Kairosを生きる人々

松見ヶ丘教会に語りたいこと② 본문

荒野の叫び

松見ヶ丘教会に語りたいこと②

cocoa 2026. 2. 22. 21:07

  

 

 

 

私は、改革主義、福音主義、アルミニウス主義のような神学的分類そのものには、あまり大きな関心がありません。
最初から特定の立場を選ぼうとしていたわけでもありません。

できるだけ中立的な立場で、さまざまな資料を調べ、教会史と神学の流れについて知ろうとしてきました。

そのおかげで、2000年の歴史の中におけるキリスト教の流れと福音主義についても、多くのことを知るようになりました。

先に書いたとおり、私の信仰の根は、
アウグスティヌスに始まり、
マルティン・ルター、
そしてジャン・カルヴァンへと続く、
「神の恵み中心の信仰」の上にあります。

これは、私が最初から何らかの神学体系を選んだ結果ではありません。
御言葉に従っていくうちに、自然にたどり着いた場所でした。

なぜなら、聖書は初めから終わりまで同じことを語っているからです。

 

そして同時に、
松見丘教会がアルミニウス主義とディスペンセーション主義的終末論に従っているという事実も知るようになりました。

 

しかし、改革主義であれアルミニウス主義であれ、一つだけ明らかな事実があります。

人間が作り上げた神学システムそのものが信仰なのではない、ということです。
福音はどんな体系の中にも閉じ込められません。

私たちが信じている福音の核心はただ一つです。

「始まりも神、過程も神、完成も神 ― すべて神の恵み」

人間が作った神学体系がこの福音に取って代わることはできません。
福音は人間の意志に縛られない、神の絶対的主権だからです。

 

しかし同時に、
聖書をどの視点で読むかということは、非常に重要な問題です。

主がパリサイ人と律法学者たちに「まむしの子らよ」と叱責された理由は、
彼らが聖書を知らなかったからではありません。
彼らは誰よりも多く知り、多く学んだ人々でした。

問題は、御言葉を「知識」としてのみ理解し、
神の御心を歪めてしまったことでした。

御言葉を誤って解釈することは単なるミスではなく、
人をいのちから遠ざけてしまう致命的なことにもなり得ます。

聖書は単なる道徳の教訓書でも、宗教的規範を集めた律法集でもありません。
神が永遠の昔に計画された救いのご計画がキリストのうちに啓示され成就されていく過程を記録した啓示の書であり、
堕落した被造物が恵みによって神の養子としてそのかたちを回復していく救いのご経綸を証言する書物です。

 

私も最初はアルミニウス的信仰から始まりました。(その時は知りませんでした)
誰よりも熱心に伝道し、誰よりも熱心に神の働きをしていると思っていました。

しかし今振り返ってみると、
そのすべての熱心さは、結局「神の働き」ではなく「自分の義」でした。

信仰とは、私が何を成し遂げるかではなく、
神がどのように働かれるかを見ることです。

何もしないという意味ではありません。

聖徒は証人としての人生を生きるようになります。

「私がする」のではなく、「神が私を通してなさる」だけです。

自分の計画と思いを止めるとき、私の人生の中で私を通して働かれる神を見ることができます。

聖書は神の働きに人間の介入を許していません。

燭台のたとえをご存じでしょう。

燭台(=聖徒)は光(イエス・キリスト)を出すことはできません。ただ光を入れておく器にすぎません。

光は自ら輝きます。
そこに燭台が付け加えるものは何もありません。

 

コリント第二 4:7

わたしたちは、この宝を土の器に納めています。
この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。

 

私たちは宝であるイエス・キリストを入れた土器にすぎません。

土器には何の力もありません。

ただ神が用いられる器として存在すればよいのです。

 

ルカ10章のサマリア人のたとえを見てください。とても重要です。

このたとえには二人の人物が登場します。

強盗に襲われた者と、彼を助けた隣人です。

イエスは「隣人が誰か」を教えるために、強盗に遭った者を登場させます。

「私の隣人は誰ですか」と尋ねた律法学者は、自分を「助ける者(主体)」の位置に置きました。

しかし主は「誰が強盗に遭った者の隣人になったか」と問いを逆転させ、
彼を「強盗に遭って死にかけている者(対象)」の位置に引き下ろされました。

蛇の誘惑に騙され、いばらとあざみしか生えないこの呪われた世界を生きている私たちこそ、強盗に遭った者です。

そしてその者を救ったのは当然イエス様です。

彼を治療する時に使われた油とぶどう酒を見てください。
聖書で油は聖霊を、ぶどう酒はイエスの血を象徴します。

このたとえは、

「あなたは愛を行える人ではなく、
その愛(恵み)を受けなければならない人だ」

ということを教えています。

「あなたも行って同じようにしなさい」という言葉の中には、

「あなたにはできないのだから、わたしの恵みの中に入りなさい」

という律法学者への招きが込められているのです。

私たちは自ら善を行える者ではなく、罪という強盗に遭って死んでいた状態で、
イエスという「真のサマリア人」の恵みによってかろうじて生かされた者たちです。

ここに私たちが付け加えたものがあるでしょうか。

 

霊的に死んでいた私たちのところに、神ご自身が訪れてくださったのです。

伝道は私たちの計画や熱心さによってするのではありません。

神の働きは神ご自身がなさいます。

 

「ただ聖霊があなたがたに臨むとき、あなたがたは力を受け、わたしの証人となります」(使徒1:8)

 

証人になろうと努力しなさい、ではありません。
「なる」と言われました。

命令ではなく約束です。

これは私が証人になろうと努力するのではなく、
神の熱心が私たちを証人の人生へと強く導いていかれるという意味です。

私の杯に恵みが満ちれば、自然にあふれ出ます。

あふれるぶどう酒は自然に誰かに流れていきます。

ぶどうの木につながっていれば、実は自然に実ります。

私たちはただぶどうの木につながっていればよいのです。

繰り返しますが、ここに私たちがしなければならないことは何もありません。

ぶどうの木につながることも、実を結ぶことも、杯があふれることも、すべて聖霊の恵みによるのです。

聖徒はただ自分の持ち場を守り、静かに神のなさることを見ればよいのです。

「では何もしなくていいのか?」という質問が出るかもしれません。

はい、私がすることはありません。私を通して神が働かれるのです。

 

イザヤ30:15

立ち返って静かにしていれば、あなたがたは救われ、
落ち着いて信頼していれば、あなたがたは力を得る。

 

出エジプト14:13–14

恐れてはならない。立って、主が今日あなたがたのために行われる救いを見なさい。
主があなたがたのために戦われる。あなたがたは静かにしていなさい。

 

神は愛する者をそのままにはおかれません。

神が帯を締め、私たちが望まない所へと連れて行かれます。(ヨハネ21章)

聖徒は必然的にその道を歩むようになっています。

 

ピリピ2:13

あなたがたのうちに働いて、御心のままに願わせ、また行わせておられるのは神です。

 

神に引かれて行く人生が簡単でしょうか。

「神の言葉は生きていて力があり、両刃の剣よりも鋭く、
魂と霊、関節と骨髄を切り分けるまでに刺し通し、心の思いや考えを見分ける」(ヘブル4:12)

御言葉の剣が私の魂と霊と関節と骨髄を刺すとき、その痛みはどれほどでしょうか。

人間は自分が否定されるとき、死ぬほどの痛みを感じます。

しかし否定されるその場所こそ、私が死ぬ場所であり、その場所でイエス・キリストが生きられます。

 

マタイ16:24

それからイエスは弟子たちに言われた。
「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従いなさい。」

 

自分の計画と熱心を止め、自分の内で働かれる神を見つめること。
十字架を負い、自分を否定して主に従うこと。これがまさに聖徒の人生です。

 

私は、自分の熱心ではなく神の働きを見るようになるまで、
実に35年という時間がかかりました。

神の恵みによって、
エジプトのようなこの世から過越の血によって救い出され、
荒野を通り、紅海を渡らせていただき、
今では主のうちにある真の自由とは何かを悟らせていただきました。

最初から最後まで、ただ神の恵みでした。

私がしたことは、罪を犯すこと以外には何もありませんでした。

信仰は、神と私との1対1の関係です。

いかなる神学も、牧師も、人も、その場所を代わることはできません。

助けを受けることはできますが、それが私の信仰を変えることはできません。

ただ聖霊の恵みによってのみ可能なことです。

 

「知識は高ぶらせ、愛は徳を建てる」(コリント第一 8:1)

 

御言葉が頭にだけ入るなら「自分」を大きくし、
御言葉が心に臨むなら「自分」を殺します。

聖書を真理として読むようになると、
自然に自分が罪人であること、不可能であること、信仰がないことが見えてきます。

それは不思議なことではありません。

 

「その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世を責められます」(ヨハネ 16:8)

 

聖霊が私たちを責められるからです。

御言葉は私を打ち砕き、キリストだけを現します。

聖書は畑に隠された宝のようなものです。
それは秘密です。

この秘密は知識で解く問題ではなく、
聖霊の照らしによってのみ開かれます。

だから同じ聖書を読んでも、
ある人はイエス様に出会い、
ある人は出会うことができません。

代表的な例が**アルベルト・シュヴァイツァー**です。

彼は一生イエス様を研究しましたが、
イエス・キリストを神として認めませんでした。

学問はありましたが、
啓示はありませんでした。

聖書の御言葉を読む方法は三つあります。

 

1.理性中心

 聖書を知識、研究対象として見ます。
 知識は増えますが、いのちはありません

 

2.人間中心(ヒューマニズム)

 人のための神という観点で聖書を見ます。

 十字架の苦難や自己否定よりも、この地上での祝福に集中します。

 聖書を読みますが、自分の救いのための神として御言葉を消費します。

 結果:苦難が来ると信仰が根こそぎ揺さぶられる結果を招きます。

 

3.神中心の観点(神本主義)

 聖書のすべての出来事を(旧約から新約の再臨まで)イエス・キリストの十字架の出来事に結びつけて読みます。

 これが聖書が求めている目線です。

 しかしこれは人の力ではできません。

シュヴァイツァーのように一生聖書研究をしても、聖霊の恵みがなければイエス様を主と告白することはできません。

イエス様は、聖書がご自身を証ししていると語られました。

旧約全体がご自身の物語であると語られているのです。

彼は聖書の中でそのイエス様に出会うことができませんでした。

当時の聖書とは旧約を指します。

イエス様の時代には旧約しかありませんでした。

 

ルカ 24:27

モーセとすべての預言者から始めて、
聖書全体にわたり、ご自身について書いてあることを詳しく説明された。

 

ルカ 24:44

モーセの律法と預言者と詩篇に、わたしについて書いてあるすべてのことが成就しなければならない。

 

ガラテヤ 3:16

その約束はアブラハムとその子孫に告げられたのですが … ただ一人のキリストを指して言われたのです。

その約束の成就が十字架においてすべて成し遂げられたのです。

 

ヨハネ 16:33

これらのことをあなたがたに話したのは、
あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。
世にあってはあなたがたは患難があります。
しかし勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ちました。

 

患難がないとは言われませんでした。
すでに勝ったと言われました。

反キリストが怖いですか。

サタンが怖いですか。

この世の悪い権力者たちの力が恐ろしいですか。

病気はどうですか。

戦争はどうですか。

死が怖いですか。

この世のすべての出来事は神の主権の下にあります。

そしてそのすべてをすでにキリストが打ち勝たれました。

 

ローマ 8:35–39

だれが私たちをキリストの愛から引き離すことができるでしょうか。
患難か、苦しみか、迫害か、飢えか、裸か、危険か、剣か。
…
しかしこれらすべてのことにおいて、私たちは私たちを愛してくださる方によって圧倒的な勝利者です。
…
どんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から私たちを引き離すことはできません。

 

4000年前に起こったエジプトの災い、旧約の戦争、患難…。

これらすべての出来事は過去にだけあったのではありません。

今もあり、これからもあります。

聖徒の大胆さは、私のうちにおられるキリストがすでに勝たれたという信仰から来ます。

私ではなく、

その方が勝たれ、今も勝っておられ、最後まで勝たれるのです。

 

ヘブル 13:6

主は私を助ける方。
私は恐れない。
人が私に何をなし得ようか。

 

マタイ 10:28

からだを殺しても、たましいを殺せない者たちを恐れてはならない。
むしろ、からだもたましいも地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。

 

結局、信仰とは

私が何をしたかの物語ではなく、
神が何をなさったかの物語です。

聖書は

私を強くする本ではなく、
私を死なせてキリストだけが残るようにする本です。

そしてこの目は、知識ではなく、ただ聖霊の恵みによってのみ開かれます。

ヨハネの黙示録に言及された巻物の正体(黙示録5章)

ヨハネの黙示録5章で、使徒ヨハネは神の右の手に握られている巻物を見ます。

その巻物には内側にも外側にも文字がびっしり書かれており、七つの封印で封じられています。
しかし、天にも地にも地の下にも、その巻物を開くことのできる者は誰もいません。

ただ小羊、すなわちイエス・キリストだけがそれを開くことがおできになります。

この巻物は単なる預言書ではありません。

それは、
神のご計画、
贖いの計画、
さばきと救い、そして完成に至るまで、

歴史全体がすでに記録されている神の贖いの経綸の文書です。

これから成就される計画ではなく、すでに完成された計画です。


1. 小羊が封印を一つずつ解かれるたびに出来事が始まります。

多くの人はこれを「未来の災いの始まり」と理解します。
しかし本質は違います。

封印を解くということは、
災いを新しく作り出すことではなく、

すでに記録されている神の計画が時間の中で執行され始めるという意味です。

四頭の馬が登場します。

白い馬 → 征服と戦争
赤い馬 → 殺りく
黒い馬 → 飢饉
青白い馬 → 死と疫病

これらは特定の時代の特別な出来事ではありません。

人類の歴史の中で常に繰り返されてきた現実です。

つまり黙示録は「ある日突然起こる終末」を語っているのではなく、
堕落以後の人類の歴史全体を説明する黙示的象徴なのです。


2. 巻物を受け取られた小羊イエス・キリストは

すでに2000年前に来られ、十字架で贖いを完成されました。

その方の宣言がまさに「完了した」です。

この一言こそ、事実上、黙示録全体を開く鍵です。

十字架においてすでに

贖いは完成し、
勝利は確定し、
サタンは敗北し、
神のご計画は決定されました。

したがって黙示録は、
勝利を得るための戦いの記録ではなく、すでに勝った勝利が歴史の中で展開していく過程です。

十字架が「決定」なら、黙示録は「展開」です。


3. 神は永遠の視点から歴史を一望されます。

山の上から海を見下ろせば全体が一目で見えるのと同じです。

しかし海の上に浮かんでいる人は、目の前の波しか見ることができません。

この違いがまさに黙示と歴史の違いです。

(黙示 → 神の視点)
(歴史 → 人間の視点)

黙示録は人間の視点ではなく、天の視点から見た歴史全体の絵です。


4. 黙示録の解釈は単なる終末論の問題ではありません。

実は救済論の問題です。

救いを人間の選択中心で理解すると、
黙示録は「未来の出来事の順序表」になります。

反対に、神の主権とご計画中心で理解すると、
黙示録は「贖いの歴史が歴史の中で展開される黙示」になります。

黙示録を「キリストの贖いが歴史の中で展開される黙示的啓示」と見る観点は、
アウグスティヌス以降の西方教会の主流解釈であり、
ジャン・カルヴァンを含む宗教改革の伝統も基本的に同じ枠組みに立っています。

反対に、黙示録を
「未来の出来事の順序表」として読む方法は、
ディスペンセーション主義(19世紀に登場)以降に強まった比較的新しい解釈です。

だから同じ聖書を読んでも全く異なる結論に到達します。

これが私がこの教会で感じた違和感の理由です。


5. 黙示録は未来予言書ではありません。

すでに十字架で完成された救いが、
時間の中でどのように展開されるかを示す黙示的啓示です。

終末とは「終わり」ではなく「完成」という意味です。

そしてこの視点は人間の知識や論理で得られるものではなく、
ただ聖霊の恵みによってのみ開かれる目です。


私は皆さんが聖書をもう少し真剣に、恐れおののく心で読んでほしいと願っています。

もしこの文章が高慢に見えるなら赦してください。
私も弱い罪人にすぎません。

ただ、
私が知っている神、
私が経験した恵みを分かち合いたかっただけです。

教会で
十字架を語りながらも人の熱心や方法を追い求める姿を見て、
心が苦しく、悲しくなりました。

それでこの文章を書き始めました。文章が長くなって申し訳ありません。

それだけ皆さんに伝えたいことが多かったのです。

少し前にブログを開設しました。

私の心の中に言いたいことがあふれているのに、入れる器がなかったからです。

 

https://note43422.tistory.com/

 

Kairosを生きる人々

「黙示録の七つの教会のうち、褒められたのはオススメナ教会だけでした。偽りと混乱が溢れるこの世の中でも、ただイエス様を愛し、天の希望を抱いて生きる信徒たちが、互いに励まし合

note43422.tistory.com

 

 

御言葉を多く知っているからではありません。
自慢するためなど、なおさらありません。

どうせ私の言葉には何の力もありません。

聖霊の恵みが介入してこそ、御言葉は生きて動きます。

私はただ
神がどのようなお方であるかを伝えたかっただけです。

それで私が昔から運営していたブログとカフェに集めていた文章を日本語に翻訳して移しています。

多くの信仰の先輩方が残された文章です。私にとっては宝のような文章です。

この文章を読んで関心のある方は、ぜひ見てください。

そしてこの文章を含め、すべての文章を検証してくださってもかまいません。

chat gpt、Gemini、グーグル検索窓…など便利な機能があって本当に助かります。

私が載せた文章をそのままコピーして、すべての文章が神学的に聖書的にどうなのか尋ねてみてください。

その文章の方向性が分かるはずです。

この文章が
誰かにとって聖書をもう一度考え直す小さなきっかけになればと願っています。

 

松見ヶ丘教会に足を踏み入れたことは偶然ではありませんでした。

御言葉の違和感があまりにも大きくて苦しかったですが、その時間を通して

本当に多くのことを悟らせていただきました。
御言葉の重要性をさらに深く知るようになり、
自分自身をいつも振り返るようになり、
十字架の血によって一つとされた聖徒がどれほど尊い存在であるかを改めて悟らせていただきました。

瞬間瞬間、心が痛むことも多くありましたが、私にとっては恵みでした。
ただ主に感謝するばかりです。

私たちはこの地でそれぞれの人生を生きていますが、
結局は主のうちにあって一つのからだとされた肢体です。

私たちが聖徒であるなら、いつか必ず出会うでしょう。

私たち皆が
真理の御言葉を正しく悟り、
聖霊の満ちあふれる恵みの中で生きることができますよう、心から祈っています。

 

 


저는 개혁주의, 복음주의, 알미니우스주의와 같은 신학적 분류 자체에는 큰 관심이 없습니다.

처음부터 어떤 입장을 선택하려 했던 것도 아닙니다.

될수 있으면 중립적 입장에서  여러 자료를 찾아보고, 교회사와 신학의 흐름에 대해 알고자 했습니다.

덕택에 2000년 역사 안에서의 기독교의 흐름과 복음주의에 대해서도 많은것을 알게 되었습니다.

위의 글에서 말씀 드렸듯이 제 신앙의 뿌리는
아우구스티누스에서 시작하여 마르틴 루터와 장 칼뱅으로 이어지는
‘하나님의 은혜 중심 신앙’ 위에 있습니다.

이것은 제가 처음부터 어떤 신학 체계를 선택한 결과가 아닙니다.
말씀을 따라가다 보니 자연스럽게 도달한 자리였습니다.

왜냐하면 성경은 처음부터 끝까지 같은 말을 하고 있기 때문입니다.

그리고 동시에,
이 교회는 알미니안주의와 세대주의적 종말론을 따라가고 있다는 사실도 알게 되었습니다.

하지만 개혁주의건 아르마니안 주의건 한 가지는 분명한 사실은

인간이 만들어 놓은 신학 시스템이 곧 신앙은 아니라는 것입니다.
복음은 어떤 체계 안에 갇히지 않습니다.

우리가 믿는 복음의 핵심은 오직 하나입니다.

“시작도 하나님, 과정도 하나님, 완성도 하나님 — 전부 하나님의 은혜”

인간이 만든 신학 체계가 이 복음을 대신할 수는 없습니다.
복음은 인간의 의지에 매이지 않는 하나님의 절대적인 주권이기 때문입니다.

그러나 동시에,
성경을 어떤 관점으로 읽느냐는 매우 중요한 문제입니다.

주님께서 바리새인들과 율법학자들에게 “독사의 자식들아”라고 책망하신 이유는
그들이 성경을 몰라서가 아니었습니다.
그들은 누구보다 많이 알고, 많이 배운 사람들이었습니다.

문제는 말씀을 ‘지식’으로만 이해하고
하나님의 뜻을 왜곡했기 때문이었습니다.

말씀을 잘못 해석하는 것은 단순한 실수가 아니라
사람을 생명에서 멀어지게 하는 치명적인 일이 될 수도 있습니다.

성경은 단순한 도덕 교훈서도, 종교적 규범을 모아 놓은 율법집도 아닙니다.
하나님께서 영원 전에 계획하신 구원의 작정이 그리스도 안에서 계시되고 성취되는 과정을 기록한 계시의 책이며,
타락한 피조물이 은혜로 말미암아 하나님의 양아들로 그 형상을 회복해 가는 구원의 경륜을 증언하는 책입니다.

 

저 역시 처음에는 알미니안적주의 신앙으로 시작했습니다. (그때는 몰랐습니다)
누구보다 열심히 전도했고, 누구보다 열심히 하나님의 일을 했다고 생각합니다.

하지만 지금 돌아보면,
그 모든 열심은 결국 ‘하나님의 일’이 아니라 ‘나의 의’였습니다.

신앙은 내가 무엇을 해내는가가 아니라
하나님께서 어떻게 일하시는가를 보는 것입니다.

아무것도 하지 않는다는 뜻이 아닙니다.

성도는 증인의 삶을 살게 되어 있습니다.

 ‘내가 하는 것’이 아니라 ‘하나님께서 나를 통해 하시는 것’일 뿐입니다.

나의 계획과 생각을 멈추면 내 삶 안에서 나를 통해서 일하시는 하나님을 볼수 있습니다.

성경은 하나님의 일에 인간의 개입을 허락하지 않으십니다.

 

등불의 비유 아시지요?

등잔대 (=성도)는 빛(예수 그리스도)을 낼수 없습니다. 그저 빛을 담은 그릇일뿐입니다.

빛은 스스로 그 빛을 발산합니다.

거기에 등잔대는 아무것도 보탤것이 없습니다. 

고린도후서 4:7

우리가 이 보배를 질그릇에 가졌으니

이는 심히 큰 능력은 하나님께 있고 우리에게 있지 아니함을 알게 하려 함이라

우리는 보배인 예수그리스도를 담은 토기일 뿐입니다. 

토기에는 아무런 능력이 없습니다. 

그냥 하나님이 쓰시는 그릇으로 존재하면 될 일입니다.

누가복음 10장의 사마리아인의 비유를 보세요. 아주 중요합니다.

이 비유에 등장하는 두사람이 있습니다.

강도 만난자와 그를 도운 이웃입니다.

예수님은 이웃이 누구인지를 가르쳐 주시기 위해 강도만난자를 등장 시키십니다.

 "누가 내 이웃입니까?"라고 물은 율법사는  "자신을 '돕는 자(주체)"의 위치에 놓았습니다.

그러나 주님은 그에게   "누가 강도 만난 자의 이웃이냐?" 라고 물으시며 질문을 뒤집어 버리십니다.

그를  '강도 만나 죽어가는 자(대상)'의 위치로 끌어내리신 것입니다.

뱀의 유혹에 속아 가시와 엉겅퀴만 나는 이 저주 받은 세상을 사는 우리가 강도만난 자입니다.

그리고 강도 만난 자를 구해 준것은 당연히 예수님입니다.

그를 치료할때 사용했던 기름과 포도주를 보세요. 성경에서 기름은 성령을, 포도주는 예수님의 피를 상징합니다.

이 비유는 

 "너는 사랑을 행할 수 있는 사람이 아니라

그 사랑 (은혜)을 받아야 하는 사람이라는것 "을 알려주시는것입니다.

"너도 가서 이와같이 하라"...라는 말씀 안에는

"너는 못하니 내 은혜 안으로 들어와라" 라는 율법사를 향한 초청의 말씀이 담겨 있는 것입니다.

우리는 스스로 선을 행할 수 있는 사람이 아니라, 죄라는 강도를 만나 죽게 된 상태에서

예수라는 '참된 사마리아인'의 은혜로 겨우 살아난 자들입니다. 

여기에 우리가 보탠것이 있습니까?

영적으로 죽어 있는 우리에게 하나님 스스로 찾아 오신 것입니다.

전도는 우리의 계획과 열심으로 하는것이 아닙니다.

하나님의 일은 하나님 스스로 하십니다.

 “오직 성령이 너희에게 임하시면 너희가 권능을 받고 내 증인이 되리라” (행 1:8)

증인이 ‘되려고 애쓰라’가 아닙니다.
‘된다’라고 말씀하십니다. ‘명령’이 아니라 ‘약속입니다.

이 말씀은 내가 증인이 되려고 노력하는 것이 아니라,

하나님의 열심이 우리를 증인의 삶으로 강권하여 끌고 가신다는 말 입니다.

내 잔에 은혜가 채워지면 자연히 흘러 넘치게 되어 있습니다.

넘치는 포도주는 저절로 누군가에게  흘러 들어가게 됩니다.

포도나무에 붙어 있으면 열매는 저절로 맺힙니다.

우리는 포도나무에 붙어 있기만 하면 되는 것입니다.

 거듭 말씀드리지만 여기에 우리가 해야 할 일은 아무것도 없습니다.

포도나무에 붙어 있는것도,열매를 맺는것도  내 잔이 넘치는 것도 다 성령의 은혜로 되어 지는 일입니다.

성도는 그저 자신의 자리를 지키며 잠잠히 하나님의 하시는 일을 보면 됩니다.

“그럼 아무것도 안 해도 되나?” 라는 질문이 나올수도 있습니다.

네, 내가 할 일은 없습니다. 나를 통해서 하나님이 일을 하십니다.

이사야 30:15

돌이켜 조용히 있어야 구원을 얻을 것이요

잠잠하고 신뢰하여야 힘을 얻을 것이거늘

출애굽기 14:13–14

두려워하지 말고 가만히 서서 여호와께서 오늘 너희를 위하여 행하시는 구원을 보라
여호와께서 너희를 위하여 싸우시리니 너희는 가만히 있을지니라

 

하나님은 사랑하는 자를 그냥 두지 않으십니다.

하나님이 띠띠워 우리가 원하지 않는 곳으로 데려 가십니다. (요한복음21장)

성도는 필연적으로 그 길을 가게 되어있습니다.

빌립보서 2:13너희 안에서 행하시는 이는 하나님이시니

자기의 기쁘신 뜻을 위하여 너희로 소원을 두고 행하게 하시나니

하나님께 띠띠어 끌려 가는 인생이 쉽겠습니까

"하나님의 말씀은 살아 있고 활력이 있어 좌우에 날선 어떤 검보다도 예리하여

혼과 영과 및 관절과 골수를 찔러 쪼개기까지 하며 또 마음의 생각과 뜻을 판단하나니..."(히브리서4장 12)

말씀의 검이 나의 혼과 영과 관절과 골수를 찌르는데 그 아픔이 어떠하겠습니까?

 

인간은 자기가 부정 당할때 죽을 만큼 큰 아픔을 느낍니다.

하지만 부정 당하는 그자리가 내가 죽는 자리이며 그 자리에서 예수그리스도가 사십니다.

마태복음 16:24

이에 예수께서 제자들에게 이르시되

아무든지 나를 따라오려거든
자기를 부인하고 자기 십자가를 지고 나를 따를 것이니라

나의 계획과 열심을 멈추고, 내 안에서 일하시는 하나님을 바라보는 것.

십자가를 지고 나를 부인하며 주님을 따르는 것. 이것이 바로 성도의 삶입니다.

 주여, 저를 당신의 도구로 써 주소서

[이번 주 주일, 우리가 함께 드린 기도입니다]

"주여, 저를 주님의 평화의 도구로 써 주소서.

미움이 있는 곳에 사랑을,

다툼이 있는 곳에 용서를,

분열이 있는 곳에 일치를,

의혹이 있는 곳에 믿음을,

그릇됨이 있는 곳에 진리를,

절망이 있는 곳에 희망을,

어둠이 있는 곳에 빛을,

슬픔이 있는 곳에 기쁨을 심게 하소서.

오, 주님, 위로받기보다 위로하게 하시고,

이해받기보다 이해하게 하시며,

사랑받기보다 사랑하게 하소서.

우리가 줌으로 받으며,

용서함으로 용서받고,

자기를 버림으로 영생을 얻기 때문입니다."

 

이 기도를 내가 평화의 도구가 되기를 바라는 마음으로 하셨습니까?

솔직히 말하면, 이 기도는 인간의 결심이나 도덕적 노력으로는 거의 불가능한 내용입니다.

겉으로 보면 "착하게 살겠습니다" 같은 윤리적 기도처럼 보이지만, 실제 내용은 거의 자기부인과 자아의 죽음을 고백하는 것에 가깝습니다.

  • 미움 대신 사랑
  • 억울함 대신 용서
  • 이해받기보다 이해하기
  • 사랑받기보다 사랑하기
  • 자기를 버리기

이건 타고난 인간 본성과 정반대 방향입니다. 성경은 인간의 실존을 이렇게 말합니다.

"의인은 없나니 하나도 없으며 … 선을 행하는 자는 없나니 하나도 없도다" (로마서 3:10–12)

 

즉, "노력하면 할 수 있다" 가 아니라 "애초에 할 수 없는 존재" 라고 선언합니다.

사실 이 내용은 우리가 할 수 있는 게 아니라 예수 그리스도 그분의 실제 생애 그 자체입니다.

  • 미움 있는 곳에 사랑을 → 예수님
  • 다툼 있는 곳에 용서를 → 십자가 위 "아버지 저들을 사하여 주옵소서"
  • 어둠에 빛을 → 세상의 빛으로 오신 분
  • 슬픔에 기쁨을 → 복음 그 자체
  • 이해받기보다 이해함을 → 죄인들의 친구가 되어 주심
  • 사랑받기보다 사랑함을 → 먼저 사랑하심
  • 자기를 버림 → 십자가 죽음

그러므로 이 기도는 '모방의 기도'가 아니라 예수님과의  '연합의 기도'여야 합니다.

갈라디아서 2:20

"내가 그리스도와 함께 십자가에 못 박혔나니 그런즉 이제는 내가 사는 것이 아니요

오직 내 안에 그리스도께서 사시는 것이라" 

 

이 상태가 아니면 '미움 대신 사랑'은 위선이 되고, '용서'는 억지가 되고, '섬김'은 자기의(義)가 됩니다.

내가 죽고 예수님이 사실 때 이 열매들은 저절로 맺힙니다.

그러나 그 열매는 나의 공로가 아닙니다.

내 안에서 주님이 하신 일이며, 나는 단지 그 은혜가 흘러가는 통로였을 뿐입니다.

그러므로 우리는 자랑할 것은 없고, 감사만 남습니다.

 

요한계시록 4장을 보면 24장로들이 자신들의 면류관을 보좌 앞에 내려놓습니다.

하나님은 도구로 사용된 우리에게 상급을 주시지만, 성도는 그 모든 영광이 예수 그리스도로부터 온 것임을 알기에 다시 돌려 드리는 것입니다.

이게 바로 천국의 메카니즘입니다.

그리고 그 천국은 이미 우리 안에 와 있습니다.

 마태복음 12:28

"내가 하나님의 성령을 힘입어 귀신을 쫓아내는 것이면 하나님의 나라가 이미 너희에게 임하였느니라"

 

성령을 통해 주님과 연합한 사람(임마누엘 = 하나님이 함께 하신다)에게 하늘나라는 이미 임했습니다.

성경이 그렇게 증언하고 있습니다.

 

 저는 나의  열심이 아니라 하나님의 일하심을 보기까지
무려 35년이라는 시간이 걸렸습니다.

하나님의 은혜로
애굽과 같은 세상에서 유월절 피로 건짐을 받았고,
광야를 지나, 홍해를 통과하게 하셨으며,
이제는 주님 안에서 참된 자유가 무엇인지 깨닫게 하셨습니다.

처음부터 끝까지, 오직 하나님의 은혜였습니다.

내가 한 일은 죄 짓는것 빼고는 아무것도 없었습니다.

 

신앙은 하나님과 나와의 1:1 관계입니다.

어떠한 신학도 목사도 사람도 그 자리를 대신 할수 없습니다.

도움을 받을수는 있지만 그것이 내 신앙을 바꾸지는 못합니다.

오직 성령의 은혜로만 가능한 일입니다.

“지식은 교만하게 하며 사랑은 덕을 세우나니” (고전 8:1)

 

말씀이 머리로만 가면 ‘나’를 키우고
말씀이 심령에 임하면 ‘나’를 죽입니다.

성경을 진리로 읽게 되면
자연스럽게 나의 죄인 됨과 불가능과 믿음 없음을 보게 됩니다.

그것은 이상한 일이 아닙니다.

 

“그가 와서 죄에 대하여, 의에 대하여, 심판에 대하여 세상을 책망하시리라” (요 16:8)

 

성령께서 우리를 책망하시기 때문입니다.

말씀은 나를 무너뜨리고 그리스도만 드러냅니다.

성경은 밭에 감추어진 보화와 같습니다.
비밀입니다.

이 비밀은 지식으로 푸는 문제가 아니라
성령의 조명으로만 열립니다.

그래서 같은 성경을 읽어도
어떤 사람은 예수님을 만나고
어떤 사람은 만나지 못합니다.

대표적인 예가 알베르트 슈바이처입니다.

그는 평생 예수님을 연구했지만
예수 그리스도를 하나님으로 인정하지 않았습니다.

학문은 있었지만
계시는 없었습니다.

 

성경말씀을 읽는 세가지 방법이 있습니다.

1. 이성 중심

    성경을 연구 대상으로 봅니다.
    지식은 늘지만 생명은 없습니다.

2.인간 중심 (인본주의)

 사람을 위한 하나님의 관점에서 성경을 봅니다.

 십자가의 고난이나 자기 부인보다는 땅에서의 축복에 집중합니다.

 성경을 읽지만, 자기의 구원을 위한 하나님으로 말씀을 소비합니다.

결과: 고난이 닥칠 때 신앙이 뿌리째 흔들리는 결과를 초래합니다.

 

3.하나님 중심의 관점 (신본주의)

성경의 모든 사건을 (구약부터 신약의 재림까지) 예수그리스도의 십자가 사건으로 연결하여 읽습니다.

 이것이 성경이 요구하는 눈입니다.

 하지만 이것은 사람의 힘으로 되지 않습니다.

슈바이처와 같이 평생을 성경연구를 해도 성령의 은혜 없이는 예수님을 주라고 시인하지 못합니다.

예수님은 성경이 자신을 증거한다고 말씀하셨습니다.

구약 전체가 자신의 이야기라고 말씀하시는 것입니다.

그는 성경안에서 그 예수님을 만나지 못했습니다.

당시의 성경은 구약을 말합니다. 

예수님 당시는 구약밖에 없었습니다.

 

누가복음 24:27

모세와 모든 선지자의 글로 시작하여

모든 성경에 쓴 바 자기에 관한 것을 자세히 설명하시니라

누가복음 24:44

모세의 율법과 선지자와 시편에 나를 가리켜 기록된 모든 것이 이루어져야 하리라


 갈라디아서 3:16

그 약속들은 아브라함과 그 자손에게 말씀하신 것인데 … 오직 한 사람 그리스도를 가리켜 말씀하신 것이라

 그 약속의 성취가 십자가에서 다 이루어진것입니다.

 

요한복음 16:33

이것을 너희에게 이르는 것은

너희로 내 안에서 평안을 누리게 하려 함이라
세상에서는 너희가 환난을 당하나
담대하라 내가 세상을 이기었노라

환란이 없다고 하시지 않으셨습니다.
이미 이겼다고 하셨습니다.

  

    적그리스도가 두렵습니까?

    사탄이 두렵습니까?

    세상의 악한 권력자들의 힘이 무섭습니까?

    질병은요?

    전쟁은요?

    죽음이 두렵나요?

이 세상의 모든 일들은 하나님의 주권아래에 있습니다.

그리고 그 모든것을 이미 그리스도께서 이기셨습니다.

 

로마서 8:35–39

누가 우리를 그리스도의 사랑에서 끊으리요

환난이나 곤고나 박해나 기근이나 적신이나 위험이나 칼이랴
…
그러나 이 모든 일에 우리를 사랑하시는 이로 말미암아 우리가 넉넉히 이기느니라
…
아무 피조물도 우리를 우리 주 그리스도 예수 안에 있는 하나님의 사랑에서 끊을 수 없으리라

 

 4000년전에 일어난 애굽의 재앙, 구약의 전쟁,환난....

이 모든 일들은 과거에만 있었던것이 아닙니다.

지금도 있으며  앞으로도 있을것입니다.

성도의 담대함은 내 안의 그리스도가 이미 이기셨음을 믿는 믿음에서 나옵니다.

내가 아닌,

그분이 이기셨고 ,이기고 계시며 ,끝까지 이길것입니다.

 

히브리서 13:6

주는 나를 돕는 이시니

내가 무서워하지 아니하겠노라
사람이 내게 어찌하리요

 

마태복음 10:28

몸은 죽여도 영혼은 능히 죽이지 못하는 자들을 두려워하지 말고

오직 몸과 영혼을 능히 지옥에 멸하실 수 있는 이를 두려워하라

결국 신앙은

내가 무엇을 했는가의 이야기가 아니라
하나님이 무엇을 하셨는가의 이야기입니다.

성경은
나를 강하게 만드는 책이 아니라
나를 죽이고 그리스도만 남게 하는 책입니다.

그리고 이 눈은 지식이 아니라 오직 성령의 은혜로만 열립니다.

 

계시록에 언급된 두루마리의 정체 (계 5장)

요한계시록 5장에서 사도 요한은 하나님의 오른손에 들린 두루마리를 봅니다.

그 두루마리에는 안팎으로 글이 가득 기록되어 있고, 일곱 인으로 봉인되어 있습니다.
그러나 하늘과 땅과 땅 아래에서 그 두루마리를 열 수 있는 자는 아무도 없습니다.

오직 어린양, 곧 예수 그리스도만이 그것을 여실 수 있습니다.

이 두루마리는 단순한 예언서가 아닙니다.

그것은
하나님의 작정,
구속의 계획,
심판과 구원, 그리고 완성까지

역사 전체가 이미 기록된 하나님의 구속 경륜의 문서입니다.

장래에 이루어질 계획이 아니라 이미 완성된 계획입니다.

1.어린양이 인을 하나씩 떼실 때마다 사건이 시작됩니다.

많은 사람들은 이것을 ‘미래의 재앙 시작’으로 이해합니다.
그러나 본질은 다릅니다.

인을 뗀다는 것은
재앙을 새로 만들어 내는 것이 아니라

이미 기록된 하나님의 계획이 시간 속에서 집행되기 시작한다는 뜻입니다.

네 말이 등장합니다.

  • 흰 말 → 정복과 전쟁
  • 붉은 말 → 살육
  • 검은 말 → 기근
  • 청황색 말 → 죽음과 전염병

이것들은 특정 시대의 특별한 사건이 아닙니다.

인류 역사 속에서 언제나 반복되어 온 현실입니다.

즉, 계시록은 “어느 날 갑자기 일어날 종말 ”을 말하는 것이 아니라
 타락 이후 인류 역사 전체를 설명하는 묵시적 상징입니다.

2.두루마리를 받으신 어린양 예수 그리스도는
이미 2000년 전에 오셔서 십자가에서 구속을 완성하셨습니다.

그분의 선언이 바로

“다 이루었다”

입니다.

이 한마디가 사실상 계시록 전체를 여는 열쇠입니다.

십자가에서 이미

  • 구속은 완성되었고
  • 승리는 확정되었고
  • 사탄은 패배했고
  • 하나님의 경륜은 결정되었습니다

따라서 계시록은
승리를 얻기 위한 싸움의 기록이 아니라, 이미 이긴 승리가 역사 속에서 펼쳐지는 과정입니다.

십자가가 ‘결정’이라면 계시록은 ‘전개’입니다.

3.하나님은 영원의 자리에서 역사를 한눈에 보십니다.

산 위에서 바다를 내려다보면 전체가 한눈에 들어오는 것과 같습니다.

그러나 바다 위에 떠 있는 사람은 눈앞의 파도밖에 보지 못합니다.

이 차이가 바로 묵시와 역사의 차이입니다.

  • (묵시 → 하나님의 시점)
  • (역사 → 인간의 시점)

계시록은 인간의 시점이 아니라 하늘의 시점에서 본 역사 전체의 그림입니다.

4.계시록 해석은 단순한 종말론 문제가 아닙니다.
사실은 구원론의 문제입니다.

구원을 인간의 선택 중심으로 이해하면
계시록은 ‘미래 사건의 순서표’가 됩니다.

반대로, 하나님의 주권과 작정 중심으로 이해하면
계시록은 ‘구속사가 역사 속에서 펼쳐지는 묵시’가 됩니다.

 계시록을 그리스도의 구속이 역사 속에서 펼쳐지는 묵시적 계시’로 보는 관점은
아우구스티누스 이후 서방교회의 주류 해석이고,
장 칼뱅을 포함한 종교개혁 전통도 기본적으로 같은 틀 위에 서 있습니다.

반대로, 계시록을 
“미래 사건을 순서표”로 읽는 방식은
세대주의(19세기 등장) 이후에 강해진 비교적 최근 해석입니다.

그래서 같은 성경을 읽어도 전혀 다른 결론에 도달하게 됩니다.

이것이 제가 이교회에서 느낀 괴리감의 이유입니다.

5.계시록은 미래 예언서가 아닙니다.

이미 십자가에서 완성된 구원이
시간 속에서 어떻게 펼쳐지는지를 보여 주는 묵시적 계시입니다.

종말은 ‘끝’이 아니라 완성 이라는 뜻입니다.

그리고 이 시각은 인간의 지식이나 논리로 얻어지는 것이 아니라
오직 성령의 은혜로 열리는 눈입니다.

저는 여러분이  성경을 조금 더 진지하게, 두렵고 떨리는 마음으로 읽었으면 좋겠습니다.

혹 이 글이 교만하게 보인다면 용서해 주십시오.
저 역시 연약한 죄인일 뿐입니다.

다만
내가 알고 있는 하나님,
내가 경험한 은혜를 나누고 싶었습니다.

전 여러분들이 십자가를 말하면서도 사람의 열심과 방법을 쫒아가는 모습을 보며
마음이 답답하고 슬펐습니다.

그래서 이글을 쓰기 시작했습니다. 글이 너무 길어서 죄송합니다.

 그만큼 여러분께 하고 싶은 말이 많았습니다.

얼마전에 블로그를 개설 했습니다. 

제 마음에서 하고 싶은 말이 넘쳐나는데 담을 그릇이 없어서 입니다.

말씀을 많이 알아서가 아닙니다.
자랑질하려고 하는것은 더더욱 아닙니다.

어차피 제가 하는 말에는 어떠한 능력도 없습니다.

성령의 은혜가 개입을 해야 말씀이 살아서 움직입니다.

저는 그저 하나님이 어떤 분이신지 전하고 싶었던 것 뿐입니다.

그래서 제가 오래전부터 운영하던 블로그와 카페에 모아 놓았던  글들을 일본어로 번역해 옮기고 있습니다.

많은 신앙의 선배들이 남기신 글들입니다. 저에게는 보배와 같은 글들입니다.

이글을 읽으시고 관심이 있으신 분들은 들여다 봐 주세요.

그리고 이글 포함 모든 글들을 검증해 보셔도 됩니다.

chat gpt,Gemini ,구글 검색창...등 편리한 기능이 있어서 다행입니다.

제가 올린 글들을 그대로 복사하셔서 모든 글들이 신학적으로 성경적으로 어떤지 물어 보시면 그 글들의

방향성을 알게 될것입니다..

 이 글이
누군가에게 성경을 다시 생각하게 되는 작은 계기가 되었으면 좋겠다는 마음입니다.

이 교회에 발은 디딘것이 우연이 아니었습니다.

말씀의 괴리가 너무 커서 힘들었습니다만 그 시간을 통해

정말 많은것을 깨닫게 되었습니다.
말씀의 중요성을 더 깊이 알게 되었고,
제 자신을 항상 돌아보게 되었으며,
십자가의 피로 하나 된 성도가 얼마나 귀한 존재인지 다시 깨닫게 되었습니다.

순간 순간 마음이 아픈적도 많았지만  저에겐  은혜였습니다.
그저 주님께 감사할 따름입니다.

우리는 이 땅에서 각자의 삶을 살지만
결국 주님 안에서 한 몸 된 지체들입니다.

우리가 성도라면 언젠가는 만나게 될것입니다.

우리 모두가
진리의 말씀을 바르게 깨닫고
성령의 충만한 은혜 가운데 살아가기를 진심으로 기도합니다.