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神の恵みをむだに受けてはならない(コリント人への第二の手紙 6:1〜10) 본문

真理の泉

神の恵みをむだに受けてはならない(コリント人への第二の手紙 6:1〜10)

cocoa 2026. 3. 6. 13:02

 

コリント人への第二の手紙 6:1〜10 第170講


「神の恵みをむだに受けてはならない」

 

本文:コリントの信徒への手紙二 6:1-10

今日の本文に入る前に、現代の世の教会を汚染している別の福音、別のイエスについてまずお話しし、本文に入りたいと思います。

 

現代キリスト教が巫術宗教と化した実態、その内容を覗いてみると、代表的なものが祈願主義です。

祝福に狂ったキリスト教、繁栄神学、高地論、そこに味付けとして振りかけられた神秘主義、

そして人間の理性で捉えられないものは認めないという合理主義、多元主義、自由主義神学の影響を受けた社会正義のためのキリスト教、例えば共同体運動、生命運動、労働運動――これらすべての根底には、人間による、人間のための、

人間の世界という人本主義が敷かれています。

ですから、私たちの信仰の先達たちのように、イエス・キリストと十字架だけを伝える教会を見つけることは、

ほとんど不可能な状況です。

私たちの教会だけでも多くの人々が訪れましたが、彼らには望みがあります。それは何かというと、自分の人生に役立つイエス、自分を慰め力となる神について話してほしいというのです。

十字架だけ話さず、復活も語り、癒しの神、慰めの神、そしてこの世をどう生きるべきか、そう実質的に役立つイエスを求めているのです。

しかし聖書にはそのような内容は存在しません。

イエスの使徒たち、つまり聖書を書いた彼らは、この地を歩まれた神であるイエス・キリストと、彼が釘付けられた十字架以外を知ることを拒んだのです。なぜそうしたのでしょうか?

神の創造そのものが私たち人間のためではないことを知っていたからです。

神の創造は御子イエス・キリストのための創造であり、神の御姿に似せて造られた人間は、そのイエス・キリストの中にのみ存在が可能な被造物なのです。御子の血による創世以前の契約の対象として、彼のからだである教会である以上、神の約束である十字架を離れて、人間の幸福や世の発展のためのイエスは存在しないというのが聖書の一貫した主張です。

これが福音の真理です。

しかし今日のように福音の真理が失われた現実において、頑なに十字架の福音を伝え分かち合うことは、まさに世の教会から見れば狂気の沙汰と言わざるを得ません。

しかし私たちが明確に知るべきことは、命はその十字架、その契約の血にのみあるという事実です。神の御心は、ご自身の民にその命を与えたいと願っておられるのです。

人間の世の幸福ではないのです。

だから聖書は、その神を知ることを永遠の命だと言います。

唯一の神と、その方が遣わされたイエスを知ることは永遠の命なのです。それが神の御心です。

出発が間違っていると、遠くへ行けば行くほど戻る道は遠くなるものです。

神の約束であるイエスと十字架から始まらないものは、すべて崩れ去ることになります。

そうしてイエス・キリストと十字架に対する正しい知識と信仰の上に、私たちが集まるたびにその恵みの福音を分かち合い、

ただイエスによってのみ不足のない私たちの教会となることを願います。

私がこれまで無知にもそんな頑固さを貫いてきたのも、そのためです。

それでは、今日の本文を見ていきましょう。

 

前回はコリント人への第二の手紙5章を通して、キリストにおいて成し遂げられた神の新しい創造について考察しました。

創世以前の契約である「御子の血」が、この歴史の中でイエス様の十字架によって成就され、その愛の結実がまさに新しい被造物として私と皆さんであることを分かち合いました。

その新しい被造物に強く迫るキリストの愛によって、必然的に私たちは自分のために生きることができず、代わりに死んでから生き返った方のために生きるようになることまでが、キリストに所有された者たち、すなわち教会のアイデンティティです。

そして続く6章には、神の知恵と力であるイエス様の十字架が生活の現実となった者、すなわち教会の聖さがどのように与えられ守られるかについて、パウロ使徒自身の生涯が証しと勧告として続きます。

簡単に言えば、私たちをキリストにおいてその義と聖さをもって新しく創造された神が、御自身のからだである教会の義と聖さをこの世の中でどのように守ってくださるかについての内容がコリントの信徒への手紙二6章です。言い換えれば、私たちに着せてくださったキリストという義と聖さ、つまり神が見られる私たちの聖さとは何かと言えば、私たちに着せてくださったキリストこそが私たちの義と聖さだということです。

衣を着たとは、私たちの本質、アダムから受け継いだこの体は変わっていない、依然として神を憎み、依然として不浄で汚れたもので満ちているこの体、自分だけを愛し、自分の栄光だけを求めるそのような体であるにもかかわらず、神が私たちにキリストという衣を着せてくださったということです。ですから、私たちに着せられたそのキリストを、神が義と聖さとして見てくださるということです。

それゆえ聖書はイエス・キリストを神の義と呼ぶのです。

旧約を見ても、あらゆる物を清めるのは何だと言いますか?血を注いで清めると言いますよね。

その血こそが命であり、その血こそが聖なるものなのです。

ですから今日のこの本文は、私たちに着せてくださったキリストという義と聖さを私たちが守り抜かなければ私たちの救いが完成するというのではなく、十字架によってすでに一度で与えられたその義と聖さを、その方の愛の中で最後まで守り抜いてくださることまでが神の約束の完成だというのです。

パウロが今その話をしているのです。これを理解して今日の講話を聞けば、よく理解できるでしょう。

 

今日の本文を見てみましょう。

 

1 神と共に働く者として、あなたがたに勧めます。神の恵みをむなしく受けないでください。

2 「恵みを与える時に、あなたがたに聞き、救いの日に、あなたがたを助けた」と言われたのです。見よ、今は恵みを受けるべき時、見よ、今は救いの日です。

3 この務めが非難されないように、私たちは何事においても、だれに対しても、つまずきを与えないようにし、

4 ただ、すべてのことにあって、神の働き人として自らを証明し、多くの忍耐と、患難と、窮乏と、苦難と、

5 鞭打たれることと、投獄と、騒乱と、労苦と、眠れないことと、食べられないことの中でも、

6 清さと知識と忍耐と慈しみと聖霊の感動と偽りのない愛と

7 真理の言葉と神の力によって、義の武器を左右に帯びて

8 栄光と辱めをもって、悪名と美名をもってそうしてきた。私たちは欺く者のようでありながら真実であり

9 知られていない者のようでありながら、知られている者であり、死んだ者のようでありながら、見よ、私たちは生きている。懲らしめを受ける者のようでありながら、殺されることはない。

10 悲しむ者のようでありながら、いつも喜んでいる。貧しい者のようでありながら、多くの人を富ませている。何もない者のようでありながら、すべてを持っている者である。

 

今日の本文は、「聖徒とは誰か」「教会とは誰か」について、使徒自身の物語を述べています。

1節から使徒は、自分を神と共に働く者、同労者と言いながら、あなたがたは神の恵みをむだに受けないようにと語ります。そして今は恵みを受けるべき時、救いの日だと言います。

なぜ使徒は、恵みを受けるべき時、救いの日に神の恵みをむだに受けないようにと言うのでしょうか?

聖書は、一つの言葉や一節だけでその真意を知ろうとしてはいけません。

全体の文脈を通して聖書が何を語っているのかを知ることが非常に重要です。

ですから聖書は全体的に読まなければなりません。

木一本だけを見るのではなく、森全体を見よという意味です。

私たちはコリントの信徒への手紙二を半年近く分けて学んでいますが、この手紙が書かれた目的から改めて見直す必要があります。

そうすることで、第1章から現在まで使徒が何を語っているのか、その流れを見失わずにいられます。

コリントの信徒への手紙二を最初に始めた時に申し上げた通り、この手紙は使徒がコリントの信徒への手紙一を送った後、コリント教会が悔い改めていたという事実をテトスから伝え聞き、非常に喜んだ気持ちで書いた手紙です。

しかし一方で、コリント教会にパウロが伝えた福音を歪曲し、パウロの使徒職を否定する偽教師が現れ、別の福音を伝えているという理由で、使徒は自身の使徒職について弁明する必要があり、 この手紙を書くことになりました。

なぜ自らを弁護しなければならないのでしょうか?「私は確かに使徒だ。私は神の使徒だ」… このためではなく、パウロの使徒職が否定されれば、彼が伝えた福音が否定されるからです。

それゆえパウロは自身の使徒職を弁護する必要があるのです。

 

したがってこのコリントの信徒への手紙二は、私たち聖徒たちに向けたキリストの配慮が如何なるものであり、それによるパウロ自身の苦難、患難といった彼の人生と職分と使命についての自伝的記述です。

この手紙では、使徒自身の生涯を通して現れたキリストの愛、そしてその愛の中で新たにされた聖徒の身分・アイデンティティがどのようなものであるかを、第4章と第5章にかけてまず説明した後、神の同労者としてあなたがたに勧める言葉は「神の恵みをむなしく受けないこと」です。

つまり、神の恵みをむなしく受けるような原因と結果について、使徒が神の働き手として聖徒のアイデンティティと聖徒という職分について説明する必要があったということです。

これを改めて思い起こさせる必要があるのです。なぜなら、それが誤ると神の恵みを誤解し、むなしく受ける危険性が私たち皆にあるからです。

そしてその結論として、14節から18節の言葉が続きます。

端的に言えば、聖徒、すなわち教会は、真理ではないもの、不純なものから区別されなければならず、これがあなたがたのアイデンティティであり、それらと共にすることはできないということを、今、使徒が改めて強調しているのです。

あなたがたは神の恵みをむなしく受けるべき者ではなく、今は恵みを受けるべき時であり救いの日であることを思い起こさせるため、また神の働き手としての職分が聖徒すべてに与えられているというその驚くべき事実、その尊い職分について使徒自身の生涯を証ししながら、コリント教会が「聖徒とは誰か」「神の教会とは何か」について正しく知ることを願っているのです。

それが3節から10節の言葉です。

福音には大きな落とし穴があります。

福音を聞くと、ある人々のように福音を聞いたからと言って「適当に生きてもいいんだ」とか、それでも「守るべき最低限の律法があるから、倫理道徳的なことはある程度守らなきゃ」とか…。

こうした問題は初代教会からずっと続いてきたものです。

割礼や安息日の問題など…世の教会が今も十分の一献金を求め、主日を守れと教えるのも全てそれです。

そしてグノーシス主義者たちがいます。今日でもそういう人たちがいますよね。

十字架の村のように好き勝手に生きることが福音だという人たち…福音の知識で自己正当化をする者たちです。

それだけでなく、福音を知っているという牧師たちも、教会運営に夢中になって牧会を長く続けていると、適当に世と妥協する姿を見せるようになります。

 

このように使徒が伝えた福音には、私たちが誤解しそうな要素が含まれており、今日の本文のように神の恵みを無駄に受けかねない要素があるため、使徒はその部分を改めて気づかせています。

さあ、こうした全体像を描きながら本文を見ていきましょう。

1節には「神の恵みをむなしく受けないよう」とあります。

すでにコリント教会には偽りの教師が入り込み、パウロが伝えた福音ではない別の福音を伝える者たちがいると述べましたね?

彼らが伝えた別の福音によって、神の恵みに対する誤解がコリント教会にあることを使徒が伝え聞き、この手紙を再び書くに至ったのです。

ですから、神と共に働く者として、あなたがたに勧めます。恵みをむなしく受けないでください。

この言葉は彼らだけでなく、先ほど本文に入る前に申し上げた今日の韓国教会の問題とも密接に関連しています。

いかに神の恵みが汚され、軽んじられているか…

私たちが先に5章10節で述べたように、パウロはキリストに代わる使徒だと言いました。

そうして神の使者としてあなたがたに勧める言葉であることをあらかじめ釘付けにした上で、使徒はコリント教会が神の恵みについて誤解があるという事実を改めて詳しく説明して叱責しています。

ここで「改めて」という言葉は、すでに前に話したことを繰り返して確認させるための言葉という意味です。

それが何であるかを一度見ていきましょう。

世の教会にどんな問題があるのか、すでに初代教会から今日まで世のすべての教会に発生しているあらゆる問題たち…

 

(Ⅱコリント4章)

3 もし私たちの福音が覆い隠されているなら、滅びる者たちに覆い隠されているのです。

4 この世の神が、信じない者たちの心を惑わし、キリストの栄光の福音の輝きが彼らに現れないようにしているからです。キリストは神の姿なのです。

5 私たちは、自分自身を宣べ伝えているのではなく、ただキリスト・イエスが主であられることと、また、イエスのために私たちがあなたがたのしもべとなったことを宣べ伝えているのです。

6 「暗闇の中に光が輝け」と言われたその神が、イエス・キリストの顔にある神の栄光を知る光を、私たちの心に輝かせてくださったのです。

 

この世には、この世の神がいるのです。

サタン、悪魔、魔です。

しかし私たちが知っている悪魔や悪霊は、私たち人間を苦しめ、明日を妨げる存在ですよね。

ところが聖書が語るこの世の神は、キリスト・イエスの主権と、その栄光の福音の輝きを覆い隠す働きをします。

それが彼らの本分です。

言い換えれば、サタンは人々を苦しめたり仕事を妨げたりするのではなく、非常に人間に親しみやすい存在なのです。

今日の世の教会が夜明け前から集まって祈り、徹夜祈祷をするのは何のためでしょうか?

祝福を得ようとするためです。

祝福に狂ったキリスト教です。

祈福主義、神秘主義、多元主義、これら全てが人間のためのキリスト教、人間のための神様ではありませんか。

そうして人間が望むものを与えるのがこの世の神だというのです。

荒野でイエスを試みた悪魔は何と言ったでしょうか?

「イエスよ、私にひざまずくだけで、この世の栄光をすべてあなたに与えよう」と言ったのです。

それがすべての人間が望む福音です。どれほどだったか、パウロは自分が福音を伝えた教会に手紙を送り、「私が伝えた福音以外の福音を伝えるなら、たとえ天から来た天使であっても呪われよ」と言ったのです。

この世にある教会はいつでもそのような誘惑に陥る可能性があります。

そしてこの世の神である悪魔や悪霊たちは、東和寺や海印寺にはいません。

そのような場所は放っておいても構わないからです。だから、せめてイエスの話をしている教会には全て存在しています。教会でキリストの福音の栄光、十字架の栄光が伝えられないように、それだけを覆い隠し、妨げるのです。

教会も育ててあげ、宣教も助け、数千億ウォンもの礼拝堂も建てさせてあげ、人々も集めてあげ、全てやってあげるのです。

ただ十字架の福音の輝き、その栄光だけを覆い隠すのです。

ですから、パウロが言った「恵みをむなしく受けない」という意味は、すでにコリント教会にも偽りの教師が入り込み、人々が好む別の福音を広めてしまったのです。人間中心の福音、人間のための福音です。

ですから、この世にある教会には、キリストの栄光の福音、その十字架の福音の輝きが差し込まないようにしようとするこの世の神の働きが常にあり得るため、そのような働きによって信じる者と信じない者が御言葉によって分けられるのです。

これは自然な現象です。福音が宣べ伝えられれば当然起こる現象です。

しかし、教会の牧師たちがいつも強調する言葉がありますよね?一つになろう。

教会に争いがなくしよう。しかし、そうではないのです。教会は激しい霊的戦いの場なのです。

ただし、正しい福音が宣べ伝えられるならば、ということです。

 

ところで、先ほどコリント人への第二の手紙4章で何と書いてありましたか?

福音が覆い隠されているなら、滅びる者たちに覆い隠されているのだとあります。

この言葉を言い換えると、滅びる者たちは当然、福音を理解できないはずだということです。

信じない者、キリスト・イエスとの関係を持たない者、イエスの血が注がれていない者、真理の愛を受け入れられない者は、必ずこの世の神の惑わしを受けて、別の福音を追い求めるようになるのです

つまり、福音はすべての人が理解できるものではないということです。アダムから生まれたすべての人間の本性は、十字架の福音よりも別の福音を好むようにできています。

それが本性です。なぜそうでしょうか?善悪の知識の実を食べたからです。

善悪の知識の実とは「神のように」ということですよね。神のようにとなって善悪を区別するのが、善悪の知識の実の毒性だということです。単なる善悪ではなく、自己中心の善悪、自分に良いものは善で悪いものは悪と規定する善悪体系が、私たちの内に組み込まれたまま生まれるのです。だからアダムから生まれたすべての者は、自分が否定される十字架の福音を嫌い、他の福音を追い求めるようになるのです。

使徒は5節でこう語っています。

私たちは私たち自身を宣べ伝えるのではありません。

。では、この世の神の唆しを受けて別の福音を伝える偽りの教師たちは、何を伝えているのでしょうか?

自分自身を伝えているのです。イエスの主権を伝えているのではないということです。

キリスト・イエスが主となられたことを伝えるために、パウロ使徒は「私があなたがたのしもべとなったことを宣べ伝えている」と言いますが、偽りの教師たちは、あなたがたをしもべにするために、自分自身を高め、自分のものを伝えているのです。

この違いです。

そうして自分をエルサレムの使徒たちに認められた者のように推薦状を持ち歩く者たちは、イエス・キリストの主権には関心がないのです。

彼らはどうにかして教会を掌握し、信徒たちを支配しようとする目的、自分を従わせようとする目的を持っているのですが、それがまさに神の恵みを無駄にする行為なのです。

言い換えれば、原因と結果が神にあるのではなく人間自身にあることを教えるのです。

非常に恐ろしいことです。こうした者たちはコリント教会だけでなく、パウロが福音を伝えたすべての教会に現れ、キリストの恵みの福音を妨害したことを、私たちは使徒の手紙から知ることができます。

ここで重要な点があります。福音には必ず前置詞が付くのです。「恵みの」福音です。

福音には神の義が現れ、信仰によって信仰に至るのだと言いますよね。

この福音の中には、神の恵みがどのようなものか、そして神の義をもって来られたイエスがどなたであるかを説明するのが福音なのです。ところがそこに人間の価値と可能性を挟み込むのが、別の福音だと言うのです。

どれほどのことか、パウロがこんな言葉を口にしたのです。

 

(ガラテヤ1章)

6 キリストの恵みによってあなたがたを召された方を、このように早く離れて、他の福音に従うことを、私は不思議に思います。

 

このように早く離れて…これが人間の本性だと言うのです。アダムから受け継いだ私たち人間の本性は、恵みの福音を極度に嫌うのです。

放っておけば他の福音に従うようになっているのです。

 

(ガラテヤ3章)

1 愚かなことだ。ガラテヤの人々よ。イエス・キリストが十字架につけられたことが、あなたがたの目の前で明らかに示されているのに、だれがあなたがたを惑わしたのか。

 

キリストの恵みから離れ、人を追い求め、地上のことを考えさせるもの、それがすべての人々が好む別の福音です。

サタンの働き、偽りの教師たちの行いがそれです。

今日の大半の世の教会は、このような別の福音に汚染されています。

恵みの福音を伝えるべき牧師が、説教壇で語る説教のすべてが、人間のための人間中心の説教です。

人間主義に汚染されたキリスト教というわけです。

このように神の恵みに加え、人間の善行や宗教的行為によって救いが完成すると言うアルミニウス主義、人間の可能性と価値から出発した別の福音が、神の恵みを辱め無意味にするのだと、パウロが今、深刻な顔でこれを指摘しているのです。

キリストの十字架の恵みを完全な恵みとして受け取れず、その恵みに人間の行いを挟み込もうとし、また人間の欲望を満たすためにイエスの名を売り渡したり、あるいは自己実現のためのイエス仕え、人格陶冶のための聖書勉強といったものが、すべて神の恵みを無駄にするものであり、さらに進んで福音を妨害する十字架の敵となるというのです。

ピリピ書を見ると、パウロが彼らに対して非常に鋭く非難しています。

あなたがたの神は、あなたがたの腹である。

。一言で言えば、あなたがたには神に対する知識も信仰もないということです。

神の裁きを待つ肉体となってしまった人間です。

 

今日でも彼らと変わったところは全くありません。

この世は、そして世の教会は変わってはならないのです。世の終わりまで変わってはなりません。

なぜなら、彼らから分離して出てくる聖徒の聖さのためです。

聖さは、そのように分かれることによって現れるものであり、世は彼らの役割を果たさなければならないからです。

このように、地上のことを考える者たちと天上のものを探す者たちの分離が、今も教会と名乗る世の中で起きており、そのことは世の終わりまで続くべきことです。

パウロのすべての手紙には、恵みの福音と恵みの福音でないものについて明確に語られています。

 

(コロサイ3章)

1 だから、あなたがたがキリストとともに復活させられたのなら、上のものを求めなさい。そこにはキリストが神の右の座に着いておられます。

2 上のものを思い、地上のものを思ってはなりません。

3 あなたがたは死んだ者であり、あなたがたのいのちはキリストとともに神のうちに隠されているからです。

4 私たちのいのちであるキリストが現れるとき、あなたがたもキリストとともに栄光のうちに現れるのです。

 

今、使徒は私たちに何と言っていますか?「あなたがたは死んだ」と。神が見られる視点では、アダムから出た私たちのこの体はいのちではない、あなたがたが息をし、食べ物を食べ、動くといったことは命であっていのちではない、ということです。

神が語られるいのちは、キリストのうちに、神のうちに隠されているのです。

ですから、上のものを求めなさいと言うのです。神はこの全世界を死んだ世界として見ておられます。

死んだ世界の中に生きる聖徒たちがいるのです。そして、その生きる聖徒たちの命は神の中に隠されています。

そうして、この世には二種類の人しかいません。聖徒と聖徒でない者、生きる者と死んだ者です。

イエス様はヨハネの福音書で御自身を指してこう言われました。「わたしが道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」

「わたしが道である」という言葉は実に興味深いものです。

この世は脱出すべき世界だという意味です。私があなた方を脱出させる唯一の道だというのです。

すべての宗教人が求めているものは何でしょうか?真理、道です。

よく得道したと言いますよね。道を悟ったというこの全てが道を探すことです。

しかし、いくら探してもその道はこの世にはありません。その道は天から私たちを直接訪ねてくる道です。

そしてその道によって見出された者だけが真理を知り、彼らだけが救いがあります。

また「私は真理である」という言葉は、この世には真理がないという意味です。

真理は永遠でなければなりません。変わらなければ真理です。

しかしこの世のものはすべて変わり、朽ちて消えていくものです。

それでも宗教者たちは真理を探そうとします。誰が言ったでしょう?「朝に真理を悟れば、夕方に死んでも構わない」と。

しかし神と断絶した人間には真理を見つける能力がありません。イエスだけが真理です。

そしてイエス様は「私は命である」と言われます。

イエスだけが命だということです。

アダムが善悪の知識の実を食べた時、神様は「食べてはいけないと言った善悪の知識の実を食べたから、お前は死ぬ」と言われました。

アダムの中にいる全ての人類が死んだのです。そうして死んだ世界に、真の命である方が来られました。

ところがその方が来られると、

この死んだ世界が「あの人間のせいで私たちが死んだ世界だと露呈した」と、あの人間さえいなければ私たちは何の問題もないと言いながら、命であるその方を殺してしまったのです。

その時以来、世界は神の裁きの下にある世界、終末なのです。

 

しかしその死、その十字架を使徒はコリント人への第一の手紙で何と言っていますか?

それが神の知恵であり力だと言っています。その死の中に新しい命が生まれるのです。

私たちの罪によるその死を、神の契約の死へと変えてくださる、これが神の知恵であり力なのです。

だから使徒は、その十字架以外は何も知ろうとしなかったのです。

 

今日私たちに与えられたこの聖書の言葉、使徒の手紙たちもまた、彼ら生ける者だけに与えられた言葉です。

だから世の宗教者たちは聖書を百回読んでも理解できず、必ず誤解するのです。

自分自身の言葉としてしか理解できないのが、私たち罪人の限界なのです。

真理として理解できなければ正常なのです。

だから今日の本文を見ると、キリストとベリアルがどうして調和しうるのかと言います。

調和しえないのです。生ける者と死んだ者がどうして共にいられましょうか? できないのです。

信じる者と信じない者がどうして関わり合えようか。

神の神殿と偶像がどうして一致し得ようか…不信者と交わるな、共に事業もするな、結婚もするなというのではなく、根源的本質的にあなたがたは世と分離されているということです。

どのように?私たちが存在するより前の、創世以前の御子の血によって。

そうして運命的に世と分離されたことを、私たちの聖さと呼ぶのです。

世から分離されて出た者たち、生きる者たちに与えられるキリストという義と聖さを守るために、神が共におられた証しが今日の本文で読んだ内容です。使徒パウロに起こったすべての出来事、それがまさに神が私たちの義と聖さを守るための出来事だったというのです。

今、使徒がその話をしているのです。

だからそれがまさに出来事として現れた恵みを受けるべき時であり、救いの日なのです。

そのような神の暴力的な介入、御言葉の出来事なしには、私たちは自分しか知らず、自分だけを愛し、世を追って生きる肉を持っているため、神が共におられる顧みることの出来事が聖徒の生活に必ず起こらざるを得ません。

それゆえ聖徒は、やむを得ずこの世とは異なる時間と異なる日を生きるのです。

それを指して恵みを受けるにふさわしい時、救いの日と言うのです。

エジプトから脱出したイスラエルが荒野で四十年間生きながら、彼らにはこの世とは違う時間が流れたのと同じです。

彼らが荒野の四十年間に経験したすべての出来事が、まさに神が神であることを知らせる出来事であり、恵みを受けるべき時、救いの日であったのです。

 

神はエジプトから脱出したイスラエルの暦を根本から変えられました。

脱出したその日を一年の最初の月とされたのです。イスラエルに与えられた時間は異なると言うのです。

イスラエルが生きる時間はこの世の時間とは違います。

神の民は、そうして永遠の昔から神の契約である小羊の血によって彼らが始まったことを教えるために、イスラエルは出エジプトしたその夜に小羊を屠り、彼らは荒野四十年間、世とは異なる時間と日を生きるようになったのです。

それが出エジプト記12章にずっと記されています。

あなたがたは、あなたがたがエジプトから出てきたその月を、一年の最初の月としなさい…あなたがたは、そのように世と区別された神のものです。

..

今日私たちも同じです。私たちは同じ暦を使い、同じ24時間を生きていますが、私たち聖徒には世とは違う時間が流れています。少し難しく言えば、この世の歴史と黙示を重ねて生きるため、私たちの人生は苦しいのです。

私の計画と目的通りに、私が努力した分だけその結果も私が享受できる幸せな人生を生きたいのに、そんな私たちの人生に絶えず襲いかかる黙示によって、私たちが望む人生を生きられないようにされること――これが神が私たちの義と聖さを守ってくださる御手です。

これがなければ私生児、捨てられた者だと言われます。

このように神が定められた恵みを受ける時と救いの日を知らずに、自分の時間と自分の日を生きていく者たちを聖書は「世」と呼びます。

ヨハネの福音書では、天から来られたイエスとこの世を完全に一線を画しています。

「わたしは天から来たが、あなたがたは地から出た者である」

だからあなたがたがわたしイエスを知らなければ、あなたがたは罪の中に死んでいくのです。

問題は、世がそのイエスを知る方法がなかったことです。

だから選択はイエス様のみにあるのです。

「父がわたしに与えてくださった者を、ひとりも失うことなく、終わりの日にみな復活させること」

そうしてこの地で生まれた者たちがイエスを見分ける方法がなかったのに、弟子たちでさえ知りませんでした。

だからイエス様が十字架を背負い死なれた後、三日目に復活して父のもとに帰り、聖霊が来られる必要があったのです。

キリストの霊、真理の霊が私たちに来られる時、初めて私たちの目が開かれます。

十字架につけられたあの方が主でありキリストであったのだ…あの方が神であったのだ…これを悟るのです。

聖霊を受けたとは、主の成し遂げられたことが私の現実となったことを知るということです。

皆さん、見てください。信じる者と信じない者、恵みを知る者と知らない者は、外見上は皆同じ時間と日々を生きているように見えますよね。同じカレンダー、同じ時計を使い、同じ太陽と月と星の下で生きています。

しかし聖徒はその時間と日々に対する認識、感覚が違います。同じ時空に閉じ込められているように見えても、その時間と空間、その宇宙が彼らを閉じ込めることのできない者たちが聖徒です。

 

だからこそ彼らだけが世界と歴史に対する認識が異なり、解釈が違います。言い換えれば、このすべての宇宙万物が彼ら聖徒に解釈されるために存在しているというのが聖書の記録です。

これが聖徒の身分であり、アイデンティティなのです。

言い換えれば、この宇宙の万物は彼らのために存在し、彼らによって名付けられるためにあるのです。

ローマ人への手紙8章に記されています。すべての被造物が今も嘆きながら、神の子らが現れるのを待っている。

その子らによって、自分たちが創造された本来の姿に呼び戻されることを望んでいるのです。

神が配置されたすべてのものの真の意味は、聖徒によってのみ読み解かれるという意味です。

だからこそダビデはこう言います。

 

(詩篇8篇)

1 主よ、わが主よ、あなたの御名は、地の果てまで、なんと美しいことでしょう。あなたの栄光は天を覆っています。

2 あなたの敵のために、幼子や乳飲み子の口によって、力強い御業を立てられました。それは、敵と復讐者たちを黙らせるためです。

3 あなたの指で造られたあなたの天と、あなたが備えられた月と星とを、私は見ます。

4 人は何者であって、あなたが彼を顧みられるのですか。人の子は何者であって、あなたが彼を顧みられるのですか。

5 あなたは彼を神より少しも劣らないものとし、栄光と誉れをもって彼を冠せられました。

6 主の手で造られたものを治めさせ、すべてのものをその足の下に置かれました。

7 すなわち、すべての牛や羊、野の獣、

8 空の鳥、海の魚、海路を行くものすべてです。

 

聖徒は世のすべてを見る時、その中に宿る神の栄光を見なければならないのです。

彼らだけが神の御名を賛美できるのです。

これが違います。春になれば八公山に桜が咲くでしょうが、それを見てただ「わあ、きれい、美しい」で終わるのではないのです。

この世のすべての万物の中にある神の栄光、その神の名をダビデが賛美したのです。

詩篇19篇にも同じ言葉が出てきます。

単に日と月と太陽と時間の流れではなく、ダビデがそれをどのように語っているかを見てみましょう。

 

(詩篇19篇)

1 天は神の栄光を語り、大空は御手のわざを示す。

2 日は日に語り、夜は夜に知識を伝える。

3 言葉もなく、声もなく、聞こえる音もないのに、

4 その声は全地に満ち、その言葉は地の果てに至る。神は太陽のために天に幕を張られた。

 

これが聖徒が見て読む時と日です。同じ日を生き、同じ太陽の下にあっても、見るもの聞くものは異なります。万物を真理をもって見る者こそ、神の人なのです。

彼らは神が造られたこの宇宙の中で、世と同じ日々を生きているのではありません。

そうして聖徒は、世の外へと移された者たちなのです。

パウロが第三の天に行ったと言ったように、今も光の速度で拡張するこの宇宙の外から、この世を見ることができる者たちなのです。

だから彼らが見聞きすることは、この世と同じであるはずがありません。

彼らはすでに神の国、愛の御子の国へと移された者たちであり、彼らの命はキリストと共に神の中に隠されているため、この世のいかなる被造物も、キリストの中にある神の愛から彼らを引き離すことはできないということを、今も御言葉の出来事の中で学び続けている者たちなのです。

彼らは一時的にこの世に生きながら、彼らの中に刻まれた救いの日の痕跡をこの世に残す者であり、この世に証しする者たちです。

すべての原因と結果が私にあるのではなく、神にあることを彼らだけが知っているのです。

イエス・キリストがアルファでありオメガであり、初めであり終わりであることを知る者たちに与えられた恵みの時、救いの日なのです。

彼らは神と共に働く者たちであり、彼らのすべての行いは神の御業です。

聖徒は家で皿洗いや掃除をしようが、子供を育てようが、外に出て働こうが、すべてのことが神の働きです。そして彼らのすべての日が主の日です。

世の教会のように日曜日に教会に来ることを主日守ると言うのではなく、聖徒にとっては毎日が主の日です。(聖書には主日という言葉はなく、主の日だけがあります) それゆえ彼らは生きても主のために生き、死んでも主のために死にます(ローマ14:7-8)。生きるべき理由と目的を知って生きる人々です。生きるにせよ死ぬにせよ主のものであることを、これを確認させるために、今日の本文4節から10節まで、神がその約束が原因となった出来事が使徒パウロに起こったと記されています。

単なる苦労ではありません。

 

8 栄光と辱めをもって、悪名と美名をもってそうしました。私たちは欺く者のようでありながら真実であり、

9 無名の人であるかのように見られながら有名であり、死んだ者のようでありながら見よ、私たちは生きています。懲らしめを受ける者のようでありながら殺されることはなく、

10 悲しむ者のようでありながら常に喜び、貧しい者のようでありながら多くの人を富ませ、何もない者のようでありながらすべてを持つ者です。

 

これがパウロの人生です。

しかしこの人生は、パウロが望んだものでも計画したものでもありません。

神が引き起こされる出来事の中で、やむを得ずこのような人生を生きたのです。

なぜなら、神の恵みをむなしく受けないため、神を知るために与えられた人生だからです。

こうした出来事を通して、私たちは神が私たちと共におられることを実感します。

私たちが望むことがすべて成就し、私たちの計画通りにすべてが進むなら、私たちは神を求めるでしょうか?求めません。

だからこそ聖徒は、4節以降に出てくるこうした苦難と患難の中で、私たちと共におられる私たちの主、私たちを握りしめておられる私たちの主の手の感触と体温を感じるのです。

それを別の言葉で愛と言います。

最後まで続く愛なのです

このように神の民は、神の中にあって神と共に歩みながら、日と月と年という時間の流れから離れています。

神の出来事を生きる聖徒には、この世の時間とは異なる時間が流れると述べましたね。

言い換えれば、私たちはこの地からすでに永遠を生きているのです。

過去・現在・未来という水平的な時間ではなく、垂直的な時間、すなわち完了した未来から来る時間を生きているのです。

永遠の現在というその時間を、一瞬一瞬生きているのです。

私たちがそれを正しく感じられるように、神が与えてくださるこうした出来事が、私たち聖徒の生活に頻繁に起こります。

それを本文では恵みを受けるにふさわしい時、救いの日と言います。

 

それゆえ使徒は、私が神と共に働く者としてあなたがたに勧めるのですが、神の恵みをむなしく受けないでください… 繰り返しますが、コリント教会にはすでに神の恵みを無駄にする別の福音が入り込んでいたため、ここで私たちは神の恵みを無駄にする別の福音について改めて確認する必要があります。

私が今日の講話に入る前に申し上げたのはそのためです。今日、すべての世の教会、韓国キリスト教を覆っている別の福音を、私たちが頻繁に確認する必要があるということです。

使徒がこのように繰り返し言うのには、それなりの理由があるからです。

キリストの栄光の福音の輝きを覆い隠そうとするこの世の神の働きが、この世の終わりまで絶えることがないためです。

そして彼らは彼らの役割を果たさねばならないため、今日を生きる私たちも、いくらでも別の恵み、別の福音に惑わされる可能性があるからです。

私たちがよく宗教改革と呼ぶ、16世紀ローマ教会の別の福音に対して宗教改革者たちが叫んだ五つの信仰告白がありますね?

その五つとは何でしょうか?

Sola Scriptura、Sola Christus、Sola Gratia、Sola Fide、Sola Gloria…

彼らはなぜローマ教会に向かってこれを叫んだのでしょうか?そこには理由があります。

Sola Scripturaは「ただ聖書のみ」という意味です。

では、当時のローマ教会は聖書だけが真理ではなく、他のものも真理として認めていたということになります。

それは何でしょうか?教会です。

彼らが聖書よりも真実と認めていたのは教会でした。

私たちが二千年の教会史を学ぶと、絶え間ない争いがあったことがわかります。

十字架という真理か、それとも教会かという争いです。

十字架と教会の争いです。実に皮肉ですね?この二つが互いに反対側に立って争ってきたのです。

なぜでしょうか?人間が求めるものが、イエスの十字架という真理よりも教会だからです。

私が投影され拡張された対象としての教会、地上の可視的な教会です。

十字架は見えないので、宗教家たちは十字架の福音には関心がありません。

そして彼らの教会の頭は教皇です。カトリックは今も福音による救い、十字架による救いではありません。

カトリックという自らの教会に所属してこそ救われるのです。

つまり彼らの教会こそが真理だということです。教会が真理であり、教会の歴史が真理なのです。

これがまさに神が恵みによって与えた救いを変質させたものです。

今日でも世の教会が今まさにそのことを行っています。神の恵みを無駄に受ける者たちです。

そして二つ目はSola Christus、「ただキリストのみ」です。

するとこれもまた、キリストが全てではなく、キリストの十字架の功績だけで救われるのではないという意味です。

十字架に人間の熱心、人間の宗教的行為、人間の功績といったものが加わって救いが完成するというこのアルミニウス主義がカトリック、メソジストなどであり、今では長老派、バプテストを問わず広く蔓延しています。

これほどまでに人間は人間の価値と可能性を放棄できません。アダムの自尊心です。

なぜ私たちが恵みだけで救われ、十字架だけで救われるのか?

不十分でも私たちにもできることがあるじゃないか…だから教会の牧師たちは信徒の熱心に拍車をかけるため、あらゆる手段を動員するのです。動機付けですね。今でもカトリックは聖人たちの功績が教会に仕える者たちにも分け与えられると言います。

だからあなたがたが熱心に聖人たちを見習い、死者のために祈れば、先に死んで煉獄にいる者たちを救うことができると言うのです。宗教行為の可能性です。

そうして人間の価値と可能性から一歩も離れられない人間中心主義に基づく宗教集団がローマカトリックです。

口では神の栄光を叫びながら、実は自分たちの栄光のための教会史が展開されてきたことを、私たちは教会史を通して知ることができます。

その教会史を見ると、世俗の権力と教会の権力の癒着と葛藤、中世ではこれが非常に熾烈でした。

今日でもさほど変わりません。

教会がなぜそれほど金銭や不動産を貪るのか?力を蓄積するためです。

世と区別されるべき教会が、世が力と考えるもの、世が価値と考えるものを同じように好み、また教会がそれらを蓄えているのです。結局は自己の栄光です。

黙示録ではそれを 「自らを栄光に輝かせ、贅沢な女王、淫婦」と呼んでいます。

 

最近、民主党が一つ立法を行いました。現在常任委員会に上程されており、間もなく本会議で可決されるでしょう。

その内容は、政府が教会を自由に調査し、教会を解散できる法律です。結局、世俗の権力、国家権力が教会権力と対決するのです。彼らにとって教会が軽んじられる存在になったのです。

お前たちも我々のように金が好きで不動産が好きではないのか、ということです。

教会が世との区別がないから、世の権力はそれを知り、教会も我々が管理しようというのです。これが結局、世俗と区別がなくなった教会の悲惨な末路です。

今日のニュースを見ると、イランのハメネイが空爆で死亡したそうですが、彼らも結局は宗教戦争なのです。ハメネイが60年間イスラム教義でイランを統治してきたのに、トランプはそんなイラン国民に自由を与えるという名目を掲げて叩きのめしているのです。

ではトランプは真理なのでしょうか?この世の歴史は実に興味深いものです。

しかし私たちが知るべきは、世の歴史の主は神であるという事実です。

そしてその歴史には必ず終末があるのです。

だから黙示録を見ると、教会をバビロンと呼んでいます。悪霊の住処とも言うのです。そしてそこで取引される商品が人の魂だと言われています。

ペテロの手紙には、神の裁きがすでに教会、神の家から始まっているとあります。淫婦の混ぜた酒に酔った宗教者たちの集まり、彼らへの警告が黙示録18章に出てきます。

すでに世の教会に対する裁きが実行されたということです。

(黙示録18章)

1 この後、もう一人の御使いが天から降りて来るのを見た。その御使いは大いなる権威を持っており、その栄光によって地が照らされた。

2 力強い声で叫んで言った。「倒れた、倒れた。大いなる都バビロンよ。悪魔の住む所、あらゆる汚れた霊が集まる所、あらゆる汚れた、忌まわしい鳥が集まる所となったのだ。」

3 その淫行の怒りのぶどう酒によって、すべての国々は倒れた。また地の王たちは彼女と淫行をし、地の商人たちも彼女の贅沢の力によって富んだ。」

これが世の教会の裁きです。

すでにその裁きは始まっています。主が彼らを放っておかれたのです。

 

次はSola Gratia、「ただ恵みによって」です。

先に申し上げたことがすべて神の恵みを覆い隠して敵対するためのサタンの働きであるように、宗教改革者たちが宣言した五箇条のすべてが偽りの恵み、安っぽい恵み、別の恵みによって人々を教会の中に閉じ込めようとするこの世の神に立ち向かい、霊的な戦いを戦った者たちがまさに宗教改革者たちです。

エペソ書6章に出てくるあの戦いですよ。それほど「ただ恵みのみ」は聖書の核心思想です。

しかし「ただ恵みのみ」を改めて主張しなければならない理由は、私たちの体、善悪の知識の実を口に含んで生まれた私たちの肉体が、

このアダムの自尊心がただ恵みを極度に嫌うからです。

一言で言えば、恵みを恵みとして受け取ることができない体が私たちの体であり、私たちの限界です。

以前もお話ししましたが、ある乞食が地下道にうつ伏せになっていたところ、人々が通りかかって小銭でも投げるとカランという音がするじゃないですか。

ある時、誰かが何かを入れたのに音がしなかったそうです。

不思議に思って見ると、誰かが百万円の小切手を一枚投げ入れて行ったのです。そこで乞食は、どうしてこんなことがあり得るのかと悩み、家に帰って夜通し考えた末の結論が、朝に自分が器をきれいに磨いて出かけたから、こんな良いことが起きたのだというものでした。

これが人間の限界です。恵みを恵みとして受け取れないのです。必ず何か人間のものを恵みに介入させなければならない。これが安っぽい恵み、別の恵みです。

恵みをむなしく受けるということです。

 

神が私たちに恵みとして与えてくださったものは何ですか?無に等しい私たちを存在させる命を与えてくださったのです。コリントの信徒への手紙一に出ていますよね。私たちに聖霊を与えてくださった目的は何かと言えば、神が恵みとして与えてくださったものを知らせるためです。その反対が、その恵みだけでは不十分だ、人間の努力と熱意が必要だという考え方です。

これが別の福音であり、恵みをむなしく受けることです。

何千億、何兆というお金を与えても、私たちの命は得られません。

ですから命は、本当に尊いものは神が恵みによって与えてくださるのです。

空気、日光、水…恵みは私たちが受ける資格があるから受けるものでもなく、またその恵みは返せないからこそ恵みとして残るのです。

しかし私たち人間の罪性は、恵みを恵みとして受け取れません。

善悪の知識の木の実を食べたすべてのアダムは、神の恵みによってのみ存在する私たちの最初の居場所を蹴って出て行った罪人たちです。

善悪の知識の木の実を食べれば必ず死ぬと言われたのに、食べてしまったじゃないですか。

私たちがいるべきあの最初の場所、神の恵みによってのみ存在するあの最初の場所を蹴って出て行ったのがアダムです。

そうして神の恵みに対する根源的な反感を抱いているのが私たち罪人だということです。

罪人と言うからには、ただ単に罪人なのではありません。

少し嘘をついたり悪いことをするから罪人なのではありません。

生まれながらに救いようのない罪の体なのです。

罪を犯そうとして犯すのではなく、罪人には罪しか生まれません。

ダビデがそう言ったでしょう。「私は母の胎内から罪人である」と。

神を極度に嫌う罪人、神の本性上、恵みを嫌う罪人なのです。なぜ私たちは神の恵みによってのみ存在するのか?

人間にできることも多いのに…

今日、見てください。神に代わって神の座を占めているものは何ですか?お金、科学、政治経済…見てください。

今やAIにできないことなどありません。ロボットが全てをこなします。

生命科学は人間を複製します。

神の座を科学が占めているのです。そして全世界を経済という網の目でびっしりと閉じ込めています。

イエス様はこう言われました。「あなたがたは神と富とを同時に仕えることはできない」と。

富こそがマモン神なのです。

すでに今日の社会はマモン神の網の中にすべて閉じ込められています。

金を仕えなければ死ぬというのです。金に勝てる者は誰もいません。

ジャック・エルールが言ったように、金に勝つ方法はただ一つ、金をただ捨てることだと

そんな中で、金に仕えない者たち、神以外には、その命以外には知ろうとしない者たちを、神はまだこの地に残しておかれたのです。

それをどうして知っていますか?今朝も太陽が昇ったからです。最後の聖徒一人の首が斬られてキリストの体として完成される時、

その時には太陽も月もこの世も全て焼き尽くされて消え去ります。

聖書はそう語っています。

聖徒とは、その最後を今生きている者たちです。

 

私たちもお金は好きですよね。お金がなければ生きていけませんから。

しかし神様は、そのお金が命ではないことを教えるために、

私たち聖徒の人生には神が引き起こされる出来事があります。

お金で生きるのではなく、恵みによって生きることを体験させる出来事です。

簡単に言えば、力だと思っているものを払い落とされるのです。

その時になって初めて、恵みの主が見えるからです。

今日のローマ教会から改革して出てきたというプロテスタントでさえ、恵みを口にしながら生きていても、「ただ恵みによって」とは程遠いのです。皆、恵みを無駄に受けているというわけです。

見てください。リバイバル会の講師たちを見ると、あからさまに騒ぎ立てています。

神の恵みに報いることを知らない泥棒どもだと。

しかし神が与えてくださった命という恵みを、いったいどう報いるというのですか?お金で返せるでしょうか?

お前たちは良い家に住みながら、神の家を見てみろ、雨漏りしていると言いながら建築献金を強要する、

そんな行為こそが恵みを無駄にするものだということを、彼らは知らないのです。

繰り返しますが、神の恵みは返せないからこそ恵みとして残るのです。

だからこそ「ただ恵み」なのです。

恵みを受ける資格のない者に与えられた恵みだからこそ、ただ恵みなのです。

そしてその恵みは返せない恵みであるからこそ、その恵みだけを永遠に賛美することが、私たちを造られた目的としての恵みの栄光なのです。(エペソ1:6,12)

ところが、その恵みを何で返すというのか、教会にお金を捧げろと悪事を働くのか。

教会が恵みを返そうとする行為とは、せいぜい不動産を買い漁り、町一つ丸ごと買い占め、裏金を作り、数千億もの礼拝堂を建て、海外に出て別のイエス、別の福音で地獄の子を倍増させることしかできないのです。

だから十字架の道は、彼ら世の教会に向けて宣べ伝えなければならないのです。

黙示録に出てくる大いなる都の道端に立つ二人の証人こそが彼らだと言います。

なぜ二人の証人か分かりますか?イエス様と共にいるから二人の証人なのです。

その二人の証人がなぜ道端に立っているのか?大いなる都バビロンから追い出されたからです。

ですから聖徒は、イエス様が世から追い出されたように、あの大いなる都から追い出された者たちです。

ですから昔一緒に通っていた教会の人々を説得しようなどと考えないでください。説得はできません。

彼らに十字架の話を持ち出してみてください、喜ぶでしょうか。

一緒に交わることはできないのです。どうしてキリストとベリアルが共にいられましょうか?できません。

一緒に食事をし、お茶を飲むことはできても、福音は共に分かち合うことができないのです。

バビロンという世の教会から追い出され、主と共に大いなる都の道端に立つ聖徒が、その大いなる都に向かって叫ぶのです。

そこから出て、その罪に加わってはならない。その受ける災いに遭ってはならない。

神の敵となった教会のために荒野で叫ぶ者の声となることが、聖徒の務めです。そしてその声は消えゆく声です。反応のない声です。

そうして消えゆくことが、声の美学です。

 

神の恵みをむなしく受け、神の恵みを冒涜する者たちの集まりこそが、今日の世の教会、大韓イエス教なのです。

 

次にSola Fide、「ただ信仰によって」…これもまた、神の恵みが何かを知らない者たちが、信仰の代わりに差し出すものがあるからこそ、宗教改革者たちが「ただ信仰によって」を語ったのです。

聖書で信仰が登場する時は、あなたがたの行いではないと言うのです。

だから信仰なのです。ローマ書に出ていますよね。信仰によって信仰に至る。

私たちには信仰そのものがないため、神はただ信仰によってのみ救われるのです。

あなたがたのどんな行い、どんな熱心さ、どんな宗教的行為、どんな律法的行為を全て差し出しても、あなたがたは救われないというのが十字架の福音です。

しかし人間が規定した善い行いがありますよね。善行体系。いかなる倫理的・道徳的な善い行いも、神は認められないという教えこそが、ただ信仰なのです。

言い換えれば、罪人からは罪しか生まれません。

どんなに善いことをしても、神の目には悪に見えるのです。

なぜでしょうか?私たち人間の善い行いの中には「自己義」が入り込んでいるからです。

ローマ書でパウロが責めた「自己義」です。パウロはどんな人物でしょうか?

律法の義においては欠点のない人です。

しかし、そのように律法の行いにおいて欠点のないパウロが、後にイエス様に出会った後、その善い行い、義なる行いがすべて糞の如きものだと語ったのです。

その中には結局、自分のための、自分の救いのための自己義、貪欲だけが満ちていたというのです。

そうして罪人には罪しか生まれません。

ローマ書3章で何と書いてあるでしょうか?義人はいない、ひとりもいない。

神を求める者も、悟る者もいない。それなのに、この人間中心主義に染まった罪人たちは、人間の行為の可能性、善行の可能性を絶対に諦めません。

聖書の真理を教えるべき神学校でさえ、旧約の律法の中でも祭祀法や清めの規定などは十字架によって成し遂げられ廃止されたが、

今も守るべき法があると言い、それが道徳法・倫理法だと言うのです。

以前もお話ししましたが、道徳倫理は時代ごとに異なり、地域ごとに異なります。

絶対的なものではありません。昔の高麗時代には、親の年齢が七十歳になると高麗葬を施しました。

山に捨てるのが当時の倫理であり道徳でした。文化だったのです。

アフリカに行けば今でも外部から客が来ると自分の妻を差し出します。

それが彼らの倫理であり道徳だというのです。そんな世の中に[神がイスラエルを通して律法を与えられたのです。

あなたがたは律法の一つも守れないということが律法を与えられた目的です。

律法はそんな人間たちの罪、不可能性を悟らせるために与えられた律法なのです。

それにもかかわらず、律法の道徳倫理規定は生き続けており、信徒が律法の一部を守らなければならないと教えるのが今日の神学校です。このようなことが、ただ信仰によってのみ救われるという聖書の教えを正面から否定する行為による救いとなります。

善良に生きないというわけではありません。人間なら人間らしく善良に生きるのが正しいのです。

しかし、それが聖書が語る義でも善でもないということを申し上げているのです。

今日の「恵み+律法行為」で救いが完成するという行為救済論から生まれたのが上級の論です。

どれほど熱心で、どれほど善行を多く積むかによって天の報いが異なるというものです。

呆れます。ところが、このような差別的報い論が今ではほぼ普遍的な教理となっています。

十字架の恵みによって救いは受けるが、報いは異なるというのです。

十字架にかけられた強盗と、死ぬほど苦労しながら福音を伝えたパウロが、天国で同じ待遇を受けられるでしょうか。実に人間的な考えですね?このような戯言を語っているのが、今日の世の教会の大半です。

十字架の敵となった教会です。

今日の本文に出てくる神の恵みを無駄にした者たち。

恵みがどんなに不可能な罪人たちに無償で与えられたものかを知らないから、そんな恵みを受けたことがないから、こんなことを言うのです。

神の子を罪人たちに与えられたこと自体が耐えがたい恵みであり報いなのに、何の別の報いを受けようとしてそんなことをするのか分かりません

。彼らの言うように、天国でも誰かは百坪のマンションに住み、誰かは共同宿舎に住むなら、そこが天国でしょうか?もしそんな天国なら、そこでまた階級闘争が起こり、共産主義が生まれます。そんな天国はありません。

 

一言で言えば、今日の宗教人たちは信仰が何なのかも分からずに、イエスを信じてみようとして教会に集まっているのです。彼らにはただ信仰がないというのです。

これが神の「見捨て」なのです。信仰とは、神が創世の前から定められたお方、主イエス・キリストとの関係においてのみ成立するものです。その方に見出される関係という意味です。その方に見出されて初めて、信仰によって義と認められることが示されるのです。信仰とは、そうしてその方との関係を結ぶことなのです。

しかし、その関係を私たちが作り出せないことが問題なのです。

だから信仰は恵みの賜物としての信仰です。

それをエペソ人への手紙2章ではこう語っています。

「あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われたのです」…恵みと信仰は同じ意味です。

「これは、あなたがたから出たものではなく、神の賜物です。行いから出たものではありません。

だれも誇ることができないためです」とあります。

このように恵みと信仰は一つです。しかし、イエスを信じたからといって報いを受ける?

そんなことを言う者たちは、イエスを信じたことのない者たちです。真理の愛を受けたことのない者たちです。

聖書が語る報いはただ一つです。神ご自身を捧げられた、それが報いなのです。

アブラハムに神がそう言われたでしょう。「わたしがあなたの報いだ」と。それなのに、いったいどんな報いをまた受けようというのですか?

神を受け取ればすべて受け取ったのに、まだ別のものを探すというのは、私は神とは無関係な者だという意味です。

信仰がない、神と和解したことがない。だから宗教改革者たちはローマ教会を見て「ただ信仰のみ」と叫んだのです。

さあ、このように恵みではないもの、信仰ではないもの、真理ではないものを通して、恵みとは何か、信仰とは何か、真理であるイエス様が誰であるかを、ご自身の民に教えるために、神はこの世のすべての万物、すべての歴史を今も進行させておられます。

コリントの信徒への手紙一に出ていますよね。世の万物はすべてあなたがたのものだと。

そしてあなたがたは誰のものか?キリストのものだと。

さあ、このように聖徒に与えられたもの、そして聖徒に起こるすべての出来事は、神の恵みを恵みとして知らせる出来事なのです。

私たちに、なぜ恵みでなければならなかったのかを知らせる出来事だということです。

「私が恵みを与える時にあなたを聞き、救いの日にあなたを助けた」という御言葉が今、成就していることを、私たちに人生の現実として示してくださっているのです。

ですから、イエス様が弟子たちに神の国を宣言された時もそうでした。

人々に常にたとえで語られ、その後弟子たちだけを別に集めてそのたとえを解き明かして説明されたのです。

「あなたがたは彼らとは違うのだから」

ですから今日においても、パウロが伝えたこれらの言葉を真理として理解するのは、神の人々だけが理解するのです。

パウロはすべての人にこの言葉を伝えたのではなく、来るべき世代の血で贖われた教会に伝えた言葉なのです。

そうして私と皆さんは、神の恵みをむなしく受けることのできない、神の血で贖われた教会であることを、使徒が私たちに与えてくださった言葉を通して改めて確認できます。

それゆえ、この恵みの福音だけで不足のない私と皆さんとなりますように。

なぜ十字架なのか?なぜ十字架の恵みなのか?その恵みの必然性について、私たちは日々確認される人生を今日生きているのです。

 

祈ります。

 

父なる神様、今日使徒が私たちに伝えてくださった御言葉を分かち合いました。

この御言葉の中で私たちが神の御心と神のご意志を知ることができ、また私たちがその神のご意志を持ってこの世を生きることができるよう、真理の聖霊が私たちと共におられますように。私たちの主イエス・キリストの御名によって祈ります。

アーメン。

 

 


 

<고린도후서 6:1~10> 170강 은혜를 헛되이 받지 말라

 

 

본문 : 고린도후서 6:1-10

오늘 본문 말씀에 들어가기 전에 오늘날 세상 교회들을 오염시키고 있는 다른 복음, 다른 예수에 대해서 먼저 말씀드리고 본문에 들어가겠습니다.

 

오늘날 무당 종교가 되어버린 현대 기독교의 실상, 그 내용을 들여다보면 대표적인 게 기복주의죠. 복에 환장한 기독교, 번영신학, 고지론, 거기에 양념으로 뿌려놓은 게 신비주의, 그리고 인간의 이성에 포착되지 않는 것은 인정하지 않겠다는 합리주의, 다원주의, 자유주의 신학의 영향을 받은 사회정의를 위한 기독교, 예를 들어 공동체 운동, 생명 운동, 노동 운동 이 모든 것의 밑바탕에는 인간에 의한 인간을 위한 인간의 세상이라는 인본주의가 깔려 있습니다.

그래서 우리 믿음의 선진들처럼 예수 그리스도와 십자가만 전하는 교회를 찾아보기가 거의 불가능한 실정입니다.

우리 교회만 하더라도 많은 사람들이 다녀갔는데요 그들이 원하는 게 있어요. 그게 뭔가 하면 내 삶에 도움 되는 예수, 나를 위로해 주고 힘이 되어주는 하나님을 이야기해 달라는 거예요. 십자가만 이야기하지 말고 부활도 이야기하고, 치유의 하나님, 위로의 하나님, 그리고 세상을 어떻게 살아야 하는지 그렇게 실질적으로 도움이 되는 예수를 원한단 말입니다.

 

그러나 성경에는 그런 내용이 없어요. 예수님의 사도들, 그러니까 성경을 쓴 그들은 이 땅을 다녀가신 하나님 그 예수 그리스도와 그가 못 박히신 십자가 외에는 알지 않기로 했단 말이에요. 왜 그랬을까요? 하나님의 창조 자체가 우리 인간을 위한 게 아니란 걸 알았기 때문입니다.

하나님의 창조는 성자 예수 그리스도를 위한 창조이고, 하나님의 형상으로 지음을 받은 인간은 그 예수 그리스도 안에서만 존재가 가능한 피조물이에요. 아들의 피라고 하는 창세 전 언약의 대상으로서 그의 몸 된 교회이기에 하나님의 약속인 십자가를 떠나서 인간의 행복이나 세상 발전을 위한 예수는 없다는 것이 성경의 일관된 진술입니다.

이게 복음의 진리예요.

그러나 오늘과 같이 복음의 진리가 실종된 현실에서 고집스럽게 십자가 복음을 전하고 나눈다는 것은 그야말로 세상 교회들이 보기에는 미친 짓이 아닐 수 없습니다.

그러나 우리가 분명히 알아야 하는 것은 생명은 그 십자가, 그 언약의 피에만 있다는 사실이에요. 하나님의 뜻은 자기 사람들에게 그 생명 주시기를 원하시는 겁니다.

인간 세상의 행복이 아니란 말입니다.

그래서 성경은 그 하나님을 아는 것을 영생이라고 합니다.

유일하신 하나님과 그가 보내신 자 예수를 아는 게 영생이라니까요. 그게 하나님의 뜻이에요.

출발이 잘못되면 멀리 갈수록 돌아올 길이 먼 법입니다.

하나님의 약속인 예수와 십자가로부터 시작하지 않은 것은 다 무너지게 돼요. 그렇게 예수 그리스도와 십자가에 대한 올바른 지식과 믿음 위에서 우리가 모일 때마다 그 은혜의 복음을 나누고, 오직 예수로만 부족함이 없는 우리 교회가 되기를 빕니다.

제가 지금까지 무식하게 그런 고집을 피워온 것도 그 때문이에요.

그럼, 오늘 본문을 보겠습니다.

 

지난 시간에는 고린도후서 5장을 통해서 그리스도 안에서 이루어진 하나님의 새 창조에 대해서 살펴보았습니다.

아들의 피라고 하는 창세 전 언약이 이 역사 속에서 예수님의 십자가로 성취되었고, 그 사랑의 결과물이 바로 새 피조물로서 저와 여러분인 것을 나누었습니다.

그 새 피조물에 강권하시는 그리스도의 사랑으로 인해서 불가불 우리가 자신을 위해서 살 수 없고 대신 죽었다가 살아나신 이를 위해서 살게 된 것까지가 그리스도의 소유된 자들, 교회의 정체성입니다.

 

그리고 이어지는 6장에는 하나님의 지혜와 능력이신 예수님의 십자가가 삶의 현실이 된 자 곧 교회의 거룩이 어떻게 주어지고 지켜지는지에 대한 바울 사도 자신의 삶이 간증과 권면으로 이어집니다.

쉽게 말하면 우리를 그리스도 안에서 그의 의와 거룩으로 새롭게 창조하신 하나님께서 자기 몸 된 교회의 의와 거룩을 세상 속에서 어떻게 지켜주시는가에 대한 내용이 고린도후서 6장이에요. 바꾸어 말하면 우리에게 입혀주신 그리스도라는 의와 거룩, 그러니까 하나님이 보시는 우리의 거룩은 뭔가 하면 우리에게 옷 입혀주신 그리스도가 우리의 의와 거룩이란 말입니다.

 

옷을 입었다는 말은 우리의 본질, 아담에게서 물려받은 이 몸은 변한 게 없는데, 여전히 하나님을 싫어하고, 여전히 부정하고 더러운 것으로 가득 찬 이 몸인데, 자기만 사랑하고 자기 영광만 챙기는 그런 몸인데도 불구하고 하나님이 우리에게 그리스도로 옷을 입히셨다는 말이에요. 그래서 우리에게 입혀진 그 그리스도를 하나님께서 의와 거룩으로 보아주신다는 말입니다.

그래서 성경이 예수 그리스도를 하나님의 의라고 하는 거예요. 구약에도 보면 모든 물건들을 정결케 하는 게 뭐라고 합니까? 피를 뿌려서 정결케 한다고 하잖아요. 그 피가 생명이고, 그 피가 거룩이라니까요.

그래서 오늘 이 본문은 우리에게 입혀주신 그리스도라는 의와 거룩을 우리가 지켜내야만 우리 구원이 완성된다는 말이 아니고 십자가로 이미 단번에 주어진 그 의와 거룩을 그분의 사랑 안에서 끝까지 지켜주시는 것까지가 하나님 약속의 완성라는 말입니다.

바울이 지금 그 이야기를 하는 거예요. 이걸 알고 오늘 강론을 들으시면 이해가 잘될 것입니다.

 

오늘 본문을 보겠습니다.

 

1 우리가 하나님과 함께 일하는 자로서 너희를 권하노니 하나님의 은혜를 헛되이 받지 말라

2 이르시되 내가 은혜 베풀 때에 너에게 듣고 구원이 날에 너를 도왔다 하셨으니 보라 지금은 은혜받을 만한 때요 보라 지금은 구원의 날이로다

3 우리가 이 직분이 비방을 받지 않게 하려고 무엇에든지 아무에게도 거리끼지 않게 하고

4 오직 모든 일에 하나님의 일꾼으로 자천하여 많이 견디는 것과 환난과 궁핍과 고난과

5 매 맞음과 갇힘과 난동과 수고로움과 자지 못함과 먹지 못함 가운데서도

6 깨끗함과 지식과 오래 참음과 자비함과 성령의 감화와 거짓이 없는 사랑과

7 진리의 말씀과 하나님의 능력으로 의의 무기를 좌우에 가지고

8 영광과 욕됨으로 그러했으며 악한 이름과 아름다운 이름으로 그러했느니라 우리는 속이는 자 같으나 참되고

9 무명한 자 같으나 유명한 자요 죽은 자 같으나 보라 우리가 살아 있고 징계를 받는 자 같으나 죽임을 당하지 아니하고

10 근심하는 자 같으나 항상 기뻐하고 가난한 자 같으나 많은 사람을 부요하게 하고 아무것도 없는 자 같으나 모든 것을 가진 자로다

오늘 본문은 ‘성도란 누구인가’‘교회란 누구인가’에 대한 사도 자신의 이야기를 진술하고 있습니다.

1절부터 사도는 자신을 하나님과 함께 일하는 자, 동역자라고 하면서 너희는 하나님의 은혜를 헛되이 받지 말라고 해요, 그러면서 지금은 은혜받을 만한 때요 구원의 날이라고 합니다.

왜 사도는 은혜받을 만한 때요 구원의 날에 하나님의 은혜를 헛되이 받지 말라고 이야기할까요?

성경은 어느 한 단어나 한 구절만으로 그 진의를 알려고 해서 안 됩니다.

전체 문맥을 통해서 성경이 무엇을 이야기하는가를 아는 게 매우 중요합니다.

그러니까 성경을 통전적으로 읽어야 합니다.

나무 하나만 보지 말고 숲 전체를 보라는 뜻이에요.

우리가 고린도후서를 반년 가까이 나누고 있는데요, 이 고린도후서가 쓰인 목적부터 다시 한번 살펴볼 필요가 있습니다.

그래야 1장부터 지금까지 사도가 무엇을 말하는지 그 흐름을 잃지 않게 됩니다.

 

고린도후서를 처음 시작할 때 말씀드린 대로 이 편지는 사도가 고린도전서를 보낸 후에 고린도 교회가 회개하고 있다는 사실을 디도로부터 전해 듣고 아주 기쁜 마음으로 쓰게 된 편지입니다.

그러나 한편 고린도 교회에 바울이 전한 복음을 왜곡하고 바울의 사도직을 부정하는 거짓 교사가 나타나서 다른 복음을 전하고 있다는 것 때문에 사도는 자신의 사도 직분에 대해서 변호할 필요가 있어서 이 편지를 쓰게 되었습니다.

왜 자신을 변호해야 합니까? ‘나 사도 맞아. 나 하나님의 사도야.’.. 이것 때문이 아니고 바울의 사도직이 부정되면 그가 전한 복음이 부정되기 때문입니다.

그래서 바울은 자신의 사도직을 변호할 필요가 있는 것입니다.

 

그래서 이 고린도후서는 우리 성도들을 향한 그리스도의 돌보심이 어떠하며 그로 인한 바울 자신의 고난, 환난과 같은 자신의 삶과 직분과 사명에 대한 자서전적 내용입니다.

그래서 이 편지에 보면 사도 자신의 삶을 통해서 나타난 그리스도의 사랑, 그리고 그 사랑 안에서 새롭게 된 성도의 신분, 정체성이 어떠한지를 4장과 5장에 걸쳐서 먼저 설명한 후에 하나님의 동역자로서 너희에게 권하는 말이 하나님의 은혜를 헛되이 받지 말라는 것입니다.

그래서 하나님의 은혜를 헛되이 받게 할 그런 원인과 결과에 대해서 사도가 하나님의 일꾼으로서 성도의 정체성과 성도라는 직분에 대해서 설명할 필요가 있었다는 말입니다.

이것을 다시 한번 일깨워줄 필요가 있다는 거예요. 왜? 그게 잘못되면 하나님의 은혜를 오해하고 헛되이 받을 위험성이 우리 모두에게 있기 때문에 그렇습니다.

 

그리고 그 결론으로 14절부터 18절 말씀이 이어지게 됩니다.

한 마디로 성도, 즉 교회는 진리가 아닌 것, 부정한 것들로부터 구별되어야 하고, 이게 너희들의 정체성이며, 그것들과 함께할 수가 없다는 것을 지금 사도가 한 번 더 강조하는 거예요. 너희는 하나님의 은혜를 헛되이 받아서는 안 되는 자들이며 지금은 은혜받을 만한 때요 구원의 날임을 일깨워주기 위해서, 또 하나님의 일꾼으로서의 직분이 성도 모두에게 주어졌다는 그 엄청한 사실, 그 귀한 직분에 대해 사도 자신의 삶을 간증하면서 고린도 교회가 ‘성도란 누구인가’‘하나님의 교회란 무엇인가’에 대해서 바로 알기를 원한다는 것입니다.

그게 3절에서 10절의 말씀이에요.

복음에는 커다란 함정이 있어요. 복음을 듣게 되면 어떤 사람들처럼 복음을 아니까 ‘막살아도 되겠구나’ 또는 그래도 ‘우리가 지켜야 할 최소의 율법이 있으니까 윤리 도덕적인 건 어느 정도 지켜야 해.’.. 이런 건 초대교회부터 쭉 있어 왔던 문제들이에요. 할례라든지 안식일 문제 같은.. 세상 교회들이 지금도 십일조 하라고 하고 주일 성수 가르치는 게 다 그것입니다.

그리고 영지주의자들이 있지요. 오늘날도 그런 사람들 있잖아요. 십자가 마을처럼 막 살기가 복음이라는 사람들.. 복음의 지식으로 자기합리화를 하는 자들입니다.

그뿐 아니라 복음 안다는 목사들도 교회 하기에 정신 팔려서 목회 오래 하다 보면 적당히 세상과 타협하는 모습을 보게 됩니다.

 

이렇게 사도가 전한 복음에는 우리가 오해할 만한 것들이 들어있어서, 오늘 본문처럼 하나님의 은혜를 헛되이 받을 수 있는 것들이 들어있기 때문에 사도가 그 부분을 다시 일깨워주고 있습니다.

 

자 이런 전체적인 그림을 그리면서 본문을 보겠습니다.

1절에 보면 ‘하나님의 은혜를 헛되이 받지 말라’고 합니다.

이미 고린도 교회는 거짓 선생이 들어와서 바울이 전한 복음이 아닌 다른 복음을 전하는 자들이 있다고 했죠? 그들이 전한 다른 복음으로 인해서 하나님의 은혜에 대한 오해가 고린도 교회에 있다는 것을 사도가 전해 듣고 이 편지를 다시 쓰게 된 것입니다.

그러니까 하나님과 함께 일하는 자로서 너희들에게 권한다, 은혜를 헛되이 받지 말라. 이 말씀은 그들뿐만 아니라 앞서 본문 들어가기 전에 말씀드린 오늘날 한국 교회의 문제들과도 긴밀하게 연결됩니다.

어떻게 하나님의 은혜가 더럽혀지고 무시되고 있는가..

우리가 앞서 5장 10절에서 말한 것처럼 바울은 그리스도를 대신한 사신이라고 했어요. 그렇게 하나님의 메신저로서 너희에게 권면하는 말씀인 것을 미리 못 박아 놓고 사도는 고린도 교회가 하나님의 은혜에 대하여 오해가 있다는 사실을 다시 부연해서 꾸짖고 있습니다.

여기서 다시라는 말은 이미 앞에서 이야기한 것들을 반복해서 확인시켜 주기 위한 말씀이라는 뜻이에요. 그게 무엇인지를 한번 보고 가겠습니다.

 

세상 교회에 어떤 문제가 있는가, 이미 초대 교회부터 오늘날까지 세상 모든 교회에 발생하고 있는 모든 문제들..

(고후 4장)

3 만일 우리의 복음이 가리었으면 망하는 자들에게 가리어진 것이라

4 그 중에 이 세상의 신이 믿지 아니하는 자들의 마음을 혼미하게 하여 그리스도의 영광의 복음의 광채가 비치지 못하게 함이니 그리스도는 하나님의 형상이니라

5 우리는 우리를 전파하는 것이 아니라 오직 그리스도 예수의 주 되신 것과 또 예수를 위하여 우리가 너희의 종 된 것을 전파함이라

6 어두운 데에 빛이 비치라 말씀하셨던 그 하나님께서 예수 그리스도의 얼굴에 있는 하나님의 영광을 아는 빛을 우리 마음에 비추셨느니라

이 세상에는 세상 신이 있단 말입니다.

사단, 악마, 마귀입니다.

그런데 우리가 알고 있는 악마 마귀는 우리 인간들을 괴롭히고 내일을 방해하는 존재잖아요. 그런데 성경이 말하는 세상 신은 그리스도 예수의 주되심과 그 영광의 복음의 광채를 가리는 일을 해요. 그게 그들의 본무입니다.

다시 말하면 사단은 사람들을 괴롭히고 일을 방해하는 게 아니라 아주 인간 친화적인 존재입니다.

 

오늘날 세상 교회들이 새벽부터 모여서 빌고 철야 기도하고 하는 게 무엇을 위한 것입니까? 복 받으려는 거죠. 복에 환장한 기독교입니다.

기복주의, 신비주의, 다원주의 이 모든 게 인간을 위한 기독교, 인간을 위한 하나님이잖아요. 그렇게 인간이 원하는 것을 주는 게 세상 신이라니까요. 광야에서 예수님을 시험했던 마귀가 뭐라고 했습니까? 예수 네가 나에게 무릎만 꿇으면 이 세상 영광을 다 너에게 줄 수 있다고 했어요. 그게 모든 인간이 원하는 복음이에요. 오죽했으면 바울이 자기가 복음을 전한 교회에 편지를 보내어 내가 전한 복음 외에 다른 복음을 전하면 하늘에서 온 천사라도 저주를 받을지어다.

. 라고 했겠어요. 이 세상 속 교회는 언제라도 그런 유혹에 빠질 수 있어요. 그리고 이 세상 신 마귀, 귀신들은 동화사나 해인사에 없어요. 그런 곳은 가만히 내어버려 둬도 되니까. 그래서 그나마 예수 이야기를 하는 교회에 전부 있어요. 교회에서 그리스도의 복음의 영광, 십자가 영광이 전해지지 않도록 그것만 가리고 막는 거예요. 교회도 키워주고 선교도 도와주고 수천억짜리 예배당도 짓게 해주고 사람들도 모아주고 다 한다니까요. 단 십자가 복음의 광채 그 영광만 가리는 거예요.

그래서 바울이 말한 은혜를 헛되이 받지 말라는 뜻은 이미 고린도 교회에도 거짓 교사가 들어와서 사람들이 좋아할 다른 복음을 퍼뜨려 놓은 거예요. 인간 중심의 복음, 인간을 위한 복음입니다.

 

그래서 세상 속에 있는 교회는 그리스도의 영광의 복음, 그 십자가 복음의 광채가 비치지 못하게 하려는 세상 신의 역사가 언제나 있을 수 있기에 그런 역사로 인해서 믿는 자와 믿지 않는 자가 말씀에 의해 갈라지게 됩니다.

이게 자연스러운 현상이에요. 복음이 전파되면 당연히 일어나는 현상이에요. 그런데 교회 목사들 늘 강조하는 말이 있죠? 하나 되자. 교회에 분쟁이 없게 하자. 그런데 그게 아니란 말에요. 교회는 치열한 영적 전투가 있는 곳이에요. 단, 올바른 복음이 선포되면 말입니다.

 

그런데 아까 고린도후서 4장에서 뭐라고 합니까? 복음이 가리었으면 망하는 자에게 가리운 거라고 하죠. 이 말을 바꾸어 말하면 망하는 자들은 당연히 복음을 알아듣지 못해야 한다는 뜻입니다.

믿지 않는 자, 그리스도 예수와 관계를 가지지 못한 자, 예수의 피 뿌림이 없는 자, 진리의 사랑을 받지 못한 자는 반드시 세상 신의 미혹을 받아 다른 복음을 좇게 되는 것입니다

그러니까 복음은 모든 사람이 알아듣는 게 아니라는 뜻이에요. 아담에게서 난 모든 인간의 본성은 십자가 복음보다 다른 복음을 좋아하게 되어 있습니다.

그게 본성이에요. 왜 그렇습니까? 선악과를 따먹었으니까요. 선악과는 ‘하나님처럼’ 이잖아요. 하나님처럼 되어서 선과 악을 분별하는 게 선악과의 독성이란 말이에요. 그냥 선악이 아니라 자기중심의 선악, 나에게 좋은 것은 선이고 나쁜 것은 악으로 규정하는 선악 체계가 우리 안에 장착된 채로 태어난다니까요. 그래서 아담에게서 난 모든 자는 자기가 부정되는 십자가 복음을 싫어하고 다른 복음을 좇게 돼요.

사도는 5절에서 이렇게 이야기합니다.

우리는 우리를 전파하는 게 아니다.

. 그럼 세상 신의 사주를 받아서 다른 복음을 전하는 거짓 교사들은 무엇을 전한다는 거예요? 자기를 전하는 거죠. 예수의 주되심을 전하는 게 아니라는 말이에요. 그리스도 예수가 주 되신 것을 전하기 위해 바울 사도는 내가 너희의 종 된 것을 전파한다고 하는데 거짓 선생들은 너희를 종 삼기 위해서 자기를 높이고 자기 것을 전하는 거예요. 이 차이입니다.

 

그렇게 자신을 예루살렘 사도들에게 인정받은 자처럼 추천서를 들고 다니는 자들은 예수 그리스도의 주되심에는 관심이 없습니다.

그들은 어떻게 해서든지 교회를 장악해서 교인들을 지배하려는 목적, 자신을 좇게 하려는 목적을 가지는데, 그게 바로 하나님의 은혜를 헛되이 하는 일입니다.

다시 말하면 원인과 결과가 하나님께 있는 게 아니라 인간 자신에게 있음을 가르치는 거예요. 아주 무서운 일이죠. 이런 자들은 고린도 교회뿐 아니라 바울이 복음을 전한 모든 교회에 나타나서 그리스도의 은혜의 복음을 훼방한 것을 우리는 사도의 서신을 보아 알 수 있습니다.

 

여기서 중요한 게 있는데요 복음에는 반드시 앞에 붙는 게 있어요. ‘은혜의’ 복음입니다.

복음에는 하나님의 의가 나타나서 믿음으로 믿음에 이르게 된다고 하잖아요. 이 복음 안에는 하나님의 은혜가 어떤 것인지, 그리고 하나님의 의로 오신 예수가 누구신지를 설명하는 게 복음이에요. 그런데 거기에다 인간의 가치와 가능성을 끼워 넣는 게 다른 복음이란 말입니다.

오죽하면 바울이 이런 말을 했겠어요.

(갈 1장)

6 그리스도의 은혜로 너희를 부르신 이를 이같이 속히 떠나 다른 복음을 따르는 것을 내가 이상하게 여기노라

이같이 속히 떠나.. 이게 인간의 본성이라니까요. 아담에게서 물려받은 우리 인간의 본성이 은혜의 복음을 극도로 싫어하는 겁니다.

내어버려 두면 다른 복음을 좇게 되어 있단 말입니다.

 

(갈 3장)

1 어리석도다 갈라디아 사람들이 예수 그리스도께서 십자가에 못 박히신 것이 너희 눈앞에 밝히 보이거늘 누가 너희를 꾀더냐

그리스도의 은혜를 떠나서 사람을 좇고 땅의 일을 생각하게 만드는 게 모든 이들이 좋아하는 다른 복음이에요. 사단의 일, 거짓 교사들이 하는 일이 그것입니다.

 

오늘날 대부분의 세상 교회가 이런 다른 복음에 오염되어 있어요. 은혜의 복음을 전해야할 목사가 강단에서 전하는 설교가 전부 다 인간을 위한 인간 중심의 설교예요. 인본주의에 오염된 기독교란 말입니다.

 

이렇게 하나님의 은혜 더하기 인간의 선행이나 종교 행위로 구원이 완성된다고 하는 알미니안 주의, 인간의 가능성과 가치에서 출발한 다른 복음이 하나님의 은혜를 욕보이고 헛되이 한다고 바울이 지금 심각한 얼굴로 이것을 지적하는 거예요. 그리스도의 십자가 은혜를 온전한 은혜로 받지 못하고 그 은혜에 인간의 행위를 끼워 넣으려고 하고, 또 인간의 욕심을 이루기 위해서 예수 이름을 팔거나 아니면 자아실현을 위한 예수 섬기기 인격 도양을 위한 성경공부 이런 것들이 다 하나님의 은혜를 헛되이 받는 것이고 더 나아가서 복음을 훼방하는 십자가의 원수가 된다는 말입니다.

빌립보서에 보면 바울이 그들을 향해서 아주 날카롭게 질타합니다.

너희 신은 너희의 배다.

. 한 마디로 너희에게는 하나님에 대한 지식도 믿음도 없다는 말입니다.

하나님의 심판을 기다리는 육체가 되어버린 인간입니다.

 

오늘날도 그들과 달라진 게 전혀 없습니다.

이 세상은 그리고 세상 교회는 달라지면 안 된단 말이에요. 세상 끝날까지 달라지면 안 돼요. 왜? 그들로부터 분리되어 나오는 성도의 거룩을 위해서입니다.

거룩은 그렇게 갈라짐을 통해서 나타나기 때문이고, 세상은 그들의 역할을 다해야 하기 때문입니다.

그렇게 땅의 일을 생각하는 자들과 위의 것을 찾는 자들의 갈라내심이 지금도 교회라고 이름하는 세상 속에서 발생하고 있고, 그 일은 세상 끝날까지 있어야 하는 일입니다.

 

바울의 모든 서신에는 은혜의 복음과 은혜의 복음이 아닌 것들에 대해서 분명하게 이야기합니다.

 

(골 3장)

1 그러므로 너희가 그리스도와 함께 다시 살리심을 받았으면 위의 것을 찾으라 거기는 그리스도께서 하나님 우편에 앉아 계시느니라

2 위의 것을 생각하고 땅의 것을 생각하지 말라

3 이는 너희가 죽었고 너희 생명이 그리스도와 함께 하나님 안에 감추어졌음이라

4 우리 생명이신 그리스도께서 나타나실 그 때에 너희도 그와 함께 영광 중에 나타나리라

지금 사도가 우리더러 뭐라고 합니까? ‘너희는 죽었고’ 하나님이 보시는 시각은 아담에게서 난 우리 이 몸은 생명 아니다, 너희가 숨 쉬고 밥 먹고 움직이고 하는 이것은 목숨이지 생명이 아니라는 말입니다.

하나님이 말씀하시는 생명은 그리스도 안에서 하나님 안에 감추어져 있다.

. 그래서 위의 것을 찾으라는 거예요. 하나님은 이 전체 세상을 죽은 세상으로 보십니다.

죽은 세상 속에 산 성도들이 있는 거에요. 그리고 그 산 성도들의 생명은 하나님 안에 감추어져 있습니다.

그렇게 세상엔 두 종류의 사람만 있어요, 성도와 성도 아닌 자, 산자와 죽은 자.

예수님은 요한복음에서 자신을 가리켜서 말씀하시기를 “내가 곧 길이요 진리요 생명이니 나로 말미암지 않고는 아버지께로 올 자가 없느니라”고 하셨습니다.

내가 길이라는 말이 참 재미있는 말입니다.

이 세상은 탈출해야 할 세상이라는 뜻이거든요. 내가 너희를 탈출시켜 줄 유일한 길이라는 거예요. 모든 종교인들 찾는 게 무엇입니까? 진리, 길이지요. 흔히 득도했다고 하잖아요. 도를 깨달았다는 이게 모두 길을 찾는 것입니다.

그런데 아무리 찾아도 그 길은 세상에 없어요. 그 길은 하늘로부터 우리를 직접 찾아오는 길입니다.

그리고 그 길에 의해서 찾아진 자들만 진리를 알게되고 그들만 구원이 있어요.

또 나는 진리라는 말씀은 이 세상에는 진리가 없다는 뜻입니다.

진리는 영원해야 해요. 변함이 없어야 진리입니다.

그런데 이 세상 것들은 다 변하고 쇠하여 없어지는 것들입니다.

그런데도 종교인들이 진리를 찾아보겠다고 하죠. 누가 그랬습니까? 내가 아침에 진리를 깨달으면 저녁에 죽어도 좋다고. 그런데 하나님과 단절된 인간에겐 진리를 찾을 능력이 없어요. 예수만 진리예요.

그리고 예수님은 ‘나는 생명이다’ 라고 하십니다.

예수만 생명이란 말에요. 아담이 선악과를 따먹었을 때 하나님이 말씀하시기를 내가 먹지 말라고 한 선악과를 먹었으니까 너는 죽는다고 하셨어요. 아담 안에서 모든 인류가 다 죽었다니까요. 그렇게 죽은 세상에 진짜 생명이신 분이 찾아오셨어요. 그런데 그분이 오시자, 이 죽은 세상이 저 인간 때문에 우리가 죽은 세상으로 드러나니까 저 인간만 없으면 우리는 아무 문제가 없다고 하면서 생명이신 그분을 죽여버렸잖아요. 그때로부터 세상은 하나님의 심판 아래 있는 세상, 종말입니다.

 

그런데 그 죽음, 그 십자가를 사도가 고린도전서에서 뭐라고 합니까? 그게 하나님의 지혜요 능력이라고 해요. 그 죽음 안에서 새 생명들이 태어나는 거예요. 우리의 죄로 인한 그 죽음을 하나님의 언약의 죽음으로 바꾸어 주시는 이게 하나님의 지혜요 능력인 것입니다.

그래서 사도는 그 십자가 외에는 알지 않기로 했다는 것입니다.

 

오늘날 우리에게 주신 이 성경 말씀, 사도의 서신들 역시 그들 산 자에게만 주신 말씀입니다.

그래서 세상 종교인들은 성경을 백독을 해도 못 알아듣고 반드시 오해 해야 합니다.

자기를 위한 말씀으로만 알아들을 수밖에 없는 게 우리 죄인들의 한계란 말입니다.

진리로 알아듣지 못해야 정상이에요. 그래서 오늘 본문을 보면 그리스도와 벨리알이 어찌 조화가 되느냐고 합니다.

조화될 수 없는 거예요. 산 자와 죽은 자가 어찌 함께할 수 있겠습니까? 안 된단 말입니다.

믿는 자와 믿지 않는 자가 어찌 상관하며 하나님의 성전과 우상이 어찌 일치될 수 있는가... 불신자와 사귀지 말고 같이 사업도 하지 말고 결혼도 해서 안 된다는 말이 아니라 근원적 본질적으로 너희는 세상과 분리되어 있다는 것입니다.

어떻게? 우리가 있기도 전인 창세전 아들의 피로. 그렇게 운명적으로 세상과 분리된 것을 우리의 거룩이라고 하는 것입니다.

 

세상으로부터 분리되어 나온 자들, 산 자들에게 입혀주시는 그리스도라는 의와 거룩을 지켜주기 위해서 하나님께서 함께하신 증거가 오늘 본문에서 읽은 내용이에요. 바울 사도에게 일어난 모든 사건, 그게 바로 하나님이 우리의 의와 거룩을 지켜주기 위한 사건들이었다는 말입니다.

지금 사도가 그 이야기를 하는 거예요. 그래서 그것이 바로 사건화 된 은혜받을 만한 때고 구원의 날이라는 것입니다.

 

그런 하나님의 폭력적 개입, 말씀의 사건들이 아니면 우리는 자기밖에 모르고 자기만 사랑하며 세상을 좇아 사는 육을 가졌기에 하나님이 함께하시는 돌보심의 사건들이 성도의 삶에 반드시 발생하게 되어 있습니다.

그래서 성도는 부득불 이 세상과 다른 시간과 다른 날을 살게 됩니다.

그것을 두고 은혜받을 만한 때요 구원의 날이라고 합니다.

 

출애굽한 이스라엘이 광야 사십 년을 살면서 그들에게 세상과 다른 시간이 흐른 것과 같은 거예요. 그들이 광야 사십 년 동안 겪은 모든 사건이 바로 하나님의 하나님 되심을 알게 하는 사건이며 은혜받을 만한 때요 구원의 날이었다는 것입니다.

 

하나님은 출애굽한 이스라엘의 달력을 아예 바꾸셨어요. 출애굽한 그날을 한 해의 첫달이 되게 하셨다니까요. 이스라엘에게 주신 시간이 다르단 말이에요. 이스라엘이 사는 시간은 이 세상 시간과 달라요. 하나님의 백성은 그렇게 영원 전 하나님의 언약이신 어린양의 피로부터 그들이 시작되었다는 것을 가르치기 위해서 이스라엘은 출애굽 한 그 밤에 어린양을 잡고 그들은 광야 사십 년 동안 세상과 다른 시간과 날을 살게 된 것입니다.

그게 출애굽기 12장에 쭉 나옵니다.

너희들이 출애굽한 그달을 한해의 첫달로 삼아라.. 너희는 그렇게 세상과 구별된 하나님의 것이다.

..

오늘날 우리도 마찬가지예요. 우리가 똑같은 달력을 사용하고 똑같이 24시간을 살지만, 우리 성도에게는 세상과 다른 시간이 흐르고 있어요. 좀 어렵게 말하면 이 세상 역사와 묵시를 겹쳐서 살기 때문에 우리 인생이 고달픈 겁니다.

내 계획과 내 목적대로 내가 노력한 만큼 그 결과물도 내가 챙길수 있는 행복한 인생을 살고 싶은데, 그런 우리 인생에 계속 공격해 들어오는 묵시로 인해서 우리가 원하는 인생을 살 수 없게 하시는 이게 하나님이 우리의 의와 거룩을 지켜주시는 보살피심이에요. 이게 없으면 사생아 버려진 자라고 합니다.

 

이렇게 하나님께서 정하신 은혜 받을 때와 구원의 날에 대해서 알지 못하고 자기 시간과 자기 날을 사는 자들을 성경은 세상이라고 합니다.

요한복음에는 하늘에서 오신 예수와 이 세상을 완전히 선을 그어 버립니다.

나는 하늘에서 왔고 너희는 땅에서 났다.

그래서 너희가 나 예수를 모르면 너희는 죄 가운데 죽는다.

. 문제는 세상이 그 예수를 알 방법이 없었다는 겁니다.

그래서 선택은 예수님에게만 있는 것입니다.

“아버지께서 내게 주신 자들을 하나도 잃어버리지 않고 마지막 날에 다 살리는 것”

그렇게 이 땅에서 난 자들이 예수를 알아볼 방법이 없었는데 심지어는 제자들도 몰랐어요. 그래서 예수님이 십자가 지시고 죽으신 후 사흘만에 부활하셔서 아버지께로 가서 성령이 오셔야 해요. 그리스도의 영, 진리의 영이 우리에게 오시면 그때야 비로소 우리 눈이 열립니다.

십자가에 달리신 그분이 주와 그리스도셨구나.. 그분이 하나님이셨구나.. 이것을 알게 되는 거예요. 성령을 받았다는 말은 주님의 다 이루심이 나의 현실이 된 것을 아는 것입니다.

 

여러분, 한번 보세요. 믿는 자와 믿지 않는 자, 은혜를 아는 자와 모르는 자가 겉으로 보기에는 모두 동일한 시간과 날들을 사는 것처럼 보이잖아요. 똑같은 달력, 똑같은 시계를 사용하고, 똑같은 해와 달과 별 아래에서 살고 있어요. 그런데 성도는 그 시간과 날에 대한 인식, 감각이 달라요. 동일한 시공간에 갇힌 것처럼 보이지만 그 시간과 공간, 그 우주가 그들을 가두어 놓을 수 없는 자들이 성도입니다.

 

그래서 그들만 세상과 역사에 대한 인식이 다르고 해석이 달라요. 바꾸어 말하면 이 모든 우주 만물이 그들 성도에게 해석 당하기 위해서 있다는 게 성경의 기록이에요. 이게 성도의 신분이며 정체성이란 말이에요. 바꾸어 말하면 이 모든 우주 만물이 그들을 위해서 있고 그들로부터 이름이 불려지기 위해서 있습니다.

로마서 8장에 나오잖아요. 모든 피조물이 지금도 탄식하면서 하나님의 아들들이 나타나기를 기다린다.

그 아들들로 인해서 자기들이 지음받은 원상태로 불려지기를 원하는 거예요. 하나님이 배치해 두신 모든 것의 참된 의미가 성도에 의해서만 읽힌다는 뜻입니다.

그래서 다윗은 이렇게 말합니다.

 

(시 8편)

1 여호와 우리 주여 주의 이름이 온 땅에 어찌 그리 아름다운지요 주의 영광이 하늘을 덮었나이다

2 주의 대적으로 말미암아 어린아이들과 젖먹이들의 입으로 권능을 세우심이여 이는 원수들과 보복자들을 잠잠하게 하려 하심이니이다

3 주의 손가락으로 만드신 주의 하늘과 주께서 베풀어 두신 달과 별들을 내가 보오니

4 사람이 무엇이기에 주께서 그를 생각하시며 인자가 무엇이기에 주께서 그를 돌보시나이까

5 그를 하나님보다 조금 못하게 하시고 영화와 존귀로 관을 씌우셨나이다

6 주의 손으로 만드신 것을 다스리게 하시고 만물을 그의 발 아래 두셨으니

7 곧 모든 소와 양과 들짐승이며

8 공중의 새와 바다의 물고기와 바닷길에 다니는 것이니이다

성도는 세상 모든 것을 볼 때 그 안에 있는 하나님의 영광을 볼 수 있어야 해요. 그들만 하나님의 이름을 찬송할 수 있단 말입니다.

이게 달라요. 봄이 되면 팔공산에 벚꽃이 필 텐데, 그걸 보면서 그냥 ‘와 이쁘다, 아름답다’로 끝나는 게 아니에요. 이 세상 모든 만물 안에 들어있는 하나님의 영광, 그 하나님의 이름을 다윗이 찬송했다니까요. 시편 19편에도 같은 말씀이 나와요. 그냥 단순히 날과 달과 해와 시간의 흐름이 아니라 다윗이 그것을 어떻게 이야기하는지를 봅시다.

 

(시 19편)

1 하늘이 하나님의 영광을 선포하고 궁창이 그의 손으로 하신 일을 나타내는도다

2 날은 날에게 말하고 밤은 밤에게 지식을 전하니

3 언어도 없고 말씀도 없으며 들리는 소리도 없으나

4 그의 소리가 온 땅에 통하고 그의 말씀이 세상 끝까지 이르도다 하나님이 해를 위하여 하늘에 장막을 베푸셨도다

이것이 성도가 보고 읽는 때와 날이에요. 같은 날을 살고 같은 태양 아래에 있어도 보고 듣는 게 달라요. 만물을 진리로 보는 자들이 하나님의 사람인 것입니다.

그들은 하나님이 지으신 이 우주 안에서 세상과 같은 날들을 사는 게 아닌 겁니다.

 

그렇게 성도는 세상 밖으로 옮겨진 자들이에요. 바울이 삼층천에 갔다 왔다고 했듯이 지금도 빛의 속도록 확장하는 이 우주 밖에서 이 세상을 볼 수 있는 자들이에요. 그래서 그들이 보고 듣는 것은 세상과 같을 수가 없습니다.

그들은 이미 하나님 나라, 사랑의 아들의 나라로 옮겨진 자들이고, 그들의 생명은 그리스도와 함께 하나님 안에 감추어져 있기 때문에 세상 어떤 피조물도 그리스도 안에 있는 하나님의 사랑에서 그들을 끊을 수 없다는 것을 지금도 말씀의 사건들 속에서 배워가고 있는 자들이에요. 그들은 잠시 세상을 살면서 그들 안에 새겨져 있는 구원의 날에 대한 흔적을 이 세상에 남기는 자들이고 이 세상에 증언하는 자들입니다.

모든 원인과 결과가 나에게 있지 않고 하나님께 있음을 그들만 아는 것입니다.

예수 그리스도가 알파요 오메가이며 시작과 마침인 줄 아는 자들에게 주어진 은혜의 때요 구원의 날인 것입니다.

그들이 하나님과 함께 일하는 자들이며 그들의 모든 일이 하나님의 일입니다.

 

성도는 집에서 설거지를 하고 청소를 하든지 자녀를 양육하든지 밖에 나가서 일을 하든지 모든 일들이 하나님의 일이에요. 그리고 그들의 모든 날이 주의 날입니다.

세상 교회들처럼 일요일에 교회 나오는 걸 주일 성수라고 하는 게 아니라 성도에게는 매일 매일이 주의 날이에요.(성경에는 주일이라는 말이 없습니다, 주의 날만 있어요) 그러므로 그들은 살아도 주를 위해서 살고 죽어도 주를 위해서 죽습니다 (롬14:7-8) 내가 살아야 할 이유와 목적을 알고 사는 사람들이에요. 사나 죽으나 주의 것이기에 이를 확인시켜 주기 위해서 오늘 본문 4절부터 10절까지 하나님이 그분의 약속이 원인이 된 일들이 사도 바울에게 발생했다는 것입니다.

단순한 고생이 아니에요.

8 영광과 욕됨으로 그러했으며 악한 이름과 아름다운 이름으로 그러했느니라 우리는 속이는 자 같으나 참되고

9 무명한 자 같으나 유명한 자요 죽은 자 같으나 보라 우리가 살아 있고 징계를 받는 자 같으나 죽임을 당하지 아니하고

10 근심하는 자 같으나 항상 기뻐하고 가난한 자 같으나 많은 사람을 부요하게 하고 아무것도 없는 자 같으나 모든 것을 가진 자로다

이게 바울의 삶이에요. 그런데 이 삶은 바울이 원한 것도 계획한 것도 아니에요. 하나님이 일으키시는 사건들 속에서 부득불 이러한 삶을 살았다는 거예요. 왜? 하나님의 은혜를 헛되이 받지 않기 위해서, 하나님을 배우기 위해서 주어진 삶입니다.

 

이러한 일들을 통해서 우리는 하나님이 우리와 함께하심을 체감하게 됩니다.

우리가 원하는 일들이 다 이루어지고 우리 계획대로 다 되면 우리가 하나님 찾겠습니까? 안 찾죠. 그래서 성도는 4절부터에 나오는 이런 고난과 환난 속에서 우리와 함께하시는 우리 주님, 우리를 붙들고 계시는 우리 주님의 손길과 체온을 느끼게 되는 거예요. 그것을 다른 말로 사랑이라고 합니다.

끝까지의 사랑이에요

이렇게 하나님의 사람들은 하나님 안에서 하나님과 동행하면서 날과 달과 해라고 하는 시간의 흐름에서 벗어나 있습니다.

하나님의 사건을 살아가는 성도에게는 이 세상 시간과 다른 시간이 흐른다고 했잖아요. 바꾸어 말하면 우리는 이 땅에서부터 영원을 살고 있습니다.

과거 현재 미래라는 수평적 시간이 아니라 수직적 시간, 완료된 미래로부터 오는 시간을 살고 있어요. 영원한 현재라는 그 시간을 매 순간 살고 있어요. 우리가 그것을 제대로 느끼게 하려고 하나님이 주시는 이런 사건들이 우리 성도의 삶에 수시로 발생합니다.

그것을 본문에서 은혜받을 만한 때, 구원의 날이라고 합니다.

 

그러므로 사도는 내가 하나님과 함게 일하는 자로 너희를 권하는데 하나님의 은혜를 헛되이 받지 말라.. 다시 말하지만 고린도 교회는 이미 하나님 은혜를 헛되게 하는 다른 복음이 들어왔기 때문에 여기서 우리는 하나님의 은혜를 헛되이 받게 되는 다른 복음에 대해서 한 번 더 확인할 필요가 있습니다.

제가 오늘 강론 들어가기 전에 말씀드린 게 그것 때문이에요. 오늘날 모든 세상 교회, 한국 기독교를 덮고 있는 다른 복음을 우리가 수시로 확인할 필요가 있단 말입니다.

사도가 이렇게 반복해서 말하는 건 그만한 이유가 있기 때문입니다.

그리스도의 영광의 복음의 광채를 가리려는 세상 신의 역사가 이 세상 끝 날까지 그치지 않을 것이기에, 그리고 그들은 그들의 역할을 다 해야 하기에, 오늘을 사는 우리도 얼마든지 다른 은혜, 다른 복음에 속을 수 있기 때문입니다.

 

우리가 흔히 종교개혁이라고 하는, 16세기 로마 교회의 다른 복음에 대해서 종교 개혁자들이 외쳤던 다섯 개의 신앙고백이 있죠? 그 다섯 개가 뭡니까? Sola Scriptura, Sola Christus, Sola Gratia, Sola Fide, Sola Gloria.. 그들이 왜 로마 교회를 향해서 이것을 외쳤을까요? 거기엔 이유가 있어요.

Sola Scriptura는 ‘오직 성경’이라는 뜻이거든요. 그럼, 당시 로마 교회는 성경만이 진리가 아니라 다른 것도 진리로 알았다는 말입니다.

그게 뭡니까? 교회지요. 그들이 성경보다 더 진리로 알았던 건 교회입니다.

우리가 이천 년 교회사를 공부해 보면 계속된 싸움이 있어요. 십자가라는 진리냐 아니면 교회냐 입니다.

십자가와 교회의 싸움이에요. 참 아이러니하죠? 그 둘이 서로 반대편에 서서 싸워온 거예요. 왜 그렇습니까? 인간들이 원하는 게 예수 십자가라는 진리보다 교회이기 때문입니다.

내가 투사되고 확장된 대상으로 교회, 땅의 가시적 교회입니다.

십자가는 보이지 않으니까 종교인들은 십자가 복음에 대해서는 관심이 없어요. 그리고 그들 교회의 머리가 교황이죠. 천주교는 지금도 복음으로의 구원, 십자가로 구원이 아니에요. 가톨릭이라고 하는 자기 교회에 소속되어야 구원입니다.

다시말해 그들의 교회가 진리란 말이에요. 교회가 진리요 교회 역사가 진리입니다.

이게 바로 하나님이 은혜로 주신 구원을 변개한 거예요. 오늘날도 세상 교회가 지금 그 짓을 하고 있어요. 하나님의 은혜를 헛되이 받는 자들입니다.

 

그리고 두 번째는 Sola Christus, ‘오직 그리스도’입니다.

그러면 이것 역시 그리스도가 전부가 아니고, 그리스도의 십자가 공로로만 구원이 아니란 뜻입니다.

십자가 더하기 인간들의 열심, 인간들의 종교 행위, 인간들의 공로 이런 게 더해져서 구원이 완성된다는 이 알미니안 주의가 가톨릭, 감리교 등등인데, 지금은 장로교, 침례교 할 것 없이 다 퍼져있습니다.

이만큼 인간들은 인간의 가치와 가능성을 포기하지 못해요. 아담의 자존심입니다.

왜 우리가 은혜로만 구원받고 십자가로만 구원받아? 부족하긴 해도 우리도 할 수 있는 게 있잖아.. 그래서 교회 목사들이 교인들의 열심에 펌프질하려고 온갖 것을 다 동원한단 말이에요. 동기부여지요. 지금도 천주교는 성인들의 공로가 교회를 섬기는 자들에게도 나누어진다고 합니다.

그러니까 너희들이 열심히 성인들을 본받고 죽은 자들을 위해 기도하면 앞서 죽어서 연옥에 가 있는 자들을 구원할 수 있다고 해요. 종교 행위의 가능성이죠. 그렇게 인간의 가치와 가능성에서 한 발짝도 벗어나지 못한 인본주의에 바탕한 종교 집단이 로마 가톨릭이에요. 입으로는 하나님의 영광을 외치면서 사실은 자신들의 영광을 위한 교회의 역사가 진행되어 온 것을 우리는 교회사를 통해서 알 수 있습니다.

 

그 교회 역사를 보면 세상 권력과 교회 권력의 결탁과 갈등, 중세에 이게 아주 치열했어요. 오늘날도 별반 다르지 않습니다.

교회가 왜 그렇게 돈을 밝히고 부동산을 밝힙니까? 힘을 축적하기 위해서죠. 세상과 구별되어야 할 교회가 세상이 힘이라고 여기는 것, 세상이 가치라고 여기는 것을 똑같이 좋아하고 또 교회가 그것들을 쌓아놓고 있어요. 결국은 자기 영광입니다.

계시록에선 그것을 ‘자기를 영화롭게 하고 사치한 여왕, 음녀라고 하는 것입니다.

 

최근 민주당에서 입법을 하나 했어요. 지금 상임위에 올라가 있고 조금 있으면 본회의에서 통과될 겁니다.

그게 뭔가 하면 정부가 교회를 마음대로 조사하고 교회를 해산할 수 있는 법이에요. 결국 세상 권력, 국가 권력이 교회 권력과 한판 붙는 거지요. 그들에게 교회가 만만하게 보인 겁니다.

너희들도 우리처럼 돈 좋아하고 부동산을 좋아하지 않느냐는 겁니다.

교회가 세상과의 구별이 없으니까 세상 권력이 그것을 알고 교회도 우리가 관리하겠다는 거예요. 이게 결국은 세상과 구별이 없어진 교회의 처참한 말로입니다.

오늘 뉴스를 보니까 이란의 하메네이가 공습으로 죽었다고 하던데, 그들도 결국 종교전쟁이거든요. 하메네이가 60년간 이슬람 교리로 이란을 다스려왔는데, 트럼프는 그런 이란 국민에게 자유를 주겠다는 명분을 내세워서 두들겨 패는 겁니다.

그럼 트럼프는 진리입니까? 이 세상 역사가 참 재미있습니다.

그러나 우리가 알아야 하는 것은 세상 역사의 주인은 하나님이시란 사실입니다.

그리고 그 역사는 반드시 종말이 있는 역사입니다.

 

그래서 계시록을 보면 교회를 바벨론이라고 해요. 귀신의 처소라고도 하죠. 그리고 그곳에서 거래되는 상품이 사람의 영혼이라고 합니다.

베드로서에는 하나님의 심판이 이미 교회, 하나님의 집에서부터 시작됐다고 하는 거예요. 음녀의 섞은 술에 취한 종교인들의 모임, 그들에 대한 경고가 계시록 18장에 나옵니다.

이미 세상 교회에 대한 심판이 실행되었다는 것입니다.

 

(계 18장)

1 이 일 후에 다른 천사가 하늘에서 내려오는 것을 보니 큰 권세를 가졌는데 그의 영광으로 땅이 환하여지더라

2 힘찬 음성으로 외쳐 이르되 무너졌도다 무너졌도다 큰 성 바벨론이여 귀신의 처소와 각종 더러운 영이 모이는 곳과 각종 더럽고 가증한 새들이 모이는 곳이 되었도다

3 그 음행의 진노의 포도주로 말미암아 만국이 무너졌으며 또 땅의 왕들이 그와 더불어 음행하였으며 땅의 상인들도 그 사치의 세력으로 치부하였도다 하더라

이게 세상 교회의 심판입니다.

이미 그 심판은 시작된 거예요. 주께서 그들을 내어버려 두심입니다.

 

다음은 Sola Gratia, ‘오직 은혜’입니다.

앞에 말씀드린 것들이 다 하나님의 은혜를 가리고 대적하기 위한 사단의 작업인 것처럼 종교 개혁자들이 선언한 5개 조항들이 전부 거짓 은혜, 값싼 은혜, 다른 은혜로 사람들을 교회 안에 가두어 두려는 세상 신에 맞서서 영적 전투를 벌인 자들이 바로 종교 개혁자들입니다.

에베소서 6장에 나오는 그 전투예요. 그만큼 ‘오직 은혜’는 성경의 핵심 사상입니다.

 

그러나 ‘오직 은혜’를 새삼 주장해야 하는 이유는 우리의 몸, 선악과를 입에 물고 태어난 우리 육신이, 이 아담의 자존심이 오직 은혜를 극도로 싫어하기 때문입니다.

한 마디로 은혜를 은혜로 받을 수 없는 몸이 우리의 몸이고 우리의 한계입니다.

전에도 말씀드렸지만, 어떤 거지가 지하도에 엎드려 있는데, 사람들이 지나가다가 동전이라도 던지면 달그랑 소리가 나잖아요 한 번은 누가 뭘 집어넣었는데도 소리가 안 나더라는 겁니다.

그래서 이상해서 봤더니 누가 백만 원짜리 수표를 한 장 던지고 갔어요. 그래서 거지가 어떻게 이런 일이 있을 수 있는가 하고 고민하다가 집에 가서 밤새 고민한 결론이 아침에 자기가 그릇을 깨끗이 닦고 나가서 이렇게 좋은 일이 생겼다는 것입니다.

이게 인간의 한계예요. 은혜를 은혜로 받지 못한다니까요. 꼭 무언가 은혜에 인간의 것을 개입시켜야 해요. 이게 값싼 은혜, 다른 은혜입니다.

은혜를 헛되이 받는 거란 말입니다.

 

하나님이 우리에게 은혜로 주신 게 뭐예요? 없음인 우리를 존재케 하는 생명을 주신 거죠. 고린도전서에 나오잖아요. 우리에게 성령을 주신 목적이 무언가 하면 하나님이 은혜로 주신 것들을 알게 하시기 위함인데, 그 반대가 그 은혜만으로는 부족하다, 인간의 노력과 열심이 있어야 한다는 거예요. 이게 다른 복음이고 은혜를 헛되이 받는 겁니다.

돈을 수천억, 수조를 줘도 우리 생명은 못 얻잖아요. 그래서 생명은, 진짜 귀한 것들은 하나님이 은혜로 주신단 말이에요. 공기 햇빛 물 ...은혜는 우리가 받을 자격이 있어서 받는 것도 아니고 또 그 은혜는 갚을 수 없어야 은혜로 남아요.

그런데 우리 인간의 죄성은 은혜를 은혜로 받지 못해요. 선악과를 따먹은 모든 아담은 하나님의 은혜로만 존재하는 우리의 처음 자리를 박차고 나온 죄인들이에요. 선악과를 먹으면 정녕 죽는다고 했는데 먹어버렸잖아요. 우리가 있어야 할 그 처음 자리, 하나님의 은혜로만 존재하는 그 처음 자리를 박차고 나온 게 아담이에요. 그렇게 하나님의 은혜에 대한 원초적인 반감을 가진 게 우리 죄인이란 말입니다.

죄인이라니까 괜히 죄인이 아니에요. 그냥 거짓말 좀 하고 나쁜 짓 좀 한다고 죄인이 아니에요. 태어나면서부터 구원 불가능한 죄의 몸이에요. 죄를 짓겠다고 짓는 게 아니라 죄인에게선 죄만 나옵니다.

다윗이 그랬잖아요. 내가 모친의 태중에서부터 죄인이라고. 하나님을 극도로 싫어하는 죄인, 하나님의 본성상 은혜를 싫어하는 죄인이에요. 왜 우리가 하나님의 은혜로만 존재하는가? 인간이 할 수 있는 일도 많은데..

오늘날 한번 보세요. 하나님 대신 하나님 자리를 차지하고 있는 게 뭡니까? 돈, 과학, 정치 경제.. 한번 보세요. 지금 AI가 못하는 게 없잖아요. 로봇이 전부 다 합니다.

생명과학은 인간을 복제합니다.

하나님의 자리를 과학이 차지하고 있다니까요. 그리고 모든 세상을 경제라는 그물망으로 촘촘하게 가두어놨어요. 예수님이 그러셨어요. 너희가 하나님과 제물을 같이 섬기지 못한다고. 제물이 맘몬 신이거든요. 이미 오늘날 사회는 맘몬 신의 그물 안에 다 가둬져 있어요. 돈을 섬기지 않으면 죽는단 말이에요. 아무도 돈을 이길 사람은 없어요 자크엘룰이 그랬지요 돈을 이기는 방법은 한가지 돈을 그냥 내다 버리는 것이라고

그런 가운데서 돈을 섬기지 않는 자들, 하나님 외에는, 그 생명 외에는 알지 않기로 한 자들을 하나님이 아직도 이 땅에 남겨두셨다니까요. 그것을 어떻게 압니까? 오늘 아침에도 해가 떴기 때문이죠. 마지막 성도 한 사람의 목이 베어져서 그리스도의 몸으로 완성되면 그때는 해도 달도 이 세상도 다 불살라지고 없어요. 성경이 그렇게 이야기합니다.

성도는 그 마지막을 지금 살고 있는 사람들입니다.

 

우리도 돈 좋아하죠. 돈이 없으면 못 살잖아요. 그런데 하나님께서 그 돈이 생명이 아님을 가르치시기 위해서 우리 성도의 인생에는 하나님이 일으키시는 사건들이 있어요. 돈으로 사는 것이 아니라 은혜로 산다는 것을 체험케 하시는 사건입니다.

쉽게 말해 힘이라고 여기는 것들을 털어내시는 것입니다.

그때에야 은혜의 주님이 보이니까요

오늘날 로마 교회에서 개혁해 나왔다는 개신교조차 은혜를 입에 달고 살아도 ‘오직 은혜’와는 거리가 멀어요. 다들 은혜를 헛되이 받고 있단 말입니다.

한번 보세요. 부흥회 강사들을 보면 아주 대놓고 떠들죠. 하나님의 은혜를 갚을 줄 모르는 도둑놈들이라고. 그런데 하나님이 주신 생명이라는 은혜를 어떻게 갚아야 합니까? 돈으로 갚을 수 있습니까? 너희는 좋은 집에 살면서 하나님의 집을 봐라 비가 샌다고 하면서 건축헌금 강요 하는 그 따위 짓이 은혜를 헛되게 하는 것이란 걸 그들은 모르는 것입니다.

 

다시 말하지만 하나님의 은혜는 갚을 수 없어야 은혜로 남아요. 그래서 오직 은혜란 말입니다.

은혜받을 자격이 없는 자에게 주신 은혜이기에 오직 은혜입니다.

그리고 그 은혜는 갚을 수 없는 은혜이기에 그 은혜만 영원토록 찬송하게 되는 게 우리를 지으신 목적으로서 은혜의 영광이에요. (엡1:6,12)

그런데 그 은혜를 무엇으로 갚겠다고 그렇게 교회에 돈 바치라고 패악질을 하느냐고요. 그렇게 교회가 은혜를 갚겠다고 하는 짓이 기껏 부동산 사들이고 동네 하나 다 사들이고 비자금 만들고 수천억짜리 예배당 짓고 해외 나가서 다른 예수, 다른 복음으로 배나 지옥 자식 만드는 그것밖에 하는 게 없어요.

그래서 십자가의 도는 그들 세상 교회들을 향해서 전해야 하는 겁니다.

계시록에 나오는 큰 성 길가에 선 두 증인이 바로 그들이란 말이에요. 왜 두 증인인지 아세요? 예수님과 함께하기 때문에 두 증인이에요. 그 두 증인이 왜 길가에 섰습니까? 큰 성 바벨론에서 쫓겨났다니까요. 그러니까 성도는 예수님이 세상에서 쫓겨난 것처럼 그 큰 성으로부터 쫓겨난 자들이에요. 그러니까 옛날에 같이 다니던 교회 사람들 설득할 생각하지 마세요. 설득 안 됩니다.

그들한테 십자가 얘기 꺼내보세요 좋아하는지. 같이 어울릴 수 없다니까요. 어떻게 그리스도와 벨리알이 함께할 수 있습니까? 안 돼요. 같이 밥 먹고 차 마시고 할 수는 있는데 복음은 같이 나눌 수가 없어요. 바벨론이라는 세상 교회에서 쫓겨나서 주님과 함께 큰 성 길가에 선 성도가 그 큰 성을 향해서 외치는 거예요. 거기서 나와 그의 죄에 참여하지 말라 그가 받을 재앙을 받지 말라, 하나님의 원수 된 교회를 위해서 광야에서 외치는 자의 소리가 되는 게 성도가 할 일이에요. 그리고 그 소리는 사라지는 소리예요. 반응 없는 소리입니다.

그렇게 사라지는 게 소리의 미학입니다.

 

하나님의 은혜를 헛되이 받고 하나님의 은혜를 모독하는 자들의 모임이 바로 오늘날 세상 교회들, 대한 예수교입니다.

 

다음으로 Sola Fide, ‘오직 믿음’.. 이것 역시 하나님의 은혜가 뭔지를 모르는 자들이 믿음 대신 내어놓는 게 있어서 종교 개혁자들이 ‘오직 믿음’을 이야기한 겁니다.

성경에서 믿음이 등장할 때는 너희의 행위는 아니라는 말이거든요. 그래서 믿음이에요. 로마서에 나오잖아요. 믿음으로 믿음에 이른다.

우리에게는 믿음 자체가 없기에 하나님이 오직 믿음으로만 구원하신다.

너희의 어떤 행위, 어떤 열심, 어떤 종교 행위, 어떤 율법 행위를 다 내어놓아도 너희는 구원받지 못한다는 게 십자가 복음이예요.

그런데 인간들이 규정한 선한 행위 있잖아요. 선행 체계. 그 어떤 윤리 도덕적 선한 행위도 하나님은 인정하시지 않겠다는 말이 오직 믿음이에요. 다시 말하면 죄인에게서는 죄만 나와요. 아무리 착한 일을 해도 하나님이 보시기에는 악하다니까요. 왜 그렇습니까? 우리 인간의 선한 행위 안에는 ‘자기 의’가 들어 있기 때문이에요. 로마서에서 바울이 질책했던 ‘자기 의’예요. 바울이 어떤 사람입니까? 율법의 의로는 흠이 없다는 사람이에요. 그런데 그렇게 율법 행위로 흠이 없었던 바울이 나중에 예수님을 만나고 나자 그 착한 행위, 의로운 일들이 다 배설물이더라고 했어요. 그 안에 결국은 나를 위한, 내 구원을 위한 자기 의, 탐심만 가득 차 있었다는 말이에요.

그렇게 죄인에게서는 죄만 나와요. 로마서 3장에서 뭐라고 합니까? 의인은 없나니 하나도 없다.

. 하나님을 찾는 자도 깨닫는 자도 없더라.. 그런데도 이 인본에 찌든 죄인들은 인간의 행위 가능성, 선행 가능성을 절대 포기하지 않습니다.

심지어 성경의 진리를 가르쳐야 할 신학교에서조차 구약의 율법 중에서 제사법이나 정결 규례 같은 것은 십자가 다 이루심으로 폐기되었지만 아직도 지켜야 할 법이 있는데 그게 도덕법 윤리법이라는 거예요. 전에도 말씀드렸지만, 도덕 윤리는 세대마다 다르고 지역마다 달라요. 절대적인 게 아니에요. 옛날 고려시대 때는 부모 나이가 칠십이면 고려장을 시킵니다.

산에다가 버리는 게 당시 윤리요 도덕이에요. 문화였다니까요. 아프리카에 가면 지금도 외부에서 손님이 오면 자기 마누라를 내줘요. 그게 그 사람들의 윤리고 도덕이란 말이에요. 그런 세상에[ 하나님이 이스라엘을 통해 율법을 주신 것입니다.

너희들 율법 하나도 지키지 못한다는 게 율법을 주신 목적입니다.

율법은 그런 인간들의 죄, 불가능을 깨닫게 하기 위해 주신 율법인 것입니다.

 

그럼에도 율법의 도덕 윤리 규정은 살아있어서 교인들이 율법의 일정 부분을 지켜야 한다고 가르치는 게 오늘날 신학교에요. 이런 게 오직 믿음으로만 구원이라고 하는 성경의 가르침을 정면으로 부정하는 행위 구원이 됩니다.

착하게 살지 말라는 말이 아니에요 인간이면 인간답게 착하게 사는 게 맞아요 그러나 그게 성경이 말하는 의가 아니고 선이 아니라는 것을 말씀드리는 것입니다.

 

오늘날 은혜 더하기 율법행위로 구원이 완성된다는 행위 구원론에서 나온 게 상급론이에요. 얼마나 열심을 내고 얼마나 착한 일을 많이 하느냐에 따라서 하늘 상급이 다르다는 겁니다.

기가 막히죠. 그런데 이런 차등 상급론이 이제는 거의 보편적 교리가 되었습니다.

십자가 은혜로 구원은 받는데 상급은 다르다는 겁니다.

십자가에 달린 강도와 죽을 고생을 하면서 복음을 전한 바울이 천국에서 똑같은 대우를 받을 수 있느냐는 거예요. 참으로 인간적인 생각이죠? 이런 개소리를 하는 게 오늘날 대부분 세상 교회입니다.

십자가의 원수된 교회입니다.

 

오늘 본문에 나오는 하나님의 은혜를 헛되이 받은 자들. 은혜가 어떤 불가능한 죄인들에게 값없이 주어진 은혜인지를 모르니까, 그런 은혜를 받아본 적이 없으니까 이따위 소리를 하는 거예요. 하나님의 아들을 죄인들에게 내어주신 그 자체가 감당할 수 없는 은혜요 상급인데 무슨 다른 상급을 받겠다고 그 짓들을 하는지 모르겠어요. 그들 말대로 천국에서도 누구는 백 평짜리 맨션에 살고 누구는 합숙소에 살면 거기가 천국입니까? 만약 그런 천국이라면 거기서 또 계급투쟁 일어나고 공산주의 생겨요. 그런 천국은 없습니다.

 

한 마디로 오늘날 종교인들은 믿음이 뭔지 모르면서 예수를 믿어보겠다고 교회로 모인 거예요. 그들에겐 오직 믿음이 아니란 말입니다.

이게 하나님의 내어버려 두심이에요. 믿음은 하나님이 창세 전에 정하신 한 분 주 예수 그리스도와의 관계로서만 믿음이에요. 그분께 찾아짐의 관계란 말이에요. 그분에게 찾아지고 난 뒤에야 믿음으로 의롭게 됨이 보인단 말이에요. 믿음은 그렇게 그분과 관계를 맺는 거예요.

그런데 그 관계를 우리가 만들 수 없다는 게 문제입니다.

그래서 믿음은 은혜의 선물로서의 믿음입니다.

그것을 에베소서 2장에서는 이렇게 이야기합니다.

“너희는 그 은혜에 의하여 믿음으로 말미암아 구원을 받았으니”.. 은혜와 믿음이 같은 뜻이에요. “이것은 너희에게서 난 것이 아니요 하나님의 선물이라 행위에서 난 것이 아니니 이는 누구든지 자랑하지 못하게 함이라”고 한 것입니다.

이렇게 은혜와 믿음은 하나예요. 그런데 예수 믿었다고 상을 받는다? 그런 소리를 하는 자들은 예수를 믿은 적이 없는 자들이에요. 진리의 사랑을 받은 적이 없는 자들이에요. 성경이 말하는 상은 딱 하나예요. 하나님 자신을 내어주신 그게 상이에요. 아브라함에게 하나님이 그랬잖아요. 내가 너의 상급이라고. 그런데도 무슨 상을 또 받겠다는 겁니까? 하나님을 받으면 다 받은 건데 자꾸 다른 것을 찾는다는 말은 나는 하나님과 상관이 없는 자란 뜻이에요. 믿음 없음, 하나님과 화해한 적이 없음. 그래서 종교 개혁자들이 로마 교회를 보고 오직 믿음이라고 외친 것입니다.

 

자 이렇게 은혜 아닌 것, 믿음 아닌 것, 진리 아닌 것을 통해서 은혜가 무엇이고 믿음이 무엇이며 진리이신 예수님이 누구신가를 자기 사람들에게 가르치기 위해서 하나님은 이 세상 모든 만물, 모든 역사를 지금도 진행하고 계십니다.

고린도전서에 나오잖아요. 세상 만물이 다 너희 것이라고. 그리고 너희는 누구의 것이다? 그리스도의 것이다.

 

자 그렇게 성도에게 주어진 것들, 그리고 성도에게 일어나는 모든 일들은 하나님의 은혜를 은혜로 알게 하는 사건들이에요. 우리에게 왜 은혜가 아니면 안 되는지를 알게 하는 사건들이란 말이에요. ‘내가 은혜 베풀 때에 너에게 듣고 구원의 날에 너를 도왔다’는 말씀이 지금 성취되고 있음을 우리에게 삶의 현실로 보여주시는 것입니다.

그래서 예수님이 제자들에게 하나님 나라를 선포하실 때도 그랬어요. 사람들에게 항상 비유로 말씀하시고, 그 후 제자들만 따로 모아서 그 비유를 풀어 설명해 주신 거예요. ‘너희들은 저들과 같지 아니하니’

그래서 오늘날도 바울이 전한 이 말씀들을 진리로 알아듣는 건 하나님의 사람들만 알아들어요. 바울은 모든 사람에게 이 말씀을 전한 게 아니라 오고 오는 세대의 피로 사신 교회에 전한 말씀이인 것입니다.

 

그렇게 저와 여러분은 하나님의 은혜를 헛되이 받을 수 없는 하나님의 피로 사신 교회인 것을 사도가 우리에게 주신 말씀들을 통해서 다시 확인할 수 있습니다.

그러므로 이 은혜의 복음만으로 부족함이 없는 저와 여러분이 되시기를 빕니다.

왜 십자가인가? 왜 십자가 은혜인가? 그 은혜의 필연성에 대해서 우리는 날마다 확인당하는 삶을 오늘 살고 있는 것입니다.

 

기도하겠습니다.

 

아버지 하나님, 오늘 사도가 우리에게 전해주신 말씀을 나누었습니다.

이 말씀 가운데서 우리가 하나님의 뜻과 하나님의 마음을 알 수 있고 또 우리가 그 하나님의 마음을 가지고 이 세상을 살아갈 수 있도록 진리의 성령이 저희와 함께하여 주옵소서. 우리 주 예수님의 이름으로 기도합니다.

아멘.

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