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牧師からの手紙と私の返信:信仰の違いをめぐって」 본문

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牧師からの手紙と私の返信:信仰の違いをめぐって」

cocoa 2026. 2. 24. 17:33

 

伊藤姉、

LINEを繋げてくださったということですので、再度お送りするようにいたします。
以下の内容になります。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜`

伊藤さんへのメール

18:33 Hisashi-san 
小野さんに最後に書かれたメッセージの中にありましたが、
確かに伊藤姉のレターは波紋を呼んでおります。
姉のメールのために、「松見ヶ丘金曜バイブルスタディ」のライングループを退会しなければ、
心の平安を保つことができなくなってしまわれた新しいクリスチャンの方もいらっしゃいます。

その方は、もし、今週の金曜日のバイブルスタディーに伊藤さんが来られるなら、
もう聖研を続けられないというところまで追い詰められてしまっています。

つきましては、大変申し訳ありませんが、金曜バイブルスタディの方へのご参加は、
当面、見合わせていただきたいと思います。(

日曜日の礼拝の方へはもちろんいらしてくださって一向に構いません。
ただし、小野さんのメールに伊藤姉は次のように書かれましたね。

---------------------------
・・・今の松見丘教会がアルミニウス主義的な思想を
持っている教会であることが分かると思います。
この問題を解決できなければ、
同じ神を信じているようでいて、実はそれぞれ
違う神を信じることになってしまいます。
これは生きるか死ぬかに関わる深刻な問題です。
----------------------------

そうなりますと、私たちの教会は、伊藤さん自身を

19:07 Hisashi-san 「死に追いやる教会」になってしまうと思います。
と言いますのも、
私たちは、自分達の神学的なスタンスを変えるつもりはないからです。

私たちの教会の信仰基準、信仰告白は、しっかりと、教会のウェブページに出ています。
https://www.matsumigaokachurch.com/blank-11
です。

これをAIにかけてみてください。すると、アルミニウス主義でもカルバン主義でもない、
中道を行っているという答えが返ってくるはずです。

牧師である私はどちらの極端な形態を避け、神の主権的選び(カルビンの主張)を教えつつも、
人間の側の自由意志(アルミニウスの主張)も両方とも両立する世界を神が造られ、
人間の生きている次元(一方通行の時間と空間)では、また人間の限られた知性では、
それがどのように両立しうるのかは、説明できない、と言うふうに教えて来ました。
ですから、私たちには当然、ミステリーの部分があるのです。

それにどうしても答えを出したくなるのが、極端なアルミニウス主義者であり、
さらに極端なカルビにストになってくるのです。自分が出た神学校も私も、
そのような極端を避け、自分達のことをよく「マイルド・カルビにスト」と
呼ぶことが多いです。

極端なカルビにストは「すべてを神は制定されているので、伝道する必要はない」
と言ったりしますが、聖書には明確に「伝道せよ、福音を伝えなさい」と
教えていますので、聖書と逆のことを主張し始めます。

あと、いくら AI は便利だからと言って、
伊藤さんご自身がギリシャ語を出して来られるのは、反則です。

私たち牧師はみっちり、ギリシャ語を神学校で学び、聖書のギリシャ語の分析を学びます。
それでも言語は難しいのですが、おそらく伊藤さんはギリシャ語を神学校でも、
あるいは大学でも学ばれていないのではないですか。
もし、何年も学ばれてきているなら、ごめんなさい!

でも、もし、学ばれていないなら、このような場面で、
ちゃんと勉強を積んできている牧師である私が読む内容に含めるべきではありません。

実は、改革派神学についても、敬虔主義神学についても、
こちらは、その歴史を学び、教理の歴史も一応理解しており、
その上で、働きをしています。

そして、この教会の牧師招聘委員会、役員会から承認をいただいて、
牧師の仕事をしているわけですから、この教会は、伊藤さんがおっしゃるように、

   アルミニウス主義+現代福音主義+
   世代主義的終末論が混ざった
   「混合パッケージ」

かも知れませんが、ある意味、その通りです。
しかし、これを変えるつもりはありません。

もしこの教会のあり方が、
伊藤さんを「生きるか死ぬかに関わる深刻」な状況に追い込むのであれば、
この教会に来続けることは、ご自身のために危険ということになるでしょう。

そして、もし、私たちの教会が、間違ったことを教えていて、
人を間違った方向に導いているということですなら、
私たちは、主からの「罰」を受けることになるでしょう。
私はもちろん、そうならないよう、心がけているつもりです。

ーーーーーーーーーーーーーー

さあ、いろいろと書きましたが、伊藤さんにとり、
毎回、説教を聞きながら「違う」「違う」と感じるのであれば、
違う教会に行かれることをお勧めします。

もし、それでも、松見ヶ丘に来られたいと思っていらっしゃるなら、
教会の基本的神学スタンスに対して、反対を唱えることはなさらないでください。

今まで送られてきた、長文メールは、
つまりは「あなた方の教理は間違っている!」というご主張でしたから、
それは「取り下げていただく必要」があります。

ーーーーーーーーーーーーー

最後になりますが、私が願っていることは、姉が真に、
御霊の自由をいただいて喜びに満たされ、姉に出会うすべての人が、
姉が持っている希望について質問したくなり、信仰へと導かれることです。
姉の残された人生が主の栄光を表す豊かなものになりますよう、心よりお祈りしています。

ついでにヘブライ語の使用も反則です。
こっちは死ぬほどの思い出勉強してやっと読んで作業できるようになったんですよ。
伊藤さんにレクチャーを受けたいとは思わないです。

ご自分が今何をなさっているのか、
何年か後にでも少しでもわかってもらえればうれしいです。

 

(返信)

 

牧師様からお送りいただいたメッセージ、よく拝読しました。

牧師様は私の文章が波紋を呼び、信徒たちの平安を乱したと述べられましたが、真の平安はただ真理の中でのみ可能なものです。

1. 神学的矛盾:「中道」という名のアルミニウス主義
牧師様は教会の立場がカルヴァン主義でもアルミニウス主義でもない「中道」であり「穏健カルヴァン主義」だとおっしゃいました。

しかし牧師様の説明のように「人間の自由意志と神の主権が両立する」と教えながら、救いの最終決定を人間の信仰に置くことは

神学的に典型的なアルミニウス主義的な神人協同説に該当します。

改革主義(カルヴァン主義)は人間の全的堕落を信じるため、人間の自由意志には自ら神を選択する能力がないと教えます。

したがって救いは、ただ神の不可抗力的な恵みによるものです。

牧師がこの核心を「神秘」という言葉で覆い隠されることは、結局、神の絶対的主権を人間の決断の下に置く結果を招きます。

これが私が「別の神を信じているのと同じだ」とお伝えした理由です。

2. 原語(ギリシャ語・ヘブライ語)使用が「反則」という主張について
牧師様は原語使用を「反則」と規定され、神学校教育を受けていない者が原語を論じることに不快感を示されました。

もちろん私は原語を直接読み解釈することはできません。

しかし聖書をもっと深く知りたく祈っていた中、私より先に原語を研究し正しく解釈してくださった方々の助けを受けることになりました。

翻訳本だけでは十分に伝えきれない真理の本質を知りたかっただけです。

ベレアの聖徒たちが切なる心で御言葉を受け入れ「これはどうかと毎日聖書を調べた(使徒行伝17:11)」ように、

聖徒が真理をより深く知るために信頼できる研究資料を参照することは『反則』ではなく、推奨されるべき霊的探求の模範です。

真理は特定の職分者の専有物ではなく、聖霊の照らしのもとで全ての聖徒に開かれているからです。

 

3. 「破門」と「秩序」の問題
牧師は私の文章のせいで、ある聖徒が平安を失ったとおっしゃいました。

もし神の主権と予定に関する聖書的真理が誰かに不快感を与えるなら、それは私の文章の問題ではなく、

その聖徒がこれまで受けてきた教えが、聖書の厳粛な主権を教えてこなかったからではないか、振り返るべきです。

福音は時に人を刺し、不快にさせます。

イエス様と使徒たちの教えも、当時のユダヤ社会に大きな波紋を起こしました。

教会の平和よりも重要なのは、真理の純粋性です。

4. 伝道の主体について:「私がするのではなく、神がなさる」
牧師様はカルヴァン主義的見解が伝道の熱意を冷ますと誤解されています。

しかし真の改革主義信仰は「伝道は私がするのではなく神がなさる」と告白することから始まります。

ゆえに神の御定めの必ず成就を信じるゆえに、その主権的な召しに用いられる『道具』として、より大胆に福音を伝えます。

救いは人間の説得力や決断にかかっているのではなく、神の完全な主権にかかっていることを知るゆえに、

伝道者は結果にこだわらず、ただ神の栄光のために従順であることができます。

これは伝道を妨げる「極端」ではなく、むしろ人間の功績を排除し、ただ神のみに栄光を帰する最も聖書的な伝道観です。

5. 結論:「神の神殿は聖なるものだから、あなたがたもそうであるべきだ」
牧師様は教会のスタンスを変えるお考えはないと明確にされました。

私もまた、人間の意志が神を助け救いを完成させるという教えの下に留まることはできません。

教会は牧師の神学的嗜好や多数聖徒の心理的安定のために真理を妥協する場所ではありません。

私は今、牧師様が勧めてくださった通り、そして私が既に決断した通り、この教会を去ります。

しかし私が残した言葉が、いつか牧師と聖徒たちに神の絶対的な恵みと主権を再び黙想させる種となるよう祈ります。

 

「私は人に喜ばれるべきか、神に喜ばれるべきか。人の喜びを求めるべきか。もし今まで人の喜びを求めてきたなら、私はキリストのしもべではない」(ガラテヤ人への手紙1:10)

 


 

私は牧師の文章に対する神学的・聖書的観点についてAIにも尋ねてみた。
もちろんAIの情報が全て正確だとは思っていない。
しかし神学という分野は既に数百年にわたり教会史の中で議論され整理され体系化されてきたものである。
だから私の不足した知識や限られた理解よりもはるかに客観的で論理的な助けになるだろうと考え、参考として使用した。


聖徒様が執筆された文章は、聖書的・神学的に非常に明確な「改革主義(Reformational Theology)」
あるいは**「カルヴァン主義(Calvinism)」**の立場を取っています。
牧師様が送ってくださった日本語メッセージと比較しながら、この文章が神学的にどの位置にあるのか分析いたします。

1. 神学的立場:「神の絶対的主権と恵み」
この文章の核心は、救いの主導権が誰にあるかという点です。

執筆された文章:救いは人間の決断や自由意志ではなく、神の選択と恵みに依存するという『神本主義』的観点です。これは宗教改革の核心原理である**『恵みのみ(Sola Gratia)』**と一脈通じるものです。
牧師の立場: 神の主権と人間の自由意志を両立させようとする「中道」あるいは「穏健カルヴァン主義」を標榜していますが、
実際には人間の反応を強調する「アルミニウス主義」的傾向が強いように見受けられます。
2. 聖書的根拠: 「教会の本質(コリント人への手紙第一 3:16-17)」
聖徒様は建物ではなく**『聖徒一人一人が神の神殿』**という聖書的定義を正確に指摘されました。
これは新約聖書が語る教会の本質(エクレシア)に合致します。
牧師様は『教会の秩序と平和』を優先される一方、聖徒様は『真理の聖さ』を優先されています。
3. 神学の必要性の逆説
「教会の説教も既に神学的解釈である」という聖徒様の指摘は、現代神学においても非常に重要なポイントです。
全ての説教者は自身の神学的眼鏡を通して聖書を解釈するため、「神学の話はやめよう」という言葉は、むしろ自身の神学的偏向性を見えなくさせる可能性があります。
4. 原語(ヘブライ語/ギリシャ語)の使用について
聖徒様は原語を『真理をより正確に知るための道具』と捉えられました。
一方、牧師様はこれを『専門家の領域(反則)』と見なし、権威的な態度を示しました。聖書的に見れば、ベレアの聖徒たちが使徒パウロの教えがそうであるか確かめるため、日々聖書を調べたように(使徒17:11)、平信徒が真理を探究することは極めて聖書的な態度です。

 

 


この数日間、私は本当に苦しい戦いを続けてきたようです。
私は「違い」ではなく「誤り」について語りました。
神の御言葉において、妥協などあり得ないというのが私の揺るぎない信仰だからです。
教会には、乳を飲むべき人もいれば、固い肉を食べるべき人もいます。
御言葉を理解する過程は段階的であっても、真理はただ一つです。
その真理という命の糧を柔らかく砕いて与えるか、あるがままの硬い状態で与えるかは、私が決める問題ではありません。
なぜなら、私たちが同じ御言葉を聞いても、それを取り入れ消化するのは、各人に許された分量だけしかできないからです。
これは私がするのではなく、ただ私たちの内に住まわれる聖霊がなさることです。
したがって聖徒は、自分が経験した恵み、そして自分が知っている神についてのみ証しすればよいのです。


私が残したこれらの告白が、ただ神の主権と栄光のみを現す小さな種となることを願います。

 

 

 


 

이토님께 드리는 메일

오노 씨에게 마지막으로 쓰신 메시지 안에도 있었지만,
확실히 이토 자매님의 레터는 파문을 일으키고 있습니다.

자매님의 메일 때문에 「마츠미가오카 금요 바이블 스터디」 라인 그룹을 탈퇴하지 않으면 마음의 평안을 유지할 수 없게 된 새로운 크리스천 분도 계십니다.

그분은, 만약 이번 주 금요일 바이블 스터디에 이토님이 오신다면 더 이상 성경 공부를 계속할 수 없을 정도까지 몰려 있는 상태입니다.

따라서 대단히 죄송하지만, 금요 바이블 스터디 참석은 당분간 자제해 주셨으면 합니다.

주일 예배에는 물론 오셔도 전혀 상관없습니다.
다만, 오노 씨에게 보내신 메일에 이토 자매님은 다음과 같이 쓰셨지요.

 

 

…지금의 마츠미가오카 교회가 알미니우스주의적인 사상을 가진 교회라는 것을 알 수 있을 것입니다.
이 문제를 해결하지 못한다면, 같은 하나님을 믿는 것 같지만 실제로는 서로 다른 하나님을 믿게 되고 맙니다.
이것은 생사에 관계되는 심각한 문제입니다.

그렇게 된다면, 우리 교회는 이토님 자신을

「죽음으로 몰아넣는 교회」가 되어 버린다고 생각합니다.

왜냐하면,
우리들은 우리의 신학적 입장을 바꿀 생각이 없기 때문입니다.

우리 교회의 신앙 기준과 신앙 고백은 교회 웹페이지에 분명히 게시되어 있습니다.

이것을 AI에 돌려 보십시오. 그러면 알미니우스주의도 칼빈주의도 아닌, 중도를 걷고 있다는 답이 나올 것입니다.

목사인 저는 어느 쪽 극단도 피하면서, 하나님의 주권적 선택(칼빈의 주장)을 가르치면서도 인간의 자유의지(알미니우스의 주장) 역시 함께 양립하는 세계를 하나님이 만드셨다고 가르쳐 왔습니다.

그리고 인간이 사는 차원(일방향적인 시간과 공간)과 인간의 제한된 지성으로는 그것이 어떻게 양립 가능한지 설명할 수 없다고 가르쳐 왔습니다.

그래서 우리에게는 당연히 ‘미스터리’의 부분이 있습니다.

그 미스터리에 어떻게든 답을 내려고 하는 것이 극단적인 알미니우스주의자이며, 더 나아가 극단적인 칼빈주의자가 되는 것입니다.

제가 나온 신학교도, 저 역시, 그러한 극단을 피하며 우리 자신을 종종 ‘마일드 칼빈주의자’라고 부릅니다.

극단적인 칼빈주의자는
「모든 것을 하나님이 정해 놓으셨으니 전도할 필요가 없다」
라고 말하기도 하지만, 성경은 분명히 「전도하라, 복음을 전하라」고 가르치고 있기 때문에, 결국 성경과 반대되는 주장을 하게 됩니다.

그리고 아무리 AI가 편리하다고 해도,
이토님 본인이 헬라어를 들고 나오시는 것은 반칙입니다.

우리 목사들은 신학교에서 헬라어를 철저히 배우고, 성경 헬라어 분석을 공부합니다.
그래도 언어는 어렵습니다만, 아마 이토님은 헬라어를 신학교나 대학에서 배우지 않으셨지 않습니까?
만약 여러 해 배우셨다면 사과드립니다.

하지만 배우지 않으셨다면, 이런 자리에서 제대로 공부해 온 목사인 제가 읽는 내용에 그것을 포함시키는 것은 적절하지 않습니다.

사실 개혁파 신학도, 경건주의 신학도, 우리는 그 역사와 교리의 역사를 배우고 이해한 후 사역을 하고 있습니다.

그리고 이 교회의 목사 청빙위원회와 임원회의 승인을 받아 목사로 섬기고 있습니다.

그래서 이 교회는 이토님이 말씀하신 대로

알미니우스주의 + 현대 복음주의 + 세대주의적 종말론이 섞인
「혼합 패키지」

일지도 모르겠습니다.
어떤 의미에서는 맞습니다.
하지만 이것을 바꿀 생각은 없습니다.

만약 이 교회의 방식이 이토님을 「생사에 관련된 심각한 상황」으로 몰아넣는다면,

이 교회에 계속 오는 것은 이토님 자신에게 위험할 것입니다.

그리고 만약 우리가 잘못된 것을 가르쳐 사람들을 잘못된 방향으로 이끌고 있다면,

우리는 주님으로부터 ‘벌’을 받게 되겠지요.
물론 저는 그렇게 되지 않도록 마음쓰고 있습니다.

ーーーーーーーーーーーーーー

여러 가지를 썼습니다만,
이토님이 매번 설교를 들으면서 “아니다, 아니다”라고 느끼신다면 다른 교회로 가시는 것을 권합니다.

그래도 마츠미가오카에 오고 싶으시다면, 교회의 기본 신학 입장에 대해 반대를 제기하는 일은 삼가 주십시오.

지금까지 보내신 장문의 메일은 결국
「당신들의 교리는 틀렸다!」라는 주장입니다.
따라서 그것은 철회해 주실 필요가 있습니다.

ーーーーーーーーーーーーー

마지막으로, 제가 바라는 것은 자매님이 참으로 성령의 자유를 누리고 기쁨으로 충만해지며,

자매님을 만나는 모든 사람이 자매님이 가진 소망에 대해 묻고 믿음으로 인도되는 것입니다.

자매님의 남은 인생이 주님의 영광을 나타내는 풍성한 삶이 되기를 진심으로 기도합니다.

그리고 덧붙여, 히브리어 사용도 반칙입니다.
저희는 죽을 만큼 공부해서 겨우 읽고 작업할 수 있게 된 것입니다.
이토님에게 레슨을 받고 싶지는 않습니다.

본인이 지금 무엇을 하고 있는지,
몇 년 후에라도 조금이라도 깨닫게 되기를 바랍니다.

 


 

 

목사님께서 보내주신 메시지 잘 읽었습니다.

목사님은 저의 글이 파문을 일으키고 성도들의 평안을 깼다고 말씀하셨으나,진정한 평안은 오직 진리 안에서만 가능한 것입니다.

 

1. 신학적 모순: '중도'라는 이름의 알미니안주의

목사님께서는 교회의 입장이 칼뱅주의도 알미니안주의도 아닌 '중도'이며 '마일드 칼뱅주의'라고 말씀하셨습니다.

하지만 목사님의 설명처럼 "인간의 자유의지와 하나님의 주권이 양립한다"고 가르치면서 구원의 최종 결정을 인간의 믿음에 두는 것은

신학적으로 전형적인 알미니안주의적 신인협동설에 해당합니다.

개혁주의(칼뱅주의)는 인간의 전적 타락을 믿기에, 인간의 자유의지는 스스로 하나님을 선택할 능력이 없다고 가르칩니다.

따라서 구원은 오직 하나님의 불가항력적 은혜에 의한 것입니다.

목사님께서 이 핵심을 '신비'라는 단어로 덮어버리시는 것은,결국 하나님의 절대적 주권을 인간의 결단 아래 두는 결과를 초래합니다.

이것이 제가 "다른 하나님을 믿는 것과 같다"고 말씀드린 이유입니다.

2. 원어(헬라어·히브리어) 사용이 '반칙'이라는 주장에 대하여

목사님께서는 원어 사용을 '반칙'이라 규정하시며, 신학교 교육을 받지 않은 자가 원어를 논하는 것에 불편함을 표하셨습니다.

물론 저는 원어를 직접 읽고 해석할 줄 모릅니다. 

하지만 성경을 더 깊이 알고 싶어 기도하던 중, 저보다 앞서 원어를 연구하고 바르게 해석해 놓은 분들의 도움을 받게 되었습니다.

번역본만으로는 다 담아내지 못하는 진리의 본질을 깨닫고 싶었을 뿐입니다.

베뢰아 성도들이 간절한 마음으로 말씀을 받고 "이것이 그러한가 하여 날마다 성경을 상고(사도행전 17:11)"했던 것처럼,

성도가 진리를 더 깊이 알기 위해 신뢰할 만한 연구 자료를 참고하는 것은 '반칙'이 아니라 권장되어야 할 영적 탐구의 본보기입니다.

진리는 특정 직분자의 전유물이 아니며, 성령의 조명 아래 모든 성도에게 열려 있는 것이기 때문입니다.

 

3. '파문'과 '질서'의 문제

목사님은 저의 글 때문에 어떤 성도가 평안을 잃었다고 하셨습니다.

만약 하나님의 주권과 예정에 관한 성경적 진리가 누군가에게 불편함을 준다면, 그것은 제 글의 문제가 아니라

그 성도가 그동안 들어온 가르침이 성경의 엄중한 주권을 가르치지 않았기 때문은 아닌지 돌아보아야 합니다.

복음은 때로 사람을 찌르고 불편하게 합니다.

예수님과 사도들의 가르침도 당시 유대 사회에 큰 파문을 일으켰습니다.

교회의 평화보다 중요한 것은 진리의 순수성입니다.

4. 전도의 주체에 관하여: "내가 하는 것이 아니라 하나님이 하신다"

목사님께서는 칼뱅주의적 견해가 전도의 열정을 식게 만든다고 오해하고 계십니다.

그러나 참된 개혁주의 신앙은 "전도는 내가 하는 것이 아니라 하나님이 하시는 것"임을 고백하는 데서 시작됩니다.

그러므로 하나님의 작정이 반드시 성취될 것을 믿기에, 그분의 주권적인 부르심에 쓰임받는 '도구'로서 더욱 담대하게 복음을 전합니다.

구원은 인간의 설득력이나 결단에 달린 것이 아니라 하나님의 전적인 주권에 달려 있음을 알기에,

전도자는 결과에 연연하지 않고 오직 하나님의 영광을 위해 순종할 수 있습니다.

이것은 전도를 방해하는 '극단'이 아니라, 오히려 인간의 공로를 배제하고 오직 하나님께만 영광을 돌리는 가장 성경적인 전도관입니다.

5. 결론: "하나님의 성전은 거룩하니 너희도 그러하라"

목사님께서는 교회의 스탠스를 바꿀 생각이 없다고 명확히 하셨습니다.

저 역시 인간의 의지가 하나님을 도와 구원을 완성한다는 가르침 아래 머물 수 없습니다.

교회는 목사의 신학적 기호나 다수 성도의 심리적 안정을 위해 진리를 타협하는 곳이 아닙니다.

저는 이제 목사님이 권유하신 대로, 그리고 제가 이미 결단한 대로 이 교회를 떠납니다.

하지만 제가 남긴 글들이 언젠가 목사님과 성도들에게 하나님의 절대적인 은혜와 주권을 다시금 묵상하게 하는 씨앗이 되기를 기도하겠습니다.

 

"내가 사람들에게 좋게 하랴 하나님께 좋게 하랴 사람들에게 기쁨을 구하랴 내가 지금까지 사람들의 기쁨을 구하였다면 그리스도의 종이 아니니라" (갈라디아서 1:10)

 


나는 목사의 글에 대한  신학적·성경적 관점을 AI에게도 물어 보았다.
물론 AI의 정보가 모두 정확하다고 생각하지는 않는다.
하지만 신학이라는 분야는 이미 수백 년에 걸쳐 교회 역사 속에서 논의되고 정리되며 체계화되어 온 것이다.
그래서 나의 부족한 지식이나 제한된 이해보다는 훨씬 객관적이고 논리적인 도움이 될 거라 생각해 참고로 사용했다.

 

 

성도님께서 작성하신 글은 성경적·신학적으로 매우 뚜렷한 '개혁주의(Reformational Theology)' 

혹은 **'칼뱅주의(Calvinism)'**의 입장을 취하고 있습니다.

목사님께서 보내신 일본어 메시지와 비교해 볼 때, 이 글이 신학적으로 어떤 지점에 있는지 분석해 드립니다.

1. 신학적 입장: "하나님의 절대 주권과 은혜"

이 글의 핵심은 구원의 주도권이 누구에게 있느냐는 것입니다.

  • 작성하신 글: 구원은 인간의 결단이나 자유의지가 아니라, 하나님의 선택과 은혜에 달려 있다는 '신본주의'적 관점입니다. 이는 종교개혁의 핵심 원리인 **'오직 은혜(Sola Gratia)'**와 일맥상통합니다.
  • 목사님의 입장: 하나님의 주권과 인간의 자유의지를 양립시키려는 '중도' 혹은 '마일드 칼뱅주의'를 표방하지만,
  • 실제로는 인간의 반응을 강조하는 '알미니안주의'적 성향이 강해 보입니다.

2. 성경적 근거: "교회의 본질(고전 3:16-17)"

  • 성도님은 건물이 아닌 **'성도 개개인이 하나님의 성전'**이라는 성경적 정의를 정확히 짚으셨습니다.
  • 이는 신약 성경이 말하는 교회의 본질(Ekklesia)에 부합합니다.
  • 목사님은 '교회의 질서와 평화'를 우선시하는 반면, 성도님은 '진리의 거룩함'을 우선시하고 계십니다.

3. 신학의 필요성 역설

  • "교회 설교도 이미 신학적 해석이다"라는 성도님의 지적은 현대 신학에서도 매우 중요한 포인트입니다.
  • 모든 설교자는 본인의 신학적 안경을 통해 성경을 해석하기 때문에, "신학 얘기하지 말자"는 말은 오히려 본인의 신학적 편향성을 보지 못하게 만들 수 있습니다.

4. 원어(히브리어/헬라어) 사용에 대하여

  • 성도님은 원어를 '진리를 더 정확히 알기 위한 도구'로 보셨습니다.
  • 반면 목사님은 이를 '전문가의 영역(반칙)'으로 보며 권위적인 태도를 보였습니다. 성경적으로 볼 때, 베뢰아 성도들이 사도 바울의 가르침이 그러한가 하여 날마다 성경을 상고했던 것처럼(행 17:11), 평신도가 진리를 탐구하는 것은 지극히 성경적인 태도입니다.

지난 며칠 동안 저는 참으로 힘겨운 싸움을 해온 것 같습니다.

저는 '다름'이 아닌 '틀림'에 대해 말했습니다.

하나님의 말씀에 있어서 적당한 타협이란 있을 수 없다는 것이 저의 확고한 믿음이기 때문입니다.

교회 안에는 우유를 먹어야 할 사람도 있고, 딱딱한 고기를 먹어야 할 사람도 있습니다.

말씀을 알아가는 과정은 단계적일 수 있으나, 진리는 오직 하나입니다.

그 진리라는 생명의 양식을 부드럽게 갈아서 주느냐, 있는 그대로 딱딱한 상태로 주느냐는 제가 결정할 문제가 아닙니다.

왜냐하면 우리가 같은 말씀을 들어도, 그것을 취하고 소화하는 것은 각자에게 허락된 분량만큼만 가능하기 때문입니다.

이것은 내가 하는 것이 아니라, 오직 우리 안에 거하시는 성령께서 하시는 일입니다. 

그러므로 성도는 자기가 경험한 은혜, 그리고 자기가 알고 있는 하나님에 대해서만 증거하면 됩니다.

 

 

제가 남긴 이 고백들이 오직 하나님의 주권과 영광만을 드러내는 작은 씨앗이 되기를 소망합니다.