5.試みにあわせず、悪からお救いください
試みにあわせず、悪からお救いください
御言葉を共に奉독(ほうどく)いたします。
(マタイによる福音書 6:9-13)
9 だから、あなたがたはこう祈りなさい。天にまします我らの父よ。願わくは、み名をあがめさせたまえ。
10 み国をきたらせたまえ。みこころの天に成るごとく、地にもなさせたまえ。
11 我らの日用の糧を、今日もお与えください。
12 我らに罪を犯す者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。
13 我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。(国と力と栄えとは、限りなくなんじのものなればなり。アーメン)
今日、主の祈りの最後!「我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ」という添言(そげん)について学んでみたいと思います。ここで私たちは「試み(試験)」という言葉をよく定義して進まなければならないようです。
皆さん!聖書ではその「試み」という言葉が、二つの意味で使われていますよね?どのような意味で使われていますか?第一に、一つは「サタンの誘惑(ゆうわく)」という意味で、試みという言葉が使われます。第二に、「神様の試練(テスト)」という意味で、その言葉が使われるのです。そこで使われている「ペイラゾー」というギリシャ語の原語が、この「サタンの誘惑」と「神様の試練!」この二つに混用されて使われているため、私たちは時々そのように混同することがあるのです。
例えば、神様は私たちを試されます。そうですよね?どこで試されましたか?
創世記22章1節を見てみましょう。
(創世記 22:1)
1 これらの事の後、神はアブラハムを試みようとして、彼を呼んで、「アブラハムよ」と言われた。彼は言った、
「ここにおります」。
確かに神様がアブラハムを試みられた、と言っています。そして申命記8章2節へ行きます。
(申命記 8:2-3)
2 あなたの神、主がこの四十年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えなければならない。それはあなたを低くして、あなたを試み、あなたの心のうちを知り、あなたがその命令を守るか否かを知るためであった。
3 それで主はあなたを低くし、あなたを飢えさせ、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを、あなたに食べさせられた。人はパンだけでは生きず、主の口から出るすべての言葉によって生きることを、あなたに知らせるためであった。
神様は確かにこのように私たちを試される、と言います。しかしその試みは、私たちを、私たちの信仰を確認させ、私たちの信仰を教育するためにする試験なのです。ところが聖書ではまた別の場所で「神様は私たちを試みない」と言っています。ヤコブの手紙1章に行きます。13節。
(ヤコブの手紙 1:13-15)
13 誰も試練に会うとき、「私は神から試みられている」と言ってはならない。神は悪に試みられるような方ではなく、また、自ら誰も試みることはなさらない。
14 人が試みに会うのは、それぞれ自分の欲に引かれ、そそのかされるからである。 15 欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生むのである。(と言っています。)
ここでは明らかに「神様は私たちを試みない」と言っています。一方では、神様は私たちを試みる。もう一方では、神様は私たちを試みない。と言うわけです。このヤコブの手紙で神様が私たちを試みないというこの試験は、まさにあのサタンの誘惑と同じ類(たぐい)の試験を話しているのです。つまり、ヘブライ語で「ナッサ」という言葉と、この「ペイラゾー」という言葉が、「サタンの誘惑」と「神様の試練!」この二つの言葉に混用されて使われたため、私たちがそのように今、混乱しているのです。
このヤコブの手紙で語られているこの試験は、私たちが私たちの周辺で、ある人々を見るとき、本当に信仰生活をよく送っていたのに、あ!この人が突然昔のあのような悪習に、悪い習慣に再び陥り、そのような罪悪に陥るとき、私たちが彼を見て「あの人、試験(試み)に落ちたよ!」とそのように話しますよね?「あの人、試験にかかった!」このように話しませんか?その時、その試験!サタンの誘惑!罪を犯させるその試験!神様は、そのようなサタンの誘惑のような罪を犯させるその試験は、なさらないということなのです。
しかし、その子供のためにエジプトからイスラエルの民を連れ出されるとき、どのように試されましたか?荒野で、彼らを水のない場所へ、食べ物のない場所へ、食べるものがない場所へと連れて行かれながら、食べるものを与え、飲むものを与えることによって、彼らがどのような存在なのか、「お前たちが、私がこのように食べ物、飲み物を与えれば、私を正しく奉仕する(仕える)というのか?よし、一度仕えてみろ!」と言いながら与えたのですが、どうなりましたか?仕えなかったでしょう?むしろ偶像を崇拝し、神様に向かって恨みの手を向けたわけです。
ですから、「お前たちが誰であるか、どうか分かってくれ!そして人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る言葉によって生きるのだ!」ということを教えるために、神の民とするために、神様が彼らを試みられたのです。そのような試験は、私たちに必ずあるのです。そのような類の試験は、私たちにとってむしろ有益なものではないでしょうか?その試験はむしろ私たちにとって祝福なのです。
ならば私たちが「神様!私たちを試みにあわせず」と祈ることは、神様の教育!神様の私たちの信仰の確信のような、そのような類の試験ではありません。そうですよね?では、どのような試験を私たちは拒否するのですか?どのような試験を?私たちは「その試みにあわせないでください!」と祈るのでしょう?「サタンの誘惑!罪に陥らせるそのような試験には、あわせないでください!」と祈るのです。
さらには、その「我らを試みにあわせず」の次に出てくる「ただ悪からお救いください!」という言葉のその「悪」という「トゥ・ポネルー」という原語は、男性属格なのです。ですから、その単語の正確な意味は「悪しき者」という意味です。「神様!あのサタンの勢力!あの悪しき者の勢力から私たちを救い出してください!」という意味なのです。
皆さん!アダム的な実存を持っているそのような罪人たちは、どのような状態ですか?そのまま神様が放置しておかれれば、私たちがローマ人への手紙1章で調べたじゃないですか。彼らは、死刑に処せられるべき者として、自然に進んでいく者たちが、まさにそのアダム的な実存を持っている罪人たちなのです。そのような罪人たちの間で、ある一つの群れを、神様が救い出されました。そして彼らの人生に、干渉をし始められたのです。茨で塞ぎ、垣で塞ぎながら、彼らが別の道へ行こうとすれば、その道を塞ぎ始められました。神様が!そのように神様がそのまま放置しておけば、その罪人たちは最後には、神様に向かって剣を抜き、戦争を布告するのです。神様に!聖書でその内容が明確に出ています。
私たちは元々そのような者たちでした。しかし私たちはそこで救い出されました。私たちが「我らを試みにあわせず」と祈ることは、「神様!私たちがその悪の勢力、あのサタンの試みに陥って、私たちが彼らの側に立たないようにしてください!」という意味なのです。最後の日、ハルマゲドンの戦いの時に、私たちが彼らの側に立つことになれば、私たちは大変なことになるということを、私たちは聖書を通して知っているため、「神様!私たちは、彼らの側に立たないようにしてください!」というその祈りなのです。
もし神様が私たちの人生に干渉をなさらず、放っておかれたらどうなるか、聖書から一度引き出してみましょう。出エジプト記で、イスラエルをエジプトの手から救い出されるとき、パロ(ファラオ)に神様はこのように言われます。
「あなたは私の初子(ういご)である、私の民を去らせなさい!」
モーセを通してそのように話をされますよね?しかし、パロが去らせないのです。ところが、そのパロの心を「神様が頑な(かたくな)にされた」という言葉を使うわけです。
確かに出エジプト記4章で!神様はエジプトの初子たちをすべて殺す計画を立てておられます。モーセに行って「パロよ!お前が私の初子であるイスラエルを去らせなかったので、私はお前の初子をすべて殺す」と言ってこい、と言われます。
では神様はすでに彼らの初子をすべて殺す計画を持っておられたのに、ならばそのようにパッと結論を出してしまえばいいのに、九つの災いをその前につけ加えられるわけです。最初から初子を全部殺してしまえば、そのまま出ることもできたのに、その各災いごとに神様が何と付言(ふげん)説明をされるかというと、「主はパロの心を頑なにされたので、彼はイスラエルを去らせなかった」と言います。
「去らせる」と言っておきながら、「主が彼の心を頑なにされたので、彼はイスラエルを去らせなかった」と言うのです。頑なにしたというのはどういう意味でしょうか?ただの優しい人!去らせようとしていた人!神様が何度も心をただ、毒々しくさせて、去らせないようにしたということでしょうか?頑なにしたということは、神様が彼らの情欲のままに、彼らの罪性のままに、そのまま放っておかれたということです。
神様はこの罪人たち!罪人たちのその罪性が極に達するのを防ぐために、コモン・グレース(common grace:一般的恩恵)!社会法や良心のようなもので抑えておられます。今!ある目的のために今、抑えておられるのです。一日に何度も「ああ!あの人間は本当に一発殴ってやりたい!」そして時々「ああ!あの人間、本当にそのままぶち殺してしまいたい!」という人々がいますよね?皆さんに!しかしなぜ殺せないのですか?なぜ行って殴れないのですか?法(ほう)があるじゃないですか。そして私の良心(りょうしん)が何度も「それは悪しきことだ!」と内で声を出すのです。
なぜ神様がそのように抑えておられるのですか?最後に、ある一つの事件のために、神様は今、その罪人たちのその罪性が極に達するのを防いでおられるのです。しかしある日、神様がそれをすべて解き放たれる日があるでしょう。神様がパロの心を頑なにされたというのは、そのまま彼の罪性のままに放っておかれたということです。
今、なぜそのように九つの災いを、初子たちを殺す災いの前に足されるのかというと、第一の理由はそれです。彼らは多神教を信じていました。太陽も神であり、水も神であり、カエルも神であり、何というか岩も神であり、すべてが神でした。ですから「違う!天地を司り、自然を司る者は、神だ!」ということを示すために、彼らに災いを許されたのであり!
第二に!非常に重要な理由です。これが!人間は、神様がそのように自分の情欲のままに放っておけば、どこまで悪くなるかを見せてくださるのです。そのまま彼らの情欲のままに放置(ほうち)しておけば、神様が明らかに生きておられるという証拠が、そのように彼らの目の前に繰り広げられるのに、彼らは神様に向かって剣を抜くということなのです。川が血に変わり、悪性の腫物や家畜の疫病、いなごや雹が降って、わあわあ人を殴り殺してしまったりしてですね。太陽が光を失ったりするのに、最後まで神様に向かって剣を抜くというのです。初子たちがすべて死んだのに、どうでしょうか?追ってきます。そこまで!それが罪人たちの属性なのです。「神様!私と一丁やってみましょう!」というのです。今!そして火の柱と雲の柱が、イスラエルの前になったり後ろになったりしながら、保護して行くのに、最後まで追いかけて行きます。
一度常識的に考えてみましょう。私たちの目の前で川がワーッと血に変わります。太陽が光を失います。なのにそこを追いかけて行きます。私の目の前で海が分かれて、ああ!彼らの神があの人たちのために海を分けたということが目の前に見えるのに、そこを追って入って行きますか?神様がただそのまま放置しておかれれば、人間はそのようにまで神様に向かって、神様の首を絞めるために、剣を抜くということなのです。その恐ろしい罪から、私たちは救い出されたのです。神様がそのように罪人の罪性をそのまま放置しておいてしまわれるのです。
コモン・グレース(common grace)を収めてしまわれれば、どのようなことが発生しますか?エゼキエル書38章に、その終わりの時に起こるその内容が、正確に描写されています。エゼキエル書38章1節へ行きます。
(エゼキエル書 38:1-6, 15-17)
1 次のような主の言葉が私に臨んだ。
2 「人の子よ。メシェクとトバルの大首長である、マゴグの地のゴグに顔を向け、彼に預言して、
3 言え。神である主はこう仰せられる。メシェクとトバルの大首長であるゴグよ。今、私はあなたに立ち向かう。
4 私はあなたを引き回し、あなたのあごに鉤(かぎ)をかけ、あなたと、あなたの全軍勢を引き出す。それはみな完全に武装した馬と騎兵、大盾と小盾を持ち、みな剣を執る大集団だ。
5 ペルシアとクシュとプテも彼らとともにおり、みな盾とかぶとを着けている。
6 ゴメルとそのすべての軍隊、北の果てのベテ・トガルマとそのすべての軍隊、彼らとともに多くの民がいる。あなたとともに彼らを引き出す。
15 あなたは、北の果てのあなたの国から、多くの民を連れて来る。彼らはみな馬に乗る大集団、強力な軍勢だ。
16 あなたは、雲が地を覆うように、私の民イスラエルに攻め寄せる。ゴグよ、終わりの日に、私はあなたを私の地に攻め寄せさせる。それは、私があなたのうちにご聖潔(せいけつ)を現し、諸国の民が私の前で私を知るためだ。
17 神である主はこう仰せられる。あなたは、私が昔、私のしもべイスラエルの預言者たちを通して語った、その者ではないか。彼らはその当時、何年にもわたって、私があなたを彼らに攻め寄せさせると預言したではないか。」
このようにエゼキエル書やダニエル書、ゼカリヤ書、ヨハネの黙示録のような、この終わりの時に起こる事柄について説明されている聖書を読むとき、私は本当に鳥肌が立つほど感動します。あまりにも嬉しくて!「その日は必ず来る!間違いなく来る!このように正確に記録されているのだから、必ず来る!敵の前で私の前に膳を整えてくださる日が必ず来る!そうだ、今は金持ちになり、大きくリバイバルしたと威張って私たちを指差しているが、彼らが間違っており私たちが正しかったという、その日は必ず来るんだ!」
このお話はですね、終わりの時に私たちに起こる「ハルマゲドンの戦い」について語っている「ゴグとマゴグの戦い」という部分です。ハルマゲドンの戦いというのは、終わりの時に私たちが戦い抜かなければならない霊的な戦争なのです。今、私たちは深刻な霊적戦争をしています。そうですよね?この霊的戦争の結論部分のような場所なのです、ハルマゲドンの戦いというのは!
今は神様がコモン・グレース(common grace:一般的恩恵)によって、社会法や良心のようなもの、倫理道徳で私たちを抑えておられますが、いつか神様がそれをパッと解き放たれるとき、塞き止められていたダムをパッと開放されるとき、もはや人間たちがどれほど悪くなるのか。彼らが群れをなし、軍隊を作って、神様に向かって剣を抜くでしょうが……私たちに向かっても共に剣を抜くのです。私たちが神様の味方だからです!
ところが、そこに何と書かれているかというと、神様が「私はあなたのその勢力たちを、鉤(かぎ)であごを貫いて引き出す」というのです。戦争をさせるために!そうすると、まるで神様がわざと戦争を誘導(유도)されているように見えますよね?ここで「私が鉤であごを貫いて引き出す」というお話が、パロの心を頑なにされたという言葉と同じ意味なのです。放っておけば、人間はそうなってしまうということなのです。
皆さん!そのように神様が抑えておられたコモン・グレースを放してしまわれる日を、聖書では「サタンが底知れぬ所(無底の淵)から解き放たれる日だ」と言います。聖書は!黙示録をよく読んでみれば、今はサタンが底知れぬ所に閉じ込められている時だと言っています。
でも、そうではないでしょう?皆さんの人生では、絶えずサタンが試練を与えているじゃないですか、今!ところが聖書は、サタンが今は底知れぬ所に閉じ込められている時期だと言います。しかし、ある日そのサタンが解き放たれる日があると語っているのです。それはどういう意味でしょうか?
今、私たちが「底知れぬ所(無底の淵)」と言うと、どうしても場所的な概念としてそれを理解しようとするから、聖書が理解できないのです。サタンが底知れぬ所に閉じ込められているというその言葉は、サタンは天から私たちに向かって讒訴(ざんそ:訴え)していたのです。「神様!あいつは有罪です。あいつには罪があります。あいつは死ななければなりません」と。ところが十字架によって、そのように讒訴できなくなってしまいました。神様がイエス・キリストを通して、私たちの罪をすべて塗り消してしまわれたので、もはや讒訴できなくなったのですね。
それでサタンは追い出されたのです。ですからこの地上で、もはや私たちの永遠の命に関与することはできません。影響を及ぼすことはできないのですが、最後まで追いかけ回しながら私たちを迫害し、苦しめているその状態!しかし永遠の命には影響を及ぼすことができないその状態を、サタンが(사탄이)底知れぬ所に閉じ込められていると言うのです。ヘブル人への手紙2章14節を見てください。
(ヘブル人への手紙 2:14)
14 子たちは血と肉とに共に属しているので、イエスもまた同様に、それらを備えられました。それは、死によって、死の勢力を持つ者、すなわち悪魔を滅ぼし、
悪魔を滅ぼされた(無くされた)そうです。イエス様が死ぬことによって、その死を飲み込んでしまい、無くしてしまわれたのです。悪魔を無くされた(無力化された)というのです。「デス・オブ・デス・イン・デス・オブ・クライスト(death of death in death of Christ:キリストの死における死の死)!」という言葉がありますよね?そのイエス様の死によって、究極的に私たちに来るはずだったあの死が、なくなってしまったということです。その死が死んでしまったのです。キリストの死における死の死!それによって、あの悪魔が、無きものとされた(武装解除された)のです。コロサイ人への手紙2章15節を見れば、
(コロサイ人への手紙 2:15)
15 支配と権威の武装を解除して、それらをさらしものとし、十字架によって勝利されました。
なぜですか?十字架のその勝利が、まさに「ハビング・ディスアームド・ザ・パワーズ・アンド・オーソリティーズ(having disarmed the powers and authorities)」!ハビング・ディスアームド(having disarmed)!武装解除させてしまったというのです。サタンは今、武装解除されたのです。私たちの永遠の命に、もはや影響を及ぼすことができない存在になってしまったということですね。
ユダの手紙1章6節を見れば、
(ユダの手紙 1:6)
6 また、自分たちの領分を守らず、自分の住まいを捨てた天使たちを、大いなる日の裁きのために、永遠の鎖で繋いで、暗闇の中に閉じ込められました。
(というわけです。彼らは閉じ込められています。そういう意味なのです。)
ですから皆さん!今、もし金縛りにあったり、幽霊を見たりする人々がいますか?「私になぜあのようなものが現れるのか」と考える前に、まず確認すべきことがあります。皆さんの中に聖霊がおられるかから確認してください。
もし皆さんの内に聖霊がおられ、イエス・キリストの子供であるという確信があるならば、皆さんは今、騙されているのです。聖霊が私の内におられるのに、雑霊(ざつれい)が私に近づき、犯すことができますか?福音書で何度も見たではありませんか。悪霊がいる場所にイエス様が近づくと、「一体なぜ今来て、もうすでに私を苦しめるのか」と悪霊がみな逃げてしまうのです。なのに皆さんは何を見ているのですか?三年前になくなった叔母さんがパッと現れました。それで一緒に行こう!と。
神様の御手と神様の目から離れて、あの炎のような目から離れて、この九天(地獄と天国の間の迷える場所)を彷徨える魂が一人でもいますか?いません!死ねば地獄か天国へ行くのです。この九天を彷徨う魂は一つもありません。神様をそんなにいい加減に見ておられるのですか?サタンの勢力である雑霊が現れて、皆さんを誘惑し惑わすことはあるかもしれません。ならばその時、皆さんが堂々と「私の内に聖霊がおられる、私はイエス・キリストを信じる者だ」と、何を恐れる必要があるというのですか?
悪霊が最高に私たちを苦しめる方法、それは何ですか?私たちの肉体の命を絶つことです。ヨブの子供たちをサタンが殺します。神様の許しを得て!そのような能力までも持っています。その時、私たちキリスト者は、私を殺せば私はどこへ行くのですか?天国へ行くのです。「勝手にしてみろ!そうだ!私はすでに永遠の(영원한)命を約束された者だ。好きにしろ!」そのような堂々とした態度でその前に立てば、なぜ彼らが現れるでしょうか、皆さん!
私の内にイエスがいると言うのでしょう?聖霊がいると言うのでしょう?なのにその悪霊を怖がるのですか?それは「私は今、イエスを信じていない人です」と言っているのと同じです。騙されないでください。すべては欺きです、皆さん!サタンができることは、ディスアームド(disarmed:武装解除)されたため、騙す方法しかありません。私たちがこの聖書(성서)をあまりにも知らないから、あのイエスをあまりにも知らないから、私たちは騙され続けるのです。騙されるがままに、ただ何度も引っかかるのです。あの方がどれほど凄まじい方なのかを知らないから!
神様が今、このサタンの(사탄의)勢力を抑えておられますが、ある日パッと解き放たれます。底知れぬ所から彼らが解き放たれる日がありますが、その時がハルマゲドンの戦いという時なのです。神様が彼らを、あごを、鉤で貫いて引き出し、私の子供たちと戦争をさせるのです。そうすると、私たちが論理的に考えれば、その時私たちは共に剣を抜き、聖霊の剣を抜いて戦い、すべてを殺して「勝利!」して千年王国が来るように思えるじゃないですか。ところが聖書は、「私たちがみな死ぬ」と言っています。彼らの手によって!
ご存知ですか?私たちはこの地上で格好をつけて、繁栄を享受しながら生きるように作られた神の民ではありません。私たちはこの地上で死ぬことになっています。その戦争で!ヨハネの(요한의)黙示録11章7節へ行きます。
(ヨハネの黙示録 11:7-10)
7 彼らがその証しを終えると、底知れぬ所から上って来る獣が、彼らと戦って勝ち、彼らを殺してしまう。
8 彼らの死体は、霊的な意味でソドムとかエジプトとか呼ばれる大きな都の大通りにさらされる。それは、彼らの主も十字架につけられた場所である。(そこで私たちは死ぬのです。)
9 もろもろの民族、部族、国語、国民に属する人々が、三日半の間、彼らの死体を眺め、その死体を墓に葬ることを許さない。 10 この二人の預言者が地に住む者たちを苦しめたので、地に住む者たちは彼らの死を喜び祝って、互いに贈り物を交わす。
その悪しき勢力は私たちを殺します。そのような力も持っているのです。私たちは、あのイエス・キリストの十字架が立ったその場所で、私たちも共に死ななければならないということです。私たち、この教会が存在すること自体が、神の民が存在すること自体が、世の中にとっては苦痛なのです。「一体あいつらのせいで、心置きなく罪を犯すことができない」と。私たちが生きていること自体が、世の人々にとっては定罪(さばき)になるのです。
だから彼らは何と言っていますか?10節に!「二人の預言者が地に住む者たちを苦しめた」というのです。私たちが(우리가)彼らを苦しめたというのです。私たちの存在自体が彼らを苦しめるのです。だから彼らは私たちの死を見て、拍手するのです。楽しみ、喜びながら、互いに贈り物を分かち合うのです。「ついに死んだ!」と。私たちはその道に向かって行くのです。この地上の教会は、まさにその殉教に向かって行くのです。
皆さん!なぜイエス様が、イスラエルの歩みをこの地で繰り返しながら生きられたかご知存ですか?ホセア書でのあの預言を成し遂げるために、イエス様はわざとエジプトに入られたでしょう?そこで、エジプトから、紅海を渡って出てこられるのです。洗礼を受けられますね?コリント人への手紙第一10章にある、洗礼を受けること!それがまさに紅海を渡ったことなのです。そして40日!荒野で試みを受けられ、そして青銅の蛇となって十字架にかかり、復活されたのです。そのようにイスラエルの歩みを生き抜かれたのです。
その言葉は、この「イスラエル」は何を意味しますか?「教会」を意味しますよね?この教会は、このイエス・キリストの歩みを、そのまま生き抜かなければならない存在だということです。私たち一人一人が皆、そのイエス・キリストの歩みをそのまま生き抜かなければならないのです。ならば、私たちの教会共同体は、どのように生きるべきでしょうか?あのイエス様の歩みを、私たちはそのまま生き抜かなければならないのです。
では、イエス様はどうなりましたか?イエス様は苦難を受け、迫害され、裏切られ、最後に十字架でバカのように死なれたのです。私たちはその歩みを生き抜かなければならない人々だということです。教会はこの地で格好をつけて、リバイバルし、自慢しながら生きるように、そのようになるために作られた共同体ではないということです。私たちはその殉教に向かって、一歩、一歩歩んでいく、そのような者たちなのです。
皆さん!私たちはそのように死にます。ハルマゲドンの戦いはそれを語っているのです。何を期待されているのですか?皆さん、イエスを信じて?「だんだん良くなるだろう!いつかは格好よく生きていけるだろう!」それを期待していますか?イエスを信じて?私たちが本当に神の子供であるならば、その日は私たちに来ません。私たちはそのように殉教に向かって歩まなければならない者たちです。しかし、神様はそれを「勝利だ!」と語られるのです。
聖書で最大の勝利は何でしたか?十字架で、イエス・キリストが死なれたあの事件でした。私たちがイエス・キリストの十字架が立ったその場所で死ぬこと、それが「私たちにとって最大の勝利だ!」と語られるのです。そうしてから、私たちに希望のメッセージをくださるのですが、「私が、あなたがたが死んだその場所で、あの罪人たちの勢力に向かって、疫病と、雹(ひょう)と、火と、硫黄を降らせて、すべて焼き殺してしまおう」と仰るのです。
「私たちはそのようにこの地で一度死に、再び新しい人として生まれるのだが……その場所で私の敵!私の対抗者たちは、火と硫黄と疫病と雹で、私がすべて焼き殺してやる!敵の前で、私は必ずあなたがたに祝宴の膳を整えてやる!」と語られているのです。私たちはそれを見つめて行く者たちです。この地で、神様から「祝宴の膳を受けさせてください!」と祈る者ではありません。この地で、僧侶たちにまで拍手を受けながら、そのように生きる者ではないのです。
世の中は私たちに向かって嘲笑するでしょう。私たちはそのように死んでいくのです。「お前たちが真の福音を持っているだと?イエス・キリストを正しく伝えているだと?なのにお前たちはいつも何であんな姿なんだ?なぜ教会員は増えずに、だんだん減っていくのか?お前たちの財政はどうなっているんだ?お前たちの教会にはどうしてエアコン一つないのか?数百億、数千億ウォンをかけて、私たちはこんなに大きな礼拝堂を建てているではないか。それなのにお前たちが正しい道を行っているだと?神が共におられるのに、お前たちがそんな風に行くというのか?」
しかし、私たちはそんなことにお構いなしです。私たちは殉教に向かって行く者だからです!それが教会の行く道です。皆さんが、この教会の行く道に従いたくないとおっしゃるなら、皆さんはここにいる資格のない方々です。いくらでも良い親睦会はたくさんありますから、そちらへ行ってください!私たちは他の話をして差し上げることはできません。あのイエスと共に死ぬ、クリスチャンの歩み以外に、私たちには語るべきことがありません。
では、この恐ろしい霊的戦争を、私たちはなぜこれほど認識できずにいるのでしょうか?なぜ実感できていないのでしょうか?私たちが神の御言葉通りに生きていないからです。礼拝堂に通っているから、教会に通っているから、イエスを信じているという者たちが、そのまま放っておいても大丈夫なほどに、サタンが(사탄이)安心するほどに、そのように生きているのに、サタンがわざわざ手を出す必要がありますか?そこに、なぜ力を使いますか?
왜 우리가 영적 전쟁을 못 느끼고 있는지 아십니까? 엉터리로 살고 있기 때문에 그래요. 그리스도인의 삶을 살고 있지 않기 때문에, 그러는 거예요. 그러니까 사탄이 그냥 놔두는 거예요. 「おい!あいつは放っておいても、まあ俺が期待しているよりもっとデタラメに生きている。放っておけ!」 「そこに一体どんな戦いがあるっていうんですか?」
私たちが神の御言葉通りに、クリスチャンの歩みを正しく生き抜くならば、私たちの人生には血飛沫の舞う戦争があるようになっているのです。なぜ神様が、私たちに、あの北朝鮮やこのような共産圏にいる、あの迫害されているキリスト教徒たちを私たちの目に見せてくださるのか分かりますか?なぜイスラム圏にいる人々が腕を切り落とされ、皮を剥がれる姿を、今のこの時代にも私たちに見せてくださるのか分かりますか?
教会とは何ですか?「一つの体」だと言うでしょう?一つの頭(かしら)を持った「一つの体」だと言うでしょう?彼らの苦痛は誰の苦痛ですか?私たちの苦痛です。それが私たちのものなのです。「お前たちが今経験している霊적戦争の現場は、まさにこのような姿なのだ」ということを目に見せてくださっているのです。「私たちはアメリカという豊穣の地!アメリカにいるから安全だ!」お前たちが経験している霊的戦争が(영적 전쟁이)、まさにそれだということを見せているのです。「神様!感謝します。私たちはどうしてこんなに豊穣の地に生まれたのでしょうか?」これではないのです!
その時、そのような霊的戦争を(영적 전쟁을)経験している時、私たちが唯一動員できる武器は何ですか?「祈り」です。それが祈りなのです。唯一それを使うようにと私たちに与えられたのです。霊적戦争の現場で、神様と緊密に疎通する手段!「神様!今、砲弾が飛んできています。神様!彼らの剣が私たちの喉を狙って飛んできています。神様!援軍を送ってください、神様!防いでください!」と、戦場で使われる通信兵が(통신병이)持っている「ウォーキートーキー(無線機)」なのです、祈りは!
ところが、私たちは祈りをどう使っていますか?ただ家で使うインターホンです。「お父さん!ご飯ちょうだい!お父さんお小遣いちょうだい!足りないよ」そのようなものですか、祈りが?祈りは戦場で使うウォーキートーキーなのです。皆さん!私たちはそのような霊的戦闘の現場で祈りながら、「神様!私たちは当然、あの滅びゆく者!あちら側に立っているべき者なのに、私たちはどうやって救われ、ここにこうして来ているのですか?」と感激するのです。
第二に、「はぁ!今はまさにあのハルマゲドンの戦いへと向かう霊的戦争の延長線上にある、まさにこのような危急な時なのだな!」と現実を自覚するのです。「今こそがまさにあの末世!あの終わりの時なのだ!だから私たちは、あの明日の糧である、イエスを求めなければならない、まさにその時なのだ!」それを知るのです。
そして第三に、「私たちはこのように試みられ、苦しみを受け、彼らに指を差されるが、必ず神様が雹と疫病と火と硫黄で、彼らを打ち殺す日が、必ず来る!」それを確認するのです、祈りながら!そして喜ぶのです、「その日は来る!」と。
どうして喜ぶことができますか?私たちは毎日毎日、今、試みにあっていますし、毎日毎日!正直になりましょう。倒れるじゃないですか、その試みに!皆さん、その試みに勝ちますか?毎日毎日毎日毎日倒れますよね?なのにどうして喜ぶことができますか?
ここで、私たちが祈りに対するデフィニション(definition:定義)を、改めて下していくのです。私たちが「イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン」と祈るそこには、どのような意味があるのでしょうか?「イエス・キリストの御名によって祈る!」どんな祈りでも全部しておいて、イエスの名前さえ付けておけば、ただ神様がすべてお聞きになるのですか?「イエス・キリストの御名によってお祈りいたします!」と祈るそこには、どのような意味があるのでしょうか?あなたがたが神の(신의)民であり、イエス・キリストの兄弟であり、神の子供であるならば、あなたがたはあのイエスが捧げるあの祈りの水準まで上がってきて祈りなさいということです。あのイエスの御心がどのようなものであるか、見極めて祈りなさいということです.
ですから、イエスの名前で祈りが神様の前にパッと捧げられると、神様が「Qマーク」をパッと付けられるのです。「イエスの名で上がってくるこの祈りは、私が聞かなくても正当な祈りであることを知っている」その水準まであなたがたが上がりなさいということです。ですからイエスの名で、神様の前にシャキッと捧げられる祈りは、「品質保証」です!ハンドバッグといえば、プラダ!ラーメンといえば、農心辛ラーメン!そのようなものです。化粧品といえば、コリアナ!私たちのファン・ムヨク執事様が(집사님이)コリアナで働いておられるのに、どうして私がアモーレだと言えますか?コリアナ!あぁ、そのように「品質保証」!それが「イエス様の御名によってお祈りします」という意味なのです.
ある牧師様がこのような例え話をされていました。説教の時に、自分はアパートにすごく長く住んでいたそうです。そして、とても有名な牧師様です。ですから自分の家族までも、そのアパートの前にある、あの小さな店の主人が皆知っているということですね。ところがある日、自分の息子がその店主のところへ行って、「おじさん!うちの父さんが焼酎一本くれって言ってます」と言ったら、その店のおじさんはくれるでしょうか?「お前が飲もうとしてるんだろ?」と言うのです。父親が誰であるか知っているのに、その父親の名前で行って「焼酎一本ください!」と言えば、その店のおじさんでさえゲンコツを食らわせるということですね。
ところが、私たちは「イエス様の御名によってお祈りします」と言っておきながら、全部「焼酎(俗世の欲望)」をくれと言っているのです、行って!神様の御前に行って!皆さんが捧げている祈りは何なのですか?それを確認してみてください、ということです。イエス様の御名によって祈れということは、「イエス様ならば、どのような御心と、どのような水準で祈られるだろうか?」と私たちが推し量りながら、そのような祈りをせよということなのです。
では、イエス様が今、直接教えてくださったこの「主の祈り」は、イエス様が直接私たちに教えてくださった祈りであるなら、どうでしょうか?直接祈りを「こう、こう, こう、こうしなさい!」と教えてくださったその主の祈りであるなら、その主の祈りはイエス様の願い(祈願)ですよね?イエス様はどなたですか?神様です。神様が願われることが成し遂げられるでしょうか、成し遂げられないでしょうか?成し遂げられますよね?
ならば、「私たちを試みにあわせないでください!」という、あのイエス様の祈りは、聞き入れられたのですか、聞き入れられなかったのですか?聞き入れられました!ここでまた「オールレディ・ノット・イェット(already not yet:既に、しかし未だ)」が出てくるのです。その祈りは聞き入れられた祈りです。前でも見てみましたが、「御国が来ますように、御心が天で行われるように地でも行われ、私たちに明日の糧!あのイエスを送ってください!私たちが私たちの罪を赦したように、私たちの罪も(죄도)赦してください!」これらはすべて成し遂げられた祈りだと見てきたではありませんか。
ならば、「私たちを試みにあわせず、ただ悪からお救いください」というあの祈りも、すでに成し遂げられたのです。荒野で、イエス・キリストがサタンから試みを受けられながら、どのように勝たれましたか?「あなたの神である主を試みてはならない!人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉で生きるのだ!」と言われながら、終わらせられたのです。その試みに完全に勝利されました。
アダムはどうしましたか?プロベーション(probation:試用期間・試験)が来た時、どうしましたか?「善悪の知識の木の実を食べてはならない!」と言われたのに、食べたのです。だから天使が、彼らを追い出してしまいました。イエス様がその試みに勝たれた時、どのようなことが起こりましたか?「御使いたちが仕えた」と言うのです。そして、その試みに勝たれた現場に、ルカの福音書によれば、「野の獣と共にいた」と言われています。その言葉は何をヒントにしているかというと、「エデンが回復された」ということです。
アダムはエデンから追い出されて、呪いの地である荒野に行きましたが、呪いの地!荒野におられるイエス様は、その試みに勝つことで、今やエデンを回復されたのです。ここで皆さんが誤解してはならないのが、「私たちが後で行くべき場所が、エデンを回復させるそのような場所に行くことなのだな」と語る人もいます。それは違います.
エデンについては、アダムは罪のない者として生まれましたが、そこにはまだ試みがある場所です。善悪の知識の木がある場所ですね。私たちが行く場所は?ヨハネの黙示録で、新しい天と新しい地には、命の木がありますよね?川もありますね?全部あります。でも何がないですか?善悪の知識の木がない場所です。プロベーション(probation)がない場所です。そこは、イエス様が荒野でこの試みに完全にすべて勝っておかれたので、善悪の木がないのです。根こそぎ抜かれて、なくなってしまった場所なのです。私たちはそこを生きている人であり、そこを待ち望んでいる人々ではありませんか?
人々はしきりに「エデンへ、エデンへ帰ろう!」というスローガンまであります。そう言いながらヌーディスト(nudist)たちがですね、服を全部脱いでですね、「私たちはエデンでそのように創造された。私たちはエデンに帰る者たちだから、聖書的に服を脱いで生きるのが正しい!」正しいですか?本当にそれが?
私たちはエデンに帰るのではありません。裸で創造されたあのエデンから、新しい天と新しい地で、義の白い亜麻布を着る者たちへと、どのように神様が作り変えていかれるかを見せてくださるのが、聖書なのです。それが救いの歴史であり、救済史(구속사)だということです。それを!ですから私たちは「義の白い衣を着た者たち」へと作り上げられていくのです。ここが目的なのです。
神様はこれを目的として、裸のアダムとエバを創造しておかれたのです。彼らが「エイブル・トゥ・シン(able to sin:罪を犯しうる状態)」、罪を犯すことができる状態!無罪な者でしたが、「エイブル・トゥ・シン」罪を犯しうる状態から、「ノット・エイブル・トゥ・シン(not able to sin:罪を犯しえない状態)」へとどのように行くのかを、私たちに説明してくれようとしているのが、まさに聖書なのです.
どうしても罪を犯そうにも犯せないような者に、どのように作り上げていかれるのか?十字架です。それが!聖書はその話をしています。およそ罪を犯そうにも犯しようのない、そのような者に、いかにして造り替えていかれるのでしょうか? 十字架です。それが! 聖書はその話をしています。イエスと十字架以外には、何の話もしていません。その話以外には! 主に私たちは礼拝堂でそれを学ぶのです。ですから、ヌーディストたちに会ったら、「それは違う、服を買って着なさい」と伝えてあげてください。どうか!
皆さん! 私たちが、イエス様が荒野で誘惑に打ち勝たれた時、私たちはどこにいましたか? その中にいたのです。十字架で亡くなられた時、私たちがその中にいたように、あの荒野でイエス様が誘惑に完全に打ち勝たれた時、私たちは皆その中にいたわけです。では、そのようにすべて誘惑に勝ち、完全に最後の日、その祈りに応えられるのであれば、なぜ私たちは祈らなければならないのでしょうか? なぜ祈る必要があるのですか、私たちは? 「試みにあわせず、悪から救い出したまえ」と? やはり、私たちのためにそうするのです。私たちのために! 神様が、私たちが祈らなければ何もしないということではなく、私たちのために祈れということです。
私たちは毎日このように誘惑に負けながら、「いいえ、神様! 私はこのような存在なのに、神様が私をこのまま放っておかれたら、毎日このように誘惑に負けて、あのサタンの側、ハルマゲドンの戦いであのサタンの側にいるはずの存在なのに、どうして私がここで今、神様にこのような祈りを捧げているのでしょうか?」と、時々そのように感じるではありませんか。私たちは神様の側で、味方ではなく敵軍であるかのように思いませんか? 時にはそのような実存を見つめながら、「神様! どうしてこのような人間に、満点だと言ってくださるのですか? どうしてこのような人間に向かって、『お前は満点だ!』と言ってくださるのですか?」と言いながら、感謝するのです。
その感謝が溢れ出しながら、私の人生が少しずつ変化していくのです。「そうだ、そういうことなら、あのように神様が御子を、こんな人間のために死なせられたのなら、これくらい一度勝ってみよう!」そうして誘惑を一つ、また一つと勝ち抜いていくことになるのです。それが私たちクリスチャンの人生なのです。それに勝ち抜いていくことが簡単でしょうか? 自分の身を削り、骨を削るような思いでしょう。それを殉教(じゅんきょう)と言うのです。私たちはその場所へと行くのです。
自分がビジネスで損をすることが、簡単だと思いますか? 他の人から後ろ指を指されながら、正しく生きるという、その人生が簡単だと思いますか? それを私たちは「殉教」と言うのです。サタンは私たちをそのように、じわじわと深刻に殺していくでしょう。しかし、それは私たちにとって恵み(めぐみ)であり、祝福(しゅくふく)だということです。この逆説が、少しでも皆さんに理解していただければ幸いです。私たちはそのようにして、神の子へと造り替えられていくのです。
サタンはこのように私たちを熱心に攻撃しています。以前は、サタンが私たちを剣や銃で脅しながら試しました。「イエスを信じれば死ぬぞ!」最近はどうでしょうか? 科学と文明、そして私たちのこの薄っぺらな理性(りせい)! このようなものを用いて、私たちを試すのです。
私には工学博士の友人が一人いますが、その友人が私に、アインシュタインの相対性理論、それを持って私に質問してきたのです。私は先週、その相対性理論を勉強するために丸一日を費やしました。アインシュタインの相対性理論に従えば、その公式に当てはめると、質量のある物体は光の速さまで行くことができません。光の速さで動くことはできないのです。その光の速さで一年間走る距離が1光年ですが、私たちの近くにあるアンドロメダ星雲は、200万光年離れている星雲です。そこまでは、光の速さで走っても200万年かかります。そうでしょう!
イエス様は肉体を持って復活されました。すると、彼が考えるには、彼はキリスト教徒ですが、イエスには質量があるというのです。質量がある物体は、アインシュタインの相対性理論の公式に当てはめると、この運動質量が無限大になるため、不可能だというのです。だからイエス様は今、光の速さまでは行けず、それに近い速度で絶え間なく走り続けているというのです。どこへ? 三層天(さんそうてん)へ! 私たちは一層、二層、三層天と話しますよね? 一層天は大気圏! 二層天は宇宙! 見えない宇宙です! 三層天はパウロが行ってきた、ビヨンド・コスモス(beyond cosmos)でしょう? つまり、イエス様は今まだ2000年しか経っていないから、光の速さで行ったとしても、今は2000光年までしか行けていない。だからあそこにいるんだ、どこか辺りに! ハハハ。
それで私は、「君は神が天地を創造されたことを信じているか?」と聞きました。信じているそうです。「神が、この宇宙を動かすその秩序を作られた方であることを信じているか?」信じているそうです。「そのイエス・キリストによらなければ、この地に創造されたものは一つもない、ということを君は信じているか?」信じているそうです。ならば、なぜイエス様がアインシュタインの相対性理論に従って、その公式に代入して走らなければならないのか? イエス様は、私の知るイエス様は、思考の速度で動くことができる方だ。
科学を持って人々は神を証明しようとします。科学で! その神が証明できますか? 科学と文明は私たちを豊かにしましたか、本当に? 科学と文明とは何ですか? カインの末裔(まつえい)たちが、自分たちの力で生きていかなければならないために、城を築き、文明を造り、科学を発展させてきたものです。
昔は稲妻が走り、雷が鳴れば、神の前で人々は謙虚になりました。「もしかして神様、私が何か罪を犯したのでしょうか?」と行きました。今は避雷針をピシッと立てて、「私たちは安全だ!」と言っています。洪水が起きれば、「神様! 神様が助けてくださらなければ、私たちは食べていけません。どうすればいいですか? どうか雨を止ませてください!」と言っていましたが、最近はダムを築くのです。堤防を築き、神を不要な存在にしてしまっています。それが科学の行く道です。私たちをむしろ永遠の死へと引きずり込んでいるのが、まさに科学なのです。
理性が作り出したものは何ですか? 「なあ、どうして神がイエスとしてだけ来られただろうか? 釈迦としても来られ、仏としても来られ、孔子、孟子、老子、荘子、ソクラテスとしても来られただろう。」私たちのこの理性は、その限界の中ではそのようにしか考えられないのでしょう。そのように科学と文明と理性、これらが作り出したものがそれです。
人間の理性が不可能であることは、第二次世界大戦の時にすでに明らかになったではありませんか。「理性を教育して、地上天国を作ってみよう!」としてルネサンスを起こし、文芸復興を起こしましたが、いや、一人の人間が現れると、あれほど教育したにもかかわらず、互いに殴り合い殺し合い、600万人を虐殺したというのです。「ああ、人間の理性ではダメなんだ。教育させてはダメなんだ」と分かったではないですか。その時、人間の理性は死んだのです。
ところが最近、またもくもくと沸き上がっています。マルクーゼやハーバーマスのよう、宋斗律(ソン・ドゥユル)教授の師匠ですね? ハーバーマスのような社会学者が、「弁証法的理性」だ何だと言って、最近また持ち出しています。
私たちの理性を教育すれば、地上天国、地上の楽園が成し遂げられるでしょうか? サタンはそのように科学と文明と理性で、私たちを絶え間なく試しているのです。私たちの罪性を刺激しているのです。私たちの古き人を刺激しているのです。「おい、どうして神ばかりを追って生きるんだ? お前たちの力でもできるぞ!」それを刺激しているわけです。その時に祈るのです、私たちが! 「神様! 私はその神様によってのみ生きます。私を試みにあわせず、この悪しき勢力の誘惑から、この試練から救い出してください!」その祈りは、私たちのすべての人生に適用されなければならないのです、祈りは!
私が運転をする時、私は運転を少しゆっくりする方です。時速65マイル、制限速度が65マイルなら、きっちり65マイルで行きます。時速50マイルなら、50マイルで行きます。牧師だからそうしているのではなく、昔、大きな事故を起こしてから、怖くて出せないのです。そうやって行くと、後ろから来る人たちが追い越しながら、挨拶をして行きます。挨拶をこう(普通に)してもいいし、こう(会釈)してもいいのに、必ず中指を立てながら(ハハハ)「なぜ遅いんだ?」と言わんばかりに。すると私の心の中に、「あいつを追いかけて復讐してやろうか?」という心が植え付けられるのです。そのような誘惑が来ます。その時に祈れということです。「神様! 御国(みくに)が来ますように!」
その国が来れば、私は神の統治に従って生きるという誓約でしょう? 「神の統治が私の人生を導いてくださいますように! 私の思い通りではなく、私は追いかけて一発お見舞いしてやりたいけれど、私の思い通りではなく、神の御心(みこころ)のままになさってください。神の御心! 許せというその許しが、私の人生から現れますように。それで、私が隣人を許したように、私も神の前で堂々と『私を許してください!』と告白できるような者にならせてください!」 この主の祈りの中に、すべて含まれているのです。私たちが試練に直面した時、捧げることができる祈り? それが主の祈りだということです。
このように私たちが主の祈りを見つめた結果、主の祈りのすべての内容は、神の国に関することでした。そうでしょう? 神の国! この地での私たちの人生! この地での私たちの人生の豊かさと繁栄! それについては一言も語っていません。イエス様が私たちにこのように祈りなさいと教えてくださったあの祈りの中には、この地での私たちの人生に関するものは何もありません。神の国です。すべて神の国! それ以外には何もありません。
私たちは祈りの最初の時間に学びました。人々が自分の心の中に絶えず沸き起こる願い、祈り! その祈りを通して、人間は自分の身分とアイデンティティが決定されるのだと学びましたね? ですから、「私の願いは宣教だ!」という人を、私たちは宣教者と呼ぶと言いました。ジム・エリオットのような人! 「私はこうして苦労して稼いだ金だから、節約しなければならない!」という人を、私たちは守銭奴と呼ぶと言いました。「スクルージ」だと。
どのような願いを持っているかによって、どのようなことを祈るかによって、その人のアイデンティティが決定されるのであれば、イエス様が私たちにこのように祈れと言われた、この全体の内容は何でしたか? 神の国に関することだったではないですか。ならば、私たちは神の国の民だということです。私たちはそれほど高貴な存在だということです。私たちはそのような些細なことではなく、神の国のために祈ることができる、そのような存在だということです。それを私たちは今、確認することになったのです。「私たちはそのような存在だ! 私は神の国を祈る者であり、神の国の到来を熱望する者だ!」それを私たちは確認するのです。
私たちは主の祈りを学びながら、私たち神の民は、この地のものに縛られて生きる者ではなく、神の国を待ち望みながら生きていくべき者であることを自覚するのです。そして、私たちを取り巻いているその現実に屈服せず、そこに膝を屈することなく、勇ましく堂々と走るべき道を走らなければならないという、そのような確信に至るのです。
皆さん! 主の祈りの中に、そのようなすべての祈りの答えが入っています。私たちクリスチャンは、まさにその祈りをすべき者たちです。その祈願と誓約の中に、私たちクリスチャンがいかに生きるべきか、何を願い、何を望んで生きるべきか、すべて入っているのです。その中で、皆さんの祈りが行われなければなりません。
イエス様の願いであるその祈り! そして、イエスがすべて成し遂げられたその祈り! それが主の祈りです。ですから、私たちは主の祈りを一言で要約するとしたら、「イエス様! ありがとう!」それ以外にはありません。主の祈りを一言で要約せよと言われたら、「イエス様! ありがとう!」それ以外に言うことはないのです。
毎日毎日、私たちはそのように神の民として、主の祈りを思い出しながら、私たちの祈るべきことが何であるか、もう一度確認するのです。そして天国の民としてのその身分を確認しながら、感激し、感謝しながら、歩むのです。
さあ、皆さん! 主の祈りの真意をすべて知ったのですから、私たちは今や主の祈りを捧げられる者となりました。ですから、今日の礼拝を、主の祈りを共に唱えながら、終えたいと思います。