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見慣れない現実 본문
見慣れない現実
コリントの信徒への手紙二 4:16-5:10ç
まず4章16節から18節を見てみましょう.
16 それゆえ、私たちは落胆しません。私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日ごとに新しくされるからです。
17 私たちに今しばらくの軽い苦難が、計り知れないほど大きく永遠の栄光をもたらすからです。
18 私たちが目を留めるのは、見えるものではなく、見えないものです。見えるものは一時的ですが、見えないものは永遠なのです。
ここを見ると、使徒が私たちが落胆しない理由を詳しく説明しながら、対照的な二つのものを対比させていることがわかります。
外なる人と内なる人、そして一時的に受ける苦難の軽さと永遠の栄光の重さ、そして見えるものと見えないものです。
このように使徒は意図的にこれらを対比させながら、私たちがこの世の中で生き抜かなければならない現実と、神の現実がどのように異なるかを説明しています。
今日の講題は「見知らぬ現実」ですが、先ほどお話ししたこの神の現実は、私たちには非常に見知らぬものとして感じられます。ご存知のように、私たち人間は見えるものしか認識できません。
見えるものだけを信じるのです。これが全ての人間の限界です。
ですから私たちには、神を知ることや信じることが生まれつき不可能なのです。今日の中等部聖書勉強の時間でも見えないものについて話しましたが、見えないからといって存在しないわけではありません。私たちを助ける天使もいれば、悪なる悪魔もいます。しかし重要なのは、そうした霊的な存在たちが皆、聖徒である皆さんを仕えるために存在しているという事実です。
使徒は今日の本文18節で、私たちが注目すべきは見えるものではないと言い、また見えるものは一時的だと言います。
過ぎ去り、消え去るものだというのです。しかし見えないものは永遠だと言います。
見えないものが真の現実だという意味です。この言葉を言い換えると、私が見て、私が判断し、私が行動するのでなく、見えない永遠の現実が私たちの中に浸透するならば、私たちは見える世のものに縛られなくなるという意味です。
アダムから受け継いだこの目ではなく、神の視点からすべてを見て解釈し、また神によって完成されたもの、永遠の未来に属するものを仰ぎ見るようになり、それが実現することを願うようになるのです。
そしてそのために、見えるものしか見られないこの外なる人が必ず崩れ落ちる出来事が起こるのです。先ほど読んだ「私たちの外なる人は朽ちていくが、内なる人は日ごとに新しくされる」という聖句の内容がそれです。
そうして外なる人だけが朽ちて崩れ落ちるのではなく、それと共に神が造られた私たちの内なる人が日ごとに新しくされるのです。
これが異なる点です。私たちの外なる人が崩れるのは、世の人々も同じです。生老病死。年を取れば皆崩れます。
日ごとに衰えていくのです。しかし彼らには内なる人がいません。神が造られた内なる人、日ごとに新しくされる内なる人がいないのです。
このように私たちの内なる人が日ごとに新しくされ成長していくゆえに、聖徒はこの世の見えるもの、世で起こる出来事によって一喜一憂しなくなるのです。
これは本当に重要な言葉です。
「これがなければ死にそうだ」「私にこんな悪いことが起きませんように」…もちろんこうした考えは全て浮かびますが、聖徒には別のものがあるのです。
神が与えた内なる人は、そうしたものに縛られず自由になります。
なぜでしょうか?今からこの部分について説明しようと思います。
聖徒は今日の自分が原因となって明日がある人々ではありません。神の約束、神の支配の中にある私は、すでに黙示の中で聖く、傷のない息子として完成されているという真実の現実を知り、信じるゆえに、この世の生活で起こるどんな出来事によっても落胆したり、打ちひしがれたりしません。
これが信仰の中の世界です。私たちはそうする自信も能力もありませんが、信仰が私たちをその場所へと今導いています。
それを別の言葉で希望と言います。
だからパウロはローマ人への手紙8章で、私たちが希望によって救いを得たと述べています。
私たちがその希望を持つその状態こそが救いなのです。現在の救いです。
だから自分が世の屑、ゴミのようになり、塵に引かれていく敗残兵のようになろうとも構わないのです。
私には別の現実があるからです。今、死刑宣告を受けたかのように力に満ちた激しい苦難に遭いますが、そのすべてが私たちの内なる人を神のみに頼るようにさせるのです。
。死んだ者を再び生き返らせるその神のみに頼らせるためです。だから同じように苦労し、同じように苦難に遭っても…世の人々も皆苦労します。
そうした患難と苦難は全てあります。しかし解釈が異なるのです。
この全てが、私たちの内なる人を神のみに頼るようにさせるためなのです。
そしてそれらは、神が与えてくださる新しい命を生き抜かせるための全過程であるため、私たちは一つの体となった聖徒たちと共に喜び感謝することができるのです。
これは人には不可能ですが、神は必ずそうなさいます。
信仰の成熟のための苦難です。
ですから聖書が語る聖徒の苦難は、単なる苦難で終わるものではありません。目的があり理由があるのです。
私たちに授けてくださるイエスという宝、私たちの土の器に注がれたその永遠の命を享受し感謝するために与えられた苦難なのです。ですから私たちの外なる人は、そうして崩れ去らなければならないのです。注がれたその宝、イエスだけが完全に現れなければならないからです。
言い換えれば、私たちが救いを得たのは、それほど愛していた私の名が消され否定され、ただ主の名によって救われたという事実を、私たちに絶えず確認させる過程なのです。私が救われるのではありません。私が天国に行くのでもないのです。私のための救いではないということです。
私たちはこの救いさえも自分が所有しようとする貪欲さがありますが、聖書は私たちの救いは主のための救いだと言います。
そうして主の御名を喜ぶことが、私たちが造られた目的です。私たちの存在理由というわけです。
世の人々は皆、自分の名のために生きています。全ての意味が自分に還元されるというわけです。お金をたくさん稼ごうとする理由は何ですか?財閥たちは今も途方もなく多くのお金を持っているのに、いつも領域を拡大しようとしますよね。多くの力を持つ大国がなぜいつも小さな国を侵略し戦争を起こすのですか?皆が自分の名…自分の名と言っても必ずしも私だけを指すわけではありません。私の名の中には私の家族、私の学校、私の教会、私の会社、私の国… ワールドカップで自国選手がゴールを決めれば拍手喝采しますよね。そういうもの全てが私の名なのです。
しかしイエスを信じるということは、私の名が否定され消去され、イエスの名によって救われることです。イエスご自身がそう言われたではありませんか。二人三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいると。
ですから教会とは、大邱のソムナ教会、私たちの隣の大峰教会、愛の教会、オンヌリ教会を指すのではありません。そんな教会は存在しません。教会はただ一つ、イエス・キリストの体である教会だけが教会なのです。大韓イエス教などというものは、すべて人間が仕切りを作り名前を付けたに過ぎません。イエスの名のもとに集まるということは、一言で言えば私の名ではないという意味です。
そうしてイエスの名のもとに集まる時だけ教会なのです。ところが見てみると、皆自分の教会しか知りません。それどころか、出張や旅行に出かけても、十分の一献金は自分の教会に捧げなければならないと言います。本当に笑える話です。誰がそう教えたのか知りませんが、自分の教会など存在しません。私たち自身が教会なのです。キリストの体である私たち自身が教会だと言うのです。これは教会でもなく、寺でもないのに、教会だと屋根に十字架を掲げて…巫女の家に竹を掲げるように
このように世のすべての人間は自分の名のために生き、自己愛、自己崇拝で生きるため、自分の名に問題が生じるとそれを不幸と見なします。
生きる意味がなくなるのです。こうして人間は自ら意味を作りながら生きています。自分に還元される意味です。
しかし聖書はその状態を罪と言います。
自分しか知らず、自分だけを愛するそれが罪です。
そんな罪人たちが自分の名よりも主の名を喜ぶ?ありえません。
ところが聖書はそうは語りません。使徒パウロがコリントの信徒への手紙の最後に何と言っていますか?主を愛さないなら、呪われよ。
。これは深刻な話です。
皆さんは主を愛していますか?主を愛さなければ呪われるのです。使徒パウロがむやみにこんな話をしますか?主はご自身の民を、必ず主を愛さざるを得ない者へと造り変えていかれるのです。
そのために聖徒は一生を生きながら、自分の名が否定される出来事、自分を憎まずにはいられない出来事でその人生が刻まれます。
積み重なっていくのです。私たち自身では自己否認ができないからです。イエス様が私たちの代わりに成し遂げられた自己否認、神であるその方がこの地に赤子として来られ、世の人々に常に拒まれながら十字架で殺されるまでの、そのイエス様の自己否認の中に私たちを引き入れてくださったのです。結びつけてしまったのです。それが皆さんの人生です。そうしているうちに生きていく中で、絶えず『私には何の善も、何の義もない。愛すべきものなどないのだ」ということを繰り返し確認させられるのです。そのような者たちだけが主の御名を愛するようになるというのです。
「あなたの十字架の功績、十字架の恵みでなければ、私は何者でもありません。
あなたが流された約束の血でなければ、私は存在すらしません」という告白の場所まで、私たちを導いてくださるのです。そのような者たちだけが主の御名を喜ぶようになります。
考えてみてください。見えないイエス、神様を私たちがどうして愛せましょうか?愛することはできません。しかし、私たちが自分の中で主を愛するという告白が生まれるのは、まず主の愛が私たちに先立って注がれたからです。そして、私たちに与えられたこの御言葉はすべてイエスを証しする御言葉だと言いましたよね。この御言葉を私たちが真理として信じるのです。そうしてこの御言葉を愛するようになったのです。御言葉が蜜よりも甘く感じられるのです。この御言葉への愛こそがイエスへの愛です。主の御名を愛するということなのです。
このような奇跡のようなことは、神の種を持つ者たちだけに可能です。
私たち自身の努力で成し遂げられるものではありません。聖書を百回読んでもダメです。教会に一生通ってもダメです。創世以前より神の種を持つ者たちが別にいるのです。
そうして神の愛を受けた者たち、すなわち神の約束を持つ者たちは、必ず私たちの内に植えられたその種が発芽し成長し、ついに私たちの目が開かれ耳が開かれて、神の御言葉が真理として聞こえ、愛をもって信じられるようになるのです。
そうして神の約束、御言葉が一生涯私たちの生活に作用するため、私たちの一生に起こる全ての出来事と共に、私たちの外なる人が崩れ落ち、解体されていく中で、私たちの中に植えられたイエスという約束だけが完全に現れてくる、そんな過程、その全ての旅路を生き抜くことになるのです。
聖徒なら誰でもその過程を全て生き抜くことになっています。
私たちより先に歩んだ信仰の先輩たち、ヘブル人への手紙11章に出てくるあの悲惨な人生たち。皆さんご存知ですよね?洞窟や岩穴に、荒野をさまよい、山羊の皮の衣を着て暮らし、イナゴを食べ、剣で打ち殺され、牢獄に閉じ込められ、鋸で切られて死ぬ…しかし今日、イエスを信じるからといって、そんな目に遭う人はいませんよね。しかし、それと本質的に同じ出来事、すなわち私たちの自我と外なる人が解体される出来事が、皆さんの人生にも同じように起こるのです。
主は、それぞれの人に最も良いもの、最もふさわしいものを与えてくださるのです。
そうして外なる人が崩れ落ちる中で、私たちの内なる人が生き返ってくることを、新しい創造と言います。
そうして神は今も休むことなく、その働きを続けておられます。
世の終わりまで。
さて、こうなると、私たちの本性に逆らうその約束の力ゆえに、本当に嫌なものゆえに、神の御手、神の働きが私たちには苦難として感じられ、痛みとして感じられるから嫌なのです。私が築き上げた私の家庭、私の子供たち、私の教会、私の国、私の所有物… これら全てに私の名前が刻まれているのに、私が存在しているのに、そうしたものが一つずつ崩れ落ちる出来事によって私たちの人生が満たされるのですから、嫌ですよね。本当に嫌なのです。世の人々が最も嫌うのはそれです。いったい誰が自分の家庭が壊れ、自分の国を奪われ、自分の所有物が失われることを望むでしょうか?
このように私が構成している私の人生に亀裂が生じるのは、私の名では天国に行けないということを教えようとするためです。
天国は愛の御子の国ですから、私が構成している「私」という世界をそのまま持っては天国に行けないのです。天国は愛の御子たちだけが通る場所だからです。
御子の名によってのみ入る国です。
その御子の名、イエスの御名の前に、日々私の名が消されていく現実を生き抜くことが、先ほど読んだ4章10節「私たちがいつもイエスの死を身に負うのは、イエスのいのちがまた私たちの体に現れるためです」という御言葉です。そのために、患難と忍耐と鍛錬があなた方に備えられているのです。
ですから、イエスを信じれば良いことばかり起き、望むことが全て叶うという話は、全て世の偽預言者たち、宗教技術者たちの詐欺です。
そんなものはありません。イエスの命が現れるために必ず先に必要なのは、私たちのこの体、アダムから受けたこの肉的な自我、私の名が崩れ落ちる出来事です。
しかし私たち自身ではそれができないため、イエスの死、契約の死の中へ私たちを引き入れてくださったのです。
言い換えれば、イエスの死がまず私たちに分け与えられなければ、イエスの命も分け与えられません。
これが十字架なのです。
しかし、イエスの死が分け与えられるというこの前半部分をすっぽり抜き、イエスの命だけを貪ることを宗教と呼びます。
世の中のほとんどの教会、いや教会だけでなく寺もそうだし、イスラム教、ヒンドゥー教、あらゆる宗教がこれを貪っているのです。エデンから追放されたアダムの中には、ぽっかりと空いた空間があるからです。
何ものでも満たせない空虚な空間があるのです。なぜなら、アダムは神のかたちに造られたからです。神によってのみ満たされる空間があるのです。だからそれを満たそうとして人間が作り出したのが宗教です。
しかし聖書は必ずイエスの死、契約の死、創世以前に実行された小羊の血でなければ命はないと言います。
だからエデンのアダムは必ず園の中央にある善悪の知識の木の実を食べなければなりません。善悪の知識の木の実を食べて命の木であるイエスのもとに行き、イエスの中で完成されるアダムというのです。
新約の使徒の手紙を見ると、キリストは神の姿だと言っています。神の御姿であるキリストの中で完成されることが、神の御姿として造られた人間なのです。
このように4章8節から続く全ての出来事、すなわち押し潰され、息苦しい目に遭い、迫害を受け、捨てられ、倒されるといった全ての出来事にもかかわらず、私たちが落胆せず滅びないのは、神の新しい創造が今、私たちの内で行われていることを知っているからです。
使徒パウロが言うように、私は極度の苦難に遭い、まるで死刑宣告を受けたかのようでした。それでも私が滅びず、打ち倒されず、踏みつけられなかったのは、神が私の内にお働きになっていることを知っているからです。
その方はどんな神でしょうか?天地を創造された神、私たちに新しい命を与えてくださった神、そのイエスを通してすでに完成された神の国を私が知っているからです。それゆえ、もはや自分を頼らず、死者を生かす神だけを頼るようになるために、このすべてが与えられたというのが使徒パウロの証言です。
皆さんも同じです。むしろ、そのような絶望的な出来事、もはや自分に期待できなくさせるような出来事が起こらないなら、自分自身を一度点検してみるべきです。
聖徒なら誰でも例外なく、必ずそのような出来事が与えられるようになっています。
ここで「それゆえ」で始まる4章16節から5章7節に記された使徒の自己告白、すなわち私たちの本性、私たちの肉によって生きる私たちの外なる人は、私の努力と可能性で行ける天国、神と取引してでも、私のものを捧げてでも行こうとするあの天国、 一言で言えば、善悪の知識の木の実を食べたアダムの貪欲が発揮される宗教性ではなく、神が造られた私たちの内なる人が別に存在するのです。その内なる人は、ただ主の恵みのみ、主のその功績のみを固く握りしめるようになります。言い換えれば、主の血の功績でなければ、私は望みのない罪人の首領に他なりません。
主の十字架の中にのみ命があり安息があることを知った新しい人としての私が、イエスの命に出会い喜ぶのは、まさにその死が今も私の人生に、私の生涯に働いているからだという、目に見えないこの福音の現実を、永遠の栄光の重きものを、今日私たちに使徒が証言しているのです。
あなたたちも私と同じだ… あの患難の軽いものが永遠の重いものを成し遂げるために、一時的に私たちに与えられるものだから、力を出して起き上がれと…私を見よ…今、私がこうしてあなたがたに証言しているではないか…その話をしているのです。
このように単純に表面に現れた文字ではなく、表層的な意味ではなく、使徒が本当に私たちに伝えたいその心の内を、私たちが読み取らなければなりません。
これを真理の層と言います。
文字の層の下に隠された真理の層です。
まさに来るべきすべての世代の教会に、使徒が切に願って伝えたいその言葉を、私が今この本文を通して解き明かし、皆様にお伝えしているのです。
これがコリントの信徒への手紙二 4章全体の物語です。これで少しは理解できましたか?
4章が理解できたと信じて、5章1節から10節まで一節ずつ見ていきましょう。
1 もし地上の私たちの幕屋が壊れても、神が造られた家、すなわち人の手で作られたものではなく、天にある永遠の家が私たちにあることを知っています。
2 私たちは、この地上で嘆きながら、天から来る私たちの住まいをまとうことを切に待ち望んでいます。
3 このように着ることは、私たちが裸の者となって見られることのないためである。
4 確かに、この幕屋にいる私たちは、重荷を負うように嘆いているが、それは脱ぎ捨てたいからではなく、むしろ着替えたいからである。それは、死すべきものが命に飲み込まれるためである。
5 これを私たちに成し遂げてくださり、保証として聖霊を私たちに与えてくださったのは、神であられる。
6 それゆえ、私たちはいつも大胆である。からだにいる間は、主から離れていることを知っているからである。
7 私たちは信仰によって歩み、見えるものによって歩むのではないからである。
8 私たちは大胆であり、むしろからだを離れて主とともにいることを望んでいる。
9 それゆえ、私たちは、この体にいようとも、去ろうとも、主に喜ばれる者となるよう努めるのです。
10 なぜなら、私たちは皆、必ずキリストの裁きの座の前に現れ、それぞれが善悪に応じて、この体で行ったことに応じて報いを受けるからです。
このような告白、このような賛美は、使徒パウロだけのものではありません。皆さんにも、これと同じ告白が生まれるべきです。
ご存知のように、聖書にはもともと章節がありません。
これはずっと後になって作られたものです。ですから、4章18節と5章1節が別々の話をしているわけではありません。一緒に繋がって読むべきです。4章18節で語られている見えない永遠のものを慕う内容が、5章1節から続いているのです。天にある永遠の家が私たちにあることを知っているからこそ、地にある私たちの仮の住まいが崩れ去ることを感謝するのです。
これが4章16節と同じ意味なのです。これを5章7節で「私たちは信仰によって歩む」と言っているのです。
それゆえ私たちは信仰によって歩む。
信仰の中の世界。見えるものによって歩まないこと、見えるものに縛られないこと、永遠の重要なことが速やかに成就することを願うその希望、神が約束されたことが速やかに成就することを信じるその信仰。つまり私が望む私の人生ではなく、神の現実、 その永遠の現実に参与されるそれを、不便なこの体が荷を負うように苦しいこの幕屋の中にありながら、そう嘆きつつ天から来る住まいをまとうことを望むのは、すでに私たちの中に与えられた新しい命の約束が私たちの中で働いているからです。言い換えれば、その約束のない者たちはその望みもないのです。苦しい世の中をただどうにかして生き延びようとする生存本能だけがあり、永遠の命に対する望みはありません。この違いです。永遠の命と永遠の罰の違い
さて、この世を生きる私たちにとって、私たちの中に与えられたその約束が働かなければ、この5章1節から10節までの内容のように、使徒が生きているこの現実はどのように感じられるでしょうか?犬の草をむしゃむしゃ食べているような話だ…今日すぐに生きるのに忙しいのに、明日会社が倒産しそうなのに、何の戯言を言っているんだ…
このように聖書が語る永遠の現実は、私たちにはあまりにも見知らぬ遠く感じられます。
だから今日の講題が『見知らぬ現実』です。しかし聖書が語るこれが本当の現実だと言うのです。今私たちが生きるこの世の現実は、すべて過ぎ去るものです。しばらくして消えてしまうものなのです。だからヤコブ使徒は何と言いますか?あなたがたは、しばらく現れては消える霧だと言います。人生そのものが。
そうして神の約束が私たちの中で働くからこそ、パウロのような告白が私たちからも同じように生まれるのです。
いや、生まれなければならないのです。
しかし、このような話をすると、大抵の世の人々、さらには教会に通う宗教者たちまでもが批判します。
あまりに厭世的だと。あまりに世の現実を知らない話だと。ところが厭世的という言葉は、今の私の人生が苦しいから、苦しみを少し和らげ、もっと楽な世を願うことを指します。この厭世的という言葉の中には、依然としてその主体が私なのです。私が楽なこと、私が望む別の世。
しかし5章の本文で使徒が語るのは、私の幸福ではありません。神の約束の中にある私として、黙示の中で既に完成された私として、早く帰還することを願う希望です。
使徒パウロはすでに第三の天に上って戻ってきたのです。完成されたあの国を見てきたのです。その神の国への希望ゆえに、今この肉体をまとっている私は裸の自分だと言うのです。罪の報いとして死ぬべき者が約束された命に飲み込まれること、言い換えればキリストに覆われること、それが太初に神のかたちに造られたまさにその人であることを使徒は知っていたのです。
だから言葉に尽くせないあの栄光の御国、愛に満ちた御国、闇が少しもないあの御国を望んでいるのです。だから使徒は今すぐにでもこの体を離れて主と共にいる方が良いと言います。
しかし私がまだこの世にいるのは、ただ主の御名のためです。あなたがたに主の御名を証しするためです。
だからピリピ人への手紙で使徒パウロはこう語ります。
(ピリピ1章)
20 私の切なる期待と望みに従い、何事にも恥じることなく、今も以前と同じように、完全に大胆に生きても死んでも、私の体においてキリストが尊ばれるようにしたいのです。
21 なぜなら、私にとって生きることはキリストであり、死ぬことも益となるからです。
22 しかし、もし肉において生きることが私の仕事の成果であるなら、何をすべきか、私は知りません。
23 私はその二つの間に引き裂かれている。むしろ、この世を去ってキリストと共にいる方がはるかに良い。そうしたいと願うが
24 私が肉体に留まることは、あなたがたのためにより益となるであろう。
これがパウロだけでなく、すべての聖徒が人生を生きるべき理由と目的です。私の中にキリストが栄光を受けること。私の中に住まわれる方がキリストだということです。
皆さん、天国に行けば私の望みが満たされるような天国はありません。私たちが個人として行くのではありません。あの国では皆が神の子です。万人が私に仕え、私が万人に仕える場所、そうして神の栄光に満ちた場所が天国です。
それなのに宗教技術者たちは何と言うでしょうか?天国に行ったという証しをたくさんしますよね。そこに行くと誰かは百坪のマンションに住み、誰かは家も一軒もなく共同寮に住んでいたとか。それは全て私が住む場所じゃないですか。そんな天国はないと言っているのです。今生きている人生よりも、神の約束の中の私が先にいました。創世以前のあの私に戻るのです。全てが神の息子として、皆イエスに戻ります。だから人生を生きながら、私の内においてキリストが尊ばれること、そのキリストを学び、その名を高く掲げ、その名を証しし賛美するための私と皆さんの人生です。それを学び、戻るのです。
しかし、それが私たちの肉体には本当に嫌なのです。なぜ?私が否定されなければならないからです。生きる意味がなくなるのです。問題は、キリストが尊ばれ私が否定される人生を生きることは、私たちの選択ではないという事実です。キリストのものとして運命づけられたのは、私たちが存在する前から、創世以前だからです。その創世以前の約束は約束通り成就し、そのために神の顧みの中に私たちはいます。
簡単に言えば、私たちより先にあったのが約束です。神の約束ですから、その約束は必ず成就します。
私たちのどんな反抗や妨害にもかかわらず、その約束通りにのみ成就します。
それを知ることを平安と呼び、神の安息に与ったと言います。
神が6日間で天地を創造し、7日目に安息されましたよね。その神の最初の創造は、キリストにおいて完成される新しい創造を指す創造です。だから神の新しい創造を知った人々を、神の安息に与ったと言います。
この言葉は、もはや私にすべきことはないという意味です。それを指して、自分の仕事を休むと言います。
皆さん、生涯どれほど懸命に生きてきましたか?そうしてきたのに、イエスを知り、神の安息を知った今、ついに私の仕事を休むことができるのです。
その神を喜ぶこと。それがキリスト教の核心です。
しかし逆に、その神を知らなければどうなるでしょうか?弱肉強食の世界の中で、ジャングルの法則が通用するこの世で生き残ろうと、死ぬ日まで必死にもがくことになります。
そうしているうちに、突然訪れる唯一の現実である死を迎えるのです。その時ではもう遅すぎます。
だからこそ、神の聖徒たちには、イエスの死が繰り返される、その死に絶えず引き渡される出来事によって満たされるのです。
使徒が語る日々における死です。
彼らだけが肉の死を恐れないのです。
そうして信仰の分量に応じて、成長に応じて、そこにふさわしいだけの患難と苦難が共に与えられます。
こうして私たちがその恵みの栄光の賛美となっていくことが神の約束であり、今も私たちの中で働いている約束です。
私たちは世に見えるものには賛美すべきものがないが、見えない黙示において成し遂げられたもの、すでに完了したものを知るゆえに、それを待ち望み、それを慕う人生を今生きているのです。
そうして主の御手によって私たちが賛美となっていくのです。
賛美歌の本を開いて歌うことが賛美ではなく、あなた方自身が賛美だということです。
神の目にはあまりにも美しい賛美、神が喜びを抑えきれないような賛美へと変えられていくのです。新しい創造です。
神の御手によって。これが見えるものを追い、見えるものを人生の目標とする世の宗教家たちとの違いです。
このように神の民は、すでに完了した黙示と歴史を重ねて生きるため、人生は苦しいものです。
私が計画した人生が私の力で順調に達成され、その結果も私の手に握られるなら幸せなのに、聖徒にはそれができません。なぜ?黙示から攻撃される人生を生きるからです。
この歴史そのものがそうです。歴史そのものが黙示から常に攻撃される歴史です。だからキリスト教の歴史観は否定的歴史観です。
なぜなら、歴史の終わりは何ですか?終末があるから、裁きを受ける歴史だからです。
楽観論的な歴史ではないのです。
私たちの古い人は、このような神のご働きを嫌います。自分が否定されるのも嫌いで、見えないものを望むのも嫌いで、ただこの見える世界と世の力を追い求める、そうして地を志向する、絶えず地に向かう地向性(ちこうせい)が私たちの外なる人の本性だからです。そのようなアダムから受け継いだ肉、肉的な自我を捨て去ることが信仰生活なのです。
そうして無の最初の場所から創造が起こるからです。
しかし今日の本文で使徒は何と言っていますか?4節を見ると、そのような外なる人を脱ぎ捨てようとするのではないと言います。
非常に重要な言葉です。
脱ぎ捨てようとするのではなく、重ね着しようとするのだ。
つまり、私が自ら内に存在する否定的で不純なものを次第に取り除き、清く完全な私が神の前で堂々と立つことこそが宗教の本質なのです。キリスト教だけでなく、あらゆる宗教がそうです。
そうして神は、そんな私に助けを与える役割だけを担うことになる。
結局、あらゆる修行を通して神との合一に至り、永遠の命に至る、そんな主体としての私…これが宗教人というものです。アダムから生まれた者たちは皆、宗教人なのです。
しかし神の救いの方法は、アダムから受け継いだこの肉体の本性を消し去ることではなく、私たちの人生を通じてそれらが作用し、私たちの中で激しい戦いが繰り広げられ、その戦いの結果として私たちがイエスの死に引き渡されることまで、そうしてイエスの命に覆われることまでが、神の顧み、神の働きなのです。
一言で言えば、イエス様の十字架の恵みだけを必ず握りしめることになるその必然性です。
本当に驚くべきことではありませんか?普遍的な自然人としては成し得ない、神の強権的な愛なのです。
私と皆さんは今、この現実を生きています。これが世とは異なる現実だということです。
このように神の約束が、福音の力が私たちの内に働くように、罪の勢力もなお私たちの肉体に作用することを許されるのが、まさに神の救いの方法です。これを使徒は4節で、この幕屋にいる私たちが重荷を負うように嘆いていると言います。
使徒パウロでさえ、自分の体に対してそれほど絶望し嘆いたのです。重い荷を負ったかのように。しかし、そのすべての過程が、死ぬべきものが命に飲み込まれる中で現れる恵みであり、恵みの栄光であり、キリストの勝利であったのです。それゆえ、その保証として聖霊を私たちに与えられたので、使徒は常に大胆でいられたのです。
自分自身にも、この世にも、何の期待も抱きません。
私たちがイエスを信じるというのは、一言で言えば自分を信じないことです。イエスを信じるということは、イエスだけを信じることです。
世も信じず、自分も信じず、自分の子も信じず、もちろん配偶者も信じず、イエスだけを信じるのです。私たちは常に神の前に単独者として立ちます。
神との関係に、誰も割り込むことはできません。それなのに、世の教会には主と私たちの間に牧師がいますよね、教会がありますよね、様々なプログラムがありますよね。なぜでしょうか?見えないイエスを信じられないから、神の代理者という牧師を信じるのです。だからどこかに霊的な主のしもべが現れたと言えば、皆がどっと群がり、何かのリバイバル集会に飛び回り、山の祈りに駆け回る…しかしイエスを信じるという言葉は、主と私との一対一の関係を意味します。それがなければ、常に不安なのです。
使徒は結論として7節でこう語ります。
「私たちは信仰によって歩み、見えるものによって歩むのではない」…この御言葉の前では、世の宗教はすべて打ち砕かれるのです。信仰、見えるものによって歩まないこと、これが神の種を持つ聖徒の歩みというのです。ここで「見えるもの」とは何でしょうか?世のことです。朽ち、汚れ、衰えるもの。そのようなものに縛られないのです。
それゆえ聖徒は、世にはない生ける希望を持つようになり、それを天に備えられているものと言うのです。
あなたがたのために、すでに神が備えておられるもの。彼らだけが、見えるものによって歩むことをしなくなるのです。
(Ⅰペテロ1章)
23 あなたがたが新たに生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からである。それは、生きていて永遠に存続する神の言葉によるのである。
24 それゆえ、すべての肉体は草のようで、そのすべての栄光は草の花のようだ。草は枯れ、花は散る。
25 しかし、主の言葉は永遠に存続する。あなたがたに伝えられた福音こそ、この言葉である。
ここにも種が出てきますね?種とは何と言っていますか?神の言葉、約束です。
しかし、このような言葉で慰められ感謝すべきなのに、聞きたくなく避けたい言葉になることもあります。
私たちの人生そのものが言葉によって否定されるからです。私たちがどんな栄光を持っても草の花のようだとされるのですから。しかし、このような言葉で慰められる人は、神の御手によって患難の中にある人です。
私たちが読んだ4章16節から5章10節までのすべての御言葉に「アーメン」と言える人は、今も外なる人が朽ちていき、内なる人が日ごとに新しくされる新しい創造の中にある聖徒たちなのです。
表に現れた文字の層ではなく、使徒が本当に私たちに伝えたい言葉を聞ける人々、その言葉が力となり真理となる人々は、今もなお御言葉によって私たちの外なる人が解体される過程を経験している人です。
ですから、自分の計画が順調に進む人、この世に希望を持つ人々は、このような本文の御言葉を本当に無視したくなります。
私の夢が叶うまでは、こんな言葉は無視するつもりだ イエス様とも距離を置きたい… 私はこんな風になってはいけない…あれは使徒パウロの話であって、私とは関係ないじゃないか…
私はこのコリントの信徒への手紙二の箇所を、世の教会の牧師たちがどのように説教するのか一度聞いてみたい。この言葉が世の人々にとって希望となる言葉でしょうか?不運な話だから、だから塩を持ってきて振りかけろと言うのではないでしょうか?聖書には他の言葉もたくさんあるのに、祝福の話、天国の話、前向きで希望を与える話を聞かせてくれない。いつも死ぬ話、十字架の話ばかり。しかし聖書は私たちを正常な存在とは見ていないのです。罪人がむやみに罪人ではないというわけではありません。
生きていると思い込んで生きている人間たちに、あなたがたはイエスの死でなければ永遠の死だということをまず正直に伝えることが、聖徒が当然担うべき職分なのです。
繰り返しますが、明らかなのはこの世の主人は人間ではないということです。
人間はいつも勘違いして生きています。人間が住みやすいようにある世界ではないのです。ペテロは何と言っていますか?この世は焼き尽くすために保存されている世界だと言っています。この世に歴史があるなら、神の約束の歴史、贖いの歴史が別にあります。しかしそれを知らなければ、世の成り行きに流されて生き、世と共に滅びるだけです。
ペテロの言葉のように、この世が焼き尽くされるために保存されているなら、すでに火がついた世の中です。世は燃えているのです。聖徒はこの世の終わりを生きているのです。終末を生きているとは、世の外からすでに焼き尽くされる世を見ることができるということです。皆さん、火災現場でまずすべきことは「火事だ!」と叫んで脱出することですよね? しかし、まだこの世に未練があって根を下ろし、よく生きようと、毎日貿易協定がどうだの、戒厳令がどうだの、戦争がどうだの、為替レートがどうだの… 皆さん、すでに世の外に移された人々です。世の外から世を見ることができる人々です。世は皆さんに解釈されるために存在しています。だから教会を解釈共同体と呼ぶのです。
この世と歴史を解釈できる唯一の人々が聖徒です。しかし世の中にいる人々は世を見ることができません。世の実体を知らないからです。この世の実体を見られる人々は、すでに世の外に移された人々です。彼らによって世が解釈されるのです。そして彼らによって裁かれるのです。ノアの時代のように。
世の歴史の主人は神です。
ペテロの手紙第一の御言葉の通り、御言葉だけが永遠であり、御言葉通りにのみ進む世の歴史です。
それを知らずに自分の人生を生きる者たちを、聖書は「人生だけの者」と言います。
人生しか知らない哀れな者たちという意味です。
彼らには生ける希望がありません。
言い換えれば、主があなたの人生をあなた自身に生きさせようと放っておかれたのです。世だけを見て生き、世と共に滅びを受ける怒りの子ら、彼らには天から来る住まいがありません。
新しい命、新しい体がないのです。今も死んだまま生き、永遠の死へと入るだけです。
しかし聖徒は彼らとは違い、自分自身に徹底的に絶望した人々です。パウロはローマ書で何と言っていますか?この死の体から、誰が私を救い出してくれるだろうか…どれほど自らに絶望していれば、自分を死の体と呼べるでしょうか。この死の体とはどういう意味かと言えば、私には確かに神が造られた新しい人が存在するのに、この新しい人がアダムから受け継いだ古い人と共に、がっちりと縛り付けられているというのです。ローマ時代において最も残酷な刑罰とは、人を殺した者が、その殺した者と死体を一緒に縛りつけることです。そうして共に朽ちていくのです。
これが死の体です。パウロが語った死の体とはこれです。生まれ変わった私が、アダムから出た死の体と共に縛られているのです。
これが聖徒の自己認識です。
そのような聖徒だけが主の体と同じ復活の体をまとうことになるでしょう。
パウロはコリント人への第一の手紙15章で、使徒はこう証言します。
「この朽ちるべきものは朽ちないものを着、この死ぬべきものは死なないものを着る。
この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、死を飲み込んで打ち負かすと書かれた言葉が成就するであろう」..
このように聖徒は、天の体、約束されたその体を着ることを切に待ち望む人生を送ることになります。
その体を知っているから、その約束を知っているから、その待ち望み、その希望のために、この世の患難と迫害と奪い取りが聖徒に与えられるのです。
その希望のために。それらがあってこそ忍耐が与えられ、鍛錬が与えられて、ついに希望が成就されるのです。
忍耐とは、歯を食いしばって耐えるようなものではありません。ここで言う忍耐とは、神の長い忍耐、神の忍耐を私たちが学ぶという意味です。
皆さん、人生において神の長い忍耐がどれほどであったかを一度振り返ってみてください。神のその長い忍耐がなかったなら、皆さんが今この場所にいられるでしょうか?神の忍耐、その赦しを知ることが私たちの忍耐です。そのような聖徒たちだけが、見えるものではなく見えない希望によって救いを成し遂げるのです。
このような救いの現実をローマ書8章で使徒はこう証言します。
(ローマ8章)
24 私たちは望みによって救われたのです。見える望みは望みではありません。
見える世界から私たちの目が上に向けられるのです。
見えるものを誰が望むでしょうか。
この言葉は、すでに目に見えない永遠のものに目が開かれた者たちがいるという意味です。
25 もし私たちが目に見えないものを望むなら
その約束が私たちの中で働いているなら、どうすべきでしょうか?
忍耐をもって待ち望むのです
神の定められた時まで、その忍耐の年月が聖徒の人生です。聖徒の人生全体がその忍耐の年月なのです。待ち望む年月というものです。
早くこの肉体を脱ぎ捨て、明るく輝くあの夜明けの光の中で、私たちが新しい体で主に出会うその日。早く行きたいでしょう?皆、表情がそうじゃないけど。笑 執事さん、私たちの子供たちを早く育てて、結婚させるのも見たいし、孫も見たいし、そうでしょう?
しかし使徒は、このような切なる願いのためにこの世が必要だと言います。
私たちの望みが成就するために、私たちの忍耐と鍛錬のために、この世はその役割を果たさねばなりません。
この世の中には何が入っているかご存知ですか?私の家族、私の子供、私の職場、私の教会まで全て含まれます。
ある意味では実に悲しいことですね。
だからコリントの信徒への手紙一3章では「万物はあなたがたのものである」と言います。
この世の万物がすべてあなたのためにあるというのです。私たちの聖さと、私たちの義と、私たちの子としての完成のために、世は世の終わりまで存在しなければなりません。
ですから、力を出し、よく生きていればよいのです。
そうして世に奪われるすべてのものを通して、ついに私たちは内に秘められたあの約束、あのイエスを見出し、そのイエスのみを誇ることになります。
「イエス様、あなたさえいれば十分です。私はイエスだけで足りるのです」
…この告白を引き出すまで、世は世の役割を果たさねばなりません。
そうしてイエス以外に誇るべきものがない者として造り上げていかれることが、神がご自身の民に向けた御手配なのです。それが神の助けなのです。だから聖徒の人生は世から見れば失敗作に映りますが、それが神の成功であることを聖徒本人は知っています。
キリストのみを高め、その主権を喜ぶこと、そうして主を喜ばせることを楽しむこと、その方のみが尊ばれることを願うこと、それがキリストの裁きの座の前で、善悪の区別のもと、その身をもって行ったことに対する報いとなるのです。
皆様ご存知のように、すべての人間は建築者です。自らの人生、自らの世界を築き、その中で生の意味を見出そうとするのが私たち人間です。
しかし聖徒には、自らの手で建てたのではない天の家があります。私たちが新しい体をまとい永遠に生きるその家、私たちの神ご自身が備えられた家、いや神ご自身がその家なのです。
(黙示録21章)
3 すると、玉座から大きな声が聞こえてきた。「見よ、神の幕屋が人々と共にあり、神は彼らと共に住まわれる。彼らは神の民となり、神ご自身が彼らと共にいて、
4 彼らの目から涙をすべてぬぐい去られる。もはや死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。最初のものはすべて過ぎ去ったからである。」
5 座しておられる方が言われた。「見よ、わたしは、すべてのものを新しくする。」また言われた。「これらの言葉は真実で、確かなものである。書き記せ。」
6 また、わたしに言われた。「成し遂げられた。わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。渇いている者に、わたしのいのちの水の泉を、ただで与えよう。
7 勝利を得る者は、これらのものを相続する。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。
8 しかし、恐れる者、信じない者、悪を行う者、殺す者、姦淫する者、魔術を行う者、偶像を拝む者、偽る者、すべての人々は、火と硫黄の燃える池に投げ込まれる。これが第二の死である。
ここで硫黄の火の池に入る者とは誰のことでしょうか。まず、恐れる者たちです。なぜ恐れるのでしょうか。この世で自分の家を建てるために苦労したのに、それが崩れるのではないかと常に恐れているのです。常に不安の中で生きているということです。そして、イエスの主権を信じない者たち。蛇の言葉、欺く言葉、偽りであり汚れた言葉を真理として持っている者たち。この世を愛し、この世と姦淫した者たち、そうして一生を神のように生きてきた者たち、彼らがこの地に来られた神を殺害した者たちです。自己という偶像だけを崇拝した者たち、アダムから受け継いだ善悪の肉で生きる者たちです。
だから彼らは、悪魔のために備えられた火の池に、悪魔と結びついて入っていくのです。
以前にも申し上げましたが、地獄は神が私たち人間のために造られたものではありません。悪魔のために備えられた火の池です。では、その火の池の地獄に入る者は誰でしょうか?悪魔と一体となった者たちが入るのです。私たちが天国に行くのも、キリストと一体となって行くのです。私が主体となって、私の信仰によって私が行く天国などありません。
ですから、私が過ちを犯し、失敗し、多くの罪を犯したから行く地獄も存在しないのです。罪人には罪しか生まれないのです。
そのような行いによって裁かれるのではなく、神が与えてくださった信仰によって、神が義と認めてくださるゆえに、私たちは救われるのです。
地獄に行く者たちは、その義がないゆえに裁かれるのです。このようにして神の言葉が成就されることを、神の栄光と呼びます。
ですから地獄もまた神の栄光なのです。
ところが今日の本文10節の御言葉を、宗教技術者たち、人間本位に染まった宗教人たちが実に奇妙に解釈します。
何と言うかと言えば、この世の中でその体で行ったことがキリストの審判の座の前で全て明らかにされるのに、そうしてこの世で行ったことが天国の家を建てる材料になると言うのです。
実際にそう説教します。信仰は神の御業であり、その御業を聖徒の行いとして認めてくださることを知らないので、各自が神の御業にどんな功績があるか、どう教会に忠実だったかなどが全て家を建てる材料となり、天国の家が建てられると言います。
だから宗教活動を多くした人々、伝道を多くした人々、建築献金を多くし牧師をよく仕えた人々は天国で広い家に住み、生涯一人も伝道できなかった人々は自分の家がないから天国で合宿所に住むのだというのです。これが今日の大韓イエス教の水準です。
それでは、見てみましょう。
120年間も箱舟を造りながら、世の人々を一人も伝道できず、全人類が全滅し、自分の家族だけを箱舟に乗せたノアは、天国に自分の家がないだろう。ノアも共同宿舎に住むのか?これはキリスト教ではないという話です。
本当に他の宗教よりもレベルが低いのです。
改めて申し上げますが、私たちが永遠に住む天の家は、私たちの労苦や熱心で建てる家ではありません。神の労苦、神の熱心、そして神の犠牲によって建てられた家なのです。
それなのに、罪に汚染された人間たちは、そんな神を認めたくないのです。天国も私の汗一滴が入って、私の献金一銭が入って、私の労苦が入って、私のものとして得る天国、保険を入れるように私の手に握る救いを望み、ただ恵みによってのみ与えられるものを嫌うのです。恵みは口にしながら、本当の恵みが与えられるなら嫌うのが人間です。
このように罪に汚染された人間たちは、聖書の神、その恵みの神を嫌います。
だからイエス様がこの地に来られて、イスラエルの神殿を否定しながら「私が三日のうちに新しい神殿を建てよう」と言われたとき、神への冒涜として告発して処刑してしまったのです。人間が建てたのではない別の神殿を語ったことが、死に値する罪目になったというのです。ところがイエス様が死んで三日のうちに復活され、聖霊を送られたとき、イエス様こそがその神殿であることと、その方が送られた聖霊によって約束された住まいがすでに用意されていたことを ことを弟子たちもその時になって初めて知ったのです。
こうして聖霊を受けた者は、自分がキリストの中にあって神が住まわれる神殿となることを現実として知るのです。
私たちがその神殿なのです。
このように、世の人間たちが何の役にも立たないと捨てた石こそがイエス・キリストでした。
そして神は、人間が嫌がって捨てたその石を用いて新しい家を建てられたのです。その石が礎となり、その石と繋がって、私たちが神の家として建てられたのです。
その家がまさに神の子の血の上に建てられた家です。神の犠牲、神の奉仕によって、そうして神の国が完成したのです。
それなのに、今日礼拝堂を建てながら何と言うでしょうか?聖殿建築と言いますか?あれは聖殿ではありません。
ただの礼拝堂であり、不動産です。最近ではまた仏教の瓦仏事にならって、礼拝堂を建てる時に煉瓦に名前を書きます。皆、見せかけだけのことをしているのです。彼らは聖殿が何であるかを知りません。神がなぜイスラエルに聖殿を建てよと言われたのかも知りません。イエスが建てられた真の聖殿について全く無知なのです。
聖殿には前に「聖なる」という字が付きますよね。つまり聖なるものに対する概念そのものが間違っているのです。昔は牧師が説教する講壇に女性はむやみに上がれませんでした。聖なる場所だからです。礼拝堂の中にも聖なる場所が別にあったのです。牧師たちがガウンを着るのはなぜですか?区別するためです。聖職という意味です。聖なる職分が別に存在するというのです。聖殿の聖職、聖具、聖餐…このように聖なる言葉が乱用されるため、聖書が語る聖なる意味を皆誤解しています。日曜学校の時からそう教えられてきたからです。
しかしペテロの手紙第一では何と書いていますか?「あなたがたは皆、王のような祭司である」と。
宗教改革が起きたのはそのためです。カトリックに反発して、聖職など存在しない、すべての聖徒は聖職者であり、皆が王のような祭司だと。
。しかしそれが百年も経たずに再び元に戻ってしまいました。なぜ?世俗的だからです。いつか機会があれば、聖さについての講話を一度したいと思っています。聖さに対する誤解がそれほど深刻なのです。
聖さについて誤解しているから、聖霊についての誤解も非常に深刻です。
神が造られた家は、必ず人間の罪を明らかにしながら現れる家です。ですから、神殿を安易に好んではいけません。神の家は、人間は誰一人として入ることのできない家です。では誰が入るのですか?血の注ぎを受けた愛の息子たちだけが入ります。旧約でも祭司が聖所に入る時、血を持って入るじゃないですか…神の約束の中にある者、御子の血の注ぎを受けた者、イエスの死が分かち合われた者だけが通れる神の家というのです。そしてその国はすでに天に完成しており、私たちを待っておられるあの父の家へ帰らせてくれるこの世の患難と終末の激しい風が、皆さんを襲うのです。
そうして世の押し出しがなければ、私たちは父が待っておられるあの家をあまり望みません。
行きたいと思いません。しかし世は私たちにこの世に根を下ろさせないように…なぜ?私たちの根は天にあるからです。この世に根を下ろしたくても下ろせないようにするのです。主の手が根元から切り落とされることが、ご自身の聖徒たちへの顧みなのであります。
そうして終末、私たちが生きているこの世の終わりには、私たちをこの世から連れ去るための終末の激しい風が皆さんを襲います。
その時、落胆したり座り込んだりせず、上から与えられるあの住まいを望みながら一日一日を生き抜くようにと、使徒が私と皆さんに慰めの言葉を贈るのが今日の聖句です。
ですから、私たち自身を飾り立てた人生を生きるのではなく、人生の中で汚れたものを脱ぎ捨てようとするのではなく、私たち自身ではそれらを脱ぐことができないことを知り、たとえ私たちの体を焼かれるように差し出しても決して自ら清くなれないことを知るからこそ、私たちは天から与えられるその住まいを身にまとうことを望み求めるのです。
どうかこの体ではなく、神が備えられたあの体で着せてください…その望みゆえに、私たちの人生が孤独で険しい旅路を歩むことになっても、それが聖徒に許された真の祝福であることを知るゆえに、使徒はすべての書簡の冒頭で教会のための神の恵みと平安を祈っているのです。
そうして私たちの神は、私たちを引き裂いて作り変え、飾り立ててから愛してくださるのではないのです。神は私たちの罪人としての姿そのままを愛してくださる神であることを知らなければなりません。
だから、こんな姿でどうして神の愛を受けられるのかと、自らを検閲し観察し、引き裂いて作り変えようとするのはやめなさい。それは宗教家たちがすることです。では私たちは何なのか?このような私の姿にもかかわらず、神がまず私たちを愛してくださり、私たちに御子をお与えになったというその愛、その恵み。それを信じるのです。
私たちのこの体は朽ちる体です。
しかし私たちには永遠の天の住まいが備えられています。別の体があるのです。この世の中の幕屋、朽ちる家をもう修理するのはやめてください。
もう飾るのをやめなさい。そんな私から離れ、今こそ私を解放する時が来たのです。私たちが住むべき場所は、この世ではないのです。
私たちが生きるものは人生ではなく、永遠の命です。私たちが住む永遠の住まいとは、主の御胸なのです。ですから、その御胸に戻るまで、父の御胸に抱かれるまで、私たちはやむを得ず嘆きの生涯を歩むことになります。
私たちだけでなく、あの国が来るまで、この世のすべてのものが共に嘆きながら待っていると、ローマ書に書いてあります。神の子が現れるまで。
しかし、肉をまとった私たちは、まだこの体への未練を捨てきれず、崩れゆく幕屋、消えゆく世の中がすべてであるかのように生きる時があまりにも多いため、聖霊は今も言葉にできない嘆きをもって、私たちのために神に執り成しておられます。
それゆえ、御子のとりなしどおりに私たちの人生は導かれているのです。
崩れない永遠の幕屋、あの天の希望のために、今日も主は眠ることなく、休むこともなく、私たちが世を離れるその患難と迫害と圧迫と苦しみを与えておられるのです。それが愛です。痛みを伴う愛。私たちに目を覚ましていなさいと。彼を通して私たちは少しずつ、信仰について、愛について、希望について、二週間の子犬のように目を開くようになります。
見ることで行わなくなるその信仰、神の神であられることにすべてを委ねるその信仰が、私たちの残りの人生に完全に働くことができますように。
祈ります。
父なる神よ、私たちはまだこの世に生きています。
アダムから受け継いだこの肉体で世を生きるこの世の生き方が、どれほど痛く、苦しいか分かりません。
しかし主よ、私たちには世にない生ける希望をお与えくださいました。
すでに成し遂げられたあの国、そこで私たちの主と永遠を共にするその希望を許してくださいました。私たちの残りの日々がその希望で日々満たされ、その希望が力となって、その信仰によってこの世を十分に打ち勝つことができるよう助けてください。そうして私たちの主の愛が日ごとに大きく高く広く深く見える、そのような霊的な祝福がありますように。ただ希望の中に残された日々を軽やかに生き、去っていく聖徒たちとなれますように。私たちの主イエス・キリストの御名によって祈ります。
アーメン。
낯선 현실
고린도후서 4:16-5:10
먼저 4장 16절에서 18절 보겠습니다
16 그러므로 우리가 낙심하지 아니하노니 우리의 겉사람은 낡아지나 우리의 속사람은 날로 새로워지도다
17 우리가 잠시 받는 환난의 경한 것이 지극히 크고 영원한 영광의 중한 것을 우리에게 이루게 함이니
18 우리가 주목하는 것은 보이는 것이 아니요 보이지 않는 것이니 보이는 것은 잠깐이요 보이지 않는 것은 영원함이라
여기 보면 사도가 우리가 낙심하지 않는 이유를 쭉 설명하면서 상반되는 두 가지를 대비하는 것을 볼 수 있습니다. 겉 사람과 속사람, 그리고 잠시 받는 환난의 경한 것과 영원한 영광의 중한 것, 그리고 보이는 것과 보이지 않는 것입니다. 이렇게 사도는 의도적으로 이것들을 대비하면서 우리가 세상 속에서 살아내야 하는 현실과 하나님의 현실이 어떻게 다른 지를 설명하고 있습니다.
오늘 강론 제목이 ‘낯선 현실’인데요, 방금 말씀드린 이 하나님의 현실이 우리에게는 무척 낯설게 느껴지는 거예요. 여러분이 아시다시피 우리 인간은 보이는 것밖에는 인식하지 못합니다. 보이는 것만 믿는단 말이에요. 이게 모든 인간의 한계입니다. 그래서 우리에게는 하나님을 아는 것과 믿는 것이 태생적으로 불가능해요. 오늘 중등부 성경 공부 시간에도 보이지 않는 것들에 관해서 이야기했는데, 보이지 않는다고 해서 없는 게 아니잖아요. 우리를 돕는 천사도 있고 악한 마귀도 있어요. 그런데 중요한 건 그런 영적 존재들이 다 성도 여러분을 섬기기 위해서 있다는 사실입니다.
사도는 오늘 본문 18절에서 우리가 주목하는 것은 보이는 게 아니라고 하고, 또 보이는 건 잠깐이라고 말합니다. 지나가는 것이고 사라질 것이라는 거죠. 그러나 보이지 않는 건 영원하다고 합니다. 보이지 않는 게 진짜 현실이라는 뜻이에요. 이 말을 바꾸면 내가 보고 내가 판단하고 내가 행동하는 게 아니라 보이지 않는 영원한 현실이 우리 안에 침투하게 되면 우리가 보이는 세상 것들에 매이지 않게 된다는 뜻입니다. 아담에게서 받은 이 눈이 아니라 하나님의 시각에서 모든 것을 보고 해석하고 또 그분에 의해 완료된 것들, 영원한 미래에 속한 것들을 바라보게 되고, 또 그것이 이루어지기를 바라게 된다는 것입니다.
그리고 그 일을 위해서 보이는 것밖에 보지 못하는 이 겉 사람이 반드시 무너져 내리는 일들이 발생한다는 거예요. 아까 읽은 우리의 겉 사람은 낡아지나 우리 속사람은 날로 새로워진다는 본문 내용이 그것입니다. 그렇게 겉 사람만 낡아지고 무너져 내리는 게 아니라 그와 함께 하나님이 지으신 우리 속사람이 날로 새로워집니다. 이게 다른 거예요. 우리 겉 사람이 무너지는 건 세상 사람들도 똑같죠. 생로병사. 늙으면 다 무너집니다. 날로 후패해져 간단 말이에요. 그런데 그들에게는 속사람이 없어요. 하나님이 지으신 속사람, 날로 새로워지는 속사람이 없어요.
그렇게 우리 속사람이 날로 새로워지고 자라나므로 해서 성도는 이 세상 보이는 것들, 세상에서 일어나는 사건들로 인해서 일희일비하지 않게 됩니다. 참 중요한 말입니다. ‘이거 없으면 죽을 거 같아.’ ‘내게 이런 나쁜 일이 제발 안 생겼으면 좋겠어.’.. 물론 이런 생각은 다 들지만, 성도에겐 다른 게 있단 말입니다. 하나님이 주신 속사람은 그런 것들에 매이지 않고 자유 하게 됩니다. 왜일까요? 지금부터 이 부분에 관해서 설명하려고 합니다.
성도는 오늘의 내가 원인이 되어서 내일이 있는 사람들이 아니에요. 하나님의 약속, 하나님의 다스림 안에 있는 나는 이미 묵시 안에 거룩하고 흠이 없는 아들로 완성되어 있다는 진짜 현실을 알고 믿기에 이 세상살이에서 발생하는 어떤 사건들로 인해서 낙심하거나 주저앉지 않습니다. 이게 믿음 안의 세계예요. 우리는 그렇게 할 자신도 능력도 없지만, 믿음이 우리로 하여금 그 자리로 지금 이끌어 가고 있습니다. 그것을 다른 말로 소망이라고 합니다. 그래서 바울은 로마서 8장에서 우리가 소망으로 구원을 얻었다고 합니다. 우리가 그 소망을 가진 그 상태가 바로 구원이라는 거예요. 현재적 구원이죠.
그래서 자신이 세상의 찌끼, 쓰레기같이 되고 미말에 끌려가는 패잔병같이 되어도 괜찮다는 겁니다. 나에게는 다른 현실이 있으니까요. 지금 사형 선고를 받은 것처럼 힘에 넘치는 심한 고난을 당하지만 그 모든 것이 우리 속사람으로 하여금 하나님만 의지하게 하신다.. 죽은 자를 다시 살리시는 그 하나님만 의지하게 하심이라.. 그러니까 똑같이 고생하고 똑같이 고난당해도.. 세상 사람들도 다 고생합니다. 그런 환난과 고난이 다 있어요. 그런데 해석이 다르단 말입니다. 이 모든 것이 우리 속사람으로 하여금 하나님만 의지하게 하심이다.. 그리고 그것들은 하나님께서 주시는 새 생명을 살아내게 하시는 모든 과정이기에 우리는 한 몸 된 성도들과 함께 기뻐하고 감사할 수 있다는 것입니다. 이게 사람으로는 불가능하지만, 하나님은 반드시 그렇게 하십니다. 신앙의 성숙을 위한 고난입니다.
그러니까 성경이 말하는 성도의 고난은 단순히 고난으로 끝나지 않아요. 목적이 있고 이유가 있단 말입니다. 우리에게 담아주시는 예수라는 보배, 우리 질그릇에 담아주신 그 영원한 생명을 누리고 감사하기 위해서 주어진 고난인 거예요. 그러니까 우리 겉 사람은 그렇게 무너지지 않으면 안 돼요. 담아주신 그 보배, 그 예수만 오롯이 드러나야 하기 때문입니다. 다시 말해서 우리가 구원을 얻은 것은 그렇게 사랑했던 내 이름이 삭제되고 부정되면서 오직 주의 이름으로 구원받았다는 사실을 우리로 하여금 계속 확인시켜 주는 과정이에요. 내가 구원받는 게 아니에요. 내가 천국 가는 게 아니라니까요. 나를 위한 구원이 아니라는 말입니다. 우리는 이 구원마저도 내가 소유하려는 탐심이 있지만, 성경은 우리의 구원이 주를 위한 구원이라고 합니다. 그렇게 주의 이름을 즐거워하는 게 우리가 지음을 받은 목적이에요. 우리 존재 이유란 말입니다.
세상 사람들은 모두 자기 이름을 위해서 살아요. 모든 의미가 나에게 되먹임된단 말이에요. 돈을 많이 벌려는 이유가 뭐예요? 재벌들은 지금도 어마어마하게 많은 돈을 가지고 있는데도 자꾸 영역을 확장하려고 하잖아요. 많은 힘을 가진 큰 나라들이 왜 자꾸 작은 나라를 침략하고 전쟁을 일으킵니까? 모두가 자기 이름.. 자기 이름이라고 해서 꼭 나만 해당하는 게 아니에요. 내 이름 안에는 내 가족, 내 학교, 내 교회, 내 회사, 내 나라.. 월드컵에서 우리나라 선수가 한 골을 넣으면 박수치고 야단나잖아요. 그런 게 전부 내 이름이에요.
그런데 예수를 믿는다는 말은 내 이름이 부정되고 삭제되고 예수 이름으로 구원받는 거예요. 예수님이 직접 그러셨잖아요. 두세 사람이 내 이름으로 모인 곳에 나도 함께 있겠다고 말입니다. 그러니까 교회는 대구 서머나교회, 우리 옆에 대봉교회, 사랑의 교회, 온누리교회를 말하지 않아요. 그런 교회는 없어요. 교회는 딱 하나, 예수 그리스도의 몸 된 교회만 교회예요. 대한 예수교 그런 건 모두 인간들이 칸막이를 하고 이름을 붙였을 뿐이에요. 예수 이름으로 모인다는 건 한마디로 내 이름은 아니라는 뜻입니다. 그렇게 예수 이름으로 모일 때만 교회예요. 그런데 보면 전부 자기 교회밖에 몰라요. 심지어 보면 밖에 출장이나 여행을 가더라도 십일조는 내 교회에 해야 한대요. 참 웃긴다니까요. 누가 그렇게 가르쳤는지 모르지만, 내 교회라는 건 없어요. 우리 자신이 교회예요. 그리스도의 몸인 우리 자신이 교회란 말이에요. 이건 교회도 아닌 것이 절간도 아닌 것이 교회라고 지붕에 십자가 걸어놓고... 무당집에 대나무 걸듯이
이렇게 세상 모든 인간은 자기 이름을 위해서 사는데, 자기 사랑, 자기 숭배로 살기에 자기 이름에 문제가 생기면 그것을 불행으로 여깁니다. 살맛이 안 나는 거죠. 이렇게 인간들은 스스로 의미를 만들면서 살아요. 자기에게 되먹임되는 의미입니다. 그런데 성경은 그런 상태를 죄라고 합니다. 자기밖에 모르고, 자기만 사랑하는 그것이 죄입니다.
그런 죄인들이 자기 이름보다 주의 이름을 더 즐거워한다? 있을 수 없습니다. 그런데 성경은 그렇게 이야기하지 않아요. 사도 바울이 고린도전서 제일 마지막에 뭐라고 합니까? 주를 사랑하지 않거든 저주를 받을지어다.. 이거 심각한 이야기예요. 여러분은 주님을 사랑합니까? 주님을 사랑하지 않으면 저주를 받는다니까요. 사도 바울이 괜히 이런 이야기를 하겠어요? 주님은 자기 사람들이 반드시 주님을 사랑할 수밖에 없는 자로 만들어 가시는 것입니다.
그를 위해 성도는 일평생을 살면서 자기 이름이 부정되는 사건들, 자기를 미워할 수밖에 없는 사건들로 그 인생이 점철됩니다. 쌓여간단 말이에요. 우리 스스로는 자기 부인이 안 되니까요. 예수님이 우리 대신 하신 자기 부인, 하나님이신 그분이 이 땅에 아기로 오셔서 세상 인간들에게 늘 배척당하면서 십자가에서 살해당하시기까지의 그 예수님의 자기 부인 안으로 우리를 끌어들이신 거예요. 연합시켜 버렸다니까요. 그게 여러분들의 인생이에요. 그러다 보니 살아가면서 계속 ‘나에게는 어떤 선한 것도 어떤 의로운 것도 없구나. 사랑할 만한 것이 없구나.’ 하는 것을 반복적으로 확인당하게 되는 거예요. 그런 자들만 주의 이름을 사랑하게 된다는 말입니다. ‘당신의 십자가 공로, 십자가 은혜가 아니면 나는 아무것도 아닙니다. 당신이 흘리신 약속의 피가 아니면 나는 존재도 아니에요.’ 이 고백의 자리까지 우리를 끌고 가시는 거예요. 그런 자들만 주의 이름을 즐거워하게 됩니다.
생각해 보세요 안 보이는 예수, 하나님을 우리가 어떻게 사랑합니까? 사랑할 수 없어요. 그런데 우리가 우리 안에서 주님을 사랑한다는 고백이 나오게 되는 건 먼저 그분의 사랑이 우리에게 마중물로 부어진거에요 그리고 우리에게 주신 이 말씀이 모두 다 예수를 증거하는 말씀이라고 했잖아요. 이 말씀을 우리가 진리로 믿는단 말이에요. 그렇게 이 말씀을 사랑하게 된 거예요. 말씀이 꿀보다 달게 느껴진단 말이에요. 이 말씀사랑이 바로 예수 사랑이에요. 주의 이름을 사랑하는 거란 말입니다.
이런 기적 같은 일들은 하나님의 씨가 있는 자들만 가능합니다. 우리 스스로 노력해서 되는 게 아니에요. 성경을 백독해도 안 돼요. 교회 평생 다녀도 안 돼요. 창세 전부터 하나님의 씨가 있는 자들이 따로 있단 말입니다. 그렇게 하나님의 사랑을 받은 자들, 즉 하나님의 약속이 있는 자들, 그들은 반드시 우리 안에 심겨져 있는 그 씨가 발아하고 자라나서 마침내 우리 눈이 열리고 귀가 열려서 하나님의 말씀이 진리로 들리고 사랑으로 믿어지게 됩니다.
그렇게 하나님의 약속, 말씀이 일평생 우리 삶에 작동하기에 우리 일생에 일어나는 모든 사건과 함께 우리의 겉 사람이 무너져 내리고 해체되어 가면서 우리 안에 심겨져 있는 예수라는 약속만 오롯이 드러나게 되는 그런 과정, 그 모든 여정을 살아내게 되는 것입니다. 성도라면 누구나 그 과정을 다 살아내게 되어 있습니다. 우리 앞서간 믿음의 선배들, 히브리서 11장에 나오는 그 처참한 인생들. 여러분 다 아시죠? 동굴과 암혈에, 광야에 유리하고 염소 가죽옷을 입고 살고 메뚜기 먹고 칼에 맞아 죽고 옥에 갇히고 톱에 켜져 죽고.. 그런데 오늘날은 예수를 믿는다고 해서 그렇게 되는 사람은 없잖아요. 그러나 그와 동일한 본질의 사건들이, 우리 자아와 겉 사람이 해체되는 사건들이 여러분 인생에 똑같이 일어난단 말입니다. 주께서 각자에게 가장 좋은 것으로, 가장 적합한 것으로 주어지는 거예요.
그렇게 겉 사람이 무너지면서 우리의 속사람이 살아 올라오는 이것을 새 창조라고 합니다. 그렇게 하나님은 지금도 쉬지 않고 그 일을 계속하십니다. 세상 끝 날까지.
자, 이렇게 되면 우리 본성을 거스르는 그 약속의 능력 때문에, 정말 싫은 그것 때문에, 하나님의 손길, 하나님의 작업이 우리에게는 고난으로 느껴지고, 아픔으로 느껴지기 때문에 싫단 말이에요. 내가 형성해 놓은 내 가정, 내 새끼들, 내 교회, 내 나라, 내 소유.. 이 모든 것에 내 이름이 들어있는데, 내가 들어있는데, 그런 것들이 하나씩 무너져 내리는 사건들로 우리 인생이 채워지니까, 싫죠. 정말 싫은 거예요. 세상 사람들이 가장 싫어하는 게 그거예요. 어느 누가 내 가정이 깨지고, 내 나라가 빼앗기고, 내 소유가 날아가는 것을 원하겠습니까?
이렇게 내가 구성하고 있는 내 인생에 균열이 생기는 건 내 이름으로 천국에 가지 못한다는 걸 가르치시기 위함입니다. 천국은 사랑의 아들의 나라니까 내가 구성하고 있는 ‘나’라는 세계를 그대로 가지고는 천국 가지 못한다는 거예요. 천국은 사랑의 아들들만 가는 곳이기 때문입니다. 아들의 이름으로만 들어가는 나라입니다. 그 아들의 이름, 예수 이름 앞에 날마다 내 이름이 삭제되는 그 현실을 살아내는 것이 아까 읽은 4장 10절 “우리가 항상 예수의 죽음을 몸에 짊어짐은 예수의 생명이 또한 우리 몸에 나타나게 하려 함이라”는 말씀이에요. 그일을 위해 환란 인내 연단이 여러분에게 준비되어 있는 것입니다.
그러니까 예수 믿으면 좋은 일만 생기고 원하는 게 다 이루어진다고 하는 건 모두 세상 거짓 선지자들, 종교 기술자들의 사기입니다. 그런 건 없어요. 예수의 생명이 나타나기 위해서 반드시 먼저 있어야 하는 게 우리의 이 몸, 아담에게서 받은 이 육적 자아, 내 이름이 무너져 내리는 사건입니다. 그런데 우리 스스로는 그것을 할 수 없기에 예수의 죽음, 언약의 죽음 안으로 우리를 끌어들이셨습니다. 다시 말하면 예수의 죽음이 먼저 우리에게 나누어져야만 예수의 생명도 나누어집니다. 이게 십자가예요.
그런데 예수의 죽음이 나누어진다는 이 앞부분을 쏙 빼고 예수의 생명만 탐하는 것을 종교라고 합니다. 세상 대부분 교회, 아니 교회뿐 아니라 절도 그렇고, 이슬람 힌두교, 모든 종교는 다 이것을 탐하지요. 에덴에서 쫓겨난 아담 안에는 텅 빈 공간이 있기에 그렇습니다. 그 무엇으로도 채울 수 없는 빈 공간이 있어요. 왜? 아담은 하나님의 형상으로 지음을 받았기 때문에. 하나님으로만 채워지는 공간이 있단 말이에요. 그래서 그것을 채워보려고 인간들이 만든 게 종교입니다.
그러나 성경은 반드시 예수의 죽음, 언약의 죽음, 창세 전에 실행된 어린양의 피가 아니면 생명이 없다고 합니다. 그래서 에덴의 아담은 반드시 동산 중앙에 있는 선악과를 먹어야 해요 선악과를 먹고 생명나무인 예수께로 가서 예수 안에서 완성되는 아담이란 말입니다. 신약 사도의 서신을 보면 그리스도는 하나님의 형상이라고 하죠. 하나님의 형상인 그리스도 안에서 완성되는 게 하나님의 형상으로 지음받은 사람인 거예요.
이렇게 4장 8절부터 나오는 모든 사건, 즉 욱여쌈을 당하고, 답답한 일을 당하고, 박해를 받고, 버린 바 되고, 거꾸러뜨림을 당하는 등의 모든 사건에도 불구하고 우리가 낙심하지 않고 망하지 않는 것은 하나님의 새 창조가 지금 우리 안에 이루어지고 있음을 알기 때문입니다. 사도 바울이 그러잖아요. 내가 극심한 고난을 당해서 마치 사형 선고를 받은 것 같았다고. 그런데도 내가 망하지 않고 거꾸러뜨림을 당하지 않고 짓밟히지 않은 것은 하나님이 내 안에서 일하고 계심을 알기 때문이다. 그분은 어떤 하나님이다? 천지를 창조하신 하나님, 우리에게 새 생명을 주신 하나님, 그 예수를 통해서 이미 완성된 하나님 나라를 내가 알기 때문에.. 그래서 더 이상 나를 의지하지 않고 죽은 자를 살리시는 하나님만 의지하게 하기 위해서 이 모든 것이 주어졌다는 게 사도 바울의 진술입니다.
여러분도 마찬가지예요. 오히려 그런 절망적인 사건들, 더 이상 내게 기대할 수 없게 만드는 사건들이 일어나지 않거든 자기 자신을 한번 점검해 봐야 합니다. 성도라면 누구나 할 것 없이 반드시 그런 사건들이 주어지게 되어 있습니다.
여기 ‘그러므로’로 시작하는 4장 16절에서 5장 7절에 나오는 사도의 자기 고백, 그러니까 우리 본성, 우리 육체로 살아가는 우리 겉 사람은 나의 노력과 가능성으로 갈 수 있는 천국, 하나님과 거래해서라도, 내 것을 바쳐서라도 가려고 하는 그 천국, 한 마디로 선악과 따먹은 아담의 탐심이 발휘되는 종교성이 아니고, 하나님이 지으신 우리 속사람이 따로 있는데, 그 속사람은 오직 주의 은혜만, 주님의 그 공로만 꼭 붙들게 되는, 다시 말해서 주님 피의 공로가 아니면 저는 가망 없는 죄인의 괴수 맞습니다. 주님의 십자가 안에만 생명이 있고 쉼이 있음을 알게 된 새 사람으로서의 내가 예수 생명을 만나고 즐거워하는 그것은 바로 그 죽음이 지금도 내 삶에, 내 인생에 역사하기 때문이라는 보이지 않는 이 복음의 현실을, 영원한 영광의 중한 것을 오늘 우리에게 사도가 증언하고 있는 것입니다. 너희도 나와 마찬가지야.. 그 환난의 경한 것이 영원의 중한 것을 이루어지게 하기 위해서 잠시 우리에게 주어지는 것이니까 힘내서 일어나라고.. 나를 봐라.. 지금 내가 이렇게 너희들에게 증언하고 있잖아.. 그 이야기를 해주고 있어요.
이렇게 단순히 겉으로 드러난 문자 말고, 겉으로 드러난 표피적 의미 말고 사도가 진짜 우리에게 말하고 싶은 그 속 마음을 우리가 읽을 수 있어야 합니다. 이것을 진리의 층이라고 합니다. 문자 층 밑에 숨겨진 진리의 층입니다. 정말 오고 오는 모든 세대의 교회에 사도가 간곡하게 부탁하고 싶은 그 말을 제가 지금 본문을 통해 풀어서 여러분에게 전해드리고 있는 것입니다. 이게 고린도후서 4장 전체의 이야기예요. 이제 이해가 좀 되시지요?
4장이 이해됐다고 믿고 5장 1절에서 10절까지 한 절씩 살펴보겠습니다.
1 만일 땅에 있는 우리의 장막 집이 무너지면 하나님께서 지으신 집 곧 손으로 지은 것이 아니요 하늘에 있는 영원한 집이 우리에게 있는 줄 아느니라
2 참으로 우리가 여기 있어 탄식하며 하늘로부터 오는 우리 처소로 덧입기를 간절히 사모하노라
3 이렇게 입음은 우리가 벗은 자들로 발견되지 않으려 함이라
4 참으로 이 장막에 있는 우리가 짐 진 것 같이 탄식하는 것은 벗고자 함이 아니요 오히려 덧입고자 함이니 죽을 것이 생명에 삼킨 바 되게 하려 함이라
5 곧 이것을 우리에게 이루게 하시고 보증으로 성령을 우리에게 주신 이는 하나님이시니라
6 그러므로 우리가 항상 담대하여 몸으로 있을 때에는 주와 따로 있는 줄을 아노니
7 이는 우리가 믿음으로 행하고 보는 것으로 행하지 아니함이로라
8 우리가 담대하여 원하는 바는 차라리 몸을 떠나 주와 함께 있는 그것이라
9 그런즉 우리는 몸으로 있든지 떠나든지 주를 기쁘시게 하는 자가 되기를 힘쓰노라
10 이는 우리가 다 반드시 그리스도의 심판대 앞에 나타나게 되어 각각 선악간에 그 몸으로 행한 것을 따라 받으려 함이라
이런 고백, 이런 찬송이 사도 바울만의 것이 아니에요. 여러분에게도 이와 동일한 고백이 나와야 해요.
여러분이 아시다시피 성경은 원래 장절이 없습니다. 이건 한참 나중에 만든 건데, 그래서 4장 18절과 5장 1절이 다른 이야기를 하는 게 아니에요. 같이 연결해서 읽어야 해요. 4장 18절에서 말하는 보이지 않는 영원한 것을 사모하는 내용이 5장 1절부터 이어지는 거예요. 하늘에 있는 영원한 집이 우리에게 있는 줄을 알기 때문에 땅에 있는 우리 장막집이 무너져 내리는 것을 감사한다. 이게 4장 16절과 같은 뜻이란 말이에요. 이것을 5장 7절에서 우리는 믿음으로 행한다고 하는 것입니다. 그러므로 우리는 믿음으로 행한다. 믿음 안의 세계. 보이는 것으로 행하지 않는 것, 보이는 것에 매이지 않는 것, 영원한 중한 것이 속히 이루어지기를 바라는 그 소망, 하나님이 약속하신 것이 속히 이루어질 것을 믿는 그 믿음. 그러니까 내가 원하는 내 인생이 아니라 하나님의 현실, 그 영원한 현실에 참여되는 그것을 불편한 이 몸이 짐 진 것 같이 힘든 이 장막 속에 있으면서, 그렇게 탄식하면서 하늘로부터 오는 처소로 덧입기를 원하는 것은 이미 우리 안에 주어진 새 생명의 약속이 우리 안에 작동하고 있기 때문이다 바꾸어 말하면 그 약속이 없는 자들은 그 소망도 없는 거예요. 힘든 세상 그냥 어떻게 해서든지 살아내려는 생존 본능만 있지 영원한 생명에 대한 소망은 없어요. 이 차이예요. 영생과 영벌의 차이
자 그런데 이 세상을 사는 우리에게는 우리 안에 주신 그 약속이 일하지 않으면 이런 5장 1절부터 10절까지 내용처럼 사도가 살고 있는 이 현실이 어떻게 느껴질까요? 개 풀 뜯어먹는 소리 하고 있네.. 오늘 당장 살기 바쁜데, 내일 회사가 부도날 판인데 무슨 헛소리를 하느냐..
이렇게 성경이 말하는 영원한 현실은 우리에게는 너무 낯설고 멀게만 느껴집니다. 그래서 오늘 강론 제목이 ‘낯선 현실’이에요. 그러나 성경이 말하는 이게 진짜 현실이란 말에요. 지금 우리가 사는 이 세상 현실은 다 지나가는 것들이에요. 잠시 있다가 없어지는 것들이죠. 그래서 야고보 사도가 뭐라고 합니까? 너희들은 잠시 보이다가 없어지는 안개라고 해요. 인생 자체가.
그렇게 하나님의 약속이 우리 안에서 작동하기 때문에 바울과 같은 고백이 우리에게도 동일하게 나올 수 있습니다. 아니 나와야 해요.
그런데 이런 이야기를 하면 대부분 세상 사람들, 심지어는 교회 다니는 종교인들까지도 비판합니다. 너무 염세적이라고. 너무 세상 현실을 모르는 소리라고. 그런데 염세적이라는 말은 지금 내 인생이 고생스러우니까 고생 좀 덜 하는, 좀 더 편한 세상을 염원하는 것을 말해요. 이 염세적이라는 말 안에는 여전히 그 주체가 나예요. 내가 편한 것, 내가 원하는 다른 세상.
그러나 5장 본문에서 사도가 말하는 것은 나의 행복이 아니에요. 하나님의 약속 안에 있는 나로, 묵시 안에 이미 완료된 나로 어서 돌아가기를 바라는 소망입니다. 사도 바울은 이미 삼층천에 갔다가 왔잖아요. 완료된 그 나라를 보고 왔다니까요. 그 하나님 나라에 대한 소망, 그래서 육을 입고 있는 지금의 나는 벌거벗은 나라고 해요. 죄의 삯으로 죽을 것이 약속하신 생명에 삼킨 바 되는 것, 다시 말하면 그리스도로 옷 입게 되는 것, 그것이 태초에 하나님의 형상으로 지음을 받은 바로 그 사람이라는 것을 사도는 알았던 것입니다. 그래서 말할 수 없는 그 영광의 나라, 사랑으로 충만한 나라, 어둠이 조금도 없는 그 나라를 소망하는 거예요. 그래서 사도는 지금 당장이라도 이 몸을 떠나서 주와 함께하는 것이 더 좋다. 그러나 내가 아직 세상에 있는 것은 오직 주의 이름을 위해서다, 너희들에게 주의 이름을 증거하기 위해서다. 그래서 빌립보서에서 사도 바울이 이렇게 이야기합니다.
(빌 1장)
20 나의 간절한 기대와 소망을 따라 아무 일에든지 부끄러워하지 아니하고 지금도 전과 같이 온전히 담대하여 살든지 죽든지 내 몸에서 그리스도가 존귀하게 되게 하려 하나니
21 이는 내게 사는 것이 그리스도니 죽는 것도 유익함이라
22 그러나 만일 육신으로 사는 이것이 내 일의 열매일진대 무엇을 택해야 할는지 나는 알지 못하노라
23 내가 그 둘 사이에 끼었으니 차라리 세상을 떠나서 그리스도와 함께 있는 것이 훨씬 더 좋은 일이라 그렇게 하고 싶으나
24 내가 육신으로 있는 것이 너희를 위하여 더 유익하리라
이게 바울뿐 아니라 모든 성도가 인생을 살아야 하는 이유와 목적이에요. 내 안에 그리스도가 존귀하게 되는 것. 내 안에 사시는 분이 그리스도란 말이에요.
여러분, 천국에 가면 내가 원하는 것이 충족된 그런 천국 없어요. 우리 개인으로 가는 게 아니에요. 그 나라에서는 전부 하나님의 아들들이에요. 만인이 나를 섬기고 내가 만인을 섬기는 곳 그렇게 하나님의 영광으로 충만한 곳이 천국입니다. 그런데도 종교 기술자들이 뭐라고 합니까? 천국 다녀왔다는 간증들 많이 하잖아요. 거기에 가니 누구는 백 평짜리 맨션에 살고 누구는 집도 한 채 없이 합숙소에 살더라. 그건 전부 내가 사는 거잖아요. 그런 천국은 없다니까요. 지금 사는 인생보다 하나님 약속 안의 내가 먼저 있었어요. 창세 전의 그 나로 돌아가는 거예요. 전부 다 하나님의 아들로 다 예수로 돌아가요. 그래서 인생 살면서 내 안에서 그리스도가 존귀하게 되는 것, 그 그리스도를 배우고 그 이름을 높이고 그 이름을 증언하고 찬송하기 위한 저와 여러분의 인생이에요. 그거 배우고 돌아가는 거예요.
그런데 그게 우리 육신으로는 참 싫은 거예요. 왜? 내가 부정되어야 하니까. 살맛 안 나는 거죠. 문제는 그리스도가 존귀하게 되고 내가 부정되는 인생을 사는 게 우리 선택이 아니라는 사실이에요. 그리스도의 것으로 운명지어진 것은 우리가 있기도 전, 창세 전이기 때문에 그 창세 전 약속이 약속대로 이루어지게 되고 그것을 위해서 하나님의 돌보심 안에 우리가 있습니다. 쉽게 말하면 우리보다 먼저 있었던 게 약속이에요. 하나님의 약속이기 때문에 그 약속은 반드시 이루어집니다. 우리의 어떤 반항이나 방해에도 불구하고 그 약속대로만 이루어집니다.
그것을 아는 것을 평안이라고 하나님의 안식에 참여되었다고 합니다. 하나님이 6일간 천지를 창조하시고 7일째 안식하셨잖아요. 그 하나님의 첫창조는 그리스도 안에서 완성되는 새 창조를 가리키는 창조예요. 그래서 하나님의 새 창조를 알게 된 사람들을 하나님의 안식에 참여되었다고 합니다. 이 말은 이제 내가 할 일이 없다는 뜻이에요. 그것을 두고 자기 일을 쉰다고 합니다. 여러분 평생 얼마나 열심히 살았습니까? 그랬는데, 예수를 알고 나니, 하나님의 안식을 알고 나니 이제 마침내 나의 일을 쉬게 되는 겁니다. 그 하나님을 즐거워하는 것. 그것이 기독교의 핵심입니다.
그런데 반대로 그 하나님을 모르게 되면 어떻게 될까요? 약육강식의 세상 속에서, 밀림의 법칙이 통하는 이 세상에서 살아남으려고 죽는 날까지 아등바등하게 됩니다. 그러다가 갑자기 닥쳐온 유일한 현실인 죽음을 맞게 되죠. 그때는 이미 늦습니다. 그래서 하나님의 성도에게는 예수님의 죽음이 반복되는, 그 죽음에 계속 넘기우는 사건들로 채워집니다. 사도가 말하는 날마다의 죽음입니다. 그들만 육의 죽음을 두려워하지 않는 것입니다. 그렇게 믿음의 분량에 따라서, 자라남에 따라서 거기에 알맞은 만큼의 환난과 고난이 함께 주어집니다.
이렇게 우리가 그 은혜의 영광의 찬송이 되어가는 게 하나님의 약속이고, 지금도 우리 안에서 작동되고 있는 약속입니다. 우리가 세상 보이는 것으로는 찬송할 게 없지만, 보이지 않는 묵시에서 이루어진 것들, 이미 완료된 것들을 알기에 그것을 바라고 그것을 사모하는 인생을 지금 살고 있습니다. 그렇게 주님의 손길에 의해서 우리가 찬송이 되어간단 말입니다. 찬송가 책을 펴고 찬송하는 게 찬송이 아니라 여러분 자신이 찬송이란 말입니다. 하나님이 보시기에 너무도 아름다운 찬송, 하나님이 기쁨을 참지 못하는 그런 찬송들이 되어가고 있는 거예요. 새창조입니다. 하나님의 손길에 의해서. 이것이 보이는 것을 좇고 보이는 것으로 삶의 목표로 삼은 세상 종교인들과의 차이예요.
이렇게 하나님의 사람들은 이미 완료된 묵시와 역사를 겹쳐서 살기 때문에 인생이 고달픕니다. 내가 계획한 인생이 내 힘으로 착착 성취되고 그 결과물도 내 손에 쥐게 되면 행복할 텐데, 성도는 그게 안 돼요. 왜? 묵시로부터 공격받는 인생을 살기 때문입니다. 이 역사 자체가 그래요. 역사 자체가 묵시로부터 항상 공격받는 역사예요. 그래서 기독교의 역사관은 부정적 역사관입니다. 왜냐하면 역사의 끝이 뭐예요? 종말이 있으니까 심판받는 역사이기 때문입니다. 낙관론적 역사가 아니란 말입니다. 우리 옛사람은 이런 하나님의 일하심을 싫어해요. 자기가 부인되는 것도 싫고 보이지 않는 것을 바라는 것도 싫고 다만 이 보이는 세상과 세상 힘을 좇는, 그렇게 땅을 지향하는, 자꾸 땅을 향하는 굴지성이 우리 겉 사람의 본성이기 때문이죠. 그런 아담에게서 물려받은 육,육적자아를 주여내는 게 신앙생활인 것입니다. 그렇게 없음의 처음자리에서 창조가 일어나기 때문입니다.
그런데 오늘 본문에서 사도가 뭐라고 합니까? 4절을 보면 그런 겉 사람을 벗고자 함이 아니라고 합니다. 굉장히 중요한 말입니다. 벗고자 함이 아니라 덧입고자 함이다. 그러니까 내가 스스로 내 안에 있는 부정하고 불순한 것들을 차츰 제하여 깨끗하고 온전한 내가 하나님 앞에 당당하게 서겠다는 게 종교의 본질이거든요. 기독교뿐 아니라 모든 종교가 그렇습니다. 그렇게 신은 그런 나에게 도움을 주는 역할만 하게 된다.. 결국 모든 수행을 통해서 신과의 합일에 이르는, 영생에 이르는 그런 주체로서의 나.. 이게 종교인이란 말이에요. 아담에게서 난 자들은 다 종교인이에요.
그런데 하나님의 구원 방식은 아담에게서 물려받은 우리의 이 몸의 본성을 없애주시는 게 아니라 우리 인생 내내 그것들이 작용하면서 우리 안에서부터 치열한 싸움이 벌어지고 그 싸움의 결과로 우리가 예수의 죽음에 넘기우는 것까지, 그렇게 예수의 생명에 덧입혀지는 것까지가 하나님의 돌보심, 하나님의 일하심입니다. 한마디로 예수님의 십자가 은혜만 꼭 붙들게 되는 그 필연성입니다. 참 놀랍죠? 보편적 자연인으로선 할 수 없는 하나님의 강권하시는 사랑입니다. 저와 여러분은 지금 이 현실을 살고 있어요. 이게 세상과 다른 현실이란 말입니다.
이렇게 하나님의 약속이, 복음의 능력이 우리 안에 역사하는 것처럼 죄의 세력도 여전히 우리 육체에 작용하도록 허락하시는 게 바로 하나님의 구원 방식이에요. 이것을 사도는 4절에서 이 장막에 있는 우리가 짐 진 것 같이 탄식한다고 합니다. 사도 바울조차도 자기 몸에 대해서 그렇게 절망하고 탄식했단 말이에요. 무거운 짐을 진 것처럼. 그러나 그 모든 과정이 죽을 것이 생명에 삼킨 바 되는 가운데 나타나게 되는 은혜더라, 은혜의 영광이더라, 그리스도의 승리더라. 그래서 그 보증으로 성령을 우리에게 주셨기 때문에 사도는 항상 담대할 수 있었습니다. 자기에게 세상에게 어떤 기대도 하지 않습니다.
우리가 예수를 믿는다고 하는 건 한 마디로 나를 믿지 않는 거예요. 예수를 믿는다는 건 예수만 믿는 겁니다. 세상도 안 믿고, 나도 안 믿고, 내 자식도 안 믿고, 물론 배우자도 안 믿고 예수만 믿는 거예요. 우리는 항상 하나님 앞에 단독자로 섭니다. 하나님과의 관계에 그 누구도 끼어들 수 없어요. 그런데도 세상 교회엔 주님과 우리 사이에 목사 있죠, 교회 있죠, 각종 프로그램 있죠. 왜 그렇습니까? 안 보이는 예수를 못 믿으니까 하나님의 대리자라고 하는 목사를 믿어요. 그래서 어디에 신령한 주의 종이 나타났다고 하면 다들 우르르 몰려다니고 무슨 부흥 집회 뛰어다니고 산 기도 다니고.. 그러나 예수를 믿는다는 말은 주님과 나와의 일대일의 관계란 말이에요. 그게 없으니까 늘 불안한 겁니다.
사도는 결론으로 7절에서 이렇게 이야기합니다. “우리가 믿음으로 행하고 보는 것으로 행하지 아니함이로라”.. 이 말씀 앞에서 세상 종교 다 깨지는 거예요. 믿음, 보는 것으로 행하지 아니하는 것, 이게 하나님의 씨가 있는 성도의 행함이란 말에요. 여기서 보는 게 뭡니까? 세상이잖아요. 썩어지고 더러워지고 쇠하여질 것. 그런 것들에 매이지 않는다. 그러므로 성도는은 세상에는 없는 산 소망을 가지게 되는데, 그것을 하늘에 간직된 것이라고 하는 것입니다. 너희들을 위해서 이미 하나님이 준비해 놓으신 것.그들만 보는 것으로 행하지 않게 되는 것입니다.
(벧전 1장)
23 너희가 거듭난 것은 썩어질 씨로 될 것이 아니요 썩지 아니할 씨로 된 것이니 살아 있고 항상 있는 하나님 말씀으로 되었느니라
24 그러므로 모든 육체는 풀과 같고 그 모든 영광은 풀의 꽃과 같으니 풀은 마르고 꽃은 떨어지되
25 오직 주의 말씀은 세세토록 있도다 하였으니 너희에게 전한 복음이 곧 이 말씀이니라
여기도 씨가 나오죠? 씨가 뭐라고 합니까? 하나님의 말씀, 약속이죠.
그런데 이런 말씀으로 위로가 되고 감사가 돼야 하는데 듣기 싫고 피하고 싶은 말씀이 될 수도 있습니다. 우리 인생 자체가 말씀으로 부정되기 때문에. 우리가 어떤 영광을 가져도 풀의 꽃과 같다고 하니까. 그러나 이런 말씀으로 위로가 되는 사람은 하나님의 손길에 의해서 환난 가운데 있는 사람입니다. 우리가 읽은 4장 16절부터 5장 10절까지의 모든 말씀에 ‘아멘’이 되는 사람은 지금도 겉 사람이 후패해져가고 속사람이 날로 새로워지는 새창조 안에 있는 성도들인 것입니다. 겉으로 드러난 문자 층이 아닌, 사도가 진짜 우리에게 전하고 싶은 말을 들을 수 있는 사람들, 그 말씀이 능력이 되고 진리가 되는 사람들은 지금도 말씀에 의해서 우리의 겉 사람이 해체되는 과정을 겪고 있는 사람입니다. 그러니까 자기 계획이 착착 이루어지는 사람, 이 세상에 희망을 가지는 사람들은 이런 본문 말씀을 정말 외면하고 싶어집니다. 내 꿈이 이루어지기까지 이런 말씀은 외면할거야 예수님과도 거리를 두고 싶은...나는 이렇게 안 되어야지.. 그건 사도 바울 이야기지 나와는 상관이 없잖아..
저는 이 고린도후서 본문을 세상 교회 목사들이 어떻게 설교하는지 한번 들어보고 싶어요. 이 말슴이 세상 사람들에게 희망이 되는 말씀이겠습니까? 재수 없는 이야기, 그래서 소금 가져다 뿌리라고 하지 않을까요? 성경에는 다른 말씀들도 많은데 복 받는 이야기 천국이야기 긍정적이고 희망을 주는 얘기나 들려주지 맨날 죽는 이야기 십자가 이야기 그러나 성경은 우리를 정상적인 존재로 보지 않거든요 죄인이 괜히 죄인이 아니란 말입니다. 살았다고 착각하면서 살아가는 인간들에게 너희들은 예수의 죽음이 아니면 영원한 심팜이란 것부터 정직하게 전해야 하는 것이 성도가 마땅히 감당해야 할 직분인 것입니다.
다시 말하지만 분명한 것은 이 세상 주인은 인간이 아닙니다. 자꾸 착각하고 살아요. 인간들이 살기 좋으라고 있는 세상이 아니라니까요. 베드로가 뭐라고 합니까? 이 세상은 불사르기 위해서 보존된 세상이라고 하잖아요. 이 세상 역사가 있다면 하나님 약속의 역사, 구속의 역사가 따로 있어요. 그런데 그것을 모르면 세상 돌아가는 대로 살다가 세상과 함께 멸망 받을 뿐이에요.
베드로의 말처럼 이 세상이 불사르기 위해서 보존된 세상이라면 이미 불이 붙은 세상이지요. 세상은 불타고 있다니까요. 성도는 이 세상 끝을 살고 있어요. 종말을 살고 있다는 말은 세상 밖에서 이미 불살라지는 세상을 볼 수 있다는 거예요. 여러분 화재 현장에서 가장 먼저 해야 하는 게 ‘불이야’를 외치고 탈출하는 거죠? 그런데 아직도 이 세상에 미련이 있어서 뿌리박고 잘살아보겠다고 맨날 무역협정이 어떻고, 계엄이 어떻고, 전쟁이 어떻고, 환율이 어떻고.. 여러분들은 이미 세상 밖으로 옮겨진 사람들이에요. 세상 밖에서 세상을 볼 수 있는 사람들이에요. 세상은 여러분에게 해석 당하기 위해서 있어요. 그래서 교회를 해석공동체라고 합니다. 이 세상과 역사를 해석할 수 있는 유일한 사람들이 성도예요. 그러나 세상 속에 있는 사람들은 세상을 보지 못해요. 세상 실체를 모른다니까요. 이 세상 실체를 볼 수 있는 사람들은 이미 세상 밖으로 옮겨진 사람들이에요. 그들에 의해 세상이 해석 당한단 말이에요. 그리고 그들에 의해서 정죄당해요. 노아 시대처럼.
세상 역사의 주인은 하나님이십니다. 베드로전서의 말씀대로 말씀만 영원하고 말씀대로만 진행되는 세상 역사입니다. 그것을 모르고 자기 인생을 사는 자들을 성경은 인생뿐인 자라고 합니다. 인생밖에 모르는 불쌍한 자들이란 뜻입니다. 그들에게는 산 소망이 없습니다. 다른 말로 주께서 네 인생 네가 살라고 내어버려 두신 거예요. 세상만 보고 살다가 세상과 함께 멸망 받을 진노의 자식, 그들에게는 하늘로부터 오는 처소가 없습니다. 새생명 새 몸이 없단 말이에요. 지금도 죽은 채 살다가 영원한 죽음으로 들어갈 뿐이에요.
그러나 성도는 그들과 달리 자기 자신에게 철저하게 절망한 사람들이에요. 바울이 로마서에서 뭐라고 합니까? 이 사망의 몸에서 누가 나를 건져내랴.. 얼마나 자기에게 절망했으면 자신을 가리켜 사망의 몸이라고 하겠어요. 이 사망의 몸이란 게 무슨 뜻인가 하면 나에게는 분명히 하나님이 지으신 새 사람이 있는데, 이 새 사람이 아담에게서 물려받은 옛사람과 함께 같이 꽁꽁 묶여있다는 말이에요. 로마 시대 때 가장 처참한 형벌이 뭔가 하면 누가 사람을 죽였으면 그 죽인 사람과 시체를 같이 묶어버려요. 그렇게 함께 썩어가는 겁니다. 이게 사망의 몸이예요. 바울이 말한 사망의 몸이 그거예요. 거듭난 내가 아담에게서 난 사망의 몸과 같이 묶여있는 것입니다.
이게 성도의 자인식입니다. 그런 성도만 주님의 몸과 같은 부활의 몸을 입게 될 것입니다. 바울은 고린도전서 15장에서 사도는 이렇게 증거합니다. “이 썩을 것이 썩지 아니함을 입겠고 이 죽을 것이 죽지 아니함을 입으리로다. 이 썩을 것이 썩지 아니함을 입고 이 죽을 것이 죽지 아니함을 입을 때에는 사망을 삼키고 이기리라고 기록된 말씀이 이루어지리라”..
이렇게 성도는 하늘의 몸, 약속하신 그 몸 입기를 간절히 기다리는 인생을 살게 됩니다. 그 몸을 알기 때문에, 그 약속을 알기 때문에 그 기다림, 그 소망을 위해서 이 세상 환난과 욱여쌈과 빼앗김이 성도에게 주어진단 말입니다. 그 소망을 위해서. 그것들이 있어야 인내가 주어지고 연단이 주어져서 마침내 소망을 이루게 되는 것입니다. 인내는 이 꽉 깨물고 허벅지 찌르는 그런 게 아니에요. 여기서 말하는 인내는 하나님의 오래 참으심, 하나님의 인내를 우리가 배우게 된다는 뜻입니다. 여러분 인생에 하나님의 오래 참으심이 어떠했는지를 한번 돌아보세요. 하나님의 그 오래 참으심이 없었다면 여러분이 지금 이 자리에 있겠습니까? 하나님의 인내하심, 그 용서를 아는 게 우리의 인내예요. 그런 성도들만 보이는 것이 아닌 보이지 않는 소망으로 구원을 이루게 되는 것입니다. 이런 구원의 현실을 로마서 8장에서 사도가 이렇게 증언합니다.
(롬 8장)
24 우리가 소망으로 구원을 얻었으매 보이는 소망이 소망이 아니니
보이는 세상으로부터 우리의 눈이 위로 들린단 말이에요.
보는 것을 누가 바라리요
이 말은 이미 보이지 않는 영원한 것에 눈이 열린 자들이 있다는 뜻입니다.
25 만일 우리가 보지 못하는 것을 바라면
그 약속이 우리 안에 작동하고 있다면 어떻게 하라고 합니까?
참음으로 기다릴지니라
하나님의 때까지 그 참음의 세월이 성도의 인생이에요. 성도의 인생 전체가 그 참음의 세월이에요. 기다림의 세월이란 말입니다. 어서 이 육신을 벗고 밝고 밝은 그 새벽빛에 우리가 새 몸으로 주님을 만나게 되는 그날. 빨리 가고 싶죠? 다들 표정이 아닌데. ㅎ 집사님 우리 둥이들 빨리 키워서 장가 시집 가는 것도 봐야 하고 손자도 봐야 하고 그렇죠?
그런데 사도는 이런 간절한 소원을 위해 이 세상이 있어야 한다고 말합니다. 우리의 소망이 이루어지기 위해서, 우리의 인내와 연단을 위해서 이 세상은 그 역할을 다해줘야 합니다. 이 세상 안에 뭐가 들어있는지 아세요? 내 가족, 내 자식, 내 직장, 내 교회까지 다 포함됩니다. 어떻게 보면 참 슬픈 일이지요.
그래서 고린도전서 3장에서는 “만물이 다 너희 것임이라”고 합니다. 이 세상 만물이 다 너희를 위해서 있다는 말이에요. 우리의 거룩과 우리의 의와 우리의 아들 됨의 완성을 위해서 세상은 세상 끝 날까지 있어야 합니다. 그러니까 힘 내시고 잘 살아계시면 됩니다.
그렇게 세상에 빼앗기는 모든 것을 통해서 마침내 우리는 내 안에 담겨 있는 그 약속, 그 예수가 보이고 그 예수만 자랑하게 됩니다. ‘예수님, 당신만 있으면 돼요. 저는 예수만으로 충분합니다.’.. 이 고백을 받아내기까지 세상은 세상의 역할을 다해야 합니다.
그렇게 예수밖에 자랑할 게 없는 자로 만들어가시는 게 하나님의 자기 사람들을 향한 보살핌이에요. 그게 하나님의 도우심이란 말이에요. 그래서 성도의 인생은 세상이 보기에는 실패작으로 보이지만, 그것이 하나님의 성공임을 성도 본인은 압니다. 그리스도만 높이고 그분의 주되심을 즐거워하는 것, 그렇게 주를 기쁘시게 하기를 즐거워하는 것, 그분만 존귀하게 되기를 원하는 것, 그것이 그리스도의 심판대 앞에서 각각 선악간에 그 몸으로 행한 것을 받게 되는 상벌인 것입니다.
여러분 아시다시피 모든 인간은 건축자예요. 자기 인생, 자기 세계를 건축해서 그 안에서 생의 의미를 찾으려는 게 우리 인간들입니다. 그런데 성도에게는 자기 손으로 짓지 아니한 하늘의 집이 있어요. 우리가 새 몸을 입고 영원히 살게 되는 그 집, 우리 하나님이 친히 준비하신 집, 아니 하나님 자신이 그 집이에요.
(계 21장)
3 내가 들으니 보좌에서 큰 음성이 나서 이르되 보라 하나님의 장막이 사람들과 함께 있으매 하나님이 그들과 함께 계시리니 그들은 하나님의 백성이 되고 하나님은 친히 그들과 함께 계셔서
4 모든 눈물을 그 눈에서 닦아 주시니 다시는 사망이 없고 애통하는 것이나 곡하는 것이나 아픈 것이 다시 있지 아니하리니 처음 것들이 다 지나갔음이러라
5 보좌에 앉으신 이가 이르시되 보라 내가 만물을 새롭게 하노라 하시고 또 이르시되 이 말은 신실하고 참되니 기록하라 하시고
6 또 내게 말씀하시되 이루었도다 나는 알파와 오메가요 처음과 마지막이라 내가 생명수 샘물을 목마른 자에게 값없이 주리니
7 이기는 자는 이것들을 상속으로 받으리라 나는 그의 하나님이 되고 그는 내 아들이 되리라
8 그러나 두려워하는 자들과 믿지 아니하는 자들과 흉악한 자들과 살인자들과 음행하는 자들과 점술가들과 우상 숭배자들과 거짓말하는 모든 자들은 불과 유황으로 타는 못에 던져지리니 이것이 둘째 사망이라
여기 유황 불못에 들어가는 자들이 누구라고 합니까? 먼저, 두려워하는 자들이죠. 왜 두려워합니까? 세상 살면서 자기 집을 건축한다고 수고했는데, 그게 무너질까 봐 늘 두려운 거예요. 늘 불안 속에 산단 말이에요. 그리고 예수의 주되심을 믿지 않는 자들. 뱀의 말, 속이는 말, 거짓되고 더러운 말을 진리로 가지고 있는 자들. 세상을 사랑하고 세상과 음행한 자들, 그렇게 평생을 하나님처럼 살아온 자들, 그들이 이땅에 오신 하나님을 살해한 자예요. 자기라는 우상만 숭배한 자들, 아담에게서 물려받은 선악의 육체로 사는 자들입니다. 그래서 그들은 마귀를 위해서 예비된 불못에 마귀와 결합되어 들어갑니다.
전에도 말씀드렸지만, 지옥은 하나님이 우리 인간들을 위해서 만들어놓으신 게 아니에요. 마귀를 위해서 예비하신 불못인데, 그럼 그 불못 지옥에 들어가는 자들은 누구예요? 마귀와 한 몸이 된 자들이 들어간단 말이에요. 우리가 천국 가는 것도 그리스도와 한 몸으로 가는 거예요. 내가 주체가 되어서 내 믿음으로 내가 가는 천국은 없습니다. 그러니까 내가 잘못해서 내가 실수하고 죄 많이 지어서 가는 지옥도 없단 말이에요. 죄인에게선 죄만 나온단 말입니다. 그런 행위에 의해 심판 받는 것이 아니라 하나님이 주신 믿음에 의해 그분이 의롭다 여겨주심으로 우리가 구원받는 것입니다. 지옥 가는 자들은 그 의가 없어서 심판 받는 거에요 그렇게 하나님의 말씀이 성취되는 것을 하나님의 영광이라고 합니다. 그래서 지옥도 하나님의 영광이에요.
그런데 오늘 본문 10절 말씀을 종교 기술자들, 인본에 찌든 종교인들이 참 희한하게 풀어냅니다. 뭐라고 하는가 하면 세상 속에서 그 몸으로 행한 것이 그리스도의 심판대 앞에서 다 드러나는데, 그렇게 세상 속에서 행한 것들이 천국 집을 짓는 재료가 된다고 합니다. 실제로 그렇게 설교를해요. 믿음은 하나님의 행하심이고, 그 행하심을 성도의 행함으로 여겨 주시는 것을 모르니까 각자 하나님의 일에 어떤 공적이 있는지, 어떻게 교회에 충성했는지 등이 다 집 짓는 재료가 되어서 천국 집이 지어진다고 합니다. 그러니까 종교 활동을 많이 한 사람들, 전도 많이 한 사람들, 건축 헌금 많이 하고 목사 잘 섬기고 하는 사람들은 천국에서 평수가 넓은 집에 살고 평생 전도 한 명 못한 사람들은 자기 집이 없으니까 천국에서 합숙소에 살더라는 거예요. 이게 오늘날 대한 예수교 수준이에요.
그럼, 봅시다. 120년 동안 방주를 지으면서 세상 사람들을 한 명도 전도하지 못해서 전 인류가 전멸하고 자기 식구만 방주에 태운 노아는 천국에 자기 집이 없겠네. 노아도 합숙소 사나? 이건 기독교가 아니란 말입니다. 정말 다른 종교들보다 수준이 더 낮아요.
다시 말씀드리지만, 우리가 영원히 살 하늘 집은 우리 수고나 우리 열심으로 짓는 집이 아니에요. 하나님의 수고, 하나님의 열심, 또 하나님의 희생으로 지어진 집이란 말입니다. 그런데도 죄에 오염된 인간들은 그런 하나님을 인정하기 싫은 거예요. 천국도 내 땀 한 방울 들어가고 내 헌금 한푼 들어가고 내 수고가 들어가서 내것으로 얻게 되는 천국, 보험 넣듯이 내 손에 쥐는 구원을 원하지 그냥 은혜로만 주어지는 것을 싫어한다니까요. 은혜는 입에 달고 사는데, 진짜 은혜가 주어진다면 싫은 게 인간이에요.
이렇게 죄에 오염된 인간들은 성경의 하나님, 그 은혜의 하나님을 싫어합니다. 그래서 예수님이 이 땅에 오셔서 이스라엘 성전을 부정하면서 내가 사흘 만에 새 성전을 짓겠다고 하시자 신성모독으로 고발해서 처형해 버렸어요. 인간들이 짓지 아니한 다른 성전을 말한 게 죽어야 할 죄목이 되었다니까요. 그런데 예수님이 죽으시고 사흘 만에 부활하셔서 성령을 보내시자 예수님이 바로 그 성전이신 것과 그분이 보내신 성령에 의해서 약속하신 처소가 이미 마련되었다는 것을 제자들도 그때야 비로소 알게 되었습니다. 그렇게 성령을 받은 자는 자신이 그리스도 안에서 하나님이 거하실 성전이 된다는 것을 현실로 알게 됩니다. 우리가 그 성전인 것입니다.
이와 같이 세상 인간들이 아무 쓸데가 없다고 내다 버린 돌이 바로 예수 그리스도였습니다. 그리고 하나님은 인간이 싫다고 내다 버린 그 돌을 가지고 새로운 집을 지으신 거예요. 그 돌이 기초가 되어서, 그 돌과 연결되어서 우리가 하나님의 집으로 지어진 것입니다. 그 집이 바로 하나님 아들의 피 위에 세워진 집이에요. 하나님의 희생, 하나님의 섬김으로 그렇게 하나님 나라가 완성되었단 말입니다.
그런데도 오늘날 예배당을 지으면서 뭐라고 합니까? 성전 건축이라고 하죠? 그거 성전 아닙니다. 그냥 예배당이고, 부동산이에요. 요즈음은 또 불교 기와 불사를 따라한다고 예배당 지을 때 벽돌에 이름을 적어요. 다들 생쇼를 하는 거예요. 그들은 성전이 뭔지를 몰라요. 하나님이 왜 이스라엘에 성전을 지으라고 하셨는지도 몰라요. 예수님이 지으신 참 성전에 대해 전혀 무지한 겁니다.
성전은 앞에 ‘거룩할 성’자가 붙잖아요. 그러니까 거룩에 대한 개념 자체가 잘못되었어요. 옛날에는 목사가 설교하는 강단에 여자들은 함부로 못 올라갔어요. 거룩한 곳이라고. 예배당 안에도 거룩한 장소가 따로 있었다니까요. 목사들이 가운을 왜 입습니까? 구별되기 위해서죠. 성직이란 뜻이에요. 거룩한 직분이 따로 있다는 거예요. 성전 성직, 성구, 성미.. 이렇게 거룩이 남발되니까 성경이 말하는 거룩의 의미를 다들 오해해요. 주일학교 때부터 그렇게 가르쳐서 그래요.
그런데 베드로전서에서 뭐라고 합니까? 너희들은 다 왕 같은 제사장이라고 합니다. 종교개혁이 그래서 일어난 거예요. 가톨릭에 반발해서 성직은 없다, 모든 성도는 다 성직자들이고 다 왕 같은 제사장들이다.. 그런데 그게 백 년을 못 가서 다시 되돌아 가버렸어요. 왜? 세상이기 때문이죠. 언젠가 기회가 되면 거룩에 대한 강론을 한번 할 생각이에요. 거룩에 대한 오해가 그렇게 심각합니다. 거룩에 대해서 오해하다 보니 성령에 대한 오해도 아주 심각해요.
하나님이 지으신 집은 반드시 인간들의 죄를 드러내면서 나타내는 집이에요. 그러니까 성전을 함부로 좋아하지 마시라고요. 하나님의 집은 인간은 그 누구도 가지 못하는 집이에요. 그러면 누가 갑니까? 피뿌림을 입은 사랑의 아들들만 가요. 구약에서도 제사장이 성소에 들어갈 때 피를 가지고 들어가잖아요.. 하나님의 약속 안에 있는 자, 아들의 피 뿌림을 입은 자, 예수의 죽음이 나누어진 자들만 갈 수 있는 하나님의 집이란 말에요. 그리고 그 나라는 이미 하늘에 완성되어 있고 우리를 기다리시는 그 아버지 집으로 돌아가게 해주는 이 세상의 환난과 종말의 거센 바람이 여러분에게 몰아치게 됩니다. 그렇게 세상의 밀어냄이 없으면 우리는 아버지가 기다리시는 그 집을 별로 바라지 않습니다. 가고 싶은 생각이 안 들어요. 그런데 세상이 우리로 하여금 이 세상에 뿌리를 내리지 못하도록.. 왜? 우리 뿌리는 하늘에 있으니까 이 세상에 뿌리를 내리고 싶어도 못 내리게 해요. 주의 손길이 밑둥치부터 잘라내시는 게 자기 성도들을 향한 돌보심인 것입니다.
그렇게 종말, 우리가 살고 있는 이 세상 끝에는 우리를 별세시키기 위한 종말의 거센 바람이 여러분들에게 몰아치게 됩니다. 그럴 때 낙심하거나 주저앉지 말고 위로부터 입혀지는 그 처소를 소망하는 하루하루를 살아내라고 사도가 저와 여러분에게 위로를 주는 말씀이 오늘 본문입니다. 그래서 우리 자신을 꾸미고 치장하는 포장된 인생을 사는 것이 아니라, 인생을 살면서 더러워진 것들을 벗고자 하는 게 아니라 우리 스스로 그것들을 벗을 수 없음을 알기에, 우리가 우리 몸을 불사르게 내어줄지라도 결코 스스로 깨끗하게 될 수 없음을 알기에 우리는 하늘로부터 주어지는 그 처소로 덧입기를 소망하게 되는 것입니다. 어서 이 몸 말고 하나님이 준비하신 그 몸으로 입혀주세요.. 그 소망으로 인해서 우리 인생이 외롭고 험난한 여정을 살게 되더라도 그것이 우리 성도에게 허락된 참 복임을 알기에 사도는 모든 서신서에서 첫머리에 교회를 위한 하나님의 은혜와 평강을 빌어주고 있습니다.
그렇게 우리 하나님은 우리를 뜯어고치고 꾸미고 해서 우리를 사랑하시는 게 아니에요. 하나님은 우리의 죄인 된 모습 그대로 사랑하시는 하나님인 것을 아셔야 합니다. 그러니까 내가 이 꼬라지로 어떻게 하나님의 사랑을 받겠느냐고 자꾸 자기 자신을 검열하고 관찰하고 뜯어고치려고 하지 마세요. 그건 종교인들이 하는 거예요. 그럼 우리는 뭐냐? 이런 내 모습에도 불구하고 하나님이 먼저 우리를 사랑하셔서 우리에게 독생자를 내어주셨단 그 사랑 그 은혜. 그걸 믿는 거예요.
우리 이 몸은 무너지는 몸입니다. 그러나 우리에게는 영원한 하늘의 처소가 준비되어 있어요. 다른 몸이 있단 말이에요. 이 세상 속 장막, 무너질 집을 그만 수리하시기를 바랍니다. 그만 꾸미란 말이에요. 그런 나에게서 돌아서고 이제는 나를 그만 놓아줄 때가 되었어요. 우리가 살 곳은 이 세상이 아니란 말입니다. 우리가 사는 건 인생이 아닌 영생이에요. 우리가 거할 영원한 처소는 주님의 품이에요. 그래서 그 품에 돌아가기까지, 아버지 품에 안기기까지 우리는 부득불 탄식하는 인생을 살게 됩니다. 우리뿐만 아니라 그 나라가 임하기까지 이 세상 만물이 다 함께 탄식하며 기다린다고 하잖아요 로마서에서. 하나님의 아들이 나타나기까지.
그러나 육을 입은 우리는 아직도 이 몸에 대한 미련을 버리지 못하기 때문에, 무너질 장막, 없어질 세상이 전부인 것처럼 살 때가 더 많아서 성령께서 지금도 말할 수 없는 탄식으로 우리를 위해서 하나님께 간구하고 계십니다. 그러므로 그분의 간구대로 우리 인생이 이끌려 가고 있는 것입니다. 무너지지 않는 영원한 장막, 그 하늘 소망을 위해서 오늘도 주님은 졸지도 주무시지도 않으면서 우리가 세상을 별세하게 되는 그 환난과 핍박과 욱여쌈과 답답함을 베풀고 계신 거예요. 그게 사랑이에요. 아픈 사랑. 우리로 하여금 깨어 있으라고. 그를 통해서 우리는 조금씩 믿음에 대해서, 사랑에 대해서, 소망에 대해서 두 이레 강아지만큼 눈을 뜨게 됩니다. 보는 것으로 행하지 않게 되는 그 믿음, 하나님의 하나님 되심에 모든 것을 맡기게 되는 그 믿음이 우리 남은 인생에 온전하게 역사할 수 있기를 빕니다.
기도하겠습니다.
아버지 하나님, 우리가 아직 세상을 살고 있습니다. 아담에게서 물려받은 이 육체로 세상을 사는 이 세상살이가 얼마나 아프고 힘든지 모르겠습니다. 그러나 주님, 우리에게는 세상에 없는 산 소망을 주셨습니다. 이미 이루어진 그 나라, 그곳에서 우리 주님과 영원을 함께하는 그 소망을 허락하셨사오니 우리 남은 날들이 그 소망으로 날로 채워지게 하시고 그 소망이 힘이 되어서 그 믿음으로 이 세상을 넉넉히 이길 수 있게 도와주시옵소서. 그렇게 우리 주님의 사랑이 날로 크고 높고 넓고 깊게 보이는 그런 영적인 축복이 있게 하시고 오직 소망 가운데 남은 날들을 가볍게 살다 가는 우리 성도들이 다 되게 하여 주옵소서. 우리 주 예수님의 이름으로 기도합니다. 아멘.
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