 마태복음 6장에 보시면, ‘오늘날 우리에게 일용할 양식을 주옵시고’ 고 옆에, 일용할 양식 옆에, 숫자나 기역(ㄱ)! 이렇게 붙어 있을 거예요. 그러고서 그 아래에, 혹 ‘내일의 양식’ 이렇게 쓰여 있을 겁니다.  

 

왜 이런 관주가 그 말에 붙어 있냐면, ‘일용할 양식’이라고 하는 이 ‘일용할’이라는 이 ‘에피우지온’이라는 헬라어의 뜻이, 여러 가지의 뜻이 있기 때문에 그래요. 그리고 이 ‘에피우지온’이라는 단어는, 헬라어의 어느 문헌에도 쓰여 있지 않아요. 이 단어는! 그리고 성경책에도 딱 요기 한 군데 있어요. 그리고 누가복음에 한 번 더 쓰이는데, 그 누가복음에 나오는 그 주기도문에, 딱 한번 쓰인 단어거든요.  

 

그러니까 이 시대의 그 언어학자들이나, 성경학자들이, 그 단어가 어떻게 쓰여 있는지를, 추론을 못하고 있는 거예요. 그래서 세 가지 견해가 있는데…,  

 

첫 번째 견해가, ‘에피우지온’이라는 이 단어가, ‘에피’와 ‘우지아’의 합성어로 보는 거예요. 그래서 삶에 필요한 양식! 일용할 양식을, ‘삶에 필요한 양식!’ 이렇게 보는 견해가 있고요. 두 번째가 ‘그 날을 위한, 당일을 위한 양식!’ 일용할 양식을 당일을 위한 양식! 이렇게 보는 견해가 있어요. 그리고 세 번째가 바로, 가장 많은 지지를 받고 있는, ‘오는 날! 다음 날’로 보는 견해입니다. 오는 날, 다음 날, 내일! 오는 날의 양식! 다음 날의 양식! 내일의 양식! 그렇게 보는 거예요.  

 

왜 이런 견해를 많은 사람들이 지지하고, 저도 왜 이 견해를 지지하냐 하면은, 예수 그리스도께서 사역 당시에 쓰던 언어가 뭐죠? 아람어라고요. ‘패션 오프 더 크라이스트(Passion of the Christ)’에서 나오는 그 언어? 아람어거든요. 이 아람어는 바벨론의 언어예요.  

 

BC 586년에, 남유대가 바벨론에게 망하면서, 70년 동안, BC 516년에 성전이 재건될 때까지, 70년 동안 그들이 바벨론의 포로로 있었잖아요? 그동안 이들이 그들의 언어를 다 잊어 버렸다고요. 그리고 아람어를 쓰기 시작했어요. 아람어와 헬라어가 그들의 통용어였었다고요.  

 

오히려 히브리어는, 성경을 연구하는 그러한 사람들 이외에는, 히브리어를 잘 알지 못했어요. 읽고 쓰지를 못했다고요. 그래서 그 당시에 쓰였던 그 아람어! 그 아람어 주기도문에는, ‘내일의 양식! ‘마헬’이라는 내일의 양식!’이라고 그렇게 써 있다고요. 그리고 ‘내일의 양식’이라는 견해를 성경이 지지해 주고 있다고요. 그 우리의 개혁신학! 리폼드 개혁신학의 기본은, ‘성경은 성경으로 풀어야 한다.’라는 거거든요. 성경은 성경으로 풀어야 한다. 이 말이 무슨 말이야 하면은? 예를 들어서, 선한 사마리아인의 이야기 있죠? 

 

어떤 한 사람이, 예루살렘으로부터 사마리아로 가는 도중에, 강도를 만나서 거반 죽게 두들겨 맞습니다. 다들 그냥 지나가는데, 선한 사마리아인이 지나가다가 그를 보고서, 상처에다가 포도주와 기름을 붓고, 싸매고, 데리고 가서 여관으로 가죠? 그리고 거기에서 그 여관 주인에게 맡기면서, 동전 두 잎을 준다고요. 그리고 ‘내가 다시 돌아온다!’ 그리고 간다고요.  

 

이 이야기를 혹자가 이렇게 해석을 하는 사람들이 있어요. 굉장히 그럴 듯 하다고요. ‘지나가던 사람! 강도 만난 사람은, 바로 우리를 이야기하는 것이고, 예루살렘은 천국이고, 사마리아는 세상이다. 강도는 사탄이다. 강도한테 실컷 두들겨 맞고 우리가 있는데, 선한 사마리아인! 예수가 오셔서, 포도주와 기름을 붓고, 포도주는 보혈! 기름은 성령! 기름을 붓고, 그를 여관으로 데리고 간다. 여관은 교회! 교회에다 맡기는 거예요. 여관주인은 목사! 아이 좋죠? 목사에게 맡기고, 동전 두 잎을 주는데, 그게 구약과 신약이다!’ 이렇게 이야기 한다고요. 그리고 ‘내가 다시 돌아온다.’라고 한 건, ‘예수님의 재림’을 이야기하는 거다.  

 

그럴 듯 하죠? 그런데 성경 어디에서도 그 이야기를 뒷받침해주지 않아요. 이 이야기의 진위(眞僞)는요, 율법사가 예수님에게 물어봅니다. ‘어떻게 해야 우리가 영생을 얻을 수 있습니까?’ 그랬더니, ‘율법에 뭐라고 쓰여 있냐?’ ‘네 마음을 다하고, 목숨을 다하고, 뜻을 다하고, 힘을 다하여, 주 너의 하나님을 사랑하고, 네 이웃을 네 몸과 같이 사랑하라! 그렇게 쓰여 있습니다.’ 그러니까 ‘그럼 너도 가서 그렇게 행하라! 그럼 영생 얻을 수 있다.’ 그래요.  

 

그러니까 율법사가, ‘그럼 누가 내 이웃입니까? 누구를 가서 사랑해야 하는 겁니까?’ 그러니까 이 비유를 들어 주시면서, 뭐라고 결론을 지으시는 거냐 하면은, ‘네 이웃이 누구인지? 네가 그 이웃을 고르려고 하지 말고, 네가 먼저 이웃이 되어주라!’라는 거예요. 그러니까 완전히 다른 이야기라고요. 아무리 좋은 뜻이라고 할지라도, 성경이 말하는 그 진의를 파악해 내지 못하면, 그건 굉장히 위험하다고요. 성경을 임의로 해석하면, 저주를 받을 지어다! 

 

그러면 성경이 어떻게 그 ‘내일의 양식’을 지지하고 있는지를, 한번 찾아보도록 하겠습니다. 구약성경에, 하나님께서 그 내일의 양식을, 오늘 주신 적이 있었어요. 언젭니까? 만나! 여섯째 날에, 일곱째 날의 양식을 주셨단 말이에요. 왜 일곱째 날 양식을, 여섯째 날 주셨습니까? 일곱째 날은 안식일이기 때문에 그렇죠.  

 

안식일은 뭐하는 날이에요? 하나님의 그 온전한 창조! 그 완전한 창조를 즐기며, 기념하며, 누리는 날이죠. 그리고 그 안식일을 지킴으로 해서, 종말에 우리에게 올 그 영원한 안식을, 고대하는 날이 안식일이란 말이에요. 그래서 여섯째 날, 그 일곱째 날의 양식을 딱 소유하고 있음으로 해서, 어떻게 해요? 그 안식일에 먹을 양식이 내 눈앞에 있어요. 그러면 그 안식일은 반드시 온다는 것을 확인하는 것이지요.  

 

그리고 그 양식을 갖고 있으면서, 그 일곱째 날에 벌써 참여하는 거예요. 마치 우리가 어린 시절 소풍가기 전 날, 엄마가 배낭에다, 니쿠사쿠에다가, 칠성사이다 하고 초콜릿 하고 다 넣어주시고 말이에요? 김밥! 쌀 재료들을 부엌에다가 쌓아 놨을 때, 우리는 소풍이 내일인데도 불구하고, 오늘 벌써 가슴이 벌렁벌렁 뛰기 시작한다고요. 그 내일을, 오늘 벌써 두근거리는 마음으로 살아가는 거라고요. 하루에도 열두 번씩 창문 열어보잖아요? 혹시 비가 오나 안 오나? 그 기대! 그게 바로 여섯째 날, 일곱째 날의 양식을 준 이유라고요.  

 

그런데 이 아람어 주기도문에 보면, 그 ‘마헤르’란 단어는, 그 내일의 양식의 그 ‘내일’이라는 뜻은, 24시간 후의 내일이 아니라, ‘오늘과는 다른 날’을 뜻하는 거거든요. 그러니까 오늘과는 다른, 다가올 내일을 뜻하는 거예요. 종말적인 의미가 있는 거거든요.  

 

그리니까 우리가 ‘내일의 양식을 주옵시고,’라고 지금 기도를 한다는 것은, 그 다가올 종말! 새 하늘과 새 땅! 그 천국은 반드시 온다! 그리고 우리는 그 나라의 양식으로 살아야 할 자들이다! 그리고 우리는 지금 이 종말을 살아가고 있다. 바로 이제 곧 속히 그 나라는 올 것인데, 이 여섯째 날을 우리가 살아가고 있는 거예요. 그래서 그 나라의 양식을 구함으로 해서, 우리는 그 나라를 지금 누리는 거예요. 그 나라를 즐기는 거라고요. 그러니까 종말적 신앙을 고백하는 거라고요.  

 

종말적 신앙이라는 게 뭐예요? 제가 그 대학교 때, 군대 제대하고 복학하고서, 교양 체육시간에, 골프를 했어요. 골프클래스를 했는데, 제가 이 승부근성이 있어서 말이죠? 제 친구! 지금 인제 법관으로 아주 잘나가는 친구가 있는데, 동기였는데, 그 친구랑 같이 그 교양체육을 들었는데, 이 친구도 굉장히 승부근성이 있는 친구예요. 그래서 과천의 그 경마장에, 제일 싼 데 가서, 우리가 인제 매일 연습을 했거든요.  

 

그런데 한 두 박스씩 치면, 맥시멈 치는 거예요. 그때 처음 시작하는 학생들이니까! 그런데 치구서 그 다음 날 인제 시험을 봐야 되는데, 애가 갔어요. 가서 제가 걔 보내고, ‘나도 집에 갈 거야!’ 그러면서 차타는 척 하다가, 다시 들어가서 두 박스를 더 쳤어요. 그런데 거기에서 이 갈비에 금이 간 거예요. 두 대에! 너무 심하게 운동을 해서, 굉장히 괴로워서 병원에 갔는데, 엑스레이를 찍었더니, 금이 갔더라고요.  

 

그런데 그 금 간 고 갈비 사이에, 이렇게 커다란 혹 세 개가 보이는 거예요. 엑스레이에! 그러면서 그 돌파리가, 글쎄 암일지 모른다는 거예요. 이게! 그리고 이렇게 큰 암이면, 굉장히 위중하다는 거예요. 저한테! 세상에! 마치 온몸에 힘이 쫙 빠지면서 말이죠? 조직검사 하고, 다 하고선 이제 결과가 나오는 그 날까지 기다리는데, 아무 것도 못하겠더라고요. ‘이제 곧 죽는구나!’ 이런 생각이 저를 확 사로잡으니까 말이죠.  

 

제가 그때 대학가요제 대상을 받고, 얼마 안 있었을 때거든요. 그러니까 얼마나 꿈이 많았겠어요? 그런데 그런 거 저런 거 아무 생각도 안 나고, 그냥 제 주변에 있는 분들! 그 분들에게 내가 그동안 잘 못했던 거! 뭐 이런 거 생각나고요. 내 마음속으로 빚진 분들에게, 그거 갚고 싶고, 주변사람들에게 잘 해주고 싶고, 그렇게 되더라는 거예요. 다른 욕심 아무 것도 없어요. 어떻게 내일 가서 시험을 잘 볼까? 이런 생각, 그런 생각 아무 것도 안 들더라고요.  

 

나중에 결과가 나왔는데, 그냥 그 근육이 뭉친 거라 그래서, (하하하하) 제가 그 분 손을 잡고, 한 30분을, ‘감사합니다!’ 그 사람이 뭐 해준 게 있다고요? 그냥 오진 한 건데, ‘감사합니다. 선생님!’ 그 분이 하얀 가운 입고 있는 것도, 막 감사하더라고요. 그게 종말적 신앙이에요. ‘내일 이 땅에 종말이 온다면, 오늘 우리는 어떻게 살 것인가?’ 말이에요? 

 

우리는 내일의 양식! 내일의 양식을 지금 구함으로 해서, ‘하나님! 맞습니다. 그날은 반드시 올 것이고, 나는 그날을 준비하며 살아가는 사람입니다.’라는 고백을 하는 게, ‘오늘날 우리에게, 내일의 양식을 주옵시고’라고 기도하는 거예요.  

 

그럼 그 하늘의 양식은 뭐예요? 뭐로 먹고 사는 겁니까? 우린 요한복음 6장 27절로 가겠습니다.  

 

(요한복음 6:27-35)  

27 썩는 양식을 위하여 일하지 말고 영생하도록 있는 양식을 위하여 하라 이 양식은 인자가 너희에게 주리니 인자는 아버지 하나님의 인치신 자니라  

28 저희가 묻되 우리가 어떻게 하여야 하나님의 일을 하오리까  

29 예수께서 대답하여 가라사대 하나님의 보내신 자를 믿는 것이 하나님의 일이니라 하시니  

30 저희가 묻되 그러면 우리를 보고 당신을 믿게 행하시는 표적이 무엇이니이까 하시는 일이 무엇이니이까  

31 기록된바 하늘에서 저희에게 떡을 주어 먹게 하였다 함과 같이 우리 조상들은 광야에서 만나를 먹었나이다  

32 예수께서 이르시되 내가 진실로 진실로 너희에게 이르노니 하늘에서 내린 떡은 모세가 준 것이 아니라 오직 내 아버지가 하늘에서 내린 참 떡을 너희에게 주시나니  

33 하나님의 떡은 하늘에서 내려 세상에게 생명을 주는 것이니라  

34 저희가 가로되 주여 이 떡을 항상 우리에게 주소서  

35 예수께서 가라사대 내가 곧 생명의 떡이니 내게 오는 자는 결코 주리지 아니할 터이요 나를 믿는 자는 영원히 목마르지 아니하리라 

 

그 떡이 뭐라고요? 예수님이라는 거예요. 그 하늘의 양식! 내일의 양식은, 예수님이라는 거예요. 어떤 예수예요? 그 예수는 하늘의 왕이잖아요? 하늘의 왕인데, 이 땅의 왕이 아니기 때문에, 이 땅에 내려와서, 온갖 환란과, 핍박과, 고난을 받은 그 예수! 그 떡을 내가 지금 원하는 거예요. 나도 그 삶에 동참하겠다는 거예요. ‘하나님! 오늘날 내일의 양식! 그 예수를 나에게 주옵소서.’라고 기도하는 것은, ‘나는 그 예수 그리스도의 삶에 동참하여, 살겠습니다.’라는 신앙고백인 거예요. ‘오늘 필요한 내 양식 주세요!’ 그 얘기가 아니라!  

 

그러면 이 고난을 감수하고, 이 핍박을 감수하고, ‘하나님! 내일의 양식! 그 예수를 나에게 주옵소서!’라고 기도할 수 있는 사람은, 어떤 사람들이 기도할 수 있습니까? 그 영광을 본 사람들 이외에는 기도 못해요. 그 핍박을 어떻게 감수하고 가요? 못 간다고요. 그 영광을 본 자들만이, 그 기도를 할 수 있어요. ‘오늘날 우리에게 내일의 양식을 주옵소서!’라고 기도할 수 있다고요. 고린도후서 4장 17절을 한번 보겠습니다.  

 

(고린도후서 4:17-18)  

17 우리의 잠시 받는 환란의 경한 것이 지극히 크고 영원한 영광의 중한 것을 우리에게 이루게 함이니  

18 우리의 돌아보는 것은 보이는 것이 아니요 보이지 않는 것이니 보이는 것은 잠깐이요 보이지 않는 것은 영원함이니라 아멘.  

 

그 환란을? 경(輕)한 것이라고 얘기한다고요. 그런데 정말 경합니까? 여러분! 우리가 이 땅을 살아가면서, 우리에게 환란이 오잖아요? 여러분! 다 한두 번씩은 겪어 봤잖아요? 그것이 정말 경하던가요? 안 그래요. 어떨 때는 정말 눈물이 안 나올 만큼, 그 환란이 괴로울 때가 있어요. 어떨 때는 나가서 스스로 내가 목을 콱 메달아 죽고 싶은 마음이 들 만큼, 그 환란이 괴롭고 고통스럽다고요. 환란이 그렇게 만만하지 않아요.  

 

그런데 사도바울은 여기서 ‘경한 것’이라고 그래요. 그리고 그 고통은 ‘잠시’라고 얘기해요. 뭐와 비교해서? 그 고통이 그렇게 큰데, 그것을 경한 것이라고 이야기 할 수 있는 이유는, 그렇게 큰 고통도, 그 하늘의 영광을 내가 보고나니까, 아무 것도 아니더라는 거예요.  

 

그렇기 때문에, 그 영광을 본 자들은, 이렇게 기도할 수 있다는 거예요. 내가 당할 만큼 당해봤다! 내가 40에 하나 감한 매를 죽도록 맞아보기도 하고, 걸핏하면 감옥에 들어가서 그렇게 모욕당하고 힘들게 생활을 했는데도 불구하고, 내가 그 하늘의 영광을 보고 나니까, 이 환란은 경한 것이라는 거예요. 아무것도 아니더라! 

 

그래서 여러분은 그 하늘의 영광을 맛보고, 하늘의 영광을 깨달은 자들이란 말이에요. 하나님에 의해서! 그렇기 때문에 우리는 이런 기도를 드릴 수 있는 거예요. ‘하나님! 내가 그 예수 그리스도의 삶에 동참하게 해 주옵소서! 그 내일의 양식을 오늘날 나에게 주옵소서! 나는 이 땅을 그 양식 예수 그리스도로만 살겠습니다!’라고 고백하는 게 바로, 이 주기도문의 이 기도의 내용이란 말이에요. 그것이 기독교예요.  

 

누가 이야기하는 것처럼, 3박자 구원! 3박자 축복! 이런 것은 기독교에 없어요. 요한3서에 나오는, ‘사랑하는 자여! 내 영혼이 잘 됨 같이 범사에 잘 되고, 네가 강건하기를 내가 간구하노라.’ 그 이야기가 뭐 ‘네 하는 일이 다 잘 됐으면 좋겠다.’ 그 얘긴 줄 아십니까? 천만에요 ‘범사(凡事)’라는 게 뭐죠? 성경에 말하는 범사! 고린도전서에 나오잖아요? ‘범사에 감사하라! 항상 기뻐하라! 쉬지 말고 기도하라! 이는 그리스도 예수 안에서 너희를 향한 하나님의 뜻이라.’ 그러죠? 

 

우리 그리스도인들의 범사라는 게 뭐죠? 하나님이 우리의 눈을 떼어주시고, 이 땅에다가 우리를 방치해 놓지 않으시고, 우리의 삶에 간섭하셔서, 우리를 끌고 가시는 그 여정에서 생기는 모든 일들을, 범사(凡事)라고 그러는 거거든요 그 범사가 잘 된다는 건 뭐에요? 하나님이 우리를 패서라도, 여기로 끌고 가는 그 일이에요. 그게 잘 된다는 거예요. 그거를 형통(亨通)이라고 그러는 거예요.  

 

요셉이 감옥에 갇혀 있지만, 하나님이 그를 만들어 가시고자 하는 그 길에, 요셉이 있기 때문에, ‘그의 삶이 형통하였더라!’라고 성경이 이야기하는 거예요. 그래서 네 영혼이 잘됨 같이, 네 영혼이 잘된 것처럼, 네 범사가 잘되기를 내가 기원한다는 말은 뭐예요? 우리의 영혼이 잘 됐다는 게 뭐죠? 죽어있던 영혼이, 하나님의 통치! 그 주권 안으로 들어왔다는 거 아니에요? 그게 우리의 영혼이 잘 됐다는 거 아니에요? 

 

그것처럼 너희의 범사! 너희의 삶도, 하나님의 주권 그 통치 안으로 들어오게 되기를, 내가 간구하노라! 하나님이 약속도 아니고, 그냥 사도바울이 기도한 거예요. 그렇게 그걸 가지고 하나님의 약속이라고 그래서, 3박자 축복이라고 얘기 할수 있는 거예요?  

 

도대체 하나님의 통치 안으로 들어간다는 건 뭡니까? 내 뜻대로 하나도 되지 않아도, 하나님의 뜻이, 나의 소원을 하나도 이루어지지 않아도, 하나님의 뜻이, 이루어지는 걸 범사에 잘 된다는 거예요. 그것이 너무나 크고 소중한 것이기 때문에, 내가 이해할 수 없는 일들이 그렇게 많이 일어나도, 나는 감사할 수밖에 없는 거예요. 그 일은, 그 영원한 새 하늘과 새 땅을 위해서, 나에게 일어나는 일이기 때문에! 그래서 범사에 감사하라는 거란 말이에요. 그게 기독교란 말이에요.  

 

그렇게 하늘의 양식! 내일의 양식! 예수 그리스도를, 핍박을 감수하면서, 구할 수 있는 자들만이 이웃을 사랑할 수 있어요. 우리가 왜 이웃을 용서하지 못하죠? 왜 이웃을 사랑하지 못합니까? 하나님께서 아담에게 어떤 저주를 내리셨어요? 그가 범죄 했을 때! ‘네가 네 힘으로 땅 갈아서, 밭 갈아서, 거기에 나오는 열매로 네 생명 유지해야 된다.’ 그렇게 저주하셨다고요. 땀 흘리지 않으면, 너 못 먹는다. 그랬어요.  

 

그러니까 그 저주 아래에 있는 사람들은, 자기가 땀 흘려서 먹고 살아야 되기 때문에, 온 동네 사람이 다 자기의 경쟁상대예요. 그러니까 옆집 애가 공부를 좀 잘한다. 그러면은 배가 아픈 거예요. 우리 아이의 경쟁상대기 때문에! 내가 비즈니스 똑 같은 거 하는데 저 옆집이 나보다 더 돈 잘 벌면, 기분 나쁜 거예요. 저주 아래 있는 자들은 다 그렇다고요.  

 

그런데 하나님의 은혜를 알고, 그 하늘의 것이 무엇인지를 알고, 그 영광을 맛본 사람들은요? 하늘의 뜻을 두고 사는 사람들은? 쓸데없이 그들과 경쟁하지 않아요. 그러면서 오른뺨을 맞았을 때, ‘그래, 왼뺨도 한 대 더 쳐! 네가 화가 풀린다면 왼뺨 한 대 더 쳐!’ 그러면서 그 상대방을 용서할 수 있는 경지까지 간다는 거예요. 그렇게 자라갈 수 있다는 거예요. 그 영광을 본 자만, 때린 자에게, ‘한 대 더 때려!’라고 용서하면서, ‘하나님! 우리가 우리에게 죄지은 자를 사하여 준 것 같이, 우리의 죄를 사하여 주옵소서!’라고 기도할 수 있는 거예요. 그 사람이! 

 

그런데 내용을 잘 보면, ‘우리가 우리에게 죄 지은 자를 사하여 준 것 같이, 하나님 당신! 내가 한 것 보고, 그렇게 사하여 주옵소서.’ 그렇게 들리죠? ‘우리가 우리에게 죄 지은 자를 사하여 준 것 같이, 우리의 죄를 사하여 주옵소서!’ 그러잖아요? 마치 우리가 하나님의 모범이 먼저 되는 것처럼, 그렇게 들리잖아요? ‘우리의 죄를 사하여 주옵시고!’ 거기에는 완료형으로 쓰여 있거든요.  

 

‘아팩카멘’이라는 그 단어를 썼는데, 이 셈족의 언어를 가장 잘 연구해 놓은 사람이, 바로 요아킴 예레미아스예요. 그 요하킴 예레미아스가 도대체 이 뜻이 무엇일까를 연구하다가, 이 시제를 그대로 아람어로 옮겼어요. 그래서 ‘아람어로 예수님이 이 이야기를 하셨을 때는, 어떤 뜻이 있었을까?’하고 아람어로 옮겨 보니까, 그 아람어에 이 완료형시제는, 동시적인 의미가 있는 거예요. 동시적인 의미! 다시 그 아람어로 변역을 해보니까, ‘하나님! 우리의 죄를 용서하여 주옵소서! 그와 동시에,’ 동시다발로 일어나는 거예요. ‘동시에 우리도, 우리에게 죄지은 자를 사하여 주겠습니다.’라는 내용이라고요.  

 

그러면 여러분 잘 들어보세요. ‘하나님! 우리의 죄를 용서하여 주옵소서! 우리도 우리에게 죄 지은 자를 용서하겠나이다.’ 동시에 일어나는 거예요. 당신이 나를 용서해 주시면, 용서하겠다는 게 아니라! 그러면 ‘하나님! 나의 죄를 용서해 주옵소서!’라고 하면서, ‘내가 저 인간은 용서 도저히 못해!’라고 누구를 용서하고 있지 못하다면, 그 기도를 어떻게 드릴 수 있어요? ‘하나님! 나의 죄를 다 용서해 주시옵소서! 그런데 내가 요 인간에게 만큼은, 용서 못하겠습니다!’ 그러니까 ‘요 죄만 빼 놓고, 딴 죄는 용서해 주시옵소서!’ 그렇게 되는 거죠. 하나님께 엉터리 기도를 하게 되는 거예요.  

 

‘하나님! 내 죄를 용서해 주시되. 요거는 잠깐 눈감아 주세요! 요거는 그냥 내가 끝까지 조거, 하여튼 조거 망하는 꼴 내가 보고, 그 다음에 내가 하나님 앞에 자주 갈 테니까, 요거는 잠깐 눈감아주시고, 나머지 꺼는 다 용서해 주세요!’ 그 뜻이 되잖아요? ‘하나님! 내 죄를 용서해주세요!’ 하려면, 다 하나님 앞에 내려놓고, 그리고 기도를 해야 되는데도 불구하고! 

 

안 되죠? 그러니까 성경에서는, ‘네가 네 이웃을 용서하지 않고 오면, 하나님도 너를 용서하지 않는다.’ 그런다고요. 큰일 났어요. 그러면 우리는 하나님께 기도할 수 없어요. 그렇죠? 여러분 마음속에 용서 안 된 사람들 너무 많죠? 그러면 우리는 이 기도 할 수 없는 자들이에요. 마태복음 6장 14절 보겠습니다.  

 

(마태복음 6:14-15)  

14 너희가 사람의 과실을 용서하면 너희 천부께서도 너희 과실을 용서하시려니와  

15 너희가 사람의 과실을 용서하지 아니하면 너희 아버지께서도 너희 과실을 용서하지 아니하시리라 (그래요.)  

 

큰일 났죠? 마태복음 18장 35절에 동일한 이야기를 써 놓고 있습니다.  

 

(마태복음 18:35)  

35 너희가 각각 중심으로 형제를 용서하지 아니하면 내 천부께서도 너희에게 이와 같이 하시리라 

 

용서하지 않겠다는 거예요. 어떠한 이야기의 결론으로 주어진 것입니까, 이게? 우리가 잘 아는 일만 달란트 빚진 자의 비유죠? 왕이 자기에게 일만 달란트 빚진 자를 데리고 와서, ‘갚아라!’ 그랬더니, ‘갚을 능력이 없습니다.’ 그랬어요. 일만 달란트는 어마어마한 돈이에요. 당시에! 그 베뢰아와 갈릴리 사람들이 로마에게 받쳤던 1년치 세금이 200달란트였거든요. 그러니까 일만 달란트는 한 개인에게는 어마어마한 돈이에요. 그러니까 도저히 갚을 수 없는 것을 상징하는 거예요. 일만 달란트! 

 

일만 달란트 빚진 자를 왕이 용서해주었어요. 그랬더니, 나가다가 자기에게 빚진 한 동관을 만났는데, 200데나리온 빚진 자예요. 멱살을 잡고, ‘왜 안 갚아? 이놈아!’ 그래놓고, 옥에다가 갔다 처넣어 버렸어요. 그랬더니 그 왕이 그 소식을 듣고, 걔를 다시 불러서, ‘넌 내가 그렇게 큰 걸 용서해 주었는데, 너는 쟤도 하나 용서 못하냐? 얘가 이거 다 갚을 때까지,’ 일만 달란트! 인간이 갚을 수 없는 돈이라 그랬죠? ‘이거 다 갚을 때까지 옥에다 넣으라.’ 그랬다고요.  

 

그 이야기는 뭐예요? 영원한 감옥에다 넣었다는 거예요. 지옥에 갔다는 거예요. 그래서 용서를 받은 자가, 누구를 용서를 못했다고 한다면, 그건 지옥에 간다는 거예요. 하나님은 도저히 그 사람! 용서 안 한다는 거거든요. 큰일 났어요. 점점! 예? 설상가상이에요. 그러면 우리는 어떻게 되는 거예요? 도대체? 

 

지금 여기에서 유니온 크라이스트(Union Christ)가 또 동원이 되는 거예요. 그리스도와의 연합! 여러분은 예수님의 죽음에 동참한 자이고, 예수님의 그 부활에 그 동참한 자이고, 예수님의 33년의 삶이, 여러분의 삶이 된 사람들이에요. 그렇죠? 그래서 우리는 그 부활과, 죽음과, 그 겟세마네의 기도에까지, 동참한 자들이 되었죠? 그래서 우리는 ‘뜻이 하늘에서 이룬 것 같이, 땅에서도 이루어지이다.’라는 기도를, ‘하나님! 당신의 뜻대로 하옵소서! 내 뜻대로 마옵시고, 당신의 뜻대로 하옵소서!’라는, 예수 그리스도의 그 기도에 연합되므로 해서, 우리는 그런 기도로 드릴 수 있는 자가 되었다고 이야기했지 않습니까? 

 

그러면 십자가 위에서 예수님께서, ‘하나님 아버지! 저들을 용서하소서! 저들이 지금 자기들이 하는 일이 뭔지를 알지 못합니다. 저들을 용서하옵소서!’라고 기도하실 때, 여러분은 어디 계신 거예요? 그 예수 그리스도 안에 계신 분들이에요. 여러분은? 용서를 하신 분들이라고요. 이게 말이 되는 거예요? 도대체! 이런 우리 이런 인간들이, 그 예수 그리스도의 삶에 동참해서, 그 십자가에서 세상을 용서해 버린, 그 용서에 동참을 한 자가 되었다는 게 말이 되냐고요? 그런데 하나님이 우리를 그렇게 취급해 주신다니까요. 그래서 용서를 한 자가 되었어요.  

 

그래서 우리는 하나님 앞에 당당히 용서를 구할 수 있는 자게 된 거예요. ‘하나님! 내가 세상을 용서한 것처럼, 당신도 나를 용서해 주시옵소서.’라고 당당하게 기도할 수 있는 자가 된 거란 말이에요. 이 사실 앞에, 여러분들이 다른 뭘 또 구하겠다고 지금 그러는 거라 말이에요? 이 어마어마한 기적 앞에 말이에요? 우리는 용서한 자가 되어버렸어요. 그리고 당당하게 용서를 구할 수 있는 자가 되어 버렸어요.  

 

그렇기 때문에 우리가 그 예수 그리스도의 삶에 동참하면서, 이웃을 실제로 이 삶 속에서 용서를 하면서, 살아가는 거예요. 용서를 이제 해야만 되는 거예요. 그리스도의 삶이 내 삶이 되었기 때문에! 아시겠습니까? 내가 용서를 해서, 하나님이 나를 예쁘게 봐주시는 게 아니라, 나를 ‘칭의(稱義)! 낫 길티(not guilty)! 너는 의롭다!’라고 해주셨기 때문에, ‘이미 너는 용서한 자다.’라고 이야기해주셨기 때문에, 우리는 용서를 하면서 가는 거예요. 비슷한말 같지만, 완전히 다른 거예요. 아시겠죠? 우리는 용서한 자가 된 거예요. 그렇게! 그래서 하나님 앞에, 주기도문을 드릴 수 있는 자가 된 거예요.  

 

하나님은 이렇게 분명히, ‘네 형제 용서하지 못하면, 너 천국 못가!’ 그렇게 이야기했는데, 우리는 용서를 했다니깐요. 이것이 이해가 가는 사람은, 정말 거듭난 사람입니다. 여러분! 그게 ‘그리스도와의 연합’이라는 거예요. 그래서 우리의 삶 속에, 그런 용서를 하면서, 우리는 살아야 하는데, 그 용서를 한 번 두 번 해보다 보면요, 그 용서가 얼마만큼 우리를 자유롭게 해주는지, 여러분 알 수 있어요.  

 

‘빠삐용’이라는 영화 보시면, 맨 마지막 장면에 어떤 장면이 나옵니까? 스티브 맥퀸! 팍 그 부표 같은 걸 던지고서, 더스틴 호프만하고 둘이 딱 서잖아요? ‘같이 가자!’ 내려다보니까 무서워요. ‘너 혼자 가!’ 스티브 맥퀸이 아홉 번째 시도예요. 그게 아홉 번째 시도! 쟁반 노래방이 아니라, 아홉 번째 시도에, 스티브 맥퀸이 그 절벽 아래로 딱 뛰어 내리잖아요. 내리면서 조류를 이용해서, 탈출에 성공을 해요. 그러면서 와! 승리의 그 환의의 손짓을 하죠. 막 손을 흔들죠. 더스틴 호프만한테! 

 

그러니까 더스틴 호프만이 그러죠? 내려다보면서, ‘네가 아무리 이 악마의 섬을 탈출한다고 할지라도, 네가 네 마음속에 있는 너의 감옥으로부터 탈출하지 못한다면, 너는 영원히 감옥 속에 있는 거야!’ 그 명언(名言)을 남긴다고요. 안 보신 거예요? 이 명화를? 교양 필순데! 그러면서 이 ‘빠삐용’은 끝나죠.  

 

이게 실화예요. 빠삐용이! 이 빠삐용이! ‘앙리 사리에리’라는 프랑스 사람인데요, 1930년에 20살 땐가 이 사람이! 하여튼 파리 시내에서 술을 마시고 있다가, 살인사건이 났는데, 한 검사가 자기의 유능함을 나타내기 위해서, 이 사람을 그냥 걸어버린 거예요. 그래서 온 빠리가, 프랑스가 이 검사에게 초점이 맞춰졌어요. ‘야! 유능한 검사다!’ 

 

그런데 이 검사가 앙리 사르에르가 범인이 아니라는 것을 알아요. 그럼에도 불구하고 자기가 유능한 검사라는 것을 입증하기 위해서. 다른 불량배등을 증인으로 동원해서, 이를 살인범으로 만들어서, 1941년에 사형선고를 내려버려요. 그리고서는 그 악마의 섬으로 보내버리는 거예요. 그러니까 스티브 맥퀸이 그렇게 계속 죽어가고 터지면서도 탈출하려고 하는 거예요. 억울하니까! 

 

앙리 사르에르가 탈출한 다음에, ‘방코’라는 소설을 썼어요. 자전적 소설! 자기의 자서전이죠. 거기에서 그렇게 이야기 한다고요. 거기에서 탈출해서, 이 사람이 남미로 갔어요. 아르헨티나를 비롯해서 하여튼 남미를 전전하면서, 돈을 엄청 벌었어요. 그래서 60살인가 61살에, 프랑스로 돌아간다고요. 공소시효가 끝나니까! 왜 돌아가는 줄 아세요? 그 사람들 잡아 죽이려고 가요. 복수의 칼을 갈아서요. 그 검사하고, 거짓증언을 해서 자기를 사형선고를 받게 한 그 불량배를 다 죽이러 간다고요.  

 

갔는데, 8일 동안 이제 자기의 어린 시절의 거리도 다녀보고, 사랑하는 사람들 가서 멀찍이서 그들의 삶을 보고 하면서, 그가 그 복수를 포기합니다. 그들을 용서해요. 그러면서 뭐라고? ‘방코’라는 책에다 써 넣은 지 아십니까? ‘나는 하나님께 이렇게 기도했다. 내가 복수를 포기한 대가로, 다시는 이런 비극이 생기지 않도록 해달라고 하나님께 기도했다. 그리고 나 자신에게 나는 속삭였다. 너는 이겼다! 친구여! 너는 자유롭고 사랑받는 미래의 주인공으로 여기 있다. 이 일에 관계된 모든 사람 중에, 네가 가장 자유롭고 가장 행복한 사람이다. 친구여!’ 그렇게 자기에게 이야기한다고요.  

 

그리고는 자기는 자유함을 얻었대요. 그때까지는 돈도 많이 벌고, 열심히 살았는데, 유일한 목적은 복수였어요. 그런데 그들을 용서하고 나니까, 이제 그가 드디어 빠삐용이 된 거예요. 빠삐용은 나비란 뜻이거든요. 이제 훨훨 비로소 날게 된 거예요. 용서를 하고 나니까! 용서는 우리에게 유익이 되는 거예요. 하나님이 그래서 ‘용서를 하라!’ 그러는 거예요.  

 

여러분! 우리가 주기도문을 공부하면서 잊지 말아야 할 것! 우리가 하나님께 청원하는 기도의 내용이에요. ‘하나님 나라가 임하게 해주옵소서! 그 뜻이 이루어지게 해 주시옵소서! 용서해주시옵소서!’ 청원하는 내용이지만, 이 주기도문의 내용은 동시에 서약이라고요.  

 

하나님! 하나님나라가 임하게 해주시옵소서! 그 뜻은 뭐예요? ‘내가 그 나라가 임하면, 그 뜻에 순종하겠습니다.’라는 서약이에요. 당신의 뜻이 이루어지게 하옵소서! ‘나는 그 뜻에 내 몸을 맡기겠습니다!’라는 서약이라고요. 용서해 주옵소서! ‘나도 이웃을 용서하겠습니다!’라는 서약이란 말이에요. 그래, 여러분은 주기도문을 하면서, 계속해서 여러분은 그런 하나님 앞에, 서약을 드리는 거예요.  

 

여러분! 아담의 범죄로 말미암아, 우리는 우리의 생명을, 스스로 유지하면서 살게 되었어요. 농사를 짓고, 땀을 흘려서, 그 땀의 열매인 양식으로 살게 되어 있습니다. 그러나 예수로 말미암아, 그 저주에서 풀려난 자들은, 하나님께서 주시는 하늘의 양식으로, 오늘을 살 수 있게 되었어요. 그리고 그렇게 살아야 하는 것입니다.  

 

우리는 종말(終末)을 살아가는, 내일을 기다리는, 그리스도인인 것입니다. 그 새 하늘과 새 땅을 기다리는, 그리스도인이에요. 그래서 우리는 이 땅의 양식으로 사는 것이 아니라, 그 새 하늘과 새 땅! 그 내일의 양식을 달라고, 그 예수 그리스도로만 살게 해달라고 하나님 앞에, 기도를 하는 거예요.  

 

그래서 우리는 그것으로 만족하며 살 수 있는 자들이기 때문에, 우리는 이웃을 용서하는 거예요. 시기하지 않는 거예요. 질투하지 않는 거예요. 그들을 사랑할 수 있는 거예요. 그게 그리스도인의 삶이에요. 그래서 ‘나도 이렇게 용서하는 자가 되었으니, 내 죄도 확실히 용서가 된 것을 나는 확신합니다. 하나님!’ 그렇게 하나님 앞에 신앙고백을 하는 것이, 바로 이 주기도문의 기도인 것입니다.  

 

그러므로 ‘오늘날 우리에게 일용할 양식을 주옵시고, 우리가 우리에게 죄 지은 자를 사하여 준 것 같이, 우리의 죄를 사하여 주옵시고,’라고 기도하면서, 우리는 우리의 신분을 다시 한 번 확인하는 거예요. 그리고 ‘내일의 양식인 예수가 이렇게 내 안에 있기 때문에, 그 날은 속히 온다. 반드시 온다. 그리고 나는, 그 내일을 사는 자다! 나는 이 땅의 이방인이다! 이 땅을 살아가는 자 아니고, 천국을 살아가는 자다!’라고 확신하면서, 확인하면서, 그렇게 천국을 즐기고 누리면서 살아가는 거예요. 그게 주기도문을 하는 진의(眞意)라고요.  

 

굉장히 어려운 것 같았는데, 어떻게 끌려오다 보니까, 결론이 여기까지 왔어요. 그죠? 지난주에 어떤 학생이 저한테, ‘굉장히 어려운거 같은데, 목사님 설교 듣고 있으면, 끝까지 따라가다 보면, 거기까지 와있대요. 확 걸린 것 같대요.’ 저한테 그냥 ‘이해하기 쉽게 잘 설명한다.’ 그러면 되는 거지, 뭘 그렇게 어렵게 얘기 해? 그거예요.  

 

‘오늘날 우리에게 일용할 양식을 주옵시고, 우리가 우리에게 죄 지은 자를 사하여 준 것 같이, 우리의 죄를 사하여 주옵소서!’ 이 진의는 바로 그것입니다. 

 
 
 
 

Gemini의 응답

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4. Exposition of the Lord’s Prayer (Matthew 6:9-13)

Let us read together Matthew chapter 6, verses 9 through 13.

(Matthew 6:9-13) 9 In this manner, therefore, pray: Our Father in heaven, hallowed be Your name. 10 Your kingdom come. Your will be done on earth as it is in heaven. 11 Give us this day our daily bread. 12 And forgive us our debts, as we forgive our debtors. 13 And do not lead us into temptation, but deliver us from the evil one. (For Yours is the kingdom and the power and the glory forever. Amen.)

Perhaps the greatest experiment in human history was the communist ideology. Communism! In the ‘Communist Manifesto,’ Marx and Engels boasted, ‘A proletarian utopia, where everyone works according to their ability and everyone consumes according to their needs, will surely come to this earth. And we will definitely create that proletarian utopia on this earth.’

However, during those 70 to 80 years, what communism left on this earth—what they left through their experiment—was nothing but a great catastrophe. What they missed was the reality of what kind of beings humans are. Despite the fact that humans are beings of "total depravity"—sinners who are completely and entirely fallen—they did not understand what kind of beings humans are, and thus thought they could create a utopia on this earth. They misunderstood and were under the illusion that they could achieve peace, happiness, and well-being on this earth through the inherent power within us.

Everyone! We cannot achieve a paradise on earth, a "green season of Christ," through our own strength. That is why we are beings who cannot help but live desiring not the things of this earth, but the things of heaven—that heavenly kingdom; seeking not an earthly utopia, but that heavenly utopia—that Kingdom of Heaven. Therefore, weren't many of the petitions in the Lord’s Prayer we looked at previously all about the things of the heavenly kingdom—content regarding the Kingdom of Heaven?

However, if we look at the content of today’s prayer, it says, "Give us this day our daily bread..." It is a passage that we are liable to misunderstand, as if it is saying, "Ask for the things of this earth!" Looking at this passage, one might think, "Oh, great! This is it! I’ve been waiting for this! 'Give us this day our daily bread!' Finally, here is the part where God tells us to ask for earthly things! Content different from what our pastor keeps shouting and asserting has appeared; how will he resolve this?"

Everyone! If this content were about asking for the things we need on this earth as we understand it, then the Bible would contain a contradiction within itself. If you look at the verses just below—Matthew 6:25—it says:

(Matthew 6:25) 25 Therefore I say to you, do not worry about your life, what you will eat or what you will drink; nor about your body, what you will put on. (It says this.)

In the very same chapter, it is telling such a contradictory story. But there’s no way the Bible would speak in contradictions, is there? If so, it means there is a profound meaning in this passage. So, today we are going to uncover that profound meaning together. We are profound every week, aren't we?

Now, everyone, take a good look at your Bible. If you look at Matthew chapter 6, next to "Give us this day our daily bread," next to "daily bread," there might be a number or a symbol (like 'ㄱ'). And below that, it might say "tomorrow's bread."

The reason such a cross-reference is attached to that word is that the Greek word for "daily," epiousion, has several meanings. Furthermore, this word epiousion is not found in any other Greek literature. This word! It appears only in this one place in the Bible. It is used one more time in Luke, in the Lord’s Prayer found in Luke, but it is a word used exactly once.

Therefore, the linguists and biblical scholars of this era cannot definitively infer how that word was used. So, there are three views...

The first view is seeing the word epiousion as a compound of epi and ousia. Thus, there is a view that sees it as "bread necessary for life"—daily bread as "bread needed for living." The second view is "bread for that day, for the current day." Seeing daily bread as bread for the present day. And the third view is the one that receives the most support: "the coming day, the next day." Bread of the coming day, bread of the next day, bread of tomorrow! That is how it is viewed.

The reason many people support this view, and why I also support this view, is: what was the language Jesus Christ used during His ministry? It was Aramaic. The language in "The Passion of the Christ"? It’s Aramaic. This Aramaic is the language of Babylon.

In 586 BC, when Southern Judah fell to Babylon, for 70 years—until the temple was rebuilt in 516 BC—they were captives in Babylon, weren't they? During that time, they completely forgot their own language. And they began to use Aramaic. Aramaic and Greek were their common languages.

On the contrary, Hebrew was not well known except by those who studied the Scriptures. They couldn't read or write it. So, in the Aramaic used at that time—in the Aramaic Lord’s Prayer—it is written as "tomorrow’s bread," using the word maher. And the Bible supports the view of "tomorrow’s bread." The basis of our Reformed theology is that "Scripture must be interpreted by Scripture." What does it mean to interpret Scripture with Scripture? For example, take the story of the Good Samaritan.

A man, on his way from Jerusalem to Samaria, encounters robbers and is beaten nearly to death. Everyone else just passes by, but a Good Samaritan passing by sees him, pours wine and oil on his wounds, bandages them, and takes him to an inn. And there, entrusting him to the innkeeper, he gives two coins. Then he says, "I will return," and leaves.

Some people interpret this story like this. It sounds very plausible. "The person passing by, the one who met the robbers, refers to us; Jerusalem is heaven, and Samaria is the world. The robbers are Satan. While we are lying there after being beaten soundly by the robbers, the Good Samaritan—Jesus—comes, pours wine and oil; wine is the precious blood, oil is the Holy Spirit! He pours the oil and takes him to an inn. The inn is the church! He entrusts him to the church. The innkeeper is the pastor! Isn't that nice? Entrusting him to the pastor, he gives two coins, and those are the Old and New Testaments!" That’s how they tell it. And "I will return" refers to the "Second Coming of Jesus."

It sounds plausible, doesn't it? But nowhere in the Bible is that interpretation supported. The true intent of this story is found when a lawyer asks Jesus, "What must I do to inherit eternal life?" Then Jesus asks, "What is written in the law?" "Love the Lord your God with all your heart, with all your soul, with all your mind, and with all your strength, and love your neighbor as yourself. That is what is written." So Jesus says, "Then you go and do likewise, and you will inherit eternal life."

Then the lawyer asks, "Then who is my neighbor? Whom should I go and love?" So Jesus gives this parable, and what is the conclusion He draws? It is: "Don't try to choose who your neighbor is; you become a neighbor first!" So it is a completely different story. No matter how good the intention, if you fail to grasp the true intent of what the Bible is saying, it is very dangerous. If you interpret the Bible arbitrarily, you shall be cursed!

Then let’s find out how the Bible supports that "tomorrow’s bread." In the Old Testament, there was a time when God gave that "tomorrow’s bread" today. When was it? Manna! On the sixth day, He gave the bread for the seventh day. Why did He give the seventh day’s bread on the sixth day? It’s because the seventh day is the Sabbath.

What kind of day is the Sabbath? It is a day to enjoy, commemorate, and relish God’s perfect creation. And by keeping that Sabbath, it is a day to look forward to that eternal rest that will come to us at the end. So, by possessing the seventh day’s bread on the sixth day, what happens? The bread to be eaten on the Sabbath is before my eyes. Then, it confirms that the Sabbath will surely come.

And while holding that bread, one is already participating in that seventh day. It's just like when we were children, the day before a picnic, when Mom put Chilsung Cider and chocolate in our backpack—our nikusaku—and piled up the gimbap ingredients in the kitchen; even though the picnic is tomorrow, our hearts already start thumping today. We live that tomorrow today with a fluttering heart. You look out the window twelve times a day, right? To see if it’s raining or not. That expectation! That is the reason the seventh day’s bread was given on the sixth day.

But if you look at this Aramaic Lord’s Prayer, that word maher—the meaning of "tomorrow" in tomorrow's bread—doesn't mean the tomorrow that comes 24 hours later, but "a day different from today." So, it means the coming tomorrow, which is different from today. It has an eschatological meaning.

Therefore, the fact that we are praying now, "Give us tomorrow’s bread," means: "That coming end! The new heaven and the new earth! That kingdom will surely come! And we are those who must live on the bread of that kingdom! And we are living in this end-time now. That kingdom will come very soon, and we are living through this sixth day." So, by seeking the bread of that kingdom, we are enjoying that kingdom now. We are relishing that kingdom. So, it is a confession of eschatological faith.

What is eschatological faith? When I was in university, after I was discharged from the military and returned to school, I took golf in my elective PE class. I was in a golf class, and I have a competitive streak, you see? My friend—who is now a very successful judge—was my classmate, and we took that elective PE together. He also had a very competitive streak. So, we went to the cheapest place, the racecourse in Gwacheon, and practiced every day.

But hitting about two boxes was the maximum. Since we were students just starting out then! But after hitting, I had to take an exam the next day, and he left. After I sent him off, I thought, "I’m going home too," and pretended to get in my car, but then I went back in and hit two more boxes. But that’s when my ribs cracked. Two of them! Because I exercised too intensely. It was so painful that I went to the hospital, and they took an X-ray, and they were cracked.

But between those cracked ribs, three huge lumps were visible. On the X-ray! And that quack doctor said it might be cancer. This! And he said if it’s such a large cancer, it’s very grave. To me! My goodness! It was as if all the strength drained out of my body; I had a biopsy and while waiting for the results, I couldn't do anything. The thought "I’m going to die soon" completely seized me.

This was shortly after I had won the grand prize at the University Song Festival. So, how many dreams must I have had? But I couldn't think of this or that; I just thought about the people around me—those I hadn't treated well. I wanted to repay those to whom I felt indebted in my heart, and I wanted to be kind to the people around me. I had no other greed. Thoughts like "How will I do well on the exam tomorrow?" didn't occur to me at all.

Later the results came out, and they said it was just knotted muscles (Hahahaha). I grabbed that person's hand and for 30 minutes said, "Thank you!" What did that person even do for me? He just made a misdiagnosis, but I said, "Thank you, doctor!" Even him wearing a white gown made me feel thankful. That is eschatological faith. "If the end comes to this earth tomorrow, how will we live today?"

By seeking tomorrow’s bread—tomorrow’s bread now—we are making the confession: "God! That is right. That day will surely come, and I am a person living in preparation for that day." That is what it means to pray, "Give us this day tomorrow’s bread."

Then what is that heavenly bread? What do we live on? Let’s go to John 6:27.

(John 6:27-35) 27 Do not labor for the food which perishes, but for the food which endures to everlasting life, which the Son of Man will give you, because God the Father has set His seal on Him. 28 Then they said to Him, “What shall we do, that we may work the works of God?” 29 Jesus answered and said to them, “This is the work of God, that you believe in Him whom He sent.” 30 Therefore they said to Him, “What sign will You perform then, that we may see it and believe You? What work will You do? 31 Our fathers ate the manna in the desert; as it is written, ‘He gave them bread from heaven to eat.’” 32 Then Jesus said to them, “Most assuredly, I say to you, Moses did not give you the bread from heaven, but My Father gives you the true bread from heaven. 33 For the bread of God is He who comes down from heaven and gives life to the world.” 34 Then they said to Him, “Lord, give us this bread always.” 35 And Jesus said to them, “I am the bread of life. He who comes to Me shall never hunger, and he who believes in Me shall never thirst."

What is that bread? It is Jesus. That heavenly bread! Tomorrow’s bread is Jesus. What kind of Jesus? That Jesus is the King of Heaven, isn't He? But because He is not the king of this earth, He came down to this earth and received all kinds of tribulations, persecutions, and suffering—that is the Jesus, the bread I want now. I want to participate in that life too. Praying "God! Today, give me tomorrow’s bread—that Jesus," is a confession of faith saying, "I will live by participating in the life of Jesus Christ." It’s not about "Give me the bread I need today!"

Then, what kind of people can pray, "God! Tomorrow’s bread! Give me that Jesus!" while accepting this suffering and accepting this persecution? No one can pray this except those who have seen that glory. How can they endure and go through that persecution? They can't. Only those who have seen that glory can offer that prayer. They can pray, "Give us this day tomorrow’s bread!" Let’s look at 2 Corinthians 4:17.

(2 Corinthians 4:17-18) 17 For our light affliction, which is but for a moment, is working for us a far more exceeding and eternal weight of glory, 18 while we do not look at the things which are seen, but at the things which are not seen. For the things which are seen are temporary, but the things which are not seen are eternal. Amen.

It calls that tribulation "light." But is it really light? Everyone! As we live on this earth, tribulations come to us, don't they? You've all experienced them once or twice. Were they really light? No. Sometimes those tribulations are so painful that tears won't even come. Sometimes they are so agonizing and painful that you feel like going out and hanging yourself. Tribulation is not that easy.

But Apostle Paul here calls it a "light thing." And he says that pain is "momentary." Compared to what? The reason he can call such great pain a "light thing" is that even such great pain became nothing once I saw the glory of heaven.

Therefore, those who have seen that glory can pray like this. I’ve suffered all I could suffer! I’ve been beaten nearly to death with forty stripes minus one, and I’ve been insulted and lived a difficult life in prison time and again, but after seeing that heavenly glory, this tribulation is a light thing. It was nothing!

So, you are those who have tasted the glory of heaven and realized the glory of heaven! Because of God! That is why we can offer this kind of prayer. "God! Let me participate in the life of Jesus Christ! Give me that tomorrow’s bread today! I will live this life on earth only by that bread, Jesus Christ!"—this is the content of this petition in the Lord’s Prayer. That is Christianity.

There is no such thing as "three-fold salvation" or "three-fold blessing" as some people talk about in Christianity. In 3 John, it says, "Beloved, I pray that you may prosper in all things and be in health, just as your soul prospers." Do you think that means "I hope everything you do goes well"? Not at all. What is "all things" (in all circumstances) as spoken in the Bible? It appears in 1 Corinthians, doesn't it? "In everything give thanks; always rejoice; pray without ceasing; for this is the will of God in Christ Jesus for you." Right?

What are the "all things" of us Christians? It refers to all the events that happen in the journey where God does not take His eyes off us, does not abandon us on this earth, but intervenes in our lives and leads us. What does it mean for those "all things" to go well? It means the work of God leading us to this point, even if He has to strike us. That is what it means for things to go well. That is what is called "prosperity" (Hyeong-tong).

Even though Joseph was imprisoned, because Joseph was on the path God wanted to mold him through, the Bible says "he was a prosperous man." So, when it says "just as your soul prospers, I pray that you may prosper in all things," what does it mean? What does it mean that our soul has prospered? Doesn't it mean that a dead soul has come under the sovereignty and rule of God? Isn't that what it means for our soul to have prospered?

Likewise, I pray that your "all things"—your life—may also come under the sovereignty and rule of God! It wasn't even a promise from God; it was just a prayer Apostle Paul offered. How can people take that and call it God’s promise and speak of a "three-fold blessing"?

What does it mean to enter under God's rule? It means that even if not a single thing goes my way, God’s will is done; even if not a single one of my desires is fulfilled, God’s will being done is what it means to "prosper in all things." Because that is so great and precious, even if many things I cannot understand happen, I cannot help but give thanks. Because those things are happening to me for the sake of that eternal new heaven and new earth! That is why we are told to give thanks in all things. That is Christianity.

Only those who can seek the heavenly bread—tomorrow’s bread—Jesus Christ, while accepting persecution, can love their neighbor. Why can't we forgive our neighbor? Why can't we love our neighbor? What curse did God place on Adam? When he sinned! "You must maintain your life through the fruit that comes from tilling the ground and plowing the fields by your own strength." He cursed him so. He said if you don't sweat, you cannot eat.

So, for people under that curse, because they must sweat to eat and live, everyone in town is their competitor. So, if a neighbor's kid studies a bit well, their stomach hurts. Because they are a competitor for our child! If I’m doing the same business and the neighbor's shop makes more money than me, I feel bad. All those under the curse are like that.

But for those who know God's grace, know what the heavenly things are, and have tasted that glory? For those who live with their purpose in heaven? They don't compete with them needlessly. And when they are struck on the right cheek, they reach a state where they can forgive the other person, saying, "Sure, hit the left cheek too! If your anger is relieved, hit the left cheek too!" They can grow like that. Only those who have seen the glory can say to the one who struck them, "Hit me once more!" and forgive them while praying, "God! Forgive us our debts, as we forgive our debtors!" That person!

But if you look at the content, it sounds like, "God! Just as I have forgiven my debtors, look at what I have done and forgive me accordingly." "Forgive us our debts, as we forgive our debtors," right? It sounds as if we are becoming the model for God first. "And forgive us our debts!" There, it is written in the perfect tense.

The word aphekamen was used, and the person who has researched Semitic languages best is Joachim Jeremias. While Joachim Jeremias was researching what this could mean, he translated this tense directly into Aramaic. He thought, "What meaning would there have been when Jesus spoke this in Aramaic?" and when he translated it back to Aramaic, he found that this perfect tense in Aramaic has a "simultaneous" meaning. A simultaneous meaning! Translating it back into Aramaic, it means, "God! Forgive us our sins! At the same time," it happens simultaneously. "Simultaneously, we also forgive those who have sinned against us."

Now, listen carefully. "God! Forgive us our sins! We also forgive those who have sinned against us." It happens at the same time. It’s not that I will forgive if You forgive me! Then, if you are saying, "God! Forgive my sins!" while thinking, "I absolutely cannot forgive that person!" and you are not forgiving someone, how can you offer that prayer? "God! Forgive all my sins! But I cannot forgive this one person! So, except for this sin, please forgive my other sins!" That’s how it becomes. You end up offering a bogus prayer to God.

"God! Forgive my sins, but turn a blind eye to this one! For this one, I just want to see that person fail, and then I’ll come before God often, so just ignore this for a moment and forgive everything else!" That’s what it would mean. Even though one must lay everything down before God to say, "God! Forgive my sins!"

It doesn't work, does it? So in the Bible, it says, "If you do not forgive your neighbor, God will not forgive you either." We’re in trouble. Then we cannot pray to God. Right? There are so many people in your hearts you haven't forgiven, right? Then we are those who cannot offer this prayer. Let’s look at Matthew 6:14.

(Matthew 6:14-15) 14 For if you forgive men their trespasses, your heavenly Father will also forgive you. 15 But if you do not forgive men their trespasses, neither will your Father forgive your trespasses. (It says this.)

We’re in trouble, aren't we? Matthew 18:35 says the same thing.

(Matthew 18:35) 35 So My heavenly Father also will do to you if each of you, from his heart, does not forgive his brother his trespasses.

He won't forgive. As a conclusion to what story was this given? It’s the parable of the man who owed ten thousand talents, which we know well. A king brought a man who owed him ten thousand talents and said, "Pay back!" and the man said, "I have no ability to pay." Ten thousand talents was an enormous amount of money at that time. At that time, the annual tax the people of Perea and Galilee paid to Rome was 200 talents. So, ten thousand talents is a staggering amount for an individual. Thus, ten thousand talents symbolizes something that can never be paid back!

The king forgave the man who owed ten thousand talents. But as he went out, he met a fellow servant who owed him a hundred denarii. He grabbed him by the throat and said, "Why aren't you paying? You rascal!" and then threw him into prison. When the king heard that news, he called him back and said, "I forgave you such a huge debt, and you couldn't even forgive him? Until he pays back all of this,"—ten thousand talents! I said it was money a human cannot pay back, right?—"Put him in prison until he pays it all."

What does that story mean? It means he was put into an eternal prison. He went to hell. So, if someone who has received forgiveness cannot forgive someone else, it means they go to hell. It means God will never forgive that person. We are in trouble. More and more! Yes? It’s going from bad to worse. Then what happens to us? What on earth?

Now, "Union with Christ" is mobilized here again. You are those who participated in Jesus' death, you are those who participated in Jesus' resurrection, and the 33 years of Jesus' life have become your life. Right? So we have become those who participated in that resurrection, that death, and even the prayer in Gethsemane, haven't we? So, didn't I say that we became those who could offer the prayer "Your will be done on earth as it is in heaven," by being united with the prayer of Jesus Christ: "God! Let it be according to Your will! Not my will, but Yours be done!"?

Then, while Jesus was on the cross praying, "Father! Forgive them! They do not know what they are doing. Forgive them!", where were you? You are those who are inside that Jesus Christ. You are? You are the ones who have forgiven. Does this make sense? At all! Does it make sense that people like us, by participating in the life of Jesus Christ, became those who participated in the forgiveness that forgave the world on that cross? But God treats us that way. So, we have become those who have forgiven.

Therefore, we have become those who can boldly seek forgiveness before God. We have become those who can pray boldly, "God! Just as I have forgiven the world, You also forgive me." In the face of this fact, what else are you saying you're going to seek? In the face of this tremendous miracle! We have become those who have forgiven. And we have become those who can boldly seek forgiveness.

Therefore, as we participate in the life of Jesus Christ, we live while actually forgiving our neighbors in this life. Now we must forgive. Because the life of Christ has become my life! Do you understand? It’s not that God looks at me favorably because I forgive, but because He has "justified" me—said "not guilty! You are righteous!"—because He said "you are already one who has forgiven," we go on forgiving. It sounds like a similar statement, but it is completely different. Got it? We have become those who have forgiven. Just like that! So, we have become those who can offer the Lord’s Prayer before God.

God clearly said, "If you cannot forgive your brother, you cannot go to heaven!", but we have forgiven. A person who understands this is a truly born-again person. Everyone! That is "Union with Christ." So, in our lives, we must live while offering such forgiveness, and if you try that forgiveness once or twice, you can see how much that forgiveness sets us free.

If you watch the movie "Papillon," what scene appears at the very end? Steve McQueen! He throws that buoy-like thing and stands with Dustin Hoffman, right? "Let's go together!" But it’s scary looking down. "You go alone!" It was Steve McQueen's ninth attempt. That was his ninth attempt! Not "Tray Karaoke," but his ninth attempt; Steve McQueen jumps off that cliff. As he falls, he uses the current and succeeds in escaping. And then, wow! He makes a gesture of victory and joy. He waves his hand. To Dustin Hoffman!

Then Dustin Hoffman says, looking down, "Even if you escape this Devil's Island, if you cannot escape from the prison within your own heart, you will be in prison forever!" He leaves that famous quote. Haven't you seen it? This masterpiece? It’s a liberal arts requirement! And then "Papillon" ends.

This is a true story. Papillon! This Papillon! He is a Frenchman named Henri Charrière; he was around 20 years old in 1930! Anyway, while he was drinking in Paris, a murder occurred, and to show his competence, a prosecutor just pinned it on him. So all of Paris and France focused on this prosecutor. "Wow! He’s a competent prosecutor!"

But this prosecutor knew Henri Charrière was not the culprit. Nevertheless, to prove he was a competent prosecutor, he mobilized other thugs as witnesses, made him out to be a murderer, and had him sentenced to death in 1941. And then sent him to that Devil's Island. That’s why Steve McQueen kept trying to escape even while dying and being beaten. Because it was unfair!

After Henri Charrière escaped, he wrote a novel called "Banco." An autobiographical novel! His autobiography. He says so in it. After escaping, he went to South America. He traveled around South America, including Argentina, and made a lot of money. Then, at 60 or 61, he returned to France. Because the statute of limitations expired! Do you know why he went back? He went to catch and kill those people. He sharpened the knife of revenge. He went to kill that prosecutor and the thugs who gave false testimony to have him sentenced to death.

He went, and for 8 days he walked the streets of his childhood and watched the lives of the people he loved from a distance, and he gave up that revenge. He forgave them. And do you know what he wrote in the book "Banco"? "I prayed to God like this. In return for me giving up revenge, I asked God not to let such a tragedy happen again. And I whispered to myself: You won! Friend! You are here as a free and beloved protagonist of the future. Of all the people involved in this matter, you are the freest and happiest person. Friend!" That’s what he said to himself.

And then he said he gained freedom. Until then, he made a lot of money and lived diligently, but his sole purpose was revenge. But after forgiving them, he finally became "Papillon." Papillon means butterfly. Now he finally began to fly freely. After forgiving! Forgiveness benefits us. That is why God says, "Forgive!"

Everyone! Something we must not forget while studying the Lord’s Prayer! It is the content of the prayer we petition to God. "God, let Your kingdom come! Let Your will be done! Forgive us!" It is petitionary content, but at the same time, the content of the Lord’s Prayer is a vow.

God! Let Your kingdom come! What does that mean? It is a vow: "When that kingdom comes, I will obey its will." Let Your will be done! It is a vow: "I will entrust my body to that will!" Forgive us! It is a vow: "I too will forgive my neighbor!" So, as you say the Lord’s Prayer, you are continuously offering such a vow before God.

Everyone! Due to Adam's sin, we came to maintain our lives by ourselves. We came to live on the bread that is the fruit of tilling the ground and sweating. However, through Jesus, those who have been released from that curse have become able to live today on the heavenly bread that God gives. And we must live that way.

We are Christians who live the end, waiting for tomorrow. We are Christians waiting for that new heaven and new earth. So we do not live on the bread of this earth, but we pray to God for that new heaven and new earth—that tomorrow’s bread—to let us live only by that Jesus Christ.

Because we are those who can live satisfied with that, we forgive our neighbors. We do not envy. We are not jealous. We can love them. That is the life of a Christian. So, "Since I too have become one who forgives, I am certain that my sins have surely been forgiven. God!" Offering such a confession of faith before God is what this prayer in the Lord’s Prayer is.

Therefore, while praying, "Give us this day our daily bread, and forgive us our debts, as we forgive our debtors," we are confirming our identity once again. And, "Because Jesus, the tomorrow’s bread, is within me like this, that day will come soon. It will surely come. And I am one who lives that tomorrow! I am a stranger on this earth! I am not one who lives this earth, but one who lives the Kingdom of Heaven!"—confirming and being certain of this, we live enjoying and relishing the Kingdom of Heaven. That is the true intent of saying the Lord’s Prayer.

It seemed very difficult, but somehow as we were led along, the conclusion has reached this point. Right? Last week, a student said to me, "It seems very difficult, but while listening to your sermon, if I follow to the end, I find I’ve arrived there. It’s like I’ve been hooked." You could just say, "He explains it easily so it’s easy to understand," why say it so difficultly? That’s what it is.

"Give us this day our daily bread, and forgive us our debts, as we forgive our debtors!" This is the true intent.


Would you like me to find more sermons or theological explanations related to specific parts of the Lord's Prayer for you?

 
 
 
말씀하신 내용

영어가 아니고 일본어 였어. 한줄도 빼지말고 요약도 하지말고 다 번역해줘 

 
 
 

Gemini의 응답

네, 알겠습니다. 요청하신 대로 한국어 원문 내용을 단 한 줄도 빠트리지 않고, 요약 없이 전체 내용을 일본어로 번역해 드립니다.


4. 主の祈り講海(マタイ6:9-13)

マタイによる福音書6章9節から13節までを共に奉読しましょう。

(マタイによる福音書 6:9-13) 9 だから、あなたがたはこう祈りなさい。天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。 10 御国が来ますように。御心が行われるように、天にあるように地の上にも。 11 わたしたちに必要な糧を今日与えてください。 12 わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。 13 わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。(国と力と栄光は、永遠にあなたのものです。アーメン)

人類の歴史上、最も大きな実験は、おそらく共産主義のイデオロギーでしょう。共産主義!マルクスとエンゲルスがですね、「共産党宣言」で、「すべての人が能力に応じて働き、すべての人が必要に応じて使う、プロレタリアのユートピアが、必ずこの地にやってくる。そして、私たちが必ずそのプロレタリア・ユートピアをこの地に作るのだ」と豪語しました。

しかし、その70〜80年の間、共産主義がこの地に残したものは、彼らが実験して残したものは、大惨事だけです。彼らが見落としたのは、人間がいかなる存在であるかということでした。人間は「トータル・デプラビティ(total depravity)」、すなわち完全な、全的な堕落をした罪人であるにもかかわらず、彼らは人間がいかなる存在であるかを知らなかったため、この地にユートピアを作ることができると考えたのです。それで、私たちの中にあるこの内在された力で、この地に平和と、幸福と、安寧を成し遂げることができると、彼らは誤解し、錯覚していたのです。

皆さん!私たちの力で地上楽園を、キリストの青い季節を、成し遂げることはできません。ですから、私たちはこの地のものではない、天のもの、その神の国を求めながら、この地のユートピアではない、あの天のユートピア、あの天国を望みながら生きるしかない、そのような存在なのです。ですから、私たちが先に見てきた主の祈りの多くの祈りが、すべて天の国のもの、天国的な内容だったのではないでしょうか。

ところが、今日の祈りの内容を見ると、「わたしたちに必要な糧を今日与えてください……」となっているわけです。あたかも「この地のものを求めなさい」と言っているかのように、私たちが誤解する余地のある一節です。この一節を見て、「よし、これだ!まさにこれを待っていたんだ!今日わたしたちに日用の糧を与えてください!神様がいよいよ、この地のものを求めよという箇所を出された!うちの牧師がずっと叫び続けている主張とは違う内容が出てきたが、これをどう解決するのか」と思うかもしれません。

皆さん!もしこの内容が、私たちが理解するように、この地で私たちが必要なものを求める内容であるならば、聖書は聖書自体の中に矛盾を抱えていることになります。すぐその下、下の節を見ますと、マタイによる福音書6章25節にはこうあります。

(マタイによる福音書 6:25) 25 だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。(と言うのです。)

まさに同じ章で、このような矛盾した話をしています。しかし、聖書が矛盾を語るはずがないではありませんか。ならば、この一節には何か深遠な意味があるということです。ですから、今日はその深遠な意味を一緒に明かしてみようと思います。私たちは毎週深遠ですよね。でしょう?

さて、皆さん!その聖書をよく見てください。マタイ6章を見ると、「日用の糧を与えてください」の横に、数字や記号がついているはずです。そしてその下に、もしや「明日の糧」と書かれているかもしれません。

なぜこのような注釈がその言葉についているのかというと、「日用の糧」というこの「日用の」にあたるギリシャ語「エピウシオン」という意味が、いくつかの意味を持っているからです。そして、この「エピウシオン」という単語は、ギリシャ語のいかなる文献にも使われていません。この単語は!そして聖書にも、まさにここ一箇所だけです。そしてルカによる福音書にもう一度使われますが、そのルカにある主の祈りに、たった一度だけ使われた単語なのです。

ですから、この時代の言語学者や聖書学者たちは、その単語がどのように使われているのかを、推論できずにいるのです。それで、三つの見解がありますが……。

第一の見解が、「エピウシオン」という単語が「エピ」と「ウシア」の合成語だと見るものです。それで、生活に必要な糧、日用の糧を「生活に必要な糧」と見る見解があります。第二に、「その日のための、当日のための糧」、日用の糧を当日のための糧と見る見解があります。そして第三が、まさに最も多くの支持を受けている、「来るべき日、翌日」と見る見解です。来るべき日、翌日、明日!来るべき日の糧、翌日の糧、明日の糧。そう見るのです。

なぜこのような見解を多くの人が支持し、私もなぜこの見解を支持するのかというと、イエス・キリストが宣教当時使っていた言語は何ですか?アラム語です。「パッション(Passion of the Christ)」に出てくるあの言語、アラム語です。このアラム語はバビロンの言語です。

紀元前586年に、南ユダがバビロンに滅ぼされ、70年間、紀元前516年に神殿が再建されるまで、彼らはバビロンの捕囚としていたではないですか。その間、彼らは自分たちの言語をすべて忘れてしまいました。そしてアラム語を使い始めました。アラム語とギリシャ語が彼らの公用語だったのです。

むしろヘブライ語は、聖書を研究するような人々以外には、よく知られていませんでした。読み書きができなかったのです。ですから、当時使われていたそのアラム語、そのアラム語の主の祈りには、「明日の糧、マヘルという明日の糧」とそう書かれているのです。そして「明日の糧」という見解を聖書が支持しています。私たちの改革派神学、リフォームド神学の基本は、「聖書は聖書によって解くべきだ」というものです。聖書は聖書で解く。この言葉はどういう意味かというと、例えば、善いサマリア人の話がありますよね?

ある人がエルサレムからサマリアへ行く途中で、強盗に遭い、死ぬほど打ち叩かれます。誰もが通り過ぎていくだけなのに、善いサマリア人が通りかかり、彼を見て傷口にぶどう酒と油を注ぎ、包帯をして、宿屋へ連れて行きます。そしてそこで、宿屋の主人に任せながらコイン二枚を渡します。そして「私がまた戻ってくる」と言って去ります。

この話を、ある人はこのように解釈する人々がいます。非常にそれらしいのです。「通りすがりの人、強盗に遭った人はまさに私たちのことであり、エルサレムは天国、サマリアは世の中だ。強盗はサタンだ。強盗に散々叩かれて私たちが倒れているところに、善いサマリア人であるイエスが来られて、ぶどう酒と油を注ぐ。ぶどう酒は宝血、油は聖霊!油を注いで、彼を宿屋へ連れて行く。宿屋は教会。教会に預けるのだ。宿屋の主人は牧師。ああ、いいですね。牧師に預け、コイン二枚を渡すが、それは旧約と新約だ」と。そして「私がまた戻ってくる」と言ったのは「イエスの再臨」を語っているのだと。

それらしいでしょう?しかし、聖書のどこにもその話を裏付けるものはありません。この話の真意は、律法の専門家がイエスに尋ねるところにあります。「どうすれば永遠の命を得られますか?」すると「律法には何と書いてあるか」。「心を尽くし、命を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛し、隣人を自分のように愛せよ。そう書いてあります」。「では、あなたも行ってそのようにしなさい。そうすれば命を得られる」。

すると律法の専門家は「では、私の隣人とは誰ですか。誰を愛すべきなのですか」と聞きます。そこでこの例えを挙げられ、どのような結論を結ばれたのかというと、「あなたの隣人が誰なのか、あなたが隣人を選ぼうとするのではなく、あなたが先に隣人になってあげなさい」ということなのです。ですから、全く違う話なのです。いくら良い意味であっても、聖書が語るその真意を把握できなければ、それは非常に危険です。聖書を勝手に解釈する者は呪われるべし!

では、聖書がどのようにその「明日の糧」を支持しているのか、一度探してみましょう。旧約聖書で、神様がその明日の糧を今日与えられたことがありました。いつですか?マナです!六日目に、七日目の糧を与えられました。なぜ七日目の糧を六日目に与えたのですか。七日目は安息日だからです。

安息日は何をする日ですか。神様のあの完全な創造、あの完全な創造を楽しみ、記念し、享受する日です。そしてその安息日を守ることによって、終末に私たちに訪れるあの永遠の安息を待ち望む日が安息日なのです。ですから、六日目にその七日目の糧をしっかり所有していることで、どうなりますか。安息日に食べる糧が目の前にあります。すると、その安息日は必ず来るということを確認するわけです。

そしてその糧を持ちながら、七日目にすでに参与するのです。あたかも私たちが子供の頃、遠足の前日、お母さんがリュックサックに七星サイダーとチョコレートを全部入れてくれてですね、海苔巻きの材料を台所に積んでおいた時、私たちは遠足が明日であるにもかかわらず、今日すでに胸がドキドキし始めるのと同じです。その明日を、今日すでにときめく心で生きるのです。一日に十二回も窓を開けて見るでしょう?雨が降るか降らないか。その期待!それこそが、六日目に七日目の糧を与えた理由なのです。

ところで、このアラム語の主の祈りを見ると、その「マヘル」という単語は、明日の糧の「明日」という意味は、24時間後の明日ではなく、「今日とは違う日」を意味するものなのです。つまり、今日とは違う、来たるべき明日を意味するのです。終末的な意味があるのです。

ですから、私たちが「明日の糧を与えてください」と今祈るということは、その来たるべき終末、新しい天と新しい地、あの天国は必ず来る!そして私たちはその国の糧で生きるべき者たちだ!そして私たちは今、この終末を生きている。まさに、もうすぐその国は来るのだが、この六日目を私たちは生きているのです。ですから、その国の糧を求めることで、私たちはその国を今享受するのです。その国を楽しむのです。つまり、終末的な信仰を告白しているのです。

終末的な信仰とは何でしょうか。私が大学生の時、軍隊を除隊して復学し、教養体育の時間にゴルフをしました。ゴルフクラスを受けたのですが、私には勝負根性がありましてね。私の友人、今は法官として活躍している友人が同期にいたのですが、彼と一緒にその教養体育を聞いたのですが、彼も非常に勝負根性のある友人でした。それで、果川の競馬場の、一番安い練習場に行って、毎日練習したのです。

ところが、二箱くらい打つと限界です。当時、始めたばかりの学生ですから。しかし、打ってから翌日に試験を受けなければならないのに、彼は帰りました。彼を送り出して、「私も帰るよ」と車に乗るふりをして、また戻って二箱もっと打ちました。ところが、そこで肋骨にヒビが入ったのです。二本も!あまりに激しく運動しすぎて、非常に苦しくて病院へ行ったのですが、レントゲンを撮ったらヒビが入っていました。

ところが、そのヒビが入った肋骨の間に、こんなに大きな塊が三つ見えるのです。レントゲンに!そしてその藪医者が、あろうことか「ガンかもしれない」と言うのです、これが!そして、これほど大きなガンなら、非常に危篤だと言うのです、私に。なんてことだ!まるで全身の力が抜けてですね。組織検査をして、結果が出るその日まで待つのですが、何も手につきませんでした。「もうすぐ死ぬんだな」という考えが私を支配したからです。

私は当時、大学歌謡祭の大賞を受けて、それほど経っていない時でした。だから、どれほど夢が多かったことでしょう。ところが、あんなことこんなこと何も思い出せず、ただ私の周りの人々、その方々にこれまでよくできなかったこと、そんなことが思い出されました。心の中で恩義のある方々に恩返ししたい、周りの人に親切にしたい、そうなったのです。他の欲心は何ひとつありません。「明日行って試験をどう受けるか」なんて考え、微塵も浮かびませんでした。

後で結果が出たのですが、ただ筋肉が固まっただけだと言われて(ハハハハ)、私はその人の手を握って、30分間「ありがとうございます!」と言いました。その人が何かしてくれたわけでもないのに。ただ誤診しただけなのに、「先生、ありがとうございます!」。その人が白いガウンを着ていることさえ、感謝したくなったのです。それが終末的な信仰です。「明日この地に終末が来るなら、今日私たちはどう生きるか」ということです。

私たちは明日の糧、明日の糧を今求めることで、「神様、その通りです。あの日(終末の日)は必ず来るでしょう。私はあの日を準備しながら生きる人間です」という告白をするのが、「今日、私たちに明日の糧を与えてください」と祈ることなのです。

では、その天の糧とは何ですか。何で食べて生きるのですか。ヨハネによる福音書6章27節へ行きましょう。

(ヨハネによる福音書 6:27-35) 27 朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。 28 そこで彼らが、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と言うと、 29 イエスは答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」 30 そこで彼らは言った。「わたしたちが見てあなたを信じるために、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。 31 わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです。」 32 イエスは言われた。「はっきり言っておく。天からのパンをあなたがたに与えたのはモーセではない。わたしたちの父が天からのまことのパンをあなたがたに与えてくださるのである。 33 神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」 34 そこで、彼らが「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、 35 イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」

そのパンは何ですか。イエス様だということです。あの天の糧、明日の糧は、イエス様だということです。どのようなイエスですか。そのイエスは天の王ではないですか。天の王なのに、この地の王ではないために、この地に降りてきて、あらゆる艱難と、迫害と、苦難を受けたあのイエス!そのパンを私は今、求めているのです。私もその人生に参与したいということです。「神様、今日、明日の糧、そのイエスを私に与えてください」と祈ることは、「私はそのイエス・キリストの人生に参与して生きます」という信仰告白なのです。「今日必要な私のパンをください」という話ではなく!

では、この苦難を甘受し、この迫害を甘受して、「神様、明日の糧、そのイエスを私に与えてください」と祈れる人は、どのような人ですか。その栄光を見た人々以外には祈れません。その迫害をどうやって甘受して行けますか。行けません。その栄光を見た者たちだけが、その祈りを捧げることができます。「今日、私たちに明日の糧を与えてください」と祈れるのです。コリントの信徒への手紙二、4章17節を見てみましょう。

(コリントの信徒への手紙二 4:17-18) 17 わたしたちの一時の軽い苦難は、比べものにならないほど重くて永遠の栄光をもたらしてくれます。 18 わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは一時的ですが、見えないものは永遠に続くからです。アーメン。

その艱難を、「軽いもの」だと語っているのです。しかし、本当に軽いですか。皆さん、私たちがこの地を生きながら、私たちに艱難が訪れるではないですか。皆さん、誰もが一度や二度は経験したことがあるでしょう。それが本当に軽かったですか。そうではありません。ある時は本当に涙が出ないほど、その艱難が苦しい時があります。ある時は外へ出て自ら首を吊って死にたいと思うほど、その艱難が苦しく、苦痛なのです。艱難はそれほど甘いものではありません。

しかし、使徒パウロはここで「軽いもの」だと言います。そして、その苦痛は「一時的」だと言います。何と比較して?その苦痛がそれほど大きいのに、それを軽いものだと言える理由は、あれほど大きな苦痛も、あの天の栄光を見た後では、何でもなかったというのです。

ですから、その栄光を見た者たちは、このように祈れるというのです。私は遭うべきことは全部遭ってきた!四十に一つ足りない鞭で死ぬほど打たれたこともあるし、ことあるごとに牢獄に入れられてあのように侮辱され、苦しく生活をしたにもかかわらず、私があの天の栄光を見た後では、この艱難は軽いものだというのです。何でもなかった!

ですから、皆さんはその天の栄光を味わい、天の栄光を悟った者たちなのです。神様によって!だからこそ、私たちはこのような祈りを捧げることができるのです。「神様、私がそのイエス・キリストの人生に参与させてください。あの明日の糧を今日、私に与えてください。私はこの地を、その糧イエス・キリストだけで生きます」と告白するのがまさに、この主の祈りの内容なのです。それがキリスト教です。

誰かが言うような、三拍子の救い!三拍子の祝福!そんなものはキリスト教にはありません。ヨハネの手紙三にある、「愛する者よ、あなたの魂が幸いを得ているように、すべての点でも幸いを得、また健やかであるようにと祈ります」という話が、何か「あなたのすることが全部うまくいけばいい」という話だと思われますか。とんでもない。「すべての点(凡事)」とは何ですか。聖書が語る凡事!コリントの信徒への手紙に出てくるではないですか。「絶えず喜び、絶えず祈り、すべてのことに感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」と言うでしょう?

私たちクリスチャンの凡事とは何ですか。神様が私たちの目を開かせてくださり、この地に私たちを放置せず、私たちの人生に介入して、私たちを導いていかれるその旅路で生じるすべての出来事を「凡事」と言うのです。その凡事がうまくいくとはどういうことですか。神様が私たちを叩いてでも、ここへ引き連れていくその働きのことです。それがうまくいくということです。それを「亨通(こうつう:物事が思い通りに運ぶこと)」と言うのです。

ヨセフは牢獄に閉じ込められていますが、神様が彼を造り上げようとするその道にヨセフがいるため、「彼の人生は亨通であった」と聖書が語るのです。ですから、あなたの魂が幸いを得ているように、あなたの魂が幸いを得たように、あなたの凡事が幸いであるようにと祈る言葉は何ですか。私たちの魂が幸いを得たとは何ですか。死んでいた魂が、神の統治、その主権の中に入ってきたということではありませんか。それが私たちの魂が幸いを得たということではありませんか。

それと同じように、あなたの凡事、あなたの人生も、神の主権、その統治の中に入るようになりますようにと祈っているのです。神の約束でもなく、ただ使徒パウロが祈ったのです。それを神の約束だとして、三拍子の祝福だと言えるのでしょうか。

一体、神の統治の中に入るとはどういうことですか。自分の思い通りに一つもならなくても神の御心が、自分の願いが一つも叶わなくても神の御心が成し遂げられることを、「凡事において幸いである」と言うのです。それが非常に大きく大切なものであるため、私が理解できない出来事がそれほどたくさん起きても、私は感謝するしかないのです。その出来事は、あの永遠の新しい天と新しい地のために、私に起きていることだからです。だから凡事に感謝しなさいということなのです。それがキリスト教なのです。

そのように天の糧、明日の糧、イエス・キリストを、迫害を甘受しながら求められる者だけが、隣人を愛することができます。なぜ私たちは隣人を赦せないのでしょうか。なぜ隣人を愛せないのでしょうか。神様はアダムにどのような呪いを与えられましたか。彼が罪を犯した時!「お前は自分の力で地を耕し、畑を耕し、そこから出る実りでお前の命を維持しなければならない」とそう呪われました。汗を流さなければ、お前は食べられない、と言われました。

ですから、その呪いの下にいる人々は、自分が汗を流して食べていかなければならないため、村中の人が皆、自分の競争相手なのです。だから、隣の家の子が勉強がよくできると、お腹が痛くなるのです。うちの子の競争相手だから!私が全く同じビジネスをしているのに、隣の店が自分より儲かっていると、気分が悪いのです。呪いの下にいる者は皆そうです。

しかし、神様の恵みを知り、あの天のものが何であるかを知り、その栄光を味わった人々は?天に志を置いて生きる人々は?無駄に彼らと競争しません。そうして右の頬を打たれた時、「いいよ、左の頬ももう一回打てよ。お前の気が済むなら、左の頬ももう一発打て」と言いながら、その相手を赦せる境地まで行くということです。そのように成長していけるのです。その栄光を見た者だけが、打った者に「もう一回打て」と赦しながら、「神様、私たちが自分に負い目のある人を赦しましたように、わたしたちの負い目を赦してください」と祈れるのです、その人が!

ところで内容をよく見ると、「私たちが自分に負い目のある人を赦したように、神様、あなたも、私がしたことを見て、そのように赦してください」と聞こえますよね。「わたしたちが自分に負い目のある人を赦しましたように、わたしたちの負い目を赦してください」と言うでしょう?あたかも私たちが神様の見本に先になるように聞こえますよね。ところが「わたしたちの負い目を赦してください」の箇所は、完了形で書かれているのです。

「アフェーカメン」という単語を使いましたが、このセム族の言語を最もよく研究したのが、ヨアキム・エレミアスです。そのヨアキム・エレミアスが一体この意味は何だろうかと研究しているうちに、この時制をそのままアラム語に移しました。それで「アラム語でイエス様がこの話をされた時は、どのような意味があったのか」とアラム語に移してみると、そのアラム語のこの完了形時制には、同時的な意味があるのです。同時的な意味!再びそのアラム語に訳してみると、「神様、私たちの罪を赦してください!それと同時に」同時多発的に起きるのです。「同時に私たちも、私たちに罪を犯した者を赦します」という内容なのです。

では、よく聞いてください。「神様、私たちの罪を赦してください!私たちも私たちに罪を犯した者を赦します」。同時に起きるのです。あなたが私を赦してくれたら赦す、ということではなく!ならば「神様、私の罪を赦してください」と言いながら、「あの人間だけはどうしても赦せない」と誰かを赦せていないとしたら、その祈りをどうやって捧げられますか。「神様、私の罪をすべて赦してください。ただ、この人間に対してだけは赦せません。だから、この罪だけ除いて、他の罪は赦してください」ということになります。神様にでたらめな祈りをすることになるのです。

「神様、私の罪を赦してください、ただしこれは少し目をつぶってください。これは私が最後まであいつの、とにかくあいつが破滅する姿を見てから、その後に神様の前によく行きますから、これはちょっと見逃して、残りは全部赦してください」という意味になるではありませんか。神様に「私の罪を赦してください」と言うためには、すべて神様の前に降ろして、それから祈らなければならないにもかかわらず!

できませんよね。だから聖書では、「あなたが隣人を赦さずに来るなら、神もあなたを赦さない」と言うのです。大変なことです。ならば私たちは神様に祈ることができません。そうでしょう?皆さんの心の中に、赦せていない人がたくさんいるでしょう。ならば私たちはこの祈りができない者たちです。マタイによる福音書6章14節を見ましょう。

(マタイによる福音書 6:14-15) 14 もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。 15 もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。(と言うのです。)

大変ですね。マタイによる福音書18章35節に同じ話が書かれています。

(マタイによる福音書 18:35) 35 あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。

赦さないというのです。どのような話の結論として与えられたものですか、これは。私たちがよく知る、一万タラントの借金がある家来の例えですよね。王が自分に一万タラントの借金がある家来を連れてきて「返せ」と言ったら、「返す能力がありません」と言いました。一万タラントは、当時として凄まじい大金です。当時、ペレアとガリラヤの人々がローマに納めていた一年分の税金が200タラントでしたから、一万タラントは個人にとってはとてつもない大金です。ですから、到底返せないことを象徴しているのです、一万タラントは!

一万タラントの借金がある家来を王は赦してあげました。ところが、外へ出ると自分に借金がある一人の仲間に出会ったのですが、100デナリオンの借金がある者です。胸ぐらを掴んで「なぜ返さない、この野郎!」と言って、牢屋にぶち込んでしまいました。すると王がその知らせを聞いて、彼を呼び戻し、「私はお前にあんなに大きな借金を赦してやったのに、お前はあいつ一人赦せないのか。こいつがこれを全部返すまで」一万タラントは人間には返せない金だと言いましたよね。「これを全部返すまで牢に入れろ」と言ったのです。

その話は何ですか。永遠の牢屋に入れたということです。地獄に行ったということです。だから、赦しを受けた者が誰かを赦せなかったとしたら、それは地獄に行くということです。神様は到底その人を赦さないということなのです。大変なことになりました。ますます。ね?雪上加霜です。ならば私たちは一体どうなるのですか。

今、ここで「ユニオン・クライスト(Union Christ)」、キリストとの連合がまた動員されるのです。皆さんはイエスの死に参与した者であり、イエスのあの復活に参与した者であり、イエスの33年の人生が皆さんの人生になった人々です。そうでしょう?ですから私たちは、その復活と、死と、あのゲッセマネの祈りにまで、参与した者となりました。ですから私たちは「御心が天で行われるように、地でも行われますように」という祈りを、「神様、あなたの御心のままになさってください。私の思いではなく、あなたの御心のままに」という、イエス・キリストのあの祈りに連合することによって、私たちはそのような祈りを捧げられる者になったと語ったではありませんか。

ならば、十字架の上でイエス様が、「父よ、彼らを赦してください。彼らは自分が何をしているのか知らないのです。彼らを赦してください」と祈られた時、皆さんはどこにおられたのですか。そのイエス・キリストの内におられる方々です、皆さんは。皆さんは赦した者たちなのです。これが筋が通る話ですか。一体。私たちのような人間が、あのイエス・キリストの人生に参与して、あの十字架で世を赦してしまったあの赦しに参与した者になったということが、あり得ますか。ところが、神様が私たちをそのように扱ってくださるというのです。だから、赦した者となったのです。

ですから私たちは神様の前に堂々と赦しを乞える者になったのです。「神様、私が世を赦したように、あなたも私を赦してください」と堂々と祈れる者になったということなのです。この事実の前に、皆さんは他にまた何を求めようというのですか。このとてつもない奇跡の前に。私たちは赦した者になってしまいました。そして、堂々と赦しを求められる者になってしまいました。

だからこそ、私たちがそのイエス・キリストの人生に参与しながら、隣人を実際にこの人生の中で赦しながら生きるのです。赦さなければならなくなったのです。キリストの人生が私の人生になったからです。お分かりですか。私が赦したから神様が私を可愛がってくださるのではなく、私を「称義(ディカィオスネー:義と認めること)、ノット・ギルティ(not guilty)、お前は正しい」としてくださったから、「すでにお前は赦した者だ」と言ってくださったから、私たちは赦しながら行くのです。似たような言葉に聞こえますが、全く違うのです。いいですか。私たちは赦した者になったのです。そのように!だから神様の前に、主の祈りを捧げられる者になったのです。

神様はこのようにはっきりと、「あなたの兄弟を赦せなければ、お前は天国に行けない」と語られましたが、私たちは赦したのです。これが理解できる人は、本当に新しく生まれた人です。皆さん。それが「キリストとの連合」なのです。ですから私たちの人生の中で、そのような赦しをしながら私たちは生きるべきなのですが、その赦しを一度二度してみるとですね、その赦しがいかに私たちを自由にしてくれるか、皆さんは知ることができます。

「パピヨン」という映画をご覧になると、最後の方にどのようなシーンが出てきますか。スティーブ・マックイーン!ボート代わりの浮き袋のようなものを投げて、ダスティン・ホフマンと二人で立ちますよね。「一緒に行こう」見下ろすと怖いです。「お前一人で行け」。スティーブ・マックイーンの九度目の挑戦です。それが九度目の挑戦。お盆カラオケ(※韓国のバラエティ番組ネタ)ではなく、九度目の挑戦で、スティーブ・マックイーンがあの絶壁の下へ飛び込みますよね。飛び込んで潮流を利用して、脱出に成功します。そうして「わあ!」と勝利の歓喜のポーズをします。手を振ります。ダスティン・ホフマンに。

するとダスティン・ホフマンが言いますよね。見下ろしながら、「お前がいくらこの悪魔の島を脱出したとしても、お前が自分の心の中にあるお前の牢獄から脱出できないなら、お前は永遠に牢獄の中にいるんだぞ」という名言を残すのです。ご覧になっていないのですか、この名画を。教養必須なのに!そうして「パピヨン」は終わります。

これは実話です。パピヨンの!このパピヨンは、アンリ・シャリエールというフランス人ですが、1930年の20歳の時ですか、彼が!とにかくパリ市内で酒を飲んでいたところ、殺人事件が起きたのですが、ある検事が自分の有能さを示すために、この人をただハメたのです。それでパリ中が、フランス中がこの検事に焦点を合わせました。「おお、有能な検事だ」と。

ところが、この検事はアンリ・シャリエールが犯人ではないことを知っています。それにもかかわらず、自分が有能な検事であることを立証するために、他の不良たちを証人として動員し、彼を殺人犯に仕立て上げ、1941年に死刑宣告を下してしまいます。そしてあの悪魔の島へ送ってしまったのです。だからスティーブ・マックイーンがあのように死にそうになり、ボコボコにされながらも脱出しようとするのです。悔しいからです!

アンリ・シャリエールが脱出した後、「バンコ」という小説を書きました。自伝的小説、自分の自叙伝ですね。そこでそのように語っているのです。そこから脱出して、この人は南米に行きました。アルゼンチンをはじめとして、とにかく南米を転々としながら、お金をものすごく稼ぎました。それで60歳か61歳にフランスへ戻ります。時効が終わったからです。なぜ戻るか分かりますか。その人たちを捕まえて殺すために行きます。復讐の刃を研いで。あの検事と、偽証をして自分を死刑宣告に追い込んだあの不良を、全員殺しに行くのです。

行ったのですが、8日間、自分の子供の頃の街を歩いてみたり、愛する人たちのところへ行って遠くから彼らの生活を見たりしながら、彼はその復讐を諦めます。彼らを赦します。そして何と「バンコ」という本に書き記したか分かりますか。「私は神様にこのように祈った。私が復讐を諦めた代償として、二度とこのような悲劇が起きないようにしてほしいと神様に祈った。そして自分自身にささやいた。お前の勝ちだ、友よ。お前は自由で、愛される未来の主人公としてここにいる。この件に関わったすべての人のうち、お前が最も自由で、最も幸せな人間だ。友よ」と自分に語るのです。

そして、自分は自由を得たというのです。それまではお金もたくさん稼ぎ、一生懸命生きましたが、唯一の目的は復讐でした。しかし、彼らを赦した後、彼はついにパピヨンになったのです。パピヨンは蝶という意味ですから。いよいよひらひらと、ようやく飛べるようになったのです。赦した後に!赦しは私たちに利益になるのです。だから神様は「赦しなさい」とおっしゃるのです。

皆さん!私たちが主の祈りを学びながら忘れてはならないこと。私たちが神様に請願する祈りの内容です。「神の国が来ますように。その御心が成し遂げられますように。赦してください」。請願する内容ですが、この主の祈りの内容は同時に誓約なのです。

神様、神の国が来ますように。その意味は何ですか。「私はその国が来れば、その御心に従います」という誓約です。あなたの御心が行われますように。「私はその御心に身を任せます」という誓約です。赦してください。「私も隣人を赦します」という誓約なのです。そうです、皆さんは主の祈りを唱えながら、絶えず皆さんはそのような神様の前での誓約を捧げているのです。

皆さん。アダムの罪によって、私たちは自分の命を、自ら維持しながら生きるようになりました。農業を営み、汗を流し、その汗の実りである糧で生きるようになっています。しかし、イエスによって、その呪いから解かれた者たちは、神様がくださる天の糧で今日を生きられるようになりました。そして、そのように生きなければならないのです。

私たちは終末を生きる、明日を待つクリスチャンなのです。あの新しい天と新しい地を待つクリスチャンです。ですから私たちはこの地の糧で生きるのではなく、あの新しい天と新しい地、あの明日の糧をくださいと、あのイエス・キリストだけで生きさせてくださいと、神様の前で祈りをするのです。

ですから私たちはそれで満足して生きられる者たちなので、隣人を赦すのです。妬まないのです。嫉妬しないのです。彼らを愛することができるのです。それがクリスチャンの人生です。だから、「私もこのように赦す者となったので、私の罪も確かに赦されたことを私は確信します、神様」と神様の前に信仰告白をするのが、まさにこの主の祈りなのです。

ですから、「今日、わたしたちに必要な糧を今日与えてください。わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように」と祈りながら、私たちは自分たちの身分をもう一度確認するのです。そして「明日の糧であるイエスがこのように私の内にいるため、あの日(終わりの日)は速やかに来る。必ず来る。そして私は、その明日を生きる者だ。私はこの地の寄留者だ。この地を生きる者ではなく、天国を生きる者だ」と確信し、確認しながら、そのように天国を楽しみ、享受しながら生きていくのです。それが主の祈りを捧げる真意なのです。

非常に難しい話のようでしたが、何とか引っ張られてきたら、結論がここまで来ました。でしょう?先週、ある学生が私に、「非常に難しい内容のようですが、牧師の説教を聞いていると、最後までついて行ってみれば、そこまで来ている。しっかり腑に落ちたようだ」と言われました。私にただ「分かりやすくうまく説明しますね」と言えばいいのに、何をあんなに難しく言うのか。それですよ。

「今日、わたしたちに必要な糧を今日与えてください。わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように」。この真意はまさにそれです。


他にこの内容に関して調べたいことや、追加で翻訳が必要なことがあればいつでも教えてくださいね!

 
 

 

 
 
 
 

Gemini는 AI이며 실수를 할 수 있습니다. 



 
 

 

 

 

 

 

 


 

4.주기도문강해  (마6:9-13) 

 

 

마태복음 6장 9절에서 13절까지를 함께 봉독하도록 하겠습니다.  

 

(마태복음 6:9-13)  

9 그러므로 너희는 이렇게 기도하라 하늘에 계신 우리 아버지여 이름이 거룩히 여김을 받으시오며 

10 나라이 임하옵시며 뜻이 하늘에서 이룬 것 같이 땅에서도 이루어지이다 

11 오늘날 우리에게 일용할 양식을 주옵시고 

12 우리가 우리에게 죄 지은 자를 사하여 준 것 같이 우리 죄를 사하여 주옵시고 

13 우리를 시험에 들게 하지 마옵시고 다만 악에서 구하옵소서 (나라와 권세와 영광이 아버지께 영원히 있사옵나이다 아멘) 

 

인류의 역사상 가장 큰 실험은, 아마 공산주의 이데올로기일 것입니다. 공산주의! 마르크스와 엥겔스가요, ‘공산당선언’에서, ‘모든 사람들이 능력껏 일하고, 모든 사람들이 필요껏 쓰는, 프롤레타리아 유토피아가, 반드시 이 땅에 온다. 그리고 우리가 반드시 그 프롤레타리아 유토피아를 이 땅에 만들 것이다.’라고 호언장담을 했습니다.  

 

그런데 그 7-80년 동안, 공산주의가 이 땅에 남긴 것은, 그들이 실험하여 남긴 것은, 대재앙뿐입니다. 그들이 놓친 것은, 인간이 어떤 존재인가를 놓친 거예요. 인간은 토럴 디프로버티(total depravity)! 완전한, 전적인 타락을 한 죄인임에도 불구하고 그들은, 인간이 어떠한 존재인지를 알지 못했기 때문에, 그들은 이 땅에 유토피아를 만들 수 있다고 생각했어요. 그래서 우리 안에 있는 이 내재된 힘으로, 이 땅에 평화와, 행복과, 안녕을 이룰 수 있다고 그들은 오해하고, 착각했던 것입니다.  

 

여러분! 우리의 힘으로 지상낙원을, 그리스도의 푸른 계절을, 이루어 낼 수 없습니다. 그래서 우리는 이 땅의 것이 아닌, 하늘의 것! 그 하늘나라를 구하면서, 이 땅의 유토피아가 아닌, 그 하늘의 유토피아! 그 천국을 바라면서, 살 수밖에 없는 그러한 존재들이라는 거예요. 그래서 우리가 앞서 살펴본 주기도문의 많은 기도들이, 다 하늘나라의 것! 천국적인 내용 아니었습니까? 

 

그런데 오늘 기도의 내용을 보면은, ‘오늘날 우리에게 일용할 양식을 주옵시고…’ 이렇게 되어 있다고요. 마치 ‘이 땅의 것을 구하라!’라고 이야기 하는 것처럼, 우리가 오해할 소지가 있는 구절입니다. 이 구절을 보면서, ‘야 좋다! 바로 이거야 기다렸어! 내가! 오늘날 우리에게 일용할 양식을 주옵시고! 하나님께서 이제 드디어, 이 땅의 것을 구하라고 하는 그 대목이 나왔다! 우리 목사가 계속 외치는 주장하는 그 내용이 아닌, 다른 내용이 나왔는데, 이걸 어떻게 해결할 것인가?’ 

 

여러분! 만약에 이 내용이 우리가 이해하는 것처럼 ,이 땅에서 우리가 필요한 것을 구하는 내용이라면, 성경은 성경 자체에서 모순을 갖고 있는 거예요. 바로 고 밑에, 밑의 구절을 보면요, 마태복음 6장 25절을 보면,  

 

(마태복음 6:25)  

25 그러므로 내가 너희에게 이르노니 목숨을 위하여 무엇을 먹을까 무엇을 마실까 몸을 위하여 무엇을 입을까 염려하지 말라 (그런다고요.)  

 

바로 같은 장에서, 이런 모순된 이야기를 하고 있다고요. 그런데 성경이 모순을 이야기할 일은 없지 않습니까? 그렇다면, 이 구절에는 뭔가 심오한 뜻이 있다는 거예요. 그러니까 오늘 그 심오한 뜻을 한번 같이 밝혀 보는 것입니다. 저희는 매주 심오해요. 그죠? 

 

자, 여러분! 그 성경을 한 번 잘 보세요. 마태복음 6장에 보시면, ‘오늘날 우리에게 일용할 양식을 주옵시고’ 고 옆에, 일용할 양식 옆에, 숫자나 기역(ㄱ)! 이렇게 붙어 있을 거예요. 그러고서 그 아래에, 혹 ‘내일의 양식’ 이렇게 쓰여 있을 겁니다.  

 

왜 이런 관주가 그 말에 붙어 있냐면, ‘일용할 양식’이라고 하는 이 ‘일용할’이라는 이 ‘에피우지온’이라는 헬라어의 뜻이, 여러 가지의 뜻이 있기 때문에 그래요. 그리고 이 ‘에피우지온’이라는 단어는, 헬라어의 어느 문헌에도 쓰여 있지 않아요. 이 단어는! 그리고 성경책에도 딱 요기 한 군데 있어요. 그리고 누가복음에 한 번 더 쓰이는데, 그 누가복음에 나오는 그 주기도문에, 딱 한번 쓰인 단어거든요.  

 

그러니까 이 시대의 그 언어학자들이나, 성경학자들이, 그 단어가 어떻게 쓰여 있는지를, 추론을 못하고 있는 거예요. 그래서 세 가지 견해가 있는데…,  

 

첫 번째 견해가, ‘에피우지온’이라는 이 단어가, ‘에피’와 ‘우지아’의 합성어로 보는 거예요. 그래서 삶에 필요한 양식! 일용할 양식을, ‘삶에 필요한 양식!’ 이렇게 보는 견해가 있고요. 두 번째가 ‘그 날을 위한, 당일을 위한 양식!’ 일용할 양식을 당일을 위한 양식! 이렇게 보는 견해가 있어요. 그리고 세 번째가 바로, 가장 많은 지지를 받고 있는, ‘오는 날! 다음 날’로 보는 견해입니다. 오는 날, 다음 날, 내일! 오는 날의 양식! 다음 날의 양식! 내일의 양식! 그렇게 보는 거예요.  

 

왜 이런 견해를 많은 사람들이 지지하고, 저도 왜 이 견해를 지지하냐 하면은, 예수 그리스도께서 사역 당시에 쓰던 언어가 뭐죠? 아람어라고요. ‘패션 오프 더 크라이스트(Passion of the Christ)’에서 나오는 그 언어? 아람어거든요. 이 아람어는 바벨론의 언어예요.  

 

BC 586년에, 남유대가 바벨론에게 망하면서, 70년 동안, BC 516년에 성전이 재건될 때까지, 70년 동안 그들이 바벨론의 포로로 있었잖아요? 그동안 이들이 그들의 언어를 다 잊어 버렸다고요. 그리고 아람어를 쓰기 시작했어요. 아람어와 헬라어가 그들의 통용어였었다고요.  

 

오히려 히브리어는, 성경을 연구하는 그러한 사람들 이외에는, 히브리어를 잘 알지 못했어요. 읽고 쓰지를 못했다고요. 그래서 그 당시에 쓰였던 그 아람어! 그 아람어 주기도문에는, ‘내일의 양식! ‘마헬’이라는 내일의 양식!’이라고 그렇게 써 있다고요. 그리고 ‘내일의 양식’이라는 견해를 성경이 지지해 주고 있다고요. 그 우리의 개혁신학! 리폼드 개혁신학의 기본은, ‘성경은 성경으로 풀어야 한다.’라는 거거든요. 성경은 성경으로 풀어야 한다. 이 말이 무슨 말이야 하면은? 예를 들어서, 선한 사마리아인의 이야기 있죠? 

 

어떤 한 사람이, 예루살렘으로부터 사마리아로 가는 도중에, 강도를 만나서 거반 죽게 두들겨 맞습니다. 다들 그냥 지나가는데, 선한 사마리아인이 지나가다가 그를 보고서, 상처에다가 포도주와 기름을 붓고, 싸매고, 데리고 가서 여관으로 가죠? 그리고 거기에서 그 여관 주인에게 맡기면서, 동전 두 잎을 준다고요. 그리고 ‘내가 다시 돌아온다!’ 그리고 간다고요.  

 

이 이야기를 혹자가 이렇게 해석을 하는 사람들이 있어요. 굉장히 그럴 듯 하다고요. ‘지나가던 사람! 강도 만난 사람은, 바로 우리를 이야기하는 것이고, 예루살렘은 천국이고, 사마리아는 세상이다. 강도는 사탄이다. 강도한테 실컷 두들겨 맞고 우리가 있는데, 선한 사마리아인! 예수가 오셔서, 포도주와 기름을 붓고, 포도주는 보혈! 기름은 성령! 기름을 붓고, 그를 여관으로 데리고 간다. 여관은 교회! 교회에다 맡기는 거예요. 여관주인은 목사! 아이 좋죠? 목사에게 맡기고, 동전 두 잎을 주는데, 그게 구약과 신약이다!’ 이렇게 이야기 한다고요. 그리고 ‘내가 다시 돌아온다.’라고 한 건, ‘예수님의 재림’을 이야기하는 거다.  

 

그럴 듯 하죠? 그런데 성경 어디에서도 그 이야기를 뒷받침해주지 않아요. 이 이야기의 진위(眞僞)는요, 율법사가 예수님에게 물어봅니다. ‘어떻게 해야 우리가 영생을 얻을 수 있습니까?’ 그랬더니, ‘율법에 뭐라고 쓰여 있냐?’ ‘네 마음을 다하고, 목숨을 다하고, 뜻을 다하고, 힘을 다하여, 주 너의 하나님을 사랑하고, 네 이웃을 네 몸과 같이 사랑하라! 그렇게 쓰여 있습니다.’ 그러니까 ‘그럼 너도 가서 그렇게 행하라! 그럼 영생 얻을 수 있다.’ 그래요.  

 

그러니까 율법사가, ‘그럼 누가 내 이웃입니까? 누구를 가서 사랑해야 하는 겁니까?’ 그러니까 이 비유를 들어 주시면서, 뭐라고 결론을 지으시는 거냐 하면은, ‘네 이웃이 누구인지? 네가 그 이웃을 고르려고 하지 말고, 네가 먼저 이웃이 되어주라!’라는 거예요. 그러니까 완전히 다른 이야기라고요. 아무리 좋은 뜻이라고 할지라도, 성경이 말하는 그 진의를 파악해 내지 못하면, 그건 굉장히 위험하다고요. 성경을 임의로 해석하면, 저주를 받을 지어다! 

 

그러면 성경이 어떻게 그 ‘내일의 양식’을 지지하고 있는지를, 한번 찾아보도록 하겠습니다. 구약성경에, 하나님께서 그 내일의 양식을, 오늘 주신 적이 있었어요. 언젭니까? 만나! 여섯째 날에, 일곱째 날의 양식을 주셨단 말이에요. 왜 일곱째 날 양식을, 여섯째 날 주셨습니까? 일곱째 날은 안식일이기 때문에 그렇죠.  

 

안식일은 뭐하는 날이에요? 하나님의 그 온전한 창조! 그 완전한 창조를 즐기며, 기념하며, 누리는 날이죠. 그리고 그 안식일을 지킴으로 해서, 종말에 우리에게 올 그 영원한 안식을, 고대하는 날이 안식일이란 말이에요. 그래서 여섯째 날, 그 일곱째 날의 양식을 딱 소유하고 있음으로 해서, 어떻게 해요? 그 안식일에 먹을 양식이 내 눈앞에 있어요. 그러면 그 안식일은 반드시 온다는 것을 확인하는 것이지요.  

 

그리고 그 양식을 갖고 있으면서, 그 일곱째 날에 벌써 참여하는 거예요. 마치 우리가 어린 시절 소풍가기 전 날, 엄마가 배낭에다, 니쿠사쿠에다가, 칠성사이다 하고 초콜릿 하고 다 넣어주시고 말이에요? 김밥! 쌀 재료들을 부엌에다가 쌓아 놨을 때, 우리는 소풍이 내일인데도 불구하고, 오늘 벌써 가슴이 벌렁벌렁 뛰기 시작한다고요. 그 내일을, 오늘 벌써 두근거리는 마음으로 살아가는 거라고요. 하루에도 열두 번씩 창문 열어보잖아요? 혹시 비가 오나 안 오나? 그 기대! 그게 바로 여섯째 날, 일곱째 날의 양식을 준 이유라고요.  

 

그런데 이 아람어 주기도문에 보면, 그 ‘마헤르’란 단어는, 그 내일의 양식의 그 ‘내일’이라는 뜻은, 24시간 후의 내일이 아니라, ‘오늘과는 다른 날’을 뜻하는 거거든요. 그러니까 오늘과는 다른, 다가올 내일을 뜻하는 거예요. 종말적인 의미가 있는 거거든요.  

 

그리니까 우리가 ‘내일의 양식을 주옵시고,’라고 지금 기도를 한다는 것은, 그 다가올 종말! 새 하늘과 새 땅! 그 천국은 반드시 온다! 그리고 우리는 그 나라의 양식으로 살아야 할 자들이다! 그리고 우리는 지금 이 종말을 살아가고 있다. 바로 이제 곧 속히 그 나라는 올 것인데, 이 여섯째 날을 우리가 살아가고 있는 거예요. 그래서 그 나라의 양식을 구함으로 해서, 우리는 그 나라를 지금 누리는 거예요. 그 나라를 즐기는 거라고요. 그러니까 종말적 신앙을 고백하는 거라고요.  

 

종말적 신앙이라는 게 뭐예요? 제가 그 대학교 때, 군대 제대하고 복학하고서, 교양 체육시간에, 골프를 했어요. 골프클래스를 했는데, 제가 이 승부근성이 있어서 말이죠? 제 친구! 지금 인제 법관으로 아주 잘나가는 친구가 있는데, 동기였는데, 그 친구랑 같이 그 교양체육을 들었는데, 이 친구도 굉장히 승부근성이 있는 친구예요. 그래서 과천의 그 경마장에, 제일 싼 데 가서, 우리가 인제 매일 연습을 했거든요.  

 

그런데 한 두 박스씩 치면, 맥시멈 치는 거예요. 그때 처음 시작하는 학생들이니까! 그런데 치구서 그 다음 날 인제 시험을 봐야 되는데, 애가 갔어요. 가서 제가 걔 보내고, ‘나도 집에 갈 거야!’ 그러면서 차타는 척 하다가, 다시 들어가서 두 박스를 더 쳤어요. 그런데 거기에서 이 갈비에 금이 간 거예요. 두 대에! 너무 심하게 운동을 해서, 굉장히 괴로워서 병원에 갔는데, 엑스레이를 찍었더니, 금이 갔더라고요.  

 

그런데 그 금 간 고 갈비 사이에, 이렇게 커다란 혹 세 개가 보이는 거예요. 엑스레이에! 그러면서 그 돌파리가, 글쎄 암일지 모른다는 거예요. 이게! 그리고 이렇게 큰 암이면, 굉장히 위중하다는 거예요. 저한테! 세상에! 마치 온몸에 힘이 쫙 빠지면서 말이죠? 조직검사 하고, 다 하고선 이제 결과가 나오는 그 날까지 기다리는데, 아무 것도 못하겠더라고요. ‘이제 곧 죽는구나!’ 이런 생각이 저를 확 사로잡으니까 말이죠.  

 

제가 그때 대학가요제 대상을 받고, 얼마 안 있었을 때거든요. 그러니까 얼마나 꿈이 많았겠어요? 그런데 그런 거 저런 거 아무 생각도 안 나고, 그냥 제 주변에 있는 분들! 그 분들에게 내가 그동안 잘 못했던 거! 뭐 이런 거 생각나고요. 내 마음속으로 빚진 분들에게, 그거 갚고 싶고, 주변사람들에게 잘 해주고 싶고, 그렇게 되더라는 거예요. 다른 욕심 아무 것도 없어요. 어떻게 내일 가서 시험을 잘 볼까? 이런 생각, 그런 생각 아무 것도 안 들더라고요.  

 

나중에 결과가 나왔는데, 그냥 그 근육이 뭉친 거라 그래서, (하하하하) 제가 그 분 손을 잡고, 한 30분을, ‘감사합니다!’ 그 사람이 뭐 해준 게 있다고요? 그냥 오진 한 건데, ‘감사합니다. 선생님!’ 그 분이 하얀 가운 입고 있는 것도, 막 감사하더라고요. 그게 종말적 신앙이에요. ‘내일 이 땅에 종말이 온다면, 오늘 우리는 어떻게 살 것인가?’ 말이에요? 

 

우리는 내일의 양식! 내일의 양식을 지금 구함으로 해서, ‘하나님! 맞습니다. 그날은 반드시 올 것이고, 나는 그날을 준비하며 살아가는 사람입니다.’라는 고백을 하는 게, ‘오늘날 우리에게, 내일의 양식을 주옵시고’라고 기도하는 거예요.  

 

그럼 그 하늘의 양식은 뭐예요? 뭐로 먹고 사는 겁니까? 우린 요한복음 6장 27절로 가겠습니다.  

 

(요한복음 6:27-35)  

27 썩는 양식을 위하여 일하지 말고 영생하도록 있는 양식을 위하여 하라 이 양식은 인자가 너희에게 주리니 인자는 아버지 하나님의 인치신 자니라  

28 저희가 묻되 우리가 어떻게 하여야 하나님의 일을 하오리까  

29 예수께서 대답하여 가라사대 하나님의 보내신 자를 믿는 것이 하나님의 일이니라 하시니  

30 저희가 묻되 그러면 우리를 보고 당신을 믿게 행하시는 표적이 무엇이니이까 하시는 일이 무엇이니이까  

31 기록된바 하늘에서 저희에게 떡을 주어 먹게 하였다 함과 같이 우리 조상들은 광야에서 만나를 먹었나이다  

32 예수께서 이르시되 내가 진실로 진실로 너희에게 이르노니 하늘에서 내린 떡은 모세가 준 것이 아니라 오직 내 아버지가 하늘에서 내린 참 떡을 너희에게 주시나니  

33 하나님의 떡은 하늘에서 내려 세상에게 생명을 주는 것이니라  

34 저희가 가로되 주여 이 떡을 항상 우리에게 주소서  

35 예수께서 가라사대 내가 곧 생명의 떡이니 내게 오는 자는 결코 주리지 아니할 터이요 나를 믿는 자는 영원히 목마르지 아니하리라 

 

그 떡이 뭐라고요? 예수님이라는 거예요. 그 하늘의 양식! 내일의 양식은, 예수님이라는 거예요. 어떤 예수예요? 그 예수는 하늘의 왕이잖아요? 하늘의 왕인데, 이 땅의 왕이 아니기 때문에, 이 땅에 내려와서, 온갖 환란과, 핍박과, 고난을 받은 그 예수! 그 떡을 내가 지금 원하는 거예요. 나도 그 삶에 동참하겠다는 거예요. ‘하나님! 오늘날 내일의 양식! 그 예수를 나에게 주옵소서.’라고 기도하는 것은, ‘나는 그 예수 그리스도의 삶에 동참하여, 살겠습니다.’라는 신앙고백인 거예요. ‘오늘 필요한 내 양식 주세요!’ 그 얘기가 아니라!  

 

그러면 이 고난을 감수하고, 이 핍박을 감수하고, ‘하나님! 내일의 양식! 그 예수를 나에게 주옵소서!’라고 기도할 수 있는 사람은, 어떤 사람들이 기도할 수 있습니까? 그 영광을 본 사람들 이외에는 기도 못해요. 그 핍박을 어떻게 감수하고 가요? 못 간다고요. 그 영광을 본 자들만이, 그 기도를 할 수 있어요. ‘오늘날 우리에게 내일의 양식을 주옵소서!’라고 기도할 수 있다고요. 고린도후서 4장 17절을 한번 보겠습니다.  

 

(고린도후서 4:17-18)  

17 우리의 잠시 받는 환란의 경한 것이 지극히 크고 영원한 영광의 중한 것을 우리에게 이루게 함이니  

18 우리의 돌아보는 것은 보이는 것이 아니요 보이지 않는 것이니 보이는 것은 잠깐이요 보이지 않는 것은 영원함이니라 아멘.  

 

그 환란을? 경(輕)한 것이라고 얘기한다고요. 그런데 정말 경합니까? 여러분! 우리가 이 땅을 살아가면서, 우리에게 환란이 오잖아요? 여러분! 다 한두 번씩은 겪어 봤잖아요? 그것이 정말 경하던가요? 안 그래요. 어떨 때는 정말 눈물이 안 나올 만큼, 그 환란이 괴로울 때가 있어요. 어떨 때는 나가서 스스로 내가 목을 콱 메달아 죽고 싶은 마음이 들 만큼, 그 환란이 괴롭고 고통스럽다고요. 환란이 그렇게 만만하지 않아요.  

 

그런데 사도바울은 여기서 ‘경한 것’이라고 그래요. 그리고 그 고통은 ‘잠시’라고 얘기해요. 뭐와 비교해서? 그 고통이 그렇게 큰데, 그것을 경한 것이라고 이야기 할 수 있는 이유는, 그렇게 큰 고통도, 그 하늘의 영광을 내가 보고나니까, 아무 것도 아니더라는 거예요.  

 

그렇기 때문에, 그 영광을 본 자들은, 이렇게 기도할 수 있다는 거예요. 내가 당할 만큼 당해봤다! 내가 40에 하나 감한 매를 죽도록 맞아보기도 하고, 걸핏하면 감옥에 들어가서 그렇게 모욕당하고 힘들게 생활을 했는데도 불구하고, 내가 그 하늘의 영광을 보고 나니까, 이 환란은 경한 것이라는 거예요. 아무것도 아니더라! 

 

그래서 여러분은 그 하늘의 영광을 맛보고, 하늘의 영광을 깨달은 자들이란 말이에요. 하나님에 의해서! 그렇기 때문에 우리는 이런 기도를 드릴 수 있는 거예요. ‘하나님! 내가 그 예수 그리스도의 삶에 동참하게 해 주옵소서! 그 내일의 양식을 오늘날 나에게 주옵소서! 나는 이 땅을 그 양식 예수 그리스도로만 살겠습니다!’라고 고백하는 게 바로, 이 주기도문의 이 기도의 내용이란 말이에요. 그것이 기독교예요.  

 

누가 이야기하는 것처럼, 3박자 구원! 3박자 축복! 이런 것은 기독교에 없어요. 요한3서에 나오는, ‘사랑하는 자여! 내 영혼이 잘 됨 같이 범사에 잘 되고, 네가 강건하기를 내가 간구하노라.’ 그 이야기가 뭐 ‘네 하는 일이 다 잘 됐으면 좋겠다.’ 그 얘긴 줄 아십니까? 천만에요 ‘범사(凡事)’라는 게 뭐죠? 성경에 말하는 범사! 고린도전서에 나오잖아요? ‘범사에 감사하라! 항상 기뻐하라! 쉬지 말고 기도하라! 이는 그리스도 예수 안에서 너희를 향한 하나님의 뜻이라.’ 그러죠? 

 

우리 그리스도인들의 범사라는 게 뭐죠? 하나님이 우리의 눈을 떼어주시고, 이 땅에다가 우리를 방치해 놓지 않으시고, 우리의 삶에 간섭하셔서, 우리를 끌고 가시는 그 여정에서 생기는 모든 일들을, 범사(凡事)라고 그러는 거거든요 그 범사가 잘 된다는 건 뭐에요? 하나님이 우리를 패서라도, 여기로 끌고 가는 그 일이에요. 그게 잘 된다는 거예요. 그거를 형통(亨通)이라고 그러는 거예요.  

 

요셉이 감옥에 갇혀 있지만, 하나님이 그를 만들어 가시고자 하는 그 길에, 요셉이 있기 때문에, ‘그의 삶이 형통하였더라!’라고 성경이 이야기하는 거예요. 그래서 네 영혼이 잘됨 같이, 네 영혼이 잘된 것처럼, 네 범사가 잘되기를 내가 기원한다는 말은 뭐예요? 우리의 영혼이 잘 됐다는 게 뭐죠? 죽어있던 영혼이, 하나님의 통치! 그 주권 안으로 들어왔다는 거 아니에요? 그게 우리의 영혼이 잘 됐다는 거 아니에요? 

 

그것처럼 너희의 범사! 너희의 삶도, 하나님의 주권 그 통치 안으로 들어오게 되기를, 내가 간구하노라! 하나님이 약속도 아니고, 그냥 사도바울이 기도한 거예요. 그렇게 그걸 가지고 하나님의 약속이라고 그래서, 3박자 축복이라고 얘기 할수 있는 거예요?  

 

도대체 하나님의 통치 안으로 들어간다는 건 뭡니까? 내 뜻대로 하나도 되지 않아도, 하나님의 뜻이, 나의 소원을 하나도 이루어지지 않아도, 하나님의 뜻이, 이루어지는 걸 범사에 잘 된다는 거예요. 그것이 너무나 크고 소중한 것이기 때문에, 내가 이해할 수 없는 일들이 그렇게 많이 일어나도, 나는 감사할 수밖에 없는 거예요. 그 일은, 그 영원한 새 하늘과 새 땅을 위해서, 나에게 일어나는 일이기 때문에! 그래서 범사에 감사하라는 거란 말이에요. 그게 기독교란 말이에요.  

 

그렇게 하늘의 양식! 내일의 양식! 예수 그리스도를, 핍박을 감수하면서, 구할 수 있는 자들만이 이웃을 사랑할 수 있어요. 우리가 왜 이웃을 용서하지 못하죠? 왜 이웃을 사랑하지 못합니까? 하나님께서 아담에게 어떤 저주를 내리셨어요? 그가 범죄 했을 때! ‘네가 네 힘으로 땅 갈아서, 밭 갈아서, 거기에 나오는 열매로 네 생명 유지해야 된다.’ 그렇게 저주하셨다고요. 땀 흘리지 않으면, 너 못 먹는다. 그랬어요.  

 

그러니까 그 저주 아래에 있는 사람들은, 자기가 땀 흘려서 먹고 살아야 되기 때문에, 온 동네 사람이 다 자기의 경쟁상대예요. 그러니까 옆집 애가 공부를 좀 잘한다. 그러면은 배가 아픈 거예요. 우리 아이의 경쟁상대기 때문에! 내가 비즈니스 똑 같은 거 하는데 저 옆집이 나보다 더 돈 잘 벌면, 기분 나쁜 거예요. 저주 아래 있는 자들은 다 그렇다고요.  

 

그런데 하나님의 은혜를 알고, 그 하늘의 것이 무엇인지를 알고, 그 영광을 맛본 사람들은요? 하늘의 뜻을 두고 사는 사람들은? 쓸데없이 그들과 경쟁하지 않아요. 그러면서 오른뺨을 맞았을 때, ‘그래, 왼뺨도 한 대 더 쳐! 네가 화가 풀린다면 왼뺨 한 대 더 쳐!’ 그러면서 그 상대방을 용서할 수 있는 경지까지 간다는 거예요. 그렇게 자라갈 수 있다는 거예요. 그 영광을 본 자만, 때린 자에게, ‘한 대 더 때려!’라고 용서하면서, ‘하나님! 우리가 우리에게 죄지은 자를 사하여 준 것 같이, 우리의 죄를 사하여 주옵소서!’라고 기도할 수 있는 거예요. 그 사람이! 

 

그런데 내용을 잘 보면, ‘우리가 우리에게 죄 지은 자를 사하여 준 것 같이, 하나님 당신! 내가 한 것 보고, 그렇게 사하여 주옵소서.’ 그렇게 들리죠? ‘우리가 우리에게 죄 지은 자를 사하여 준 것 같이, 우리의 죄를 사하여 주옵소서!’ 그러잖아요? 마치 우리가 하나님의 모범이 먼저 되는 것처럼, 그렇게 들리잖아요? ‘우리의 죄를 사하여 주옵시고!’ 거기에는 완료형으로 쓰여 있거든요.  

 

‘아팩카멘’이라는 그 단어를 썼는데, 이 셈족의 언어를 가장 잘 연구해 놓은 사람이, 바로 요아킴 예레미아스예요. 그 요하킴 예레미아스가 도대체 이 뜻이 무엇일까를 연구하다가, 이 시제를 그대로 아람어로 옮겼어요. 그래서 ‘아람어로 예수님이 이 이야기를 하셨을 때는, 어떤 뜻이 있었을까?’하고 아람어로 옮겨 보니까, 그 아람어에 이 완료형시제는, 동시적인 의미가 있는 거예요. 동시적인 의미! 다시 그 아람어로 변역을 해보니까, ‘하나님! 우리의 죄를 용서하여 주옵소서! 그와 동시에,’ 동시다발로 일어나는 거예요. ‘동시에 우리도, 우리에게 죄지은 자를 사하여 주겠습니다.’라는 내용이라고요.  

 

그러면 여러분 잘 들어보세요. ‘하나님! 우리의 죄를 용서하여 주옵소서! 우리도 우리에게 죄 지은 자를 용서하겠나이다.’ 동시에 일어나는 거예요. 당신이 나를 용서해 주시면, 용서하겠다는 게 아니라! 그러면 ‘하나님! 나의 죄를 용서해 주옵소서!’라고 하면서, ‘내가 저 인간은 용서 도저히 못해!’라고 누구를 용서하고 있지 못하다면, 그 기도를 어떻게 드릴 수 있어요? ‘하나님! 나의 죄를 다 용서해 주시옵소서! 그런데 내가 요 인간에게 만큼은, 용서 못하겠습니다!’ 그러니까 ‘요 죄만 빼 놓고, 딴 죄는 용서해 주시옵소서!’ 그렇게 되는 거죠. 하나님께 엉터리 기도를 하게 되는 거예요.  

 

‘하나님! 내 죄를 용서해 주시되. 요거는 잠깐 눈감아 주세요! 요거는 그냥 내가 끝까지 조거, 하여튼 조거 망하는 꼴 내가 보고, 그 다음에 내가 하나님 앞에 자주 갈 테니까, 요거는 잠깐 눈감아주시고, 나머지 꺼는 다 용서해 주세요!’ 그 뜻이 되잖아요? ‘하나님! 내 죄를 용서해주세요!’ 하려면, 다 하나님 앞에 내려놓고, 그리고 기도를 해야 되는데도 불구하고! 

 

안 되죠? 그러니까 성경에서는, ‘네가 네 이웃을 용서하지 않고 오면, 하나님도 너를 용서하지 않는다.’ 그런다고요. 큰일 났어요. 그러면 우리는 하나님께 기도할 수 없어요. 그렇죠? 여러분 마음속에 용서 안 된 사람들 너무 많죠? 그러면 우리는 이 기도 할 수 없는 자들이에요. 마태복음 6장 14절 보겠습니다.  

 

(마태복음 6:14-15)  

14 너희가 사람의 과실을 용서하면 너희 천부께서도 너희 과실을 용서하시려니와  

15 너희가 사람의 과실을 용서하지 아니하면 너희 아버지께서도 너희 과실을 용서하지 아니하시리라 (그래요.)  

 

큰일 났죠? 마태복음 18장 35절에 동일한 이야기를 써 놓고 있습니다.  

 

(마태복음 18:35)  

35 너희가 각각 중심으로 형제를 용서하지 아니하면 내 천부께서도 너희에게 이와 같이 하시리라 

 

용서하지 않겠다는 거예요. 어떠한 이야기의 결론으로 주어진 것입니까, 이게? 우리가 잘 아는 일만 달란트 빚진 자의 비유죠? 왕이 자기에게 일만 달란트 빚진 자를 데리고 와서, ‘갚아라!’ 그랬더니, ‘갚을 능력이 없습니다.’ 그랬어요. 일만 달란트는 어마어마한 돈이에요. 당시에! 그 베뢰아와 갈릴리 사람들이 로마에게 받쳤던 1년치 세금이 200달란트였거든요. 그러니까 일만 달란트는 한 개인에게는 어마어마한 돈이에요. 그러니까 도저히 갚을 수 없는 것을 상징하는 거예요. 일만 달란트! 

 

일만 달란트 빚진 자를 왕이 용서해주었어요. 그랬더니, 나가다가 자기에게 빚진 한 동관을 만났는데, 200데나리온 빚진 자예요. 멱살을 잡고, ‘왜 안 갚아? 이놈아!’ 그래놓고, 옥에다가 갔다 처넣어 버렸어요. 그랬더니 그 왕이 그 소식을 듣고, 걔를 다시 불러서, ‘넌 내가 그렇게 큰 걸 용서해 주었는데, 너는 쟤도 하나 용서 못하냐? 얘가 이거 다 갚을 때까지,’ 일만 달란트! 인간이 갚을 수 없는 돈이라 그랬죠? ‘이거 다 갚을 때까지 옥에다 넣으라.’ 그랬다고요.  

 

그 이야기는 뭐예요? 영원한 감옥에다 넣었다는 거예요. 지옥에 갔다는 거예요. 그래서 용서를 받은 자가, 누구를 용서를 못했다고 한다면, 그건 지옥에 간다는 거예요. 하나님은 도저히 그 사람! 용서 안 한다는 거거든요. 큰일 났어요. 점점! 예? 설상가상이에요. 그러면 우리는 어떻게 되는 거예요? 도대체? 

 

지금 여기에서 유니온 크라이스트(Union Christ)가 또 동원이 되는 거예요. 그리스도와의 연합! 여러분은 예수님의 죽음에 동참한 자이고, 예수님의 그 부활에 그 동참한 자이고, 예수님의 33년의 삶이, 여러분의 삶이 된 사람들이에요. 그렇죠? 그래서 우리는 그 부활과, 죽음과, 그 겟세마네의 기도에까지, 동참한 자들이 되었죠? 그래서 우리는 ‘뜻이 하늘에서 이룬 것 같이, 땅에서도 이루어지이다.’라는 기도를, ‘하나님! 당신의 뜻대로 하옵소서! 내 뜻대로 마옵시고, 당신의 뜻대로 하옵소서!’라는, 예수 그리스도의 그 기도에 연합되므로 해서, 우리는 그런 기도로 드릴 수 있는 자가 되었다고 이야기했지 않습니까? 

 

그러면 십자가 위에서 예수님께서, ‘하나님 아버지! 저들을 용서하소서! 저들이 지금 자기들이 하는 일이 뭔지를 알지 못합니다. 저들을 용서하옵소서!’라고 기도하실 때, 여러분은 어디 계신 거예요? 그 예수 그리스도 안에 계신 분들이에요. 여러분은? 용서를 하신 분들이라고요. 이게 말이 되는 거예요? 도대체! 이런 우리 이런 인간들이, 그 예수 그리스도의 삶에 동참해서, 그 십자가에서 세상을 용서해 버린, 그 용서에 동참을 한 자가 되었다는 게 말이 되냐고요? 그런데 하나님이 우리를 그렇게 취급해 주신다니까요. 그래서 용서를 한 자가 되었어요.  

 

그래서 우리는 하나님 앞에 당당히 용서를 구할 수 있는 자게 된 거예요. ‘하나님! 내가 세상을 용서한 것처럼, 당신도 나를 용서해 주시옵소서.’라고 당당하게 기도할 수 있는 자가 된 거란 말이에요. 이 사실 앞에, 여러분들이 다른 뭘 또 구하겠다고 지금 그러는 거라 말이에요? 이 어마어마한 기적 앞에 말이에요? 우리는 용서한 자가 되어버렸어요. 그리고 당당하게 용서를 구할 수 있는 자가 되어 버렸어요.  

 

그렇기 때문에 우리가 그 예수 그리스도의 삶에 동참하면서, 이웃을 실제로 이 삶 속에서 용서를 하면서, 살아가는 거예요. 용서를 이제 해야만 되는 거예요. 그리스도의 삶이 내 삶이 되었기 때문에! 아시겠습니까? 내가 용서를 해서, 하나님이 나를 예쁘게 봐주시는 게 아니라, 나를 ‘칭의(稱義)! 낫 길티(not guilty)! 너는 의롭다!’라고 해주셨기 때문에, ‘이미 너는 용서한 자다.’라고 이야기해주셨기 때문에, 우리는 용서를 하면서 가는 거예요. 비슷한말 같지만, 완전히 다른 거예요. 아시겠죠? 우리는 용서한 자가 된 거예요. 그렇게! 그래서 하나님 앞에, 주기도문을 드릴 수 있는 자가 된 거예요.  

 

하나님은 이렇게 분명히, ‘네 형제 용서하지 못하면, 너 천국 못가!’ 그렇게 이야기했는데, 우리는 용서를 했다니깐요. 이것이 이해가 가는 사람은, 정말 거듭난 사람입니다. 여러분! 그게 ‘그리스도와의 연합’이라는 거예요. 그래서 우리의 삶 속에, 그런 용서를 하면서, 우리는 살아야 하는데, 그 용서를 한 번 두 번 해보다 보면요, 그 용서가 얼마만큼 우리를 자유롭게 해주는지, 여러분 알 수 있어요.  

 

‘빠삐용’이라는 영화 보시면, 맨 마지막 장면에 어떤 장면이 나옵니까? 스티브 맥퀸! 팍 그 부표 같은 걸 던지고서, 더스틴 호프만하고 둘이 딱 서잖아요? ‘같이 가자!’ 내려다보니까 무서워요. ‘너 혼자 가!’ 스티브 맥퀸이 아홉 번째 시도예요. 그게 아홉 번째 시도! 쟁반 노래방이 아니라, 아홉 번째 시도에, 스티브 맥퀸이 그 절벽 아래로 딱 뛰어 내리잖아요. 내리면서 조류를 이용해서, 탈출에 성공을 해요. 그러면서 와! 승리의 그 환의의 손짓을 하죠. 막 손을 흔들죠. 더스틴 호프만한테! 

 

그러니까 더스틴 호프만이 그러죠? 내려다보면서, ‘네가 아무리 이 악마의 섬을 탈출한다고 할지라도, 네가 네 마음속에 있는 너의 감옥으로부터 탈출하지 못한다면, 너는 영원히 감옥 속에 있는 거야!’ 그 명언(名言)을 남긴다고요. 안 보신 거예요? 이 명화를? 교양 필순데! 그러면서 이 ‘빠삐용’은 끝나죠.  

 

이게 실화예요. 빠삐용이! 이 빠삐용이! ‘앙리 사리에리’라는 프랑스 사람인데요, 1930년에 20살 땐가 이 사람이! 하여튼 파리 시내에서 술을 마시고 있다가, 살인사건이 났는데, 한 검사가 자기의 유능함을 나타내기 위해서, 이 사람을 그냥 걸어버린 거예요. 그래서 온 빠리가, 프랑스가 이 검사에게 초점이 맞춰졌어요. ‘야! 유능한 검사다!’ 

 

그런데 이 검사가 앙리 사르에르가 범인이 아니라는 것을 알아요. 그럼에도 불구하고 자기가 유능한 검사라는 것을 입증하기 위해서. 다른 불량배등을 증인으로 동원해서, 이를 살인범으로 만들어서, 1941년에 사형선고를 내려버려요. 그리고서는 그 악마의 섬으로 보내버리는 거예요. 그러니까 스티브 맥퀸이 그렇게 계속 죽어가고 터지면서도 탈출하려고 하는 거예요. 억울하니까! 

 

앙리 사르에르가 탈출한 다음에, ‘방코’라는 소설을 썼어요. 자전적 소설! 자기의 자서전이죠. 거기에서 그렇게 이야기 한다고요. 거기에서 탈출해서, 이 사람이 남미로 갔어요. 아르헨티나를 비롯해서 하여튼 남미를 전전하면서, 돈을 엄청 벌었어요. 그래서 60살인가 61살에, 프랑스로 돌아간다고요. 공소시효가 끝나니까! 왜 돌아가는 줄 아세요? 그 사람들 잡아 죽이려고 가요. 복수의 칼을 갈아서요. 그 검사하고, 거짓증언을 해서 자기를 사형선고를 받게 한 그 불량배를 다 죽이러 간다고요.  

 

갔는데, 8일 동안 이제 자기의 어린 시절의 거리도 다녀보고, 사랑하는 사람들 가서 멀찍이서 그들의 삶을 보고 하면서, 그가 그 복수를 포기합니다. 그들을 용서해요. 그러면서 뭐라고? ‘방코’라는 책에다 써 넣은 지 아십니까? ‘나는 하나님께 이렇게 기도했다. 내가 복수를 포기한 대가로, 다시는 이런 비극이 생기지 않도록 해달라고 하나님께 기도했다. 그리고 나 자신에게 나는 속삭였다. 너는 이겼다! 친구여! 너는 자유롭고 사랑받는 미래의 주인공으로 여기 있다. 이 일에 관계된 모든 사람 중에, 네가 가장 자유롭고 가장 행복한 사람이다. 친구여!’ 그렇게 자기에게 이야기한다고요.  

 

그리고는 자기는 자유함을 얻었대요. 그때까지는 돈도 많이 벌고, 열심히 살았는데, 유일한 목적은 복수였어요. 그런데 그들을 용서하고 나니까, 이제 그가 드디어 빠삐용이 된 거예요. 빠삐용은 나비란 뜻이거든요. 이제 훨훨 비로소 날게 된 거예요. 용서를 하고 나니까! 용서는 우리에게 유익이 되는 거예요. 하나님이 그래서 ‘용서를 하라!’ 그러는 거예요.  

 

여러분! 우리가 주기도문을 공부하면서 잊지 말아야 할 것! 우리가 하나님께 청원하는 기도의 내용이에요. ‘하나님 나라가 임하게 해주옵소서! 그 뜻이 이루어지게 해 주시옵소서! 용서해주시옵소서!’ 청원하는 내용이지만, 이 주기도문의 내용은 동시에 서약이라고요.  

 

하나님! 하나님나라가 임하게 해주시옵소서! 그 뜻은 뭐예요? ‘내가 그 나라가 임하면, 그 뜻에 순종하겠습니다.’라는 서약이에요. 당신의 뜻이 이루어지게 하옵소서! ‘나는 그 뜻에 내 몸을 맡기겠습니다!’라는 서약이라고요. 용서해 주옵소서! ‘나도 이웃을 용서하겠습니다!’라는 서약이란 말이에요. 그래, 여러분은 주기도문을 하면서, 계속해서 여러분은 그런 하나님 앞에, 서약을 드리는 거예요.  

 

여러분! 아담의 범죄로 말미암아, 우리는 우리의 생명을, 스스로 유지하면서 살게 되었어요. 농사를 짓고, 땀을 흘려서, 그 땀의 열매인 양식으로 살게 되어 있습니다. 그러나 예수로 말미암아, 그 저주에서 풀려난 자들은, 하나님께서 주시는 하늘의 양식으로, 오늘을 살 수 있게 되었어요. 그리고 그렇게 살아야 하는 것입니다.  

 

우리는 종말(終末)을 살아가는, 내일을 기다리는, 그리스도인인 것입니다. 그 새 하늘과 새 땅을 기다리는, 그리스도인이에요. 그래서 우리는 이 땅의 양식으로 사는 것이 아니라, 그 새 하늘과 새 땅! 그 내일의 양식을 달라고, 그 예수 그리스도로만 살게 해달라고 하나님 앞에, 기도를 하는 거예요.  

 

그래서 우리는 그것으로 만족하며 살 수 있는 자들이기 때문에, 우리는 이웃을 용서하는 거예요. 시기하지 않는 거예요. 질투하지 않는 거예요. 그들을 사랑할 수 있는 거예요. 그게 그리스도인의 삶이에요. 그래서 ‘나도 이렇게 용서하는 자가 되었으니, 내 죄도 확실히 용서가 된 것을 나는 확신합니다. 하나님!’ 그렇게 하나님 앞에 신앙고백을 하는 것이, 바로 이 주기도문의 기도인 것입니다.  

 

그러므로 ‘오늘날 우리에게 일용할 양식을 주옵시고, 우리가 우리에게 죄 지은 자를 사하여 준 것 같이, 우리의 죄를 사하여 주옵시고,’라고 기도하면서, 우리는 우리의 신분을 다시 한 번 확인하는 거예요. 그리고 ‘내일의 양식인 예수가 이렇게 내 안에 있기 때문에, 그 날은 속히 온다. 반드시 온다. 그리고 나는, 그 내일을 사는 자다! 나는 이 땅의 이방인이다! 이 땅을 살아가는 자 아니고, 천국을 살아가는 자다!’라고 확신하면서, 확인하면서, 그렇게 천국을 즐기고 누리면서 살아가는 거예요. 그게 주기도문을 하는 진의(眞意)라고요.  

 

굉장히 어려운 것 같았는데, 어떻게 끌려오다 보니까, 결론이 여기까지 왔어요. 그죠? 지난주에 어떤 학생이 저한테, ‘굉장히 어려운거 같은데, 목사님 설교 듣고 있으면, 끝까지 따라가다 보면, 거기까지 와있대요. 확 걸린 것 같대요.’ 저한테 그냥 ‘이해하기 쉽게 잘 설명한다.’ 그러면 되는 거지, 뭘 그렇게 어렵게 얘기 해? 그거예요.  

 

‘오늘날 우리에게 일용할 양식을 주옵시고, 우리가 우리에게 죄 지은 자를 사하여 준 것 같이, 우리의 죄를 사하여 주옵소서!’ 이 진의는 바로 그것입니다. 

 
 
 
 

Gemini의 응답

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4. Exposition of the Lord’s Prayer (Matthew 6:9-13)

Let us read together Matthew chapter 6, verses 9 through 13.

(Matthew 6:9-13) 9 In this manner, therefore, pray: Our Father in heaven, hallowed be Your name. 10 Your kingdom come. Your will be done on earth as it is in heaven. 11 Give us this day our daily bread. 12 And forgive us our debts, as we forgive our debtors. 13 And do not lead us into temptation, but deliver us from the evil one. (For Yours is the kingdom and the power and the glory forever. Amen.)

Perhaps the greatest experiment in human history was the communist ideology. Communism! In the ‘Communist Manifesto,’ Marx and Engels boasted, ‘A proletarian utopia, where everyone works according to their ability and everyone consumes according to their needs, will surely come to this earth. And we will definitely create that proletarian utopia on this earth.’

However, during those 70 to 80 years, what communism left on this earth—what they left through their experiment—was nothing but a great catastrophe. What they missed was the reality of what kind of beings humans are. Despite the fact that humans are beings of "total depravity"—sinners who are completely and entirely fallen—they did not understand what kind of beings humans are, and thus thought they could create a utopia on this earth. They misunderstood and were under the illusion that they could achieve peace, happiness, and well-being on this earth through the inherent power within us.

Everyone! We cannot achieve a paradise on earth, a "green season of Christ," through our own strength. That is why we are beings who cannot help but live desiring not the things of this earth, but the things of heaven—that heavenly kingdom; seeking not an earthly utopia, but that heavenly utopia—that Kingdom of Heaven. Therefore, weren't many of the petitions in the Lord’s Prayer we looked at previously all about the things of the heavenly kingdom—content regarding the Kingdom of Heaven?

However, if we look at the content of today’s prayer, it says, "Give us this day our daily bread..." It is a passage that we are liable to misunderstand, as if it is saying, "Ask for the things of this earth!" Looking at this passage, one might think, "Oh, great! This is it! I’ve been waiting for this! 'Give us this day our daily bread!' Finally, here is the part where God tells us to ask for earthly things! Content different from what our pastor keeps shouting and asserting has appeared; how will he resolve this?"

Everyone! If this content were about asking for the things we need on this earth as we understand it, then the Bible would contain a contradiction within itself. If you look at the verses just below—Matthew 6:25—it says:

(Matthew 6:25) 25 Therefore I say to you, do not worry about your life, what you will eat or what you will drink; nor about your body, what you will put on. (It says this.)

In the very same chapter, it is telling such a contradictory story. But there’s no way the Bible would speak in contradictions, is there? If so, it means there is a profound meaning in this passage. So, today we are going to uncover that profound meaning together. We are profound every week, aren't we?

Now, everyone, take a good look at your Bible. If you look at Matthew chapter 6, next to "Give us this day our daily bread," next to "daily bread," there might be a number or a symbol (like 'ㄱ'). And below that, it might say "tomorrow's bread."

The reason such a cross-reference is attached to that word is that the Greek word for "daily," epiousion, has several meanings. Furthermore, this word epiousion is not found in any other Greek literature. This word! It appears only in this one place in the Bible. It is used one more time in Luke, in the Lord’s Prayer found in Luke, but it is a word used exactly once.

Therefore, the linguists and biblical scholars of this era cannot definitively infer how that word was used. So, there are three views...

The first view is seeing the word epiousion as a compound of epi and ousia. Thus, there is a view that sees it as "bread necessary for life"—daily bread as "bread needed for living." The second view is "bread for that day, for the current day." Seeing daily bread as bread for the present day. And the third view is the one that receives the most support: "the coming day, the next day." Bread of the coming day, bread of the next day, bread of tomorrow! That is how it is viewed.

The reason many people support this view, and why I also support this view, is: what was the language Jesus Christ used during His ministry? It was Aramaic. The language in "The Passion of the Christ"? It’s Aramaic. This Aramaic is the language of Babylon.

In 586 BC, when Southern Judah fell to Babylon, for 70 years—until the temple was rebuilt in 516 BC—they were captives in Babylon, weren't they? During that time, they completely forgot their own language. And they began to use Aramaic. Aramaic and Greek were their common languages.

On the contrary, Hebrew was not well known except by those who studied the Scriptures. They couldn't read or write it. So, in the Aramaic used at that time—in the Aramaic Lord’s Prayer—it is written as "tomorrow’s bread," using the word maher. And the Bible supports the view of "tomorrow’s bread." The basis of our Reformed theology is that "Scripture must be interpreted by Scripture." What does it mean to interpret Scripture with Scripture? For example, take the story of the Good Samaritan.

A man, on his way from Jerusalem to Samaria, encounters robbers and is beaten nearly to death. Everyone else just passes by, but a Good Samaritan passing by sees him, pours wine and oil on his wounds, bandages them, and takes him to an inn. And there, entrusting him to the innkeeper, he gives two coins. Then he says, "I will return," and leaves.

Some people interpret this story like this. It sounds very plausible. "The person passing by, the one who met the robbers, refers to us; Jerusalem is heaven, and Samaria is the world. The robbers are Satan. While we are lying there after being beaten soundly by the robbers, the Good Samaritan—Jesus—comes, pours wine and oil; wine is the precious blood, oil is the Holy Spirit! He pours the oil and takes him to an inn. The inn is the church! He entrusts him to the church. The innkeeper is the pastor! Isn't that nice? Entrusting him to the pastor, he gives two coins, and those are the Old and New Testaments!" That’s how they tell it. And "I will return" refers to the "Second Coming of Jesus."

It sounds plausible, doesn't it? But nowhere in the Bible is that interpretation supported. The true intent of this story is found when a lawyer asks Jesus, "What must I do to inherit eternal life?" Then Jesus asks, "What is written in the law?" "Love the Lord your God with all your heart, with all your soul, with all your mind, and with all your strength, and love your neighbor as yourself. That is what is written." So Jesus says, "Then you go and do likewise, and you will inherit eternal life."

Then the lawyer asks, "Then who is my neighbor? Whom should I go and love?" So Jesus gives this parable, and what is the conclusion He draws? It is: "Don't try to choose who your neighbor is; you become a neighbor first!" So it is a completely different story. No matter how good the intention, if you fail to grasp the true intent of what the Bible is saying, it is very dangerous. If you interpret the Bible arbitrarily, you shall be cursed!

Then let’s find out how the Bible supports that "tomorrow’s bread." In the Old Testament, there was a time when God gave that "tomorrow’s bread" today. When was it? Manna! On the sixth day, He gave the bread for the seventh day. Why did He give the seventh day’s bread on the sixth day? It’s because the seventh day is the Sabbath.

What kind of day is the Sabbath? It is a day to enjoy, commemorate, and relish God’s perfect creation. And by keeping that Sabbath, it is a day to look forward to that eternal rest that will come to us at the end. So, by possessing the seventh day’s bread on the sixth day, what happens? The bread to be eaten on the Sabbath is before my eyes. Then, it confirms that the Sabbath will surely come.

And while holding that bread, one is already participating in that seventh day. It's just like when we were children, the day before a picnic, when Mom put Chilsung Cider and chocolate in our backpack—our nikusaku—and piled up the gimbap ingredients in the kitchen; even though the picnic is tomorrow, our hearts already start thumping today. We live that tomorrow today with a fluttering heart. You look out the window twelve times a day, right? To see if it’s raining or not. That expectation! That is the reason the seventh day’s bread was given on the sixth day.

But if you look at this Aramaic Lord’s Prayer, that word maher—the meaning of "tomorrow" in tomorrow's bread—doesn't mean the tomorrow that comes 24 hours later, but "a day different from today." So, it means the coming tomorrow, which is different from today. It has an eschatological meaning.

Therefore, the fact that we are praying now, "Give us tomorrow’s bread," means: "That coming end! The new heaven and the new earth! That kingdom will surely come! And we are those who must live on the bread of that kingdom! And we are living in this end-time now. That kingdom will come very soon, and we are living through this sixth day." So, by seeking the bread of that kingdom, we are enjoying that kingdom now. We are relishing that kingdom. So, it is a confession of eschatological faith.

What is eschatological faith? When I was in university, after I was discharged from the military and returned to school, I took golf in my elective PE class. I was in a golf class, and I have a competitive streak, you see? My friend—who is now a very successful judge—was my classmate, and we took that elective PE together. He also had a very competitive streak. So, we went to the cheapest place, the racecourse in Gwacheon, and practiced every day.

But hitting about two boxes was the maximum. Since we were students just starting out then! But after hitting, I had to take an exam the next day, and he left. After I sent him off, I thought, "I’m going home too," and pretended to get in my car, but then I went back in and hit two more boxes. But that’s when my ribs cracked. Two of them! Because I exercised too intensely. It was so painful that I went to the hospital, and they took an X-ray, and they were cracked.

But between those cracked ribs, three huge lumps were visible. On the X-ray! And that quack doctor said it might be cancer. This! And he said if it’s such a large cancer, it’s very grave. To me! My goodness! It was as if all the strength drained out of my body; I had a biopsy and while waiting for the results, I couldn't do anything. The thought "I’m going to die soon" completely seized me.

This was shortly after I had won the grand prize at the University Song Festival. So, how many dreams must I have had? But I couldn't think of this or that; I just thought about the people around me—those I hadn't treated well. I wanted to repay those to whom I felt indebted in my heart, and I wanted to be kind to the people around me. I had no other greed. Thoughts like "How will I do well on the exam tomorrow?" didn't occur to me at all.

Later the results came out, and they said it was just knotted muscles (Hahahaha). I grabbed that person's hand and for 30 minutes said, "Thank you!" What did that person even do for me? He just made a misdiagnosis, but I said, "Thank you, doctor!" Even him wearing a white gown made me feel thankful. That is eschatological faith. "If the end comes to this earth tomorrow, how will we live today?"

By seeking tomorrow’s bread—tomorrow’s bread now—we are making the confession: "God! That is right. That day will surely come, and I am a person living in preparation for that day." That is what it means to pray, "Give us this day tomorrow’s bread."

Then what is that heavenly bread? What do we live on? Let’s go to John 6:27.

(John 6:27-35) 27 Do not labor for the food which perishes, but for the food which endures to everlasting life, which the Son of Man will give you, because God the Father has set His seal on Him. 28 Then they said to Him, “What shall we do, that we may work the works of God?” 29 Jesus answered and said to them, “This is the work of God, that you believe in Him whom He sent.” 30 Therefore they said to Him, “What sign will You perform then, that we may see it and believe You? What work will You do? 31 Our fathers ate the manna in the desert; as it is written, ‘He gave them bread from heaven to eat.’” 32 Then Jesus said to them, “Most assuredly, I say to you, Moses did not give you the bread from heaven, but My Father gives you the true bread from heaven. 33 For the bread of God is He who comes down from heaven and gives life to the world.” 34 Then they said to Him, “Lord, give us this bread always.” 35 And Jesus said to them, “I am the bread of life. He who comes to Me shall never hunger, and he who believes in Me shall never thirst."

What is that bread? It is Jesus. That heavenly bread! Tomorrow’s bread is Jesus. What kind of Jesus? That Jesus is the King of Heaven, isn't He? But because He is not the king of this earth, He came down to this earth and received all kinds of tribulations, persecutions, and suffering—that is the Jesus, the bread I want now. I want to participate in that life too. Praying "God! Today, give me tomorrow’s bread—that Jesus," is a confession of faith saying, "I will live by participating in the life of Jesus Christ." It’s not about "Give me the bread I need today!"

Then, what kind of people can pray, "God! Tomorrow’s bread! Give me that Jesus!" while accepting this suffering and accepting this persecution? No one can pray this except those who have seen that glory. How can they endure and go through that persecution? They can't. Only those who have seen that glory can offer that prayer. They can pray, "Give us this day tomorrow’s bread!" Let’s look at 2 Corinthians 4:17.

(2 Corinthians 4:17-18) 17 For our light affliction, which is but for a moment, is working for us a far more exceeding and eternal weight of glory, 18 while we do not look at the things which are seen, but at the things which are not seen. For the things which are seen are temporary, but the things which are not seen are eternal. Amen.

It calls that tribulation "light." But is it really light? Everyone! As we live on this earth, tribulations come to us, don't they? You've all experienced them once or twice. Were they really light? No. Sometimes those tribulations are so painful that tears won't even come. Sometimes they are so agonizing and painful that you feel like going out and hanging yourself. Tribulation is not that easy.

But Apostle Paul here calls it a "light thing." And he says that pain is "momentary." Compared to what? The reason he can call such great pain a "light thing" is that even such great pain became nothing once I saw the glory of heaven.

Therefore, those who have seen that glory can pray like this. I’ve suffered all I could suffer! I’ve been beaten nearly to death with forty stripes minus one, and I’ve been insulted and lived a difficult life in prison time and again, but after seeing that heavenly glory, this tribulation is a light thing. It was nothing!

So, you are those who have tasted the glory of heaven and realized the glory of heaven! Because of God! That is why we can offer this kind of prayer. "God! Let me participate in the life of Jesus Christ! Give me that tomorrow’s bread today! I will live this life on earth only by that bread, Jesus Christ!"—this is the content of this petition in the Lord’s Prayer. That is Christianity.

There is no such thing as "three-fold salvation" or "three-fold blessing" as some people talk about in Christianity. In 3 John, it says, "Beloved, I pray that you may prosper in all things and be in health, just as your soul prospers." Do you think that means "I hope everything you do goes well"? Not at all. What is "all things" (in all circumstances) as spoken in the Bible? It appears in 1 Corinthians, doesn't it? "In everything give thanks; always rejoice; pray without ceasing; for this is the will of God in Christ Jesus for you." Right?

What are the "all things" of us Christians? It refers to all the events that happen in the journey where God does not take His eyes off us, does not abandon us on this earth, but intervenes in our lives and leads us. What does it mean for those "all things" to go well? It means the work of God leading us to this point, even if He has to strike us. That is what it means for things to go well. That is what is called "prosperity" (Hyeong-tong).

Even though Joseph was imprisoned, because Joseph was on the path God wanted to mold him through, the Bible says "he was a prosperous man." So, when it says "just as your soul prospers, I pray that you may prosper in all things," what does it mean? What does it mean that our soul has prospered? Doesn't it mean that a dead soul has come under the sovereignty and rule of God? Isn't that what it means for our soul to have prospered?

Likewise, I pray that your "all things"—your life—may also come under the sovereignty and rule of God! It wasn't even a promise from God; it was just a prayer Apostle Paul offered. How can people take that and call it God’s promise and speak of a "three-fold blessing"?

What does it mean to enter under God's rule? It means that even if not a single thing goes my way, God’s will is done; even if not a single one of my desires is fulfilled, God’s will being done is what it means to "prosper in all things." Because that is so great and precious, even if many things I cannot understand happen, I cannot help but give thanks. Because those things are happening to me for the sake of that eternal new heaven and new earth! That is why we are told to give thanks in all things. That is Christianity.

Only those who can seek the heavenly bread—tomorrow’s bread—Jesus Christ, while accepting persecution, can love their neighbor. Why can't we forgive our neighbor? Why can't we love our neighbor? What curse did God place on Adam? When he sinned! "You must maintain your life through the fruit that comes from tilling the ground and plowing the fields by your own strength." He cursed him so. He said if you don't sweat, you cannot eat.

So, for people under that curse, because they must sweat to eat and live, everyone in town is their competitor. So, if a neighbor's kid studies a bit well, their stomach hurts. Because they are a competitor for our child! If I’m doing the same business and the neighbor's shop makes more money than me, I feel bad. All those under the curse are like that.

But for those who know God's grace, know what the heavenly things are, and have tasted that glory? For those who live with their purpose in heaven? They don't compete with them needlessly. And when they are struck on the right cheek, they reach a state where they can forgive the other person, saying, "Sure, hit the left cheek too! If your anger is relieved, hit the left cheek too!" They can grow like that. Only those who have seen the glory can say to the one who struck them, "Hit me once more!" and forgive them while praying, "God! Forgive us our debts, as we forgive our debtors!" That person!

But if you look at the content, it sounds like, "God! Just as I have forgiven my debtors, look at what I have done and forgive me accordingly." "Forgive us our debts, as we forgive our debtors," right? It sounds as if we are becoming the model for God first. "And forgive us our debts!" There, it is written in the perfect tense.

The word aphekamen was used, and the person who has researched Semitic languages best is Joachim Jeremias. While Joachim Jeremias was researching what this could mean, he translated this tense directly into Aramaic. He thought, "What meaning would there have been when Jesus spoke this in Aramaic?" and when he translated it back to Aramaic, he found that this perfect tense in Aramaic has a "simultaneous" meaning. A simultaneous meaning! Translating it back into Aramaic, it means, "God! Forgive us our sins! At the same time," it happens simultaneously. "Simultaneously, we also forgive those who have sinned against us."

Now, listen carefully. "God! Forgive us our sins! We also forgive those who have sinned against us." It happens at the same time. It’s not that I will forgive if You forgive me! Then, if you are saying, "God! Forgive my sins!" while thinking, "I absolutely cannot forgive that person!" and you are not forgiving someone, how can you offer that prayer? "God! Forgive all my sins! But I cannot forgive this one person! So, except for this sin, please forgive my other sins!" That’s how it becomes. You end up offering a bogus prayer to God.

"God! Forgive my sins, but turn a blind eye to this one! For this one, I just want to see that person fail, and then I’ll come before God often, so just ignore this for a moment and forgive everything else!" That’s what it would mean. Even though one must lay everything down before God to say, "God! Forgive my sins!"

It doesn't work, does it? So in the Bible, it says, "If you do not forgive your neighbor, God will not forgive you either." We’re in trouble. Then we cannot pray to God. Right? There are so many people in your hearts you haven't forgiven, right? Then we are those who cannot offer this prayer. Let’s look at Matthew 6:14.

(Matthew 6:14-15) 14 For if you forgive men their trespasses, your heavenly Father will also forgive you. 15 But if you do not forgive men their trespasses, neither will your Father forgive your trespasses. (It says this.)

We’re in trouble, aren't we? Matthew 18:35 says the same thing.

(Matthew 18:35) 35 So My heavenly Father also will do to you if each of you, from his heart, does not forgive his brother his trespasses.

He won't forgive. As a conclusion to what story was this given? It’s the parable of the man who owed ten thousand talents, which we know well. A king brought a man who owed him ten thousand talents and said, "Pay back!" and the man said, "I have no ability to pay." Ten thousand talents was an enormous amount of money at that time. At that time, the annual tax the people of Perea and Galilee paid to Rome was 200 talents. So, ten thousand talents is a staggering amount for an individual. Thus, ten thousand talents symbolizes something that can never be paid back!

The king forgave the man who owed ten thousand talents. But as he went out, he met a fellow servant who owed him a hundred denarii. He grabbed him by the throat and said, "Why aren't you paying? You rascal!" and then threw him into prison. When the king heard that news, he called him back and said, "I forgave you such a huge debt, and you couldn't even forgive him? Until he pays back all of this,"—ten thousand talents! I said it was money a human cannot pay back, right?—"Put him in prison until he pays it all."

What does that story mean? It means he was put into an eternal prison. He went to hell. So, if someone who has received forgiveness cannot forgive someone else, it means they go to hell. It means God will never forgive that person. We are in trouble. More and more! Yes? It’s going from bad to worse. Then what happens to us? What on earth?

Now, "Union with Christ" is mobilized here again. You are those who participated in Jesus' death, you are those who participated in Jesus' resurrection, and the 33 years of Jesus' life have become your life. Right? So we have become those who participated in that resurrection, that death, and even the prayer in Gethsemane, haven't we? So, didn't I say that we became those who could offer the prayer "Your will be done on earth as it is in heaven," by being united with the prayer of Jesus Christ: "God! Let it be according to Your will! Not my will, but Yours be done!"?

Then, while Jesus was on the cross praying, "Father! Forgive them! They do not know what they are doing. Forgive them!", where were you? You are those who are inside that Jesus Christ. You are? You are the ones who have forgiven. Does this make sense? At all! Does it make sense that people like us, by participating in the life of Jesus Christ, became those who participated in the forgiveness that forgave the world on that cross? But God treats us that way. So, we have become those who have forgiven.

Therefore, we have become those who can boldly seek forgiveness before God. We have become those who can pray boldly, "God! Just as I have forgiven the world, You also forgive me." In the face of this fact, what else are you saying you're going to seek? In the face of this tremendous miracle! We have become those who have forgiven. And we have become those who can boldly seek forgiveness.

Therefore, as we participate in the life of Jesus Christ, we live while actually forgiving our neighbors in this life. Now we must forgive. Because the life of Christ has become my life! Do you understand? It’s not that God looks at me favorably because I forgive, but because He has "justified" me—said "not guilty! You are righteous!"—because He said "you are already one who has forgiven," we go on forgiving. It sounds like a similar statement, but it is completely different. Got it? We have become those who have forgiven. Just like that! So, we have become those who can offer the Lord’s Prayer before God.

God clearly said, "If you cannot forgive your brother, you cannot go to heaven!", but we have forgiven. A person who understands this is a truly born-again person. Everyone! That is "Union with Christ." So, in our lives, we must live while offering such forgiveness, and if you try that forgiveness once or twice, you can see how much that forgiveness sets us free.

If you watch the movie "Papillon," what scene appears at the very end? Steve McQueen! He throws that buoy-like thing and stands with Dustin Hoffman, right? "Let's go together!" But it’s scary looking down. "You go alone!" It was Steve McQueen's ninth attempt. That was his ninth attempt! Not "Tray Karaoke," but his ninth attempt; Steve McQueen jumps off that cliff. As he falls, he uses the current and succeeds in escaping. And then, wow! He makes a gesture of victory and joy. He waves his hand. To Dustin Hoffman!

Then Dustin Hoffman says, looking down, "Even if you escape this Devil's Island, if you cannot escape from the prison within your own heart, you will be in prison forever!" He leaves that famous quote. Haven't you seen it? This masterpiece? It’s a liberal arts requirement! And then "Papillon" ends.

This is a true story. Papillon! This Papillon! He is a Frenchman named Henri Charrière; he was around 20 years old in 1930! Anyway, while he was drinking in Paris, a murder occurred, and to show his competence, a prosecutor just pinned it on him. So all of Paris and France focused on this prosecutor. "Wow! He’s a competent prosecutor!"

But this prosecutor knew Henri Charrière was not the culprit. Nevertheless, to prove he was a competent prosecutor, he mobilized other thugs as witnesses, made him out to be a murderer, and had him sentenced to death in 1941. And then sent him to that Devil's Island. That’s why Steve McQueen kept trying to escape even while dying and being beaten. Because it was unfair!

After Henri Charrière escaped, he wrote a novel called "Banco." An autobiographical novel! His autobiography. He says so in it. After escaping, he went to South America. He traveled around South America, including Argentina, and made a lot of money. Then, at 60 or 61, he returned to France. Because the statute of limitations expired! Do you know why he went back? He went to catch and kill those people. He sharpened the knife of revenge. He went to kill that prosecutor and the thugs who gave false testimony to have him sentenced to death.

He went, and for 8 days he walked the streets of his childhood and watched the lives of the people he loved from a distance, and he gave up that revenge. He forgave them. And do you know what he wrote in the book "Banco"? "I prayed to God like this. In return for me giving up revenge, I asked God not to let such a tragedy happen again. And I whispered to myself: You won! Friend! You are here as a free and beloved protagonist of the future. Of all the people involved in this matter, you are the freest and happiest person. Friend!" That’s what he said to himself.

And then he said he gained freedom. Until then, he made a lot of money and lived diligently, but his sole purpose was revenge. But after forgiving them, he finally became "Papillon." Papillon means butterfly. Now he finally began to fly freely. After forgiving! Forgiveness benefits us. That is why God says, "Forgive!"

Everyone! Something we must not forget while studying the Lord’s Prayer! It is the content of the prayer we petition to God. "God, let Your kingdom come! Let Your will be done! Forgive us!" It is petitionary content, but at the same time, the content of the Lord’s Prayer is a vow.

God! Let Your kingdom come! What does that mean? It is a vow: "When that kingdom comes, I will obey its will." Let Your will be done! It is a vow: "I will entrust my body to that will!" Forgive us! It is a vow: "I too will forgive my neighbor!" So, as you say the Lord’s Prayer, you are continuously offering such a vow before God.

Everyone! Due to Adam's sin, we came to maintain our lives by ourselves. We came to live on the bread that is the fruit of tilling the ground and sweating. However, through Jesus, those who have been released from that curse have become able to live today on the heavenly bread that God gives. And we must live that way.

We are Christians who live the end, waiting for tomorrow. We are Christians waiting for that new heaven and new earth. So we do not live on the bread of this earth, but we pray to God for that new heaven and new earth—that tomorrow’s bread—to let us live only by that Jesus Christ.

Because we are those who can live satisfied with that, we forgive our neighbors. We do not envy. We are not jealous. We can love them. That is the life of a Christian. So, "Since I too have become one who forgives, I am certain that my sins have surely been forgiven. God!" Offering such a confession of faith before God is what this prayer in the Lord’s Prayer is.

Therefore, while praying, "Give us this day our daily bread, and forgive us our debts, as we forgive our debtors," we are confirming our identity once again. And, "Because Jesus, the tomorrow’s bread, is within me like this, that day will come soon. It will surely come. And I am one who lives that tomorrow! I am a stranger on this earth! I am not one who lives this earth, but one who lives the Kingdom of Heaven!"—confirming and being certain of this, we live enjoying and relishing the Kingdom of Heaven. That is the true intent of saying the Lord’s Prayer.

It seemed very difficult, but somehow as we were led along, the conclusion has reached this point. Right? Last week, a student said to me, "It seems very difficult, but while listening to your sermon, if I follow to the end, I find I’ve arrived there. It’s like I’ve been hooked." You could just say, "He explains it easily so it’s easy to understand," why say it so difficultly? That’s what it is.

"Give us this day our daily bread, and forgive us our debts, as we forgive our debtors!" This is the true intent.


Would you like me to find more sermons or theological explanations related to specific parts of the Lord's Prayer for you?

 
 
 
말씀하신 내용

영어가 아니고 일본어 였어. 한줄도 빼지말고 요약도 하지말고 다 번역해줘 

 
 
 

Gemini의 응답

네, 알겠습니다. 요청하신 대로 한국어 원문 내용을 단 한 줄도 빠트리지 않고, 요약 없이 전체 내용을 일본어로 번역해 드립니다.


4. 主の祈り講海(マタイ6:9-13)

マタイによる福音書6章9節から13節までを共に奉読しましょう。

(マタイによる福音書 6:9-13) 9 だから、あなたがたはこう祈りなさい。天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。 10 御国が来ますように。御心が行われるように、天にあるように地の上にも。 11 わたしたちに必要な糧を今日与えてください。 12 わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。 13 わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。(国と力と栄光は、永遠にあなたのものです。アーメン)

人類の歴史上、最も大きな実験は、おそらく共産主義のイデオロギーでしょう。共産主義!マルクスとエンゲルスがですね、「共産党宣言」で、「すべての人が能力に応じて働き、すべての人が必要に応じて使う、プロレタリアのユートピアが、必ずこの地にやってくる。そして、私たちが必ずそのプロレタリア・ユートピアをこの地に作るのだ」と豪語しました。

しかし、その70〜80年の間、共産主義がこの地に残したものは、彼らが実験して残したものは、大惨事だけです。彼らが見落としたのは、人間がいかなる存在であるかということでした。人間は「トータル・デプラビティ(total depravity)」、すなわち完全な、全的な堕落をした罪人であるにもかかわらず、彼らは人間がいかなる存在であるかを知らなかったため、この地にユートピアを作ることができると考えたのです。それで、私たちの中にあるこの内在された力で、この地に平和と、幸福と、安寧を成し遂げることができると、彼らは誤解し、錯覚していたのです。

皆さん!私たちの力で地上楽園を、キリストの青い季節を、成し遂げることはできません。ですから、私たちはこの地のものではない、天のもの、その神の国を求めながら、この地のユートピアではない、あの天のユートピア、あの天国を望みながら生きるしかない、そのような存在なのです。ですから、私たちが先に見てきた主の祈りの多くの祈りが、すべて天の国のもの、天国的な内容だったのではないでしょうか。

ところが、今日の祈りの内容を見ると、「わたしたちに必要な糧を今日与えてください……」となっているわけです。あたかも「この地のものを求めなさい」と言っているかのように、私たちが誤解する余地のある一節です。この一節を見て、「よし、これだ!まさにこれを待っていたんだ!今日わたしたちに日用の糧を与えてください!神様がいよいよ、この地のものを求めよという箇所を出された!うちの牧師がずっと叫び続けている主張とは違う内容が出てきたが、これをどう解決するのか」と思うかもしれません。

皆さん!もしこの内容が、私たちが理解するように、この地で私たちが必要なものを求める内容であるならば、聖書は聖書自体の中に矛盾を抱えていることになります。すぐその下、下の節を見ますと、マタイによる福音書6章25節にはこうあります。

(マタイによる福音書 6:25) 25 だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。(と言うのです。)

まさに同じ章で、このような矛盾した話をしています。しかし、聖書が矛盾を語るはずがないではありませんか。ならば、この一節には何か深遠な意味があるということです。ですから、今日はその深遠な意味を一緒に明かしてみようと思います。私たちは毎週深遠ですよね。でしょう?

さて、皆さん!その聖書をよく見てください。マタイ6章を見ると、「日用の糧を与えてください」の横に、数字や記号がついているはずです。そしてその下に、もしや「明日の糧」と書かれているかもしれません。

なぜこのような注釈がその言葉についているのかというと、「日用の糧」というこの「日用の」にあたるギリシャ語「エピウシオン」という意味が、いくつかの意味を持っているからです。そして、この「エピウシオン」という単語は、ギリシャ語のいかなる文献にも使われていません。この単語は!そして聖書にも、まさにここ一箇所だけです。そしてルカによる福音書にもう一度使われますが、そのルカにある主の祈りに、たった一度だけ使われた単語なのです。

ですから、この時代の言語学者や聖書学者たちは、その単語がどのように使われているのかを、推論できずにいるのです。それで、三つの見解がありますが……。

第一の見解が、「エピウシオン」という単語が「エピ」と「ウシア」の合成語だと見るものです。それで、生活に必要な糧、日用の糧を「生活に必要な糧」と見る見解があります。第二に、「その日のための、当日のための糧」、日用の糧を当日のための糧と見る見解があります。そして第三が、まさに最も多くの支持を受けている、「来るべき日、翌日」と見る見解です。来るべき日、翌日、明日!来るべき日の糧、翌日の糧、明日の糧。そう見るのです。

なぜこのような見解を多くの人が支持し、私もなぜこの見解を支持するのかというと、イエス・キリストが宣教当時使っていた言語は何ですか?アラム語です。「パッション(Passion of the Christ)」に出てくるあの言語、アラム語です。このアラム語はバビロンの言語です。

紀元前586年に、南ユダがバビロンに滅ぼされ、70年間、紀元前516年に神殿が再建されるまで、彼らはバビロンの捕囚としていたではないですか。その間、彼らは自分たちの言語をすべて忘れてしまいました。そしてアラム語を使い始めました。アラム語とギリシャ語が彼らの公用語だったのです。

むしろヘブライ語は、聖書を研究するような人々以外には、よく知られていませんでした。読み書きができなかったのです。ですから、当時使われていたそのアラム語、そのアラム語の主の祈りには、「明日の糧、マヘルという明日の糧」とそう書かれているのです。そして「明日の糧」という見解を聖書が支持しています。私たちの改革派神学、リフォームド神学の基本は、「聖書は聖書によって解くべきだ」というものです。聖書は聖書で解く。この言葉はどういう意味かというと、例えば、善いサマリア人の話がありますよね?

ある人がエルサレムからサマリアへ行く途中で、強盗に遭い、死ぬほど打ち叩かれます。誰もが通り過ぎていくだけなのに、善いサマリア人が通りかかり、彼を見て傷口にぶどう酒と油を注ぎ、包帯をして、宿屋へ連れて行きます。そしてそこで、宿屋の主人に任せながらコイン二枚を渡します。そして「私がまた戻ってくる」と言って去ります。

この話を、ある人はこのように解釈する人々がいます。非常にそれらしいのです。「通りすがりの人、強盗に遭った人はまさに私たちのことであり、エルサレムは天国、サマリアは世の中だ。強盗はサタンだ。強盗に散々叩かれて私たちが倒れているところに、善いサマリア人であるイエスが来られて、ぶどう酒と油を注ぐ。ぶどう酒は宝血、油は聖霊!油を注いで、彼を宿屋へ連れて行く。宿屋は教会。教会に預けるのだ。宿屋の主人は牧師。ああ、いいですね。牧師に預け、コイン二枚を渡すが、それは旧約と新約だ」と。そして「私がまた戻ってくる」と言ったのは「イエスの再臨」を語っているのだと。

それらしいでしょう?しかし、聖書のどこにもその話を裏付けるものはありません。この話の真意は、律法の専門家がイエスに尋ねるところにあります。「どうすれば永遠の命を得られますか?」すると「律法には何と書いてあるか」。「心を尽くし、命を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛し、隣人を自分のように愛せよ。そう書いてあります」。「では、あなたも行ってそのようにしなさい。そうすれば命を得られる」。

すると律法の専門家は「では、私の隣人とは誰ですか。誰を愛すべきなのですか」と聞きます。そこでこの例えを挙げられ、どのような結論を結ばれたのかというと、「あなたの隣人が誰なのか、あなたが隣人を選ぼうとするのではなく、あなたが先に隣人になってあげなさい」ということなのです。ですから、全く違う話なのです。いくら良い意味であっても、聖書が語るその真意を把握できなければ、それは非常に危険です。聖書を勝手に解釈する者は呪われるべし!

では、聖書がどのようにその「明日の糧」を支持しているのか、一度探してみましょう。旧約聖書で、神様がその明日の糧を今日与えられたことがありました。いつですか?マナです!六日目に、七日目の糧を与えられました。なぜ七日目の糧を六日目に与えたのですか。七日目は安息日だからです。

安息日は何をする日ですか。神様のあの完全な創造、あの完全な創造を楽しみ、記念し、享受する日です。そしてその安息日を守ることによって、終末に私たちに訪れるあの永遠の安息を待ち望む日が安息日なのです。ですから、六日目にその七日目の糧をしっかり所有していることで、どうなりますか。安息日に食べる糧が目の前にあります。すると、その安息日は必ず来るということを確認するわけです。

そしてその糧を持ちながら、七日目にすでに参与するのです。あたかも私たちが子供の頃、遠足の前日、お母さんがリュックサックに七星サイダーとチョコレートを全部入れてくれてですね、海苔巻きの材料を台所に積んでおいた時、私たちは遠足が明日であるにもかかわらず、今日すでに胸がドキドキし始めるのと同じです。その明日を、今日すでにときめく心で生きるのです。一日に十二回も窓を開けて見るでしょう?雨が降るか降らないか。その期待!それこそが、六日目に七日目の糧を与えた理由なのです。

ところで、このアラム語の主の祈りを見ると、その「マヘル」という単語は、明日の糧の「明日」という意味は、24時間後の明日ではなく、「今日とは違う日」を意味するものなのです。つまり、今日とは違う、来たるべき明日を意味するのです。終末的な意味があるのです。

ですから、私たちが「明日の糧を与えてください」と今祈るということは、その来たるべき終末、新しい天と新しい地、あの天国は必ず来る!そして私たちはその国の糧で生きるべき者たちだ!そして私たちは今、この終末を生きている。まさに、もうすぐその国は来るのだが、この六日目を私たちは生きているのです。ですから、その国の糧を求めることで、私たちはその国を今享受するのです。その国を楽しむのです。つまり、終末的な信仰を告白しているのです。

終末的な信仰とは何でしょうか。私が大学生の時、軍隊を除隊して復学し、教養体育の時間にゴルフをしました。ゴルフクラスを受けたのですが、私には勝負根性がありましてね。私の友人、今は法官として活躍している友人が同期にいたのですが、彼と一緒にその教養体育を聞いたのですが、彼も非常に勝負根性のある友人でした。それで、果川の競馬場の、一番安い練習場に行って、毎日練習したのです。

ところが、二箱くらい打つと限界です。当時、始めたばかりの学生ですから。しかし、打ってから翌日に試験を受けなければならないのに、彼は帰りました。彼を送り出して、「私も帰るよ」と車に乗るふりをして、また戻って二箱もっと打ちました。ところが、そこで肋骨にヒビが入ったのです。二本も!あまりに激しく運動しすぎて、非常に苦しくて病院へ行ったのですが、レントゲンを撮ったらヒビが入っていました。

ところが、そのヒビが入った肋骨の間に、こんなに大きな塊が三つ見えるのです。レントゲンに!そしてその藪医者が、あろうことか「ガンかもしれない」と言うのです、これが!そして、これほど大きなガンなら、非常に危篤だと言うのです、私に。なんてことだ!まるで全身の力が抜けてですね。組織検査をして、結果が出るその日まで待つのですが、何も手につきませんでした。「もうすぐ死ぬんだな」という考えが私を支配したからです。

私は当時、大学歌謡祭の大賞を受けて、それほど経っていない時でした。だから、どれほど夢が多かったことでしょう。ところが、あんなことこんなこと何も思い出せず、ただ私の周りの人々、その方々にこれまでよくできなかったこと、そんなことが思い出されました。心の中で恩義のある方々に恩返ししたい、周りの人に親切にしたい、そうなったのです。他の欲心は何ひとつありません。「明日行って試験をどう受けるか」なんて考え、微塵も浮かびませんでした。

後で結果が出たのですが、ただ筋肉が固まっただけだと言われて(ハハハハ)、私はその人の手を握って、30分間「ありがとうございます!」と言いました。その人が何かしてくれたわけでもないのに。ただ誤診しただけなのに、「先生、ありがとうございます!」。その人が白いガウンを着ていることさえ、感謝したくなったのです。それが終末的な信仰です。「明日この地に終末が来るなら、今日私たちはどう生きるか」ということです。

私たちは明日の糧、明日の糧を今求めることで、「神様、その通りです。あの日(終末の日)は必ず来るでしょう。私はあの日を準備しながら生きる人間です」という告白をするのが、「今日、私たちに明日の糧を与えてください」と祈ることなのです。

では、その天の糧とは何ですか。何で食べて生きるのですか。ヨハネによる福音書6章27節へ行きましょう。

(ヨハネによる福音書 6:27-35) 27 朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。 28 そこで彼らが、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と言うと、 29 イエスは答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」 30 そこで彼らは言った。「わたしたちが見てあなたを信じるために、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。 31 わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです。」 32 イエスは言われた。「はっきり言っておく。天からのパンをあなたがたに与えたのはモーセではない。わたしたちの父が天からのまことのパンをあなたがたに与えてくださるのである。 33 神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」 34 そこで、彼らが「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、 35 イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」

そのパンは何ですか。イエス様だということです。あの天の糧、明日の糧は、イエス様だということです。どのようなイエスですか。そのイエスは天の王ではないですか。天の王なのに、この地の王ではないために、この地に降りてきて、あらゆる艱難と、迫害と、苦難を受けたあのイエス!そのパンを私は今、求めているのです。私もその人生に参与したいということです。「神様、今日、明日の糧、そのイエスを私に与えてください」と祈ることは、「私はそのイエス・キリストの人生に参与して生きます」という信仰告白なのです。「今日必要な私のパンをください」という話ではなく!

では、この苦難を甘受し、この迫害を甘受して、「神様、明日の糧、そのイエスを私に与えてください」と祈れる人は、どのような人ですか。その栄光を見た人々以外には祈れません。その迫害をどうやって甘受して行けますか。行けません。その栄光を見た者たちだけが、その祈りを捧げることができます。「今日、私たちに明日の糧を与えてください」と祈れるのです。コリントの信徒への手紙二、4章17節を見てみましょう。

(コリントの信徒への手紙二 4:17-18) 17 わたしたちの一時の軽い苦難は、比べものにならないほど重くて永遠の栄光をもたらしてくれます。 18 わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは一時的ですが、見えないものは永遠に続くからです。アーメン。

その艱難を、「軽いもの」だと語っているのです。しかし、本当に軽いですか。皆さん、私たちがこの地を生きながら、私たちに艱難が訪れるではないですか。皆さん、誰もが一度や二度は経験したことがあるでしょう。それが本当に軽かったですか。そうではありません。ある時は本当に涙が出ないほど、その艱難が苦しい時があります。ある時は外へ出て自ら首を吊って死にたいと思うほど、その艱難が苦しく、苦痛なのです。艱難はそれほど甘いものではありません。

しかし、使徒パウロはここで「軽いもの」だと言います。そして、その苦痛は「一時的」だと言います。何と比較して?その苦痛がそれほど大きいのに、それを軽いものだと言える理由は、あれほど大きな苦痛も、あの天の栄光を見た後では、何でもなかったというのです。

ですから、その栄光を見た者たちは、このように祈れるというのです。私は遭うべきことは全部遭ってきた!四十に一つ足りない鞭で死ぬほど打たれたこともあるし、ことあるごとに牢獄に入れられてあのように侮辱され、苦しく生活をしたにもかかわらず、私があの天の栄光を見た後では、この艱難は軽いものだというのです。何でもなかった!

ですから、皆さんはその天の栄光を味わい、天の栄光を悟った者たちなのです。神様によって!だからこそ、私たちはこのような祈りを捧げることができるのです。「神様、私がそのイエス・キリストの人生に参与させてください。あの明日の糧を今日、私に与えてください。私はこの地を、その糧イエス・キリストだけで生きます」と告白するのがまさに、この主の祈りの内容なのです。それがキリスト教です。

誰かが言うような、三拍子の救い!三拍子の祝福!そんなものはキリスト教にはありません。ヨハネの手紙三にある、「愛する者よ、あなたの魂が幸いを得ているように、すべての点でも幸いを得、また健やかであるようにと祈ります」という話が、何か「あなたのすることが全部うまくいけばいい」という話だと思われますか。とんでもない。「すべての点(凡事)」とは何ですか。聖書が語る凡事!コリントの信徒への手紙に出てくるではないですか。「絶えず喜び、絶えず祈り、すべてのことに感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」と言うでしょう?

私たちクリスチャンの凡事とは何ですか。神様が私たちの目を開かせてくださり、この地に私たちを放置せず、私たちの人生に介入して、私たちを導いていかれるその旅路で生じるすべての出来事を「凡事」と言うのです。その凡事がうまくいくとはどういうことですか。神様が私たちを叩いてでも、ここへ引き連れていくその働きのことです。それがうまくいくということです。それを「亨通(こうつう:物事が思い通りに運ぶこと)」と言うのです。

ヨセフは牢獄に閉じ込められていますが、神様が彼を造り上げようとするその道にヨセフがいるため、「彼の人生は亨通であった」と聖書が語るのです。ですから、あなたの魂が幸いを得ているように、あなたの魂が幸いを得たように、あなたの凡事が幸いであるようにと祈る言葉は何ですか。私たちの魂が幸いを得たとは何ですか。死んでいた魂が、神の統治、その主権の中に入ってきたということではありませんか。それが私たちの魂が幸いを得たということではありませんか。

それと同じように、あなたの凡事、あなたの人生も、神の主権、その統治の中に入るようになりますようにと祈っているのです。神の約束でもなく、ただ使徒パウロが祈ったのです。それを神の約束だとして、三拍子の祝福だと言えるのでしょうか。

一体、神の統治の中に入るとはどういうことですか。自分の思い通りに一つもならなくても神の御心が、自分の願いが一つも叶わなくても神の御心が成し遂げられることを、「凡事において幸いである」と言うのです。それが非常に大きく大切なものであるため、私が理解できない出来事がそれほどたくさん起きても、私は感謝するしかないのです。その出来事は、あの永遠の新しい天と新しい地のために、私に起きていることだからです。だから凡事に感謝しなさいということなのです。それがキリスト教なのです。

そのように天の糧、明日の糧、イエス・キリストを、迫害を甘受しながら求められる者だけが、隣人を愛することができます。なぜ私たちは隣人を赦せないのでしょうか。なぜ隣人を愛せないのでしょうか。神様はアダムにどのような呪いを与えられましたか。彼が罪を犯した時!「お前は自分の力で地を耕し、畑を耕し、そこから出る実りでお前の命を維持しなければならない」とそう呪われました。汗を流さなければ、お前は食べられない、と言われました。

ですから、その呪いの下にいる人々は、自分が汗を流して食べていかなければならないため、村中の人が皆、自分の競争相手なのです。だから、隣の家の子が勉強がよくできると、お腹が痛くなるのです。うちの子の競争相手だから!私が全く同じビジネスをしているのに、隣の店が自分より儲かっていると、気分が悪いのです。呪いの下にいる者は皆そうです。

しかし、神様の恵みを知り、あの天のものが何であるかを知り、その栄光を味わった人々は?天に志を置いて生きる人々は?無駄に彼らと競争しません。そうして右の頬を打たれた時、「いいよ、左の頬ももう一回打てよ。お前の気が済むなら、左の頬ももう一発打て」と言いながら、その相手を赦せる境地まで行くということです。そのように成長していけるのです。その栄光を見た者だけが、打った者に「もう一回打て」と赦しながら、「神様、私たちが自分に負い目のある人を赦しましたように、わたしたちの負い目を赦してください」と祈れるのです、その人が!

ところで内容をよく見ると、「私たちが自分に負い目のある人を赦したように、神様、あなたも、私がしたことを見て、そのように赦してください」と聞こえますよね。「わたしたちが自分に負い目のある人を赦しましたように、わたしたちの負い目を赦してください」と言うでしょう?あたかも私たちが神様の見本に先になるように聞こえますよね。ところが「わたしたちの負い目を赦してください」の箇所は、完了形で書かれているのです。

「アフェーカメン」という単語を使いましたが、このセム族の言語を最もよく研究したのが、ヨアキム・エレミアスです。そのヨアキム・エレミアスが一体この意味は何だろうかと研究しているうちに、この時制をそのままアラム語に移しました。それで「アラム語でイエス様がこの話をされた時は、どのような意味があったのか」とアラム語に移してみると、そのアラム語のこの完了形時制には、同時的な意味があるのです。同時的な意味!再びそのアラム語に訳してみると、「神様、私たちの罪を赦してください!それと同時に」同時多発的に起きるのです。「同時に私たちも、私たちに罪を犯した者を赦します」という内容なのです。

では、よく聞いてください。「神様、私たちの罪を赦してください!私たちも私たちに罪を犯した者を赦します」。同時に起きるのです。あなたが私を赦してくれたら赦す、ということではなく!ならば「神様、私の罪を赦してください」と言いながら、「あの人間だけはどうしても赦せない」と誰かを赦せていないとしたら、その祈りをどうやって捧げられますか。「神様、私の罪をすべて赦してください。ただ、この人間に対してだけは赦せません。だから、この罪だけ除いて、他の罪は赦してください」ということになります。神様にでたらめな祈りをすることになるのです。

「神様、私の罪を赦してください、ただしこれは少し目をつぶってください。これは私が最後まであいつの、とにかくあいつが破滅する姿を見てから、その後に神様の前によく行きますから、これはちょっと見逃して、残りは全部赦してください」という意味になるではありませんか。神様に「私の罪を赦してください」と言うためには、すべて神様の前に降ろして、それから祈らなければならないにもかかわらず!

できませんよね。だから聖書では、「あなたが隣人を赦さずに来るなら、神もあなたを赦さない」と言うのです。大変なことです。ならば私たちは神様に祈ることができません。そうでしょう?皆さんの心の中に、赦せていない人がたくさんいるでしょう。ならば私たちはこの祈りができない者たちです。マタイによる福音書6章14節を見ましょう。

(マタイによる福音書 6:14-15) 14 もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。 15 もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。(と言うのです。)

大変ですね。マタイによる福音書18章35節に同じ話が書かれています。

(マタイによる福音書 18:35) 35 あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。

赦さないというのです。どのような話の結論として与えられたものですか、これは。私たちがよく知る、一万タラントの借金がある家来の例えですよね。王が自分に一万タラントの借金がある家来を連れてきて「返せ」と言ったら、「返す能力がありません」と言いました。一万タラントは、当時として凄まじい大金です。当時、ペレアとガリラヤの人々がローマに納めていた一年分の税金が200タラントでしたから、一万タラントは個人にとってはとてつもない大金です。ですから、到底返せないことを象徴しているのです、一万タラントは!

一万タラントの借金がある家来を王は赦してあげました。ところが、外へ出ると自分に借金がある一人の仲間に出会ったのですが、100デナリオンの借金がある者です。胸ぐらを掴んで「なぜ返さない、この野郎!」と言って、牢屋にぶち込んでしまいました。すると王がその知らせを聞いて、彼を呼び戻し、「私はお前にあんなに大きな借金を赦してやったのに、お前はあいつ一人赦せないのか。こいつがこれを全部返すまで」一万タラントは人間には返せない金だと言いましたよね。「これを全部返すまで牢に入れろ」と言ったのです。

その話は何ですか。永遠の牢屋に入れたということです。地獄に行ったということです。だから、赦しを受けた者が誰かを赦せなかったとしたら、それは地獄に行くということです。神様は到底その人を赦さないということなのです。大変なことになりました。ますます。ね?雪上加霜です。ならば私たちは一体どうなるのですか。

今、ここで「ユニオン・クライスト(Union Christ)」、キリストとの連合がまた動員されるのです。皆さんはイエスの死に参与した者であり、イエスのあの復活に参与した者であり、イエスの33年の人生が皆さんの人生になった人々です。そうでしょう?ですから私たちは、その復活と、死と、あのゲッセマネの祈りにまで、参与した者となりました。ですから私たちは「御心が天で行われるように、地でも行われますように」という祈りを、「神様、あなたの御心のままになさってください。私の思いではなく、あなたの御心のままに」という、イエス・キリストのあの祈りに連合することによって、私たちはそのような祈りを捧げられる者になったと語ったではありませんか。

ならば、十字架の上でイエス様が、「父よ、彼らを赦してください。彼らは自分が何をしているのか知らないのです。彼らを赦してください」と祈られた時、皆さんはどこにおられたのですか。そのイエス・キリストの内におられる方々です、皆さんは。皆さんは赦した者たちなのです。これが筋が通る話ですか。一体。私たちのような人間が、あのイエス・キリストの人生に参与して、あの十字架で世を赦してしまったあの赦しに参与した者になったということが、あり得ますか。ところが、神様が私たちをそのように扱ってくださるというのです。だから、赦した者となったのです。

ですから私たちは神様の前に堂々と赦しを乞える者になったのです。「神様、私が世を赦したように、あなたも私を赦してください」と堂々と祈れる者になったということなのです。この事実の前に、皆さんは他にまた何を求めようというのですか。このとてつもない奇跡の前に。私たちは赦した者になってしまいました。そして、堂々と赦しを求められる者になってしまいました。

だからこそ、私たちがそのイエス・キリストの人生に参与しながら、隣人を実際にこの人生の中で赦しながら生きるのです。赦さなければならなくなったのです。キリストの人生が私の人生になったからです。お分かりですか。私が赦したから神様が私を可愛がってくださるのではなく、私を「称義(ディカィオスネー:義と認めること)、ノット・ギルティ(not guilty)、お前は正しい」としてくださったから、「すでにお前は赦した者だ」と言ってくださったから、私たちは赦しながら行くのです。似たような言葉に聞こえますが、全く違うのです。いいですか。私たちは赦した者になったのです。そのように!だから神様の前に、主の祈りを捧げられる者になったのです。

神様はこのようにはっきりと、「あなたの兄弟を赦せなければ、お前は天国に行けない」と語られましたが、私たちは赦したのです。これが理解できる人は、本当に新しく生まれた人です。皆さん。それが「キリストとの連合」なのです。ですから私たちの人生の中で、そのような赦しをしながら私たちは生きるべきなのですが、その赦しを一度二度してみるとですね、その赦しがいかに私たちを自由にしてくれるか、皆さんは知ることができます。

「パピヨン」という映画をご覧になると、最後の方にどのようなシーンが出てきますか。スティーブ・マックイーン!ボート代わりの浮き袋のようなものを投げて、ダスティン・ホフマンと二人で立ちますよね。「一緒に行こう」見下ろすと怖いです。「お前一人で行け」。スティーブ・マックイーンの九度目の挑戦です。それが九度目の挑戦。お盆カラオケ(※韓国のバラエティ番組ネタ)ではなく、九度目の挑戦で、スティーブ・マックイーンがあの絶壁の下へ飛び込みますよね。飛び込んで潮流を利用して、脱出に成功します。そうして「わあ!」と勝利の歓喜のポーズをします。手を振ります。ダスティン・ホフマンに。

するとダスティン・ホフマンが言いますよね。見下ろしながら、「お前がいくらこの悪魔の島を脱出したとしても、お前が自分の心の中にあるお前の牢獄から脱出できないなら、お前は永遠に牢獄の中にいるんだぞ」という名言を残すのです。ご覧になっていないのですか、この名画を。教養必須なのに!そうして「パピヨン」は終わります。

これは実話です。パピヨンの!このパピヨンは、アンリ・シャリエールというフランス人ですが、1930年の20歳の時ですか、彼が!とにかくパリ市内で酒を飲んでいたところ、殺人事件が起きたのですが、ある検事が自分の有能さを示すために、この人をただハメたのです。それでパリ中が、フランス中がこの検事に焦点を合わせました。「おお、有能な検事だ」と。

ところが、この検事はアンリ・シャリエールが犯人ではないことを知っています。それにもかかわらず、自分が有能な検事であることを立証するために、他の不良たちを証人として動員し、彼を殺人犯に仕立て上げ、1941年に死刑宣告を下してしまいます。そしてあの悪魔の島へ送ってしまったのです。だからスティーブ・マックイーンがあのように死にそうになり、ボコボコにされながらも脱出しようとするのです。悔しいからです!

アンリ・シャリエールが脱出した後、「バンコ」という小説を書きました。自伝的小説、自分の自叙伝ですね。そこでそのように語っているのです。そこから脱出して、この人は南米に行きました。アルゼンチンをはじめとして、とにかく南米を転々としながら、お金をものすごく稼ぎました。それで60歳か61歳にフランスへ戻ります。時効が終わったからです。なぜ戻るか分かりますか。その人たちを捕まえて殺すために行きます。復讐の刃を研いで。あの検事と、偽証をして自分を死刑宣告に追い込んだあの不良を、全員殺しに行くのです。

行ったのですが、8日間、自分の子供の頃の街を歩いてみたり、愛する人たちのところへ行って遠くから彼らの生活を見たりしながら、彼はその復讐を諦めます。彼らを赦します。そして何と「バンコ」という本に書き記したか分かりますか。「私は神様にこのように祈った。私が復讐を諦めた代償として、二度とこのような悲劇が起きないようにしてほしいと神様に祈った。そして自分自身にささやいた。お前の勝ちだ、友よ。お前は自由で、愛される未来の主人公としてここにいる。この件に関わったすべての人のうち、お前が最も自由で、最も幸せな人間だ。友よ」と自分に語るのです。

そして、自分は自由を得たというのです。それまではお金もたくさん稼ぎ、一生懸命生きましたが、唯一の目的は復讐でした。しかし、彼らを赦した後、彼はついにパピヨンになったのです。パピヨンは蝶という意味ですから。いよいよひらひらと、ようやく飛べるようになったのです。赦した後に!赦しは私たちに利益になるのです。だから神様は「赦しなさい」とおっしゃるのです。

皆さん!私たちが主の祈りを学びながら忘れてはならないこと。私たちが神様に請願する祈りの内容です。「神の国が来ますように。その御心が成し遂げられますように。赦してください」。請願する内容ですが、この主の祈りの内容は同時に誓約なのです。

神様、神の国が来ますように。その意味は何ですか。「私はその国が来れば、その御心に従います」という誓約です。あなたの御心が行われますように。「私はその御心に身を任せます」という誓約です。赦してください。「私も隣人を赦します」という誓約なのです。そうです、皆さんは主の祈りを唱えながら、絶えず皆さんはそのような神様の前での誓約を捧げているのです。

皆さん。アダムの罪によって、私たちは自分の命を、自ら維持しながら生きるようになりました。農業を営み、汗を流し、その汗の実りである糧で生きるようになっています。しかし、イエスによって、その呪いから解かれた者たちは、神様がくださる天の糧で今日を生きられるようになりました。そして、そのように生きなければならないのです。

私たちは終末を生きる、明日を待つクリスチャンなのです。あの新しい天と新しい地を待つクリスチャンです。ですから私たちはこの地の糧で生きるのではなく、あの新しい天と新しい地、あの明日の糧をくださいと、あのイエス・キリストだけで生きさせてくださいと、神様の前で祈りをするのです。

ですから私たちはそれで満足して生きられる者たちなので、隣人を赦すのです。妬まないのです。嫉妬しないのです。彼らを愛することができるのです。それがクリスチャンの人生です。だから、「私もこのように赦す者となったので、私の罪も確かに赦されたことを私は確信します、神様」と神様の前に信仰告白をするのが、まさにこの主の祈りなのです。

ですから、「今日、わたしたちに必要な糧を今日与えてください。わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように」と祈りながら、私たちは自分たちの身分をもう一度確認するのです。そして「明日の糧であるイエスがこのように私の内にいるため、あの日(終わりの日)は速やかに来る。必ず来る。そして私は、その明日を生きる者だ。私はこの地の寄留者だ。この地を生きる者ではなく、天国を生きる者だ」と確信し、確認しながら、そのように天国を楽しみ、享受しながら生きていくのです。それが主の祈りを捧げる真意なのです。

非常に難しい話のようでしたが、何とか引っ張られてきたら、結論がここまで来ました。でしょう?先週、ある学生が私に、「非常に難しい内容のようですが、牧師の説教を聞いていると、最後までついて行ってみれば、そこまで来ている。しっかり腑に落ちたようだ」と言われました。私にただ「分かりやすくうまく説明しますね」と言えばいいのに、何をあんなに難しく言うのか。それですよ。

「今日、わたしたちに必要な糧を今日与えてください。わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように」。この真意はまさにそれです。


他にこの内容に関して調べたいことや、追加で翻訳が必要なことがあればいつでも教えてくださいね!

 
 

 

 
 
 
 

Gemini는 AI이며 실수를 할 수 있습니다. 



 

 

 

 

 

 


 

4.주기도문강해  (마6:9-13)

 

 

마태복음 6장 9절에서 13절까지를 함께 봉독하도록 하겠습니다.

 

(마태복음 6:9-13)

9 그러므로 너희는 이렇게 기도하라 하늘에 계신 우리 아버지여 이름이 거룩히 여김을 받으시오며

10 나라이 임하옵시며 뜻이 하늘에서 이룬 것 같이 땅에서도 이루어지이다

11 오늘날 우리에게 일용할 양식을 주옵시고

12 우리가 우리에게 죄 지은 자를 사하여 준 것 같이 우리 죄를 사하여 주옵시고

13 우리를 시험에 들게 하지 마옵시고 다만 악에서 구하옵소서 (나라와 권세와 영광이 아버지께 영원히 있사옵나이다 아멘)

 

인류의 역사상 가장 큰 실험은, 아마 공산주의 이데올로기일 것입니다. 공산주의! 마르크스와 엥겔스가요, ‘공산당선언’에서, ‘모든 사람들이 능력껏 일하고, 모든 사람들이 필요껏 쓰는, 프롤레타리아 유토피아가, 반드시 이 땅에 온다. 그리고 우리가 반드시 그 프롤레타리아 유토피아를 이 땅에 만들 것이다.’라고 호언장담을 했습니다.

 

그런데 그 7-80년 동안, 공산주의가 이 땅에 남긴 것은, 그들이 실험하여 남긴 것은, 대재앙뿐입니다. 그들이 놓친 것은, 인간이 어떤 존재인가를 놓친 거예요. 인간은 토럴 디프로버티(total depravity)! 완전한, 전적인 타락을 한 죄인임에도 불구하고 그들은, 인간이 어떠한 존재인지를 알지 못했기 때문에, 그들은 이 땅에 유토피아를 만들 수 있다고 생각했어요. 그래서 우리 안에 있는 이 내재된 힘으로, 이 땅에 평화와, 행복과, 안녕을 이룰 수 있다고 그들은 오해하고, 착각했던 것입니다.

 

여러분! 우리의 힘으로 지상낙원을, 그리스도의 푸른 계절을, 이루어 낼 수 없습니다. 그래서 우리는 이 땅의 것이 아닌, 하늘의 것! 그 하늘나라를 구하면서, 이 땅의 유토피아가 아닌, 그 하늘의 유토피아! 그 천국을 바라면서, 살 수밖에 없는 그러한 존재들이라는 거예요. 그래서 우리가 앞서 살펴본 주기도문의 많은 기도들이, 다 하늘나라의 것! 천국적인 내용 아니었습니까?

 

그런데 오늘 기도의 내용을 보면은, ‘오늘날 우리에게 일용할 양식을 주옵시고…’ 이렇게 되어 있다고요. 마치 ‘이 땅의 것을 구하라!’라고 이야기 하는 것처럼, 우리가 오해할 소지가 있는 구절입니다. 이 구절을 보면서, ‘야 좋다! 바로 이거야 기다렸어! 내가! 오늘날 우리에게 일용할 양식을 주옵시고! 하나님께서 이제 드디어, 이 땅의 것을 구하라고 하는 그 대목이 나왔다! 우리 목사가 계속 외치는 주장하는 그 내용이 아닌, 다른 내용이 나왔는데, 이걸 어떻게 해결할 것인가?’

 

여러분! 만약에 이 내용이 우리가 이해하는 것처럼 ,이 땅에서 우리가 필요한 것을 구하는 내용이라면, 성경은 성경 자체에서 모순을 갖고 있는 거예요. 바로 고 밑에, 밑의 구절을 보면요, 마태복음 6장 25절을 보면,

 

(마태복음 6:25)

25 그러므로 내가 너희에게 이르노니 목숨을 위하여 무엇을 먹을까 무엇을 마실까 몸을 위하여 무엇을 입을까 염려하지 말라 (그런다고요.)

 

바로 같은 장에서, 이런 모순된 이야기를 하고 있다고요. 그런데 성경이 모순을 이야기할 일은 없지 않습니까? 그렇다면, 이 구절에는 뭔가 심오한 뜻이 있다는 거예요. 그러니까 오늘 그 심오한 뜻을 한번 같이 밝혀 보는 것입니다. 저희는 매주 심오해요. 그죠?

 

자, 여러분! 그 성경을 한 번 잘 보세요. 마태복음 6장에 보시면, ‘오늘날 우리에게 일용할 양식을 주옵시고’ 고 옆에, 일용할 양식 옆에, 숫자나 기역(ㄱ)! 이렇게 붙어 있을 거예요. 그러고서 그 아래에, 혹 ‘내일의 양식’ 이렇게 쓰여 있을 겁니다.

 

왜 이런 관주가 그 말에 붙어 있냐면, ‘일용할 양식’이라고 하는 이 ‘일용할’이라는 이 ‘에피우지온’이라는 헬라어의 뜻이, 여러 가지의 뜻이 있기 때문에 그래요. 그리고 이 ‘에피우지온’이라는 단어는, 헬라어의 어느 문헌에도 쓰여 있지 않아요. 이 단어는! 그리고 성경책에도 딱 요기 한 군데 있어요. 그리고 누가복음에 한 번 더 쓰이는데, 그 누가복음에 나오는 그 주기도문에, 딱 한번 쓰인 단어거든요.

 

그러니까 이 시대의 그 언어학자들이나, 성경학자들이, 그 단어가 어떻게 쓰여 있는지를, 추론을 못하고 있는 거예요. 그래서 세 가지 견해가 있는데…,

 

첫 번째 견해가, ‘에피우지온’이라는 이 단어가, ‘에피’와 ‘우지아’의 합성어로 보는 거예요. 그래서 삶에 필요한 양식! 일용할 양식을, ‘삶에 필요한 양식!’ 이렇게 보는 견해가 있고요. 두 번째가 ‘그 날을 위한, 당일을 위한 양식!’ 일용할 양식을 당일을 위한 양식! 이렇게 보는 견해가 있어요. 그리고 세 번째가 바로, 가장 많은 지지를 받고 있는, ‘오는 날! 다음 날’로 보는 견해입니다. 오는 날, 다음 날, 내일! 오는 날의 양식! 다음 날의 양식! 내일의 양식! 그렇게 보는 거예요.

 

왜 이런 견해를 많은 사람들이 지지하고, 저도 왜 이 견해를 지지하냐 하면은, 예수 그리스도께서 사역 당시에 쓰던 언어가 뭐죠? 아람어라고요. ‘패션 오프 더 크라이스트(Passion of the Christ)’에서 나오는 그 언어? 아람어거든요. 이 아람어는 바벨론의 언어예요.

 

BC 586년에, 남유대가 바벨론에게 망하면서, 70년 동안, BC 516년에 성전이 재건될 때까지, 70년 동안 그들이 바벨론의 포로로 있었잖아요? 그동안 이들이 그들의 언어를 다 잊어 버렸다고요. 그리고 아람어를 쓰기 시작했어요. 아람어와 헬라어가 그들의 통용어였었다고요.

 

오히려 히브리어는, 성경을 연구하는 그러한 사람들 이외에는, 히브리어를 잘 알지 못했어요. 읽고 쓰지를 못했다고요. 그래서 그 당시에 쓰였던 그 아람어! 그 아람어 주기도문에는, ‘내일의 양식! ‘마헬’이라는 내일의 양식!’이라고 그렇게 써 있다고요. 그리고 ‘내일의 양식’이라는 견해를 성경이 지지해 주고 있다고요. 그 우리의 개혁신학! 리폼드 개혁신학의 기본은, ‘성경은 성경으로 풀어야 한다.’라는 거거든요. 성경은 성경으로 풀어야 한다. 이 말이 무슨 말이야 하면은? 예를 들어서, 선한 사마리아인의 이야기 있죠?

 

어떤 한 사람이, 예루살렘으로부터 사마리아로 가는 도중에, 강도를 만나서 거반 죽게 두들겨 맞습니다. 다들 그냥 지나가는데, 선한 사마리아인이 지나가다가 그를 보고서, 상처에다가 포도주와 기름을 붓고, 싸매고, 데리고 가서 여관으로 가죠? 그리고 거기에서 그 여관 주인에게 맡기면서, 동전 두 잎을 준다고요. 그리고 ‘내가 다시 돌아온다!’ 그리고 간다고요.

 

이 이야기를 혹자가 이렇게 해석을 하는 사람들이 있어요. 굉장히 그럴 듯 하다고요. ‘지나가던 사람! 강도 만난 사람은, 바로 우리를 이야기하는 것이고, 예루살렘은 천국이고, 사마리아는 세상이다. 강도는 사탄이다. 강도한테 실컷 두들겨 맞고 우리가 있는데, 선한 사마리아인! 예수가 오셔서, 포도주와 기름을 붓고, 포도주는 보혈! 기름은 성령! 기름을 붓고, 그를 여관으로 데리고 간다. 여관은 교회! 교회에다 맡기는 거예요. 여관주인은 목사! 아이 좋죠? 목사에게 맡기고, 동전 두 잎을 주는데, 그게 구약과 신약이다!’ 이렇게 이야기 한다고요. 그리고 ‘내가 다시 돌아온다.’라고 한 건, ‘예수님의 재림’을 이야기하는 거다.

 

그럴 듯 하죠? 그런데 성경 어디에서도 그 이야기를 뒷받침해주지 않아요. 이 이야기의 진위(眞僞)는요, 율법사가 예수님에게 물어봅니다. ‘어떻게 해야 우리가 영생을 얻을 수 있습니까?’ 그랬더니, ‘율법에 뭐라고 쓰여 있냐?’ ‘네 마음을 다하고, 목숨을 다하고, 뜻을 다하고, 힘을 다하여, 주 너의 하나님을 사랑하고, 네 이웃을 네 몸과 같이 사랑하라! 그렇게 쓰여 있습니다.’ 그러니까 ‘그럼 너도 가서 그렇게 행하라! 그럼 영생 얻을 수 있다.’ 그래요.

 

그러니까 율법사가, ‘그럼 누가 내 이웃입니까? 누구를 가서 사랑해야 하는 겁니까?’ 그러니까 이 비유를 들어 주시면서, 뭐라고 결론을 지으시는 거냐 하면은, ‘네 이웃이 누구인지? 네가 그 이웃을 고르려고 하지 말고, 네가 먼저 이웃이 되어주라!’라는 거예요. 그러니까 완전히 다른 이야기라고요. 아무리 좋은 뜻이라고 할지라도, 성경이 말하는 그 진의를 파악해 내지 못하면, 그건 굉장히 위험하다고요. 성경을 임의로 해석하면, 저주를 받을 지어다!

 

그러면 성경이 어떻게 그 ‘내일의 양식’을 지지하고 있는지를, 한번 찾아보도록 하겠습니다. 구약성경에, 하나님께서 그 내일의 양식을, 오늘 주신 적이 있었어요. 언젭니까? 만나! 여섯째 날에, 일곱째 날의 양식을 주셨단 말이에요. 왜 일곱째 날 양식을, 여섯째 날 주셨습니까? 일곱째 날은 안식일이기 때문에 그렇죠.

 

안식일은 뭐하는 날이에요? 하나님의 그 온전한 창조! 그 완전한 창조를 즐기며, 기념하며, 누리는 날이죠. 그리고 그 안식일을 지킴으로 해서, 종말에 우리에게 올 그 영원한 안식을, 고대하는 날이 안식일이란 말이에요. 그래서 여섯째 날, 그 일곱째 날의 양식을 딱 소유하고 있음으로 해서, 어떻게 해요? 그 안식일에 먹을 양식이 내 눈앞에 있어요. 그러면 그 안식일은 반드시 온다는 것을 확인하는 것이지요.

 

그리고 그 양식을 갖고 있으면서, 그 일곱째 날에 벌써 참여하는 거예요. 마치 우리가 어린 시절 소풍가기 전 날, 엄마가 배낭에다, 니쿠사쿠에다가, 칠성사이다 하고 초콜릿 하고 다 넣어주시고 말이에요? 김밥! 쌀 재료들을 부엌에다가 쌓아 놨을 때, 우리는 소풍이 내일인데도 불구하고, 오늘 벌써 가슴이 벌렁벌렁 뛰기 시작한다고요. 그 내일을, 오늘 벌써 두근거리는 마음으로 살아가는 거라고요. 하루에도 열두 번씩 창문 열어보잖아요? 혹시 비가 오나 안 오나? 그 기대! 그게 바로 여섯째 날, 일곱째 날의 양식을 준 이유라고요.

 

그런데 이 아람어 주기도문에 보면, 그 ‘마헤르’란 단어는, 그 내일의 양식의 그 ‘내일’이라는 뜻은, 24시간 후의 내일이 아니라, ‘오늘과는 다른 날’을 뜻하는 거거든요. 그러니까 오늘과는 다른, 다가올 내일을 뜻하는 거예요. 종말적인 의미가 있는 거거든요.

 

그리니까 우리가 ‘내일의 양식을 주옵시고,’라고 지금 기도를 한다는 것은, 그 다가올 종말! 새 하늘과 새 땅! 그 천국은 반드시 온다! 그리고 우리는 그 나라의 양식으로 살아야 할 자들이다! 그리고 우리는 지금 이 종말을 살아가고 있다. 바로 이제 곧 속히 그 나라는 올 것인데, 이 여섯째 날을 우리가 살아가고 있는 거예요. 그래서 그 나라의 양식을 구함으로 해서, 우리는 그 나라를 지금 누리는 거예요. 그 나라를 즐기는 거라고요. 그러니까 종말적 신앙을 고백하는 거라고요.

 

종말적 신앙이라는 게 뭐예요? 제가 그 대학교 때, 군대 제대하고 복학하고서, 교양 체육시간에, 골프를 했어요. 골프클래스를 했는데, 제가 이 승부근성이 있어서 말이죠? 제 친구! 지금 인제 법관으로 아주 잘나가는 친구가 있는데, 동기였는데, 그 친구랑 같이 그 교양체육을 들었는데, 이 친구도 굉장히 승부근성이 있는 친구예요. 그래서 과천의 그 경마장에, 제일 싼 데 가서, 우리가 인제 매일 연습을 했거든요.

 

그런데 한 두 박스씩 치면, 맥시멈 치는 거예요. 그때 처음 시작하는 학생들이니까! 그런데 치구서 그 다음 날 인제 시험을 봐야 되는데, 애가 갔어요. 가서 제가 걔 보내고, ‘나도 집에 갈 거야!’ 그러면서 차타는 척 하다가, 다시 들어가서 두 박스를 더 쳤어요. 그런데 거기에서 이 갈비에 금이 간 거예요. 두 대에! 너무 심하게 운동을 해서, 굉장히 괴로워서 병원에 갔는데, 엑스레이를 찍었더니, 금이 갔더라고요.

 

그런데 그 금 간 고 갈비 사이에, 이렇게 커다란 혹 세 개가 보이는 거예요. 엑스레이에! 그러면서 그 돌파리가, 글쎄 암일지 모른다는 거예요. 이게! 그리고 이렇게 큰 암이면, 굉장히 위중하다는 거예요. 저한테! 세상에! 마치 온몸에 힘이 쫙 빠지면서 말이죠? 조직검사 하고, 다 하고선 이제 결과가 나오는 그 날까지 기다리는데, 아무 것도 못하겠더라고요. ‘이제 곧 죽는구나!’ 이런 생각이 저를 확 사로잡으니까 말이죠.

 

제가 그때 대학가요제 대상을 받고, 얼마 안 있었을 때거든요. 그러니까 얼마나 꿈이 많았겠어요? 그런데 그런 거 저런 거 아무 생각도 안 나고, 그냥 제 주변에 있는 분들! 그 분들에게 내가 그동안 잘 못했던 거! 뭐 이런 거 생각나고요. 내 마음속으로 빚진 분들에게, 그거 갚고 싶고, 주변사람들에게 잘 해주고 싶고, 그렇게 되더라는 거예요. 다른 욕심 아무 것도 없어요. 어떻게 내일 가서 시험을 잘 볼까? 이런 생각, 그런 생각 아무 것도 안 들더라고요.

 

나중에 결과가 나왔는데, 그냥 그 근육이 뭉친 거라 그래서, (하하하하) 제가 그 분 손을 잡고, 한 30분을, ‘감사합니다!’ 그 사람이 뭐 해준 게 있다고요? 그냥 오진 한 건데, ‘감사합니다. 선생님!’ 그 분이 하얀 가운 입고 있는 것도, 막 감사하더라고요. 그게 종말적 신앙이에요. ‘내일 이 땅에 종말이 온다면, 오늘 우리는 어떻게 살 것인가?’ 말이에요?

 

우리는 내일의 양식! 내일의 양식을 지금 구함으로 해서, ‘하나님! 맞습니다. 그날은 반드시 올 것이고, 나는 그날을 준비하며 살아가는 사람입니다.’라는 고백을 하는 게, ‘오늘날 우리에게, 내일의 양식을 주옵시고’라고 기도하는 거예요.

 

그럼 그 하늘의 양식은 뭐예요? 뭐로 먹고 사는 겁니까? 우린 요한복음 6장 27절로 가겠습니다.

 

(요한복음 6:27-35)

27 썩는 양식을 위하여 일하지 말고 영생하도록 있는 양식을 위하여 하라 이 양식은 인자가 너희에게 주리니 인자는 아버지 하나님의 인치신 자니라

28 저희가 묻되 우리가 어떻게 하여야 하나님의 일을 하오리까

29 예수께서 대답하여 가라사대 하나님의 보내신 자를 믿는 것이 하나님의 일이니라 하시니

30 저희가 묻되 그러면 우리를 보고 당신을 믿게 행하시는 표적이 무엇이니이까 하시는 일이 무엇이니이까

31 기록된바 하늘에서 저희에게 떡을 주어 먹게 하였다 함과 같이 우리 조상들은 광야에서 만나를 먹었나이다

32 예수께서 이르시되 내가 진실로 진실로 너희에게 이르노니 하늘에서 내린 떡은 모세가 준 것이 아니라 오직 내 아버지가 하늘에서 내린 참 떡을 너희에게 주시나니

33 하나님의 떡은 하늘에서 내려 세상에게 생명을 주는 것이니라

34 저희가 가로되 주여 이 떡을 항상 우리에게 주소서

35 예수께서 가라사대 내가 곧 생명의 떡이니 내게 오는 자는 결코 주리지 아니할 터이요 나를 믿는 자는 영원히 목마르지 아니하리라

 

그 떡이 뭐라고요? 예수님이라는 거예요. 그 하늘의 양식! 내일의 양식은, 예수님이라는 거예요. 어떤 예수예요? 그 예수는 하늘의 왕이잖아요? 하늘의 왕인데, 이 땅의 왕이 아니기 때문에, 이 땅에 내려와서, 온갖 환란과, 핍박과, 고난을 받은 그 예수! 그 떡을 내가 지금 원하는 거예요. 나도 그 삶에 동참하겠다는 거예요. ‘하나님! 오늘날 내일의 양식! 그 예수를 나에게 주옵소서.’라고 기도하는 것은, ‘나는 그 예수 그리스도의 삶에 동참하여, 살겠습니다.’라는 신앙고백인 거예요. ‘오늘 필요한 내 양식 주세요!’ 그 얘기가 아니라!

 

그러면 이 고난을 감수하고, 이 핍박을 감수하고, ‘하나님! 내일의 양식! 그 예수를 나에게 주옵소서!’라고 기도할 수 있는 사람은, 어떤 사람들이 기도할 수 있습니까? 그 영광을 본 사람들 이외에는 기도 못해요. 그 핍박을 어떻게 감수하고 가요? 못 간다고요. 그 영광을 본 자들만이, 그 기도를 할 수 있어요. ‘오늘날 우리에게 내일의 양식을 주옵소서!’라고 기도할 수 있다고요. 고린도후서 4장 17절을 한번 보겠습니다.

 

(고린도후서 4:17-18)

17 우리의 잠시 받는 환란의 경한 것이 지극히 크고 영원한 영광의 중한 것을 우리에게 이루게 함이니

18 우리의 돌아보는 것은 보이는 것이 아니요 보이지 않는 것이니 보이는 것은 잠깐이요 보이지 않는 것은 영원함이니라 아멘.

 

그 환란을? 경(輕)한 것이라고 얘기한다고요. 그런데 정말 경합니까? 여러분! 우리가 이 땅을 살아가면서, 우리에게 환란이 오잖아요? 여러분! 다 한두 번씩은 겪어 봤잖아요? 그것이 정말 경하던가요? 안 그래요. 어떨 때는 정말 눈물이 안 나올 만큼, 그 환란이 괴로울 때가 있어요. 어떨 때는 나가서 스스로 내가 목을 콱 메달아 죽고 싶은 마음이 들 만큼, 그 환란이 괴롭고 고통스럽다고요. 환란이 그렇게 만만하지 않아요.

 

그런데 사도바울은 여기서 ‘경한 것’이라고 그래요. 그리고 그 고통은 ‘잠시’라고 얘기해요. 뭐와 비교해서? 그 고통이 그렇게 큰데, 그것을 경한 것이라고 이야기 할 수 있는 이유는, 그렇게 큰 고통도, 그 하늘의 영광을 내가 보고나니까, 아무 것도 아니더라는 거예요.

 

그렇기 때문에, 그 영광을 본 자들은, 이렇게 기도할 수 있다는 거예요. 내가 당할 만큼 당해봤다! 내가 40에 하나 감한 매를 죽도록 맞아보기도 하고, 걸핏하면 감옥에 들어가서 그렇게 모욕당하고 힘들게 생활을 했는데도 불구하고, 내가 그 하늘의 영광을 보고 나니까, 이 환란은 경한 것이라는 거예요. 아무것도 아니더라!

 

그래서 여러분은 그 하늘의 영광을 맛보고, 하늘의 영광을 깨달은 자들이란 말이에요. 하나님에 의해서! 그렇기 때문에 우리는 이런 기도를 드릴 수 있는 거예요. ‘하나님! 내가 그 예수 그리스도의 삶에 동참하게 해 주옵소서! 그 내일의 양식을 오늘날 나에게 주옵소서! 나는 이 땅을 그 양식 예수 그리스도로만 살겠습니다!’라고 고백하는 게 바로, 이 주기도문의 이 기도의 내용이란 말이에요. 그것이 기독교예요.

 

누가 이야기하는 것처럼, 3박자 구원! 3박자 축복! 이런 것은 기독교에 없어요. 요한3서에 나오는, ‘사랑하는 자여! 내 영혼이 잘 됨 같이 범사에 잘 되고, 네가 강건하기를 내가 간구하노라.’ 그 이야기가 뭐 ‘네 하는 일이 다 잘 됐으면 좋겠다.’ 그 얘긴 줄 아십니까? 천만에요 ‘범사(凡事)’라는 게 뭐죠? 성경에 말하는 범사! 고린도전서에 나오잖아요? ‘범사에 감사하라! 항상 기뻐하라! 쉬지 말고 기도하라! 이는 그리스도 예수 안에서 너희를 향한 하나님의 뜻이라.’ 그러죠?

 

우리 그리스도인들의 범사라는 게 뭐죠? 하나님이 우리의 눈을 떼어주시고, 이 땅에다가 우리를 방치해 놓지 않으시고, 우리의 삶에 간섭하셔서, 우리를 끌고 가시는 그 여정에서 생기는 모든 일들을, 범사(凡事)라고 그러는 거거든요 그 범사가 잘 된다는 건 뭐에요? 하나님이 우리를 패서라도, 여기로 끌고 가는 그 일이에요. 그게 잘 된다는 거예요. 그거를 형통(亨通)이라고 그러는 거예요.

 

요셉이 감옥에 갇혀 있지만, 하나님이 그를 만들어 가시고자 하는 그 길에, 요셉이 있기 때문에, ‘그의 삶이 형통하였더라!’라고 성경이 이야기하는 거예요. 그래서 네 영혼이 잘됨 같이, 네 영혼이 잘된 것처럼, 네 범사가 잘되기를 내가 기원한다는 말은 뭐예요? 우리의 영혼이 잘 됐다는 게 뭐죠? 죽어있던 영혼이, 하나님의 통치! 그 주권 안으로 들어왔다는 거 아니에요? 그게 우리의 영혼이 잘 됐다는 거 아니에요?

 

그것처럼 너희의 범사! 너희의 삶도, 하나님의 주권 그 통치 안으로 들어오게 되기를, 내가 간구하노라! 하나님이 약속도 아니고, 그냥 사도바울이 기도한 거예요. 그렇게 그걸 가지고 하나님의 약속이라고 그래서, 3박자 축복이라고 얘기 할수 있는 거예요?

 

도대체 하나님의 통치 안으로 들어간다는 건 뭡니까? 내 뜻대로 하나도 되지 않아도, 하나님의 뜻이, 나의 소원을 하나도 이루어지지 않아도, 하나님의 뜻이, 이루어지는 걸 범사에 잘 된다는 거예요. 그것이 너무나 크고 소중한 것이기 때문에, 내가 이해할 수 없는 일들이 그렇게 많이 일어나도, 나는 감사할 수밖에 없는 거예요. 그 일은, 그 영원한 새 하늘과 새 땅을 위해서, 나에게 일어나는 일이기 때문에! 그래서 범사에 감사하라는 거란 말이에요. 그게 기독교란 말이에요.

 

그렇게 하늘의 양식! 내일의 양식! 예수 그리스도를, 핍박을 감수하면서, 구할 수 있는 자들만이 이웃을 사랑할 수 있어요. 우리가 왜 이웃을 용서하지 못하죠? 왜 이웃을 사랑하지 못합니까? 하나님께서 아담에게 어떤 저주를 내리셨어요? 그가 범죄 했을 때! ‘네가 네 힘으로 땅 갈아서, 밭 갈아서, 거기에 나오는 열매로 네 생명 유지해야 된다.’ 그렇게 저주하셨다고요. 땀 흘리지 않으면, 너 못 먹는다. 그랬어요.

 

그러니까 그 저주 아래에 있는 사람들은, 자기가 땀 흘려서 먹고 살아야 되기 때문에, 온 동네 사람이 다 자기의 경쟁상대예요. 그러니까 옆집 애가 공부를 좀 잘한다. 그러면은 배가 아픈 거예요. 우리 아이의 경쟁상대기 때문에! 내가 비즈니스 똑 같은 거 하는데 저 옆집이 나보다 더 돈 잘 벌면, 기분 나쁜 거예요. 저주 아래 있는 자들은 다 그렇다고요.

 

그런데 하나님의 은혜를 알고, 그 하늘의 것이 무엇인지를 알고, 그 영광을 맛본 사람들은요? 하늘의 뜻을 두고 사는 사람들은? 쓸데없이 그들과 경쟁하지 않아요. 그러면서 오른뺨을 맞았을 때, ‘그래, 왼뺨도 한 대 더 쳐! 네가 화가 풀린다면 왼뺨 한 대 더 쳐!’ 그러면서 그 상대방을 용서할 수 있는 경지까지 간다는 거예요. 그렇게 자라갈 수 있다는 거예요. 그 영광을 본 자만, 때린 자에게, ‘한 대 더 때려!’라고 용서하면서, ‘하나님! 우리가 우리에게 죄지은 자를 사하여 준 것 같이, 우리의 죄를 사하여 주옵소서!’라고 기도할 수 있는 거예요. 그 사람이!

 

그런데 내용을 잘 보면, ‘우리가 우리에게 죄 지은 자를 사하여 준 것 같이, 하나님 당신! 내가 한 것 보고, 그렇게 사하여 주옵소서.’ 그렇게 들리죠? ‘우리가 우리에게 죄 지은 자를 사하여 준 것 같이, 우리의 죄를 사하여 주옵소서!’ 그러잖아요? 마치 우리가 하나님의 모범이 먼저 되는 것처럼, 그렇게 들리잖아요? ‘우리의 죄를 사하여 주옵시고!’ 거기에는 완료형으로 쓰여 있거든요.

 

‘아팩카멘’이라는 그 단어를 썼는데, 이 셈족의 언어를 가장 잘 연구해 놓은 사람이, 바로 요아킴 예레미아스예요. 그 요하킴 예레미아스가 도대체 이 뜻이 무엇일까를 연구하다가, 이 시제를 그대로 아람어로 옮겼어요. 그래서 ‘아람어로 예수님이 이 이야기를 하셨을 때는, 어떤 뜻이 있었을까?’하고 아람어로 옮겨 보니까, 그 아람어에 이 완료형시제는, 동시적인 의미가 있는 거예요. 동시적인 의미! 다시 그 아람어로 변역을 해보니까, ‘하나님! 우리의 죄를 용서하여 주옵소서! 그와 동시에,’ 동시다발로 일어나는 거예요. ‘동시에 우리도, 우리에게 죄지은 자를 사하여 주겠습니다.’라는 내용이라고요.

 

그러면 여러분 잘 들어보세요. ‘하나님! 우리의 죄를 용서하여 주옵소서! 우리도 우리에게 죄 지은 자를 용서하겠나이다.’ 동시에 일어나는 거예요. 당신이 나를 용서해 주시면, 용서하겠다는 게 아니라! 그러면 ‘하나님! 나의 죄를 용서해 주옵소서!’라고 하면서, ‘내가 저 인간은 용서 도저히 못해!’라고 누구를 용서하고 있지 못하다면, 그 기도를 어떻게 드릴 수 있어요? ‘하나님! 나의 죄를 다 용서해 주시옵소서! 그런데 내가 요 인간에게 만큼은, 용서 못하겠습니다!’ 그러니까 ‘요 죄만 빼 놓고, 딴 죄는 용서해 주시옵소서!’ 그렇게 되는 거죠. 하나님께 엉터리 기도를 하게 되는 거예요.

 

‘하나님! 내 죄를 용서해 주시되. 요거는 잠깐 눈감아 주세요! 요거는 그냥 내가 끝까지 조거, 하여튼 조거 망하는 꼴 내가 보고, 그 다음에 내가 하나님 앞에 자주 갈 테니까, 요거는 잠깐 눈감아주시고, 나머지 꺼는 다 용서해 주세요!’ 그 뜻이 되잖아요? ‘하나님! 내 죄를 용서해주세요!’ 하려면, 다 하나님 앞에 내려놓고, 그리고 기도를 해야 되는데도 불구하고!

 

안 되죠? 그러니까 성경에서는, ‘네가 네 이웃을 용서하지 않고 오면, 하나님도 너를 용서하지 않는다.’ 그런다고요. 큰일 났어요. 그러면 우리는 하나님께 기도할 수 없어요. 그렇죠? 여러분 마음속에 용서 안 된 사람들 너무 많죠? 그러면 우리는 이 기도 할 수 없는 자들이에요. 마태복음 6장 14절 보겠습니다.

 

(마태복음 6:14-15)

14 너희가 사람의 과실을 용서하면 너희 천부께서도 너희 과실을 용서하시려니와

15 너희가 사람의 과실을 용서하지 아니하면 너희 아버지께서도 너희 과실을 용서하지 아니하시리라 (그래요.)

 

큰일 났죠? 마태복음 18장 35절에 동일한 이야기를 써 놓고 있습니다.

 

(마태복음 18:35)

35 너희가 각각 중심으로 형제를 용서하지 아니하면 내 천부께서도 너희에게 이와 같이 하시리라

 

용서하지 않겠다는 거예요. 어떠한 이야기의 결론으로 주어진 것입니까, 이게? 우리가 잘 아는 일만 달란트 빚진 자의 비유죠? 왕이 자기에게 일만 달란트 빚진 자를 데리고 와서, ‘갚아라!’ 그랬더니, ‘갚을 능력이 없습니다.’ 그랬어요. 일만 달란트는 어마어마한 돈이에요. 당시에! 그 베뢰아와 갈릴리 사람들이 로마에게 받쳤던 1년치 세금이 200달란트였거든요. 그러니까 일만 달란트는 한 개인에게는 어마어마한 돈이에요. 그러니까 도저히 갚을 수 없는 것을 상징하는 거예요. 일만 달란트!

 

일만 달란트 빚진 자를 왕이 용서해주었어요. 그랬더니, 나가다가 자기에게 빚진 한 동관을 만났는데, 200데나리온 빚진 자예요. 멱살을 잡고, ‘왜 안 갚아? 이놈아!’ 그래놓고, 옥에다가 갔다 처넣어 버렸어요. 그랬더니 그 왕이 그 소식을 듣고, 걔를 다시 불러서, ‘넌 내가 그렇게 큰 걸 용서해 주었는데, 너는 쟤도 하나 용서 못하냐? 얘가 이거 다 갚을 때까지,’ 일만 달란트! 인간이 갚을 수 없는 돈이라 그랬죠? ‘이거 다 갚을 때까지 옥에다 넣으라.’ 그랬다고요.

 

그 이야기는 뭐예요? 영원한 감옥에다 넣었다는 거예요. 지옥에 갔다는 거예요. 그래서 용서를 받은 자가, 누구를 용서를 못했다고 한다면, 그건 지옥에 간다는 거예요. 하나님은 도저히 그 사람! 용서 안 한다는 거거든요. 큰일 났어요. 점점! 예? 설상가상이에요. 그러면 우리는 어떻게 되는 거예요? 도대체?

 

지금 여기에서 유니온 크라이스트(Union Christ)가 또 동원이 되는 거예요. 그리스도와의 연합! 여러분은 예수님의 죽음에 동참한 자이고, 예수님의 그 부활에 그 동참한 자이고, 예수님의 33년의 삶이, 여러분의 삶이 된 사람들이에요. 그렇죠? 그래서 우리는 그 부활과, 죽음과, 그 겟세마네의 기도에까지, 동참한 자들이 되었죠? 그래서 우리는 ‘뜻이 하늘에서 이룬 것 같이, 땅에서도 이루어지이다.’라는 기도를, ‘하나님! 당신의 뜻대로 하옵소서! 내 뜻대로 마옵시고, 당신의 뜻대로 하옵소서!’라는, 예수 그리스도의 그 기도에 연합되므로 해서, 우리는 그런 기도로 드릴 수 있는 자가 되었다고 이야기했지 않습니까?

 

그러면 십자가 위에서 예수님께서, ‘하나님 아버지! 저들을 용서하소서! 저들이 지금 자기들이 하는 일이 뭔지를 알지 못합니다. 저들을 용서하옵소서!’라고 기도하실 때, 여러분은 어디 계신 거예요? 그 예수 그리스도 안에 계신 분들이에요. 여러분은? 용서를 하신 분들이라고요. 이게 말이 되는 거예요? 도대체! 이런 우리 이런 인간들이, 그 예수 그리스도의 삶에 동참해서, 그 십자가에서 세상을 용서해 버린, 그 용서에 동참을 한 자가 되었다는 게 말이 되냐고요? 그런데 하나님이 우리를 그렇게 취급해 주신다니까요. 그래서 용서를 한 자가 되었어요.

 

그래서 우리는 하나님 앞에 당당히 용서를 구할 수 있는 자게 된 거예요. ‘하나님! 내가 세상을 용서한 것처럼, 당신도 나를 용서해 주시옵소서.’라고 당당하게 기도할 수 있는 자가 된 거란 말이에요. 이 사실 앞에, 여러분들이 다른 뭘 또 구하겠다고 지금 그러는 거라 말이에요? 이 어마어마한 기적 앞에 말이에요? 우리는 용서한 자가 되어버렸어요. 그리고 당당하게 용서를 구할 수 있는 자가 되어 버렸어요.

 

그렇기 때문에 우리가 그 예수 그리스도의 삶에 동참하면서, 이웃을 실제로 이 삶 속에서 용서를 하면서, 살아가는 거예요. 용서를 이제 해야만 되는 거예요. 그리스도의 삶이 내 삶이 되었기 때문에! 아시겠습니까? 내가 용서를 해서, 하나님이 나를 예쁘게 봐주시는 게 아니라, 나를 ‘칭의(稱義)! 낫 길티(not guilty)! 너는 의롭다!’라고 해주셨기 때문에, ‘이미 너는 용서한 자다.’라고 이야기해주셨기 때문에, 우리는 용서를 하면서 가는 거예요. 비슷한말 같지만, 완전히 다른 거예요. 아시겠죠? 우리는 용서한 자가 된 거예요. 그렇게! 그래서 하나님 앞에, 주기도문을 드릴 수 있는 자가 된 거예요.

 

하나님은 이렇게 분명히, ‘네 형제 용서하지 못하면, 너 천국 못가!’ 그렇게 이야기했는데, 우리는 용서를 했다니깐요. 이것이 이해가 가는 사람은, 정말 거듭난 사람입니다. 여러분! 그게 ‘그리스도와의 연합’이라는 거예요. 그래서 우리의 삶 속에, 그런 용서를 하면서, 우리는 살아야 하는데, 그 용서를 한 번 두 번 해보다 보면요, 그 용서가 얼마만큼 우리를 자유롭게 해주는지, 여러분 알 수 있어요.

 

‘빠삐용’이라는 영화 보시면, 맨 마지막 장면에 어떤 장면이 나옵니까? 스티브 맥퀸! 팍 그 부표 같은 걸 던지고서, 더스틴 호프만하고 둘이 딱 서잖아요? ‘같이 가자!’ 내려다보니까 무서워요. ‘너 혼자 가!’ 스티브 맥퀸이 아홉 번째 시도예요. 그게 아홉 번째 시도! 쟁반 노래방이 아니라, 아홉 번째 시도에, 스티브 맥퀸이 그 절벽 아래로 딱 뛰어 내리잖아요. 내리면서 조류를 이용해서, 탈출에 성공을 해요. 그러면서 와! 승리의 그 환의의 손짓을 하죠. 막 손을 흔들죠. 더스틴 호프만한테!

 

그러니까 더스틴 호프만이 그러죠? 내려다보면서, ‘네가 아무리 이 악마의 섬을 탈출한다고 할지라도, 네가 네 마음속에 있는 너의 감옥으로부터 탈출하지 못한다면, 너는 영원히 감옥 속에 있는 거야!’ 그 명언(名言)을 남긴다고요. 안 보신 거예요? 이 명화를? 교양 필순데! 그러면서 이 ‘빠삐용’은 끝나죠.

 

이게 실화예요. 빠삐용이! 이 빠삐용이! ‘앙리 사리에리’라는 프랑스 사람인데요, 1930년에 20살 땐가 이 사람이! 하여튼 파리 시내에서 술을 마시고 있다가, 살인사건이 났는데, 한 검사가 자기의 유능함을 나타내기 위해서, 이 사람을 그냥 걸어버린 거예요. 그래서 온 빠리가, 프랑스가 이 검사에게 초점이 맞춰졌어요. ‘야! 유능한 검사다!’

 

그런데 이 검사가 앙리 사르에르가 범인이 아니라는 것을 알아요. 그럼에도 불구하고 자기가 유능한 검사라는 것을 입증하기 위해서. 다른 불량배등을 증인으로 동원해서, 이를 살인범으로 만들어서, 1941년에 사형선고를 내려버려요. 그리고서는 그 악마의 섬으로 보내버리는 거예요. 그러니까 스티브 맥퀸이 그렇게 계속 죽어가고 터지면서도 탈출하려고 하는 거예요. 억울하니까!

 

앙리 사르에르가 탈출한 다음에, ‘방코’라는 소설을 썼어요. 자전적 소설! 자기의 자서전이죠. 거기에서 그렇게 이야기 한다고요. 거기에서 탈출해서, 이 사람이 남미로 갔어요. 아르헨티나를 비롯해서 하여튼 남미를 전전하면서, 돈을 엄청 벌었어요. 그래서 60살인가 61살에, 프랑스로 돌아간다고요. 공소시효가 끝나니까! 왜 돌아가는 줄 아세요? 그 사람들 잡아 죽이려고 가요. 복수의 칼을 갈아서요. 그 검사하고, 거짓증언을 해서 자기를 사형선고를 받게 한 그 불량배를 다 죽이러 간다고요.

 

갔는데, 8일 동안 이제 자기의 어린 시절의 거리도 다녀보고, 사랑하는 사람들 가서 멀찍이서 그들의 삶을 보고 하면서, 그가 그 복수를 포기합니다. 그들을 용서해요. 그러면서 뭐라고? ‘방코’라는 책에다 써 넣은 지 아십니까? ‘나는 하나님께 이렇게 기도했다. 내가 복수를 포기한 대가로, 다시는 이런 비극이 생기지 않도록 해달라고 하나님께 기도했다. 그리고 나 자신에게 나는 속삭였다. 너는 이겼다! 친구여! 너는 자유롭고 사랑받는 미래의 주인공으로 여기 있다. 이 일에 관계된 모든 사람 중에, 네가 가장 자유롭고 가장 행복한 사람이다. 친구여!’ 그렇게 자기에게 이야기한다고요.

 

그리고는 자기는 자유함을 얻었대요. 그때까지는 돈도 많이 벌고, 열심히 살았는데, 유일한 목적은 복수였어요. 그런데 그들을 용서하고 나니까, 이제 그가 드디어 빠삐용이 된 거예요. 빠삐용은 나비란 뜻이거든요. 이제 훨훨 비로소 날게 된 거예요. 용서를 하고 나니까! 용서는 우리에게 유익이 되는 거예요. 하나님이 그래서 ‘용서를 하라!’ 그러는 거예요.

 

여러분! 우리가 주기도문을 공부하면서 잊지 말아야 할 것! 우리가 하나님께 청원하는 기도의 내용이에요. ‘하나님 나라가 임하게 해주옵소서! 그 뜻이 이루어지게 해 주시옵소서! 용서해주시옵소서!’ 청원하는 내용이지만, 이 주기도문의 내용은 동시에 서약이라고요.

 

하나님! 하나님나라가 임하게 해주시옵소서! 그 뜻은 뭐예요? ‘내가 그 나라가 임하면, 그 뜻에 순종하겠습니다.’라는 서약이에요. 당신의 뜻이 이루어지게 하옵소서! ‘나는 그 뜻에 내 몸을 맡기겠습니다!’라는 서약이라고요. 용서해 주옵소서! ‘나도 이웃을 용서하겠습니다!’라는 서약이란 말이에요. 그래, 여러분은 주기도문을 하면서, 계속해서 여러분은 그런 하나님 앞에, 서약을 드리는 거예요.

 

여러분! 아담의 범죄로 말미암아, 우리는 우리의 생명을, 스스로 유지하면서 살게 되었어요. 농사를 짓고, 땀을 흘려서, 그 땀의 열매인 양식으로 살게 되어 있습니다. 그러나 예수로 말미암아, 그 저주에서 풀려난 자들은, 하나님께서 주시는 하늘의 양식으로, 오늘을 살 수 있게 되었어요. 그리고 그렇게 살아야 하는 것입니다.

 

우리는 종말(終末)을 살아가는, 내일을 기다리는, 그리스도인인 것입니다. 그 새 하늘과 새 땅을 기다리는, 그리스도인이에요. 그래서 우리는 이 땅의 양식으로 사는 것이 아니라, 그 새 하늘과 새 땅! 그 내일의 양식을 달라고, 그 예수 그리스도로만 살게 해달라고 하나님 앞에, 기도를 하는 거예요.

 

그래서 우리는 그것으로 만족하며 살 수 있는 자들이기 때문에, 우리는 이웃을 용서하는 거예요. 시기하지 않는 거예요. 질투하지 않는 거예요. 그들을 사랑할 수 있는 거예요. 그게 그리스도인의 삶이에요. 그래서 ‘나도 이렇게 용서하는 자가 되었으니, 내 죄도 확실히 용서가 된 것을 나는 확신합니다. 하나님!’ 그렇게 하나님 앞에 신앙고백을 하는 것이, 바로 이 주기도문의 기도인 것입니다.

 

그러므로 ‘오늘날 우리에게 일용할 양식을 주옵시고, 우리가 우리에게 죄 지은 자를 사하여 준 것 같이, 우리의 죄를 사하여 주옵시고,’라고 기도하면서, 우리는 우리의 신분을 다시 한 번 확인하는 거예요. 그리고 ‘내일의 양식인 예수가 이렇게 내 안에 있기 때문에, 그 날은 속히 온다. 반드시 온다. 그리고 나는, 그 내일을 사는 자다! 나는 이 땅의 이방인이다! 이 땅을 살아가는 자 아니고, 천국을 살아가는 자다!’라고 확신하면서, 확인하면서, 그렇게 천국을 즐기고 누리면서 살아가는 거예요. 그게 주기도문을 하는 진의(眞意)라고요.

 

굉장히 어려운 것 같았는데, 어떻게 끌려오다 보니까, 결론이 여기까지 왔어요. 그죠? 지난주에 어떤 학생이 저한테, ‘굉장히 어려운거 같은데, 목사님 설교 듣고 있으면, 끝까지 따라가다 보면, 거기까지 와있대요. 확 걸린 것 같대요.’ 저한테 그냥 ‘이해하기 쉽게 잘 설명한다.’ 그러면 되는 거지, 뭘 그렇게 어렵게 얘기 해? 그거예요.

 

‘오늘날 우리에게 일용할 양식을 주옵시고, 우리가 우리에게 죄 지은 자를 사하여 준 것 같이, 우리의 죄를 사하여 주옵소서!’ 이 진의는 바로 그것입니다.